〔百十二日目。右目の痛みが増している。鎮痛の調合を変えた。効果は三時間が限界。この手帳に書いた百十一日分の記録のうち、自分の筆跡だと確信できるのは直近の四十日分だけだ。それより前の文字を、僕はもう他人の日記のように読んでいる〕

雨が、世界を叩いていた。
ただの雨ではない。空が裂けたかのような豪雨だった。街道の轍は茶色い川に変わり、両脇の木々は風に煽られて悲鳴のような音を立てている。外套のフードを目深に被っても、冷たい雫は容赦なく首筋を這った。
視界は三歩先がやっとだった。
こんな夜に街道を歩く人間は二種類しかいない。何かから逃げている者と、どうしようもない馬鹿だ。僕はおそらく後者に分類される。次の宿場まであと半刻と踏んだのが間違いだった。嵐の予兆を読み違えた。薬師を名乗る人間が天候も読めないとは笑い話にもならない。
右目が、疼いた。
眼帯の下で、あの忌々しい熱が脈を打っている。雨の冷たさなど意味がない。頭蓋の裏側を焼き鏝で押されているような、鋭く持続する痛み。もう慣れた。慣れたと思い込んでいる。実際には日ごとに悪化していることを、手帳の記録が証明していた。
『今夜は特にひどい』
歯を食いしばった。足を止めたら終わりだ。街道の脇に倒れて朝まで持つ保証はない。泥だらけの道を一歩、また一歩。薬箱の革帯が肩に食い込む。
そのとき、足が何かにつまずいた。
最初は倒木だと思った。
この嵐なら枝の一本や二本は折れているだろう。だが足先に触れた感触は、木ではなかった。柔らかい。布と、その下にある人間の輪郭。
僕はしゃがみ込んだ。
稲光が走った。白い閃光が一瞬だけ世界を照らし、泥の中に横たわる姿を映し出す。
小柄な体躯。泥に汚れた旅装。背中に竪琴のような楽器を負い紐で括りつけている。そして――蜂蜜色の髪が、泥水の中に扇のように広がっていた。
女性だ。若い。
動いていない。
『関わるな』
頭の中で声がした。冷たく、正しい声だ。この二年間、僕を生かしてきたのはこの判断だった。関わらない。深入りしない。人は僕に近づくべきではないし、僕も人に近づくべきではない。
関われば、いずれ力を使わなければならなくなる。力を使えば、また記憶が消える。
もう失える記憶は多くない。
だから、立ち去ればいい。この嵐の中、行き倒れの一人や二人は珍しくない。僕が見つけなくとも、朝になれば誰かが――
稲光が、もう一度走った。
今度はよく見えた。彼女の脇腹を。旅装を黒く濡らしているのは雨水だけではないことを。血だ。服の裂け目から、赤黒い液体がゆっくりと泥に溶けていた。
刃物による傷だった。
『関わるな』
声が繰り返す。
僕の足は動かなかった。立ち去る方向にも、彼女に近づく方向にも。雨に打たれたまま、馬鹿みたいに突っ立っていた。
彼女の唇が、かすかに動いた。
「……たす、けて」
聞こえないほど小さな声だった。嵐の轟音にかき消されてもおかしくなかった。なのに、その声だけが妙に鮮明に鼓膜に届いた。
僕は舌打ちした。
薬箱を開けながら膝をついた。自分が何をしているのか分かっていた。分かっていて止められなかった。結局のところ、僕はどうしようもない馬鹿の方なのだ。
街道から少し外れた場所に、朽ちかけた石橋があった。その下なら辛うじて雨を凌げる。
彼女を担ぎ上げるのに苦労はしなかった。驚くほど軽い。痩せているのか、元々小柄なのか。竪琴を背負ったまま、僕の肩にもたれかかる彼女は、泥と血と雨の匂いがした。
