海は、今日も少しだけ高かった。
私はいつものように聖堂の石段に腰を下ろして、朝の海を見つめていた。カンデラ島を取り囲む多島海の水面は、早朝の淡い光を受けて絹のように滑らかに揺れている。島々を縫って吹く潮風が私の長い髪をなぶって、鼻先にかすかな塩の匂いを運んでくる。
きれいだな、と思う。
毎朝見ている景色なのに、毎朝そう思う。空が白んで、遠くの島影が薄紫の霞の中にぼんやり浮かんで、海面が少しずつ光を帯びていく。その瞬間だけは、世界のすべてが穏やかで、何も壊れていないように見える。
でも、私の目は嘘をつかない。
港の桟橋を見ればわかる。去年の今頃、桟橋の三段目の横木は水面より手のひらふたつ分くらい上にあった。今は指三本分も浸かっている。聖堂の下にある洞穴は、昔は満潮でも入り口が見えたのに、今では一日の大半が海水に沈んでいる。
カンデラ島は、沈みつつある。

私――ルナ・カンデラ、十五歳、巫女見習い――は、それを知っている。島のみんなも知っている。知っていて、でもどうすることもできなくて、だから誰もが少しだけ目を逸らしながら暮らしている。灯火の枯渇。この世界の魔力の源である灯火が、年々弱まっている。灯火が弱まれば島を支える魔力も薄れて、島は海に還る。それは遠い未来の話ではなく、今まさに起きていることだった。
「ルナ、何をぼうっとしているの。朝ごはんが冷めるわよ」
背後から祖母の声が降ってきた。振り返ると、聖堂の扉の向こうにエステラおばあちゃんが立っていた。七十歳。背筋はまだぴんと伸びていて、銀色の髪を高く結い上げた姿は、先代巫女の母にふさわしい気品がある。ただし、両手には湯気の立つ鍋を持っていて、エプロンには粉がついていて、気品と生活感が見事に同居している。
「今行く!」
私は石段を駆け上がり、聖堂の奥にある住居部分に飛び込んだ。
カンデラ島の聖堂は、島の一番高い場所に建っている。白い石壁と青い屋根の、小さいけれど美しい建物だ。一階が祈りの間で、二階が巫女の住まい。私とおばあちゃんの二人暮らし。聖堂の前庭からは島の全景が見渡せて、色とりどりの家並みが斜面に沿って港まで続いている。赤い屋根、黄色い壁、青い窓枠。カンデラ島の家々は、まるで誰かが丘の上から宝石箱をひっくり返したみたいに、小さくて鮮やかだ。
小さな食卓には、もう朝食が並んでいた。
焼きたてのパンが二つ。こんがりとした表面に薄く亀裂が入って、そこから柔らかな湯気が立ち上っている。隣にはおばあちゃん特製の魚のスープ。今朝の漁で揚がった白身魚と、港の市場で仕入れた香草を煮込んだもので、澄んだ琥珀色のスープの中に白い身がほろりと崩れかけている。あと、島の斜面で育てている小さなトマトを刻んだサラダと、隣の島から交易で手に入れた蜂蜜の壺。
「いただきます」
手を合わせて、まずスープを一口。
ああ、おいしい。
魚の旨みが舌の上でじんわり広がって、香草のほのかな苦みが後を追いかけてくる。体の芯に温かいものが染み渡って、胸の奥にある灯火がかすかに揺れる気がした。おばあちゃんの料理は、いつだって灯火を温めてくれる。
「おばあちゃん、このスープ今日は特においしい。香草多めにした?」
「ナズナを少し足したのよ。港の崖下に生えていたのを摘んできたの。……ただ、もう水際ぎりぎりだったけれどね」
何気ない言い方だったけれど、私はその言葉の裏にあるものを聞き取った。崖下の草地が、海水に侵されつつある。去年はもっと余裕があったはずだ。
「そっか」
私はパンをちぎってスープに浸しながら、笑顔を作った。笑顔は得意だ。誰かが不安そうな顔をしていたら、まず私が笑う。そうすれば、少なくともその瞬間だけは、相手の灯火が少し明るくなる。
