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第16章

マグナス・アウレウスの独白

 【忘却の末薬 ― オブリヴィオ】用法: もはや用法に意味はない。効果: 全てを忘れられたなら、どれほど楽だったか。副作用: 忘れられなかったこと。それが、この男の全てだった。


 石の床は冷たかった。

 審問院の塔の地下牢。マグナス・アウレウスは独房の壁に背をもたれ、天井の魔薬灯を見上げていた。青白い光が、金の刺繍の礼服を蒼ざめた色に染めている。数刻前まで大広間で百余の人間の前に立っていた男が、今は四歩四方の石室に膝を折って座っている。手首に嵌められた革の枷——ヴィンクルムの銀の刻印が、鈍い光を放っていた。

 全身の魔素が抑制されている。指先の感覚が遠い。だがそれよりも深い場所で、もっと根源的なものが抜け落ちていた。二十年間自分を支えてきた何かが——嘘という名の骨格が——粉々に砕けて、体の中に散らばっている。

 仮面が、ない。

 四十五年の人生で磨き上げてきた温厚な微笑みが、もう顔に貼りつかなかった。ヴェリタスの効果はとうに切れているはずだった。気化型の真実の薬の持続時間は短い。嘘をつける状態には戻っているはずだ。だが——仮面を被り直す気力が、どこにもなかった。

 剥がされたのではない。崩れたのだ。二十年かけて積み上げた嘘の全てが、あの大広間で自分の口から溢れ出した瞬間に。

 マグナスは目を閉じた。

 暗闇の中に、記憶が浮かぶ。ヴェリタスに暴かれた記憶ではない。あの薬が剥がしたのは直近の嘘——犯行の記録、陰謀の過程——そういった表層の偽りだった。だが今、マグナスの瞼の裏に浮かんでいるのは、もっと古い記憶だった。真実の薬でも偽ることのできなかった、二十年以上前の——嘘をつく必要のなかった頃の記憶。


 エレオノーラの髪は栗色だった。

 二十五年前。マグナスが二十歳の頃、アウレウス家の嫡男としてグリセルダ王宮に出仕した最初の年に、彼女と出会った。エレオノーラ・フォン・グリセルダ。王家の傍系に連なる貴族の娘で、宮廷の薬学顧問を志す聡明な女性だった。

 最初の記憶は、灰の庭園だった。

 マグナスが庭園の回廊を歩いていたとき、灰色の花壇の前にしゃがみ込んでいる女性がいた。白い袖を汚すことも厭わず、灰色の花の根元の土を指先で確かめている。その横顔に、マグナスは足を止めた。

「この花は灰の星花でしょう。土の湿度が足りていませんね」

 声をかけたのは、薬学の知識を披露したかったからではなかった。ただ——彼女の横顔から目を離せなかったのだ。栗色の髪が風に揺れ、灰色の花弁に光が落ちて、その一瞬の構図が胸の奥を射抜いた。

 エレオノーラが振り返った。琥珀色の瞳が、まっすぐにマグナスを見た。

「ご存じなのですか。灰の星花の生態を知る方は珍しい」

「アウレウス家の書庫は広いので。薬学の文献も多少は」

「多少ですか」

 エレオノーラの唇がかすかに弧を描いた。微笑み——というには鋭く、嘲り——というには温かい表情だった。

「それは謙遜ですね、アウレウスの方。灰の星花の土壌条件を正確に指摘できる方が『多少』とおっしゃるのは」

 それが始まりだった。

 その日から二人は頻繁に顔を合わせるようになった。灰の庭園で。王宮の図書室で。宮廷の回廊の片隅で。政治と薬学と、この国の未来について語り合った。

 マグナスは若かった。二十歳のアウレウス家の嫡男は、理想に燃えていた。四大公家の権力闘争が民を疲弊させている現状を変えたかった。財政を司るアウレウス家の力を使って、貧困層への薬の供給を拡大する。薬理魔術の恩恵が一部の特権階級だけのものではなく、全ての民に届く制度を作る。そのための改革案を——まだ粗削りな、しかし誠実な熱量を持った案を——エレオノーラに語った。

