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第一章

クロエ・グリザイユの日常

【安息の調合薬 ― パクス】
用法: 就寝前に一杯。
効果: 穏やかな眠りを誘う。
副作用: なし。
ただし、穏やかな日常そのものが副作用を隠している場合がある。

薬師見習いの朝

朝の鐘が鳴る前に、クロエ・グリザイユは目を覚ます。

それは習慣というより、もはや身体に刻まれた律動だった。窓の外がまだ薄暗い藍色をしている時刻に、彼女の意識はいつも静かに浮上する。夢の残滓がまぶたの裏に張りつくような感覚があったが、目を開けた瞬間にはもう何も覚えていない。灰色の、何か――それだけがいつも残る。

寮の個室は質素だった。薬師見習いに与えられる部屋は四畳ほどの広さで、寝台と小さな書机、それに衣装箱がひとつ。壁には薬草の乾燥標本が額に入れて飾られている。クロエが自分で採集し、押し花にしたものだ。銀月草、暁蘭、静寂の苔。どれもありふれた白薬の素材ばかりだが、その几帳面な配列には彼女の性格がよく表れていた。

寝台から降りると、まず顔を洗う。冷たい水で三度。次に髪を梳く。亜麻色の髪を低い位置でひとつにまとめ、薬師見習いの白い帽子の中に収める。制服に袖を通し、前掛けの紐をきっちりと結ぶ。左の紐が少し長いのは仕立てのときからの癖で、クロエは毎朝それを同じ長さに折り返して調整していた。

支度を終えたクロエは、部屋を出る前に一度だけ振り返る。寝台の皺を伸ばし忘れていないか、書机の上の筆記具が揃っているか。確認して、満足してから扉を閉める。

この一連の所作を、クロエは一日も欠かしたことがない。

グリセルダ王宮の朝は、薬の香りとともに始まる。

「薬の宮殿」の異名を持つこの壮麗な建造物は、建材そのものに魔薬が練り込まれている。壁の漆喰には安息の白薬が、床の大理石には浄化の調合液が、天井を支える柱には強化の灰薬が、それぞれ数十年の歳月をかけて染み渡っている。朝露が宮殿の石壁を濡らすたび、微かな魔素が空気中に溶け出し、宮殿全体がほのかに発光するのだ。

その光は白でも金でもなく、淡い灰色をしている。

薬師見習いの寮棟から調合室までは、中庭を横切って徒歩七分。クロエはいつも同じ経路を辿る。東の回廊を抜け、噴水広場の脇を通り、薬師棟の裏口から入る。正面玄関は上級薬師以上が使うものだと、着任した日にベアトリクス首席薬師から教えられた。教えられた、というよりも、一瞥で示された、というほうが正確だろう。あの人は言葉を惜しむ方だから。

回廊の柱にはフレスコ画が描かれている。薬理魔術の歴史を辿る壮大な絵巻で、伝説の大薬師たちが調合炉の前に立つ姿が色鮮やかに描かれていた。クロエは毎朝この絵を眺めながら歩く。何百回と見ているはずなのに、そのたびに新しい細部を発見する気がした。今朝は、画面の隅に灰色の花を持つ少女の姿があることに気づいた。あれは何の花だろう。見覚えがあるような、ないような。

――考えすぎだ。

クロエは軽く首を振って、歩調を戻した。

調合室の扉を開けると、いつもの光景が広がる。

薬師棟の一階に位置する主調合室は、高い天井と大きな窓を備えた広大な空間だった。窓は北向きで、直射日光が入らないよう設計されている。光に弱い薬草や試薬を扱うための配慮だ。その代わり、天窓から入る柔らかな間接光が室内を均一に照らし、作業台の上の硝子器具をきらきらと輝かせていた。

部屋の中央には長い作業台が三列。黒檀の天板は幾代もの薬師たちの手で磨き込まれ、深い艶を帯びている。台の上には蒸留器、乳鉢、天秤、試薬瓶が所定の位置に整然と並んでいた。壁一面の棚には数百種の薬草が乾燥瓶に収められ、琥珀色の液体をたたえた試薬瓶がその間に差し挟まれている。

