〔新しい旅の七十三日目。天気は晴れ。昨日通った峠道で薬草を採取した。竜胆草と白芷。乾燥させれば解熱剤の材料になる。ミラが薬草の名前を三つ覚えた。呑み込みが早い。リーゼは相変わらず竜胆草と車前草の区別がつかない〕
秋の陽射しは夏のそれとは違う。力強さの代わりに、柔らかな温もりがある。
街道を歩きながら、僕はそんなことを考えていた。頬に当たる風が心地いい。木の葉が黄色く色づき始めた並木道を、三人で歩いている。
「シエル、お腹すいた」
右隣からミラの声。黒い髪を二つに結んだ女の子が、僕の外套の裾を引っ張っている。
「さっき干し肉を食べたばかりだろう」
「あれはおやつ。ごはんは別」
「その理屈は通らないと思うけど」
「通る。わたし育ち盛りだもん」
「お兄ちゃんが言い負けてる」
左隣からリーゼの笑い声。蜂蜜色の髪が秋風に揺れている。背中の竪琴が歩くたびに小さく鳴る。
「次の町まであとどれくらい?」
「手帳を見ないとわからない。……ええと、昨日の記録では——」
手帳をめくる。昨日の自分の字。
〔次の町ヴィルシュタインまで街道を西に半日。宿は三軒。リーゼの情報では南端の宿が一番安い。ただし前回の「一番安い宿」は壁に穴が開いていたので注意〕
「半日だって。昼過ぎには着けるよ」
「よし。じゃあお昼は町で食べよう! あたし、ここの名物調べてあるんだ。川魚の香草焼きが美味しいらしいよ」
「リーゼの『美味しいらしい』は信用していいのか」
「失礼な! 前の町の羊肉のシチュー、美味しかったでしょ!」
「……あれは美味しかった。認める」
「でしょ!」
リーゼが得意そうに胸を張った。
ミラが僕の手を引いた。
「わたし、お魚好き。いっぱい食べていい?」
「いいよ。たくさん食べな」
「やった!」
ミラが小さく飛び跳ねた。
三人で歩く街道。秋の並木道。黄色い葉が風に舞って、陽光の中できらきらと光る。
穏やかだ。
「前の僕」もこんな風に歩いていたのだろうか。手帳を読む限りでは、そうだったらしい。リーゼと二人で街道を歩き、他愛ない会話を交わし、日が暮れたら野営をして、彼女の歌を聴きながら眠った。
その記憶は、もうない。
手帳の中の記録として知っているだけだ。文字の向こうに、かつての自分がいたことは理解できる。でもそれは写真を見て「この人は自分だ」と頭で理解するのに似ている。実感がない。
「前の僕」と「今の僕」は、たぶん違う人間だ。
同じ体を持ち、同じ目を持ち、同じ名前を名乗っている。でも記憶が違う。手帳に書かれた過去の自分の感情を読んでも、同じように感じられないことがある。逆に、手帳に書かれていない新しい感情を覚えることもある。
でも一つだけ、変わらないものがある。
隣を歩くこの人を大切に思う気持ちだけは、「前の僕」と「今の僕」で寸分も違わない。
それは記憶の核が守ってくれたものだ。感情の根。焼け落ちた木の、最後の根。
そこから新しい芽が出ている。
七十三日分の新しい記憶。リーゼの笑い声。ミラのわがまま。三人で食べた食事。三人で見た夕焼け。三人で眠った夜。
全部、僕の記憶だ。
「前の僕」のものではない。「今の僕」の、新しい記憶だ。
ヴィルシュタインは小さな町だった。
川沿いに広がる穏やかな町で、石造りの家々が夕日に染まっていた。リーゼが調べていた南端の宿は、壁に穴は開いていなかった。小さいが清潔で、窓から川が見えた。
「今回は当たりだね」
「あたしの情報収集力を見直した?」
「壁に穴が開いていない時点で前回より上だからね」
「それハードル低すぎない!?」
夕食は町の食堂で川魚の香草焼きを食べた。
リーゼの情報は正しかった。焼きたての魚に刻んだ香草をたっぷり載せて、レモンを絞る。皮がぱりっとして、身はふっくらしている。
「美味しい!」
ミラが目を輝かせている。
「うん。これは当たりだ」
「でしょ! あたしの舌は信用してよね!」