 エレオノーラは聞いた。そして、修正した。

「理念は素晴らしい。でも実現するには制度設計が足りていません。ここと、ここ。この二つの法令を改正しなければ、アウレウス家の財政基盤からの支出は議会に阻まれます」

 彼女は理想主義者ではなかった。理想を実現するための具体的な道筋を見通せる、実務的な知性の持ち主だった。マグナスの理念にエレオノーラの知性が加わったとき、漠然とした夢が実行可能な計画に変わった。

 二人は本当に、この国を変えられると信じていた。

 婚約は自然な流れだった。アウレウス家の嫡男と王家傍系の令嬢。政略的にも問題のない組み合わせであり、何よりも——二人は愛し合っていた。計算ではなく。打算ではなく。互いの存在が、互いの理想を支える柱だった。

 マグナスが婚約の指輪を渡した夜、エレオノーラは琥珀色の瞳を細めて笑った。

「あなたと一緒なら、この国を変えられる気がします」

「変えよう。二人で」

 それは嘘ではなかった。あの夜の約束は、マグナスの四十五年の人生で、最も純粋な真実だった。

 独房の石壁に背を預けたまま、マグナスは拳を握った。爪が掌に食い込む感覚すら、枷の魔素抑制で鈍くなっている。だが記憶の中の痛みは鮮明だった。

 あの幸福は——あの頃の自分は——確かに本物だったのだ。


 全てが変わったのは、灰の審判の日だった。

 二十年前。マグナスが二十五歳の年に行われた灰の審判。灰色の王冠が次の王を選ぶ、二十年に一度の儀式。

 当時、王位継承の最有力候補は三人だった。ルベウス家の長男。カエルレウス家の嫡子。そしてアウレウス家のマグナスはあくまで対抗馬であり、アウレウス家は財政面で新王を支える立場を想定していた。マグナス自身も王位に強い執着はなかった。王になるよりも、エレオノーラと共に改革を進める方が性に合っていると思っていた。

 だが灰色の王冠は、誰も予想しなかった人物を選んだ。

 アルベルト・グリセルダ。王家の本流に連なる、温厚で凡庸な青年。四大公家のどこにも属さず、際立った才覚もなく、宮廷では目立たぬ存在だった。灰色の王冠が彼の頭上に降りた瞬間、大広間は驚愕に包まれた。

 マグナス自身は王座に未練はなかった。アルベルトが王であっても、改革は進められるはずだった。

 問題は、エレオノーラだった。

 灰色の王冠には、古い掟が付随していた。王冠が選んだ者は、王家の血を継ぐ女性の中から妃を迎えなければならない。そして王家傍系に連なるエレオノーラは——その資格を持つ数少ない女性の一人だった。

 宮廷の重臣会議がエレオノーラを王妃候補に推薦したとき、マグナスの世界は軋んだ。

「断ればいい」

 マグナスはエレオノーラに言った。王宮の回廊の片隅で、誰にも聞かれぬように。声が震えていたことを、二十年経った今でも覚えている。

「王妃候補は他にもいる。辞退することは制度上可能だ。私たちの婚約は——」

「マグナス」

 エレオノーラの声は静かだった。琥珀色の瞳にはすでに、覚悟の色が浮かんでいた。

「灰色の王冠が選んだ者に仕えることは、王家に連なる者の義務です。私が辞退すれば、王冠の掟に背いたという前例が残ります。四大公家がそれを口実に王権を制限し始めるでしょう。あなたの理想——民のための改革は、王権が強くなければ実現できない」

「そんなことは——」

「あなたが一番よく分かっているはずです」

 エレオノーラの声が揺れた。ほんの一瞬。それは理性で感情を押し殺す瞬間の震えだった。

「私は——あなたを愛しています。でも、この国のために——」

 マグナスは何も言えなかった。反論する言葉はあった。理屈を並べることはできた。だが目の前の女性の覚悟を——愛する者との約束を捨ててまで、この国のために生きようとする決意を——覆す言葉を、マグナスは持っていなかった。

