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第9章

灰色の目覚め

 【記憶回帰薬 ― レミニスケンティア】用法: 真実の薬と併用。効果: 操作された記憶の断片的回復。副作用: 回復した記憶と偽りの記憶が衝突し、激しい頭痛と混乱を引き起こす。覚悟のない者が使えば、自我が崩壊する。


 真夜中の調合室は、闇と沈黙の底にあった。

 蒸留器の受け瓶に溜まった薬液が、蝋燭の炎を映して揺れている。他の見習いたちが宿舎に引き上げてからもう何刻も経っていた。宮廷の回廊を巡回する衛兵の足音も遠ざかり、王宮の東翼は眠りに沈んでいる。

 クロエ・グリザイユは作業台の前に立っていた。

 台の上には、この三日間をかけて揃えた素材が並んでいる。銀の乳鉢。青白い月光草の根。琥珀色をした真実の苔の粉末。そして——灰の庭園から密かに摘み取った灰の星花。六枚の花弁が星の形に開いたその花は、摘み取ってなお微かな光を帯び、薬師の手を待つように静かに脈打っていた。

 真実の薬——ヴェリタス。

 服用者に嘘をつけなくする薬。裁判で使用されることもあるが、政治的な理由で忌避され、調合を許されるのは上級薬師以上に限られる。見習い薬師のクロエが、独断で調合しようとしている。

 処方箋はない。正確に言えば、紙に書かれた処方箋は手元にない。しかしクロエの中にはその調合手順が存在していた。禁書庫の文献と、ベアトリクスの講義で断片的に語られたヴェリタスの概要と、そして——説明のつかない身体の記憶が、一つの処方として繋がっている。

 ベアトリクスの言葉が、胸の奥で低く響いていた。

 ——真実は薬のように。服用する覚悟がなければ、毒になる。

 覚悟。

 クロエは自分の両手を見下ろした。薬師の手。乳鉢を回し、薬草をすり潰し、蒸留器を操ってきた手。この手が、今から作ろうとしているのは真実だ。自分自身に突きつけるための真実。

 迷いがないと言えば嘘になる。ヴェリタスを飲めば、嘘をつけなくなる。それだけではない。記憶操作薬メモリアによって改竄された記憶と、真実の記憶の区別がつくようになる——禁書庫の文献にはそう記されていた。偽りの記憶は灰色に曇り、真実の記憶は鮮明に浮かび上がる。

 つまりクロエは、自分の記憶のどこまでが本物で、どこからが偽物なのかを知ることになる。

 知りたい。知りたくない。

 その二つの感情はもう何日も前からクロエの中で絡み合い、ほどけないまま胸の奥に蟠っていた。だが今夜、クロエはここに立っている。素材を揃え、乳鉢を磨き、蒸留器を整え、調合の準備を全て終えて。

 決意は、言葉になる前に手が示していた。

 クロエは深く息を吸い、銀の乳鉢に手を伸ばした。

真実の薬の調合決意

 最初の工程は、月光草の根のすり潰しだった。

 月光草の根は銀白色をしており、乾燥させると硬質な鉱石のような手触りになる。これを銀の乳鉢で粉状になるまですり潰す。白薬の調合では時計回りに擂り粉木を回すのが基本だが、ヴェリタスの場合は異なる。反時計回りに、一定のリズムで、四十九回。

 クロエは擂り粉木を右手に取り、乳鉢の中に月光草の根を三ドラクマ量り入れた。

 反時計回り。一回、二回、三回——。

 手が迷わなかった。

 これが、クロエ自身にとって最も不可解な事実だった。ヴェリタスの調合手順を正式に学んだことはない。禁書庫の文献には素材と概要が記されていたが、精密な調合手順は省略されていた。にもかかわらず、クロエの手は微塵も迷うことなく動いている。擂り粉木の角度、加える圧力、回転の速度——全てが自然に、まるで何百回も繰り返してきた動作のように。