石橋の下に寝かせ、手早く火を起こした。湿った薪は渋ったが、刻印済みの着火紋章を使えば話は早い。微かな魔力で起動する程度の代物だ。呪眼を使うまでもない。
炎が灯ると、彼女の顔がようやく見えた。
若い。僕と同じか、少し下くらいだろうか。泥を拭えば整った顔立ちだと分かる。蜂蜜色の髪、白い肌。旅の吟遊詩人といった風体だが、その手は竪琴の弦を弾くには傷だらけに見えた。
傷の確認を優先した。
脇腹の切り傷。深さはそこそこだが、内臓には達していない。出血は多いが致命傷ではない。不幸中の幸いだ。ただ、手当てをしなければ朝までに失血で死ぬ可能性はある。
薬箱から消毒用の蒸留酒、縫合用の針と糸、止血の薬草を取り出した。本業は薬師だ。この程度の処置はできる。
旅装を最低限めくり、傷口を露出させた。消毒。彼女の体がびくりと跳ねた。意識はあるのか、ないのか。うわごとのように何かを呟いている。聞き取れない言葉だった。
「動かないで。縫う」
短く告げて、針を刺した。
縫合しながら、傷の形を観察した。真一文字の切り傷。剣による斬撃だ。しかも一太刀で仕留め損ねた形跡がある。追われていたのか。何者かに斬りつけられ、必死に逃げてきたのだろう。
『誰に追われていた?』
山賊か。それとも、もっと厄介な相手か。
考えても仕方がない。僕は薬師だ。今は目の前の傷を塞ぐことだけを考えればいい。余計なことは知らない方がいい。
縫合を終え、止血の薬草を練った膏薬を塗り、布で巻いた。
そこまで処置を終えてから、彼女の額に触れた。熱を確かめるためだった。
指先が、彼女の肌に触れた瞬間。
右目の痛みが、消えた。
正確に言えば「消えた」のではない。潮が引くように、あの灼けるような疼痛がすうっと退いていった。眼帯の下で脈打っていた呪いの鼓動が静まり、こめかみを締め付けていた圧迫感が溶けるように薄れた。
息が止まった。
何が起きたのか理解できなかった。二年間、一瞬たりとも途絶えなかった痛みだ。鎮痛剤を飲んでも麻痺させるのが精一杯で、消すことは不可能だった。それが今、嘘のように凪いでいる。
指先を離すと、痛みがじわりと戻ってきた。
もう一度、触れた。
痛みが引いた。
『……なんだ、これは』
心臓が早鐘を打っていた。彼女に触れている間だけ、呪いが鎮まる。こんなことは初めてだった。二年間、あらゆる薬を試し、あらゆる民間療法を試し、それでも一切変わらなかった痛みが。
この女性に触れるだけで。
彼女の顔を見下ろした。火に照らされた頬は蒼白で、呼吸は浅い。泥に汚れた睫毛が微かに震えている。額にかかった蜂蜜色の髪を、僕は無意識に払っていた。
何者なんだ、君は。
答えは返ってこない。嵐の音だけが石橋の下に反響していた。
どれくらい時間が経っただろう。
嵐は少しだけ弱まっていた。雨は降り続いているが、先ほどまでの狂暴さはない。火は安定して燃え、石橋の下をぼんやりと照らしている。
僕は彼女の傍に座っていた。触れてはいなかった。右目の痛みは戻っていたが、先ほどよりは幾分ましな気がした。気のせいかもしれない。
彼女が目を開けたのは、夜が最も深い時刻だった。
「……ぁ」
声というより、吐息だった。翡翠色の瞳が焦点を結ばないまま揺れ、天井の石組みを見上げている。
「ここは……」
「街道脇の石橋の下だ」
僕の声に、彼女の視線がゆっくりとこちらを向いた。警戒の色が浮かんだ。当然だ。知らない場所で、知らない男が隣に座っている。
「傷の手当てをした。脇腹を斬られていた」
「……あなた、が?」
「街道で倒れていたのを見つけた。僕は薬師だ」