 そうではない。持っていなかったのではない。言わなかったのだ。

 「一緒に逃げよう」と。「この国のことなど知らない」と。「お前は私のものだ」と。

 あの夜のマグナスには、まだそれを言うだけの傲慢さがなかった。エレオノーラの意志を尊重する程度の誠実さが、まだ残っていた。

 だがその誠実さが——自分を破壊した。

 婚約は解消された。エレオノーラはアルベルト国王の妃となった。マグナスはアウレウス家の当主として宮廷に残り、新王を財政面で支える役割を引き受けた。表向きは円満な経緯だった。宮廷の誰もが、マグナスの温厚な笑顔の裏にあるものに気づかなかった。

 気づかなかったのではない。見なかったのだ。見たくなかったのだ。アウレウス家の財力は王国の根幹を支えていた。マグナスが微笑んでいてくれれば、宮廷は安泰だった。だから誰も、あの微笑みの奥を覗こうとしなかった。

 マグナスもまた、覗かせなかった。

 最初の数年間は、まだ耐えられた。エレオノーラが王妃として公務をこなし、アルベルトの隣で微笑む姿を、マグナスは温厚な表情のまま見守った。歯を食いしばりながら。爪が掌に食い込むまで拳を握りながら。それでも——耐えた。

 エレオノーラが幸せであるなら。彼女が選んだ道が正しかったのなら。自分の痛みには意味がある。そう思うことで、マグナスは自分を保っていた。

 だが人間の忍耐には限界がある。

 変質は徐々に起こった。水に一滴ずつ毒を垂らすように。マグナスの中で、愛が少しずつ腐敗していった。愛していたからこそ手放したという事実が、やがて——愛していたのに奪われたという認識にすり替わった。エレオノーラが王妃として改革を進める姿を見るたびに、かつて二人で語り合った理想が、今は別の男の隣で実現されていくことへの嫉妬が、胸の奥で膿のように溜まっていった。

 あの理想は私のものだった。あの改革案は私たちのものだった。あの女性は——。

 「私のもの」。その言葉が、マグナスの思考の中に根を下ろした瞬間から、全てが歪み始めた。

 愛が執着に変わった。理想が野心に変わった。「この国を変えたい」という願いが、「この国を支配したい」という渇望に変質した。エレオノーラを幸せにするはずだった男が、エレオノーラの幸せを許せない男になっていった。


 婚約解消から十年が過ぎた頃——マグナスが三十五歳の年に、一度だけ、エレオノーラと二人きりで話す機会があった。

 王妃の離宮。公務の打ち合わせという名目で訪れたマグナスを、エレオノーラは庭園の東屋で迎えた。侍女を下がらせたのはエレオノーラの方だった。

 栗色の髪に白いものが数本混じっていた。十年の歳月が、二人を変えていた。だが琥珀色の瞳の強さは変わっていなかった。

「マグナス。話があります」

「何でしょう、王妃殿下」

 敬称をつけた。十年間、一度もエレオノーラの名を呼んでいなかった。呼べなかった。名前を口にすれば、仮面が割れる気がした。

「あなたの目が変わっています」

 エレオノーラは率直だった。昔と同じように。駆け引きも前置きもなく、核心を突いてくる女性だった。

「宮廷では誰もそれに気づかないようですが、私には分かります。あなたの目には——昔はなかったものが宿っています」

 マグナスは微笑んだ。完璧な微笑みを。

「変わったのはお互い様でしょう。十年も経てば——」

「ごまかさないでください」

 エレオノーラの声が、鋭くなった。

「あなたがカエルレウス家の間者に接触していることを知っています。ルベウス家の辺境の鉱山利権に手を伸ばしていることも。灰の審問院の審問官に個人的な便宜を図っていることも。全て、私の耳に入っています」