 七回目で圧力をわずかに弱める。十三回目で角度を変える。二十一回目で一拍置いて、粉末の状態を指先で確かめる。

 知っている。この手順を、身体が知っている。

 こめかみに鈍い痛みが走ったが、クロエはそれを無視した。今は調合に集中する。頭痛の意味を考えるのは後だ。

 四十九回の攪拌を終えると、月光草の根は微細な銀白の粉末になっていた。乳鉢の中で魔素が淡く発光し、粉末全体が朧月のような光を帯びている。

 次の工程。真実の苔の粉末を加える。

 真実の苔は、その名の通り「嘘を拒む」性質を持つ薬草だ。この苔を培地にして育った植物は、まっすぐにしか伸びない。曲がることも、歪むことも、他の植物に巻きつくこともしない。その性質が薬に転写されると、服用者の言葉から虚偽を排除する効果となる。

 クロエは秤で正確に二ドラクマを量り、月光草の粉末に加えた。二つの素材が混ざり合うとき、乳鉢の中で微かな抵抗が生じる。月光草の記憶に作用する性質と、真実の苔の虚偽を拒む性質が、互いにぶつかり合うのだ。この抵抗を調合師の意志——インテンティオ——で統合しなければならない。

 クロエは目を閉じた。

 意志を練る。薬理魔術の根幹。処方箋と素材だけでは魔薬は完成しない。調合師が「この薬に何をさせたいのか」を明確に意志し、その意志を魔素に乗せて素材に注ぐ。

 ——この薬に、真実を見せてほしい。私の中の偽りを、暴いてほしい。

 目を閉じたまま、擂り粉木を回した。今度は時計回り。素材の抵抗が手のひらに伝わる。ざらついた振動。だがクロエの手は怯まなかった。圧力を一定に保ち、リズムを崩さず、意志を注ぎ続ける。

 やがて抵抗が消えた。二つの素材が融け合い、乳鉢の中の粉末が均質な灰銀色に変わった。

 三つ目の素材。灰の星花。

 クロエは花を手に取った。六枚の灰色の花弁が掌の上で微かに震えている。生きている。この花は、摘み取られてなお生きている。灰の庭園でしか育たない特異な花。王冠の灰薬の原料が育つ庭に咲く花。その花弁には、灰色の王冠と同じ魔素が含まれているという。

 花弁を一枚ずつ、粉末の上に落とす。一枚目。二枚目。三枚目。

 花弁が粉末に触れるたびに、小さな閃光が走った。灰色の光。白でも黒でもない、その中間の色。

 四枚目。五枚目。六枚目。

 全ての花弁が粉末に吸収されると、乳鉢の中で反応が始まった。粉末が液化していく。固体から液体への変容が、蝋燭の炎に照らされて銀色に煌めいた。

 ここからが最も危険な工程だった。

 蒸留器に液化した素材を移し、低温で蒸留する。温度管理が極めて繊細で、一度でも規定の温度を超えれば素材は劣化し、低すぎれば魔素が凝固する。ベアトリクスですら集中力を要するだろう工程を、見習い薬師のクロエが行う。

 だが、手は知っていた。

 蒸留器の火加減を調整する指先は、まるで自分のものではないかのように精確に動いた。フラスコの中で液体が沸騰し始める直前——泡が立つか立たないかの臨界点で、火力を半分に落とす。管を伝う蒸気の速度を目視で確認し、受け瓶の角度を微調整する。冷却水の流量を左手で制御しながら、右手はフラスコの首を布越しに支えている。

