〔百十四日目。リーゼを最寄りの宿場まで送った。これで終わりだと思っていた〕
朝になっても、嵐の名残が空に居座っていた。
鉛色の雲が低く垂れ込め、時折ぱらぱらと小雨が降る。街道はぬかるみだらけで、荷馬車の轍が深い溝を刻んでいた。靴底に泥がまとわりつくたびに、僕は小さくため息をついた。
宿場町ヴィルデは、石橋から歩いて二時間ほどの小さな町だった。宿屋が三軒、酒場が二軒、鍛冶屋と雑貨屋と薬種問屋が一軒ずつ。旅人が足を休める程度の、どこにでもある街道沿いの町だ。
リーゼを宿屋に預けた。
宿代は一週間分を先払いした。余計な出費だが、道端で拾った人間を放り出すのも後味が悪い。傷が癒えるまで安静にしていろ、と言い置いて、僕は町を出た。
これで終わりだ。
一夜限りの行きずりだ。名前も偽名。素性も知らない。互いに深入りする理由はない。僕は東に向かう。彼女がどこへ行くかは彼女の問題だ。
そう自分に言い聞かせながら、町の門を出た。
街道を十分ほど歩いたところで、背後から声がした。
「シエルさーん!」
足が止まった。
振り返ると、蜂蜜色の髪が朝靄の中で揺れていた。リーゼが小走りでこちらに向かってくる。脇腹を押さえながら、それでも笑顔で手を振っている。背中には例の竪琴。肩には小さな旅嚢。
縫ったばかりの傷を抱えて走っている。普通なら、宿のベッドから起き上がるのすら躊躇うはずだ。一晩世話になっただけの他人を、傷が開く危険を冒してまで追いかける理由が分からなかった。
「待ってよ、置いていくなんてひどいなあ」
「……なぜここにいる」
「え? だってあたし、東に行くつもりだったし」
「偶然だと言いたいのか」
「偶然だよ? たまたま同じ方角なだけ」
嘘だ。彼女の目が泳いでいた。
僕は額に手を当てた。
「傷が塞がってない。安静にしろと言ったはずだ」
「大丈夫大丈夫。あたし、丈夫だから」
「丈夫な人間は街道で血を流して倒れない」
「あはは、それはそう」
笑い事ではない。だが彼女は本当に愉快そうに笑った。屈託のない、陽だまりのような笑い方だった。
「ね、しばらく一緒に旅しない? あたし一人だとまた襲われちゃうかもしれないし」
「断る」
「即答!?」
「僕は一人で旅をしている。誰かと連れ立つ気はない」
「えー、でも薬師さんなら道中安心じゃない」
「薬師は護衛じゃない」
「傷が治るまででいいからさ。ね?」
翡翠の瞳がまっすぐにこちらを見つめていた。
あの目は卑怯だ。
断れば彼女は一人で東の街道を歩くことになる。傷を負い、追手がいるかもしれない身で。山賊に襲われたという嘘が本当でなくとも、誰かに追われていたのは事実だ。その状態で一人旅をさせたら、次に倒れた時に通りがかる薬師がいる保証はない。
それに。
『彼女に触れると、痛みが消える』
その事実が頭の片隅にこびりついていた。利用する気はない。そんなことのために人間を傍に置くのは外道のすることだ。だが、あの感覚を忘れることも、できなかった。
「……傷が塞がるまでだ」
「やった!」
「はしゃぐな。脇腹に響く」
「あ、いたた」
彼女は笑いながら脇腹を押さえた。まったく懲りていない。
僕は深くため息をついて、歩き出した。
〔百十五日目。リーゼがまだいる。傷は順調に塞がりつつある。膏薬の交換を朝晩行っている。彼女は処置の間、ずっと喋っている。黙っていられないのか〕
旅の相棒を自称する吟遊詩人は、とにかくよく喋った。
「ねえシエル、次の町って何があるの?」
「知らない」
「えー、地図持ってないの?」
「持っている。だが行ったことはない」
「じゃあ楽しみじゃん。未知の町! わくわくしない?」
「しない」
「つれないなあ」
街道を歩きながら、リーゼは隣でぽんぽんと言葉を弾ませた。内容に脈絡はなかった。道端の花の名前、昨夜見た夢の話、どこかの町で食べた美味しいパイの話。何かを話していないと死んでしまうかのように、彼女は絶え間なく口を動かしていた。
僕は相槌を打つこともせず、黙って歩いた。
それでもリーゼはめげなかった。むしろ僕の無反応を楽しんでいるような節さえあった。
「シエルって、薬師になってどれくらい?」
「……四年くらいだ」
「へえ。師匠とかいたの?」
足が一瞬だけ重くなった。
師匠。
その単語が引き金になって、頭の奥に霞がかかった。師匠の顔を思い浮かべようとする。輪郭はある。大柄な体。低い声。でも、顔が――ぼやける。名前は手帳に書いてある。だが、それを読んでも「知っている人の名前」として実感できない日が増えていた。
「……いた」
「過去形?」
「もういない」
「……そっか。ごめん」