「今日は聖堂のお務めの後、港の方に行ってくるね。トーマスおじさんが網の繕いに手が足りないって言ってたから」
「あら、昨日はマルタさんの赤ちゃんの世話を手伝っていなかった? その前はリカルドさんの畑仕事。ルナ、あなた巫女見習いなのに、島の便利屋になっているわよ」
「だって、みんな忙しいんだもん。それに私、じっとしてるの苦手だし」
おばあちゃんは呆れたように、でも優しい目で笑った。その目尻の皺が深くなるのを見ると、私の灯火はいつも少し切なく揺れる。おばあちゃんも歳を取った。十年前、お母さんがいなくなった頃は、まだもう少し背が高かった気がする。
朝食を片付けて、聖堂の祈りの間でお務めを済ませた。祈りの間の中央には小さな灯台の模型がある。カンデラ島に代々伝わるもので、世界の果ての「願いの灯台」を模したものだと言われている。模型の先端には小さな灯火が灯っていて、巫女がその灯火を絶やさないように毎日祈りを捧げるのが務めだ。
私は両手を模型の灯火にかざし、自分の灯火をほんの少しだけ分け与えた。灯守りの技。手のひらの中心がぽうっと温かくなって、淡い金色の光が指の間から漏れる。模型の灯火がゆらりと揺れて、ほんの少しだけ明るくなった。

……でも、前はもっと明るくなったはずだ。私の灯火が足りないのか、それとも模型の灯火自体が弱っているのか。
考えても仕方のないことを振り払うように、私は聖堂を出て坂道を駆け下りた。
カンデラ島の朝は、いつだって賑やかだ。
「おはよう、ルナちゃん! 今日もいい天気だねえ」
坂の途中でパン屋のガブリエルおばさんが声をかけてくれた。ふくよかな腕で窯から出したばかりのパンの籠を抱えている。
「おはようございます! わあ、今日のパンもいい匂い。おばさん、新しい焼き方試した?」
「よくわかったね! 生地にオリーブ油を少し多めに練り込んでみたんだよ。一つ持っていきな」
「ありがとう!」
焼きたてのパンを頬張りながら坂を下りていくと、あちこちから声がかかる。洗濯物を干しているマリアさん、船の塗装をしているペドロさん、井戸端で噂話をしているおばあちゃんたち。みんなが「おはよう」「今日も元気だね」「昨日の煮込み料理、レシピ教えて」と声をかけてくれる。
この島が好きだ。
この島の人たちが好きだ。色とりどりの家と、潮風と、魚の匂いと、みんなの笑い声。小さくて、どこにでもあるような島だけれど、私にとっては世界で一番大切な場所。
港に着くと、トーマスおじさんが桟橋の端で網を広げていた。日に焼けた大きな手で、破れた網目を一つずつ結び直している。
「おじさん、手伝いに来たよ!」
「おお、ルナか。いつも済まないねえ。ほら、そっちの端を持ってくれ」
私は網の端を持って広げながら、おじさんの隣にしゃがみ込んだ。太い糸で網目を繕う作業は単調だけれど、嫌いじゃない。手を動かしながら話をするのにちょうどいい。
「おじさん、最近の漁はどう?」
「んー、正直あんまり良くないな。魚の群れが以前より沖に行っちまうんだ。海水が温くなったせいか、灯火が弱ってるせいか……」
おじさんの声のトーンが少し落ちた。灯火の話になると、みんな声が小さくなる。
「今日の長老会議で、その話も出るんだろ? ルナ、お前さんも出るんだよな、巫女として」
「うん。おばあちゃんの代わりに」
「頼んだぜ。俺たち漁師の声も届けてくれよ。このままじゃ、魚が獲れなくなる前に港が沈んじまう」
おじさんは冗談めかして言ったけれど、目は笑っていなかった。
私は網を繕いながら、港の水面にちらりと目をやった。桟橋の柱に刻まれた古い目盛り。水面は確かに、去年より高い位置にある。
