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序章

灰色の記憶

【記憶操作薬 ― メモリア】
用法: 対象の飲食物に混入し服用させる。
効果: 指定された記憶の消去または改竄。
副作用: 時折、消えたはずの記憶が夢として回帰する。
注意: 一度消された記憶は二度と戻らない――はずだった。

灰色の記憶

夜の屋敷は、息をしていなかった。

十二歳のクロエが最初に気づいたのは、静けさだった。いつもなら廊下の向こうから聞こえてくる使用人たちのかすかな足音も、階下の厨房から立ちのぼる煮炊きの匂いも、今夜はすべて途絶えていた。壁燭台の炎だけが橙色のまなざしで彼女を見つめ、長い影を寝台の上に落としている。

クロエは毛布を顎まで引き上げた。部屋は広かった。天井の漆喰には薬草の蔓が浮き彫りにされ、窓掛けの深緑の布地は月光をわずかに透かしていた。この部屋のことを、クロエは好きだった。窓辺の鉢植えに毎朝水をやること、書棚の三段目に並んだ植物図鑑の背表紙を指でなぞること、寝る前に姉が来て髪を梳いてくれること。そうした確かなものに囲まれていれば、夜は怖くなかった。

けれど今夜は違う。

空気そのものが変質している。壁の中に見えない力が流れているような、肌を撫でる不穏な気配。ヴィリディス家の邸宅は薬理魔術の名門の住まいにふさわしく、建材の隅々にまで魔素が練り込まれていたが、今夜はその魔素が怯えているように感じられた。

足音が聞こえた。

一つではない。複数の靴底が石の廊下を叩く音。規則正しく、硬く、急いている。使用人の柔らかな履物ではない。あれは——軍靴の音だ。

クロエは寝台の上で身を起こした。胸の奥がきゅうと縮む。何かが起きている。何か、取り返しのつかないことが。

理由はわからない。けれど十二歳の少女にも、空気の色が変わったことくらいはわかった。


扉が開いた。

姉のヴィオラだった。

十七歳の姉は白い寝間着の上に灰色の肩掛けを羽織り、燭台を片手に持っていた。炎に照らされた横顔はいつもと同じ穏やかさを湛えていたが、それが塗り重ねた絵の具のように見えたのは、きっと気のせいではなかった。

「クロエ」

姉の声は静かだった。

「大丈夫。何も怖くないから」

ヴィオラは寝台の縁に腰を下ろし、クロエの手を取った。その手が、震えていた。

ヴィオラの手はいつも温かかった。薬草を擂り潰し、乳鉢を回し、繊細な調合を幾千と繰り返してきた薬師の手。しっかりとして揺るがない、この世で最も安全な場所。なのに今、その指先が小刻みに震えている。

「お姉さま、何が起きているの」

「何でもないのよ。少し——大人たちが話し合いをしているだけ」

嘘だった。クロエにはわかった。ヴィオラは嘘をつくとき、ほんの少しだけ語尾が上がる。幼い妹にすら見破れるほどの、不器用な嘘だった。

階下で何かが割れる音がした。陶器か、硝子か。続いて、低い怒声。聞き覚えのある声——父の声だ。穏やかで理知的な、けれど今は何かに抗うように荒ぶった父の声。

クロエは寝台を飛び出そうとした。ヴィオラがその肩を押さえた。

「行ってはだめ」

「でも、お父さまが——」

「いい子だから。ここにいて」

ヴィオラの目が光っていた。燭台の炎のせいではない。涙だった。十七歳の姉が、唇を噛み、懸命に涙をこらえている。

その表情を見た瞬間、クロエの中で何かが凍りついた。


記憶は、ここから断片になる。

——廊下。走っている。裸足の足裏に石の冷たさ。ヴィオラの制止を振り切って部屋を飛び出した。

——階段の手すりの隙間から見下ろした光景。広間に灰色の外套を纏った兵士たち。灰の審問院の紋章——蛇が薬瓶に巻きつく意匠——が松明の光に浮かんでいる。

——父がいた。

ヴィリディス家の当主、クロエの父が、兵士たちに両腕を掴まれていた。抵抗はしていなかった。ただ背筋を伸ばし、審問官と思しき男と何かを言い交わしていた。その横顔は蒼白で、けれど崩れてはいなかった。

——父がこちらを見上げた。

階段の上の、小さな娘の姿を見つけた父の目。驚愕と、苦痛と、そしてそれらを押し殺した末に残った何か——愛と呼ぶには鋭すぎる、祈りと呼ぶには激しすぎる、灰色の感情。

父が叫んだ。

「灰色であることを恐れるな、クロエ」

兵士が父の腕を引いた。父の体が出口の方へ押しやられる。

「白でも黒でもない——」

声が途切れた。広間の扉が閉まり、父の姿が消えた。

灰色であることを恐れるな。

その言葉の意味を、十二歳のクロエは理解できなかった。


ヴィオラがクロエを抱きしめていた。いつの間にか追いついた姉が、妹の小さな体をきつく、きつく抱きしめていた。

「ごめんね」

姉が言った。

「ごめんね、クロエ」

謝る理由がわからなかった。悪いのは父を連れて行った兵士たちで、ヴィオラは何も悪くないはずだった。なのに姉は何度も謝った。まるでこれから取り返しのつかない過ちを犯す人間のように。

