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第14章

アデルの急襲

 【破壊の烈薬 ― フランゴ】用法: 障壁に塗布し点火。効果: 魔法的障壁を含むあらゆる壁を破壊。副作用: 壊すのは簡単。壊した後に何を建てるかが問われる。


 審問院の塔は夜明け前が最も手薄になる。

 アデル・ルベウスがそれを知っているのは、三年前の騎士団配属以来、王宮の全施設の警備体制を独自に調べ上げてきたからだった。騎士団隊長として正式に閲覧を許可された警備配置図は、実態の半分しか映していない。残りの半分は、アデル自身が夜間の巡回を重ねて掴んだものだ。

 審問院の塔には常時二十名の守備隊が配置されている。そのうち夜間は十二名。だが夜明け前の第四刻から第五刻にかけて、交代の引き継ぎで実質的に動ける人間は八名まで減る。正門に二名、地下牢への通路に三名、塔上部の見張り台に一名、巡回が二名。

 八名。

 アデルが率いてきた騎士は十五名だった。

「隊長。全員、配置につきました」

 暗闇の中でエルヴィンの声がした。月のない夜だった。審問院の塔は王宮の北端にそびえ立ち、灰色の石壁が闇に溶けている。塔の足元に広がる前庭の植え込みの陰に、十五の人影が息を殺していた。

 アデルは甲冑を着けていなかった。訓練着に革の胸当て、腰に長剣。軽装だ。審問院の塔を攻めるのに重装備は不要だった。問題は守備隊の数ではなく、速度だ。事が大審問官の耳に入り、増援が呼ばれるまでの猶予は短い。

「エルヴィン。一度だけ聞く」

 アデルは振り返らずに言った。

「お前はここで引き返せる。私の命令に従ったのではなく、独断で動いたことにする。処分は私一人が受ける」

 エルヴィンは沈黙した。その沈黙の長さは、彼がこの提案を真剣に検討していることを示していた。軽率に断る人間ではない。それがアデルの副官として最も信頼できるところだった。

「隊長にお聞きします。この行動は正しいとお考えですか」

「正しいかどうかは知らん。正義が不正に加担するなら、騎士は法を超える。それだけだ」

「であれば、お供します。正しいかどうか分からない場所でこそ、副官が必要でしょう」

 アデルは鼻を鳴らした。笑いに近い息だった。

「物好きな男だ」

「隊長に仕えていると、そうなります」

 アデルは腰の長剣の柄に手をかけた。手のひらに馴染んだ革の感触。訓練場で何千回と振るった剣。だが今夜、この剣を振るう理由は、訓練でも試合でもない。

 三日前、フェリクス王子からの密書がアデルのもとに届いた。

 クロエ・グリザイユとヴィオラ・ヴィリディスが、黒薬の不法所持の嫌疑で灰の審問院に拘束された。証拠は捏造であり、背後にマグナス・アウレウスがいる。灰の審判の前に二人を無力化するための先手だ。王子はそう記していた。フェリクスの筆跡は整然としていたが、文面の端々に十六歳の少年の切迫した感情が滲んでいた。

 アデルは密書を読み終えた瞬間に決断した。

 正式な手続きで二人を救うことは不可能だった。審問院は四大公家から独立した司法機関を自称しているが、実態はマグナスの金と影響力に深く浸食されている。正式な異議申し立てを行えば、書類は回され、審議は引き延ばされ、その間にマグナスは証拠の捏造を完成させるだろう。灰の審判が終わってから釈放されても、もう意味がない。

 だから、正式な手続きなど待ってはいられなかった。

 騎士団隊長の職を賭けた行動だった。王宮の施設である審問院に騎士団を率いて突入するなど、クーデターと見なされてもおかしくない。成功しても失敗しても、アデルは隊長の座を失うだろう。ルベウス家からの除名すらあり得る。

 だが、アデルの目の前にある天秤は、そんな計算を弾き飛ばしていた。

 片方の皿には、騎士団隊長の地位。ルベウス家の令嬢としての立場。王位継承候補としての可能性。積み上げてきた全て。

 もう片方の皿には、クロエの灰色の瞳があった。

 あの薬師見習い。事実を事実として伝えることしかできない、不器用で真っ直ぐな少女。彼女がラウルの死の分析を引き受けたとき、アデルは初めて「剣では守れないものを守る人間」に出会った。そしてその後に明かされた真実。クロエがヴィリディス家の令嬢であること。記憶を奪われていたこと。父親が冤罪で処刑されたこと。