 二つの手が、別々の仕事を同時にこなす。見習い薬師の技量を明らかに超えた、上級薬師——いや、大薬師に近い水準の調合技術。

 知っているはずがないのに。学んだことがないのに。

 手が、覚えている。

 蒸留が進むにつれて、受け瓶の中に液体が溜まっていった。一滴、また一滴。透明に近い液体が、受け瓶の底で渦を巻くように回転している。

 最後の工程。調合師の血を一滴。

 クロエは調合台の引き出しから細い銀の針を取り出し、左手の人差し指の腹に当てた。一瞬の痛み。赤い珠が指先に浮かぶ。

 その血の一滴を、受け瓶の液体に落とした。

 血が液体に触れた瞬間、反応が起きた。

 受け瓶の中の液体が、灰色に変わった。

 透明でも白でもない。黒でもない。あの灰の庭園の花と同じ色。灰色の王冠と同じ色。そしてクロエがいつも夢に見る、あの靄と同じ色。

 灰色に輝く液体が、受け瓶の中で静かに回転していた。蝋燭の炎を映して光り、同時に自らも光を放っている。処方箋のどこにも記されていない、しかしクロエの身体が「これが正解だ」と告げる色。

 真実の薬——ヴェリタスが、完成した。

 クロエは受け瓶を両手で持ち上げ、灰色の液体を見つめた。

 蝋燭の炎が揺れた。それに合わせて液体の中の光も揺らぎ、クロエの顔を灰色に照らした。

 これを飲めば、全てが変わる。

 嘘をつけなくなる。偽りの記憶と真実の記憶が区別されるようになる。自分が本当は誰なのかを——知ることになる。

 そして二度と、「穏やかな日常」には戻れない。

 クロエの手が震えた。調合中には微塵も揺るがなかった手が、完成した薬を前にして震えている。技術の問題ではなかった。覚悟の問題だった。

 知らなければ安全だ。知らなければ傷つかない。クロエ・グリザイユという見習い薬師として、ベアトリクスの弟子として、フェリクスの温室を手伝い、調合室で白薬を作り、穏やかに暮らしていくことはできる。今からでも遅くはない。この薬を捨てて、宿舎に戻って、眠って、朝になれば——。

 ——朝になれば、何だ。

 また同じ日常が来る。また同じ既視感に怯える。手が覚えていることから目を背け、夢の中の灰色の靄を見なかったことにして、自分の記憶の空白を「気のせい」と片づけて。

 それは安全かもしれない。だが安全なだけだ。

 ヴィオラの顔が浮かんだ。灰の庭園で並んで歩いたとき、風が吹いて、無意識に半歩身を寄せてしまった——あの瞬間。身体が覚えている何かに引き寄せられた、あの感覚。

 フェリクスの言葉が蘇った。「母上の薬草が今も生きているのは、あなたが世話を続けてきたからです」——クロエ自身がフェリクスに言った言葉。枯れかけた薬草でも、根さえ生きていれば蘇る。

 ベアトリクスの目。禁書庫に侵入したクロエを叱るのではなく、「それでいい」と言った師匠の目。長い年月をかけて為し得なかったことを弟子に託す、あの疲れた祈りのような眼差し。

 そして——灰色の夢の中で、いつも聞こえる声。

 灰色であることを恐れるな、クロエ。

 偽りの中で生きるのは——もう、できない。

 クロエは受け瓶を唇に近づけた。灰色の液体が瓶の縁で揺れている。甘い香り。その奥に、苦味の予感。

 目を閉じなかった。最後まで、灰色の光を見つめていた。

 一息に、飲み干した。

真実の薬投与

 最初に来たのは、味だった。

 甘い。蜜のような甘さが舌の上に広がった。それは——記憶にある味だった。五年前の、あの夜の。姉が差し出した琥珀色の液体と同じ甘さ。

 だが次の瞬間、甘さの底が割れた。

 苦。

 圧倒的な苦味が口腔全体を侵した。舌の根元から喉の奥まで、まるで毒を飲んだかのような激烈な苦味。クロエは思わず受け瓶を取り落としそうになった。硝子が指の間で滑り、かろうじて両手で抱え直す。