リーゼが得意げにフォークを振る。
僕は魚を一口食べて、頷いた。
「……ああ。美味しい」
「シエルって、美味しいものに対するリアクション薄いよね。もっとこう、感動してよ」
「している。内心で」
「内心で感動されてもわかんないでしょ!」
ミラが笑った。リーゼもつられて笑った。
食堂のランプの光が三人の顔を照らしている。テーブルの上には香草焼きの皿と、パンと、野菜のスープ。
温かい食事。温かい光。温かい笑い声。
手帳の記録によると、「前の僕」もこういう時間を過ごしていたらしい。旅の途中の食事。リーゼが選んだ店で、他愛ない話をしながら食べる。
記憶はない。でも、この時間が好きだということだけはわかる。
リーゼが追加でスープを注文した。
「シエル、味見して。ちょっとしょっぱくない?」
スプーンを差し出された。一口飲む。
「……結構しょっぱいな」
「だよね!? あたし、塩加減には敏感なんだから」
「君の料理も大概塩辛いけど」
「えっ!? そうなの!?」
「ミラ、どう思う?」
「……リーゼお姉ちゃんのスープ、しょっぱいけど美味しい」
「ミラちゃん! フォローになってない!」
リーゼが頬を膨らませた。
僕は笑った。
手帳にこの場面を書こう、と思った。七十三日目の食事。川魚の香草焼き。美味しかった。リーゼのスープは相変わらず塩辛い。ミラは正直だ。
こうやって、新しい記憶を一つずつ積み上げていく。
失った分を取り戻すのではなく。新しいものを、作っていく。
食事の後、宿の部屋に戻った。
ミラは食事で満足して、ベッドに潜り込むなり眠ってしまった。小さな寝息が規則的に聞こえる。
リーゼが窓辺に椅子を引き寄せ、竪琴を膝に乗せた。
「一曲、弾いていい?」
「好きにすればいい」
「その返事、変わらないね。記憶なくしても」
「こういう言い方が癖なのかもしれない」
「癖っていうか、性格でしょ」
リーゼが弦に指を置いた。
最初のひと撫で。澄んだ音が部屋に広がった。
旋律が始まった。
聞いたことのない曲だった。いや——「今の僕」にとっては聞いたことがない。でも手帳には書いてある。彼女が何度も歌ってくれた曲。ヴェルハイデの民謡。故郷の歌。
リーゼが歌い始めた。
異国の言葉。ヴェルハイデ語だろう。意味はわからない。でも旋律が胸に沁みた。
哀しい歌だった。
同時に、温かい歌だった。
失われたものへの哀悼と、残されたものへの祈りが、一つの旋律の中に溶け合っている。
涙が出た。
なぜ泣いているのかわからない。初めて聴く曲のはずなのに。「今の僕」にとっては初めてのはずなのに。
でも体が覚えている。この旋律を聴いた時の感覚を。誰かの傍で、焚き火の傍で、星の下で。何度も何度も聴いた。その記憶はもうない。でも、旋律に込められた感情だけが、体の奥底に残っている。
リーゼの歌声が、窓から入る月光に溶けていく。
歌が終わった。
余韻が部屋に残った。弦の振動が消えるまでの長い静寂。
「……泣いてる」
リーゼが僕の顔を見て、小さく笑った。
「初めて聴いたはずなのにね」
「初めてじゃない気がする。体のどこかが、覚えてる」
「そっか」
リーゼは竪琴を椅子に立てかけ、僕の隣に来た。ベッドの端に腰を下ろす。
「この歌はね、ヴェルハイデの子守歌なの。お母さんが子供に歌う歌。あたしも小さい頃、母上に歌ってもらった」
「……いい歌だ」
「でしょ」
リーゼは窓の外の月を見ている。
「ヴェルハイデはもうないけど。歌は残ってる。あたしが歌えば、歌は消えない」
記憶はなくても、歌は消えない。
それは僕たちにも言えることなのかもしれない。
月が高く昇った。
ミラの寝息が穏やかに続いている。
僕は手帳を開いた。今日の記録を書く。
〔新しい旅の七十三日目。ヴィルシュタインに到着。川魚の香草焼きが美味しかった。リーゼの情報は正しかった(今回は)。ミラが魚を三切れ食べた。リーゼが歌った。ヴェルハイデの子守歌。初めて聴くのに涙が出た。体が覚えている。記憶はなくても、感情は消えない。隣には彼女がいる。名前は——〕
