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第10章

姉妹の対峙

 【解毒の浄薬 ― プルガティオ】用法: 毒を受けた部位に塗布。効果: あらゆる毒素を中和する。副作用: 痛みを伴う。毒が深いほど、浄化の痛みも深い。しかしそれは回復の証。


 廊下が長かった。

 クロエは王宮の東翼に向かって歩いていた。足取りは速くもなく遅くもなく、ただ一定の速度で石の床を踏んでいた。足の裏から伝わる冷たさが、裸足で屋敷の廊下を走った夜の記憶と重なった。あの夜の石は、もっと冷たかった。十二歳の足には、もっと。

 記憶が戻ったのは、つい数刻前のことだ。

 真実の薬を自分自身に投与した瞬間、灰色の靄が引き裂かれるように記憶の断片が噴き上がった。堰き止められていた五年分の過去が一気に押し寄せ、クロエの意識を呑み込んだ。深緑の窓掛け。漆喰の薬草の浮き彫り。書棚の三段目に並んだ植物図鑑。乳鉢を回す父の大きな手。髪を梳いてくれる姉の温かい指先。

 そして、あの夜。

 軍靴の音。連行される父。階段から見下ろした広間の光景。審問官の隣に立っていた、金の刺繍の上衣を着た男の影。灰色であることを恐れるな、クロエ。父の最後の言葉。琥珀色の液体。甘くて苦い味。溶けていく世界。泣いている姉の顔。

 全てが、戻ってきた。

 クロエ・グリザイユは嘘だった。クロエ・ヴィリディス。それが本当の名前だった。ヴィリディス家の次女。薬学の名門の令嬢。孤児ではなく、父を奪われ、記憶を奪われ、名前を奪われた少女。

 そしてそれを行ったのは——姉だった。

 回廊を抜け、東翼の突き当たりに辿り着く。ヴィリディス家の王宮内邸宅。見覚えのある扉。いや、見覚えなどという曖昧な言い方はもう適切ではない。この扉を、クロエは知っている。幼い頃、毎日くぐっていた扉だ。樫材の重い扉に施された、銀の葉の意匠。ヴィリディス家の紋章。

 五年ぶりに見るその紋章は、記憶の中のものよりもくすんでいた。手入れがされていないのではない。五年間の歳月が、銀の葉に疲弊を刻んでいるのだ。

 クロエは扉の前で立ち止まった。

 胸の中では怒りが燃えていた。静かな、けれど底知れない怒りだ。炎のように激しく燃え上がるのではなく、溶岩のように重く熱く、内臓の奥から這い上がってくる怒り。五年間、嘘の上に自分の人生を築いてきた。孤児だと信じていた。身寄りがないと思っていた。薬師ギルドの養護院で育ち、自分の才能だけを頼りに宮廷に上がったのだと思っていた。

 全てが嘘だった。

 才能は嘘ではなかった。だがその才能の根が、父から受け継いだ血に繋がっていることを知らなかった。手が勝手に動いた既視感の正体は、幼い日に姉から教わった調合の記憶だった。処方箋の筆跡に覚えがあったのは、それが父の筆跡だったからだ。全て、消された記憶の残滓が身体の中で叫んでいたのだ。五年間、ずっと。

 なぜ。

 その問いが、怒りの炎に油を注ぐ。なぜ記憶を消した。なぜ何も教えてくれなかった。なぜ五年間も放っておいた。孤児として苦しんでいるのを知りながら、なぜ——。

 クロエは拳で扉を叩いた。礼儀正しいノックではなかった。関節が痛むほどの力で、二度、三度。

 内側から足音が近づき、侍女のマリアが扉を開けた。見習い薬師の白い帽子を被った少女の顔を見て、マリアが怪訝な表情を浮かべる。

「お嬢様は——」

「通してください」

 クロエの声は低かった。自分でも驚くほど、落ち着いていた。怒りが極限に達すると、人はかえって静かになるのだと、このとき初めて知った。

 マリアを押しのけるようにして、クロエは邸宅の中に入った。廊下を進み、書斎の扉を開ける。

 ヴィオラがいた。

姉妹の対峙

 書斎の窓辺に立っていた。夕刻の光が窓から差し込み、姉の横顔を淡い橙色に染めている。亜麻色の髪が肩にかかり、灰緑の瞳が窓の外の庭園に向けられていた。報告書の束が机の上に広がり、薬草茶の湯気が細い筋を描いて立ちのぼっている。

