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第十六章

その嘘は、世界よりやさしい


 最初に感じたのは、光だった。

 瞼の裏に差し込む、柔らかな光。冷たくもなく、痛くもない。ただ、そこにあるだけの光。

 次に感じたのは、匂いだった。干した薬草の匂い。それと、微かに甘い、花のような匂い。どちらも知らない匂いだった。知らないはずなのに、嫌ではなかった。

 体が重い。

 指先を動かそうとした。かろうじて動いた。柔らかい布に触れている。シーツだ。ベッドに横たわっている。

 目を開けた。

 視界がぼやけていた。天井の木目が二重に見えて、ゆっくりと一つに収束していく。白っぽい壁。小さな窓から陽光が差し込んでいる。

 どこだ、ここは。

 わからない。

 自分がどこにいるのかわからない。

 名前は――

 自分の名前は――

 長い沈黙。頭の中を手探りで漁るような感覚。暗闇の中に何かの輪郭がぼんやりと浮かぶ。でも掴めない。指の間をすり抜ける。

 シエル。

 その名前が浮かんだ。自分の名前だという感覚がある。でも確信がない。本当に自分の名前なのかもわからない。

 もう一つ。ルシアン。

 こちらも自分の名前だ。二つの名前。どちらが本当で、どちらが偽りなのか――

 わからない。何も覚えていない。

 体を動かそうとして、右半身に鈍い痛みが走った。包帯が巻かれているのが感触でわかる。肩にも、脇腹にも。

 何があったのだろう。

 頭の中に、断片的な映像が閃いた。青白い光。崩れ落ちる水晶。金色の輝き。悲鳴。歌声。

 何も繋がらない。バラバラのガラスの破片のように、意味を成さない映像が散らばっている。

 視線を動かした。

 ベッドの左側に、椅子があった。

 椅子に、女性が座っていた。

 座ったまま眠っている。上半身をベッドの縁に預けるようにして、顔を腕に埋めている。蜂蜜色の髪がシーツの上に広がっている。

 僕はその髪を見た。

 胸の奥で、何かが動いた。

 名前は出てこない。誰なのかもわからない。記憶がない。何一つ覚えていない。

空白の目

 なのに。

 涙が出ていた。

 自分でも気づかないうちに、頬を涙が伝っていた。一筋、二筋、やがて止まらなくなった。

 なぜ泣いているのかわからない。悲しいのかもわからない。でも胸の奥から込み上げてくるものが止められなかった。

 この人を知っている。

 名前も、顔も、何も覚えていない。でもこの人が大切な人だということだけは、体の奥が覚えている。

 涙がシーツに落ちた音で、彼女が目を覚ました。


 翡翠の瞳が、ゆっくりとこちらを向いた。

 寝起きの瞬間の、ぼんやりとした目。それがシーツの上の水滴を見て、僕の顔を見て――大きく見開かれた。

「シエルっ——」

 彼女が椅子から弾かれるように立ち上がった。両手が僕の顔を挟んだ。小さな手。温かい手。

「起きたの!? 目が——目が開いてる——」

 彼女の目も潤んでいた。涙が溢れて、頬を伝っている。でも笑っている。泣きながら笑っている。

「三日……三日も眠ってた……。ばか、ばかシエル、もう起きないかと思った——」

 三日。

 僕は三日間眠っていたらしい。

 彼女の手が僕の頬を撫でた。涙を拭うように。

 その感触が――どこまでも温かかった。

 彼女が少しだけ動きを止めた。僕の目を見ている。

「……おはよう。覚えてる?」

 静かな声だった。恐る恐る、という言い方が合っている。何かを確かめるような。答えを聞くのが怖いような。

 僕は口を開いた。

 喉がからからに乾いている。声が掠れた。

「……わからない」

 彼女の手が微かに震えた。

「何も思い出せない。名前も……自分の名前すら曖昧だ。ここがどこかもわからない。何があったのかも」