彼女はしばらく僕を見つめていた。翡翠の瞳が炎の光を映して揺れている。警戒、困惑、そしてかすかな安堵。それらが順番に浮かんでは消えた。
そのとき、彼女の視線が僕の右目——眼帯のあたりで止まった。一瞬、翡翠の瞳に別の何かが走った。恐怖でも警戒でもない。もっと古く、もっと深い場所から浮かび上がったような、名前のない感情。だがそれは瞬きひとつの間に消え、僕には彼女が不思議な表情をしたとしか分からなかった。
「……ありがとう」
小さな声だった。掠れてはいたが、その声には不思議な響きがあった。耳に心地いい、というのとは少し違う。どこかの深いところに届くような声。
「お礼はいい。それより、誰に追われていた?」
直接的に訊いた。余計なことは知りたくないが、このまま放置して彼女の追手が来られても困る。
彼女の表情が、一瞬だけ強張った。
「……山賊、だと思う。旅をしていたら襲われて」
嘘だな、と思った。
根拠はある。あの傷は山賊の雑な斬撃ではなかった。一太刀で急所を狙った、訓練された者の剣筋だ。それに山賊なら荷物を奪って終わりだ。竪琴も荷物も手つかずのまま残っているのは不自然すぎる。
だが、追及しなかった。
僕も嘘をついている人間だ。他人の嘘を暴く権利はない。
「そうか。朝になったら近くの宿場に運ぶ。今夜はここで休め」
「……うん」
彼女は小さく頷いた。そして、ほんの少しだけ唇の端を持ち上げた。笑顔、というにはあまりに儚かったが。
ふと、彼女の鼻先がかすかに動いた。何かの匂いを嗅ぎ取ったように。薬草の匂いだろうか——僕の手にも服にも染みついている匂いだ。彼女はそのまま一瞬だけ遠い目をした。何かを思い出しかけて、掴めなかったような顔。
「優しいね、薬師さん」
「別に。放っておいたら街道で死体になるだけだ。寝覚めが悪い」
「ふふ、そういう言い方するんだ」
笑い声はすぐに咳に変わった。体を丸める彼女の背を、僕は反射的に支えていた。掌が彼女の肩甲骨に触れる。
また、痛みが引いた。
息を呑むのを悟られないように、僕は手を離した。
火が爆ぜる音だけが、しばらく続いた。
彼女はまだ起きていた。横になったまま、炎を見つめている。その横顔には疲労と、もう一つ、名前のつけられない感情が浮かんでいた。安堵でもなく、悲しみでもなく。何かをずっと我慢している人間の表情。
「ねえ」
彼女が口を開いた。
「名前、聞いてなかった」
ああ、そうだった。名乗ってもいなかった。
本名を言うわけにはいかない。それは二年前に死んだ人間の名前だ。
「……君は?」
先に訊き返した。卑怯だとは思ったが、先に手の内を見せる気にはなれなかった。
彼女は一瞬だけ間を置いた。ほんの一拍。気づかなければ見逃す程度の、小さな躊躇い。
そして、笑った。
「リーゼよ。旅の吟遊詩人。あなたは?」
嘘だ。直感がそう告げた。根拠はなかった。ただ、あの一拍の躊躇いが、嘘をつく前の呼吸に似ていた。
だから、僕も同じように嘘をついた。
「……シエル。旅の薬師だ」
リーゼは笑顔のまま頷いた。信じたのか、信じたふりをしているのか。どちらでもよかった。
嵐はまだ止まない。
石橋の下で、嘘つきが二人、火を挟んで向かい合っていた。互いの本当の名前も、本当の姿も知らないまま。
〔百十三日目。嵐の夜、街道で行き倒れの女性を拾った。吟遊詩人。名前はリーゼ。脇腹に剣傷。処置済み。――追記。彼女に触れている間、呪いの痛みが鎮まった。原因不明。二年間で初めての現象。記録しておく〕