 五年ぶりに見る、姉の書斎。

 記憶の中では、ここは父の部屋だった。壁の書棚に薬学の蔵書が並び、机の上には処方箋の下書きが散らばり、インクの匂いと乾燥した薬草の香りが混じり合っていた。今はヴィオラの部屋になっている。書棚の本は半分が入れ替わり、机の上の書類は行政文書に変わり、父の痕跡は薄れている。けれど壁の漆喰に施された薬草の浮き彫りはそのままだった。それだけは、変わっていなかった。

「お姉様」

 その言葉が、クロエの唇から落ちた。

 ヴィオラが振り返った。

 二文字の呼び方。五年間、誰からも向けられなかった呼び方。「ヴィリディス様」でも「ヴィオラ様」でもない、たった一人の人間だけが使う呼び方。

 ヴィオラの顔から、全ての色が引いた。

 穏やかな微笑みが消えた。宮廷の社交で磨き上げた完璧な仮面が、一瞬で粉々に砕けた。代わりに露わになったのは、五年分の恐怖と罪悪感と、それでもなお消えない愛情が混じり合った、生身の人間の顔だった。

「クロエ——」

「全部、思い出した」

 クロエは書斎の中央に立ったまま、姉の目を真っ直ぐに見た。灰色の瞳と灰緑の瞳が交差する。同じ父の血を引く二つの瞳。

「私がクロエ・ヴィリディスだということ。お父様が無実だったこと。あの夜、何が起きたか。そして——」

 声が、ほんの少しだけ震えた。怒りのせいではない。次の言葉を口にすることが、怒り以上に痛かったからだ。

「お姉様が、私の記憶を消したこと」

 ヴィオラの膝が折れかけた。窓枠に手をつき、かろうじて体を支えている。唇が開き、何かを言おうとして、音にならなかった。

「私の記憶を消したのね」

 クロエの声は静かだった。叫ばなかった。叫べば楽になるのかもしれなかったが、五年分の怒りは叫び声には収まらない。

「私の人生を、勝手に書き換えた」

 ヴィオラが目を閉じた。そしてゆっくりと、壁に背をつけて崩れるように座り込んだ。書斎の床に座り込む当主代行の姿は、宮廷の誰が見ても信じないだろう。穏やかで慈悲深い調停者が、妹の言葉一つで膝をついている。

「五年間」

 クロエは続けた。声は震えていたが、言葉は止まらなかった。止められなかった。五年間溜め込んでいた——自分では知らなかったけれど身体のどこかに溜まっていた——全てが、今、噴き出そうとしていた。

「五年間、私は孤児だと思って生きてきた。身寄りがないと信じて、薬師ギルドの養護院で。冬は毛布が足りなくて、食事は質素で、誰も迎えに来なかった。それでも薬の才能があったから、ギルドに残れた。才能がなければ、路頭に放り出されていたかもしれない。そういう子供を何人も見た」

 ヴィオラは何も言わなかった。目を閉じたまま、壁に背をつけて座っていた。

「宮廷に上がってからも。見習い薬師として毎日働いて、身分の低さを痛感して、貴族たちに見下されながらも歯を食いしばって。それが自分の運命だと思っていた。孤児に生まれたのだから、仕方ないと。自分の力で這い上がるしかないと」

 クロエの声が、初めて大きくなった。

「でもそれは全部、嘘の上に建てられた家だった。私は孤児じゃない。身分が低いのでもない。ヴィリディス家の令嬢で、四大公家の血を引いていて、姉がいて、父がいて——その全部を、あなたが消した」

 クロエの目に涙が滲んだ。怒りの涙だった。悲しみの涙でもあった。その二つがどこで分かれるのか、自分でも分からなかった。

「薬師ギルドで、自分が誰なのか分からないまま泣いた夜が何度あったか知ってる? 夢を見るの。灰色の夢。何も思い出せないのに、何かを失ったという感覚だけがある夢。目が覚めると、枕が濡れている。なぜ泣いたのかも分からない。そんな夜を、何百回も過ごした」

 ヴィオラの肩が震えた。声は出さなかった。唇を噛み、歯を食いしばり、ただ震えていた。

「お姉様に会ったとき」クロエの声が少し柔らかくなった。自分でも意図しない変化だった。「灰の庭園を一緒に歩いたとき、風が吹いて、私は無意識にお姉様の方に身を寄せた。覚えてる?」