リーゼの声のトーンが少しだけ変わった。明るさは保ったまま、どこか慎重になった。踏み込むべきではない場所を察知する、意外な聡さだった。
「あたしの師匠もね、もういないんだ」
「師匠?」
「竪琴の。おばあちゃんだったんだけど、旅の途中で亡くなって」
彼女は空を見上げた。鉛色の雲の隙間から、薄い光が差している。
「最後に教わった曲、まだ上手く弾けないんだよね。練習しなきゃ」
その言葉が嘘か本当か、僕には判別がつかなかった。彼女の声はどこまでも自然で、さっきまでの軽口と変わらない温度をしていた。
ただ、一つだけ気づいたことがある。
師匠の話をしている時だけ、リーゼの視線は僕ではなく遠くを見ていた。
〔百十七日目。エストという小さな町で補給を行う。市場の規模は小さいが、薬草の品揃えは悪くない。リーゼが僕の買い物に口を出してくる〕
エストの市場は、朝から賑わっていた。
天幕を張った露店が街道沿いに並び、野菜や干し肉、布地や日用品を売っている。旅人と地元の住民が入り混じり、値段を交渉する声があちこちで飛び交っていた。
「シエル、あれ見て。干し果物! 買おうよ」
「必要ない。日持ちする食料は十分にある」
「必要なくても美味しいものは要るでしょ。旅の楽しみじゃん」
「楽しみのために荷物を増やす趣味はない」
「荷物っていうほどの重さじゃないって。ほら、一袋だけ」
リーゼは既に露店の主人と話し始めていた。人懐っこい笑顔で値切り交渉を始めた彼女に、中年の店主はまんざらでもない顔をしている。
僕は呆れながら薬草の露店に向かった。
解熱草、止血苔、鎮痛の根。旅の薬師として最低限の在庫を維持する必要がある。品を見定めながら、指で葉の状態を確認した。乾燥が甘いものがいくつかある。それは避けて、状態のいいものだけを選んだ。
「こっちの葉は鮮度がいいですね。まとめると少し安くなりますか」
「ああ、薬師さんかい。五束まとめてくれるなら一割引くよ」
「では五束。あとこの止血苔を二包み」
淡々と取引を進めていると、背後からリーゼの声がした。
「シエルー! これ何の草?」
振り返ると、リーゼが隣の露店で何かの束を手に持っていた。
「触るな。それはクサノオウだ。樹液に触れると皮膚が爛れる」
「えっ」
リーゼが慌てて束を投げ捨てた。露店の主人が顔をしかめる。僕は溜息をつきながら代金を払い、リーゼの手を確認した。
「大丈夫だ。茎を折っていなければ樹液は出ない」
「び、びっくりした……。市場に毒草が普通に並んでるの?」
「薬にもなる。量と使い方の問題だ」
「へえ……。薬と毒って紙一重なんだ」
「大抵のものはそうだ」
リーゼは感心したように頷いた。そして、にっと笑った。
「やっぱりシエルが一緒だと安心だなあ」
「毒草に手を出さなければ済む話だ」
「えへへ」
何がおかしいのか笑っている。この人間は本当に読めない。
市場を一通り回り、必要な物資を調達した。リーゼは結局、干し果物の袋を一つと、焼きたてのパンを二つ買っていた。一つを僕に差し出す。
「はい、お昼」
「頼んでいないが」
「いいからいいから。さっき薬草代出してくれたじゃん。これはお返し」
薬草代は僕の仕事の必要経費であって、彼女への施しではない。だが説明するのも面倒で、黙ってパンを受け取った。
焼きたてのパンは、柔らかくて温かかった。
〔百十九日目。次の町まで二日。野営が続く。リーゼが焚き火で料理を作ると言い出した。断ったが聞かない〕

野営の夜。
街道から少し外れた林の中、小さな焚き火を囲んでいた。薪が爆ぜる音と、虫の声。空には雲の切れ間から星が覗いている。
リーゼが鍋をかき回していた。
「もうちょっと。いい匂いしてきたでしょ?」
「……何を入れた」
「今日市場で買った根菜と、干し肉と、あとハーブ少々。あたし得意なんだよね、ありもので作るの」
確かに悪くない匂いだった。旅の煮込みにしては上出来の香りがする。リーゼは鍋の味見をして、満足げに頷いた。
「はい、できた!」
木の椀に盛り付けて、僕に差し出した。湯気が立ち昇る素朴な煮込み。僕は無言で受け取り、一口含んだ。
美味い。
率直にそう思った。味付けは単純だが、素材の火の通し方がいい。根菜は柔らかすぎず、肉は固くなっていない。旅の吟遊詩人にしては手際が良すぎる。
「どう?」
「……悪くない」
「素直じゃないなあ。美味しいって言えばいいのに」
「悪くないと言った。それで十分だ」
「ふふ、シエルの『悪くない』は褒め言葉なんだね。覚えた」
余計なことを覚えなくていい。
リーゼは自分の椀を持って、僕の隣に座った。近い。もう少し距離を取ってほしいが、焚き火を挟んで反対側に座れとも言いにくい。
二人で黙々と食べた。いや、僕が黙々と食べていただけで、リーゼは相変わらず喋っていたが。
