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第15章

灰の審判

 【真実の薬 ― ヴェリタス(最終調合)】用法: 全ての者が同時に服用する。効果: 嘘の全てが剥がれ落ちる。副作用: 真実は全員を傷つける。しかし偽りよりもましだと、一人の薬師は信じた。


灰の審判

 大広間の扉が開くとき、灰色の光が降っていた。

 グリセルダ王宮の大広間は「審判の間」と呼ばれていた。天井は教会堂のように高く、灰色の石柱が左右に六本ずつ並んで回廊を形作っている。石柱の表面には建国以来の歴代の王の名が刻まれ、その一つ一つに薬草の蔓の浮き彫りが絡みついていた。壁面の高窓から差し込む光は、硝子に練り込まれた灰色の魔素によって独特の色彩を帯び、広間全体をうすく煙ったような灰白色に染めている。

 灰の審判の日。

 二十年に一度の儀式。灰色の王冠が次の王を選ぶ日。その儀式のために、四大公家の候補者と関係者が大広間に集結していた。

 大広間の中央、石造りの台座の上に、灰色の王冠が置かれていた。

 冠は金でも銀でもなかった。灰色の金属——いや、金属ですらない。魔薬で作られた生きた冠。灰の庭園で育つ花と同じ色をした、白でも黒でもない、曖昧な光沢を帯びた環。台座の上で微かに脈打つように光が明滅し、大広間に集った者たちの顔を灰色の光で照らしていた。

 王冠は適合者を自ら選ぶ。この国において、血筋も財力も武力も、最終的にはこの灰色の環の前で意味を失う。王冠が選ばなければ、誰も王にはなれない。

 大広間の右翼にはルベウス家の赤い軍装の一団がいた。アデル・ルベウスが腰に長剣を佩き、赤銅色の髪を一つに束ねて腕を組んでいる。その後ろに騎士団の精鋭が控えている。

 左翼にはカエルレウス家の藍色の衣装を纏った者たち。レナート・カエルレウスの冷徹な横顔が見え、その背後に——ノエルの姿があった。兄から半歩離れた位置に立つノエルの顔色は蒼白だったが、瞳には迷いのない光が宿っていた。

 正面奥にはアウレウス家。マグナス・アウレウスが金の刺繍の礼服を纏い、温厚な微笑みを湛えて立っている。四十五年の人生で磨き上げた仮面は、この場においても微塵も揺るがない。その隣にはアウレウス家の後継者候補であるマグナスの息子と、家臣団。

 大広間の奥——王座の隣に、フェリクス・グリセルダが立っていた。王太子としての正装を纏った十六歳の少年は、病に倒れた父王の代理としてこの儀式に臨んでいる。華奢な体躯を正装の重さが圧しているように見えたが、その灰色の瞳は真っ直ぐに前を向いていた。

 そしてヴィリディス家。大広間の片隅、かつての栄光の残滓のように小さくなった一角に、ヴィオラ・ヴィリディスが立っていた。当主代行としての正装。灰緑の瞳は穏やかだったが、その奥にはもう、五年前の怯えはなかった。

 灰の審問院の審問官たちが壁際に並び、宮廷の重臣たちが各家門の間を埋めるように着席していた。大広間全体で百人を超える人々が、灰色の王冠の前に集っている。

 その全員の視線が、大広間の入口に向けられた。

 扉の外から、一人の少女が歩いてきた。

 クロエ・グリザイユ——いや、クロエ・ヴィリディスは、宮廷薬師見習いの白衣を纏ったまま、大広間の石畳を踏んだ。

 正装ではなかった。貴族の令嬢としての衣装も、四大公家の紋章も身につけていない。ただ白い薬師の衣を着た十七歳の少女が、宮廷の権力者たちの視線の中を歩いている。

 足が震えていた。

 百人を超える人々の視線が肌を刺す。四大公家の当主たちの目が、審問官たちの目が、この王国の運命を左右する者たちの目が、たった一人の見習い薬師に集中している。石柱の間の回廊が、巨大な生き物の喉のように見えた。一歩ごとに飲み込まれていく感覚。

 だがクロエは足を止めなかった。

 白衣の内側に、ノエルから受け取った証拠の束がある。胸に抱えた薬嚢の中には、この日のために準備した素材が入っている。そして頭の中には——取り戻した記憶と、父の言葉がある。