 その全ての不正に対して、アデルの剣は何もできなかった。

 今夜は違う。

 今夜、アデルの剣は不正を斬る。

「全員、行くぞ」

アデルの急襲

 アデルの声は低く、静かだった。訓練場で号令をかけるときの鋭さとは異なる。腹の底から絞り出す、覚悟の音だった。

 十五の影が動き出した。


 正門の守備兵二名を制圧するのに、十秒とかからなかった。

 アデルが先頭に立った。当然だ。部下を矢面に立たせて後ろに隠れるような隊長は、隊長の名に値しない。

 夜明け前の暗がりから現れたアデルの姿に、守備兵の一人が槍を構えた。

「何者だ。審問院に夜間の入館は――」

 言い終わる前に、アデルの長剣が槍の穂先を跳ね上げた。手首の返し一つ。相手の武器を持つ手に衝撃を走らせ、指を開かせる技術。殺すためではなく、無力化するための一撃。

 もう一人の守備兵が剣を抜いた。だがアデルは既に間合いを詰めている。正面からではなく、半歩右にずれた位置。守備兵の剣が振り下ろされる。アデルはそれを身体の回転で避けながら、長剣の腹で相手の手甲を打った。骨に響く衝撃。剣が石畳に落ちる。

 エルヴィンの騎士二名が守備兵を拘束し、口を塞いだ。

「声を出すな。命は取らない」

 アデルは前を向いたまま言った。

 正門の内側に入る。石造りの通路が暗闇の中に伸びている。松明の間隔が広く、光の届かない区間が長い。審問院の建築は意図的に暗く設計されている。罪人を心理的に追い詰めるための構造だ。

 地下への階段を降りる。ここから先が地下牢だ。守備兵三名。

 階段の踊り場で、アデルは片手を上げて騎士たちを止めた。足音が石の壁に反響する。地下牢の番兵は、接近する足音で侵入者を察知するよう訓練されている。

 だがアデルは足音を隠すつもりはなかった。

 堂々と、階段を降りた。

 踊り場の先に、三名の守備兵が並んでいた。革鎧に短剣。地下牢の番兵は重装備ではないが、狭い通路での近接戦闘に長けている。

 先頭の番兵がアデルの姿を認めた。松明の光が赤い髪を照らし、ルベウス家の紋章が刺繍された訓練着が見える。

「――ルベウスの隊長? こんな時刻に何の用だ」

 アデルは歩みを止めなかった。

「囚人の引き渡しを要求する。クロエ・グリザイユとヴィオラ・ヴィリディスの二名」

「引き渡し? 審問院の囚人を騎士団に引き渡す権限は――」

「権限の話はしていない」

 アデルの声が通路に響いた。石壁が音を増幅し、地下全体が震えるような錯覚を与える。

「道を開けろ。さもなくば開けさせる」

 番兵たちの間に緊張が走った。三人が視線を交わし、先頭の男が半歩前に出た。短剣の柄に手をかけている。

「隊長殿。審問院は四大公家からも独立した機関です。いかに騎士団隊長とはいえ、正式な手続きなしに――」

「正式な手続きがマグナス・アウレウスの金で腐っていることを、お前も知っているだろう」

 アデルの言葉が空気を切った。

 番兵の動きが一瞬止まった。その一瞬の硬直が、アデルに全てを教えた。知っている。この男も知っているのだ。審問院がマグナスの道具になっていることを。だが見て見ぬふりをしている。給金のため。保身のため。

 アデルは剣を抜かなかった。

「お前たちは騎士ではない。だが守る者がいるはずだ。家族か。仲間か。自分自身の誇りか。知っていて黙っていることの重さが、いつか夜に眠れなくなる種類のものだと分かっていながら、それでもここに立っているのか」

 声は静かだった。力でねじ伏せる声ではなく、問いかける声だった。アデル・ルベウスらしくない。直情径行の武人にあるまじき、繊細な言葉だった。

 だが、それが今のアデルの真実だった。

 剣を振るえば三人を制圧できる。技量の差は歴然だ。だが力で黙らせることは、マグナスが金で口を塞ぐことと何が違うのか。騎士の剣が正義のためにあるなら、最初に斬るべきは敵の身体ではなく、不正への服従だ。