 ヴィオラが目を開けた。涙で濡れた灰緑の瞳が、クロエを見上げた。

「覚えている」かすれた声だった。「覚えているわ」

「あのとき、体が覚えていたの。姉の隣を歩くときの距離を。記憶が全部消されても、体だけは忘れていなかった」

 クロエは一歩、姉に近づいた。

「それが嬉しかったの。自分でも分からないけれど、あなたの隣が心地よかったの。なのに——あなたは『初めてよ』と嘘をついた。私が『どこかでお会いしましたか』と聞いたとき、あなたは私の目を見て嘘をついた」

 その言葉で、ヴィオラの堪えていたものが決壊した。

 嗚咽が、漏れた。

 声を殺そうとしたが殺しきれない、絞り出すような嗚咽。五年間、誰の前でも見せなかった涙が、書斎の床に落ちた。

「私は——怒っている」クロエは涙を拭わなかった。頬を伝う涙をそのままにして、言葉を紡いだ。「こんなに怒ったのは初めて。生まれてからこんなに——いえ、生まれてからの記憶に嘘が混じっているから、もうそんな言い方もできない。とにかく、怒っている。お姉様に。私の人生を勝手に決めたお姉様に」

 クロエは姉の前に膝をついた。座り込んだヴィオラと同じ目線になる。

「でも——同時に、消えないものがある」

 ヴィオラが顔を上げた。涙に濡れた顔で、妹を見た。

「あの夜、私を抱きしめてくれたのもお姉様だった。あの薬を飲ませたとき、泣いていたでしょう。私は薬の効果で記憶がなくなっていたけれど、あの瞬間だけは——泣いている誰かの体温を、覚えている」

 クロエの声が、かすかに裂けた。

「守ろうとしてくれたことは、分かる。分かってしまう。だから余計に——許せないのか、許したいのか、自分でも分からない」

 姉妹は書斎の床に向き合って座っていた。窓からの夕日が長い影を落とし、二人の間に橙色の光と灰色の影が交互に横たわっていた。


 妹の灰色の瞳が、五年前と同じ色をしていた。

 ヴィオラは床に座ったまま、目の前のクロエを見つめていた。涙が止まらない。五年間一度も泣かなかったのに、こうして崩れてしまえばもう止められなかった。沈黙の封薬が物理的に存在したなら、とうに溶けて流れ去っていただろう。

 クロエが「お姉様」と呼んだ瞬間に、全てが終わった。

 五年間守り続けてきた仮面が。穏やかな当主代行という役割が。妹とは初対面のふりをして生きてきた日々が。その二文字で、粉々に砕けた。

 当然のことだった。いつかこの日が来ることを、ヴィオラは知っていた。記憶操作薬は完璧ではない。ベアトリクスがクロエの才能を見抜いて宮廷に上げた時点で、この日は近づいていた。真実の薬の存在を知る薬師が、自分自身の記憶の空白に気づけば、何が起きるか。

 遅かれ早かれ。それでも、できることなら——永遠に来なければいいと、祈っていた。

「話して」

 クロエの声が、ヴィオラの思考を断ち切った。

「全部、話して。五年前に何があったのか。なぜお父様が処刑されたのか。なぜ私の記憶を消したのか。全部」

 ヴィオラは涙を手の甲で拭い、深く息を吸った。胸の奥で、契約の薬の呪縛がちりちりと痛んだ。マグナスとの契約——真実について沈黙を守る契約。違反すれば代償が発動する。その代償がクロエにも及ぶ可能性がある。

 だが、クロエは自力で真実に辿り着いた。

 記憶を取り戻したクロエの前で嘘を続けることは、もはや沈黙を「守る」ことではない。沈黙が意味を失った以上、契約の条件そのものが変質している。ヴィオラの中で、五年間凍結されていた薬学の知識が動き始めた。契約の薬は「条件の不成立」によって効力を失う場合がある。クロエが自力で真実を知った今、ヴィオラの沈黙は契約の履行ではなく、ただの卑怯な逃避に過ぎない。

 たとえ呪いが発動するとしても。

 もう、黙っていることはできない。

「五年前の冬のことよ」

 ヴィオラは語り始めた。声は震えていたが、言葉は明瞭だった。五年間、頭の中で幾千回と反芻してきた記憶だ。口にするのは初めてでも、言葉はとうに完成していた。

ヴィオラの告白

「王妃エレオノーラ様が亡くなったのは、その年の秋だった。公式には病死。けれど本当は——毒殺だった」

 クロエが息を呑む気配がした。ヴィオラは続けた。

「使われたのは遅効性の黒薬。服用から数週間かけて体を蝕む、極めて高度な毒。王妃は薬学に精通していたから、並の毒では気づかれる。犯人は、王妃すら見抜けないほどの精度で毒を調合した」