 苦味は喉を焼きながら胃に落ちていった。そこから——波紋が広がるように、全身に広がっていった。

 真実の味だ、とクロエは思った。真実は甘くない。甘いのは嘘の味で、その下にある真実は——こんなにも苦い。

 身体が熱くなった。血管の一本一本に熱い液体が流れ込むように、指先から頭の天辺まで、灰色の薬が染み渡っていく。

 そして。

 視界が、揺れた。

 調合室の壁が歪む。蝋燭の炎が横に伸びる。棚に並ぶ薬瓶が溶けるように輪郭を失い、天井の梁が蛇のようにうねり始める。

 頭の中で何かが弾けた。

 記憶の蓋が——開いた。

記憶の奔流

 ——庭。

 広い庭だった。

 花壇に薬草が植えられている。銀月草。暁蘭。境界のサンザシ。名前のついた札が一本ずつ立てられ、几帳面な文字で品種が記されていた。陽の光が白くて温かくて、空は抜けるような青で——。

 走っている。小さな足が芝を蹴る。ドレスの裾が膝に絡まる。笑い声。自分の声だ。

「お父さま、お父さま、これは何のお花?」

 大きな手。温かい手。しゃがみ込んだ男の人が、花壇の花を指さしている。深緑の上衣。端正で穏やかな顔立ち。灰色の瞳。自分と同じ色の——。

「これは銀月草だよ、クロエ。月の光を浴びて育つから、こんなに銀色に光るんだ」

 銀月草の葉に触れる小さな指。冷たくて、滑らかで、不思議な手触り。

「すごい。きらきらしてる」

「銀月草は記憶に関わる薬の素材になる。だが薬の素材としてだけ見てはいけない。この草にはこの草の命がある。薬師は命を預かる者だ。植物の命も、人の命も」

 父の声。低くて穏やかで、言葉の一つ一つに重みがあった。

「クロエ。お前は良い薬師になる。手が素直だ」

 小さな手を、大きな手が包む。温かさ。安全。世界の全てがここにある、という確信——。

 記憶が裂けた。


 ——別の場所。別の時間。

 部屋の中。机の前に座っている。処方箋の紙が広げてあって、誰かがその上に文字を書いている。端正で、わずかに右に傾いた書き癖。最後の一筆がかすかに跳ねる——あの筆跡。

「よく見ていなさい、クロエ。月光草の根は銀の乳鉢で、反時計回りに四十九回。これが基本だ」

 父だ。父が処方箋を書いている。その横で七つか八つの自分が椅子の上に膝立ちになって覗き込んでいる。

「四十九回? 多くない?」

「多いと感じるうちはまだ修行が足りないな」

 父が笑う。灰色の瞳が細くなって、頬に笑い皺ができる。

「いつか分かる。四十九という数には意味がある。七の七乗だ。薬理魔術において七は完成の数であり——」

 声が遠くなる。映像が灰色に霞んでいく。

 だが——もう一つ。もう一つ聞こえる。

「クロエ。灰色であることを恐れるな」

 父の声。あの声。夢で何度も聞いた、あの言葉。

「白でも黒でもない場所にこそ、本当の答えがある。覚えておきなさい」

 覚えて——。


 記憶が切り替わった。

 ——お姉さま。

 十二歳の声。自分の声。

 長い廊下を走っている。ドレスの裾は膝より長くなって、もう芝を蹴るようには走れない。でも走っている。息を切らして、廊下の奥の部屋に飛び込む。

「お姉さま、今日の調合、見て!」

 部屋にいたのは——。

 ヴィオラ。

 十七歳のヴィオラが、調合台の前に立っていた。亜麻色の髪を緩く編み上げ、白い調合服を着た若い女性。穏やかで、整った顔立ち。母に似ている。いや——クロエ自身に似ている。あるいはクロエがヴィオラに似ているのか。