「ね、シエルはどこに向かってるの?」
「東だ」
「東のどこ?」
「決めていない」
「えっ、目的地なしで旅してるの?」
「薬師の旅はそういうものだ。薬草が採れる場所へ行き、薬を必要とする場所で売る」
半分は本当で、半分は嘘だった。目的がないわけではない。ただ、それを伝える義理はない。
「あたしもね、特に行き先は決めてないんだ」
「吟遊詩人なら行く先々で歌えばいいだろう」
「そうそう、そういう感じ。あたしとシエル、似てるね」
「似ていない」
「えー、似てるって。二人とも、どこにも属してなくて、ふらふら旅してるじゃん」
その言い方は、ひどく的確だった。どこにも属していない。帰る場所がない。家も、仲間も、組織も持たない。『ふらふら旅をしている』というリーゼの表現は、気楽な響きの裏に孤独の形をしていた。
リーゼは椀を両手で包むようにして、焚き火を見つめていた。
「あたしさ、この前の町で歌った時、おじいちゃんが泣いてくれたんだよね」
「泣いた?」
「うん。あたしの歌を聴いて、亡くなった奥さんを思い出したんだって。嬉しかったなあ」
「人を泣かせて嬉しいのか」
「違うよ。あたしの歌が、誰かの心に届いたってことじゃん。それが嬉しいの」
リーゼの横顔は、焚き火の光に照らされて柔らかかった。
「歌ってさ、不思議だよね。言葉だけじゃ届かないものが、旋律に乗せると届く。あたしはそれが好き」
「……そうか」
「シエルも聴く? あたしの歌」
「遠慮する」
「もう。一曲だけ。すぐ終わるから」
断る間もなかった。リーゼは竪琴を取り出して膝に乗せた。弦に指を添え、軽く爪弾く。澄んだ音が夜の空気に溶けた。

そして、歌い始めた。
知らない旋律だった。
穏やかで、どこか懐かしい曲。異国の匂いがする。僕の知っている大陸の主要な民謡のどれとも違った。歌詞は古い言葉で、意味は半分も取れない。けれど旋律が語っている。故郷を離れた者の歌。失われた場所を想う歌。帰れない場所への、静かな祈り。
リーゼの声は透き通っていた。普段の快活な喋り方からは想像できないほど、深く、真っ直ぐな声だった。竪琴の弦が紡ぐ旋律と、彼女の声が絡み合い、焚き火の灯りの中に小さな世界を作り上げている。
不思議なことに、右目の疼痛が和らいでいた。
触れてもいないのに。彼女の歌を聴いているだけで、呪いの鼓動がかすかに鎮まっている。先日、彼女に触れた時ほどの劇的な変化ではない。だが確かに、痛みの波が穏やかになっていた。
『……歌にも、何かあるのか』
曲が終わった。最後の一音が夜に溶けて消えるまで、僕は動けなかった。
リーゼがこちらを見た。いたずらっぽい笑みを浮かべている。
「どうだった?」
「……何の歌だ」
「え? 感想そこ?」
「旋律に聞き覚えがない。この辺りの民謡ではないだろう」
リーゼの指が、弦の上で止まった。ほんの一瞬。それから何事もなかったように弦を撫でた。
「うーん、あたしの師匠に教わった歌でね。どこの地方のものかは知らないんだ」
嘘だ。
先ほどと同じ、一拍の間があった。あの躊躇いは、言葉を選んでいる時間だ。彼女はあの歌の出自を知っている。知っていて、隠している。
追及はしなかった。僕にその権利はない。
「悪くない歌だった」
「あ、また『悪くない』だ。シエル語で言う最大級の褒め言葉ね」
「勝手に翻訳するな」
「あはは」
リーゼは竪琴を抱えたまま笑った。その笑顔はやはり明るくて、屈託がなくて。
けれど。
さっき歌っていた時の彼女の顔を、僕は見ていた。目を閉じ、旋律に身を委ねていた時の表情。あれは、笑顔の裏にあるものだった。深い悲しみか、あるいは覚悟か。名前をつけることはできない。ただ、普段の明るさとは全く違う何かが、あの歌声の中にあった。
『彼女は何かを隠している』
それは最初から分かっていたことだ。今さら驚くことではない。
ただ、その隠されたものの重さが、思っていたよりずっと深い気がした。
〔百二十日目。五日目。彼女はまだいる。傷はほぼ塞がった。そろそろ別れる口実がなくなる。困った〕
五日目の朝。
リーゼの脇腹の傷は、驚くほどの速さで回復していた。膏薬を剥がして確認すると、縫合した傷口は綺麗に塞がりかけている。通常なら十日はかかる回復が、五日で済んでいる。
「もう走っても平気?」
「走るのはまだ早い。だが、普通に歩く分には問題ないだろう」
「よかったあ。シエルの薬、すごいね」
薬の効果だけではない気がしていた。彼女自身の回復力が異常に高い。薬師として多くの患者を診てきたが、これほどの治癒速度は見たことがない。
ただ、それを指摘するのはやめておいた。
「傷が治ったなら、もう僕と一緒にいる理由はないだろう」