「その犯人が——」

「マグナス・アウレウス」

 名前を口にした瞬間、ヴィオラの舌の裏が焼けるように痛んだ。契約の薬の残滓が反応している。しかしヴィオラは言葉を止めなかった。痛みは浄化の証だ。毒が深いほど、浄化の痛みも深い。

「マグナスには動機があった。王妃エレオノーラは元々マグナスの婚約者だったの。でも灰色の王冠の審判で、マグナスではなく現国王アルベルト陛下が選ばれた。王妃は国王に嫁ぎ、マグナスは二十年間、愛した女性を遠くから見続けることになった」

 ヴィオラは窓の外に視線を向けた。夕暮れの庭園で、薬草たちが風に揺れている。

「でも、マグナスが王妃を殺したのは、失恋の恨みだけではなかった。もっと計算された、政治的な行為だった。王妃はアウレウス家の財政独占を問題視していた。宮廷の財政改革を推し進めようとしていた。それはマグナスの権力基盤を揺るがすものだった」

「愛と権力。両方の動機があった」

「ええ。そして王妃を殺した後、マグナスは罪を着せる相手が必要だった。選ばれたのが——お父様だった」

 ヴィオラの声が、わずかに揺れた。

「お父様は王妃の非公式な薬学顧問だった。王妃に最も近い薬師だった。だからこそ、濡れ衣を着せやすかった。処方箋の筆跡を偽造し、毒薬の素材の入手記録を捏造し、買収した証人に偽証させた。灰の審問院の審問官の中にもマグナスの息がかかった者がいた。お父様は何の弁明の機会も与えられないまま、王妃暗殺の主犯として断罪された」

 クロエの拳が、膝の上で白くなるまで握りしめられていた。ヴィオラはそれを見て、自分の五年前の姿を思い出した。十七歳のヴィオラも、あの夜、同じように拳を握りしめていた。

「処刑は迅速だった。弁護も上訴も許されなかった。マグナスが裏で全てを動かしていた。ヴィリディス家は逆賊の一族として烙印を押され、領地は没収されかけた。かろうじて最低限の領地と邸宅は残されたけれど、かつての勢力は見る影もなくなった」

「それで——私はどうなったの」

 クロエの問いに、ヴィオラは目を伏せた。ここからが、最も痛い部分だった。

「あなたはあの夜、階段の上から広間を見ていた。お父様が連行される場面を。そしてあの広間には——マグナスの工作の一端が露呈しかねない状況があった。審問官の隣にマグナスの側近が立っていたこと。審問官がマグナスの名を口にしたこと。あなたは十二歳で、何が起きているのか正確には理解していなかったと思う。でもマグナスは、曖昧な記憶すら許容しなかった」

 ヴィオラは自分の両手を見下ろした。薬草を育ててきた手。妹の記憶を奪う薬を差し出した手。

「お父様の処刑の三日前に、マグナスが屋敷を訪ねてきた。深夜の密訪だった。あのとき私は十七歳で、何の力もなかった。お父様はもう助けられなかった。でも、あなたの命だけは——」

 声が詰まった。ヴィオラは歯を食いしばり、呼吸を整えた。

「マグナスの条件は明快だった。あなたの記憶を消す。ヴィリディス家の令嬢であること、あの夜に見たこと、姉の存在、全てを消す。代わりに、あなたの命は助ける。そして私が真実について永遠に沈黙を守る。それが取引だった」

「契約の薬で」

「ええ。パクトゥム。違反すればあなたにも呪いが及ぶ条項が含まれていた。私が口を開けば、あなたが危険にさらされる。マグナスは私の弱点を完璧に理解していた」

 ヴィオラは顔を上げ、クロエの目を見た。

「あなたの命か、あなたの記憶か。二つに一つだった。私は——命を選んだ。記憶のないあなたでも、生きていてくれれば、それでいいと思った」

 書斎に沈黙が落ちた。夕日がさらに傾き、窓からの光が赤みを増していた。

「記憶操作薬を調合したのは、マグナスが手配した闇の薬師だった。でも——」ヴィオラの声が、一段と低くなった。「あなたに薬を飲ませたのは、私よ。あの夜、あなたの部屋で。『眠れるようになる薬』だと嘘をついて。あなたは姉が差し出すものだからと、何の疑いもなく飲んだ」