 言葉を紡ぐたびに、彼女の目から新しい涙がこぼれた。でも笑顔は崩さなかった。崩さないように、必死に。

「でも」

 僕は続けた。

「君が大切な人だということだけは、わかる」

 彼女の笑顔が崩れた。

 堪えきれなかったのだろう。両手で顔を覆い、椅子に崩れ落ちた。嗚咽が漏れた。小さな肩が震えている。

「……ばか」

 掠れた声が、手のひらの隙間から漏れた。

「ばか。ばか、シエル。あたし……あたし、全部忘れられたと思って……」

「ごめん」

 何に対して謝っているのか、自分でもわからなかった。でも、謝りたかった。彼女を泣かせていることが、どうしようもなく申し訳なかった。

 しばらく、彼女は泣いていた。

 僕はベッドの上で動けないまま、ただ彼女の泣き声を聞いていた。窓の外から小鳥の声が聞こえる。遠くで馬車の車輪が石畳を転がる音。穏やかな朝だった。

 やがて彼女は顔を上げた。目が赤い。鼻も赤い。でも、もう笑っていた。

「……ちょっと待ってて」

 彼女は部屋の隅の棚から水差しを持ってきて、カップに注いだ。

「はい。飲んで。三日も寝てたんだから、脱水してるよ」

 体を起こすのを手伝ってくれた。カップを受け取り、水を飲んだ。冷たい水が喉を潤す。体中に染み渡る感覚。

「……ありがとう」

「お礼はいい。それより——」

 彼女は僕の目を覗き込んだ。右目を。

「右目、見えてる?」

 右目。

 意識を向けてみた。左目は視界がある。少しぼやけているが、見えている。右目は――

「……見える。でも、左目と違う」

「違う?」

「色が薄い。右目だけ、少し色が褪せて見える」

 彼女は複雑な表情をした。安堵と、心配が混ざった顔。

「呪眼の後遺症かも……。でも見えてるなら、よかった」

 呪眼。

 その言葉に、微かな反応があった。頭の奥で、何かが引っかかる感覚。知っている言葉だ。自分に関係がある言葉だ。でも、詳しいことは思い出せない。

「あのね、シエル」

 彼女が僕の手を取った。両手で包むように。

「あたしがこれから話すことを、ゆっくり聞いて。無理に思い出そうとしなくていい。全部、あたしが教えるから」


 彼女はゆっくりと話してくれた。

 僕の名前のこと。シエルという偽名と、ルシアンという本名のこと。右目の呪眼のこと。薬師として旅をしていたこと。

 彼女の名前はリーゼ。本名はエリザヴェータ。滅ぼされた王国の王女。聖女。

 僕たちが出会ったこと。嘘の名前で旅を始めたこと。互いの正体を隠していたこと。

 教会のこと。アベラールのこと。聖女牧場のこと。最終決戦のこと。

 全て、知らない話だった。

 他人の物語を聞いているようだった。でも、ところどころで胸が締め付けられた。彼女が語る場面に、感情だけが反応する。涙が出そうになったり、胸が温かくなったり、苦しくなったり。

 記憶はない。でも感情が覚えている。

「最後にね、シエルが呪眼を全力で使って装置を壊した時、あたしも浄化の力を使ったの」

 リーゼが僕の手を握ったまま、静かに言った。

「シエルの記憶が全部消えるのを……止めたかった。全部は無理だった。でも、あたしの浄化が最後の瞬間にシエルの記憶の……核みたいなものを守ったって、ノクスが言ってた」

「核」

「うん。全部の記憶は失った。でも、感情の記憶——誰かを大切に思う気持ちだけは残ってるって。だからシエルは、あたしの顔を見て泣いたんだと思う」

 なるほど。そういうことだったのか。

 名前も、顔も、出来事も、全て消えた。でも彼女を大切だと感じる気持ちだけが残っている。それは記憶ではなく、感情の痕跡。

 それを守ったのは、彼女の浄化の力だった。

「……君が、守ってくれたのか」

「ううん。シエルが自分で守ったんだよ。あたしは手伝っただけ。シエルが最後に言ったでしょ。『忘れても、君のことだけは忘れない』って。嘘つきのくせに——あれだけは、嘘じゃなかった」