空気は乾いていて、微かに甘い。それは銀月草の残り香だとクロエは知っている。昨日の調合で使った分が、まだ空気中に漂っているのだ。

クロエは自分の作業台――左端の列の奥から二番目――に向かい、まず台の上を乾いた布で拭いた。次に今日使う器具を点検する。蒸留器の接合部に緩みはないか、乳鉢に前日の残留物がないか、天秤の零点は正確か。ひとつひとつを確かめ、手帳に記録する。

同じことを、毎朝している。

同じことが、毎朝安心をくれる。

「今日の課題は白薬の第十四処方、浄身の調合薬だ」

壁に貼り出された本日の調合指示を読み上げたのは、先輩見習いのマルセルだった。二十歳の青年で、クロエより三年先に宮廷に入っている。腕は悪くないが、細部への注意力に欠けるところがあった。

「浄身の調合薬か。基本中の基本だな」

もう一人の見習い、リゼットがそう言って肩をすくめた。クロエと同い年の少女で、要領がよく、社交的で、調合室の中でもっとも声が大きい。

「基本だからこそ丁寧にやりなさいと、首席薬師はおっしゃるでしょうね」

クロエは静かにそう返しながら、棚から素材を取り出し始めた。浄身の調合薬。白薬の中でも初歩的な部類に入る処方で、身体の毒素を穏やかに排出する効果がある。宮廷では侍女たちが美容のために愛用しているほか、軽い食あたりの治療にも使われる。

素材は五種。銀月草の乾燥葉、清水晶の粉末、白樺樹皮の煎じ液、蜂蜜、そして媒介剤としての蒸留水。処方箋には分量と手順が細かく記されているが、クロエはそれを一度読んだだけで手帳に書き写すことなく作業を始めた。

まず清水晶の粉末を乳鉢に取り、蒸留水を数滴加えて練る。粒子が均一になったら銀月草の乾燥葉を三枚、指先で細かくちぎりながら加える。このとき、葉脈に沿って裂くのが正しい手順だ。繊維を断ち切ると魔素の流出が早すぎて、効果が不安定になる。

クロエの指先は迷いなく動いた。乳鉢の中で材料が滑らかな膏状に変わっていく。そこに白樺樹皮の煎じ液を少量ずつ加えながら、一定の速度で撹拌する。時計回りに三十二回。このとき調合師は「インテンティオ」――意志を込めなければならない。浄化せよ、清めよ、と。心の中で静かに念じながら、杵を回す手に力を込める。

膏体が淡い白色の光を帯び始めた。魔素が正しく活性化している証だ。蜂蜜を加えて味と粘度を調整し、最後に蒸留器で不純物を除去する。出来上がった液体は透き通った乳白色で、微かに花の香りがする。

――完璧な仕上がりだ。

と、クロエは思った。しかし同時に、別の感覚が胸の奥で微かに疼いた。

手が、覚えている。

処方箋を読んだのは今朝が初めてだった。浄身の調合薬は第十四処方であり、教程では来月の課題のはずだ。今日は予習として手順を確認するだけでよかった。それなのに、クロエの手は迷わなかった。まるで何十回も繰り返した手順のように、指が勝手に動いた。清水晶の練り加減も、銀月草を裂く角度も、撹拌の速度も、すべてが「知っている」動きだった。

「ちょっと、クロエ。もう終わったの?」

リゼットが目を丸くして覗き込んできた。

「え――ええ、まあ」

「信じられない。私なんてまだ清水晶を練ってる段階なのに。しかもこの色、すごく綺麗。首席薬師に見せたら褒められるんじゃない?」

「そんなことないわ。処方箋通りにしただけだもの」

クロエはそう言いながら、自分の手のひらを見つめた。

初めてではない、この感覚。調合中にときどき訪れる奇妙な既視感。初めて触れるはずの素材の感触が懐かしく、初めて学ぶはずの手順を身体が知っている。才能――そう片付けるのが一番簡単だった。薬師ギルドの教官たちも、クロエの飲み込みの早さを「天賦の才」と評していた。

