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第12章

マグナスの先手

 【拘束の鎖薬 ― ヴィンクルム】用法: 対象に吸引させる。効果: 全身の魔素を抑制し身動きを封じる。副作用: 鎖は外からかけられるが、鎖を断つ力は内から生まれる。


 夜明けの調合室には、蒸留器の水滴の音だけがあった。

 クロエは作業台に広げた書類を前に、蝋燭の灯りの下で最後の確認を行っていた。ノエルから受け取った証拠の束。月光石の独占取引の記録。記憶操作薬の素材の流通経路。審問官レオポルドの暗殺に使われた黒薬とマグナスの配下との繋がり。五年前の審問における証拠捏造と買収の痕跡。カエルレウス家の蔵印が押された一枚一枚の書類が、金の家の当主の罪を静かに、しかし雄弁に語っている。

 そしてもう一つ。クロエ自身の証言の草稿。

 ヴィオラと共に整理した五年前の記憶。十二歳のクロエが階段の上から目撃した光景。審問官の隣に立っていたマグナスの側近。そしてマグナスがヴィオラに突きつけた取引の内容。クロエの記憶を消す代わりに命を助けるという、残酷な二択。

 草稿の最後の行に目を落とした。

 『以上の事実をもって、薬師見習いクロエ・グリザイユ改めクロエ・ヴィリディスは、アウレウス家当主マグナス・アウレウスを王妃エレオノーラ暗殺の真犯人として告発する』

 真犯人。その三文字が、蝋燭の揺らぐ光の中で重く沈んでいた。

 クロエは草稿を畳み、ノエルの証拠と重ねた。白衣の内側に全てをしまい込む。心臓の真上に。紙の束がかすかに体温を吸い、身体の一部のように馴染んでいった。

 告発の場は灰の審問院の大広間。慣例に従えば、四大公家の代表と審問官たちが列席する公開審問の場で、いかなる者も告発を行うことができる。見習い薬師であっても、その権利は制度上保障されている。

 ただし、制度と現実は異なる。

 マグナスが灰の審問院に影響力を持っていることは、ヴィオラの証言からも明らかだった。告発が受理されるかどうかは審問官たちの判断に委ねられる。そしてその審問官たちの中に、マグナスに買収された者がいる。

 だからこそ、証拠の質が全てだった。クロエの証言だけでは「ヴィリディス家の復讐」として退けられる。ノエルの証拠だけでは「カエルレウス家の政治工作」として処理される。だが両方を組み合わせれば——異なる立場の者たちが別々に掴んだ断片が同じ絵を描くことが——証拠の信憑性を飛躍的に高める。

 クロエは蝋燭の芯を整え、新しい炎を灯した。

 今日中にヴィオラと最終確認を行い、明日の公開審問の場で告発する。フェリクス王子にも密かに連絡を取り、王族の同席を確保する。アデルが騎士団として場の秩序を保証してくれれば、マグナスが物理的に妨害することは難しくなる。

 計画は整いつつある。

 あとは時間との勝負だった。ノエルが警告した通り、マグナスは先手を打つ人間だ。クロエが動き出したことに気づけば、必ず潰しにかかる。

 だから急がなければならない。今日のうちに——

 蒸留器の水滴の音が、止まった。

 いや、止まったのではない。別の音がそれを掻き消したのだ。

 靴音。複数の。

マグナスの策略

 調合室の外の廊下から、統制の取れた足音が近づいてきた。軍靴でも騎士の長靴でもない。硬い踵の乾いた音。灰の審問院の審問官が履く、黒い革靴の足音だった。

 クロエの心臓が跳ねた。

 足音は調合室の前で止まった。間を置かず、扉が三度叩かれた。儀礼的な、しかし拒否を許さない叩き方だった。

「宮廷薬師見習い、クロエ・グリザイユ」

 声は低く、平坦だった。感情を排した、職務遂行のための声。

「灰の審問院の令状により、貴殿の身柄を拘束する。調合室の捜索を行う。扉を開けなさい」

 クロエの手が、白衣の内側の書類に触れた。

 遅かった。

 ノエルの警告が、胸の中で木霊した。「マグナスの手は広い。灰の審問院にも手が届く」。その言葉が現実となった。クロエが告発を準備している間に、マグナスはすでに一手先を打っていた。

 扉が開いた。クロエ自身が開けたのではない。外側から鍵を回す音がして——合鍵だ。調合室の管理鍵は宮廷の管財官が保管している。審問院の令状があれば、管財官は鍵の提供を拒めない。

 灰色の外套を纏った審問官が三人、調合室に入ってきた。先頭に立つ男は額に深い皺を刻んだ壮年で、手に巻物を持っていた。灰の審問院の正式な令状だ。銀の封蝋が闇色の蝋に半ば埋もれて鈍い光を放っている。