 灰色であることを恐れるな。

 クロエは大広間の中央まで歩き、灰色の王冠の台座の前で足を止めた。

 振り返った。

 百余の顔がそこにあった。好奇、困惑、軽蔑、無関心。宮廷の権力者たちの目にとって、見習い薬師の少女は取るに足らない存在だったはずだ。だがクロエが口を開いたとき、その声は大広間の灰色の天井にまで届いた。

「本日の灰の審判に際し、この場にお集まりの皆様に告発を申し上げます」

 声は震えていなかった。調合室で真実の薬を飲み干した夜以来、クロエの声には新しい芯が通っていた。

「私はクロエ・ヴィリディス。ヴィリディス家の次女です」

 ざわめきが広がった。波紋のように。石柱の間に反響する囁き。「ヴィリディスの」「あの逆賊の」「生きていたのか」。

 クロエはざわめきが静まるのを待たなかった。

「五年前、父——ヴィリディス家当主は、王妃エレオノーラ様暗殺の罪で処刑されました。しかし父は無実です。王妃暗殺の真犯人は、この場にいます」

 大広間が凍りついた。ざわめきが止み、沈黙が石柱の間に落ちた。

 クロエの灰色の瞳が、大広間の左奥を見据えた。金の刺繍の礼服。温厚な微笑み。

「マグナス・アウレウス卿。あなたが王妃を殺した」


 マグナスの微笑みは、一瞬たりとも崩れなかった。

 クロエの告発が大広間の空気を切り裂いた後も、アウレウス家の当主は穏やかな表情を保っていた。むしろ困惑したように首を傾げ、周囲に目を配る仕草すら見せた。二十年かけて磨き上げた「温厚な実業家」の仮面は、正面からの告発にも動じない。

 だがクロエは仮面の下を知っていた。あの夜、広間で審問官に耳打ちしていた男の目を。

「証拠があります」

 クロエは白衣の内側から書類の束を取り出した。ノエルが渡してくれた、カエルレウス家の情報網が集めた証拠。

「第一に、王妃暗殺に使用された遅効性の黒薬について。この毒薬の調合に必要な素材の一つ、月光石は、グリセルダ王国では三箇所でしか産出されません。五年前の記録を辿ると、暗殺の時期に月光石の大量取引を行ったのはアウレウス家の商会だけです」

 書類の一枚を掲げた。取引記録の写し。マグナスの商会の帳簿から抜き出されたもの。

「偶然の一致ではありません。月光石は記憶操作薬メモリアの素材でもあります。アウレウス家は月光石の流通を独占的に管理しており、その流通経路を辿れば、記憶操作薬の製造者にも辿り着けます」

 クロエは二枚目の書類を掲げた。

「第二に、父への濡れ衣について。五年前の裁判で提出された証拠——処方箋の筆跡鑑定、毒薬の素材の入手記録、証人の証言——これらは全て捏造でした。当時の灰の審問院の上席審問官レオポルド・ファーレンの個人口座に、裁判の前後で多額の金銭が流入しています。その出元は、アウレウス家の裏帳簿に記された匿名の支出と金額が一致します」

 三枚目。

「そしてレオポルド・ファーレン審問官は、先月暗殺されました。口封じです。犯行現場に残された黒薬の痕跡を分析した結果、その調合の魔素配合比率は、月光石の独占取引を行ったアウレウス家の闇の薬師の調合癖と一致しています」

 クロエは書類を台座の上に並べた。灰色の王冠の隣に、真実の断片が一枚ずつ置かれていく。

「第三に——私自身の記憶について」

 クロエの声が、かすかに揺れた。だがすぐに持ち直した。

「五年前、私は記憶操作薬メモリアを飲まされました。ヴィリディス家の令嬢であった記憶を消され、クロエ・グリザイユという孤児として生きることを強いられました。記憶を消す条件を突きつけたのは、マグナス・アウレウス卿です。私の体内には今も、記憶操作薬の魔素残留物が残っています。この残留物の調合特性を分析すれば、薬を調合した闇の薬師を特定でき、その薬師とマグナス卿の繋がりを証明できます」