でも、才能という言葉では説明しきれない何かがある。

それは、知識ではなく記憶に似ていた。

――考えすぎだ。

クロエは二度目のその言葉で、違和感を意識の底に押し込んだ。


ベアトリクスの及第

昼の鐘が鳴ると、調合室の空気が少し緩む。

午前中の課題を終えた見習いたちは、それぞれの仕上がりを作業台の端に並べて首席薬師の巡回を待つ。クロエは自分の調合薬の入った硝子瓶を光に透かし、色味の均一性を最終確認していた。

足音が聞こえた。

規則正しく、無駄のない足音。靴底が床石を叩く音が、調合室の空気を一瞬で引き締める。見習いたちの姿勢が自然と正され、私語がやんだ。

ベアトリクス・モルゲンが入室した。

五十五歳の宮廷首席薬師は、年齢を感じさせない背筋の伸びた姿勢で歩く。銀灰色の髪をきっちりと後ろに束ね、深い紫紺の薬師長衣をまとっている。その胸元には大薬師の証である銀の薬匙の徽章が光っていた。顔には深い皺が刻まれているが、瞳の色は若者のそれよりもなお鋭い。冬の湖のような、冷たく澄んだ灰青色。

彼女は一言も発さないまま、作業台を巡回し始めた。

マルセルの前で足を止める。瓶を手に取り、光に透かし、蓋を開けて匂いを嗅ぐ。そして瓶を台の上に戻した。

「煎じ液の温度管理が甘い。分子構造に乱れがある。やり直し」

マルセルが蒼白になった。

リゼットの前でも同じ手順を繰り返す。

「及第。ただし蜂蜜の配分が零コンマ三グラム多い。甘さに頼るのは素人の仕事だ」

リゼットが唇を噛んだ。

そしてクロエの前に来た。

ベアトリクスは瓶を手に取った。いつもと同じように光に透かし、蓋を開け、匂いを確かめる。しかしその動作が、わずかに長かった。ほんの一呼吸分。他の誰も気づかないほどの差だったが、クロエは首席薬師の指先が微かに止まったのを見逃さなかった。

「……及第」

それだけだった。ベアトリクスは瓶を戻すと、何事もなかったように次の作業台に移った。

及第。褒めもしなければ、改善点の指摘もない。それがベアトリクスのクロエに対する通常の評価だった。リゼットなら「つまらない評価」と不満を漏らすところだが、クロエはベアトリクスの「及第」に含まれる微妙な温度差を感じ取っていた。改善点がないのではない。指摘する必要がないのだ。今はまだ、それ以上のことは分からなかったけれど。

巡回が終わると、ベアトリクスは調合室の正面に立ち、見習いたちを見渡した。

「午後の課題を伝える。浄身の調合薬の応用――解毒の強化版だ。処方箋は棚の第三区画にある。手順を正確に読み、一字一句違えるな」

厳しい声が室内に響く。

「工程を省略するな。分量を目分量にするな。薬師の仕事に近道はない。近道をした薬は、患者の命を近道で奪う。覚えておきなさい」

見習いたちが一斉に「はい」と応じた。クロエもその中にいた。

ベアトリクスが踵を返し、調合室を出ていく。その背中を見送りながら、クロエはいつも同じことを思う。あの人のようになりたい。あの人のように、完璧な薬を作れるようになりたい。迷いなく、曇りなく、一切の妥協を許さない薬師に。

「クロエ・グリザイユ」

扉の手前で、ベアトリクスが足を止めた。振り返りもせず、ただ名前を呼んだ。

「はい」

「今日の浄身の調合薬。あの手順はどこで学んだ」

心臓が跳ねた。

「……処方箋を読んで、その通りに」

「処方箋には書かれていない手順がひとつあった。銀月草を葉脈に沿って裂く工程。あれは正規の教程にはない。上級薬師が経験則として伝える技法だ」

クロエは言葉に詰まった。そんな技法があることすら知らなかった。ただ手が、そう動いただけだ。

「……分かりません。自然にそうしていました」

長い沈黙があった。

ベアトリクスはゆっくりと振り返り、クロエを見た。その灰青色の瞳に浮かんだものを、クロエは読み取れなかった。厳しさでも怒りでもない。もっと複雑な、もっと深い何か。もしクロエがもう少し年を重ねていたなら、それが痛みに似た感情であると気づけたかもしれない。