「クロエ・グリザイユ。宮廷薬師見習い。灰の審問院は、貴殿に対し以下の嫌疑を付する」

 壮年の審問官が巻物を広げた。

「第一に、禁書庫より黒薬の処方箋を不法に持ち出した疑い。第二に、記憶操作薬の調合を試みた疑い。第三に、黒薬の素材を不法に所持した疑い」

 記憶操作薬の調合。黒薬の素材の不法所持。

 クロエは息を呑んだ。禁書庫に入ったことは事実だ。だが記憶操作薬の調合も素材の所持も、身に覚えがない。

「捜索を行う」

 審問官の指示で、二人の部下が調合室の中を手早く調べ始めた。棚を開け、引き出しを引き、瓶のラベルを確認していく。その動きには迷いがなかった。何を探しているのかを、最初から知っているかのような。

 三分と経たず、一人の審問官がクロエの個人用の調合棚の奥から小さな布袋を取り出した。

「ありました」

 布袋の口が開かれた。中から現れたのは、三つの薬瓶と乾燥した鉱物の欠片だった。

 月光石。

 蝋燭の光を受けて、乳白色の結晶が虹色の反射を散らした。月光石は記憶操作薬の核となる素材であり、大薬師の許可なく所持すること自体が灰の審問院の管轄する重罪にあたる。

 クロエの血の気が引いた。

「私のものではありません」

 声は自分でも驚くほど冷静だった。だが心臓は激しく打っていた。見覚えのない布袋。見覚えのない薬瓶。見覚えのない月光石。誰かがクロエの調合棚に仕込んだ——それ以外の説明がない。

「見たこともない物です。誰かが——」

「弁明の機会は審問の場で与えられる」

 壮年の審問官が巻物を巻き直しながら、事務的に言った。

「身柄を拘束する。手を前に出しなさい」

 革の手枷が差し出された。内側に銀の刻印が施されている。拘束の鎖薬——ヴィンクルムを染み込ませた枷だ。嵌められれば全身の魔素が抑制され、薬の調合はおろか、体を動かすことすら困難になる。

クロエの拘束

 クロエは一瞬、抵抗を考えた。白衣の内側の書類。これを奪われたら、全てが終わる。ノエルが家門を裏切ってまで渡してくれた証拠が、マグナスの手に落ちる。

 だが審問官は三人。調合室には武器になるものは——薬がある。棚の白薬を掴んで投げつければ、数秒の時間は稼げるかもしれない。

 薬師の誓い。

 その言葉が、脳裏を横切った。就任時に服用した契約の薬。「人を害する薬を故意に使用しない」という誓約。たとえ白薬であっても、人を傷つける意図で使えば、誓約違反になる。身体に呪いが発動する。

 それ以前に——審問官に暴行を加えれば、嫌疑は確定的になる。マグナスの思う壺だ。

 クロエは両手を前に差し出した。

 革の枷が手首に巻かれ、銀の留め金が嵌められた。瞬間、全身を冷水で浸されたような感覚が走った。魔素が抑制される。指先の感覚が鈍くなり、体が重くなった。調合師の手——薬草の微細な違いを触覚で見分け、乳鉢の中の膏体の状態を指先で感じ取る、その鋭敏な感覚が、枷一つで封じられた。

「連行する」

 審問官に両脇を挟まれ、クロエは調合室を出た。

 廊下にはさらに二人の審問官が待機していた。計五人。見習い薬師一人を拘束するには過剰な人数だった。つまり、これは通常の捜査ではない。誰かが審問院に対し、この拘束に最大限の注意を払うよう指示している。

 廊下を歩きながら、クロエは白衣の内側の書類のことを考えた。枷に封じられた手では取り出すこともできない。だが審問官たちはクロエの身体検査をまだ行っていなかった。令状には調合室の捜索とクロエの身柄拘束とだけ記されていたのだろう。身体検査は審問院の塔で行われるはずだ。

 つまり、書類を隠す時間は——もうない。

 回廊の角を曲がったとき、声が聞こえた。

「待ちなさい」

 凛とした声だった。

 ベアトリクス・モルゲンが、回廊の先に立っていた。

 宮廷首席薬師は白い薬師服に身を包み、銀髪を高く結い上げ、厳格な面差しで審問官たちを見据えていた。五十五年の生涯で積み上げてきた威厳が、その背筋の一本に凝縮されていた。

「灰の審問院の上席審問官ルドルフ。説明を求めます。私の弟子を連行する理由は」

「ベアトリクス首席薬師。令状は正式な手続きを経て発行されたものです。嫌疑の詳細は——」

「黒薬の不法所持。私の調合室から記憶操作薬の素材が発見された、と。そういうことですね」

 ベアトリクスの声は平坦だったが、その目は違った。灰色の瞳の奥で、静かな怒りが燃えていた。

「私の管理下にある調合室で、私の弟子が禁制の素材を隠し持っていたという嫌疑は、とりもなおさず私の監督責任に対する疑義でもある。首席薬師として、審問に同席する権利を要求します」