 クロエは深く息を吸った。

「マグナス・アウレウス卿。あなたは王妃を毒殺し、罪をヴィリディス家に着せ、私の記憶を消し、口封じのために審問官を暗殺した。全ては灰の審判を操作し、自家の息子を王位に就けるためです」

 大広間は静まり返っていた。

 百余の人間が息を殺している。重臣たちの顔には動揺が浮かび、審問官たちは互いに視線を交わしている。四大公家の家臣たちがざわつき始め、フェリクスは王座の隣で拳を握りしめていた。

 アデルが腕を組み、マグナスを射抜くような視線を送っている。ヴィオラは片隅で背筋を伸ばし、妹の姿を見守っていた。

 そして——マグナス・アウレウスが、口を開いた。

「素晴らしい弁舌だ」

 温厚な声だった。穏やかで、慈悲深ささえ感じさせる声。マグナスは一歩前に出て、大広間の聴衆に向かって両手を広げた。

「しかし、残念ながら、この告発には致命的な欠陥がある」

 マグナスの目がクロエを捉えた。温厚な微笑みの下で、獣の冷たい光が灯っていた。

「まず、この少女が名乗る『クロエ・ヴィリディス』という身元そのものが、検証されていない。ヴィリディス家の次女は五年前に行方不明となり、死亡が推定されている。突然現れた少女が名門の令嬢を騙り、旧家の復権を企てることは珍しいことではない」

 マグナスの声が大広間に朗々と響いた。演説に慣れた男の声。二十年間、宮廷の実力者として権謀術数を渡り歩いてきた者の、隙のない弁舌。

「次に、この『証拠』とやらの出所だ。取引記録、裏帳簿の写し——これらはどこから入手したのか。正規の手続きを経て開示された資料ではあるまい。不法に入手された文書は、証拠としての効力を持たない。ましてカエルレウス家の間者が集めた文書であれば、政敵を陥れるために捏造された可能性を否定できない」

 マグナスの目がノエルに向けられた。ノエルは蒼白な顔で微動だにしなかった。レナートの表情は読めない。

「そして何より、この告発のタイミングだ。灰の審判の当日。王冠が次の王を選ぶまさにその場で、唐突に五年前の事件を蒸し返す。これは正義の追求ではない。政治的な攻撃だ」

 マグナスは聴衆を見渡した。

「ヴィリディス家は五年前に逆賊の烙印を押された。その屈辱を晴らすために、落ちぶれた家門が仕組んだ陰謀だ。カエルレウス家と結託し、偽の証拠を用意し、アウレウス家を陥れようとしている。皆様にはそれをお見通しいただきたい」

 大広間の空気が揺れた。

 マグナスの反論は巧みだった。証拠の正当性に疑問を投げかけ、告発者の動機を政治的な復讐と位置づけ、カエルレウス家の関与を示唆して複数の家門への不信を煽る。真実を嘘で覆い隠すのではなく、嘘と真実の区別がつかないようにする——灰色に塗り潰す手法だった。

 重臣たちの顔に迷いが浮かんでいた。誰を信じるべきか。宮廷の実力者マグナスか、見習い薬師の少女か。権力の論理に従えば、答えは明白だ。

 クロエの胸に冷たい風が吹いた。

 分かっていた。証拠だけでは足りないことを。マグナスは二十年間この宮廷を支配してきた男だ。取引と脅迫と懐柔で築いた権力の網は、書類の束では断ち切れない。彼の言葉には重みがある。宮廷の財政を支える功労者の言葉には、薬師見習いの告発を圧倒するだけの重力がある。

 その重力に逆らうには——。

 マグナスが再び口を開こうとした瞬間、金の刺繍の礼服の袖の下で、右手が懐に入るのをクロエは見た。

 指先が何かに触れている。小さな硝子瓶のような形状。

 クロエの背筋に、薬師としての直感が走った。

「皆様に真実をお見せしましょう」

 マグナスの声が、わずかに変質した。温厚さの底に、焦りに似た鋭さが混じった。

「この場の全員に——正しい記憶を」

 マグナスの右手が礼服の内側から引き抜かれた。掌の中に、黒い硝子瓶が握られていた。封蝋が施されていないむき出しの瓶。その蓋が、指先でねじ開けられた。

 薬師の目が、中身を見る前に理解した。

 記憶操作薬——メモリア。

 大量の。

「伏せて!」

 クロエが叫んだ瞬間、マグナスが瓶を振った。


記憶操作薬の散布

 黒い液体が宙に散った。

 だが液体のままではなかった。瓶から放たれた瞬間、メモリアは気化した。黒薬が灰色の霧となって大広間に広がっていく。天井に向かって立ち昇り、石柱の間を縫い、百余の人間の頭上を覆うように拡散する。