名前。
ペンが止まった。
シエルとリーゼ。偽りの名前。
ルシアンとエリザヴェータ。本当の名前。
僕たちは今もシエルとリーゼを名乗っている。旅の中では。宿の帳簿にはシエルと書き、リーゼと書く。偽名はまだ生きている。
でもそれは、もう嘘を重ねるためじゃない。
シエルという名前で出会い、シエルという名前で旅をした。その旅は僕の記憶からは消えたけれど、手帳の中に、そして彼女の記憶の中に残っている。
シエルは偽名だ。でも偽りの名前で過ごした時間は本物だった。
だから、シエルもまた僕の名前なのだ。
そして——ルシアンも。
二つの名前を持つ男。嘘と本当の境界に立つ男。
でも、もういい。
どちらも僕だ。
「ねえ」
リーゼの声が聞こえた。
振り返ると、彼女が立っていた。月光を背に。蜂蜜色の髪が銀色に光っている。
翡翠の瞳が、真っ直ぐに僕を見ている。
何かを決意した目だった。
「シエル——ううん」
彼女が一歩、近づいた。
「——ルシアン」
本当の名前で呼ばれた。
胸の奥で、何かが震えた。
「……ん?」
「はじめまして」
リーゼが——エリザヴェータが、笑った。
泣いてもいない。怒ってもいない。ただ、真っ直ぐに笑っている。
月光の中で。静かな夜に。眠る子供の傍で。
はじめまして、と彼女は言った。
嘘で始まった旅。偽名で出会った二人。互いの正体を隠して、嘘を重ねて、傷つけ合って、それでも離れられなくて。
嘘を超えて、ここにいる。
本当の名前で、向き合っている。
僕は手帳を閉じた。
立ち上がった。
彼女の前に立った。
月明かりが二人の間に落ちている。
「……ああ」
僕は笑った。
記憶のない笑顔。新しい笑顔。
でも、きっと「前の僕」も同じように笑っただろう。この人の前では。
「はじめまして、エリザヴェータ」

彼女の翡翠の瞳から、一粒だけ涙がこぼれた。
でも笑顔だった。
今まで見たどんな笑顔より――美しかった。
嵐の夜に出会った。嘘の名前で。
月の夜に出会い直した。本当の名前で。
最初で最後の「はじめまして」が、静かな部屋に染みていった。
〔新しい旅の七十三日目。追記。隣には彼女がいる。名前はエリザヴェータ。僕の名前はルシアン。はじめまして、と言った。はじめまして、と言われた。嘘から始まった旅が、本当の名前にたどり着いた。明日からも旅は続く。どこへ行くかはわからない。でも、隣にこの人がいる。それだけで――十分だ〕
── リーゼ side ──
「前のシエル」と「今のシエル」は、同じようで少し違う。
たとえば、料理の好みが変わった。以前は塩味が好きで、あたしのスープにもっと塩を入れろとうるさかった。あたしが味見して「ちょうどいいでしょ」と言い張っても、自分で塩を足していた。
今のシエルは、薄味を好む。
あたしのスープをそのまま飲んで、「ちょうどいい」と言う。
最初は少しだけ寂しかった。あの塩加減のやりとりが、あたしたちの日常だったから。忘れたことを気づかないふりをして、次の日にこっそり薄味に直して。あのすれ違いが、あたしは好きだった。
でも今は——塩を足さないシエルのことも、好きだ。
根っこは変わらない。手帳に全部書く癖。薬草を見つけた時の目の輝き方。困っている人を放っておけないところ。ミラの頭を撫でる手つき。
そして——あたしの竪琴を聴く時の、静かな横顔。
変わったところも、変わらないところも、全部好きだよ。
言葉にはしない。恥ずかしいから。でも、心の中では何度も言っている。
*
七十三日。新しい旅が始まって、七十三日が経った。
もう「覚えている」「忘れた」で悩まなくていい。
だって、二人とも同じスタートラインに立っているから。
シエルにとっては全てが初めて。あたしにとっても——「今のシエル」と一緒に見るものは、全部初めて。同じ道を歩いても、以前とは違う景色に見える。