「まあ、上手にできたわね。見せて」

 ヴィオラの声。聞いたことがある。灰の庭園で隣を歩いたとき、「ヴィオラでいいわ」と言ったあの声。同じ声だ。五年経っても変わらない、姉の——。

 姉。

 お姉さま。


 記憶の断片が、崩れた砂時計の砂のように、とめどなく流れ落ちる。

 食卓。四つの椅子。父と姉とクロエと——母はもういなかった。母の椅子だけが空いていて、食事のたびにクロエはその空の椅子を見ないようにしていた。

 庭。姉と手を繋いで歩く。姉の右側にぴったりとくっついて。寒い日はこうしていると温かかった。

 夜。寝る前に姉が髪を梳いてくれる。九十九回。百まで数えると縁起が悪いから、九十九でやめる。姉の指が髪の間を通るたびに、安心が身体の奥に染み込んでいった。

「お姉さま、明日も一緒にいてくれる?」

「当たり前でしょう。ずっと一緒よ」

 ずっと。

 ——嘘だ。


 夜。

 あの夜。

 十二歳のクロエの部屋に、軍靴の音が響いている。廊下の向こう。複数の足音。規則正しく、硬く、急いでいる。

 扉が開く。ヴィオラが入ってくる。白い寝間着に灰色の肩掛け。燭台の炎に照らされた横顔。穏やかさを装った仮面。しかしその下で——。

「クロエ。大丈夫。何も怖くないから」

 震える手。姉の手が震えている。

 階下の怒声。父の声。何かに抗っている父の声。

 走った。姉の制止を振り切って。裸足で。石の冷たさ。階段の手すりの隙間から見下ろした——。

 広間。灰色の外套の兵士たち。灰の審問院の紋章。蛇が薬瓶に巻きつく意匠。父が両腕を掴まれている。抵抗していない。背筋を伸ばして、審問官と何か言い交わしている。

 そして——。

 見えた。今まで灰色の靄に覆われていた部分が、真実の薬の力で剥がされていく。

 審問官の隣に、もう一人の男が立っていた。金の刺繍の上衣。温厚な笑顔。こめかみの白髪はまだ少なく、四十歳になったばかりの——。

 マグナス・アウレウス。

 あの男が、審問官に何かを耳打ちしていた。審問官がそれを受けて父に告げる。父の顔が凍りつく。

「灰色であることを恐れるな、クロエ!」

 父がこちらを見上げた。階段の上の、小さな娘を見つけた瞬間の目。愛と祈りと——絶望が入り混じった灰色の感情。

「白でも黒でもない——」

 声が途切れる。兵士が父の腕を引く。扉が閉まる。

 父が、消えた。


 悲鳴。

 自分の悲鳴。十二歳の少女の、何もかもが壊れた悲鳴。

 ヴィオラが追いついてくる。抱きしめられる。きつく、きつく。姉の腕の中で泣いている。涙と鼻水で姉の寝間着が濡れる。血の匂い。どこから? 父が連行されるとき、唇の端が切れていた。口の中を噛んだのだ。叫ぶのを堪えるために。

 血の匂い。涙。姉の腕。

「ごめんね」

 ヴィオラの声。

「ごめんね、クロエ」

 部屋に戻された。寝台に座らされた。姉が薬箪笥から小さな硝子瓶を取り出す。琥珀色の液体。甘い香り。

「これを飲んで」

「……お薬?」

「そう。眠れるようになる薬」

 嘘だ。語尾が上がっている。でも——。

 世界はもう壊れている。父がいない。何もかもが終わった。目の前の液体が何であれ、お姉さまが差し出すものならば。

 口をつけた。

 甘かった。

 でも、苦い。甘さの奥の、重たい苦味。灰色の味。

 ——あ。

 何かが溶けていく。

 身体の奥で、大事なものが溶けている。色が褪せていく。音が遠くなる。目の前の姉の顔が——。

 お姉さまの顔が。名前。この人の、名前が——。

 消え——。


 激痛。

 クロエは現実に引き戻された。

 頭が割れるような痛みだった。こめかみから後頭部にかけて、万力で締め上げられるような圧迫感。いや、圧迫どころではない。頭蓋の内側で二つの記憶が衝突している。偽りの記憶——薬師ギルドの孤児として育ったクロエ・グリザイユの穏やかな過去と、今蘇りつつある真実の記憶——ヴィリディス家の令嬢として生きていたクロエ・ヴィリディスの過去が、互いを否定し合い、押し潰し合い、頭の中で嵐のようにぶつかり合っている。