 リーゼが笑った。泣き笑いだった。

「あのね、これ」

 彼女が棚の上から一冊の手帳を取って、僕に渡した。

 使い込まれた革の表紙。角が擦り切れている。開くと、細かい字がびっしりと書き込まれていた。

「シエルの手帳。忘れないように、全部書いてた。過去の自分の記録」

 最初のページから読んだ。

 〔百十二日目。右目の痛みが増している。鎮痛の調合を変えた——〕

 自分の字だ。見覚えはない。でも、自分の字だという確信がある。

 ページをめくる。

 リーゼとの出会いの記録。嵐の夜。石橋の下。傷の手当て。痛みが消えた驚き。

 〔百十三日目。嵐の夜、街道で行き倒れの女性を拾った。吟遊詩人。名前はリーゼ。脇腹に剣傷。処置済み。――追記。彼女に触れている間、呪いの痛みが鎮まった〕

 読みながら、輪郭が戻ってくる感覚があった。

 完全には思い出せない。映像がないのだ。文字から再構成される情報でしかない。でも、感情が反応する。この場面を生きた自分がいたことを、胸の奥が認めている。

 ページをめくった。旅の記録が続く。

 〔百二十日目。リーゼが市場で竪琴の弦を買った。古い弦と張り替える作業を見ていた。指先が器用だ。聞いたら「子供の頃から弾いてた」と。子供の頃。彼女の子供の頃は、まだヴェルハイデがあった頃だ。訊かなかった〕

 〔百三十五日目。ミラの呪いの紋章を調べた。教会製の人工呪詛。マルヒェン村と同じ構造。偶然ではない。教会が何かをしている。ミラは怖がっていたが、リーゼが歌を歌ったら眠った。リーゼの歌には不思議な力がある。浄化とは違う。安心させる力〕

 〔百五十二日目。今日、リーゼが作ったスープは塩辛かった。指摘したら怒った。でも翌日、少し薄味にしてあった。覚えているのだ。この子は。口では怒っても、ちゃんと聞いている〕

 何気ない日常の記録。他人の日記を読んでいるようで、でも、胸が温かくなる。

 この文字を書いていた自分は、この旅を——この人を——心から大切にしていた。インクの滲み方や、文字の大きさから、それがわかる。リーゼのことを書く時だけ、字が少しだけ丁寧になっている。

 〔彼女はよく笑う。くだらないことで。でも、その笑い声を聞くと世界が少しだけ明るくなる〕

 そんなことを書いていたのか、過去の僕は。

 顔が熱くなった。

「……結構、恥ずかしいことが書いてあるな」

「えっ、なに? どこ? 見せて!」

「見せない」

「ずるい! あたしのこと書いてあるんでしょ!」

「書いてない」

「嘘! シエル耳赤くなってる!」

 リーゼが手帳を覗き込もうとする。僕は手帳を胸に抱えて背を向けた。

 笑い声が漏れた。

 彼女の笑い声。僕の——笑い声?