「そうか」

ベアトリクスはそれだけ言って、調合室を出ていった。

残されたクロエは、自分の手をもう一度見つめた。見慣れた手のひら。調合の熱で少し荒れた指先。この手が知っていることを、クロエ自身は知らない。

午後の調合室は、午前よりも静かだった。

解毒の強化版は浄身の調合薬より工程が複雑で、見習いたちは処方箋と首っ引きで作業に没頭していた。マルセルは午前の失敗を取り返そうと慎重に温度計を睨み、リゼットは蜂蜜の分量を天秤で何度も確認している。

クロエも黙々と作業を進めていたが、その傍らで、リゼットが小声で話しかけてきた。

「ねえ、聞いた? 王妃様の一周忌、もうすぐでしょう。宮廷中が大騒ぎらしいわよ」

「ええ、聞いたわ」

「侍従長のところに出入りしてる子が言ってたんだけど、一周忌の法要に四大公家の当主が全員参列するんですって。しかも灰の審判の日程も正式に発表されるとか。王宮中がぴりぴりしてるわ」

灰の審判。灰色の王冠が次の王を選ぶ儀式だ。現国王が病に伏して久しく、王位継承問題は宮廷最大の懸案となっている。クロエのような見習い薬師には縁遠い話だが、宮廷全体に漂う緊張感は肌で感じていた。

「私たちには関係ないでしょう」

「そうだけど。でもさ、首席薬師は一周忌の薬礼を取り仕切るんだから、私たちも駆り出されるかもしれないわよ。薬礼用の調合、大量に必要なんだって」

クロエは頷きながら、撹拌の手を止めなかった。王妃の一周忌。一年前に病で亡くなったとされる先王妃のための法要。クロエは王妃の顔を知らない。見習い薬師が王族と直接会う機会などないのだから、当然のことだ。

それなのに、「一周忌」という言葉を聞いたとき、胸の奥がかすかに軋んだ。

気のせいだ、と思った。

「あ、それとね」リゼットが声をさらに落とした。「王妃様の離宮、ずっと封鎖されてたのが開くらしいのよ。一周忌に合わせて清掃するって」

「離宮?」

「王妃様が生前お気に入りだった別邸。王宮の北の外れにあるの。王妃様が亡くなってからはずっと閉じられてて、誰も近づけなかったんだけど」

クロエは「そう」と短く応じて、作業に戻った。王妃の離宮のことは、自分には関係がない。そう思った。そう思おうとした。

なのに、意識の片隅で何かが引っかかっていた。離宮という言葉が、記憶の水面に小石を投じたように、かすかな波紋を広げている。

――考えすぎだ。

三度目のその言葉は、もう少しだけ力を込めなければ効かなくなっていた。


ノエルとクロエの夜の薬房

夕方の鐘が鳴ると、見習いたちは調合室の片付けを終えて自由時間を得る。

多くの見習いは食堂に向かうか、寮に戻って休むかするのだが、クロエには夕暮れ時の習慣があった。王宮の中庭を散歩するのだ。調合室にこもった一日の終わりに、外の空気を吸いたくなる。薬草と試薬の匂いに鈍った嗅覚を、風の匂いで洗い流すような感覚が好きだった。

王宮には幾つもの庭園があるが、クロエがいつも足を運ぶのは決まって同じ場所だった。

灰の庭園。

王宮の中央に位置するその庭園は、他の華やかな庭園とは異質な空間だった。色彩豊かな花壇も、精緻な噴水も、見事な彫像もない。あるのは灰色の花だけだ。

灰銀花、灰霞草、灰幕蘭、灰月蓮。名前もすべて灰を冠する花々が、薄暮の光の中で静かに揺れている。どの花も白とも黒ともつかない微妙な灰色をしており、それは季節によっても時間帯によっても変わらない。夜明けでも真昼でも黄昏でも、灰色のままだ。まるで色彩という概念から切り離された場所のように。