 膝が崩れた。

 調合室の石床に、クロエは両膝をついた。両手で頭を抱え、前かがみになる。視界が明滅する。調合室の壁が見えたかと思えば、次の瞬間には幼い頃の庭が広がり、また壁に戻り、またヴィオラの顔が浮かび——現実と記憶の境界が溶けている。

 自我が揺らいでいた。

 私は誰だ。

 クロエ・グリザイユ。薬師ギルドの孤児。身寄りのない見習い薬師。

 違う。

 クロエ・ヴィリディス。ヴィリディス家の次女。父に薬学を学び、姉に守られて育った令嬢。

 どちらが本当の自分なのか。どちらの記憶が真実なのか。

 ——両方だ。

 真実の薬が告げている。灰色に曇った記憶は偽り。鮮明に浮かび上がる記憶は真実。だが偽りの記憶もまた、五年間を生きてきたクロエの一部だ。薬師ギルドで過ごした日々。ベアトリクスに師事した時間。調合室で朝を迎えた幾百もの朝。それらは偽りの名前の下で積み重ねたものだが、クロエの手に宿る技術は本物であり、クロエが感じた感情は本物であり——。

 頭痛が限界に達した。

 クロエは石床に額を押しつけ、声なき悲鳴を上げた。口を開いても声は出ない。喉が痙攣し、呼吸が止まりかける。全身が震えている。蝋燭の炎が視界の端で揺れて、その光が灰色の涙に滲んだ。

 泣いているのか。自分が泣いているのか。

 分からない。

 やがて——どれほどの時間が経ったのか分からないが——波が引くように、痛みが和らいだ。嵐の後の凪のように、記憶の衝突が少しずつ収まっていく。

 クロエは石床に伏せたまま、荒い呼吸を繰り返した。

 頭の中で、記憶が整理され始めていた。

 偽りの記憶は灰色に曇り、縁が滲んでいる。薬師ギルドの養護院で目覚めた朝。「あんたはクロエ・グリザイユ」と告げた中年の女。粥の味。——それらの記憶は全て灰色のフィルターがかかっており、輪郭がぼやけている。存在しなかったわけではないが、土台が偽りだ。

 真実の記憶は鮮明だった。色彩があり、音があり、匂いがあった。庭の銀月草の銀色。父の深緑の上衣。姉の声。母の空いた椅子。夜の悲鳴。血の匂い。甘い薬の味。

 そして——五年前のあの夜、広間にいたマグナス・アウレウスの姿。

 全てが繋がった。

 父は無実だった。王妃暗殺の濡れ衣を着せられた。その背後にはマグナス・アウレウスがいた。禁書庫の処方箋の筆跡は父のものだった。「この薬を使う日が来ないことを祈る」と余白に走り書きした人物は、父——ヴィリディス家の当主だった。

 そして自分の記憶は消された。

 消したのは——姉だ。


 クロエは石床の上で、ゆっくりと身を起こした。

 全身に力が入らなかった。記憶の奔流に翻弄された身体は、嵐の後の砂浜のようにぐったりと疲弊している。それでもクロエは壁に背を預け、膝を抱えて座った。

 蝋燭はまだ燃えていた。炎が小さくなり、蝋が溶けて台の縁から垂れている。あとどれくらいもつだろう。一刻か。半刻か。

 頭の中で、記憶が統合されていく。

 偽りと真実が、ゆっくりと分離し、それぞれの場所に収まっていく。水と油を分けるように。灰色に曇った記憶の層と、鮮明な色彩を持つ記憶の層が、重なり合いながらも区別できるようになっていく。

 クロエ・グリザイユの五年間。クロエ・ヴィリディスの十二年間。二つの人生が、一人の少女の中に共存している。

 父のこと。

 ヴィリディス家の当主——クロエの父は、薬学の大家だった。大薬師の資格を持ち、独自の処方を数多く開発した人物。穏やかで理知的で、娘たちに薬草の名前を教え、処方箋の書き方を手ほどきした。クロエが調合の才能を持っているのは、幼い頃から父に手ほどきを受けていたからだ。