 沈黙が地下通路を満たした。

 先頭の番兵が、短剣の柄から手を離した。

「三十秒だけ目を瞑ります。それ以上は、私の職務が許しません」

 アデルは頷いた。

「それで十分だ」

 三人の番兵が道を空けた。アデルは駆けた。エルヴィンと騎士五名が後に続く。残りの騎士は通路の確保と退路の維持に充てた。


 地下牢は冷たく、暗かった。

 石壁から染み出す水気が空気を湿らせ、松明の煙と混じって重い靄を作っている。分厚い樫の扉が並ぶ通路を駆け抜けながら、アデルは歯を食いしばった。こんな場所に、人を閉じ込める。冤罪の証拠も示さず、ただマグナスの一筆で。

 牢は通路の一番奥にあった。

 覗き窓から中を確認する。薄闇の中で、一人が壁にもたれかかり、もう一人が床に座っている。

 壁にもたれているのがヴィオラだった。穏やかな表情はそのままだが、頬がこけ、唇が白い。数日間の拘束が身体に堪えている。だがその目は濁っていなかった。妹を守ると決めた女性の、静かな覚悟がまだ宿っている。

 床に座っているのがクロエだった。膝の上に紙片を広げ――暗がりの中でほとんど見えないはずの文字を読もうとしている。あるいは、読もうとする行為そのものに意味を見出しているのか。牢に入れられてなお処方箋を手放さない薬師の性に、アデルは苦笑しそうになった。

「クロエ。ヴィオラ」

 アデルの声に、二人が顔を上げた。

 クロエの灰色の瞳が暗闇を通してアデルを捉えた。驚きと、そして――信じられないものを見るような目。

「アデル隊長……?」

「助けに来た。立て」

 樫の扉の錠前に目をやる。頑丈な造りだ。鍵がなければ、力任せに開けるのは困難だった。

 エルヴィンが小瓶を差し出した。

「これを」

 ラベルには「フランゴ」と記されている。破壊の烈薬。魔法的障壁を含むあらゆる壁を破壊する灰薬。

「誰が用意した」

「フェリクス殿下から密かに届けられたものです。王子は調合室から持ち出したと」

 アデルはフランゴの小瓶を受け取り、錠前に少量を塗布した。点火には火打ち石を使った。

 爆発ではなかった。静かな燃焼。青白い炎が錠前を包み、金属が内側から崩壊するように溶けていく。魔素を含んだ炎が金属の結合そのものを断ち切る。十数秒で、錠前は灰色の粉となって石畳に散った。

 樫の扉を押し開ける。錆びた蝶番が悲鳴を上げた。

 クロエが立ち上がった。足元がふらついたが、すぐに踏みとどまった。ヴィオラもアデルに軽く頭を下げた。

「感謝します、ルベウス隊長」

「礼はいらん。時間がない。ここを出る」

 だがアデルはクロエの顔を見て、一瞬だけ足を止めた。

 灰色の瞳。最初に調合室で出会ったとき、この瞳は薬草の匂いの中で静かに光っていた。今も同じ光が宿っている。牢に入れられ、冤罪を着せられ、それでも折れていない。

「よく耐えたな」

 不意に口をついて出た言葉だった。アデルらしくない。いや、これもまたアデルの真実だった。

 クロエは小さく頷いた。

「師匠の言葉を思い出していました。真実は薬のように、と」

「薬のように何だ」

「服用する覚悟がなければ、毒になる。でも覚悟さえあれば――世界を変える力になる」

 アデルは鼻を鳴らした。薬師の言い回しは相変わらず回りくどい。だが悪くない。

「行くぞ。地上に出る」


 地下から地上への階段を駆け上がる途中、足音が聞こえた。

 上から降りてくる複数の靴音。重い。走っている。金属が触れ合う音。武装した人間。

「増援だ」

 エルヴィンが低く警告した。

 アデルは階段の途中で足を止め、クロエとヴィオラを背後の騎士たちに託した。

「二人を守れ。前は私が開ける」

 階段を三段飛ばしで駆け上がった。踊り場の先に、審問院の守備兵が五名。重装備。先ほどの番兵とは異なり、長剣と盾を装備している。大審問官直属の精鋭部隊だ。

「アデル・ルベウス。審問院への武力侵入は重罪だ。剣を捨てて投降しろ」

 先頭の兵が声を張り上げた。松明の光の中で、鋼の盾が鈍く光っている。

 アデルは剣を構えた。右半身を前にし、剣を肩の高さに据える。ルベウス家の流儀ではない。騎士団で教わる型でもない。アデルが六年間の実戦と訓練の中で磨き上げた、独自の構え。重心を低く、剣先を相手の目線より上に置く。視覚で相手を圧しながら、下半身の自由度を最大化する構えだった。