「審問への同席は審問院の規則に基づき——」

「規則第七条。被疑者の直属の上官は、審問への立ち会いを請求できる。拒否する場合は審問院長の書面による理由付記が必要です。ルドルフ上席審問官、院長の書面はお持ちですか」

 ルドルフの表情が硬くなった。

「……持っておりません」

「では、同席を認めていただきます」

 ベアトリクスはクロエの傍に歩み寄り、弟子の顔を一瞥した。その目が一瞬だけ柔らかくなった。ほんの一瞬。他の誰にも気づかれない変化だったが、クロエには見えた。師匠の目の中の、「大丈夫だ」という無言の言葉が。

 そしてベアトリクスの手が、さりげなくクロエの白衣の背に触れた。

 その接触は一秒にも満たなかった。だがクロエは感じた。師匠の指が白衣の内側を探り、書類の束の端に触れたことを。ベアトリクスの手は何も取り出さなかった。ただ、そこに何があるかを確認した。そしてクロエの耳元で、吐息のように囁いた。

「後で預かる」

 審問官たちには聞こえなかっただろう。聞こえたとしても、師匠が弟子を慰めているようにしか見えなかっただろう。

 クロエの胸に、かすかな安堵が生まれた。ベアトリクスが動いている。首席薬師の権限と知恵が、この状況を少しだけ緩和してくれるかもしれない。

 審問官たちに囲まれ、クロエは王宮の回廊を歩いた。行き先は審問院の塔。朝日が回廊の窓から差し込み、石の床に長い光の帯を描いていた。クロエの影が光の中を横切るたびに、灰色の影が伸びて縮んだ。

 灰色。

 クロエ・グリザイユ。灰色の名を持つ少女が、灰色の外套の審問官たちに連行されていく。その皮肉を、クロエは噛み締めた。


 審問院の塔は、王宮の北端に位置していた。

 灰色の石で築かれた円筒形の塔は、王宮の他の建築物とは異質だった。装飾のない壁面。鉄格子の嵌った狭い窓。入口の上部に刻まれた灰の審問院の紋章——天秤の上に灰色の炎が揺れる意匠。薬の宮殿と呼ばれる壮麗な王宮にあって、この塔だけが機能に徹した無骨さで聳えていた。

 塔の内部は螺旋階段で繋がれた三層構造だった。上層が審問の大広間。中層が審問官たちの執務室。そして地下が——牢だった。

 クロエは螺旋階段を下へ導かれた。石段は湿っていた。地上からの光は最初の数段で途切れ、壁に嵌め込まれた魔薬灯の青白い光だけが足元を照らした。魔薬灯の光は揺らがない。蝋燭の灯りのように生きた揺れがなく、無機質で冷たい。その光に照らされた階段の壁には、黒ずんだ染みが所々にあった。何の染みかは考えたくなかった。

 地下の牢は三つの独房で構成されていた。鉄格子ではなく、石の壁に嵌め込まれた分厚い樫の扉で仕切られている。扉には覗き窓と食事を差し入れるための小さな開口部があるだけだった。

 ルドルフが鍵を回し、一つ目の独房の扉を開けた。

「中へ」

 独房は四歩四方の石室だった。簡素な寝台が壁際にあり、毛布が一枚。隅に水差しと盥。それだけの空間。窓はない。天井の隅に小さな魔薬灯が一つ埋め込まれ、青白い光を落としている。

 クロエは独房に入った。振り返ると、ルドルフが扉の前に立っていた。

「身体検査を行う」

 女性の審問官補佐が呼ばれた。クロエの白衣のポケット、袖の内側、帽子の裏が調べられた。

 白衣の内側の書類に、審問官補佐の手が触れた瞬間、クロエの心臓が止まりかけた。

 だが——書類がなかった。

 クロエは驚きを顔に出さなかった。内側に何もないことを確認した審問官補佐が、事務的に「異常なし」と報告する。ルドルフが頷いた。

 ベアトリクスだ。あの一瞬の接触で、師匠は書類を抜き取っていた。五十五年の薬師人生で培われた手先の技術が、審問官の目を盗んで弟子の命綱を確保した。

 手枷の銀の留め金が外された。独房の中では枷は不要ということだろう。魔素の抑制から解放され、指先に感覚が戻ってきた。だが独房の壁自体に魔素抑制の処理が施されているのか、体の奥に微かな重さが残っていた。

「審問は三日以内に行われる。それまでこの独房で待て」

 ルドルフの声には感情がなかった。扉が閉まり、鍵が回った。足音が遠ざかる。

 クロエは寝台に腰を下ろし、目を閉じた。

 三日。

 三日の猶予があるのか、三日しかないのか。マグナスがこの三日間で何をするか。証拠の隠滅。協力者への圧力。あるいは——クロエが二度と審問の場に立てないような手段を講じるか。