 父は王妃エレオノーラの薬学顧問を非公式に務めていた。王妃と友好的な関係にあった。そんな人間が王妃を毒殺する理由など——ない。

 濡れ衣だった。

 証拠は捏造された。処方箋の筆跡鑑定。毒薬の素材の入手記録。証人の証言。全てが精巧に作り上げられた偽りだった。そしてその背後にいたのは——。

 マグナス・アウレウス。

 あの夜、広間にいた男。審問官に耳打ちをしていた男。金の刺繍の上衣を着た、温厚な笑顔の男。あの男が全てを仕組んだ。王妃を殺し、父に罪を着せ、ヴィリディス家を潰した。

 怒りが込み上げた。

 腹の底から、灼けるような怒り。あの男が父を殺した。父は無実だった。何の罪もなく処刑された。それも足りず、幼い娘の記憶まで奪った。クロエ・ヴィリディスという少女を殺し、クロエ・グリザイユという孤児を作り出した。

 五年間。五年間もの間、クロエは偽りの名前で生きてきた。自分が誰なのかも知らずに。父がいたことも、姉がいたことも、家族があったことも忘れて。全てはあの男の——。

 いや。

 怒りの炎が、不意にゆらいだ。

 記憶を消したのはマグナスではない。マグナスが条件を突きつけたのは事実だろう。だが実際に記憶操作薬を調合し、クロエに飲ませたのは——。

 姉だ。

 ヴィオラが、あの硝子瓶を差し出した。「これを飲んで」と。「眠れるようになる薬」と嘘をつきながら。クロエの記憶を奪うと知りながら、琥珀色の液体を——。

 姉は私を守った。

 その認識が、怒りの中に滑り込んできた。

 マグナスの条件は明白だったはずだ。クロエの記憶を消すか、クロエの命を奪うか。十七歳のヴィオラが選べた選択肢は、そのどちらかだった。妹を殺すか、妹の記憶を殺すか。

 姉は記憶を殺すことを選んだ。命だけは守るために。

 灰の庭園で風が吹いたとき、無意識に半歩身を寄せたのは——身体が姉を覚えていたからだ。「どこかでお会いしましたか」と尋ねたとき、ヴィオラの微笑みの裏に何かが軋むのを感じたのは——姉が嘘をつく苦しみを堪えていたからだ。

 五年間。

 ヴィオラは五年間、妹の顔を見るたびに嘘をつき続けてきたのだ。「初めてよ」と。知らない人のふりをして。姉であることを隠して。クロエが「お姉さま」と呼ぶこともなく、名前を覚えてもいないクロエの前で——。

 胸が潰れそうだった。

 怒りと悲しみが同時に襲ってきて、クロエは膝を抱える腕に力を込めた。

 姉は私を守った。でも、私の人生を奪った。

 その二つの事実は矛盾しない。矛盾しないからこそ、どう受け止めればいいのか分からない。

 憎めない。ヴィオラを憎むことはできなかった。あの夜、泣きながら謝った姉の声を覚えている。「ごめんね。ごめんね、クロエ」。あれは、これから取り返しのつかない過ちを犯す人間の声だった。妹の命を守るために、妹の人生を奪おうとしている姉の、壊れそうな声。

 でも、許せるかと問われれば——まだ分からない。

 クロエの目から涙が零れた。

 声を殺して泣いた。調合室の石壁に背を預け、膝に顔を埋めて、声を漏らさないように歯を食いしばりながら泣いた。涙が頬を伝り、顎から滴り、膝を濡らした。

 何に泣いているのか、自分でも分からなかった。父を失ったことか。記憶を奪われたことか。五年間を偽りの中で過ごしたことか。姉の苦しみを想像してしまうことか。自分が本当は誰なのかをようやく知ったことか。それとも——知ってしまった今、もう元には戻れないことか。