 笑ったのか、僕は。

 いつ以来だろう。いつ以来かもわからない。何も覚えていないのだから。

 でも、この瞬間が温かいことだけはわかった。


 午後になって、見舞いの客が来た。

 最初に入ってきたのは、銀髪の女性だった。白い外套を脱いで、シンプルな服を着ている。凛々しい顔立ちに、安堵と疲労が同居していた。

「ルシアン」

 その呼び方で、この人が僕のことを本名で知る人間だとわかった。

「……ごめん。名前が……」

「セラ。セラ・ブライトフォール。あなたの元同僚よ」

 セラ。名前を聞いても記憶は戻らない。でも彼女の声を聞くと、背筋がわずかに伸びる感覚があった。信頼の残滓かもしれない。

「あなたは馬鹿よ。本当に大馬鹿。呪眼を全力で使うなんて」

「そう……みたいだね」

「でも——ありがとう。あなたのおかげで聖女たちは全員救われた。装置も破壊された。アベラールは拘束されて、今は審問中。教会は——改革が始まるわ」

 セラは真っ直ぐに僕を見た。

「私が主導する。もう間違わない。教会を——本来あるべき姿に戻す」

 強い目だった。迷いのない目。この人は信頼に値する人間だと、記憶がなくても感じ取れた。

「……頼む」

「ルシアン」

 セラが言葉を継いだ。少しだけ声が柔らかくなった。

「あなたに言いそびれたことがあるの」

「なに?」

「あなたが使徒を辞めた後——いなくなった後、ずっと探してた。生きてると信じてた。みんなに馬鹿だと言われても」

 彼女の手が、拳を握るように力を込めていた。

「見つけた時は嬉しかったの。本当に。でも同時に、追い詰める側になってしまった。教会の命令で。あなたを捕らえろって」

「……」

「それが間違いだった。もっと早く、自分の目で真実を見るべきだった。教会の言葉を鵜呑みにせず。あなたの話を聞くべきだった」

 セラの声が微かに震えていた。

「だから——ごめんなさい。遅くなって」

 記憶がない。この人と何があったのか知らない。でも、この謝罪が本物であることはわかった。

「僕も——覚えていないけど、きっとお互い様だったと思う。ありがとう。最後に来てくれて」

「最後に来たことだけは覚えてるの?」

「リーゼに聞いた。装置の戦いの時、セラが駆けつけてくれたって」

 セラは目を伏せ、ほんの少しだけ笑った。

「じゃあ、それだけ覚えていてくれればいい」

 それから少し真面目な表情に戻り、教会の現状を教えてくれた。

 アベラールは拘束され、聖都の最深部に幽閉されている。聖女牧場は完全に解体された。救出された聖女たちは全員、適切な治療を受けている。教皇は傀儡から解放され、セラたち改革派が実務を担い始めた。

 使徒制度は見直しが決まった。聖遺物を強制的に埋め込むことは今後一切禁止される。

「長い道のりになると思う。何十年もかけてアベラールが作り上げた体制を、一朝一夕には変えられない。でも、やる」

「セラなら、できる」

「記憶がないのに、なぜそう言えるの」

「記憶がなくても、人を見る目は残ってるらしい」

 セラは一瞬だけ目を見開いて、それから声を上げて笑った。

「あなた、前よりちょっと素直になったわね。記憶喪失の副作用かしら」

「前はどうだったんだ」

「もっとひねくれてた」

 リーゼが横から「それは本当」と頷いた。

「任せて」

 セラは真っ直ぐ立ち上がり、部屋を出て行った。その背中は、手帳に書いてあるどの記録よりも頼もしく見えた。


 次に来たのは、赤毛の大柄な男だった。顔に古い傷跡。大剣を背負っている。

「よう。生きてたか」

「……すまない。名前を」

「レイヴンだ。覚えてないだろうな」

「ごめん」

「謝るな。おまえは十分やった。姫を——リーゼを助けてくれた。それだけで十分だ」

 レイヴンは椅子には座らず、壁に背を預けて立っていた。

「元ヴェルハイデの近衛騎士だ。姫が生きていると知った時から、遠くで見守っていた。おまえが姫の傍にいてくれたから、俺は安心できた」

「……そうだったのか」

「記憶が戻るかはわからねえが、まあ、気長にやれ。おまえと飲んだ酒の味、思い出してもらわないと困る」

「飲んだのか、僕たち」

「聖都に潜入する前の晩にな。おまえは一杯で顔が赤くなった。弱すぎて呆れた」

「……それはリーゼには言わないでくれ」

「もう知ってるよ」とリーゼが後ろから言った。

 レイヴンが声を上げて笑った。粗野で大きな笑い声。でも温かい響きだった。

 笑いが収まると、レイヴンは少しだけ真面目な顔になった。

「……おまえに、礼を言っておく」

「礼?」

「姫を——エリザヴェータ様を。俺が守れなかったものを、おまえが守ってくれた。騎士として——いや、ただの男として、感謝する」

 レイヴンは不器用に頭を下げた。大きな体がぎこちなく折れる。

「俺はこれからヴェルハイデの遺民を探す旅に出る。散り散りになった同胞が、大陸のどこかにまだいるはずだ。集められるだけ集めて——姫に報告する」

「気をつけて」

「おまえこそな。姫を頼んだぞ」

 そう言って不器用に笑い、レイヴンは去った。扉を閉める直前に振り返り、もう一度だけ頭を下げた。


 情報屋の少年は、窓枠に腰かけて現れた。ノクスと名乗った。外見は十四歳ほど。飄々とした笑みを浮かべている。

「やあ、お目覚めかい。三日も寝てるから、このまま永眠コースかと心配したよ」

「心配してくれたのか」

「まさか。君が死んだら僕の情報源が一つ減るだけさ」

 リーゼが「この子はいつもこう。気にしないで」と耳打ちしてくれた。

 ノクスは窓枠から降り、僕の前に立った。

「記憶の件だけど。浄化で核が守られたのは本当だよ。聖女の力は呪いに対する最強の盾だ。呪眼が記憶を喰い尽くす直前に、リーゼの浄化が最後の砦を作った。感情の記憶——もっと正確に言えば、感情に紐づいた記憶の根だけが残った」