「退く気がないなら、来い」

 アデルの声は凪いでいた。

 先頭の兵が盾を前に押し出しながら踏み込んだ。狭い階段の通路では隊列が組めない。一人ずつ来るしかない。それがアデルの有利だった。

 盾と長剣の組み合わせは、正面からの突破に強い。盾で攻撃を受け、隙を見て斬り込む。教本通りの戦い方だ。だがアデルは教本を読んだことがない。読んだうえで、捨てたのだ。

 長剣が盾を叩いた。金属同士がぶつかる高い音。だがアデルの狙いは盾ではなかった。叩いた反動で身体を右に流し、盾の端を滑るように剣先を移動させる。盾の縁を超えた瞬間に手首を返し、兵の剣を持つ腕の手甲を打った。

 兵がよろめいた。アデルは間髪入れず踏み込み、肩で盾を押し込んだ。体重を乗せた押し。兵が後退し、その後ろの仲間にぶつかる。狭い階段で二人が重なった。

 アデルは押し込まれた兵の頭上を越えるように剣を振り、三人目の兵の剣を弾いた。石壁に剣先が当たって火花が散る。弾かれた隙に、アデルは三人目の胸当てを蹴り上げた。革と金属の鎧が衝撃を吸収するが、体勢は崩れる。

 四人目が横から斬りかかった。アデルは剣で受けずに身を沈めた。刃が頭上を通過する。振り抜いた相手の腕が伸びきった瞬間、アデルは立ち上がりながら柄頭で相手の顎を突き上げた。

「ぐっ――」

 四人目が崩れ落ちた。五人目はまだ後方にいる。前の四人が通路を塞いでおり、前に出られない。

 アデルは倒れた兵を踏み越え、五人目の前に立った。

 剣先を突きつける。

「まだやるか」

 五人目の兵は、アデルの目を見て剣を床に置いた。


 塔の地上階に出たとき、東の空が白み始めていた。

 夜明けの灰色の光が石造りの前庭を照らし、審問院の塔がその全貌を現す。五層の石塔は王宮の中でも最も古い建物の一つで、壁面には審問院の紋章――天秤と炎――が刻まれている。公正の象徴であるはずのその紋章が、今のアデルには嘘の看板にしか見えなかった。

 前庭に出たところで、待ち構えていた人影があった。

 大審問官セドリック。五十代の痩身の男。黒衣に灰色の帯。審問院の最高権力者であり、マグナスの意向を受けて審問院を動かしている人物だ。その後ろに、守備兵十名。先ほどの増援とは別の一隊。