長老会議は、島の中心にある集会所で開かれた。
集会所は聖堂に次いで古い建物で、太い梁と石造りの壁が頑丈な印象を与える。中央に大きな丸テーブルがあり、その周りに島の長老たちが集まっていた。白髪の老人が多いけれど、漁師組合の代表であるロドリゴさんは四十代だし、交易担当のカタリナさんは三十代だ。私は最年少の出席者として、テーブルの隅に座った。
「では、始めましょう」
議長のアルベルトじいさんが、しわがれた声で切り出した。白い顎鬚を撫でながら、テーブルの上に広げた紙を見下ろす。
「まず、島の沈降についての報告です。灯映しの観測によると、過去三ヶ月で島の外縁部が約十五センチ沈降しています。これは昨年同期の三倍の速度です」
会議室がざわついた。私の胸の中でも灯火が不安げに揺れた。三倍。予想はしていたけれど、数字で聞くと重みが違う。
「港の第二桟橋は、大潮の日には完全に水没するようになりました」とロドリゴさんが報告した。「漁船の係留に支障が出ています。第三桟橋の増設が必要ですが、資材が足りない」
「島の南側の畑も塩害がひどくなっている」と、農家のフェリペじいさんが首を振った。「海水が地下に浸透してきとるんだ。あと二年もすれば、あの畑は使えなくなる」
「灯火の供給はどうなっている? 巫女殿」
アルベルトじいさんの目が私に向いた。急に視線が集まって、背筋が伸びる。
「はい。聖堂の灯火は私が毎日お務めで維持していますが……正直に申し上げると、灯火の衰えは進んでいます。私の灯守りの力では、衰退を食い止めることはできていません。遅らせることが、精一杯です」
自分の無力さを認める言葉は、喉に引っかかるように苦かった。巫女見習いとして、島の灯火を守るのが私の務めなのに。
「つまり、このままでは島は沈むということか」
ロドリゴさんが、直截に言った。会議室が静まり返った。
誰もが知っていたことだ。でも、こうして声に出されると、空気が変わる。目を逸らし続けてきた現実が、真正面からこちらを見つめ返してくる。
しばらくの沈黙の後、カタリナさんが口を開いた。
「他の島への移住は? 灯火連盟に支援を要請することは?」
「試したさ」とアルベルトじいさんが苦い顔で答えた。「だが、どの島も自分のところで手一杯だ。灯火の枯渇はカンデラ島だけの問題じゃない。連盟も対策を打てていない」
「じゃあ、どうすればいいんだ。このまま座って島が沈むのを見てろってのか」
ロドリゴさんの声に苛立ちが滲んだ。彼の家は港の近くにある。沈降の影響を最も早く受ける場所だ。
再び沈黙が落ちた。窓の外から海鳥の鳴き声が聞こえる。平和な音なのに、今はどこか物悲しく響いた。
その沈黙を破ったのは、フェリペじいさんだった。
「……灯台は、どうだ」
一瞬、空気が凍った。
灯台。願いの灯台。世界の果てにあるという伝説の灯台。灯火を捧げれば、一つだけ願いが叶う。カンデラ島の巫女が代々語り継いできた伝説。
そして――カンデラ島の巫女が代々、命を懸けて目指し、誰一人として辿り着けなかった場所。
「フェリペ」とアルベルトじいさんが低い声で制した。「その話は……」
「言わなきゃならんだろう。みんな思っとるはずだ。灯台に辿り着いて、島の灯火の回復を願えば――」
「先代巫女もそう考えて旅に出た!」
ロドリゴさんが声を荒げた。「結果はどうだった? 帰ってこなかった。十年前にアリシア様は灯台を目指して、二度と戻らなかった!」
アリシア。
お母さんの名前だ。
私の灯火が、胸の奥でかすかに震えた。冷たい震え。十年経っても、その名前を聞くと胸の中に小さな穴が開く。
