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第12章

第七の試練──全て

パート1

 海が、燃えていた。

 燃えている、というのは比喩だ。でも、他の言い方が見つからない。水平線の向こうにある灯台の光が海面に散って、波の一つ一つが金色の鱗みたいに輝いている。昇ったばかりの朝日とは違う光。太陽よりもずっと古くて、ずっと深い光が、海を内側から照らしている。

 灯台の光だ。

 第六の試練を越えてから二日目の朝。灯台は、もう肉眼で見える距離にあった。

 細く白い塔が、水平線の上に立っている。周りに島はない。大地もない。海の真ん中に、ただ灯台だけが聳えている。根元は波に洗われ、てっぺんは雲を突き抜けて、その高さは見上げるだけで首が痛くなるほどだ。

 塔の頂に灯が灯っている。真昼のように強い光ではなく、夕暮れの最後の一筋みたいな、柔らかくて、温かくて、でもどこか寂しい光。

 願いの灯台。

 お母さんが目指して、帰ってこなかった場所。おばあちゃんが「犠牲を払わない方法を探しなさい」と託してくれた場所。ソレイユのお父さんが実在を信じて、学界から追放された場所。

 今、私の目の前にある。

「……本当にあったんだな」

 マリンが呟いた。舵輪を握ったまま、口が半開きになっている。生意気で物怖じしないこの子が、珍しく呆然としていた。

「ルナ、距離を計測したい。灯台の塔頂から仰角を測れば——」

 ソレイユが航海器具を取り出しかけて、手を止めた。琥珀色の目が潤んでいる。測定する前に、まず見ていたかったのだろう。学者である前に、一人の旅人として。

「……残り半日といったところだ」

 アッシュが船べりにもたれて言った。声はいつもの軽さだったけれど、灯台を見つめる目は違った。千年分の何かが、その目の奥に揺れている。

「その前に、朝ごはんにしよう」

 私は立ち上がった。

「え、今?」マリンが眉を上げた。「灯台がすぐそこにあるのに?」

「だからだよ。最後の試練の前に、ちゃんと食べておかなきゃ」

 残りの食材を確認した。保存食の中身はかなり減っていた。消灯域を越える前にエミセラ島で補充した分も、六人で食べれば当然減る。

 でも、まだある。

 干し魚が少し。根菜が三つ。硬パンの残り。塩漬けの肉の最後のひと切れ。カンデラ島から持ってきた香草の、最後のひと房。

 最後の食材で、最後の試練前の食事を作る。

 竈に灯し魔法で火を入れた。消灯域を抜けてからは灯火魔法が使えるようになっていて、温かい料理が作れる。それだけで贅沢だと思えるのは、あの暗闘を越えたからだ。

 鍋に水を張って、干し魚をほぐして入れた。根菜を小さく刻んで加える。塩漬けの肉も薄く切って投入した。最後に、香草をちぎって散らした。

 カンデラ島の香草。お母さんも使っていた、あの香草。リラさんが「エレナさんの味に似てる」と言ってくれた、あの匂い。

 湯気が立ち上った。

 甘くて、少しだけ苦くて、潮の匂いが混じった香り。この香りを嗅ぐたびに、聖堂の台所が浮かぶ。おばあちゃんと一緒に料理をした朝の記憶。

「いい匂い」

 リラさんが船室から出てきた。

「最後の香草を使ったの」

「最後?」

「うん。カンデラ島から持ってきた分は、これでおしまい」

 リラさんが少しだけ寂しそうな顔をした。でもすぐに微笑んだ。

「じゃあ、大事に食べないとね」

 六人で甲板に丸く座った。いつもの場所。いつもの配置。マリンが舵輪の近く、ソレイユがその隣、リラさんが私の向かい、イグニスが私の斜め後ろ、アッシュが少し離れたところ。

 鍋から椀にスープをよそって、一人一人に渡した。硬パンの残りを六つに割って配った。

「いただきます」

 手を合わせて、一口。

 温かい。体の芯まで染みる温かさ。干し魚の出汁と香草の風味が口に広がって、灯火がふわりと揺れた。

「……美味い」

 イグニスが言った。

 旅の最初のころ、イグニスは味の感想なんて一度も言わなかった。「食べられればいい」「燃料だ」——そういう扱いだった。影灯機関で食事は「体を動かすための補給」でしかなかったから。