「えー、そんなこと言うの?」
「最初の約束は、傷が塞がるまでだ」
「んー、でもさ」
リーゼは人差し指を唇に当てて、わざとらしく考え込んだ。
「一人より二人の方が、野営の時に安全じゃない? 見張りも交代できるし」
「僕は一人で十分だ」
「あたしは一人だと怖いなあ」
「今まで一人で旅をしていただろう」
「うん。でも、二人の方がいいなって知っちゃった」
リーゼの声は軽かった。笑いを含んだ、冗談めかした口調。なのにその言葉が妙に重く響いた。
『二人の方がいいなって知っちゃった』
それは僕自身にも刺さる言葉だった。
この五日間で、変わったことがあった。隣に人がいる生活。食事を分け合うこと。焚き火を囲んで他愛ない話をすること。朝起きた時に、もう一つの呼吸の音が聞こえること。
二年間、ずっと一人だった。
一人に慣れていたはずだった。一人でなければいけないと思っていた。僕の傍にいれば巻き込まれる。だから誰も近づけてはいけないと。
なのに。
「……好きにしろ」
口からこぼれた言葉は、思っていたものと違った。本当は「ここでお別れだ」と言うつもりだった。手帳にもそう書くつもりでいた。
「やったあ! じゃあ引き続きよろしくね、相棒!」
「相棒ではない」
「旅の仲間?」
「それも違う」
「じゃあ何?」
「……勝手についてくる迷惑な吟遊詩人だ」
「長いなあ。あだ名つけてくれたみたいで嬉しいけど」
嬉しくないはずだ。だがリーゼは本当に嬉しそうに笑った。
僕は手帳を開いて書き加えた。
〔傷はほぼ完治。しかし別れの提案は失敗した。結果として旅の同行が継続。理由は不明。いや、正直に書こう。追い出す気になれなかった。これは問題だ〕
〔百二十一日目。六日目。リーゼが朝食を作った。卵と干し肉の焼き物。美味い。手帳にこんなことを書くのは初めてだ〕
旅の日常は、いつの間にか形を成していた。
朝。僕が先に起きて火を起こし、湯を沸かす。リーゼが起きてきて、朝食の支度を始める。僕は薬草の在庫を確認し、手帳に記録をつける。
昼。街道を歩く。リーゼが喋り、僕が黙る。時折僕が道端の薬草を見つけて採取すると、リーゼが興味深そうに覗き込む。
「それ何?」
「アルニカ。打撲や筋肉痛に効く」
「きれいな花。でも毒があるんでしょ」
「学んだな」
「シエルの隣にいると覚えるよ。薬と毒は紙一重、でしょ?」
夕方。野営の準備。リーゼが薪を集め、僕が竈を組む。分担は自然にできあがった。誰が決めたわけでもない。気がつけばそうなっていた。
夜。焚き火を囲む。リーゼが竪琴を弾く。僕は手帳を書く。
その繰り返し。
穏やかで、退屈で、悪くない時間だった。
「シエルってさ、いっつもその手帳に何書いてるの?」
ある夜、リーゼが訊いてきた。
「日記のようなものだ」
「へえ。見せて」
「断る」
「ケチだなあ。あたしのこと書いてる?」
心臓が跳ねた。手帳にはリーゼに関する記述が日増しに増えていた。食事の感想。会話の内容。彼女に触れた時の呪いの変化。歌を聴いた時の痛みの緩和。あらゆることを記録していた。
『忘れないために』
それが理由だった。手帳に書かなければ、いつか消える。右目の呪いは容赦なく記憶を食い潰していく。リーゼとの旅の記憶も、いつかは。
だから書く。一文字でも多く。彼女の言葉を。彼女の笑顔を。彼女が作った料理の味を。
そのことを、彼女に言うわけにはいかなかった。
「……天候の記録と、薬草の採取場所を書いている」
「つまんないの」
「つまらなくて結構だ」
「絶対あたしのこと書いてるよね」
「書いていない」
嘘をついた。自然に。呼吸をするように。
七日目の夜。
リーゼの歌を聴くのが、習慣になりつつあった。
竪琴の音色は毎晩少しずつ違った。明るい舞曲の日もあれば、物悲しい叙事詩の日もある。その日の天気や、出来事によって選曲が変わるようだった。リーゼなりの日記なのかもしれない。
その夜、彼女はまたあの歌を歌った。初日の夜に聴いた、異国の旋律。
「その歌、気に入っているのか」
「え? ああ、うん。一番好きな歌かも」
「歌詞の意味は?」
「えっと……」
リーゼが少し考え込んだ。弦を指で軽く弾きながら。
「『銀の月が沈む夜に、旅人は丘に立つ。振り返れば故郷の灯、前を向けば星の道。どちらも遠く、どちらも近い。旅人の足は止まらない。風が名前を呼ぶから』……みたいな感じ」
「故郷を離れた旅人の歌か」
「そう。帰りたいけど帰れない人の歌」
リーゼの声が、ほんのわずかに揺れた。
気のせいかもしれない。焚き火の音に紛れるほど小さな変化。だが僕の耳は拾っていた。薬師は患者の些細な変化に敏感でなければならない。声の震え、肌の色、呼吸の乱れ。そういうものを見逃さないのが生業だ。