 通常の記憶操作薬は液体であり、個人に投与する必要がある。だがマグナスが用意したものは違った。気化型の大量散布用メモリア。この大広間にいる全員の記憶を一度に書き換えるための、禁忌を超えた黒薬。

「全員の記憶から、今日の告発を消す」

 マグナスの声が灰色の霧の向こうから聞こえた。温厚な仮面は完全に剥がれ落ちていた。むき出しの声。二十年間の嘘を守るために全てを賭けた、追い詰められた男の声。

「この場にいる者の誰も、ヴィリディスの娘の告発を覚えていないことになる。証拠も、証言も、何もかも——最初からなかったことになる」

 灰色の霧が降りてきた。

 大広間に悲鳴が上がった。重臣たちが椅子を蹴倒して立ち上がり、審問官たちが出口に殺到する。だが扉は——マグナスの配下が外から閉じていた。逃げ場はない。

 霧がクロエの肌に触れた瞬間、あの甘い匂いがした。五年前の夜と同じ。琥珀色の液体の匂い。世界が灰色に沈んでいく、あの——。

 クロエの両手が震えた。記憶が蘇る。十二歳の自分。姉から差し出された瓶。甘くて苦い味。溶けていく世界。消えていく名前。

 また消される。

 また全てを奪われる。

 恐怖が喉を締めつけた。足が竦んだ。灰色の霧が顔の周りに漂い、こめかみが痺れ始めている。メモリアの魔素が皮膚から浸透しようとしている。あと数分もすれば、この場の全員の記憶から今日の出来事が消える。

 クロエの告発も。マグナスの犯行も。真実の全てが。

 五年前と同じだ。真実が闇に葬られる。嘘の上に新しい日常が築かれる。誰も何も覚えていない。何もなかったことになる。

 嫌だ。

 その一語が、恐怖の底から湧き上がった。

 嫌だ。もう二度と、嘘の中では生きない。

 クロエは薬嚢に手を伸ばした。

 この日のために準備していた素材。銀の乳鉢は持ってきていない。蒸留器もない。正規の調合手順を踏む時間はない。

 だが——手が覚えている。

 薬嚢から素材を取り出す指先は、恐怖で震えていたにもかかわらず、正確だった。月光草の粉末。真実の苔。そして灰の星花——朝、灰の庭園で摘んできた最後の六枚の花弁。

 ヴェリタス。真実の薬。

 調合室で作ったものとは違う。乳鉢もフラスコもない。あるのは掌の上の素材と、薬師の意志だけだ。

 だが薬理魔術の根幹は何だったか。処方箋と素材だけでは魔薬は完成しない。調合師の意志——インテンティオが素材を統合する。

 クロエは灰色の霧の中で目を閉じた。

 周囲の悲鳴が遠くなる。霧が肌を侵す感覚が消える。世界が狭まり、掌の中の素材だけが存在の全てになる。

 意志を練る。

 この薬に何をさせたいのか。

 ——全てを見せてほしい。この場にいる全ての人に、真実を。嘘の全てを剥がしてほしい。記憶操作の霧を打ち消し、偽りの幕を焼き払い、ありのままの世界を——。

 掌の上で、素材が反応した。月光草の粉末と真実の苔が、意志の力だけで融け合い始めた。乳鉢がなくても。蒸留器がなくても。インテンティオの密度が調合器具の不在を補って余りある。

 これは見習い薬師の技量ではなかった。

 父から受け継いだ血が。五年前に消された記憶の底に眠っていた、幼い日の修練が。ベアトリクスの下で磨いた五年間の経験が。全てがこの瞬間に統合されて、クロエの掌の上で真実の薬を産み出そうとしていた。

 灰の星花の花弁を、一枚ずつ加える。掌の上で灰色の光が脈打つ。

 だが——迷いが生じた。

 真実の薬を全員に飲ませれば、記憶操作を中和できる。マグナスの霧は打ち消される。だがヴェリタスの効果はそれだけではない。服用者に嘘をつけなくする。偽りの記憶と真実の記憶を分離する。全員が——この大広間にいる百余の人間全員が——自分自身の真実と向き合うことになる。