 それが今、「美味い」と言う。しかも自分から。

「イグニス、最近よく言うようになったよね。美味いって」

「……そうか」

「前は絶対言わなかったのに」

「……味がわかるようになった」

 その一言に、旅の全部が詰まっている気がした。

「あたしにも言えよ。あたしの操舵の腕についても」

「操舵は美味いとは言わない」

「たとえだよ!」

 マリンがスープを啜りながら肩を怒らせた。ソレイユが「論理的に正しい反論だ」と呟いて、マリンに睨まれた。

 リラさんがパンをスープに浸しながら、穏やかに笑っている。くしゃっとした、年相応の笑顔。十年間の贖罪を手放してから、リラさんの笑い方は変わった。硬さが抜けて、ほんの少しだけ幼くなった。

 アッシュがスープを飲み干して、空になった椀を見つめた。

「千年間で一番うまいスープかもしれんな」

「大げさだよ」

「いや、本気だ。千年分の腹の虫が完全に治まった」

 アッシュの言葉は軽い。でも、その目は灯台を見ていた。灯台の光を映した琥珀色の瞳が、静かに揺れている。

 私はスープを一口飲んだ。最後のカンデラ島の香草の味。もう二度と作れない味。

 でも——帰ったらまた香草を育てよう。島に帰ったら。全員で帰ったら。

「ごちそうさまでした」

 全員が椀を置いた。

 灯台が、海の向こうで光っている。

 最後の試練が、待っている。


灯台の前の門

パート2

 灯台に近づくにつれて、海の色が変わった。

 青でも緑でもない。透明、というのが一番近い。水面の下が見えるのではなく、水そのものが存在感を失っていくような——海であって海ではないものの上を、灯船は滑っていた。

 空気も変わった。潮の匂いが消えて、代わりに甘い匂いが漂い始めた。花の匂いではない。記憶の匂い。第六の試練の時に感じたのと似ているけれど、もっと強く、もっと深い。懐かしいのではなく、根源的な匂い。灯火そのものの匂い。

「来たぞ」

 アッシュが言った。

 灯台の根元から、光の柱が立ち上がった。白く、太く、まっすぐに天を貫く光。その光が広がって、灯船の周りの海面を覆い尽くした。

 灯船が、止まった。

 マリンが舵を切っても、帆を張り直しても、船は動かなかった。見えない力に係留されたように、灯台から数百メートルの距離で完全に停止した。

「試練だ」マリンが歯を食いしばった。「動けない」

「第七の試練」ソレイユが息を呑んだ。「最後の——」

 声が響いた。

 第六の試練の時と同じ。灯火の奥に直接刻まれる声。でも今度は、あの時よりもずっと重い。ずっと古い。世界の底から湧き上がるような、途方もなく巨大な意志の声。

 ——全てを差し出せ。

 一瞬、息が止まった。

 全て。

 記憶でも、絆でも、知識でも、夢でも、贖罪でも、諦めでもない。全て。

 ——汝の灯火の全てを。仲間の灯火の全てを。命の全てを。

 ——全てを差し出せば、灯台は汝の願いを叶える。

 声が甲板の上に降り注いだ。光の柱が脈動して、灯火の奥に直接語りかけてくる。六つの試練とは次元が違う圧力だった。第六の試練が「穏やかな誘惑」だとすれば、第七の試練は「世界そのものの要求」だった。

 灯火が軋む。胸の奥で、私の灯火が見えない力に握りしめられている。差し出せ。全てを。お前の灯火を。お前の命を。お前の仲間の全てを。

「ぐっ——」

 マリンが膝をついた。舵輪にしがみついて、歯を食いしばっている。

「なんだ、これ……灯火が、引っ張られる……」

 ソレイユも顔色が変わっていた。眼鏡の奥の目が苦痛に歪んでいる。

「灯火への干渉——第六の試練とは比較にならない強度だ。灯火の核に直接アクセスしてきている——」

 リラさんが胸を押さえた。祈りの言葉を唱えようとして、声が出ない。

 イグニスだけが、まだ立っていた。でも拳が白くなるほど握りしめられていて、赤い目に苦痛の色が浮かんでいる。

 アッシュは——動かなかった。船べりにもたれたまま、腕を組んだまま。灯台守りである彼には、試練は効かない。でもその顔は硬かった。千年分の緊張が、一本の皺として眉間に刻まれていた。

 声が続く。

 ——六つの試練を越えた者よ。

 ——汝は記憶を守った。絆を守った。知識を守った。夢を守った。贖罪を手放した。諦めを退けた。

 ——しかし第七の試練は、それら全てを要求する。

 ——全てを差し出せ。さもなくば、灯台の扉は開かない。

 私の胸の奥で、灯火が悲鳴を上げた。

 全て。

 これまでの試練は、一つずつだった。一つの大切なものを差し出せと言われて、それを守った。でも今度は全部だ。記憶も、絆も、知識も、夢も——全部。仲間の灯火も。自分の命も。