リーゼは、今、ほんのわずかに素の感情を覗かせた。
「帰りたい場所があるのか」
訊いてしまってから、踏み込みすぎたと思った。
リーゼは一瞬だけ黙った。それから、いつもの笑顔を取り戻した。
「んー、どうかな。あたし放浪癖あるからさ、帰る場所って感じのところ、特にないかも」
嘘だ。
けれど僕はもう指摘しなかった。
「シエルは? 帰りたい場所、ある?」
「ない」
これは嘘ではなかった。帰る場所は二年前に失った。いや、それより前か。記憶が曖昧で、正確な時期が分からない。手帳にも書いていない。書けなかったのかもしれない。
「じゃあ、二人ともおんなじだ」
リーゼは竪琴を抱えて、僕の方に少しだけ体を傾けた。
「帰る場所がない同士、もうちょっと一緒に旅しよ」
「……好きにしろ」
「あ、またそれ。シエルの『好きにしろ』は『いいよ』って意味だよね」
「違う」
「違わないって。もう解読できてるから」
彼女は笑った。
その笑顔を見ながら、僕はふと思った。この笑顔の下に、何があるのだろう。彼女が歌う時だけ見せる、あの深い感情の正体は何なのだろう。
帰れない故郷の歌を、あんな声で歌える人間は、何かを深く失っている。
確信はない。だが、直感がそう告げていた。リーゼの明るさは、本物だ。嘘ではない。けれど、それは全てでもない。明るさの裏側に、もう一つの顔がある。その顔を、彼女は誰にも見せないようにしている。
僕にできることは何もなかった。僕自身が嘘で塗り固めた人間だ。他人の仮面を剥がす資格はない。
ただ、手帳に書いた。
〔七日目。リーゼの歌はヴェルハイデ地方の民謡に似た旋律構造を持つ。確証はない。だが、もしそうだとすれば――いや、やめよう。余計な詮索は互いのためにならない〕
〔百二十三日目。八日目。町に立ち寄った際、リーゼが宿の酒場で歌った。客に大いに受けた。投げ銭で今夜の宿代が出た。初めて彼女が「役に立った」。これを書くと怒られそうだが、事実だ〕
八日目。小さな町の酒場。
リーゼが竪琴を取り出した時、酒場の空気が変わった。
最初は物珍しさで振り返った客たちが、彼女が歌い始めた途端に静まり返った。陽気な酒飲みの歌から、切ない恋の歌、滑稽な道化の歌。リーゼは聴衆の空気を読んで選曲を変え、酒場全体を自分の舞台に変えてしまった。
僕はカウンターの隅で薬湯を啜りながら、その様子を眺めていた。
舞台の上のリーゼは、普段とは違っていた。いや、普段の延長線上にいるのだが、その明るさが最大出力で発揮されていた。笑顔で客を煽り、手拍子を求め、時に客の一人を巻き込んで笑いを取る。天性の表現者だった。
だが。
一曲だけ、空気が変わった。
陽気な曲の合間に、リーゼが静かな曲を挟んだ。聴いたことのない旋律。あの夜の歌とは違うが、同じ系統の匂いがする。異国の、古い旋律。
歌詞は古語で、僕にも全ては聞き取れない。だが断片的に拾えた言葉があった。
『――銀の城、翡翠の丘、花冠の姫君――』
酒場の片隅で、年老いた旅人が目を見開いた。何かに気づいたような顔だった。だがリーゼはすぐに陽気な曲に切り替え、その違和感は酒場の喧騒に呑み込まれた。
歌い終えたリーゼは、投げ銭の入った帽子を抱えて僕のところに戻ってきた。頬が紅潮し、目が輝いている。
「見た? 今日は大入りだよ!」
「……あの歌」
「ん?」
「途中で歌った静かな曲。あれは何だ」
リーゼの笑顔が、ほんの一瞬、固まった。
「ああ、あれ? 昔覚えた子守歌みたいなもの。あんまり意味は分かんないんだけど、雰囲気がいいでしょ?」
「歌詞に『銀の城』と『翡翠の丘』があった」
「……耳がいいね、シエル」
その声のトーンには、称賛ではなく警戒が混じっていた。ほんのわずかに。普通なら気づかない程度に。
だが僕は薬師だ。患者の嘘を見抜くのは仕事の一つだ。
「あの曲を歌っている時の君は、他の曲の時と違っていた」
「……どう違ってた?」
「楽しそうじゃなかった。正確に言えば、楽しませるために歌っていなかった」
リーゼは数秒間、僕を見つめていた。翡翠の瞳が揺れている。焚き火ではなく、酒場の薄暗いランプの光が映り込んでいた。
それから、ふっと力を抜いた。
「……鋭いなあ、シエルは」
「答えになっていない」
「うん。答えない。ごめんね」
そう言って、リーゼは笑った。
だがその笑顔は、いつもの百パーセントの明るさではなかった。八十パーセントくらいの、少しだけ疲れた笑顔。
「あたしにもさ、話せないことくらいあるよ。シエルだってそうでしょ?」
返す言葉がなかった。
「お互い、秘密は秘密ってことで。ね?」
リーゼは投げ銭の帽子を掲げて、話題を変えた。