「だからこそだ」とフェリペじいさんは譲らなかった。「アリシア様は一人で行った。準備も十分じゃなかった。だが、あれから十年だ。灯台への航路についての知見も増えた。今度はもっとうまくやれるかもしれん」
「もっとうまく? 冗談じゃない。灯台に辿り着いた者は千年に一人もいないんだぞ。それは伝説じゃない、事実だ」
「事実だからこそ、他に手がない時に縋るべきじゃないのか」
議論が白熱し始めた。灯台を目指すべきだという声と、危険すぎるという声。現実的な対策を優先すべきだという声と、現実的な対策はもう手詰まりだという反論。言葉が飛び交う中で、何人かの視線がちらちらと私に向けられているのを感じた。
先代巫女の娘。
巫女の血筋。
灯台に辿り着けるかもしれない、唯一の候補。
誰もそれを口にはしない。口にしたら、十年前と同じことになると知っているから。でも、目が語っている。期待と不安が入り混じった、複雑な目。
私は――。
「私が行きます」
言葉は、考えるより先に口から出ていた。
会議室が静まり返った。全員の目が私に集中する。私は立ち上がっていた。いつ立ったのか、自分でもよくわからない。
「灯台を目指します。私が行きます」
声は震えなかった。不思議なくらい、澄んだ声が出た。胸の中の灯火が、小さいけれどまっすぐに燃えていた。
「ルナ……」
アルベルトじいさんが目を見開いた。
「正気か?」ロドリゴさんが椅子から半分立ち上がった。「お前さんの母親がどうなったか、忘れたのか?」
「忘れていません」
忘れるわけがない。あの朝のことは、全部覚えている。夜明け前に港に立つお母さんの後ろ姿。振り返って、笑って、「行ってくるね」と言ったお母さん。その灯火がどれほど美しく輝いていたか。そして――二度と、その灯火を見ることができなかったこと。
「忘れていないから、行くんです。お母さんが果たせなかったことを、私が果たします。島を救えるなら、私が灯台を目指す意味はあります」
「だが、危険だ!」
「このまま何もしなくても、島は沈みます。危険じゃない選択肢なんて、もうないんです」
自分でも驚くほど冷静な声だった。でも胸の奥では、灯火が激しく揺れている。怖いのか、覚悟が決まったのか、自分でもよくわからない。ただ、この言葉を言うために今日ここにいるような気がした。ずっと前から、心のどこかで決めていたような気がした。
「ルナ」
カタリナさんが、静かに私の名前を呼んだ。彼女の目には涙が滲んでいた。
「あなたのお母さんと同じことになるかもしれないのよ。あなたはまだ十五歳。聖堂にはエステラ様がいらっしゃるけれど、あなたまでいなくなったら……」
「いなくなりません」
私は笑った。いつもの笑顔。みんなの灯火を少しでも明るくするための笑顔。
「必ず帰ってきます。島を救って、帰ってきます。だから、待っていてください」
会議室に長い沈黙が流れた。長老たちが互いに顔を見合わせ、誰からともなく深い溜息が漏れた。
反対する声は、もう上がらなかった。反対したくても、代わりの案を誰も持っていなかった。島は沈みつつある。灯火は枯れつつある。そしてこの島に残された最後の巫女の血筋が、自ら志願している。
止める理由はある。でも、止めた後にどうするかを、誰も答えられない。
アルベルトじいさんが、ゆっくりと頷いた。
「……エステラ様のお許しは得ているのかね」
「これから話します」
正直に答えると、じいさんは苦笑した。
「順序が逆だな。だが……ルナ。お前さんの母上も、同じ目をしていた。止められないと、わしは知っている」
じいさんの目尻に光るものがあった。私はもう一度、深く頭を下げた。