 マグナスの微笑みが、一瞬だけ凍った。

「それは——」

「財政担当の大公として許容される範囲を超えています。マグナス、あなたは何をしようとしているのですか」

 その問いに、マグナスは答えられなかった。

 答えられなかったのではない。答えたくなかったのだ。自分が何をしようとしているのか、自分でも正確に把握できていなかったから。権力を集めている。影響力を拡大している。それは事実だ。だが何のために? 目的が——自分でも霧の中にあった。

 ただ、空虚だった。エレオノーラのいない人生が。エレオノーラの隣にいられない日々が。その空虚を何かで埋めなければ、自分が消えてしまいそうだった。権力は、その穴を埋める最も手近な素材だった。

 沈黙が東屋に落ちた。庭園の花が風に揺れ、甘い香りが漂っていた。

 マグナスの唇が震えた。

 言いたかった。

 愛している、と。

 十年経っても。王妃になっても。別の男の妻になっても。あなたを愛している。一日たりとも忘れたことはない。忘れようとして、忘れられなかった。忘却の薬——オブリヴィオの処方箋を闇の薬師から入手して、本気で自分に投与しようとしたことがある。エレオノーラの記憶を消せば楽になれると思った。だが——消せなかった。消したくなかった。あなたの記憶を失うことは、自分自身を失うことだと分かっていたから。

 その全てを、言いたかった。

 だが言わなかった。

 言えば、エレオノーラが動揺する。王妃としての立場が揺らぐ。彼女が十年かけて築いてきたものを壊すことになる。

 いや——違う。本当の理由はそんな高潔なものではなかった。

 拒絶されるのが怖かったのだ。

 「愛している」と言って、「もう遅い」と返される恐怖。エレオノーラがアルベルトの妻として幸せになっている可能性。自分の愛が、もはや彼女にとって重荷でしかない可能性。それを確認することが——マグナスには耐えられなかった。

 だから何も言わなかった。温厚な微笑みを浮かべたまま、「ご忠告、感謝します」とだけ答えて、東屋を去った。

 それが——エレオノーラと二人きりで過ごした、最後の穏やかな時間だった。

 その一年後、二度目の密会があった。だが二度目は、穏やかではなかった。

 マグナスの暗躍がさらに深まっていた頃だった。闇の薬師を雇い、灰の審問院への浸透を本格化させ、次の灰の審判に向けた地盤固めを加速していた。その動きを察知したエレオノーラが、再びマグナスを呼び出した。

 今度は東屋ではなかった。審問院の塔の近く、人目につかない回廊の暗がりで。

「やめなさい、マグナス」

 エレオノーラの声には、前回にはなかった切迫があった。

「あなたが何を計画しているか、全てではないにせよ察しています。灰の審判を操作しようとしている。息子を王位に就けようとしている。そのために手段を選ばなくなっている」

「王妃殿下には関係のないことです」

「あります。この国のことは、全て私に関係がある。そしてあなたのことも——」

 エレオノーラの声が震えた。

「お願いです。今ならまだ引き返せる。あなたは——昔のあなたに、戻れるはずです」

「昔の私」

 マグナスの声が、乾いた。

「昔の私とは何ですか、王妃殿下。あなたと二人で国を変えようとしていた、あの愚かな若者のことですか。あの男はもういない。あなたが——あなたが殺したのだ」

 言葉が口をついて出た。十年間溜め込んでいた毒が、堰を切ったように。

「私を愛していると言いながら、王冠の掟に従って別の男を選んだ。私たちの理想を、別の男の名で実現した。私は——」

「マグナス」

 エレオノーラの琥珀色の瞳が、まっすぐにマグナスを射た。そこに涙が光っていた。だが次の言葉は、涙を裏切るほど明確だった。

「私はあなたを愛していました。それは本当です。でも——私は王妃として生きることを選びました。この十年で、アルベルトの隣で、私は自分の道を見つけました。あなたへの想いを抱えたまま、それでもこの国のために生きることが、私の選んだ道です」