 各家門の暗部が露呈する。

 ルベウス家が辺境で行っている違法な採掘。カエルレウス家の間者網と、それによる外交相手国への背信。ヴィリディス家がかつて灰薬の禁忌に手を染めていた過去。宮廷の重臣たちが互いに隠し持つ弱みと取引。

 全てが、白日の下に晒される。

 真実は毒にもなる。

 ベアトリクスの言葉が脳裏をよぎった。服用する覚悟がなければ、毒になる。

 だがこの場の全員に、その覚悟があるのか。覚悟のない人間に真実を突きつけることは——。

 灰色の霧がさらに濃くなった。こめかみの痺れが増している。時間がない。あと数分で、メモリアが全員の記憶を侵食する。

「クロエ」

 声が聞こえた。霧の向こうから。

 ベアトリクス・モルゲンが、大広間の壁際に立っていた。

 宮廷首席薬師は灰色の霧の中で微動だにしていなかった。五十五年の人生で培った薬師としての耐性が、メモリアの浸透を遅らせているのだろう。だがそれも長くは持たない。師匠の額にも、薄く汗が浮いている。

 ベアトリクスの目がクロエを見ていた。厳格で寡黙な師匠の目。感情を見せることがほとんどない、完璧主義者の目。

 だが今、その目に、クロエは初めて見るものを認めた。

 涙ではなかった。微笑みでもなかった。

 信頼だった。

 弟子の選択を、師匠が信じている。その目だった。

「やりなさい、クロエ」

 ベアトリクスの声は、大広間の喧騒の中でかすかにしか聞こえなかった。だがクロエの耳には、世界の全ての音を押しのけて届いた。

「真実が毒になるか薬になるかは、使う者が決めることではない。受け取る者が、それぞれに決めることだ」

 師匠は一歩前に出た。灰色の霧の中で。

「私はかつて、真実を知りながら沈黙した。マグナスが闇に堕ちていくのを見ていながら、止められなかった。それが私の生涯の後悔だ。——だからお前に言う。私が許す。私が師として、お前の選択を許す」

 クロエの目から涙がこぼれた。

 それは恐怖の涙ではなく、覚悟の涙だった。

 真実は毒にもなる。でも、偽りの中で生きることの方がもっと毒だ。

 父がそうだった。無実の罪で命を奪われた。姉がそうだった。五年間の沈黙に蝕まれた。クロエ自身がそうだった。記憶を奪われ、偽りの名前で生きた。

 この宮廷全体が、偽りの毒に侵されている。マグナスの嘘だけではない。全ての家門が、全ての権力者が、互いに嘘をつき合い、秘密を握り合い、偽りの均衡の上に立っている。その均衡は安定しているように見えて、実は腐っている。根の部分から、静かに、確実に。

 毒と薬は紙一重。

 ならば——真実という毒を、薬に変えるのが薬師の仕事だ。

 クロエは掌を開いた。

 灰色に光る液体が、掌の窪みに溜まっていた。乳鉢も蒸留器もなしに、意志の力だけで調合された真実の薬。量はわずかだ。一人分にも満たない。

 だがこれを気化させれば——メモリアの霧と同じように——大広間全体に散布できる。

 メモリアを中和する。全員に真実を見せる。

 全員を傷つける。

 クロエは深く息を吸った。灰色の霧が肺に入り込み、こめかみが軋んだ。もう時間がない。

「ごめんなさい」

 声に出したのか、心の中だけだったのか、自分でもわからなかった。この場にいる全ての人に向けた謝罪。真実はあなたたちを傷つける。でも——。

真実の薬の対抗

 掌を、頭上に掲げた。

 意志を込めた。薬理魔術の全てを、この一瞬に。

 ——散れ。

 灰色の光が、掌から弾けた。


 真実の薬が気化した瞬間、大広間の色が変わった。

 マグナスの散布した灰色の霧——メモリアの黒い魔素が、ヴェリタスの灰銀の光と衝突した。二つの薬の魔素が大広間の空気の中でぶつかり合い、中和反応が始まった。記憶を消す力と、真実を暴く力が拮抗し、大広間全体が激しい閃光に包まれた。