「アデル・ルベウス」

 セドリックの声は冷たく、硬かった。

「宮廷騎士団による審問院への武力侵入。囚人の不法な解放。これは反逆行為に等しい。即座に剣を置き、囚人を返還しなさい」

 アデルはクロエとヴィオラを背にして、セドリックと向き合った。赤い髪が朝の風になびいている。

「大審問官殿。一つ聞く」

「質問を許した覚えはない」

「聞け」

 アデルの声が、前庭に響き渡った。それは命令だった。騎士団隊長の命令ではない。一人の人間が、別の人間に向けて発する、魂の底からの声。

「クロエ・グリザイユの逮捕状は、いつ発行された」

 セドリックの目が微かに動いた。

「三日前だ。マグナス・アウレウス殿からの告発を受けて――」

「告発状の証拠審査は行ったか」

「当然だ。証拠は十分と判断し――」

「その証拠がマグナスの捏造であることを、あなたは知っているか」

 前庭の空気が凍った。

 守備兵たちの間にざわめきが走る。セドリックの顔には感情が浮かばなかったが、その無表情さこそが答えだった。知っている。知っていて、加担している。

「根拠のない中傷は慎みなさい。あなたの立場をさらに悪くするだけだ」

「立場か」

 アデルは剣を鞘に収めた。

 守備兵たちが身構える。だがアデルの手は柄から離れていた。武器を持たない手を、前に差し出した。

「私の立場は今日で終わりかもしれない。騎士団隊長の職を剥がれ、ルベウス家から除名されるかもしれない。それでも構わない」

 アデルは一歩前に出た。セドリックとの距離が詰まる。守備兵が動こうとしたが、セドリックが手で制した。

「『女に騎士団長が務まるか』。そう言われ続けてきた。剣で黙らせてきた。だが今日、私が持ち出すのは剣ではない」

 アデルの声は静かだった。訓練場で号令をかけるときの声ではなく、調合室でクロエに問いかけたときの声に近かった。力で押すのではなく、真実で押す声。

「正義が不正に加担するなら、騎士は法を超える。そしてその代償は私が払う。だがこの二人を不正の牢に戻すことだけは、させない」

 セドリックの目が細くなった。大審問官の薄い唇が動いた。

「ルベウス隊長。あなたの勇気は認めよう。だが勇気だけでは――」

「勇気だけではないぞ、大審問官殿」

 別の声が、前庭の反対側から響いた。


 ノエル・カエルレウスは、審問院の塔の裏手から侵入した。

 表門をアデルが攻めることは分かっていた。フェリクスの密書が両者に届いていることを、ノエルは推測していた。王子は聡明だ。アデルの剣とノエルの知恵を同時に動かすことが、最も効果的な救出策だと判断したのだろう。

 ノエルが使ったのは、カエルレウス家の間者が代々受け継いできた技術だった。

 審問院の塔には正門以外に三つの入り口がある。公式には存在しないことになっている通路だ。一つは塔の地下と王宮の排水路を結ぶ水門。一つは塔の三階と隣接する書庫を繋ぐ渡り廊下の天井裏。そして一つは、塔の裏壁に設けられた隠し扉。

 隠し扉の存在を知っているのは、カエルレウス家の情報網でも限られた人間だけだった。建設当時の図面がカエルレウス家の書庫に眠っており、百年前にある間者が発見して以来、非常時の侵入経路として秘匿されてきた。

 ノエルはその経路を使った。

 家門のために蓄積された技術と情報を、家門の意志に反して使う。その矛盾は、ノエルの中で静かな痛みとなって鳴っていた。

 隠し扉は塔の一階、守備兵の詰め所の壁の裏に開いた。石壁の一部が薄く削られており、特定の位置を押すと人一人がすり抜けられる隙間が生まれる。ノエルの細身の体躯がぎりぎり通れる幅だった。

 詰め所は無人だった。守備兵は全員、アデルの突入に対応するために前庭に出ている。予想通りだ。陽動と侵入の連携。ノエルが計画し、アデルが実行した。

 いや、計画したのはフェリクスだ。ノエルとアデルに同時に密書を送り、二人が別々のルートから塔に入ることを見越していた。十六歳の王子の戦略眼に、ノエルは内心で舌を巻いた。

 詰め所を抜け、塔の内部通路を進む。靴音を殺す歩法。壁際を歩き、影から影へ移る。呼吸の深さを制御し、気配を消す。全てはカエルレウス家で学んだ技術だ。幼い頃から叩き込まれた、間者としての基礎。

 だが今回は、家門のために使うのではない。

 外套の内側に、書類の束がある。マグナス・アウレウスの犯行の証拠。あの夜、調合室でクロエに渡そうとした書類。だがクロエが逮捕される前に、全てを渡す時間がなかった。ノエルが渡した分はクロエが拘束された際に押収されたはずだ。だがノエルの手元には、まだ残りの書類がある。レナートの書庫から持ち出した二つ目の束。兄はまだ気づいていない。

 通路を曲がったところで、足を止めた。

 前方に声が聞こえる。セドリックの声。アデルの声。前庭で対峙している。壁越しに言葉の断片が届く。

 ノエルは壁に背を預け、目を閉じた。

 初めて、自分の意志で動いている。

 十二年間、兄の指示で動いてきた。父の教えで動いてきた。カエルレウス家の歯車として、情報を集め、人を利用し、家門の利益を最大化するための機械として。自分の意志など持つ必要がなかった。持つことを許されなかった。