 一拍の間があった。

「あなたにも、あなたの道を見つけてほしかった。私と離れた場所で、あなた自身の理想を追ってほしかった。でも——あなたは、私に囚われたまま、歪んでしまった」

「歪んだ、と」

「ええ。歪んでしまった」

 エレオノーラの声が、悲しみに染まった。

「だから——私は言わなければならない。はっきりと」

 彼女はマグナスの目を見た。

「マグナス。私はもう、あなたの元には戻れません。戻る気もありません。あなたが何を感じていても、私の答えは変わらない。私は王妃として——アルベルトの妻として——この国に生きます」

 拒絶。

 明確な、逃げ場のない拒絶。

 十年間、曖昧なまま保たれていた均衡が、その一言で崩壊した。マグナスが心の奥底で抱き続けていた「いつか」という希望——いつかエレオノーラが振り向いてくれるかもしれないという、自分でも気づかなかった微かな期待——が、踏み潰された。

 マグナスの内側で、何かが折れる音がした。

 骨が折れる音ではなかった。もっと根源的な——人間としての芯が、乾いた枝のように裂ける音だった。

「……分かりました」

 マグナスは微笑んだ。温厚な微笑みを。完璧に。美しく。

「お気持ちは承知しました。王妃殿下」

 回廊を去るマグナスの背中を、エレオノーラが呼び止めたかどうか、彼は覚えていない。記憶がそこで途切れている。意図的に切り落としたのか、痛みが記憶を焼いたのか。

 あの夜から——マグナス・アウレウスの中に、最後まで残っていた光が消えた。

 愛してくれないなら。

 もう手が届かないなら。

 ならば——全てを奪ってやる。

 その思考が生まれた瞬間の恐怖を、マグナスは覚えている。自分自身に恐怖した。これは狂気だと分かっていた。だが狂気だと分かっていてなお、それを止められなかった。止める理由が——もう、なかった。

 エレオノーラを毒殺する計画は、拒絶から三年後に実行された。

 遅効性の黒薬。月光石を核とした、検出の困難な毒。王妃の食事に混入され、数ヶ月かけて身体を蝕む。病死に見せかけるための、精緻な調合。闇の薬師に命じたその処方は——かつてエレオノーラと語り合った薬学の知識が、歪んだ形で結実したものだった。

 殺したかったのではない。

 その言い訳が、マグナスの中で何千回と繰り返された。殺したかったのではない。ただ——もう耐えられなかったのだ。エレオノーラがアルベルトの隣で微笑む姿を見ることに。自分を拒絶した女性が、別の男の妻として幸せに生きていることに。

 手放せなかった。

 愛していたから手放せなかった。手放せないから壊した。最も歪んだ形の執着。愛と呼ぶにはあまりに醜く、憎悪と呼ぶにはあまりに悲しい——名前のつけられない感情が、マグナスの手を動かした。

 エレオノーラが死んだ日、マグナスは自室で一人、窓の外を見ていた。泣かなかった。泣けなかった。涙を流す資格が自分にないことを知っていたから。

 代わりに、仮面を被った。

 温厚な微笑みを、それまで以上に完璧に。王妃の死を悼む善良な臣下の顔を。ヴィリディス家の前当主に罪を着せ、証拠を捏造し、審問官を買収し、幼いクロエの記憶を消す取引をヴィオラに突きつけた。全てを——機械のような正確さで、感情を凍結させたまま実行した。

 一度だけ、夜中に目が覚めたことがあった。エレオノーラの夢を見た直後だった。灰の庭園で花を調べている彼女の夢。二十五年前の、出会いの日の夢。目が覚めて暗闇の中で天井を見つめたとき、胸の奥で何かが叫んでいた。