夜。
聖堂の祈りの間は、夜になると別の表情を見せる。壁の燭台に灯された小さな灯火が、石壁に柔らかな影を落とす。天井の高い空間に、海鳴りの音が低く響いてくる。昼間の明るさとは違う、静かで厳かな空気。
灯台の模型の前に、二つの影が並んでいた。私と、おばあちゃん。
長老会議での出来事は、夕方にはもう島中に広まっていた。小さな島だ。秘密なんて存在しない。おばあちゃんは夕食の時には何も言わなかった。いつも通りに魚の煮付けを作って、いつも通りに「おいしい?」と聞いて、いつも通りに私の頭を撫でた。
でも、夕食の後で「祈りの間においで」と言った。その声の静けさで、私は覚悟を決めた。
「会議のこと、聞いたわね」
おばあちゃんは灯台の模型を見つめたまま言った。横顔に燭台の灯火が揺れている。
「うん」
「先に私に相談しなかったのは、止められると思ったから?」
図星だった。私は正直に頷いた。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいわ。あなたの気持ちは、わかっているつもりよ」
おばあちゃんはゆっくりと模型の方に歩み寄り、その小さな灯火に手をかざした。金色の光が、おばあちゃんの皺の刻まれた手を照らす。
「ルナ。灯台の話を、しましょうか。あなたのお母さんに話したのと同じ話を」
私は黙って頷いた。
「願いの灯台は、世界の果てにある。これはあなたも知っているわね。多島海ランテルナの遥か西の果て、消灯域の向こうに、原初の炎を宿す灯台がそびえている。太古の昔、その灯台に灯された炎が世界に灯火をもたらした。全ての生き物の魂に宿る灯火の源。それが、願いの灯台」
おばあちゃんの声は、祈りの時と同じ響きを持っていた。静かで、深くて、言葉の一つ一つに重みがある。
「灯台に辿り着き、自分の灯火を捧げれば、一つだけ願いが叶う。どれほど大きな願いでも。ただし――」
おばあちゃんが言葉を切った。燭台の灯火が、風もないのにゆらりと揺れた。
「代償がある。灯台は、『最も大切なもの』を要求する。それが何かは、人によって違う。ある者にとっては記憶。ある者にとっては愛する人との絆。ある者にとっては、命そのもの」
最も大切なもの。
私にとって最も大切なものは何だろう。この島。島の人たち。おばあちゃん。お母さんの思い出。巫女としての誇り。
「お母さんは……何を捧げようとしたの?」
聞いてから、怖くなった。聞いてはいけないことだったかもしれない。でも、おばあちゃんは静かに答えた。
「わからないわ。アリシアは灯台に辿り着く前に消えたから。消灯域で灯火が尽きたのか、それとも別の何かがあったのか。わかっているのは、旅に同行した弟子のリラだけが戻ってきたこと。リラは消灯域の手前で脱落して、アリシアだけが先に進んだと言っていた」
リラ。お母さんの弟子。名前は聞いたことがあるけれど、会ったことはない。私が五歳の時にお母さんが旅立って、それきり。リラという人も島には戻ってこなかった。
「灯台への道は七つの試練で守られている」とおばあちゃんは続けた。「各試練は旅人の覚悟を試す。最も大切なものを差し出せと要求される。そして最後に灯台に辿り着いたとしても、願いの代償として、さらに大きなものを失う。……少なくとも、伝承ではそうなっている」
おばあちゃんはそこで言葉を切り、灯台の模型から目を離して、初めて私をまっすぐに見た。
その目に、涙はなかった。泣きたいのを堪えているのでもなかった。もっと深い何か――覚悟と後悔と祈りが入り混じった、複雑な光。
「ルナ」
「うん」