 だが今、ノエルの足は自分自身の意志で動いている。

 クロエを助けるために。

 クロエへの感情と呼ぶには、まだ輪郭がはっきりしない。好意か。恋慕か。あるいはもっと根源的な何か。クロエの存在がノエルに教えたのは、特定の感情の名前ではなく、「感情を持つことそのもの」の意味だった。

 母が最後まで手放さなかったもの。カエルレウス家が罪と呼んだもの。ノエルが十二年間、鍵のかかった箱に閉じ込めてきたもの。

 自分自身であること。

 目を開けた。

 壁の向こうから、アデルの声が聞こえた。

「勇気だけではないぞ、大審問官殿」

 それはノエルに向けられた合図ではなかった。だが、ノエルはそれを合図として受け取った。

 壁沿いの通路を抜け、前庭に通じる側扉を押し開けた。

 朝の光が目に刺さった。灰色と橙が混じり合う夜明けの空の下、前庭に一歩踏み出す。

 全員の視線がノエルに集まった。

 アデルの騎士たち。セドリックの守備兵たち。そしてアデルの背後にいるクロエとヴィオラ。

 クロエの灰色の瞳が、ノエルを捉えた。

「ノエル……」

 その声は小さかった。だがノエルの耳には、前庭の全ての音をかき消すほどに鮮明に聞こえた。

 ノエルはセドリックの前に進み出た。大審問官との距離は五歩。守備兵が動こうとしたが、ノエルは片手を上げて止めた。カエルレウス家の次男。四大公家の一角の血筋。その名が持つ重みが、守備兵たちの反射的な行動を一瞬遅らせた。

「大審問官殿。私はノエル・カエルレウス。カエルレウス家次男として、審問院に証拠の提出を申し出ます」

 セドリックの眉が動いた。

「証拠?」

「クロエ・グリザイユに着せられた嫌疑が冤罪であること。そしてその冤罪の背後にマグナス・アウレウスがいることを示す、文書証拠です」

 ノエルは外套の内側から書類の束を取り出した。カエルレウス家の蔵印が押された羊皮紙。封蝋が朝の光を受けて鈍く光った。

 セドリックの表情が、初めて動いた。薄い唇が引き結ばれ、目に警戒の色が走る。

「カエルレウス家の当主の許可を得た上での提出か」

「いいえ」

 ノエルの声は平坦だった。だが、その平坦さの中に、揺るぎない何かがあった。

「これは私個人の判断です。カエルレウス家の意志ではなく、ノエルという一人の人間の意志で、この証拠を提出します」

「それは家門への反逆行為に等しいが」

「承知しています」

 ノエルはアデルの方を振り返った。赤い髪の騎士団隊長が、ノエルを見ていた。その目に、驚きはなかった。あるのは、理解だった。アデルもまた、自分の地位と家門を賭けてここに立っている。同じ覚悟を持つ者の目だった。

 ノエルはクロエの前に歩み寄った。

 書類を差し出した。

「これを灰の審判で使え」

 クロエは書類を見つめ、それからノエルの顔を見た。あの灰色の瞳。嘘をつかない目。牢に入れられてなお曇っていない、真っ直ぐな目。

「ここに記されているのは、マグナス・アウレウスが王妃暗殺に使った毒の入手経路、記憶操作薬の製造に関わった闇の薬師への報酬記録、そして五年前のヴィリディス家前当主の処刑に際して証拠を捏造した審問官への買収の金銭記録だ。カエルレウス家が長年にわたって密かに蓄積してきた情報を、全てまとめた」

「ノエル。これを渡したら、あなたは――」

「もう渡した。前にも同じことを言ったが、答えは変わらない」

 ノエルは薄く笑った。あの夜、調合室で見せたのと同じ笑み。苦くて、痛くて、それでも晴れやかな。今日はグラティアの薫りをつけていなかった。仮面の薫りはもう要らない。

「カエルレウス家の次男として生きた十九年間は終わりだ。だが――」

 ノエルの声が、わずかに震えた。

「初めて、自分の意志で動いている。これが――自由か」

 最後の言葉は、クロエに向けたものでも、アデルに向けたものでも、セドリックに向けたものでもなかった。ノエル自身に向けた問いかけだった。十二年間、鍵のかかった箱に封じてきた自分自身への、最初の呼びかけ。