 全部だった。

 全部に泣いていた。

 蝋燭の炎がちりちりと音を立てた。蝋がほとんど尽きかけている。炎は最後の力で踏ん張るように揺れ、調合室の壁にクロエの影を大きく映した。膝を抱えた小さな影。五年前のあの夜、寝台の上で震えていた十二歳の少女と同じ姿。

 だがクロエはもう十二歳ではなかった。

 涙が、止まった。

 嵐が過ぎた後のように、唐突に。泣き尽くしたのではない。まだ泣き足りないほどの悲しみが胸の中にある。だがその悲しみの底に、もう一つの感情が芽生えていた。

 決意。

 クロエは顔を上げた。涙で赤くなった目で、調合室の闇を見つめた。

 蝋燭の炎が最後のひと揺れを残して消えた。暗闇が調合室を満たす。だが東の窓から、夜明け前の薄い光が差し込み始めていた。白い光ではない。灰色の光。夜と朝の境界の色。

 灰色。白でも黒でもない。

 灰色であることを恐れるな——父の言葉が、もう夢の中の声ではなく、鮮明な記憶として胸に響いた。

 知ってしまった。

 自分がクロエ・ヴィリディスであること。父が無実の罪で処刑されたこと。記憶を消したのが姉であること。全てを仕組んだのがマグナス・アウレウスであること。

 もう戻れない。穏やかな日常にも。知らなかった頃の安全にも。クロエ・グリザイユという名前だけで生きていけた、あの灰色の凪にも。

 ——戻りたくない。

 クロエは立ち上がった。膝が笑っていた。身体はまだ疲弊している。頭痛の残滓がこめかみの奥でくすぶっている。だが足は動いた。一歩、また一歩。

 調合台の端に手をついて、身体を支えた。呼吸を整えた。東の窓から差し込む灰色の光が、クロエの横顔を照らしている。

 涙の跡が乾いていない頬。だがその目には、もう迷いはなかった。

 衝撃があった。混乱があった。怒りがあった。悲しみがあった。

 その全てを通り抜けて、残ったもの。

 真実を知った者だけが持つことのできる、静かな覚悟。

 クロエは調合室の出口に向かって歩き出した。扉を開け、暗い回廊に足を踏み出す。石の床が裸足の足裏に冷たい。——いや、裸足ではなかった。靴を履いている。五年前のあの夜とは違う。今のクロエは十七歳で、見習い薬師で、自分の足で歩いている。

 夜明け前の回廊を、クロエは歩いた。

 向かう先は一つだった。

 ヴィリディス家の邸宅。姉の部屋。

 記憶の中のヴィオラの顔が浮かぶ。灰の庭園で並んで歩いた午後。「ヴィオラでいいわ」と言ったときの声。風が吹いて花弁が舞ったとき、一瞬だけ目頭を赤くした横顔。あの人は——ずっと苦しんでいたのだ。クロエの前で姉でないふりをすることに。五年間、ずっと。

 許せるかは分からない。怒りが消えたわけではない。

 だが会わなければならない。話さなければならない。五年ぶりに——いや、記憶を取り戻した今この瞬間から数えれば、初めて——姉と向き合わなければならない。

 回廊の窓から、夜明けの光が一筋差し込んだ。灰色の空に、ほんのわずかだけ白が混じり始めている。夜が明ける。新しい朝が来る。クロエ・グリザイユの朝ではなく、クロエ・ヴィリディスの——いや、その両方であるクロエの朝が。

 ヴィリディス家の邸宅が見えてきた。東翼の端。灯りは消えている。姉はまだ眠っているかもしれない。だが待つつもりはなかった。

 クロエは邸宅の前に立ち、息を整えた。

 右手を上げ、扉を叩いた。

 静かに、しかし確かな力を込めて。

 扉の向こうの沈黙に向かって、クロエは口を開いた。

「話があります、お姉様」

 その声は震えていなかった。

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