「あなたが行くと言うなら、私は止めない。この島を救えるのは、灯台の願いだけかもしれない。それはわかっている。あなたの母もそう信じて旅に出た」
おばあちゃんが一歩、私に近づいた。皺の刻まれた手が、そっと私の頬に触れた。温かい手。少し震えている。
「でもね、ルナ」
おばあちゃんの声が、かすかに震えた。それは祈りの声ではなく、孫娘に語りかける祖母の声だった。
「犠牲を払わない方法を探しなさい」
私は目を瞬いた。
「灯台は代償を求める。最も大切なものを捧げろと言う。でもね、ルナ。それが本当に唯一の方法なのか、疑いなさい。犠牲を払うことが当たり前だと思わないで。犠牲にしないで済む道があるなら、たとえそれがどれほど困難でも、そちらを選びなさい」
「犠牲を払わない方法……」
私は言葉を反芻した。でも、正直に言えば、その意味がよくわからなかった。灯台が代償を求めるなら、代償を払うしかないんじゃないのか。島を救うために必要な犠牲なら、払う価値があるんじゃないのか。
私の命で島が救えるなら、それは――。
「お母さんにはね、この言葉を言えなかったの」
おばあちゃんの声が、さらに小さくなった。
「あの子が旅に出ると言った時、私は止められなかった。止められなかっただけじゃない。この言葉を伝えなかった。犠牲を払わない方法を探しなさい、と。あの子は……たぶん、自分の命を捧げるつもりで旅に出たのだと思う。島のために、あなたのために。自分を犠牲にすることが、巫女の務めだと信じて」
おばあちゃんの手が、私の頬から離れた。両手を合わせるように、自分の胸の前で握った。
「だから、あなたには言う。遅くなったけれど、言わなければならないことだから。ルナ、犠牲を払わない方法を探しなさい。全部を守って、全部を抱えて、それでも道を見つけなさい。それが巫女の本当の強さだと、私は信じている」
おばあちゃんの灯火が見えた気がした。胸の奥で、銀色に静かに燃えている灯火。悲しみを何層も重ねて、それでもなお消えずに灯り続けている、強い灯火。
「おばあちゃん……」
私はおばあちゃんの手を両手で包んだ。小さくて、温かくて、でも骨ばった手。この手が私を育ててくれた。お母さんがいなくなった後、泣きじゃくる私を抱きしめて、ご飯を作って、巫女の祈りを教えてくれた手。
「約束する。犠牲を払わない方法を、探してみる」
正直に言えば、その約束の意味を完全には理解していなかった。灯台の代償を払わずに願いを叶える方法なんて、あるのだろうか。伝承にも、記録にも、そんな方法は出てこない。
でも、おばあちゃんがそう言うなら。お母さんに言えなかった言葉を、私に託してくれるなら。
その言葉の重さに、いつか応えられる日が来ると信じたい。
「ルナ」
「うん」
「明日の朝、出なさい。潮の流れが良い。食料と水は私が用意しておくわ。聖堂の灯火は、私が守る。あなたが帰ってくるまで、絶対に消さない」
おばあちゃんが笑った。涙を一粒だけ零して、それでも笑った。
「行っておいで。そして、帰ってきなさい」
私は頷いた。泣きそうになるのを堪えて、強く、深く、頷いた。
明日、私はこの島を発つ。
世界の果ての灯台を目指して。
島を救うために。みんなを守るために。そして――おばあちゃんとの約束を果たすために。
犠牲を払わない方法を探す。その言葉の意味は、まだわからない。でも、わからないからこそ、旅に出るのだ。答えは、きっと海の向こうにある。
祈りの間を出て、二階の自分の部屋に戻った。窓から見える海は、月明かりを受けて銀色に光っていた。穏やかな海。明日も凪ぐだろうか。それとも、旅立ちにふさわしい風が吹くだろうか。