 クロエの瞳が揺れた。その記憶は、たった今取り戻したばかりだ。

「あなたが薬を飲んで、意識が薄れていくのを見ていた。目の色が変わっていくのが分かった。灰色の瞳から光が消えて、灰色の——もっと深い、何もない灰色になっていった。あなたの中から記憶が引き剥がされているのが、目に見えた」

 ヴィオラの声が震え、しかし止まらなかった。五年間の沈黙を破る言葉は、堰を切った水のように止めようがなかった。

「あなたが最後に言ったのは『お姉さま』だった。もうほとんど意識がなくて、瞳の焦点も合っていなくて、でも最後にそう呼んだ。そしてその呼び方を、あなたは忘れた。私の名前を、私の顔を、私がいたことを、全て忘れた」

 涙が、また溢れた。

「翌朝、あなたを薬師ギルドの養護院に送り届けた。クロエ・グリザイユ。身寄りのない孤児。それがあなたの新しい名前だった。灰色。何もない灰色。せめて——あなたの本当の名前に近い音を残したくて、グリザイユという姓を選んだ。灰色の、という意味の」

 クロエが息を呑んだ。グリザイユ。灰色。それがヴィオラの残した、かすかな痕跡だったのだ。

「五年間」ヴィオラは続けた。「あなたが生きていることだけを支えに、生きてきた。マグナスの脅迫に耐え、ヴィリディス家の当主代行を務め、宮廷の茶会で笑顔を作り、報告書に署名して。あなたが薬師ギルドで元気に暮らしているという報告を、密かに受け取るたびに、それだけで——もう一日生きていける、と思った」

 ヴィオラの声が、かすかに裂けた。

「あなたが宮廷に上がったと知ったとき、世界が崩れるかと思った。こんなに近い場所に来てしまった。いつか真実に辿り着いてしまうかもしれない。でも同時に——会えるかもしれないと思った。遠くからでも、あなたの姿を見られるかもしれないと」

 ヴィオラは両手で顔を覆った。指の隙間から涙がこぼれた。

「知らないほうが幸せだと思った。何も知らなければ、あなたは安全で、穏やかに生きていける。お父様の処刑も、マグナスの陰謀も、姉がいたことも知らなければ、苦しまなくて済む。——でも」

 顔を覆った手を下ろし、ヴィオラはクロエの目を見た。涙に濡れた顔を隠さず、五年間の全てを晒して。

「でも、それが本当に正しかったのか、私にも分からない。あなたが灰の庭園で『どこかでお会いしましたか』と聞いたとき、あなたの目に戸惑いがあった。自分の感覚を信じたいのに信じられない、という戸惑い。私が『初めてよ』と嘘をついたとき、あなたの顔にほんの一瞬、落胆が浮かんだ。あなたの感覚を、私の嘘が否定した。知らないほうが幸せだなんて——それは私が自分に言い聞かせていた言い訳だったのかもしれない」

 ヴィオラは背筋を伸ばした。床に座ったまま、けれど姿勢を正して。

「あなたを守りたかった。それは本当よ。あの夜、十二歳のあなたを失うくらいなら、何でもすると思った。記憶を差し出せと言われれば差し出す。自分の命を差し出せと言われても差し出した。でも——あなたの記憶を消したことは、あなたの人生を奪ったことと同じだった。名前を奪い、家族を奪い、過去を奪った。命は救ったけれど、人格を殺した」

 ヴィオラの声が、静かに、しかし揺るがずに響いた。

「許してとは言えない。許しを求める資格が、私にはない。ただ——あなたに全てを話す義務がある。五年間黙っていたことの、せめてもの償いとして」


 書斎の夕日が沈みかけていた。

 橙色の光が赤に変わり、赤が紫に変わり、紫が灰色に沈んでいく。窓の外で、ヴィオラの薬草園がゆっくりと闇に溶けていった。

 クロエは床に座ったまま、長い沈黙の中にいた。

 姉の告白を、一言一句聞いた。五年前の真相を。マグナスの犯行を。取引の内容を。そしてヴィオラの五年間を。全てを聞いた上で、クロエの中では怒りと理解が互いを食い合っていた。