 クロエは書類を受け取った。

 両手で、しっかりと。

「ありがとう、ノエル」

 その声は静かで、深かった。初めて本心からの感謝が、二人の間に流れた。薬草庭園で問い詰めた日の怒りも、調合室で証拠を受け取った夜の緊張も、牢の中で過ごした日々の孤独も。全てを経た上での、五文字。

 ノエルは目を伏せた。ありがとうと言われることに慣れていなかった。カエルレウス家では、感謝は取引の一部だった。何かを与え、見返りを得る。だがクロエの「ありがとう」には、取引の匂いがなかった。ただ純粋に、一人の人間が別の人間に向ける感謝だった。

 それが、こんなにも胸を打つものだとは知らなかった。


 セドリックが動いた。

「守備兵。全員を拘束しろ。アデル・ルベウス、ノエル・カエルレウス、そして囚人二名。審問院への武力侵入と公務妨害の罪で――」

「大審問官殿」

 前庭の入口から、新たな声が響いた。

 若い声。だが不思議な威厳を帯びた声。

 フェリクス・グリセルダが、灰の庭園の方角から前庭に歩み入った。王子の衣装ではなく、簡素な上衣に外套。庭師が着るような地味な身なりだったが、灰色の光の中で銀に近い金髪が輝いていた。十六歳の少年の肩は細く、軍人の威圧感とは無縁だったが、その歩みに迷いはなかった。

 フェリクスの後ろには、宮廷侍従が一人。侍従の手に、王家の封蝋が押された書簡があった。

「フェリクス殿下」

 セドリックの声が、わずかに硬くなった。王子の登場は想定外だったらしい。

「これは国王陛下からの勅命書です。病床の父に、この件について直接お話ししました。陛下は灰の審問院による今回の拘束について、手続きに疑義があると判断されました」

 フェリクスは侍従から書簡を受け取り、セドリックに差し出した。

「クロエ・グリザイユとヴィオラ・ヴィリディスの身柄は、灰の審判の当日まで王家の保護下に置かれます。審問院には改めて正式な手続きを踏むよう命じられています」

 セドリックは書簡を開き、内容を確認した。その顔から血の気が引くのが、朝の光の中でも見て取れた。国王の自筆と玉璽。偽造は不可能だ。

「殿下。これは……マグナス・アウレウス殿にも」

「マグナスには灰の審判の場で、全てを明らかにするつもりです」

 フェリクスの声は穏やかだったが、その奥に、母を殺した者への静かな怒りが宿っていた。

 セドリックは書簡を折り畳み、長い沈黙の後、守備兵に命じた。

「……退け」

 守備兵たちが武器を下ろした。


アデルの誓い

 前庭に朝の光が満ちていた。

 灰色だった空が徐々に白み、東の地平線から橙色の帯が広がっている。審問院の塔の影が前庭に長く伸び、その影の中に五つの人影が立っていた。

 アデル。ノエル。クロエ。ヴィオラ。そしてフェリクス。

 フェリクスは書簡を懐にしまい、クロエの方を向いた。

「クロエさん。灰の審判は明日です。準備は――」

「はい」

 クロエは書類の束を胸に抱いていた。ノエルから受け取った証拠。牢の中で暗記した証言の草稿。ヴィオラと共有した五年前の真実。全てが、ここにある。

「マグナスを告発する準備はできています」

 ヴィオラがクロエの隣に立った。姉の手が妹の肩にそっと触れた。五年間の沈黙を経て、初めて並び立つ姉妹。

「一人では抱えきれなかった重荷を、ようやく分かち合える」

 ヴィオラの声は穏やかだったが、その穏やかさの中に、長い苦しみを経た人間だけが持つ深さがあった。

 アデルは腰の剣に手をやった。鞘の中の長剣は、今夜一度も血を吸わなかった。力ではなく信念で道を開いた。それが可能だったのは、一人ではなかったからだ。

「次は大広間か」

 アデルの声は素っ気なかった。だがその素っ気なさの中に、戦いを前にした高揚があった。剣ではなく、真実で戦う。それはアデルにとって未知の戦場だったが、恐怖はなかった。隣に立つ仲間がいるからだ。