 灰色と灰銀が混じり合い、溶け合い、そして——灰色の霧が引いていった。

 メモリアの効果が打ち消されていく。

 こめかみの痺れが消えた。記憶を侵食しかけていた黒い魔素が、ヴェリタスの光によって分解され、空気中に散っていく。大広間にいた人々の意識が、霧の中から浮上するように覚醒していく。

 だが、それだけでは終わらなかった。

 ヴェリタスの効果が、全員に及び始めた。

 真実の薬。服用者に嘘をつけなくする薬。偽りの記憶と真実の記憶を分離する薬。

 大広間の百余の人間が、一斉に、自分自身の真実と向き合わされた。

 悲鳴が上がった。それは記憶操作の恐怖による悲鳴ではなく、自分の内側から噴き出す真実に直面した者の悲鳴だった。

 ルベウス家の家臣が膝をついた。辺境での違法な鉱山操業の記憶が鮮明に蘇り、隠し通してきた罪悪感が一気に表出したのだ。アデルは唇を噛みしめたが、目は逸らさなかった。家門の恥部を、正面から見据えていた。

 カエルレウス家の陣営では、レナートの顔に初めて動揺が浮かんだ。間者を使って他国の外交官を篭絡した記録が、自分自身の記憶の中で鮮明に輝いている。隠す余地がない。ノエルはその横で目を閉じていた。兄の動揺を見るまでもなく、自分自身の嘘を——クロエを利用しようとした過去を——改めて突きつけられていた。

 審問官たちの中には、マグナスから賄賂を受け取っていた者がいた。その記憶が、本人の意志とは無関係に、嘘をつけない状態の中で自白として漏れ出た。

 ヴィオラは片隅で立ち尽くしていた。妹の記憶を消した夜の光景が、最も残酷な鮮明さで蘇っている。だが彼女の目には涙ではなく、静かな受容があった。この真実を、もう隠さなくていい。

 そして——マグナスの仮面が、砕けた。

 温厚な微笑みが消えた。金の刺繍の礼服を纏った男の顔が、歪んだ。ヴェリタスの効果が最も深く刺さったのは、最も多くの嘘を積み重ねてきた者だった。

「やめろ」

 マグナスの声が裂けた。温厚さの欠片もない、生身の人間の悲鳴。

「やめろ、やめろ——」

 だが薬の効果は止められない。二十年間積み上げた嘘の全てが、一枚ずつ剥がれ落ちていく。王妃への毒薬の調合を命じた夜。ヴィリディス家の当主に濡れ衣を着せるために証拠を捏造した過程。審問官を買収した密会。レオポルド・ファーレンの口封じを命じた書簡。クロエの記憶を消す条件をヴィオラに突きつけた、あの深夜の訪問。

 全ての記憶が、マグナスの中で燃え上がるように鮮明になり、その感情が——嘘をつけなくなった口から、言葉として溢れ出した。

「私が……殺した」

 マグナスは両手で頭を抱えた。膝が折れ、大広間の石畳に崩れ落ちた。

「エレオノーラを……私が……」

 大広間が、凍りついた。

 王妃の名を口にしたマグナスの声には、憎悪でも冷徹さでもない、もっと原初的な感情が宿っていた。愛。歪み、腐敗し、毒と化した愛。

「あの人は……私のものだったはずだ。灰色の王冠が選ばなければ……私が王になり……エレオノーラは私の妃になるはずだった。二十年……二十年も、あの人を遠くから見続けた。手の届かない場所で笑う彼女を……」

 マグナスの目から涙がこぼれた。二十年間一度も見せなかった、生身の感情。

「殺したかったのではない。ただ——もう耐えられなかった。彼女が改革を進めようとして、私の権力基盤を崩そうとして——いや、違う。本当の理由はそんなものではない。彼女がアルベルト陛下の隣で幸せそうに笑うのが……それが……」