 何をした。お前は何をしたのだ。

 その声を、マグナスは黒薬で黙らせた。感情を鈍化させる灰薬を、自分自身に処方した。痛みを感じなければ、後悔も生まれない。後悔がなければ、計画を遂行できる。

 そうして二十年が経った。


 独房の魔薬灯が、かすかに明滅した。

マグナスの追い詰め

 マグナスは目を開けた。

 石の壁。石の床。石の天井。四歩四方の空間に、自分の呼吸の音だけがある。大広間での崩壊から数刻。騎士たちに連行され、審問官に身柄を拘束され、かつてクロエが入れられていたのと同じ地下牢に放り込まれた。

 因果だ、と思った。

 この牢に閉じ込めた少女に、全てを暴かれた。自分が仕掛けた鎖に、自分が繋がれている。二十年かけて積み上げた嘘の塔が、十七歳の薬師見習いの手で崩された。

 クロエ・ヴィリディス。

 ヴィリディス家の次女。記憶を消し、名前を奪い、存在を抹消したはずの少女。あの灰色の瞳で——まっすぐに、怯まずに——マグナスを告発した少女。

 あの目。

 マグナスは天井を見上げたまま、息を吐いた。

 あの目に見覚えがあった。灰色の瞳は父親譲りだろう。だがあの瞳の奥にある光——真実を選ぶ覚悟の光——あれは、別の誰かに似ていた。

 エレオノーラに。

 エレオノーラが回廊で自分に最後の拒絶を告げたとき、彼女の瞳に宿っていたのと同じ光だった。自分が何を失うかを承知の上で、それでも自分の信じる道を選ぶ——あの光。

 クロエは、あの光を持っている。エレオノーラが持っていた光を。

 マグナスには、あの光がなかった。

 かつてはあったのかもしれない。二十歳の頃、エレオノーラと理想を語り合っていた頃には。だがいつからか——おそらく、拒絶の夜から——あの光は消えた。消えた場所に闇が入り込み、その闇を権力と嘘で塗り固めて、マグナスは四十五年の人生を歩いてきた。

 そしてその全てが、今日、崩壊した。

 独房の中で、マグナスは自分の手を見下ろした。枷に縛られた手。この手で書類に署名し、商会を動かし、宮廷を操り、暗殺を命じた。この手で——エレオノーラの死を命じた。

 この手で、婚約の指輪を渡した。

 視界が滲んだ。

 最初、何が起きたか分からなかった。目に異物が入ったのかと思った。だが頬を伝う温かさで、それが涙だと気づいた。

マグナスの独白

 二十年ぶりの涙。

 エレオノーラが死んだ日にも流れなかった涙が、今——全てを失った独房の中で、止めどなく溢れた。

 嗚咽が漏れた。枷に縛られた手で顔を覆うこともできず、マグナスは石壁にもたれたまま泣いた。四十五歳の男の体が、子供のように震えた。大広間で真実の薬に暴かれたときとは違う涙だった。あのときは薬の力で嘘が剥がされ、感情が引きずり出された。今は——違う。薬の効果はとうに切れている。これは、マグナス自身の意志で流れている涙だった。

 二十年間凍結していた感情が、溶けていた。

「エレオノーラ……」

 声が石壁に反響した。独房の中で、その名前を口にしたのは初めてだった。いや——二十年間、一人のときにこの名を呼んだことが何度あっただろう。数えきれない。闇の中で、誰にも聞かれない場所で、何度も何度も呼んだ。

「許してくれとは言わない」

 許されるはずがなかった。自分の手で殺した女性に、許しを請う資格はない。

「ただ——」

 声が途切れた。涙で、言葉が形にならなかった。

「愛していた。それだけは——嘘ではなかった」

 独房の沈黙が、その言葉を受け止めた。

 エレオノーラはもういない。マグナスが殺した。その事実は永遠に変わらない。愛していたという真実と、殺したという真実が、矛盾なく同じ男の中に存在している。愛していたから殺した——その論理は狂気だ。だが狂気であることと、愛が本物であったことは、矛盾しない。