 許せない。

 許したい。

 その二つの感情が、調合しきれない灰薬のように胸の中で分離していた。白でも黒でもない、決着のつかない灰色。

「守りたかったって言うなら——」

 クロエは声を発した。長い沈黙の後で、声は乾いていた。

「なぜ五年間、何もしなかったの」

 ヴィオラが息を呑んだ。

「お父様は無実だったと知っていた。マグナスが真犯人だと知っていた。なのに五年間、何もせずに黙って耐えていた。お父様の名誉も、私の記憶も、放置したまま」

「動けば——」

「動けばどうなるの」

 クロエの声が鋭くなった。

「あなたが危険にさらされる」ヴィオラは搾り出すように答えた。「マグナスは——」

「マグナスが何をするの。五年前にしたことと同じことを、また繰り返すの。また誰かに濡れ衣を着せて、また誰かの記憶を消して、また——」

 声が裂けた。怒りと涙が混じり合って、言葉が破れた。

「お姉様は私を守りたかったと言う。でも私は、守られたいんじゃなかった。守られるために記憶を消されたなんて、私は望んでいなかった。五年間、自分が誰なのか分からないまま生きることを、私は選んでいない」

 ヴィオラが何かを言おうとした。クロエは遮った。

「選ばせてほしかった」

 その一言が、書斎の空気を変えた。

 クロエの目から涙がこぼれた。怒りの涙ではなかった。もっと深い場所から湧き上がる、悲しみの涙だった。

「十二歳の私には選べなかったかもしれない。でも——いつか選べるようになったとき、真実を教えて、私自身に選ばせてほしかった。知った上でどうするかを、私に決めさせてほしかった」

 ヴィオラの顔が歪んだ。その言葉が、五年間の自己正当化の核心を、正確に射抜いていた。

「……あなたの言う通りよ」

 ヴィオラの声は、かすれて小さかった。

「あなたに選ばせるべきだった。いつか、あなたが十分に成長したとき。真実を受け止められるようになったとき。その時を待って、全てを話すべきだった。——でも私は怖かった」

「何が怖かったの」

「あなたに嫌われることが」

 その告白は、あまりに剥き出しだった。宮廷の社交で鍛えた修辞も、当主代行としての威厳も、何の装飾もない、むき出しの恐怖。

「真実を話せば、あなたは私を恨むかもしれない。記憶を奪った姉を、許さないかもしれない。五年間黙っていた姉を、軽蔑するかもしれない。——その恐怖が、マグナスの脅迫以上に、私の口を閉ざしていた」

 沈黙が落ちた。

 長い、長い沈黙だった。書斎の外では使用人の足音がかすかに聞こえ、廊下の壁燭台に火が灯される気配がした。夜が来ようとしている。

「マグナスが——」

 クロエが口を開いた。声は涙で湿っていたが、その奥に、新しい何かが宿り始めていた。

「マグナスが、王妃暗殺の真犯人なのね」

「ええ」

「お父様は無実だった」

「無実よ。何一つ、関わっていなかった」

「そして今もマグナスは、宮廷の実力者として権力を握っている」

「そうよ。灰の審判を操作して、自家の息子を王位に就けようとしている。審問官の暗殺もマグナスの仕業だと私は確信している。ヴィリディス家に嫌疑を向けるための工作よ。五年前と同じ構図」

 クロエは立ち上がった。

 書斎の薄闇の中で、十七歳の少女は背筋を伸ばして立っていた。涙の跡が頬に残っていたが、灰色の瞳にはもう迷いがなかった。

「お父様の無実を証明する」

 ヴィオラが顔を上げた。

「マグナスを告発する。王妃暗殺の真犯人として。そしてお父様に着せられた濡れ衣を、晴らす」

「無謀よ」

 ヴィオラは即座に言った。立ち上がり、クロエの両肩を掴んだ。

「証拠がないの。五年前の証拠は全てマグナスが処分している。審問官の暗殺で新たな証拠を隠滅しようとしている。宮廷はマグナスの味方よ。財政を握る者に逆らえる貴族はほとんどいない。灰の審問院にもマグナスの息がかかっている。あなた一人で——見習い薬師一人で、何ができるの」

「一人じゃない」

 クロエは姉の手をそっと外した。拒絶ではなかった。ただ、自分の足で立つために。

「フェリクス殿下がいる。アデル・ルベウス卿がいる。ベアトリクス首席薬師がいる。そしてノエル・カエルレウスも——信用しきれないけれど、あの人は自分自身の選択を迫られている最中だと思う」

「でも証拠が——」

「証拠なら、作るのではなく見つける」

 クロエの声に、薬師としての確信が宿った。

「私は薬師よ。薬の痕跡は消えない。どんなに巧妙に隠しても、調合の残滓は必ずどこかに残る。使用された素材の魔素は分解されても微量の残留物を遺す。毒を盛った器にも、調合に使った器具にも、薬を飲まされた人間の体内にも。五年前の王妃暗殺に使われた黒薬の痕跡が、王妃の離宮のどこかに残っている可能性がある。王妃の遺品の中に。あるいは——」