 本当に全てを差し出したら、何も残らない。

 灯火が消える。命が尽きる。仲間も巻き添えになる。

 でも——差し出さなければ、灯台の扉は開かない。島は救えない。

 おばあちゃんが一人で聖堂を守っている。島の灯火が枯渇していく。カンデラ島が沈む。

 全てを差し出せば、願いは叶う。島は救われる。

 私の灯火と引き換えに。

 ——やれる。

 その考えが、すっと心の中を横切った。

 私の灯火を全部差し出せば、島は救える。仲間の灯火は巻き込まなくていい。私一人の灯火で足りるなら、私一人が消えれば済む話だ。

 巫女の灯火は強い。お母さんから受け継いだ灯火は大きい。一人分の灯火でも、島を救うには十分かもしれない。

 そうすれば——みんなは助かる。

 自分の灯火を差し出して、島を救って、みんなを帰す。私だけが消える。犠牲は一人だけ。最小限の犠牲で、最大限の結果を得る。合理的だ。ソレイユならそう計算するだろう。

 いや——ソレイユはそんな計算をしない。消灯域の夜に怒られたじゃないか。「お前が自分を犠牲にすることは、全員を殺すことと同義だ」と。

 でも。

 でも、他にどうすれば。

 全てを差し出せと言われて、何も差し出さなかったら、灯台の扉は開かない。島は沈む。おばあちゃんが死ぬ。島のみんなが死ぬ。

 犠牲を払わなければ、もっと多くの人が死ぬ。

 だったら——

「ルナ」

 イグニスの声だった。

 低い声。でも、旅の最初の頃とは全然違う声。感情が乗っている。苦痛と、怒りと、それから——恐怖が。

「その顔をするな」

 イグニスは私の顔を見ていた。暗殺者の目で。微細な変化を見逃さない、あの鋭い目で。

 私の表情から、何を考えているか読み取ったのだ。

「消灯域の夜と同じ顔をしている。灯渡しで全部渡そうとした時の顔だ」

「イグニス——」

「やめろ」

 短い言葉。でも、その二文字に込められた感情の量は、旅の最初の頃のイグニスには想像もできなかっただろう。

 マリンが膝をついたまま、私を睨んだ。

「ルナ、まさかまた一人で背負う気じゃないだろうな」

「違う——」

「嘘だ。あたしの目を見て言えよ」

 言えなかった。

 ソレイユが苦しそうな息の下から、声を絞り出した。

「ルナ。前にも言った。お前が消えたら、全部無駄になる。犠牲を払わないと決めたのは——お前だろう」

 リラさんが胸を押さえたまま、私を見た。

「ルナちゃん。お母さんと同じことを——しないで」

 お母さんと同じこと。

 消灯域で灯渡しを繰り返して、自分の灯火を削って、一人で先に進んで、帰ってこなかったお母さん。

 私は今、その道を歩こうとしている。

 わかっている。わかっているのに——他に方法が見つからない。

 全てを差し出せ。

 差し出さなければ扉は開かない。

 差し出せば、誰かが消える。

 犠牲を払わない方法なんて、本当にあるのか。


二つの正義

パート3

 声が強まった。

 ——答えよ。全てを差し出すか。

 灯火の奥に、重圧が増していく。息が苦しい。胸が締めつけられる。仲間たちの灯火が、一つ一つ圧迫されていくのが感じられる。マリンの小さな灯火が悲鳴を上げている。ソレイユの灯火が揺れている。リラさんの灯火が萎みかけている。イグニスの暗い灯火が、消灯域の時みたいに危うく震えている。