 毒と薬は紙一重。

 この国の格言が、皮肉な真実としてマグナスの胸を突いた。愛は薬にもなれば毒にもなる。マグナスの愛は——最初は薬だった。エレオノーラと共に理想を語り合っていた頃の愛は、確かに二人を支える薬だった。だがいつからか、その愛は毒に変わった。手放すことを覚えなかった男の中で、愛は腐り、膿み、やがて——最も愛した者を殺す猛毒になった。

 全ては自分の弱さだった。

 エレオノーラが悪いのではなかった。灰色の王冠が悪いのでもなかった。マグナス自身が——愛を手放す強さを持たなかった。失ったものへの執着を断ち切れなかった。その弱さが、二十年かけて自分と周囲の全てを蝕んだ。

 ヴィリディス家の前当主——クロエとヴィオラの父。無実の男に罪を着せて処刑した。あの男は王妃の死の真相を探っていた。エレオノーラを守ろうとしていた。その誠実な男を殺した。

 クロエ。十二歳の少女の記憶を消した。名前を奪い、家族を奪い、灰色の孤児にした。五年間の人生を偽りの中で生きさせた。

 ヴィオラ。十七歳の少女に、妹の命か記憶かの二択を突きつけた。五年間の沈黙を強いた。

 フェリクス。母を殺し、父を毒殺しようとした。十六歳の少年から両親を奪おうとした。

 全てマグナスがやったことだ。愛の名の下に。

 涙が止まらなかった。

 これが罪だ。これが自分という人間の全てだ。愛を言い訳にして、取り返しのつかないことを重ねた。二十年分の罪が、今初めて、その重さのまま胸にのしかかっている。

「あの娘は——」

 マグナスは涙の中で呟いた。あの灰色の瞳の薬師見習いのことを。

「強いな」

 声が震えた。だが言葉は確かだった。

「私が失ったものを、あの娘は持っている。真実を選ぶ覚悟を。——手放す強さを」

 クロエは偽りの安全な日常を手放した。記憶を取り戻す恐怖を乗り越え、真実を選んだ。百余の人間の前でマグナスを告発し、真実の薬を散布して、この宮廷の嘘の全てを暴いた。その過程で、自分自身も傷ついた。全員を傷つけると分かっていて、それでも——。

 マグナスにはできなかったことだ。

 二十五年前、エレオノーラとの別れを受け入れ、痛みを抱えたまま自分の道を歩むことが——マグナスにはできなかった。失ったものに執着し、手放す代わりに壊すことを選んだ。

 クロエは違った。あの少女は、真実という痛みを引き受ける覚悟を持っていた。そして偽りの自分を手放す強さを。

 マグナスが二十年かけて失い続けたものを、十七歳の少女が持っている。

 その事実が——不思議と、マグナスの胸に苦い安堵をもたらした。

 自分は壊れた。自分は取り返しのつかないことをした。だがあの少女がいるなら——あの灰色の瞳の強さが、この宮廷に残るなら——自分が壊したものの上に、何か新しいものが育つかもしれない。

 それは許しではなかった。マグナスの罪は許されない。許されるべきでもない。

 ただ——微かな、骨の髄まで疲れ果てた男の、最後の願いだった。


 独房の扉が開いたのは、涙が乾いた頃だった。

 審問官が二人、独房の入口に立っていた。灰色の外套。手には鉄の手枷。

「マグナス・アウレウス。灰の審問院の権限により、正式な審問のために移送する。立ちなさい」

 マグナスは壁から背を離し、ゆっくりと立ち上がった。金の刺繍の礼服は皺だらけで、膝には石の床の冷たさが染みていた。涙の痕が頬に残っていたが、拭わなかった。

 もう、隠すものは何もなかった。

 革の枷の上からさらに鉄の枷が嵌められた。二重の拘束。重罪人への処遇だった。鉄の重みが手首にかかり、マグナスは自分の罪の重さを物理的に感じた。

 独房を出た。

 螺旋階段を上る。石段を一段ずつ踏みしめる足が、二十年前とは違う重さを運んでいた。あの頃は柔らかく上等な靴底で王宮の回廊を歩いていた。今は囚人として、審問官に挟まれて、同じ石段を上っている。