 独房の魔薬灯が、無表情な光を落とし続けていた。

 それからどれほどの時間が経ったか。地下には陽の光が届かず、時間の感覚が曖昧になる。半刻か、一刻か。

 廊下に足音が響いた。今度は一人の足音ではなく、複数だった。そして——聞き覚えのある声。

「離しなさい。自分で歩けます」

 ヴィオラの声だった。

 クロエは寝台から立ち上がった。独房の扉の覗き窓に顔を近づける。廊下の魔薬灯の光の中に、姉の姿が見えた。

 ヴィオラも手枷をかけられていた。亜麻色の髪が乱れ、灰緑の瞳に怒りの光が宿っていた。だがその怒りは恐怖を押し殺すためのものだとクロエには分かった。ヴィオラは当主代行としての威厳を保とうとしていた。たとえ手枷をかけられ、審問院の地下に連行されていても。

「嫌疑の内容は」ヴィオラが審問官に問うた。

「ヴィオラ・ヴィリディス。ヴィリディス家当主代行。黒薬の不法使用への共謀。および宮廷薬師見習いクロエ・グリザイユによる黒薬調合の幇助の疑い」

 共謀。幇助。

 ヴィオラの瞳が一瞬だけ揺れ、すぐに戻った。連座だ。クロエを拘束するだけでなく、ヴィオラも巻き込むことで、ヴィリディス家の発言力を完全に封じる。マグナスの手口だった。五年前と同じ——ヴィリディス家を黙らせる。

 隣の独房の扉が開き、ヴィオラが入れられた。扉が閉まる音がした。鍵が回る音がした。

「お姉様」

 クロエは壁に顔を近づけて呼んだ。石壁は分厚いが、声は何とか通るはずだった。

「クロエ」

 壁の向こうからヴィオラの声が返ってきた。くぐもっていたが、聞き取れた。

「怪我は」

「ない。あなたは」

「大丈夫——ベアトリクス先生が、書類を」

 それ以上は言えなかった。廊下に審問官の気配が残っている。壁越しの会話を聞かれている可能性がある。

「分かった」

 ヴィオラの短い返事には、多くの意味が込められていた。書類——ノエルの証拠は安全だということ。ベアトリクスが味方だということ。そして、まだ全てが終わったわけではないということ。

 クロエは寝台に戻り、壁に背をもたれた。

 冷たい石の感触が背中に沁みた。五年前の夜も、石は冷たかった。十二歳の足で走った廊下の石。父が連行されていった広間の石。記憶と現在が重なり、胸の奥で鈍い痛みが脈打った。

 あの夜、父は冤罪で連行された。今、クロエは捏造された証拠で拘束されている。五年の時を隔てて、マグナスは同じ手を使っている。罪のない者を罪人に仕立て上げ、真実を語らせないために口を塞ぐ。

 歯を食いしばった。怒りが喉の奥から這い上がってきた。だが同時に、冷静な部分が囁いていた。怒りに任せてはいけない。ここで冷静さを失えば、マグナスの思う壺だ。

 薬師としての訓練が、クロエを支えていた。調合の最中に手が震えれば、一滴の誤差が毒を生む。感情を統御し、指先の精度を保つこと。それが薬師の基本だとベアトリクスに叩き込まれた。今こそ、その教えが必要だった。

 独房の魔薬灯が、変わらぬ光を落としている。


 足音が三度目に聞こえたとき、クロエは独房の空気が変わったことを感じた。

 前の二回——クロエ自身の連行と、ヴィオラの連行——とは異なる足音だった。審問官の硬い革靴ではない。柔らかく、しかし重みのある足取り。上等の靴底が石の階段を踏む、控えめで洗練された音。

 独房の扉の鍵が回った。

 覗き窓からではなく、扉そのものが開いた。審問官ルドルフが扉の横に立ち、一人の男を中に通した。

 マグナス・アウレウスが、独房に入ってきた。

マグナスの温厚な仮面

 金の刺繍が施された上衣。整えられた灰褐色の髪。穏やかな表情。宮廷の社交場にいるのと寸分違わぬ装いと佇まいで、アウレウス家の当主は地下牢の入口に立っていた。

「やあ、クロエ」

 声は柔らかかった。温かみすら感じさせる声色。この声で宮廷の議場を説き伏せ、財政の交渉を纏め上げ、誰もが信頼する調停者としての地位を築いてきた声だ。

 クロエは寝台から立ち上がらなかった。座ったまま、マグナスを見上げた。

「マグナス卿」

 呼びかけは平坦だった。敬称はつけたが、敬意は込めなかった。

 マグナスは独房の中を見回した。石の壁、簡素な寝台、魔薬灯の青白い光。その全てを確認するような視線で一巡した後、壁の前に立った。椅子がないので立ったままだったが、その佇まいには不自由さがなかった。どこに立っても自分の領地であるかのように振る舞える男だった。

