海が、きらきらしてた。
あさの光が水の上にのっかって、金色のかけらがどこまでもつづいていた。波がゆれるたびに光もゆれて、まるで海ぜんぶが息をしてるみたいだった。わたしはそれがすきだった。港の石だたみに座って、足をぶらぶらさせながら、ずっと見ていられた。
カンデラ島の朝は、いつもこうだ。
小さな島。おうちが何軒かと、おばあちゃんがおいのりをする聖堂と、船がとまる港があって、それでおしまい。でもわたしは関係ない。この島がすきだった。聖堂の白い壁が朝の光でオレンジ色にそまるところも、港の柱にくっついてる貝がらも、ぜんぶすきだった。
港には灯船がいっそうだけとまっていた。お母さんの船。白い帆に、巫女のしるしの灯火の模様がえがかれている。ふだんは聖堂のわきの小屋にしまってあるのに、きょうはちゃんと海に浮かんでいた。
きょうは、お母さんが旅に出る日だから。
「ルナ、朝ごはんよ」
お母さんの声がした。ふりむくと、お母さんが港のそばのベンチに布をしいて、朝ごはんを並べているところだった。いつもはおうちの中で食べるのに、きょうは外。
「おそとで食べるの?」
「うん。だってきょうは特別な日でしょう?」
お母さんはにっこり笑った。笑うと、目のよこに小さなしわができる。わたしはそのしわがすきだった。
朝ごはんは、焼いたパンの上にとろとろのたまごがのったやつ。それから、あまいミルクと、ちっちゃく切った果物。カンデラ島でとれるアクアベリーっていう青い実で、口に入れるとしゅわってする。お母さんは旅のしたくをしながら、朝早くからこれを作ってくれたんだ。
「はい、あーん」
お母さんがパンをちぎって、わたしの口に持ってきてくれた。とろとろのたまごがあったかくて、パンはかりかりで、口の中がしあわせになった。
「おいしい?」
「おいひい!」
口いっぱいでこたえたら、お母さんが声を出して笑った。お母さんが笑うと、胸のあたりがぽうっとあかるくなる。灯火だ。お母さんの灯火は、うれしいときにいつもそうやって明るくなる。太陽みたいに。
お母さんの灯火は、島で一番あかるい。おばあちゃんがそう言っていた。巫女の灯火は特別なんだよって。わたしにもいつか、お母さんみたいなあかるい灯火がともるのかな。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
「わたしも一緒に行く」
お母さんの手がとまった。アクアベリーをつまんでいた指が、ほんのすこしだけふるえた気がした。でもすぐにいつもの笑顔にもどって、わたしの頭をなでてくれた。
「ルナはまだ小さいから、お留守番ね」
「やだ。わたしも行く。お母さんと一緒がいい」
「ルナ――」
「やだやだやだ!」
わたしはベンチから降りて、お母さんの服のすそをぎゅっとつかんだ。はなさない。ぜったいはなさない。お母さんがどこか遠くに行っちゃうのは、やだ。
お母さんは困った顔をした。困った顔をしているのに、その目がやさしいのがずるい。わたしがいくらだだをこねても、お母さんの目はいつもやさしかった。
「あらあら」
うしろから、おばあちゃんの声がした。
おばあちゃん――エステラおばあちゃんは、聖堂のほうからゆっくり歩いてきた。白い髪を朝の風になびかせて、しわだらけの顔でにこにこ笑っている。おばあちゃんの灯火はお母さんほどあかるくないけど、ろうそくみたいにやわらかくて、あったかい。
「ルナ、おいで」
おばあちゃんがしゃがんで、両手をひろげた。わたしはお母さんの服をつかんだまま動かなかった。
「おばあちゃん、わたしも行くって言ってよ。お母さんに言ってよ」
「ルナ」
おばあちゃんの声は静かだった。
「お母さんはね、すぐ帰ってくるよ。だいじょうぶ」
「ほんとに?」
「ほんとうよ」
おばあちゃんがうなずいた。わたしはお母さんの服から手をはなして、おばあちゃんのところに歩いていった。おばあちゃんがわたしを抱き上げてくれた。おばあちゃんの腕はやせっぽちだけど、ぎゅっとする力はつよい。
お母さんがこっちを見ていた。
笑ってた。でも、いつもの笑い方とすこしだけちがった。口は笑ってるのに、目がきらきらしすぎてた。海の光を映しているのかと思ったけど、たぶんちがう。今のわたしには、あれがなんだったかわかる。でも、あのときのわたしは五つだったから、わからなかった。
お母さんが旅じたくの荷物をまとめて、わたしたちのところに来た。おばあちゃんに抱かれたわたしの前に、お母さんがしゃがんだ。わたしの目線と、お母さんの目線が同じ高さになった。
「ルナ」
「……なに」
まだすこし怒ってた。ほんのすこしだけ。お母さんはそんなわたしの頬を両手でそっと包んで、額にキスをした。お母さんのくちびるがあったかかった。
「行ってくるね、ルナ」
お母さんの声はいつも通りやさしかった。まるでおつかいに行くみたいに軽くて、だからわたしは安心した。すぐ帰ってくるって、おばあちゃんも言ってたし。
「お母さん、おみやげ買ってきてね」
「うん。いっぱい買ってくるね」
お母さんが笑った。そのとき、お母さんがわたしの両手をそっととった。小さなわたしの手を、お母さんのあったかい手が包みこんだ。
ぽう、と光った。
お母さんの胸のあたりから灯火がほんのすこしだけ流れ出して、わたしの手のひらに降りてきた。あったかい。やわらかい光が、わたしの手の中でちいさく揺れている。灯渡し。お母さんの灯火が、すこしだけわたしのなかに入ってきた。
「寂しくなったら、ここに私がいるから」
お母さんはわたしの手のひらをそっと閉じさせた。灯火のあたたかさが、指のすきまからもれて、金色に光っていた。
「お母さんの灯火、あったかい」