 地上に出た。

 審問院の塔の出口から、灰色の光が差し込んでいた。高窓から入る午後の光が、回廊の石畳に長い帯を描いている。大広間での審判の後、宮廷はまだ混乱の中にあるのだろう。遠くから人々のざわめきが聞こえた。

 回廊を歩く。審問官二人に挟まれて。足音が三つ、石の廊下に反響する。

 すれ違う宮廷の人間たちが、マグナスを見た。かつて温厚な微笑みで挨拶を交わしていた重臣たちが。財政の恩恵を受けて頭を下げていた家臣たちが。今は——目を逸らした。あるいは驚愕の目で凝視した。あるいは冷ややかな軽蔑を向けた。

 マグナスはそのどれにも反応しなかった。仮面はもうない。だが新しい表情を作る気力もなかった。ただ、疲れた男の顔がそこにあった。素のままの、四十五歳の男の顔。

 回廊が大広間の前を通過するとき、マグナスの足が止まった。

 審問官が促したが、マグナスは動かなかった。大広間の扉の隙間から、灰色の光が漏れていた。

フェリクスの即位

 灰色の王冠の光。

 扉の隙間から覗く大広間の奥——台座の上に、灰色の王冠が依然として鎮座していた。フェリクスの戴冠の後も、王冠は大広間に安置されている。灰色の、白でも黒でもない、曖昧な光沢を帯びた環。二十年に一度、王を選ぶ生きた冠。

 マグナスはその光を見つめた。

 二十年前、あの王冠がアルベルトを選んだ。その瞬間から——全てが始まった。エレオノーラとの別離が。マグナスの変質が。二十年間の嘘と罪の連鎖が。

「あの王冠が」

 声が、かすれた喉から漏れた。独り言だった。審問官に向けた言葉ではなかった。

「全ての始まりだった」

 灰色の光がマグナスの目を照らした。

 だが——次の瞬間、マグナスは自分の言葉を訂正した。心の中で。声にはならなかった。

 違う。王冠のせいではない。

 王冠はただ選んだだけだ。アルベルトを王に選び、エレオノーラを王妃の座に導いた。それ自体は——王冠の役割を果たしただけだ。

 その後の全ては、マグナス自身の選択だった。

 愛を手放せなかったのは、王冠のせいではない。執着を断ち切れなかったのは、誰のせいでもない。エレオノーラを殺したのは——マグナス・アウレウスという人間の弱さだ。

 あの若い薬師は知っている。

 真実を選ぶことの痛みを。そして、その痛みを引き受けてなお歩き続ける強さを。

 マグナスは目を閉じた。灰色の光が瞼の裏に残像を焼いた。

「歩け」

 審問官の声が、回廊に響いた。

 マグナスは目を開け、前を向いた。審問院の大広間に向かって。審問と裁きが待つ場所に向かって。

 足を踏み出した。

 鉄の枷が重い。だが——不思議なことに、二十年間背負い続けてきた嘘の重さに比べれば、鉄の枷は軽かった。嘘は、鉄よりも重い。

 回廊の灰色の光の中を、一人の男が歩いていく。

 もはや仮面はない。温厚な微笑みも、冷徹な計算も、権力者の威厳も。ただ罪を犯した男が、その罪の重さを背負って、裁きの場に向かっている。

 灰色の王冠の光が、遠ざかる男の背中を照らしていた。

 二十年前と同じ光。だが今のマグナスには、その光の意味が違って見えた。

 かつてはあの光が全てを奪ったと恨んだ。だが今は——あの光の下で、自分がどれほど多くのものを自らの手で壊してきたかが、痛いほどに分かる。

 王冠が奪ったのではない。マグナスが壊したのだ。

 その真実を——ようやく、受け入れた。

 審問院の大広間の扉が開いた。灰色の光が、男を飲み込んだ。

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