「残念なことだ」

 マグナスは嘆息した。温厚な表情に、適度な憂慮を乗せて。

「君のことは以前から気にかけていた。優秀な薬師見習いだとベアトリクスからも聞いていた。それがこのような事態になるとは」

 演技だ。

 クロエにはそれが分かった。記憶を取り戻す前の自分なら——あの穏やかな日常の中にいた自分なら——この男の言葉を真に受けたかもしれない。宮廷の誰もがそうするように。だが今のクロエは知っている。この温厚さの裏に何があるかを。

「証拠は揃っている」

 マグナスが続けた。声のトーンが変わらない。穏やかなまま、残酷な言葉を紡ぐ。

「君の調合棚から月光石が発見された。記憶操作薬の処方箋を禁書庫から持ち出した形跡もある。これだけの物証があれば、審問の結果は——」

「あなたが仕込んだのでしょう」

 クロエは遮った。声は静かだった。怒りを押し殺しているのではなく、怒りの先にある確信で話していた。

「月光石を私の棚に入れたのは、あなたの手の者です。五年前と同じだ。父にもそうした。処方箋の筆跡を偽造し、毒薬の素材の入手記録を捏造し、買収した証人に偽証させた。同じ手口を——」

「これは」

 マグナスの眉が、ほんの僅かに上がった。

「ずいぶんと具体的な中傷だね。五年前のヴィリディス前当主の裁判について、見習い薬師の君がそこまで詳しいとは驚きだ」

 温厚な笑みが、一ミリも崩れない。その完璧さが、かえって仮面であることを際立たせていた。

 クロエは立ち上がった。

 マグナスとの間は三歩。独房の狭さが、二人の距離を否応なく縮めていた。

「あなたが王妃を殺したのよ」

 言葉が独房の石壁に反響した。

 マグナスの目が、変わった。

 温厚な笑みの奥で、何かが動いた。四十五年間磨き上げてきた仮面の裏で、別の顔が一瞬だけ表面に浮かんだ。冷たく、鋭く、獣じみた光を宿す瞳。クロエは心臓が縮むのを感じた。この男が「本当のマグナス」を見せたのは、おそらく一秒にも満たなかった。

 だがクロエはその一秒を見逃さなかった。

「王妃エレオノーラを遅効性の黒薬で毒殺し、父に罪を着せた。記憶操作薬を使って私の過去を消し、姉を脅して沈黙させた。審問官レオポルドを暗殺したのも、五年前の共犯者の口を塞ぐためだった。全て——あなたがやったことよ」

 マグナスの顔が元に戻っていた。温厚な笑み。穏やかな目。仮面の修復は完璧だった。一秒の揺らぎを、なかったことにするかのように。

「クロエ」

 マグナスの声は依然として柔らかかった。だがその柔らかさの質が変わっていた。絹の手袋の下の鉄の拳のような——柔らかさを装った硬さ。

「君がそのような妄想に取り憑かれていることが、心から残念だ。禁書庫の文献に触れたことで精神に変調をきたしたのかもしれない。黒薬の処方箋には精神汚染の危険がある。君のような若い薬師が無防備に触れれば——」

「妄想ではない」

「証拠がなければ、ただの中傷だよ」

 マグナスの声が、初めてわずかに硬さを帯びた。温厚な仮面の下から、地金が覗いた瞬間だった。だがすぐに戻った。完璧な、慈悲深い年長者の顔に。

「見習い薬師の中傷に耳を貸す者は、この宮廷にはいない。仮に灰の審判の場でそのような発言をしたとしても、証拠なき告発は名誉毀損として処罰の対象になる。君自身の立場をさらに悪くするだけだ」

 クロエはマグナスの目を見つめた。灰色の瞳で、金の刺繍の男の顔を真っ直ぐに見た。

「証拠がなければ、と言ったわね」

 マグナスの微笑みが、ほんの一瞬、凍りついた。

「証拠は——」

「ある、と言ったら?」

 沈黙が落ちた。

 独房の魔薬灯がちりちりと微かな音を立てた。その音が、二人の間の緊張を針のように刺した。

 マグナスの目が、初めてクロエの全身をゆっくりと見た。白衣を。手首を。指先を。何かを探すような視線。何かが「ない」ことを確認するような視線。

 そして——ほんの僅かだが——マグナスの目尻が攣った。

「証拠があると言うのなら、審問の場で提出すればいい」

 声は平静だった。だがその平静さの中に、今までなかった棘が一本混じっていた。

「もっとも、この独房から出られればの話だがね」

 その一言に、マグナスの本性が凝縮されていた。温厚な仮面の下の、冷徹な脅迫。「この独房から出られれば」——それは審問の結果次第では出られない可能性を示唆していた。三日以内の審問で有罪が確定すれば、クロエは牢から審問院の刑場に送られる。五年前の父と同じように。