 クロエは自分の胸に手を当てた。

「私自身の体内に。記憶操作薬の痕跡が、まだ残っているかもしれない。あの薬を調合したのがマグナスの手配した闇の薬師だとすれば、調合の癖——魔素の配合比率、素材の精製度、意志の込め方——が痕跡として残っている。それとマグナスの関与を結びつけることができれば、物的証拠になる」

 ヴィオラは妹の顔を見つめていた。

 五年前、十二歳のクロエの目には不安と恐怖があった。何が起きているのか分からず、ただ怯えていた幼い少女の目だった。

 今、目の前にいるのは十七歳のクロエだ。怒りと悲しみを経て、その先に覚悟を見出した若い薬師の目だった。灰色の瞳に宿っているのは、真実を追い求める意志。父から受け継いだ薬学の血と、五年間の薬師修業で培った技術と、そして記憶を取り戻したことで得た「自分が何者であるか」という確信。

 この子は、もう幼い妹ではない。

 ヴィオラの胸に、怒りでも悲しみでもない感情が広がった。それは——畏敬に近いものだった。記憶を奪われ、名前を奪われ、五年間を偽りの中で過ごしながら、それでも自分の力で立ち上がった少女への。

「……無謀よ」

 ヴィオラはもう一度言った。だが今度の声には、先ほどの切迫した制止の響きはなかった。

「マグナスは周到で、冷酷で、宮廷の全てを掌握している。あなたが動けば、必ず反撃してくる。五年前と同じように、濡れ衣を着せるかもしれない。あるいはもっと直接的な手段で——」

「それでも」

 クロエは真っ直ぐにヴィオラを見た。

「お父様は、灰色であることを恐れるなと言った。白でも黒でもない場所に、本当の答えがあると。私はずっとその言葉の意味が分からなかった。記憶が消されていたから。でも今は分かる。お父様は——私に覚悟を求めたんだと思う。真実は灰色の中にある。白く清潔な正義でもなく、黒く明快な悪でもなく、その間の曖昧な場所で、自分の目で見極めろと」

 クロエは一歩、ヴィオラに近づいた。

「お姉様のしたことを、私はまだ許せない。許せるかどうかも分からない。でも——お姉様が私を守ろうとしたことは、嘘じゃなかった。あの夜の涙は嘘じゃなかった。五年間の苦しみも嘘じゃなかった。そのことは、分かっている」

 ヴィオラの目から、また涙がこぼれた。だが今度の涙は、先ほどとは温度が違った。

「だから一つだけ、お願いがある」

「何でも言って」

「もう、私の代わりに決めないで」

 クロエの声は穏やかだったが、揺るがなかった。

「これからは自分で決める。何を知るか、何をするか、何を背負うか、全部。お姉様に守られる子供ではなく——対等な姉妹として、一緒に歩きたい」

 対等な姉妹。

 その言葉が、ヴィオラの胸の奥に沈んだ。五年間、ヴィオラは常に「守る側」だった。妹を守るために沈黙し、犠牲を払い、耐え忍んだ。それは愛情だったが、同時に支配でもあった。妹の人生を自分の判断で管理するという、形を変えた支配。

 クロエは今、それを終わらせようとしている。

 守られる側から、自ら歩む側へ。

 ヴィオラは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。五年間の重みが、その呼気に乗って少しだけ軽くなった気がした。

「分かったわ」

 ヴィオラの声が、静かに響いた。

「あなたの覚悟を、私は認める。もう——あなたの代わりに決めたりしない」

 クロエが頷いた。小さく、しかし確かに。

「でも、一つだけ言わせて」ヴィオラは微かに笑った。涙の跡が残る顔で、それでも笑みを浮かべて。「一人で行かないで。無謀が無謀でなくなるように——私にも手伝わせて。ヴィリディス家の当主代行として、知っていること、持っている人脈、全て使う。今度こそ、あなたの隣で」

 クロエは何も言わなかった。ただ、ほんの半歩だけ、姉の方に身を寄せた。灰の庭園でそうしたように。記憶が消されていた頃と同じように。けれど今度は、なぜそうするのかを知っている。