「さ、今夜は宿に泊まれるよ! あたしのおごり! ベッドで眠れるって最高じゃない?」
「……ああ」
僕はそれ以上追及しなかった。
ただ、確信が一つ深まった。リーゼの明るさは本物だ。だがそれは、何か暗いものの上に咲いている花だ。根の部分に、彼女が誰にも見せない痛みがある。
それが何なのかを、僕は知る立場にない。
僕自身が、それ以上に深い嘘の上に立っているのだから。
〔百二十四日目。九日目。宿で久しぶりにまともな睡眠を取った。隣室のリーゼは朝まで熟睡していたようだ。……嘘だ。夜中に一度、壁越しにかすかな嗚咽が聞こえた。空耳だったと信じたい。だが薬師の耳は誤魔化せない。彼女は泣いていた〕
九日目の朝。
宿の食堂でパンとスープの朝食を取りながら、僕は向かいに座るリーゼを観察していた。
彼女はいつも通りだった。よく笑い、よく喋り、パンを千切ってスープに浸しながら「このスープ、もうちょっと塩が欲しいな」と文句を言っている。目の下に隈はない。声も明るい。昨夜の嗚咽の痕跡はどこにもなかった。
完璧な仮面だ。
僕は自分の仮面の精度には自信がある。二年間、偽名で旅をしてきた。誰にも正体を気づかれていない。だがリーゼの仮面は、僕のそれとは質が違う。僕の仮面は『無表情』だ。感情を消すことで嘘を隠している。対してリーゼの仮面は『笑顔』だ。感情を上書きすることで本当の感情を隠している。
どちらがより深い嘘かは、分からない。
「シエル、今日はどっちに行くの?」
「東。街道沿いに進めば二日で次の町に着く」
「オッケー。あたしも東ね」
「……もういちいち確認しなくていい。ついてくるんだろう」
「あ、認めた! あたしたち旅の仲間だって認めたね!」
「認めていない」
「認めてる認めてる。シエル、最近ちょっと優しくなったよね」
「気のせいだ」
「気のせいじゃないって」
リーゼはにっと笑って、パンの最後の一切れを口に放り込んだ。
優しくなった、と彼女は言った。そうかもしれない。五日前なら、この朝食の席で「ここで別れよう」と切り出していたはずだ。今はその言葉が出てこない。出そうとしても、喉の手前で止まる。
これは危険な兆候だった。
人に慣れてはいけない。人と繋がってはいけない。繋がれば失う時に壊れる。僕が力を使えば、彼女との記憶が消える。いつか彼女の顔も名前も思い出せなくなる日が来る。その時に、繋がりが深ければ深いほど、失うものは大きい。
だから。
『だから、離れるべきだ』
頭では分かっている。分かっているのに、足が動かない。あの嵐の夜と同じだ。立ち去る方向にも、近づく方向にも動けなくて、結局ここにいる。
リーゼが席を立った。
「さ、出発しよ! いい天気だし、今日は気持ちよく歩けそう」
窓の外には、久しぶりの青空が広がっていた。
町を出て、しばらく歩いた。
街道は緩やかな丘陵地帯を縫うように伸びている。麦畑が両側に広がり、風が穂を揺らしていた。穏やかな景色だ。こんな日に嫌なことは起きないと、楽観的な人間なら思うだろう。
僕は楽観的な人間ではない。
最初に気づいたのは、街道を行く旅人の数が減ったことだった。朝は何人かとすれ違ったが、昼を過ぎてからほとんど見かけなくなった。代わりに、東から来る荷馬車が何台か通り過ぎた。いずれも急いでいる様子だった。
「なんか、人少なくない?」
リーゼも気づいたようだった。
「ああ。東から人が戻ってきている」
「何かあったのかな」
次にすれ違った旅商人を呼び止めて訊いた。
「ああ、東の街道は気をつけな。審問官が来てるって話だよ」
「審問官?」
「聖廟教会の。何でもこの辺りに無認可の紋章士が潜んでいるとかで、街道の検問をやってるらしい。面倒に巻き込まれたくなきゃ、迂回した方がいい」
旅商人は忠告だけ残して、足早に西へ去っていった。
僕の背筋を冷たいものが走った。
審問官。教会の執行部隊。異端者と無認可の紋章士を狩る、聖廟教会の剣。
右目の呪いが、一際強く疼いた。眼帯の下で、呪眼が脈打っている。まるで敵の気配を感知したかのように。
「シエル? 顔色悪いよ」
「……問題ない」
「嘘。眼帯のところ、押さえてる」
指摘されて、自分の右手が眼帯に触れていることに気づいた。すぐに手を下ろした。
「持病みたいなものだ。心配いらない」
「んー……」
リーゼは納得していない顔だったが、それ以上は追及しなかった。代わりに、道の先を見据えた。
「迂回する?」
「……そうだな。南に逸れて、丘陵を越えるルートがある。半日余分にかかるが、検問は避けられる」
「了解。シエルに任せるよ」
僕たちは街道を逸れ、南の丘陵に向かった。