 マグナスは扉に向かって踵を返した。

「体を大事にしなさい、クロエ。地下は冷える」

 最後の言葉は、純粋な善意の響きを持っていた。その完璧な善意の仮面が、クロエの背筋を最も強く凍えさせた。

 扉が閉まった。鍵が回った。柔らかな足音が遠ざかり、階段を上っていった。

 一人になった独房で、クロエは拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、細い痛みが走った。

 証拠はベアトリクスが持っている。マグナスはそれを知らない。だがマグナスは「証拠がある」とクロエが言ったことを聞いた。これからの三日間で、マグナスはクロエの周囲——ノエル、ベアトリクス、フェリクス、アデル——に手を回すだろう。証拠を探し出し、握り潰すために。

 時間が、ない。

 壁の向こうから、かすかにヴィオラの声がした。

「クロエ。聞こえた?」

 マグナスとの会話が、壁越しに姉にも聞こえていたのだろう。

「聞こえた。大丈夫」

「大丈夫じゃない。あの男は——」

「分かっている」

 クロエは壁に額を押し当てた。石の冷たさが、少しだけ思考を鎮めてくれた。

「でも、あの男の仮面が揺らいだのを見た。一瞬だけ。ほんの一瞬だけ——本当の顔が見えた」

 ヴィオラの沈黙が、壁の向こうに横たわった。

「それは——怖い顔だった?」

「怖かった。でも——同時に、脆かった」

 クロエは自分の言葉に驚いた。だが口にした途端、それが正しいと感じた。マグナスの仮面が揺らいだ一瞬。あの目に宿っていたのは冷酷さだけではなかった。もっと古い何か。二十年前の、王妃を愛していた若い男の残滓が、冷徹な計算の層の下に埋もれて、しかし消えずに残っている。その残滓が「王妃を殺した」と指摘された瞬間に表面に浮かんだ。

 完璧な仮面は、完璧であるがゆえに脆い。一か所でも罅が入れば、全体が崩壊する。

 マグナスの弱点は、マグナス自身の中にある。


 独房に夜が来たことは、魔薬灯の光がわずかに暗くなったことで分かった。時刻に連動して明度を調整する仕組みになっているのだろう。地下牢に閉じ込められた者が完全に時間感覚を失わないための、最低限の配慮だった。

 夕食が覗き窓から差し入れられた。硬いパンと薄い豆の汁。水差し一杯の水。クロエはパンを噛みながら、壁越しにヴィオラと話した。審問官が廊下の見張りを一人残して引き上げた後、二人の声は以前よりも自由に行き来できた。

「お姉様」

「何」

「五年前——お父様が連行された夜のこと、もう少し聞かせて」

 沈黙が数秒あった。ヴィオラにとって、あの夜の記憶は今なお生傷だった。

「何が知りたいの」

「お父様は、最後に何を考えていたのかしら」

 壁の向こうで、ヴィオラが小さく息を吐く気配がした。

「お父様はね——取り乱さなかったの。審問官が来たとき、もう覚悟ができていた。マグナスが動くことを、察していたのかもしれない」

「察していた?」

「お父様は王妃の薬学顧問だった。王妃の死の直後から、毒殺の可能性を調べていた。そしてマグナスの関与に気づきかけていた。お父様が告発する前に、マグナスが先手を打った。——今回と、同じ構図よ」

 同じ構図。父もまた、告発の準備をしている最中にマグナスに先手を打たれた。

 クロエの胸が軋んだ。

「お父様は——怖くなかったのかしら」

「分からない。でも、あの夜の最後にあなたに向かって叫んだ言葉は、怖がっている人間の言葉ではなかったと思う」

 灰色であることを恐れるな、クロエ。

 父の声が、記憶の中で響いた。連行される直前に、階段の上の幼い娘を見上げて叫んだ最後の言葉。愛と祈りと絶望が入り混じった声。

「あの言葉の意味を、ずっと考えていたの」

 クロエは壁に背をもたれ、天井の魔薬灯を見上げた。

「灰色であることを恐れるな。白でも黒でもない場所にこそ、本当の答えがある。お父様は——私に何を伝えたかったのかしら」

「私もずっと考えていた」

 ヴィオラの声は静かだった。五年間の沈黙の中で何百回と反芻してきた問いに、ようやく声が与えられたような響きだった。

「お父様は薬師だった。毒と薬は紙一重。白薬も黒薬も、本質は同じものの異なる表れに過ぎない。お父様はいつもそう言っていた」

「灰薬のジレンマ」

「ええ。使い方次第で白にも黒にもなる。何を『善』とし何を『悪』とするかは、状況と判断と覚悟によって決まる。お父様が『灰色を恐れるな』と言ったのは——たぶん、世界を白と黒に分けて考えることの危うさを知っていたからだと思う」