この庭園で育つ植物は、「灰色の王冠」の原料になると言われている。灰薬の中でも最も特殊で、最も神秘的な薬。王を選ぶ王冠を作り出すための素材が、この静謐な庭で密やかに育てられているのだ。

見習い薬師がこの庭園に入ることは禁じられてはいないが、好んで訪れる者もいない。花が灰色ばかりでは面白くないし、魔素の濃度が高いこの場所に長時間いると頭が痛くなるという者もいた。

けれどクロエは、ここが好きだった。

理由は分からない。灰色の花々を眺めていると、胸の中の落ち着かないものが静まるのだ。既視感とも、郷愁とも違う。もっと根源的な安堵。まるで、あるべき場所に戻ってきたかのような。

石畳の小径を歩きながら、クロエは灰銀花の花弁に指を伸ばした。触れると微かな熱を感じる。魔素が反応しているのだ。灰薬の素材は、薬師の魔素に呼応する性質がある。普通の見習いでは反応が薄いはずだが、クロエが触れると灰銀花は明確に温かくなる。

それもまた、「才能」で片付けてきたことのひとつだった。

庭園の奥に進むと、小さな東屋がある。灰色の蔦が絡まる石造りの東屋で、ここからは宮殿の尖塔と夕焼けの空が同時に見渡せた。クロエはいつものように東屋の石段に腰を下ろし、夕暮れの空を眺めた。

今日も一日が終わる。明日もきっと同じ一日が来る。朝の鐘の前に目を覚まし、同じ道を歩いて調合室に向かい、処方箋通りに薬を作り、ベアトリクスの「及第」を受け、夕方にこの庭園に来て空を眺める。その繰り返し。安全で、予測可能で、穏やかな日々。

クロエはそれを愛していた。そしてそれを愛していること自体が、どこか不自然であることにも薄々気づいていた。十七歳の少女にしては、あまりに変化を恐れすぎている。あまりに秩序に執着しすぎている。まるで、秩序が崩れたら自分も崩れてしまうとでも言うように。

「あ――」

不意に声がした。

クロエは弾かれたように振り返った。東屋の裏手、灰月蓮の植え込みの陰に、人影があった。

少年だった。

年の頃は十五か十六か。クロエより少し年下に見える。淡い栗色の髪が夕風に揺れ、薄い頬に夕日の橙色が差していた。細い手には園芸用の小さな鋏が握られており、足元には編み籠が置かれている。その中には灰霞草の若芽が丁寧に摘み取られて並んでいた。

少年は大きな目をさらに大きく見開いて、クロエを見つめていた。まるで森の中で鹿に出くわした旅人のように、動きを止めている。

「ご、ごめんなさい。驚かせてしまいましたか」

クロエが先に声をかけた。

「いえ、その。こちらこそ」少年は慌てて鋏を背中に隠した。「人が来ると思わなくて。この庭園には、あまり人が来ないから」

「そうですね。私もいつも一人です」

少年はクロエの制服を見て、少し肩の力を抜いたようだった。

「薬師見習いの方ですか」

「はい。クロエ・グリザイユと申します」

名乗ってから、クロエは少年の服装に目を留めた。質素な園芸用の上着を羽織っているが、その下に見える衣服の生地は見習い薬師のものとは明らかに違う。絹の光沢がある。袖口に刺繍が施されている。そして何より、その刺繍の紋様は――。