リーゼは何も訊かなかった。なぜ僕が審問官を避けたいのか。教会の検問を恐れる理由は何か。普通なら疑問に思うはずだ。無認可の紋章士でもない限り、審問官を恐れる理由はない。
だが彼女は訊かなかった。
『お互い、秘密は秘密ってことで』
あの言葉が蘇った。リーゼもまた、審問官の話を聞いた時に表情が変わっていた。ほんの一瞬だけ、笑顔の裏に硬い光が走った。
彼女も、教会を避けたい理由がある。
嘘つきの薬師と、何かを隠す吟遊詩人。偽名の旅人が二人、街道を逸れて丘を登る。滑稽な構図だ。互いの本当を何も知らないまま、同じ方向を歩いている。
南の丘を越える道は、獣道に近かった。
リーゼは文句一つ言わずについてきた。足元が悪い箇所では黙って手を差し出すと、彼女はためらわずにその手を握った。指先が触れるたびに、右目の痛みが和らぐ。その事実を、僕は手帳には書いても、口にはしなかった。
丘の頂に差しかかった時、リーゼが足を止めた。
「シエル、見て」
振り返ると、彼女は東の方角を指差していた。
丘の上からは街道が一望できた。緩やかにうねる道の遠く、陽炎の向こうに、何かが見えた。
旗だった。
白地に金の聖杯。聖廟教会の紋章。そしてその下に掲げられた、もう一つの旗。赤地に銀の天秤。
審問官の旗だ。
遠目にも分かる。街道に検問所が設けられている。数十の人影。馬。荷車。そして、甲冑の光。
ただの検問にしては規模が大きかった。
「……あれ、結構な数いるね」
リーゼの声は平静を装っていたが、指先が微かに震えていた。
僕は目を細めた。眼帯の下で呪眼が疼く。使えばあの検問所の全てが見える。兵の数、紋章の構成、指揮官の等級まで。だが使わない。使えば記憶を失う。
代わりに、薬師の目で観察した。旗の数から推測される兵力。甲冑の反射具合から判断する装備の質。そして、あの規模の検問を敷く理由。
無認可の紋章士一人を追うにしては、大掛かりすぎる。
「迂回して正解だった」
僕は短く言って、丘を下り始めた。
「シエル」
リーゼが呼び止めた。振り返ると、彼女はまだ東を見ていた。審問官の旗を。その翡翠の瞳に映るものが何なのか、僕には読み取れなかった。
恐怖か。怒りか。それとも。
「……行こう、リーゼ」
「……うん」
彼女は笑顔を作って、僕の後を追った。
だがその笑顔が、いつもより少しだけ薄かったことを、僕は見逃さなかった。
〔百二十四日目。追記。東の街道に聖廟教会の審問官。規模は中隊以上。無認可紋章士の捜索名目だが、真の目的は不明。南の丘陵経由で迂回した。リーゼは審問官の旗を見た時、五秒間、笑うのを忘れていた。彼女が笑顔を落としたのは、僕が知る限り初めてだ〕
── リーゼ side ──
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
丘を越えた先の小さな窪地。南に迂回したせいで野営になったけれど、風を遮る地形はありがたかった。星が見える。雲はもうほとんどない。
シエルは毛布にくるまって眠っている。
あの人は寝つきがいい。というより、起きている間に全てを使い果たしているから、横になった途端に電池が切れるみたいに落ちる。不器用な人だと思う。起きている間はあんなに警戒して、壁を作って、一人で全部を抱え込もうとするのに。眠っている顔は無防備で、年相応で、少しだけ——苦しそうだ。
右目の眼帯。その下で何かが脈打っているのを、あたしは知っている。時折こめかみを押さえる仕草。声に出さない痛み。薬師を名乗りながら、自分の薬では治せないものを抱えている。
あたしがそばにいると、少しだけ楽になるみたいだった。根拠はない。ただ、あたしが近くにいる時の方が、あの人の眉間の皺が薄い。
薄々、気づいている。あたしの中にある力が——あの人の痛みを和らげているのだと。
でも、それだけじゃない。それだけが、あの人を追いかけた理由じゃない。
焚き火に小枝をくべた。炎が揺れて、シエルの顔を照らす。黒い髪。白い肌。右目を覆う眼帯。薬草の匂い。
薬草の、匂い。
——あの夜も、この匂いがした。
五年前。あたしはまだ十四歳だった。
城が燃えていた。ヴェルハイデの誇りだった銀の城壁が赤く染まり、城下町の家々が次々と炎に呑まれていった。聖廟教会の「聖戦」。異端の浄化という名の、虐殺。
お父様は城に残った。お母様も、お姉様も。「逃げなさい、エリザヴェータ」と言ったお母様の声を、あたしは今でも覚えている。覚えているのに、顔がぼやける時がある。五年という時間が、記憶の輪郭を少しずつ溶かしていく。
城下町の裏路地を走った。レイヴンが道を切り開いてくれたけれど、途中ではぐれた。一人で、煙と悲鳴の中を走った。足が何度ももつれた。転んで膝を擦りむいた。