 言葉が途切れた。マグナスは石畳の上で額を押さえ、嗚咽を漏らした。四十五歳の男の体が、子供のように震えていた。

 二十年間の嘘が、全て崩れた。

 大広間の百余の人間が、息を殺してその崩壊を見ていた。


 静寂の中で、灰色の王冠が光った。

 台座の上の王冠が、ひときわ強い灰色の光を放った。脈打つように明滅していた光が、安定した輝きに変わる。生きた冠が、何かに反応している。

 光は一条の筋となって大広間の空間を走り、フェリクス・グリセルダの胸を射した。

 フェリクスが一歩よろめいた。灰色の光が少年の体を包み、正装の上から染み込むように浸透していく。王冠が——選んだ。

 大広間に低いどよめきが走った。ヴェリタスの効果で嘘をつけない状態にある全員が、偽りのない驚きと畏敬を顔に浮かべていた。

 灰色の王冠が台座を離れた。

 浮き上がった。魔薬で作られた冠が、意志を持つかのように宙を滑り、フェリクスの頭上に移動した。そしてゆっくりと、十六歳の少年の頭に降りた。

 冠がフェリクスの額に触れた瞬間、大広間全体に温かい灰色の光が満ちた。石柱の表面に刻まれた歴代の王の名が淡く輝き、天井の高窓から差し込む光が銀色に変わった。

 フェリクスは両手を上げ、頭上の冠に触れた。その目は驚きに見開かれていたが、恐怖はなかった。

 少年は大広間を見渡した。

 崩れ落ちたマグナス。動揺する各家門の者たち。真実に打たれて立ち尽くす重臣たち。そして——台座の前に立つクロエ。灰色の瞳の薬師見習いの少女。

 フェリクスは一歩前に出た。そしてもう一歩。台座の前まで歩き、大広間の全員に向き合った。

「王冠が、私を選びました」

 声は静かだった。だがヴェリタスの効果の下にある少年の声には、嘘の入り込む余地がなかった。全ての言葉が、真実だった。

「でも——私は、王冠が選んだから王になるのではありません」

 フェリクスの目が、大広間の一人一人を見た。

「母上は殺されました。父上は病に伏しています。この宮廷は嘘と陰謀に蝕まれ、四大公家は互いに足を引き合い、民のための政治は誰も行っていない。私はそれを——変えたい」

 少年の声が、少しだけ強くなった。

「王冠に選ばれたことは光栄です。けれどそれは、私が王になる理由の全てではない。自分の意志で——この国を変えたいから、私は王になります」

 大広間に、新しい沈黙が降りた。ヴェリタスの効果が薄れ始めていた。気化型の薬の持続時間は短い。やがて全員が、嘘をつける状態に戻る。だがこの瞬間に語られた真実は、薬の効果が切れても消えない。聞いた者の記憶に、言葉として刻まれる。

 フェリクスはクロエを見た。

「クロエ・ヴィリディス。あなたの父上の冤罪を、私の名において正式に再調査する。ヴィリディス家の名誉回復を約束します」

 クロエは頷いた。声が出なかった。胸の奥で何かが溢れそうになっていた。

 アデルが腕を解き、一歩前に出た。長剣の柄に手を置いたまま、フェリクスに片膝をついた。

「ルベウス家は新王を支持する。ただし——我が家の暗部についても、裁きを受ける覚悟はある」

 ノエルが兄の横から進み出た。レナートが何か言いかけたが、ノエルはそれを聞かなかった。

「カエルレウス家の次男ノエルとして、ではなく。ノエル個人として、新王を支持します」

 レナートの顔が歪んだが、ヴェリタスの残滓が舌を縛っていた。反論の言葉が出ない。

 ヴィオラが片隅から歩み出た。ヴィリディス家の当主代行は、妹の隣に立ち、フェリクスに深く頭を下げた。

「ヴィリディス家は新王を支持いたします」

 マグナスは石畳の上に崩れたまま動かなかった。彼の周りには、アウレウス家の家臣たちが呆然と立ち尽くしていた。当主の全犯行が白日の下に晒された今、彼らにできることは何もなかった。