初めて行く町。初めて食べる川魚。初めて見る秋の並木道。
全部、二人の「初めて」になる。
前の旅では、あたしはいつもどこかで怯えていた。シエルがまた忘れるんじゃないかって。昨日の記憶が今日には消えているんじゃないかって。
今は、それがない。
シエルは毎晩手帳に書く。今日あったこと。食べたもの。あたしが言ったこと。ミラが笑ったこと。全部、丁寧に。
翌朝、シエルはその手帳を読み返す。それから顔を上げて、あたしを見る。
「おはよう、リーゼ」
覚えている。昨日のことを。あたしの名前を。
その「おはよう」が聞けるだけで、あたしは一日分の勇気をもらえる。
*
ヴィルシュタインの宿の窓辺で竪琴を弾いた夜。
シエルが泣いた。
初めて聴いたはずの歌で泣いてくれた。体が覚えている、と。
あたしは嬉しかった。嬉しくて、もう少しで自分も泣きそうだった。でも堪えた。泣いたら歌えなくなるから。
歌い終わって、竪琴を椅子に立てかけて。シエルの隣に座った。
月が綺麗だった。ミラが安らかに眠っていた。静かな夜だった。
あたしは、決めた。
今夜、言おう。
「ルシアン」
シエルの本当の名前を、呼んだ。
声が震えた。少しだけ。
五年間、この名前を知らなかった。あの夜の少年の名前を、あたしは知らないまま生きてきた。「あの人」「あの少年」——名前のない記憶。名前のない恩人。
シエルと出会ってからも、しばらくは知らなかった。セラが「ルシアン」と呼んだ声を盗み聞きするまで。
シエルは——ルシアンは、あたしの名前を知らないまま何度もあたしを守った。あたしがエリザヴェータだと知らないまま、嵐の夜に手当てをしてくれた。偽名のまま、一緒に旅をしてくれた。
そして今——。
「はじめまして」
シエルの目が揺れた。
月明かりの中で、あたしたちは向き合った。嘘の名前で出会った二人が、本当の名前で向き合った。
シエルが笑った。記憶のない、新しい笑顔。でも温かさは同じだった。「前のシエル」と「今のシエル」で、笑顔の温度だけは変わらない。
「はじめまして、エリザヴェータ」
あたしの本当の名前。
五年間、誰にも呼ばれなかった名前。レイヴンは「姫」と呼んだ。ノクスは「リーゼ」と呼んだ。シエルも「リーゼ」と呼んだ。
誰も「エリザヴェータ」とは呼ばなかった。
お母様が最後にそう呼んでくれてから、五年。
今、この人が呼んでくれた。
涙が一粒だけこぼれた。一粒だけ。それ以上は流さなかった。泣きたいんじゃない。嬉しいだけだ。嬉し涙は一粒でいい。
これが、あたしたちの本当の始まり。
嘘の名前で始まった旅が、本当の名前にたどり着いた。
シエルが手帳を閉じて立ち上がって、あたしの前に立った時。月明かりがあの人の顔を照らしていた。包帯の跡が残る手。記憶を失った目。でも、あたしを見つめる瞳の奥に、あの夜と同じ光があった。
五年前、暗い路地で。「大丈夫。君は、逃げていい」と言ってくれた、あの光。
あたしはもう逃げない。
逃げなくていい場所を、見つけたから。
*
シエルが眠った後、あたしは窓辺でそっと歌を口ずさんだ。
『銀の月が沈む夜に、旅人は丘に立つ——』
この歌はずっと、祈りだった。帰れない故郷を想う歌。失くしたものを数える歌。
でも今夜は、違う。
『振り返れば故郷の灯、前を向けば星の道——』
前を向けば、星の道。
あたしの前には道がある。隣にはシエルがいる。ミラがいる。明日も歩く。明後日も歩く。どこへ行くかはわからないけれど、それでいい。
『——どちらも遠く、どちらも近い。旅人の足は止まらない。風が名前を呼ぶから』
風が、名前を呼ぶ。
本当の名前で。
歌い終えて、窓を閉めた。月が静かに光っている。シエルの寝息。ミラの寝息。二つの寝息が、あたしの世界の全部だ。
——ただいま。
声には出さなかった。心の中で、一度だけ。
帰る場所ができた。それが、一番うれしい。