「根?」

「木を想像してごらん。記憶という木が丸ごと焼けた。枝も葉も幹も全部灰になった。でも根だけが残っている。根があれば、新しい芽は出る。時間はかかるけどね」

 ノクスは肩をすくめた。

「完全に元通りにはならない。でもゼロでもない。手帳の記録と、周りの人間の助けがあれば、少しずつ輪郭は戻るかもしれない。まあ、保証はしないけど」

「……ありがとう」

「感謝はいらないよ。借りは別の形で返してもらうから」

 そう言って窓から出て行った。

 リーゼが「あの子、いい子なのに素直じゃないんだよね」と呟いた。


 最後に来たのは、小さな女の子だった。

 黒い髪を二つに結んだ、十歳くらいの子。扉の隙間からこちらを覗いていた。大きな目が不安そうに揺れている。

「ミラ。入っておいで」

 リーゼが優しく声をかけた。

 ミラ、と呼ばれた女の子は、おずおずと部屋に入ってきた。ベッドの傍まで来て、僕の顔をじっと見上げている。

「……お兄ちゃん」

 その呼び方に、胸の奥がきゅっと締まった。

「お兄ちゃん、忘れちゃったの? わたしのこと」

 翡翠ではない。深い藍色の瞳。その瞳の中に、涙が溜まっている。でも泣くまいと必死に堪えている。

 僕はベッドの上で体を起こした。右半身が痛む。でも構わなかった。

「……ごめん」

「やっぱり忘れちゃったんだ……」

「でも」

 僕は小さな手に触れた。冷たい指。でも確かな温もり。

「君が大事な子だということは、覚えてる」

 嘘かもしれない。本当かもしれない。記憶がないのだから判別できない。

 でも、この子の目を見た瞬間に胸が痛んだ。この子を守りたいという感覚が湧き上がった。それは記憶ではない。もっと深いところにある何かだ。

 ミラの目から涙がこぼれた。

 堪えきれなくなって、僕の胸に飛び込んできた。小さな体がぶつかって、包帯の傷が痛んだ。でも抱き返した。

「えぐっ……お兄ちゃん……お兄ちゃんのばか……」

「うん。ばかだね」

「全部忘れちゃうなんて……ばか……」

「ごめん」

 リーゼがミラの頭を撫でている。蜂蜜色の髪と黒い髪が重なって、陽光の中で揺れていた。

 三人でいるこの瞬間が、どこかで経験したことがある気がした。食事をしたり、歩いたり、笑ったり。映像はない。場所も時間も思い出せない。でも、この温かさは知っている。

 ミラが泣き止むまで、僕はずっと抱きしめていた。


 夕方、マグナスが来た。

 扉は開けなかった。廊下に立ったまま、扉越しに一言だけ。

「……すまなかった」

 足音が遠ざかっていった。

 リーゼが「あの人、不器用だよね」と言った。

 僕は「不器用な人が多いな、僕の周りは」と返した。

 リーゼが「シエルが一番不器用だよ」と笑った。

 否定できなかった。


 夜になった。

 ミラはセラに連れられて別の部屋に行った。レイヴンとノクスも宿の別の階に泊まっているらしい。

 部屋には僕とリーゼだけが残った。

 窓の外に星が見えた。

 リーゼが椅子をベッドの横に寄せて座った。この三日間、ずっとこうしていたのだろう。椅子の座面がへこんでいる。