行き止まりの路地で、兵士に追い詰められた。
教会の白い甲冑。聖杯の紋章。剣を抜いた兵士の顔は、炎に照らされて影だけだった。あたしは壁に背をつけて、動けなかった。声も出なかった。
その時だった。
兵士が、突然崩れ落ちた。
意識を失ったように、糸が切れたように。その背後に、一人の少年が立っていた。
黒い法衣。教会の者だった。でも、兵士とは違った。年は——あたしより少し上くらい。右目に包帯を巻いていて、その包帯の下から、赤い光がかすかに漏れていた。
少年はあたしの手を引いて走った。燃える町の中を、裏路地を縫うように。あたしの手を引く指は細くて、骨ばっていて。そして——薬草の匂いがした。煙と血の匂いに混じって、確かに、薬草の匂い。
安全な場所まで導いてくれた少年は、突然、右目を押さえてよろめいた。
包帯の下で何かが起きていた。少年は膝をつき、苦しそうに呼吸を乱して。
あたしは動けなかった。助けなきゃと思ったのに、足が震えて。
少年は片膝をついたまま、あたしを見上げた。右目を押さえた手の隙間から、わずかに赤い光が漏れていた。それなのに、声は穏やかだった。
「……大丈夫。君は、逃げていい」
逃げていい、と。
あたしを助けたせいで苦しんでいるのに。教会の人間なのに。敵のはずなのに。
あたしが何か言おうとした時、背後からレイヴンの声がした。「姫様!」という叫び。レイヴンに腕を引かれて、あたしはあの路地から走り去った。
振り返った。一度だけ。
少年は倒れていた。路地の石畳の上に、黒い法衣を広げて。動いているのかどうか、分からなかった。
――あの少年がどうなったのか、あたしは知らない。
生きていたのか。死んだのか。教会の人間だったなら、助けられたのかもしれない。でも、あの苦しみ方は——あの右目から漏れていた光は——。
五年間、ずっと考えていた。
『銀の月が沈む夜に、旅人は丘に立つ——』
口の中で、歌が零れた。お母様が教えてくれた、ヴェルハイデの民謡。帰れない場所を想う歌。あたしにとっては、あの夜を忘れないための歌。
焚き火の向こうで、シエルが寝返りを打った。
あたしは、その顔を見つめた。
右目の眼帯。穏やかな声。薬草の匂い。
初めて目が覚めた時——あの嵐の夜、石橋の下で。あの人の顔を見た瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。眼帯。薬草の匂い。それから、あたしの傷を手当てしてくれた手の感触。
似ている。
あの夜の少年と。
五年の歳月が流れている。少年は成長しているだろう。顔の輪郭も変わっているはず。声も低くなっているだろう。包帯は眼帯に変わったかもしれない。
でも、匂いは——人の匂いは、そう簡単に変わらない。薬草の匂いが染みついた指先。あの少年の手からも、同じ匂いがした。
確証はない。あの夜は煙と恐怖で頭がまともに働いていなかった。顔もろくに見ていない。声だって、たった一言しか聞いていない。
でも。
もし、シエルが「あの人」だとしたら。
あたしは、五年分の恩を返せるかもしれない。あの夜、あたしの代わりに苦しんでくれた人に。あたしを逃がしてくれた人に。あの路地で倒れたまま、あたしが置き去りにしてしまった人に。
だから追いかけた。傷が開くかもしれないと分かっていて。理屈じゃなかった。宿のベッドで天井を見つめていたら、体が勝手に動いた。あの人が遠くなっていく。それだけで、胸の奥が締めつけられた。
あたしは膝を抱えた。
焚き火が小さくなっていく。星が静かに瞬いている。虫の声が夜を埋めている。
シエルの寝息が、かすかに聞こえる。
独りの時だけ、出てしまう言葉がある。あたしの奥底に沈んでいる、もうひとりのあたし。お母様やお姉様の前では当たり前だった、あの話し方。
小さく、呟いた。
「……もし貴方が、あの時の人だとしたら」
声は焚き火の音にかき消されるほど小さかった。シエルには届かない。届かなくていい。
「今度は、わたくしが貴方を守りますから」
『——振り返れば故郷の灯、前を向けば星の道』
心の中で、歌の一節が鳴った。
前を向こう。振り返るのは、歌の中だけでいい。
ふっと、肩の力が抜けた。エリザヴェータの声が引き潮のように遠ざかって、いつものあたしが戻ってくる。
あたしは顔を上げた。涙の跡を手の甲で拭って、唇を引き結んで、それからゆっくりと口元を緩めた。
シエルの方を見た。眠っている横顔。眉間の皺は、さっきより少しだけ薄くなっている気がした。
軽く微笑んだ。誰に見せるためでもない、自分のための笑顔。
「——おやすみ、シエル」
焚き火に最後の薪をくべて、あたしも毛布にくるまった。
明日も、隣を歩こう。