 姉の体温が、近かった。五年前と同じ温度だった。

 書斎に夜が来ていた。壁燭台の炎だけが二人の姿を照らし、長い影が床に伸びていた。窓の外の薬草園は闇に沈み、月光草の銀色の葉だけがかすかに光を反射している。

 このとき、ヴィリディス家の書斎には姉と妹しかいなかった。宮廷の誰も、この対話を知らない。だが二人の間で交わされた言葉は、静かに、しかし確実に、この王国の運命を変える歯車の一つを回した。


 その夜、王宮の西翼にあるアウレウス家の居室で、マグナス・アウレウスは書斎の暖炉の前に座っていた。

 金縁の杯にワインを満たし、一口含む。火照った唇から喉へ、冷えた葡萄酒が滑り落ちていく。暖炉の炎が杯の金に映り込み、赤と金の光が揺れる。

 マグナスの前のテーブルには、一通の報告書が置かれていた。

 彼の目が報告書の上を滑る。配下の者が記した、今日の宮廷の動静。そこに一行、マグナスの視線を止めた文字列があった。

『薬師見習いクロエ・グリザイユ。本日午後、調合室の自室にて数刻にわたり不在。所在不明。その後、東翼ヴィリディス家邸宅方面に向かう姿が回廊にて目撃される』

 マグナスは杯を置いた。

 東翼。ヴィリディス家。

 あの娘が、ヴィオラの元を訪ねた。

 それ自体は異常なことではない。以前にもクロエとヴィオラが庭園を散歩している姿は報告されている。だが今日は、調合室を数刻にわたり空けた後の訪問だ。見習い薬師が上官に無断で持ち場を離れること自体が異例であり、その足でヴィリディス家に向かったという事実が、別の可能性を示唆している。

 マグナスは暖炉の炎を見つめた。

 可能性。

 最も望まない可能性。

 あの娘が、記憶を取り戻した可能性。

 記憶操作薬は完璧だったはずだ。五年間、一度も破れなかった。だがあの娘は禁書庫に入り、処方箋を見つけ、既視感を覚え、真実の薬の存在を知り——ベアトリクス・モルゲンの目の届く場所で、薬師としての技量を日々磨いていた。

 真実の薬の自己投与。

 もし成功していたら。もし記憶が戻っていたら。そしてそのままヴィオラの元に駆け込んだのなら。

 マグナスの指が、杯の縁を軽く叩いた。規則正しい、乾いた音。思考のリズムを刻む癖だった。

 ヴィオラとの契約が持つかどうかは、もはや問題ではない。クロエが自力で記憶を取り戻した時点で、契約の前提が崩壊している。ヴィオラが口を開くかどうかに関わらず、クロエは既に真実を知っている。

 つまり、沈黙による封じ込めは終わった。

 マグナスは立ち上がり、書斎の奥にある戸棚を開いた。中には幾つかの薬瓶が整然と並んでいる。全て黒薬だ。ラベルはついていない。ラベルは証拠になる。

 まだ確証はない。報告書の一行だけでは、記憶が戻ったと断定できない。だが、マグナスは四十五年の人生で一つの原則を学んでいた。

 最悪の可能性に備えよ。

 備えてから確認すればいい。確認してから備えるのでは遅い。

 マグナスは薬瓶を一つ手に取り、暖炉の光にかざした。琥珀色の液体が瓶の中でゆらりと揺れた。

「動きがあったか」

 独り言は、暖炉の薪が爆ぜる音に紛れた。

 マグナスは薬瓶を戸棚に戻し、書斎の机に向かった。ペンを取り、白い便箋に一行書いた。誰に宛てた文面かは、宛名からは読み取れなかった。文面そのものも、第三者が見れば何の変哲もない事務連絡に見えるだろう。だがその一行は、マグナスの配下にとっては明確な意味を持つ指示だった。

 便箋を封じ、封蝋に金の紋章を押す。

 マグナスは暖炉の前に戻り、再びワインの杯を手に取った。炎が揺れ、書斎の影が踊る。金の刺繍の上衣が炎の光を受けて輝き、四十五歳の男の横顔は温厚な微笑みを湛えていた。

 誰が見ても、穏やかな紳士の寛いだ夜の一時に見えただろう。

 だがその微笑みの裏で、マグナス・アウレウスの思考は既に三手先を計算し終えていた。

 証拠の隠滅。目撃者の排除。そして——必要であれば、あの姉妹の両方を、宮廷から消す手段。

 暖炉の炎が一際大きく揺れ、書斎の影が一瞬だけ深くなった。

 灰の審判の日が近づいている。この宮廷に、余計な真実が露見する余地を残すわけにはいかない。

 マグナスは杯を傾け、最後の一口を飲み干した。

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