 ノエルは前庭の隅に立ち、夜明けの空を見上げていた。カエルレウスの藍色を思わせる空が、朝の光で徐々に白み始めている。家門の色が消えていく。その代わりに現れるのは、灰色と橙の混じり合った、名前のない色。

 白でも黒でもない色。

 青でもない色。

 ノエル自身の色。

「灰の審判に出るつもりか」

 アデルが隣に立った。赤い髪の騎士団隊長は、ノエルより半頭分背が高い。

「証人として出廷する。カエルレウス家がこの証拠をどうやって入手したか、私が直接証言する」

「家門を敵に回すぞ」

「すでに回しています」

 ノエルは薄く笑った。仮面ではない笑みに、まだ少し慣れない。顔の筋肉が不自然に強張る。

「ルベウス隊長も同じでしょう」

「私の場合は単純だ。間違っていることを間違っていると言う。それだけだ」

「それが一番難しいことだと、私は十九年かかって知りました」

 アデルはノエルの顔を見た。柔和な美貌。社交の笑顔で飾られていた顔が、今は飾りを剥がされて、少しだけ幼く見えた。仮面を外した人間の素顔は、仮面よりも脆い。だが脆さの中に、確かな意志が宿っている。

「悪くない顔だ」

「は?」

「嘘をやめた人間の顔は悪くないと言っている。褒めている。素直に受け取れ」

 ノエルは瞬きした。カエルレウス家で褒められた経験は、任務の成功報告のときだけだった。こんな無造作な褒め方をされたのは初めてだった。

「ありがとうございます。不慣れなもので、どう返せばいいか」

「礼はいらん。代わりに明日、大広間で役に立て」

 クロエとヴィオラが二人に近づいてきた。フェリクスも合流する。五人が前庭の中央に集まった。

 朝の光が全員の顔を照らしていた。

 クロエは一人ずつの顔を見た。

 アデル。騎士団隊長の地位と家門を賭けて、塔に突入してくれた人。力ではなく信念で戦う道を選んだ人。

 ノエル。家門を裏切り、自分の意志で証拠を届けてくれた人。嘘つきの仮面を脱ぎ捨てた人。

 ヴィオラ。五年間の沈黙を破り、妹と共に立つことを選んだ姉。

 フェリクス。母を殺した者を裁くため、病床の父を動かした王子。

 そして自分。記憶を奪われ、取り戻し、真実のために全てを賭ける覚悟を決めた薬師。

 一人では、ここまで来られなかった。

「灰の審判は明日」

 クロエの声が朝の空気を震わせた。

「マグナスは全力で阻止しようとするでしょう。でも、もう引き返すつもりはない。私の父の冤罪を晴らし、王妃殿下の死の真実を明らかにする。それが薬師としても、ヴィリディスの人間としても、私がすべきことです」

 アデルが頷いた。

「私の剣は真実のためにある。大広間で何が起ころうと、お前たちは守る」

 ノエルが頷いた。

「私の証言が必要なら、何度でも立つ。カエルレウスの名ではなく、ノエルという名で」

 ヴィオラが妹の手を握った。

「五年間、あなたに全てを背負わせた。これからは、一緒に背負う」

 フェリクスが静かに言った。

「母上は正義を愛した人でした。明日、母上が望んだ世界を少しだけ取り戻せるなら――私はそのために王家の力を使います」

 五人の間に、言葉のない合意が結ばれた。

 信頼と呼ぶには、まだ日が浅いかもしれない。絆と呼ぶには、傷が多すぎるかもしれない。だがこの瞬間、五人の間にあるものは確かだった。嘘のない、計算のない、真実のための連帯。

 朝の風が前庭を吹き抜け、審問院の塔の天辺に翻る旗をはためかせた。灰色の旗。天秤と炎の紋章。公正の象徴。

 明日、あの紋章が本当の意味を取り戻す。

 クロエは書類の束を外套の内側にしまい、王宮の大広間がある方角を見据えた。

「終わらせよう」

 その一言に、四人が頷いた。

 五つの影が朝の光の中を歩き出した。審問院の塔を背にして、王宮の中心に向かって。灰色の空が白に変わり始め、世界が新しい一日を迎える。

 嘘と沈黙と恐怖の日々は、もう終わりだ。

 灰の審判の日が来る。

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