「ねえ、シエル」

「……うん」

「あたしたちさ、最初から嘘ばっかりだったね」

 彼女の声は穏やかだった。悲しくも、苦しくもない。ただ確認するように。

「偽の名前で出会って。偽の身分で旅をして。互いの正体を隠して。嘘に嘘を重ねて」

「……そうだね」

 手帳を読んだから知っている。僕はシエルと名乗り、彼女はリーゼと名乗った。どちらも本当の名前ではなかった。

「あたしは吟遊詩人じゃなくて、亡国の王女だった。シエルは薬師じゃなくて、元使徒の呪眼持ちだった。全部嘘。最初の一言から、全部」

「うん」

「でも——あの嘘がなかったら、あたしたち出会えなかった」

 リーゼが窓の外の星を見ている。翡翠の瞳に星の光が映っている。

「本当の名前を名乗ったら、あたしは教会に捕まってた。シエルは追われて殺されてた。嘘をついたから、あたしたちは旅ができた。嘘をついたから、一緒にいられた」

「……」

「あの嘘は、悪い嘘だったのかな」

 僕は考えた。

 記憶はない。手帳の記録しかない。でも、このベッドで目を覚ました時に感じた温かさは本物だった。彼女の顔を見て流した涙は本物だった。

「……その嘘は、世界よりやさしかったと思う」

 リーゼが僕を見た。

 翡翠の瞳が、揺れていた。

「世界より、やさしい……」

「名前が嘘でも。身分が嘘でも。君が僕の傍にいてくれたことは本当だ。僕が君を大切に思ったことも本当だ。記憶がなくたってわかる。この胸の奥にあるものは、嘘じゃない」

 リーゼの目から、また涙がこぼれた。

 でも今度は、静かな涙だった。

「……ずるいよ。記憶なくしたくせに、そういうこと言うの」

「手帳に書いてあった。過去の僕が。『彼女が笑うと世界が明るくなる』って」

「それ読んだの!?」

「読んだ」

「恥ずかしい! あたしの前でそういうの読まないでよ!」

 リーゼが顔を赤くして、僕の肩を軽く叩いた。傷に響いた。

「いたっ」

「あっごめん! 傷——大丈夫?」

「大丈夫。……たぶん」

 見つめ合って、二人とも笑った。

 静かな夜だった。

 星が綺麗な夜だった。

 リーゼが僕の左手に、そっと触れた。

「ねえ。鎖の契約——まだ残ってるんだって」

「鎖の契約?」

「呪いの共鳴。あたしとシエルが離れられない呪い。一定の距離以上離れると、呪いが暴走する」

 手帳にも書いてあった。鎖の契約。呪いの共鳴。離れられない二人。

「まだ残ってるの、それ」

「うん。ノクスが調べてくれた。装置は壊れたけど、あたしたちの共鳴は装置とは別の回路で成立してるから、消えてない」

「……離れられないのか」

「うん」

 リーゼが僕の手を握った。

「でもさ。もう鎖じゃないよ」

「え?」

「だって——あたし、離れたくないもん」

 彼女の手が温かかった。

「呪いがあってもなくても、あたしはシエルの傍にいる。シエルが全部忘れちゃっても、あたしが覚えてる。シエルが迷子になったら、あたしが道を教える。手帳に書ききれないことは、あたしが話してあげる」