荷造りは、ほとんど終わっている。巫女の装束。灯守りの道具。それから、お母さんが残してくれた灯火石――巫女の家系に伝わる、灯火を蓄えた小さな石。握ると、ほんのりと温かい。お母さんの灯火の残滓が、まだかすかに宿っている。
私はその石を胸に当てて、目を閉じた。
お母さん。私、行くよ。あなたが辿り着けなかった場所に、私が辿り着いてみせる。
でもね、おばあちゃんが言ってた。犠牲を払わない方法を探しなさいって。
お母さんにはその言葉を言えなかったんだって。
だから私は、お母さんとは違う旅をする。同じ場所を目指すけれど、違う答えを見つける。犠牲にしない方法を。何も失わずに、全部を守る方法を。
……そんな方法があるのか、正直わからない。
でも、探してみる。
探す価値は、きっとある。
眠りに落ちる直前、遠くで灯台の模型の灯火がちらりと揺れた気がした。まるで、行っておいでと手を振るように。
翌朝。
私はいつもより早く目を覚ました。空はまだ薄暗く、東の水平線がほんのりと紫に染まり始めたところだった。
おばあちゃんが用意してくれた荷物を背負い、聖堂に最後の祈りを捧げて、坂道を下りた。まだ誰も起きていない時間のはずなのに、港にはガブリエルおばさんが焼きたてのパンを抱えて立っていたし、トーマスおじさんが灯船の点検をしてくれていたし、マリアさんが手編みのお守りを握りしめて待っていた。
島のみんなが、知っていたのだ。
ルナが行くと。
泣くまいと決めていたのに、泣きそうになった。唇を噛んで、代わりに笑った。いつもの笑顔。でも今日のは少しだけ、いつもより明るく輝いていたと思う。
「行ってきます」
「気をつけてね」「必ず帰ってくるんだよ」「パンは食べきれなかったら海鳥にあげな」
口々に声をかけてくれるみんなに手を振って、私は灯船に乗り込んだ。
灯船の帆に灯火の風を受けて、船がゆっくりと桟橋を離れる。朝焼けが海面を金色に染めて、カンデラ島の色とりどりの家並みが徐々に小さくなっていく。聖堂の白い壁が朝日を受けて輝いている。その前に、小さな人影が立っていた。おばあちゃんだ。銀色の髪が風になびいている。手を振っているのが、もう見えないくらい遠くなっても、私にはわかった。
振り返るのを、やめた。前を向いた。
海は広い。多島海ランテルナの海は、どこまでも続いている。無数の島が点在し、それぞれの島にそれぞれの灯火が灯っている。でも今、その灯火は少しずつ弱まっている。島々は少しずつ沈んでいる。
私はその全部を、救いたい。
犠牲を払わない方法を探しながら。

朝の潮風が、頬の涙を乾かしてくれた。新しい一日が始まる。新しい旅が始まる。
――そして。
出発の朝、荷物を積み込むためにカンデラ島の港へ降りた、その桟橋。
そこに、一人の少年が倒れていた。
ぼろぼろの服。体中に傷。潮水に濡れた黒い髪が、蒼白な顔に貼りついている。息はかすかにあるけれど、その灯火は今にも消えそうなほど弱く、暗い。
私は迷わず駆け寄った。
膝をつき、少年の頭をそっと持ち上げ、手のひらを彼の胸に当てた。灯守りの技。私の灯火から、温かな光がそっと手のひらを通して流れ出す。
「大丈夫、消えないで。まだ消えちゃだめだよ」
少年の瞼がかすかに震えた。薄く開いた瞳は、暗い赤だった。燃え残りの炭火のような、深く沈んだ赤。灯喰いで他者の灯火を奪い続けた者の瞳の色。
その目が、一瞬だけ大きく見開かれて、私を見た。
何か言いかけた唇が、力なく閉じる。
少年は、気を失った。
私の手のひらの中で、彼の灯火がかろうじて揺れている。冷たくて、暗くて、でも確かにそこにある、小さな灯火。
朝日が桟橋を照らしている。波が穏やかに岸壁を洗う。
旅は、始まったばかりだった。