王家の紋章だった。

クロエの背筋が伸びた。

「失礼しました。あなたは――」

「あ、いえ、その」少年はいっそう縮こまった。「フェリクスです。フェリクス・グリセルダ」

王子だ。

現国王の嫡子にして、この王宮で最も守られるべき存在。灰の審判を前に、宮廷中の視線が集まる少年。クロエは即座に頭を下げた。

「殿下。ご無礼をお許しください。このような場所でお目にかかるとは思わず」

「やめてください、そういうの」

フェリクスの声は切実だった。

「ここに来るのは、そういうのから離れたいからで。普通に話してもらえると、その、嬉しいのですが」

クロエは顔を上げた。フェリクス王子は困ったように笑っている。その笑顔はどこか痛々しく、年齢よりもずっと疲れて見えた。

「……畏まりました。では、フェリクス様」

「様もいりません、と言いたいところですが、さすがにそれは困りますよね」

「ええ、少し」

フェリクスは小さく笑った。今度は少しだけ自然な笑顔だった。

「グリザイユさんは、この庭園によく来るのですか」

「はい。夕方に散歩するのが日課で」

「僕もです。この灰の花たちの世話をするのが、好きなんです。誰にも頼まれていないのに。おかしいですよね、王子が庭師みたいなことをしているなんて」

クロエは灰月蓮の植え込みを見た。よく手入れされている。土は適度に湿り、枯れた葉は丁寧に取り除かれ、若芽の周りには支柱が立てられていた。これを王子が一人でやっているのか。

「おかしくはないと思います。植物の世話は、調合の基本です。素材を知ることは薬師の第一歩ですから」

「薬師の方にそう言ってもらえると、少し安心します」フェリクスは灰霞草の若芽をそっと指で撫でた。「母上が生前、この庭園をよく散歩されていたと聞いて。僕が物心ついた頃にはもう病がちだったから、一緒に来た記憶はないのですけれど。だからせめて、母上が愛した花を枯らしたくなくて」

王妃。

その言葉がまた、クロエの胸の奥を微かに揺らした。

「王妃様の一周忌が近いのですね」

「ええ」フェリクスの声が少し硬くなった。「一年。あっという間のようで、とても長かった。宮廷は一周忌の準備で忙しそうですが、僕はただ――母上のことを、静かに思い出したいだけなんです」

少年の横顔に、夕日が沈む光が落ちた。その表情には、十六歳の少年が抱えるには重すぎる何かが宿っていた。

クロエは何を言うべきか迷った。王子への慰めの言葉など、見習い薬師の口から出るものではない。身分が違いすぎる。

「……灰霞草の若芽は、夜露に当てると成長が早まります」

結局、クロエが口にしたのは薬師としての知識だった。

「夕方に摘むより、明け方に摘んだほうが魔素の含有量が高くなるそうです。首席薬師の講義で学びました」

フェリクスは少し驚いたように瞬いた。それから、ゆっくりと笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。明日から試してみます」

「お役に立てれば幸いです」

二人の間に、穏やかな沈黙が流れた。灰色の花々が夕風に揺れ、宮殿の尖塔に最後の夕日が反射して金色に光る。その光が消えると、庭園は急速に薄闇に包まれた。灰色の花は闇の中でもなお灰色のままで、むしろ暗がりの中でこそ、その不思議な存在感を増すようだった。

「そろそろ戻らなければ」クロエは立ち上がった。「門限がありますので」

「あ、はい。僕も戻ります」

フェリクスは編み籠を抱えて立ち上がった。王子とは思えないぎこちない動作で、上着の裾についた土を払う。

「グリザイユさん」

「はい」

「また、ここで会えますか。その、薬草のことをもっと教えてもらえたら嬉しいのですが」

王子から見習い薬師への、不思議な頼みごと。クロエは一瞬戸惑ったが、フェリクスの目に浮かぶ孤独の色を見て、静かに頷いた。

「私でよければ」

フェリクスは嬉しそうに微笑んだ。そしてすぐに表情を引き締め、王子らしい――いや、王子らしくしようと努力している少年らしい――会釈をして、庭園の北側の出口に向かって歩いていった。

クロエはその背中を見送った。小さな背中だと思った。王宮全体の重圧を背負うには、あまりに華奢な肩だ。

寮に戻ると、クロエはいつもの手順で就寝の準備をした。

制服を脱いで畳み、寝衣に着替える。歯を磨き、顔を洗い、髪を解く。明日の準備として処方箋の予習帳を開きかけたが、今日は珍しく集中できなかった。

灰の庭園の残像が、まぶたの裏に張りついている。

灰色の花。灰色の光。そしてフェリクス王子の、寂しそうな横顔。

王妃の一周忌。記憶操作薬。既視感。手が覚えていること。ベアトリクスの長い沈黙。灰銀花に触れたときの、あの温かさ。

それらの断片がぐるぐると回り、ひとつの形にはならない。パズルのピースのように散らばっているのに、完成図が見えない。いや、見えないのではなく、見ようとしていないのかもしれない。