「リーゼ……」

「だから。鎖じゃなくて——あたしたちが選んだ繋がりだよ。もう」

 僕は彼女の手を握り返した。

 記憶がない。過去がない。手帳の中の自分は、もう他人のようだ。

 でも今、この瞬間の温かさは僕のものだ。

 これから作る記憶は、僕のものだ。

「……新しい旅の準備、しないとな」

「え?」

「ここにはいつまでもいられないだろう。セラが教会を改革するなら、僕たちはもう追われない。なら——」

「旅? また旅するの?」

「君が嫌じゃなければ」

 リーゼが目を丸くした。それから、ぱあっと顔が輝いた。

「嫌なわけないでしょ! 行く行く! どこに行くの?」

「わからない。でも君と、ミラと、三人で」

「三人! いいね! ミラも喜ぶよ!」

 リーゼが両手を合わせて弾むように笑った。

「あたし、今度の旅ではルート全部計画するからね。前みたいに行き当たりばったりじゃなくて」

「前もそう言ってなかったか」

「覚えてないくせに言わないの!」

 手帳に書いてあったのだ。彼女のルート計画は大抵脱線する、と。

 でもそれは言わないでおいた。

「ねえ、シエル」

「うん」

「今度は――偽名じゃなく、行こうね」

 僕は頷いた。

「ああ。今度は本当の名前で」

 窓の外の星が、静かに瞬いていた。

 鎖はまだある。呪いは消えていない。記憶の大半は失われたままだ。

 でも隣にこの人がいる。

 手帳がある。仲間がいる。これから作る記憶がある。

 それだけあれば、十分だ。

 僕は手帳を開いた。

 新しいページ。白い紙。何も書かれていない。

 ペンを取った。

 今度は震えなかった。

 〔新しい旅の計画。リーゼと、ミラと、三人。目的地は未定。行き先は彼女が決めるだろう。僕は隣を歩く。それだけでいい。それだけで、十分だ〕


── リーゼ side ──

 三日間、シエルは目を覚まさなかった。

 あたしはずっと傍にいた。椅子に座って、時々ベッドの縁に腕を預けて、あの人の顔を見ていた。

 呼吸はある。微かだけれど、胸が上下している。包帯を替えるたびに、傷は少しずつ塞がっている。体は生きている。

 でも目が開かない。

 一日目。セラが手配してくれた宿の一室。清潔なシーツの上に横たわるシエルの顔は、今まで見たどの寝顔よりも穏やかで——それがかえって怖かった。苦しそうにしてくれた方がまだいい。痛がってくれた方がまだいい。何も表情がないのが、一番怖い。

 二日目。ノクスが来た。

 窓枠に腰かけたまま、飄々とした顔でいくつかの数字や術式の話をした。あたしには半分も理解できなかった。でも、最後に言った言葉だけは、一語も漏らさず覚えている。

「記憶の核を守れたのは、君の浄化のおかげだよ。最後の瞬間、呪眼が全てを呑み込もうとした時に、君の力が壁を作った。感情に紐づいた記憶の根——それだけは、守れた」

 ——それだけは。

「でも、全部は無理だった。枝も幹も葉も、全部焼け落ちた。目を覚ました時、シエルは君のことを覚えていないかもしれない」

 ノクスは窓から出て行った。振り返らなかった。あの子なりの優しさだと、今はわかる。あたしの顔を見ていたくなかったのだろう。

 覚えていないかもしれない。

 あたしの名前も。顔も。一緒に旅したことも。手を繋いだことも。塩辛いスープのことも。竪琴の音も。嵐の夜のことも。

 全部。

 ——覚悟は、していた。

 していたつもりだった。

 だって、あたしはずっとそうだったから。この旅の最初から——ううん、五年前のあの夜から、あたしはいつも「忘れる人の隣で覚えている人」だった。

 シエルが呪眼を使うたびに記憶を失っていくのを、あたしは隣で見ていた。同じ話を何度もした。同じ場所を初めてのように歩いた。あたしが覚えていて、シエルが忘れている。それが日常だった。

 だから大丈夫。今度も同じだ。あたしが覚えていれば、それでいい。

 あたしが全部覚えている。旅のこと。仲間のこと。嘘の名前で出会ったこと。鎖の契約のこと。シエルが笑った顔。シエルが怒った顔。シエルが泣くのを堪えていた顔。全部、あたしの中にある。

 覚えていなくてもいい。あたしが覚えている。

 それが、あたしの役割だった。

 ——でも。

 三日目の朝。窓から差し込む光の中で、あたしはシエルの手を握って、認めた。

 怖い。

 正直に言えば、怖い。

 名前を呼んでもらえないかもしれない。「リーゼ」と呼ばれないかもしれない。あの声で、あの不器用な呼び方で、あたしの名前を言ってくれないかもしれない。

 あたしを見て、「誰?」って言われるかもしれない。

 覚悟していた。覚悟していたはずだった。何度も自分に言い聞かせた。大丈夫、大丈夫、あたしが覚えていればいい。

 でも——

 怖いものは、怖い。

 三日目の夜。あたしは歌を歌った。

 ヴェルハイデの子守歌。お母様が教えてくれた歌。帰れない場所を想う歌。

 『銀の月が沈む夜に、旅人は丘に立つ——』

 眠るシエルに聞こえているかどうかはわからない。でも歌わずにはいられなかった。声を出していないと、静寂に押しつぶされそうだった。

 『振り返れば故郷の灯、前を向けば星の道——』

 歌いながら思った。

 あたしにとっての故郷は、もうヴェルハイデじゃない。

 故郷は——この人の隣だ。

 いつからか、そうなっていた。あたしの「帰る場所」は、燃え落ちた城でも、壊れた城下町でもなくて。この人が目を覚まして、不器用に「おはよう」って言ってくれる、その瞬間だ。