 審問官の一人が進み出て、マグナスの前に立った。

「マグナス・アウレウス。王妃暗殺、証拠捏造、審問官殺害、記憶操作薬の不法使用の嫌疑により、灰の審問院の権限をもって身柄を拘束する」

 マグナスは顔を上げなかった。石畳に額をつけたまま、もう何も言わなかった。二十年間の嘘の全てが崩壊した男の体は、抜け殻のように動かなかった。


 大広間に人々がまだ残っている中、クロエは石柱の陰に退いた。

 足が震えていた。今度こそ、本当に。緊張が解けた途端、全身の力が抜けていた。石柱に背を預け、ゆっくりと息を吐いた。

 終わった。

 ——いや、終わったのだろうか。

 クロエは大広間を見渡した。

 フェリクスは灰色の王冠を戴いたまま、重臣たちと話し込んでいる。十六歳の少年の表情には、重責への不安と、それを超える静かな決意があった。

 アデルが騎士団の兵士に指示を出し、マグナスの身柄を確保している。赤銅色の髪が揺れるたびに、剣の鞘が石畳に当たって硬い音を立てた。

 ノエルは壁際に立ち、兄のレナートと低い声で何か話していた。レナートの表情は険しかったが、弟を殴りつけるような素振りは見せなかった。ヴェリタスの効果が切れた後も、あの場で起きたことの重さが、兄の拳を止めているのかもしれない。

 ヴィオラがクロエの元に歩いてきた。姉の灰緑の瞳は赤かった。泣いた後の目。だがその目には、五年ぶりの——あるいは初めての——安堵が浮かんでいた。

「終わったわ」

 ヴィオラが言った。

「終わった、のかな」

 クロエの声は掠れていた。

「マグナスは捕らえられた。お父様の冤罪も再調査される。でも——」

 クロエは自分の掌を見下ろした。さっきまで真実の薬が光っていた場所。今は何もない。薬の痕跡が微かに銀色に光る以外、普通の薬師の掌だ。

「全員を傷つけた」

 ヴィオラは何も言わなかった。妹の言葉を、ただ聞いていた。

「ルベウス家も、カエルレウス家も、審問官たちも。見たくなかった真実を、無理やり見せた。覚悟がない人にまで。それが正しかったのか——わからない」

 クロエの目に涙が滲んだ。達成感ではなかった。後悔でもなかった。もっと複雑な、名前のつけられない感情。真実を選んだことへの確信と、その真実が他者を傷つけたことへの痛みが、同時に胸の中にある。白でも黒でもない。灰色の感情。

 ヴィオラがクロエの隣に立ち、肩に手を置いた。

「あなたは正しいことをした」

「正しかったかどうかは——」

「正しいかどうかを、私が決めることではないわ。あなた自身が決めること。でもね、クロエ」

 ヴィオラの声が、温かくなった。

「お父様も、きっと同じことをしたと思う」

 クロエは姉の顔を見た。灰緑の瞳が、灰色の瞳を映している。同じ父の血を引く二つの瞳。五年間隔てられていた姉妹が、同じ場所に立っている。

 石柱の向こうで、ベアトリクスが一人、壁に寄りかかっていた。師匠の表情は相変わらず厳格で寡黙だったが、クロエと目が合った瞬間、かすかに——本当にかすかに——頷いた。

 それは「よくやった」という言葉の代わりだった。ベアトリクス・モルゲンが弟子に向ける、最上の賞賛。

 クロエは涙を手の甲で拭い、深く息を吸った。

 灰色の光が大広間に満ちていた。高窓から差し込む午後の光は、もう煙ったような曖昧さではなく、銀色に近い清澄さを帯びている。灰色の王冠がフェリクスの頭上で静かに光り、新しい時代の始まりを告げていた。

 全てが終わったわけではない。

 マグナスの裁判はこれからだ。父の冤罪の再調査も。各家門の暗部への対処も。フェリクスの即位に伴う政治的な混乱も。この宮廷が真実の上に新しい均衡を築くには、長い時間がかかる。

 だが——灰色の嘘の上に立つことは、もう終わった。

 クロエは白衣の袖を整え、石柱から背を離した。

 足はもう震えていなかった。

 偽りの安全な日常を捨てた。真実を選んだ。その真実は確かに、全員を傷つけた。クロエ自身を含めて。傷は痛む。痛みは簡単には消えない。

 でも——これでよかったのだ。

 たとえ痛みがあっても、偽りよりはましだ。

 毒と薬は紙一重。真実という毒を、薬に変えるのは——これからの時間だ。

 クロエは大広間の出口に向かって歩き始めた。姉が隣を歩いていた。半歩の距離。五年前と同じ、姉の隣を歩くときの距離。

 灰色の光の中を、二人の姉妹が歩いていく。

 その背中を、灰色の王冠の光が静かに見送っていた。

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