部屋に戻された。寝台に座らされた。ヴィオラが薬箪笥から小さな硝子瓶を取り出すのを、クロエはぼんやりと見ていた。琥珀色の液体。かすかに甘い香り。

「これを飲んで」

「……お薬?」

「そう。眠れるようになる薬」

嘘だ、とクロエは思った。ヴィオラの語尾がまた上がっている。けれど今度は、それを指摘する気力がなかった。父が連れて行かれた。世界が壊れた。目の前の液体が何であれ、姉が差し出すものならば。

クロエは硝子瓶を受け取り、口をつけた。

甘かった。蜜のような甘さが舌の上に広がった。

でも、苦い。

甘さの奥に、重たい苦味が潜んでいた。喉を滑り落ちるとき、その苦味がじわりと口蓋に残った。薬の味だ。白薬ではない。白薬はもっと清涼で、澄んでいる。これは——灰色の味がする。白でもなく、黒でもない、曖昧な境界の味。

体の奥で、何かが溶け始めた。


色が褪せていく。

窓掛けの深緑が薄くなる。壁燭台の橙が遠ざかる。寝台の白い敷布が灰色に沈んでいく。世界から色彩が一枚ずつ剥がされていくように、目に映るすべてのものが灰色の靄に覆われていった。

音が遠くなる。

ヴィオラが何かを言っている。唇が動いている。けれどその声が、水の底から聞こえるように遠い。姉の声。毎晩聞いていた優しい声。おやすみの言葉。薬草の名前を教えてくれる声。その声が、記憶の端からほどけていく。

顔が薄れていく。

目の前にいるはずのヴィオラの輪郭がぼやける。整った眉。泣き腫らした目。唇の形。すべてが灰色の霧に飲まれていく。姉の顔を思い出そうとして、もう思い出せない自分に気づく。

——お姉、さま。

その呼び方すら、砂のように指の間からこぼれ落ちる。

名前。この人の名前。大事な人の、名前が——

思い出せない。

思い出せなくなっている。それが怖い。怖いはずなのに、恐怖そのものが薄れていく。何を怖がっていたのか、それすらも灰色の中に溶けていく。

最後に残ったのは、灰色だった。

何も描かれていない。何も記されていない。ただ一面の灰色。記憶があったはずの場所に広がる、空白。意識の底に沈殿した、色のない凪。

誰かが泣いている。

遠くで、誰かが——。

それも、消えた。


目が覚めたとき、知らない天井が見えた。

木の梁が剥き出しの、質素な天井。ヴィリディス家の精緻な漆喰細工はどこにもない。窓から差し込む朝の光は白く素っ気なく、薬草の乾いた匂いが微かに漂っていた。

「起きたかい」

知らない声だった。恰幅のいい中年の女が、湯気の立つ椀を手に覗き込んでいた。

「ここは薬師ギルドの養護院だよ。あんたはクロエ・グリザイユ。身寄りのない孤児として、うちが引き取った」

クロエ・グリザイユ。

その名前に、違和感はなかった。自分の名前だ、と思った。それ以前の名前など、知らない。知らないのだから、違和感の持ちようがない。消された記憶は痛みすら残さない。傷口ごと消し去られた傷のように、そこには最初から何もなかったかのような平坦さだけがあった。

クロエは粥を受け取り、匙を口に運んだ。味がした。穀物の素朴な甘さ。それだけだった。

窓の外で鴉が鳴いた。灰色の空だった。


五年後。

グリセルダ王宮、調合室。

薄闇の中で、硝子器具が微かな光を帯びていた。蒸留器の丸底フラスコに結露した水滴が、朝焼けの最初の光を受けて琥珀色に輝く。棚に整然と並んだ薬瓶のラベルは几帳面な筆跡で書かれ、乳鉢と乳棒は使用後に丁寧に洗浄されて定位置に戻されている。

調合室の一番奥の作業台で、十七歳のクロエ・グリザイユは夜明けを迎えていた。

また、あの夢を見た。

——いや、見た「はず」だ。目が覚めた瞬間にはもう内容が指の間をすり抜けていて、何を見たのか思い出せない。灰色の、何か。ぼんやりとした不安の残滓。いつものことだ。この夢は定期的にやってくる。宮廷に上がってからは、とりわけ頻度が増した気がする。

夢の名残を振り払うように、クロエは作業台の上の処方箋に目を落とした。今日の調合は白薬の基本処方——血流促進の滋養薬。見習い薬師の彼女に許された、穏やかな仕事。

手が、震えていた。

クロエは自分の右手を見下ろした。乳棒を握ろうとした指先が、かすかに、しかし確かに震えている。理由がわからない。寒いわけでもない。緊張しているわけでもない。この調合は何十回となく繰り返してきた。手順は体が覚えている。

なのに、震えが止まらない。

まるで手が、体のどこかに沈んだ記憶を覚えているかのように。

クロエは深く息を吸い、目を閉じた。そして吐いた。目を開けると、東の窓から差し込む朝の光が調合室を満たし始めていた。硝子器具が輝き、薬瓶のラベルが読めるようになり、夜の残り香が隅に追いやられていく。

灰色の時間が終わり、白い朝が来る。

クロエは震える右手を左手で包み込み、しばらくそうしていた。やがて震えが収まると、何事もなかったように乳棒を取り上げ、調合を始めた。

いつもと同じ朝だった。

いつもと同じ、はずだった。

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