 クロエは目を閉じた。

 白と黒。善と悪。正義と罪。この宮廷では、全てが明快に分けられているように見える。マグナスは善良な実業家。ヴィリディス家の前当主は王妃暗殺の罪人。クロエは黒薬を不法に所持した犯罪者。だがその分類は全て——マグナスが作り上げた虚構だ。

 真実は灰色の中にある。白く清潔な正義でもなく、黒く明快な悪でもなく、その間の曖昧な場所に。

 ベアトリクスの言葉が重なった。

 ——真実は薬のように。服用する覚悟がなければ、毒になる。

 真実は薬だ。飲む者によって薬にもなり毒にもなる。マグナスにとっての真実は毒だ。彼の二十年間の罪を暴き、仮面を引き剥がし、築き上げた全てを瓦解させる劇毒。だがクロエにとっての真実は薬だ。五年間の偽りを洗い流し、自分が何者であるかを取り戻す処方箋。

 同じ真実が、人によって毒にも薬にもなる。

 毒と薬は紙一重。

「お姉様」

「何」

「私ね——ずっと怒っていたの。お姉様に。記憶を消されたことに。五年間放っておかれたことに」

「……知っている」

「でも今、この牢の中にいて思うの。お姉様のしたことは——白でも黒でもなかった。善でも悪でもなかった。灰色だった」

 壁の向こうで、ヴィオラの呼吸が止まった気配がした。

「あの夜、お姉様は十七歳だった。マグナスに脅されて、私の命か記憶かの二択を迫られた。どちらを選んでも傷つく。どちらを選んでも何かを失う。その中で——お姉様は命を選んだ。私の記憶を犠牲にして、命を守った。それは——」

 クロエの声が震えた。だが言葉は止まらなかった。

「それは、正しかったとも、間違っていたとも、今の私には言えない。許せたとも、許せないとも、まだ決められない。でも——お姉様があの夜泣いていたことは、嘘じゃなかった。五年間苦しんでいたことも、嘘じゃなかった。それだけは、分かっている」

 壁の向こうから、微かな嗚咽が聞こえた。

「お姉様のしたことを、白か黒かで裁くことはできない。でも灰色のまま——灰色のまま、受け入れることはできると思う。お父様が言った通りに。灰色であることを恐れずに」

「クロエ……」

 ヴィオラの声は涙に濡れていた。だがその涙の質が、第十章の対峙のときとは変わっていた。あのときの涙は罪悪感と恐怖の涙だった。今の涙は——もっと穏やかな、何かが解けていく涙だった。

「あなたは——お父様に似ているわ」

「似ている?」

「灰色の中に立てる人。白か黒かに逃げない人。お父様もそういう人だった。だからこそ、王妃の薬学顧問を務めていた。どんな難しい処方でも——答えが灰色の中にしかない処方でも——逃げずに向き合える人だった」

 クロエは壁に手を当てた。石の冷たさの向こうに、姉の存在を感じた。

「お姉様」

「何」

「ここから出よう。二人で」

「……どうやって」

「灰の審判の場で、マグナスを告発する。証拠はベアトリクス先生が持っている。審問で私たちの嫌疑が晴れれば——いえ、たとえ晴れなくても。灰の審判の場では、いかなる者も発言を求めることができる。それは王冠の定めた掟であり、審問院の権限を超えている」

「灰の審判は——あと五日後だわ」

「三日以内に審問が行われる。その場で——」

「待って」

 ヴィオラの声が鋭くなった。

「審問で嫌疑を晴らせる保証はない。審問官の中にマグナスの息がかかった者がいるのよ。捏造された証拠を覆すには、それが捏造であることを証明しなければならない。月光石を棚に入れたのがマグナスの手の者だと証明するには——」

「証明する方法はある」

 クロエの声に、薬師としての確信が宿った。

「月光石には産地ごとの魔素の組成がある。私が入手できるルートと、マグナスが使う闇の流通経路では、月光石の産地が違う。組成を分析すれば、あの月光石が私のものではないことが証明できる。薬師の鑑定結果は審問院の証拠として認められる」

「でも、鑑定を行う薬師が——」

「ベアトリクス先生」

 クロエの声は揺るがなかった。

「宮廷首席薬師の鑑定結果を、審問院は無視できない。先生はすでに審問への同席を確保している。そして先生は——あの月光石が私のものでないことを、誰よりもよく知っている。私の調合棚の中身を全て把握しているのは、首席薬師だから」