わたしは笑った。手のひらがほかほかして、まるでお母さんにぎゅっとされているみたいだった。
「あったかいでしょう。それはね、ルナのことがだいすきな気持ちだよ」
お母さんが立ち上がった。おばあちゃんのほうを向いて、なにか言った。小さな声だったから、わたしには聞こえなかった。おばあちゃんがうなずいた。一回だけ、深くうなずいた。
お母さんが灯船に乗った。白い帆がばさりと風をはらんで、船がゆっくりと港を離れていく。お母さんの灯火が帆の模様と重なって、船ぜんたいが光っているみたいに見えた。

「お母さーん! いってらっしゃーい!」
わたしはおばあちゃんの腕の中から手を振った。ちぎれそうなくらいぶんぶん振った。お母さんも船の上から手を振りかえしてくれた。お母さんの髪が風でばたばたしてて、ちょっとおかしかった。
船が小さくなっていく。お母さんの姿が小さくなっていく。
おばあちゃんの腕が、すこしだけきつくなった。
ふと見上げると、おばあちゃんの顔がへんだった。いつものにこにこ顔じゃなかった。口をきゅっとむすんで、目をほそくして、遠くを見ていた。目のふちが赤かった。
「おばあちゃん、泣いてるの?」
「……風が目に入っただけよ」
おばあちゃんはそう言って笑ったけど、声がかすれていた。おばあちゃんの灯火がちいさく揺れていた。ろうそくの灯が風で消えそうになるみたいに、ふるふると。
わたしにはわからなかった。おばあちゃんがどうして泣くのか。お母さんはすぐ帰ってくるのに。おみやげいっぱい持って、笑いながら帰ってくるのに。
お母さんの船が、水平線のむこうに消えた。朝の金色の光がまぶしくて、白い帆が光に溶けていくみたいだった。きれいだなあ、と思った。
お母さんは帰ってこなかった。
何日たっても。何週間たっても。何ヶ月たっても。
おばあちゃんは毎朝、港に立っていた。水平線をじっと見つめていた。わたしもとなりに立っていた。手のひらには、お母さんがくれた灯火がまだあったかく残っていた。
季節がかわっても、お母さんの船は帰ってこなかった。
わたしはようやくわかった。おばあちゃんはあの朝、知っていたんだ。お母さんが帰ってこないかもしれないって。泣いていたのは、風のせいなんかじゃなかったんだ。
――お母さんは、二度と帰らなかった。

潮の匂いがする。
十年前と同じ港に、わたしは立っている。聖堂の白い壁は少しくすんで、港の石だたみはところどころひび割れている。カンデラ島は、あの頃よりずっと小さくなった。灯火の枯渇で、島がすこしずつ海に沈んでいる。
十五歳になったわたしの足元を、朝の波がひたしていく。金色の光が海の上で踊っている。あの日とおなじだ。空の色も、潮の匂いも、波の音も。
手のひらを開く。
十年たっても、お母さんの灯火はここにある。小さくて、やわらかくて、あったかい光。寂しくなったら何度もここに手をあてた。泣きたい夜もここに手をあてた。お母さんの灯火はいつも変わらず、わたしの手のひらであたたかかった。
港に灯船が一艘、停まっている。白い帆に、巫女のしるし。お母さんが乗っていったのと同じ船。
今度は、わたしが乗る番だ。
背中に荷物を背負う。おばあちゃんが持たせてくれた旅の食料と、巫女の祈りの道具と、お母さんが使っていた古い海図。
振り返ると、聖堂の前におばあちゃんが立っていた。十年前よりずっと小さくなったおばあちゃん。白い髪が朝の風に揺れている。おばあちゃんはにこにこ笑っていた。今度は、泣いてなかった。
――犠牲を払わない方法を探しなさい。
おばあちゃんがくれた言葉を、胸の中でくりかえす。
手のひらの灯火が、ほんのすこし強く光った気がした。
海を見る。金色の光がどこまでも続いている。その先に、世界の果てがある。願いの灯台がある。お母さんが目指して、帰ってこなかった場所。
わたしは帰ってくる。ぜったいに。
手のひらをぎゅっと握って、灯船に足をかける。白い帆がばさりと風を受けて、朝の光の中でふくらんだ。
「行ってきます、お母さん」
手のひらの灯火が、やさしく応えるように揺れた。