――考えすぎだ。

四度目のその言葉を、クロエは声に出して呟いた。

安息の調合薬を一杯飲む。パクス。就寝前の一杯。穏やかな眠りを誘う白薬。これも毎晩の習慣だ。温かい液体が喉を滑り落ちると、身体の緊張がゆっくりと解けていく。副作用はない。少なくとも、処方箋にはそう書かれている。

蝋燭を吹き消し、寝台に横になった。

闇の中で目を閉じると、意識が急速に沈んでいく。パクスの効果は穏やかだが確実だ。数分もしないうちに、クロエの呼吸は規則正しい寝息に変わった。

夢を見た。

灰色の夢だった。

広い部屋。高い天井。窓から差し込む光も灰色だ。誰かの声がする。女性の声。優しい声。名前を呼んでいる。クロエの名前を。でも「グリザイユ」ではない。別の名前。もっと温かくて、もっと痛い名前。

手を伸ばす。その声に向かって。でも指先は何にも触れない。灰色の靄が全てを覆い隠す。声は遠ざかり、光は薄れ、そして――

――朝の鐘が鳴る前に、クロエ・グリザイユは目を覚ます。

夢の内容は覚えていない。いつも通りだ。灰色の何かを見た、という漠然とした感覚だけが残っている。それだけだ。それだけのはずだ。

頬が濡れていることに気づいた。

泣いていたのだろうか。何のために。分からない。分からないということが、少しだけ怖い。

クロエは頬を拭い、いつもの手順で朝の支度を始めた。顔を洗う。髪を梳く。制服に袖を通す。前掛けの紐を結ぶ。左の紐を折り返す。部屋を出る前に振り返る。寝台の皺。書机の筆記具。すべて確認して、扉を閉める。

調合室に向かう回廊で、クロエの足が止まった。

ベアトリクス・モルゲンが、薬師棟の入り口に立っていた。

首席薬師が朝からここに立っているのは珍しい。普通なら自室で書類仕事をしているか、王族の診察に出向いているかだ。

「首席薬師。おはようございます」

「クロエ・グリザイユ」

ベアトリクスの声は、いつもと同じ厳格さの中に、ほんの微かな何かを含んでいた。それが何かは、クロエにはまだ分からなかった。

「今日から三日間、通常の調合課題は免除する。別の任務を与える」

「任務、ですか」

「王妃の離宮の清掃を手伝いなさい。一周忌に向けた準備だ。薬師棟からも人手を出すことになった」

王妃の離宮。

昨日リゼットが話していた、あの封鎖された別邸。

クロエの胸の奥で、また何かが揺れた。小さな波紋。小石が水面を打つ音。

「承知しました」

「荷物をまとめて、午前の第二鐘までに北門に来なさい。それだけだ」

ベアトリクスは踵を返した。そして数歩進んでから、またあの――振り返らない呼びかけをした。

「クロエ」

「はい」

「……何を見ても、動揺するな。薬師は常に冷静であれ」

それは指導者としての一般的な訓戒のようでもあり、もっと具体的な警告のようでもあった。クロエが問い返す前に、ベアトリクスの背中は薬師棟の中に消えていた。

何を見ても、動揺するな。

クロエは首席薬師の言葉を反芻した。王妃の離宮に何があるというのだろう。一年間封鎖されていた建物の清掃。それだけのことだ。そのはずだ。

けれどクロエの手は、微かに震えていた。

理由は分からない。ただ、今朝に限っては「考えすぎだ」という言葉が、どうしても出てこなかった。

北門に向かうクロエの背中を、朝の灰色の光が照らしている。穏やかな日常の最後の朝を、彼女はまだそれと知らずに歩いていた。

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