 だから帰ってきて。

 お願いだから。

 『——どちらも遠く、どちらも近い。旅人の足は止まらない』

 歌い終わる頃、あたしはベッドの縁に突っ伏して、眠ってしまった。

     *

 涙が落ちる音で、目が覚めた。

 一瞬、自分が泣いているのかと思った。

 違った。

 シーツの上に、小さな水滴が落ちている。光を受けてきらりと光る。あたしの涙じゃない。

 顔を上げた。

 シエルの目が、開いていた。

 心臓が止まった。

 三日間。ずっと閉じていた瞼。ずっと動かなかった睫毛。それが——開いている。黒い瞳がこちらを向いている。

 あたしを、見ている。

 何秒か。

 長い、長い何秒か。

 シエルはあたしの顔を見ていた。何も言わない。名前も呼ばない。表情が読めない。焦点が合っているのかどうかすら、わからない。

 ——やっぱり。

 覚えていない。

 わかった。その目を見た瞬間にわかった。あたしを認識していない目。知らない人を見る目。五年前の夜、あの路地で倒れていた少年の目。何もかも失った後の、空っぽの目。

 覚悟していた。大丈夫だって思っていた。あたしが覚えていればいいって、何度も自分に言い聞かせた。

 でも——

 そのとき。

 シエルの目から、涙が落ちた。

 声も出さずに。表情も変えずに。ただ静かに、涙だけが頬を伝っている。

 一筋。二筋。やがて止まらなくなって、シーツの上にぽたぽたと落ちている。

 覚えていないのに。

 あたしの名前も知らないのに。

 泣いている。

 あたしの顔を見て、泣いている。

 ——ああ。

 その瞬間、今まで我慢してきた全部が溢れた。

 最初からずっと。気づかないふりをしてきた。忘れられても笑っていた。塩加減を直しても「たまたまだよ」って言った。同じ話を聞いても「初めて聞いた」みたいな顔をした。竪琴で背を向けた時も、鎖の契約で「ごめんね」と呟いた時も、シエルが一人で去った朝も、教会に捕らわれた暗い部屋の中でも——平気な顔をしてきた。

 あたしは、ずっと泣かなかった。

 でもこの涙を見たら——堪えられなかった。

 この人は、あたしのことを体が覚えている。

 記憶がなくても。名前を忘れても。全部失っても。

 心が、覚えている。

 頬を涙が伝った。止められなかった。でも、笑った。泣きながら、笑った。

「——おかえり、シエル」

 それ以上は言えなかった。

 言ったら、声が壊れてしまうから。

 シエルが掠れた声で何かを言った。「わからない」と。「何も思い出せない」と。

 わかってる。わかってるよ。

 でもいい。いいんだよ。

 覚えていなくても、泣いてくれたから。

 あたしの顔を見て、涙を流してくれたから。

 それだけで——五年分の答え合わせが、全部終わった。

 あの夜、少年はあたしを助けて、記憶を失った。

 そして今。全ての記憶を失ってなお、あたしのことだけ覚えている。五年前も今日も、この人はあたしのために記憶を差し出して——それでもあたしを忘れなかった。

 覚悟なんか必要なかった。

 この人は、忘れない。忘れられない。記憶の全部が灰になっても、根っこだけは燃え残る。あたしの浄化が守ったのは、あたしとシエルの繋がりそのものだった。

 シエルがあたしの頬に触れようとして——手が届かなくて、途中で落ちた。包帯だらけの腕。三日間動かなかった体。力が入らないのだろう。

 あたしはその手を取って、自分の頬に当てた。冷たい指。でも確かに、生きている指。

「大丈夫。全部、あたしが教えるから」

 涙を拭いて、水を持ってきて、体を起こすのを手伝って。いつもと同じ。あたしの役割。忘れる人の隣で、覚えている人。

 でも、もう辛くない。

 ——独りの時だけ出てくる声が、胸の奥で静かに響いた。

 ……ありがとうございます、ルシアン。

 五年前も、今日も。

 わたくしを見つけてくれて。

 その声がそっと沈んでいった。静かに、穏やかに。エリザヴェータが微笑んで、リーゼに席を譲るように。

 『——風が名前を呼ぶから』

 心の中で、歌の最後の一節が鳴った。風が名前を呼ぶ。あの人が名前を忘れても、風が覚えている。あたしが覚えている。

 だから大丈夫。

 今度は、あたしが道を教える番だ。

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