 壁の向こうで、ヴィオラが小さく息を吸った。

「あなた——すごいわね」

「すごくない。薬師の基本よ。素材の鑑定は調合の第一歩だとベアトリクス先生に叩き込まれた。調合室に入ったその日から」

 ほんの少しだけ、クロエの声に温かみが戻った。師匠への信頼が、この地下牢の冷気を僅かに和らげていた。

「お姉様。私は——ここで諦めるつもりはない」

「知っているわ」

「お父様の無実を証明する。マグナスの罪を暴く。そしてこの宮廷に積み重なった嘘を——」

 覗き窓を叩く音がした。

 クロエは言葉を飲み込み、扉に目を向けた。

 覗き窓の向こうに、見張りの審問官の顔ではなく——小さな紙片が差し込まれていた。

 誰かが覗き窓の隙間から、折り畳まれた紙を押し入れたのだ。

 クロエは紙片を取り上げた。四つに折られた薄い紙。封蝋はない。だが紙の端に、ごく小さな紋章が描かれていた。王家の紋章。灰色の王冠の意匠。

 フェリクスの密書だった。

 クロエは紙を開いた。王子の、繊細だが芯のある筆跡が、限られた紙面に凝縮されていた。

『クロエへ。

 あなたが捕らえられたことを知った。これはマグナスの策略だと分かっている。

 だが伝えなければならないことがある。父上の容態が急変した。侍医が処方した薬に、通常とは異なる成分が含まれていたことに気づいた。月光花の抽出液。それ自体は白薬だが、父上が常用している心臓の薬と組み合わされれば——遅効性の毒になる。

 マグナスが動いている。父上の命が危ない。

 あなたを助ける方法を探している。アデルにも連絡した。どうか耐えてほしい。

 フェリクス』

 クロエの手が震えた。

 国王の命が危ない。マグナスが動いている。

 月光花の抽出液と心臓薬の相互作用。薬師であれば知っている組み合わせだ。単体では無害な白薬が、別の薬と合わさることで致命的な毒に変わる。灰薬のジレンマの最も暗い応用。毒と薬は紙一重——その紙一重を、マグナスは国王の命で実行しようとしている。

 灰の審判の前に国王が死ねば、王位継承は混乱を極める。その混乱の中で、マグナスは自家の息子を王冠に近づけることができる。クロエとヴィオラを牢に閉じ込め、国王を暗殺し、灰の審判を掌握する——三手先を見据えた、冷徹な計算。

「お姉様」

 クロエは壁に顔を近づけた。声を押し殺して。

「フェリクス殿下から密書が来た」

「何と?」

「国王陛下の命が危ない。マグナスが——侍医を通じて、毒を盛っている」

 壁の向こうから、ヴィオラの息を呑む音が聞こえた。

「マグナスは——本気で、全てを手に入れるつもりだわ」

「だから、ここで止めなければならない」

 クロエは密書を胸に押し当てた。薄い紙の向こうに、フェリクスの恐怖と決意が透けて見えた。十六歳の王子が、父の命を守るために、一人で戦っている。

 クロエ自身も十七歳だ。

 父を失い、記憶を奪われ、姉と引き裂かれ、それでも立ち上がった十七歳。

 一人ではない。

 フェリクスがいる。アデルがいる。ノエルが家門を裏切る覚悟を見せた。ベアトリクスが証拠を守っている。そしてヴィオラが、壁一枚の向こうにいる。

「お姉様。三日後の審問で——いえ、三日も待てないかもしれない。国王陛下のことがある。何とかして、この牢から出る方法を見つけなければ」

「方法は——必ずある」

 ヴィオラの声は低かったが、その中に、五年間の沈黙を破った女の強さが宿っていた。

「マグナスが仕掛けた鎖は外からかけられたものよ。でも鎖を断つ力は——」

「内から生まれる」

 クロエはヴィンクルムの処方箋の文言を呟いた。拘束の鎖薬。全身の魔素を抑制し身動きを封じる。だがその副作用——鎖は外からかけられるが、鎖を断つ力は内から生まれる。

 全ての薬には副作用がある。全ての毒には解毒がある。全ての鎖には弱点がある。

 マグナスの鎖は精巧だ。捏造された証拠。買収された審問官。五年前から続く権謀術数の積み重ね。だがその鎖は、一つの前提の上に成り立っている。

 真実を知る者がいないという前提。

 その前提は、すでに崩れている。

 クロエは寝台に座り直し、密書をもう一度読んだ。フェリクスの筆跡を指で辿った。「どうか耐えてほしい」。その言葉が、独房の冷気の中で小さな温もりになった。

 耐える。そして、ここから出る。

 灰の審判の場で、全ての真実を明らかにする。

 父の無実を。マグナスの罪を。この宮廷が積み重ねてきた嘘の全てを。

 クロエは目を閉じた。

 灰色であることを恐れるな——父の言葉が、記憶の中で響いた。もはや夢の中の曖昧な声ではなかった。鮮明な、温かい、自分自身の記憶としての声だった。

 真実は薬のように——師匠の言葉が重なった。覚悟と共に服用するための薬。

 独房の魔薬灯が、夜の暗さの中でなお小さな光を保っていた。

 石の壁の向こうで、ヴィオラが何かを呟いた。祈りのような、誓いのような、姉の声。

 灰色の光の中で、二人の姉妹は朝を待った。

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