 このままでは、答えを出す前にみんなの灯火が潰される。

 私が、決めなければ。

 ——差し出す。

 その言葉が喉元まで上がってきた。私の灯火を全部。仲間は巻き込まない。私一人の灯火で。

 手のひらに灯火を集めた。巫女の灯火。お母さんから受け継いだ光。消灯域で削られて、灯渡しで小さくなって、でもまだここにある炎。

 これを全部、差し出せば。

 手を持ち上げた。

 その瞬間——。

「待って」

 自分の声だった。

 私の口から出た、私自身の声。喉元まで上がってきた「差し出す」を押し戻して、代わりに出てきた言葉。

 手が止まった。灯火を集めた手のひらが、中途半端な高さで止まっている。

 胸の奥で、記憶が回った。

 おばあちゃんの声。——犠牲を払わない方法を探しなさい。

 ソレイユの声。——灯台が求めているのは犠牲じゃない。犠牲を払わない覚悟だ。

 ソレイユのお父さんの仮説。——灯台は代償装置ではなく、共鳴装置である。

 あの経典の一節。——灯台は犠牲を求めず。真に灯台が求めるは、犠牲なき願い。犠牲を払わぬ覚悟こそが、新たなる灯火を生む種なり。

 犠牲を払わぬ覚悟こそが——新たなる灯火を生む種。

 新たなる灯火を、生む。

 その言葉が、頭の中で光った。

「……ルナ?」

 リラさんの声が遠くに聞こえた。

 私は手のひらを見つめた。灯火が震えている。小さな炎。消灯域で削られて、灯渡しで分けて、試練のたびに揺さぶられてきた灯火。

 でも——消えていない。

 ここまでの旅で、何度も消えかけた。何度も使い切りそうになった。でも、その度に仲間が止めてくれた。一人で背負うなと叱ってくれた。

 イグニスが泣いてくれた。マリンが怒ってくれた。ソレイユが論理で叱ってくれた。リラさんがお母さんと重ねて止めてくれた。

 私の灯火が今もここにあるのは、私一人の力じゃない。みんなが守ってくれたからだ。

 差し出す代わりに——守った。

 六つの試練で、私たちがやってきたことは、まさにそれだった。

 第一の試練で記憶を差し出せと言われて、差し出さなかった。守った。

 第二の試練で絆を差し出せと言われて、差し出さなかった。守った。

 差し出す代わりに守ること。失う代わりに繋ぐこと。消す代わりに灯すこと。

 犠牲を払わない覚悟というのは——「差し出さない」だけじゃない。

 差し出す代わりに、新しいものを灯す。

 「新たなる灯火を生む種」。

 ソレイユのお父さんの仮説。灯台は共鳴装置だと。犠牲を食って願いを叶えるのではなく、旅人の灯火と共鳴して新しい力を生むのだと。

 共鳴するためには——灯火が要る。消えた灯火とは共鳴できない。差し出して空っぽになった器とは共鳴できない。

 灯火を持ったまま——灯台と向き合う。

 それが、答えだ。

 私は手のひらの灯火を胸に戻した。差し出すために集めた灯火を、自分の中に返した。

 仲間たちを見回した。

 マリンが膝をついている。ソレイユが苦しそうに息をしている。リラさんが祈っている。イグニスが拳を握りしめている。

 全員の灯火が弱っている。試練の圧力に押されて。

 でも——消えてはいない。誰の灯火も、消えてはいない。

「みんな」

 声を出した。震えていた。でも、出した。

「聞いて」

 全員の視線が集まった。試練の圧力に耐えながら、それでも私を見てくれた。

「私——何も差し出さない」

 声が響いた。

 試練の声が、ざわりと揺れた。

「全てを差し出せって言われたけど——差し出さない。灯火も。命も。仲間も。何一つ差し出さない」

 ——ならば、灯台の扉は開かぬ。

 声が轟いた。海面が波立った。光の柱が激しく脈動する。

「開くよ」

 私は言った。声が震えるのを、もう隠さなかった。

「差し出す代わりに——新しいものを灯す」

 ——何だと。

「差し出すって、失うことでしょ。灯火を消すことでしょ。でも灯台は、灯火を消すための場所じゃない。灯火を灯すための場所だ」

 ソレイユの経典の言葉が、胸の中で光っている。

「犠牲を払わぬ覚悟こそが、新たなる灯火を生む種——でしょ」

 私は手のひらを広げた。灯火はそこにある。小さくて、弱くて、旅の途中で何度も消えかけた灯火。でも、ここにある。

「この灯火は差し出さない。でも、消さないで灯台の前に立つ。それが——私の答え」

 試練の声が沈黙した。

 一瞬の沈黙。海も風も光も止まって、世界が息を止めた。

 そして——声が言った。

 ——では、証明せよ。

 ——犠牲なくして、灯台の扉を開く力が汝にあることを。

 光の柱が膨れ上がった。灯台の光が灯船を包み込んで、視界が白く染まる。灯火への圧力が一気に跳ね上がった。

 先ほどまでの圧力とは比べものにならない。灯火が押し潰される——今度は本当に。

「ぐあっ——」

 マリンが甲板に倒れた。ソレイユが膝をついた。リラさんが声もなく崩れ落ちた。イグニスが一歩よろめいた。

 私も——膝が折れた。

 灯火が悲鳴を上げている。消灯域の比じゃない。灯火そのものを引き抜こうとする力。命の根っこを掴まれて引っ張られるような感覚。

 痛い。苦しい。怖い。

 差し出せば——楽になれる。この苦しみから解放される。灯火を手放せば、痛みは消える。

 でも。

 ——差し出さない。

 歯を食いしばった。膝をついたまま、両手を甲板について、灯火を自分の中に留めた。出て行こうとする灯火を、必死に抱きしめた。

「ルナ——!」

 イグニスの声。よろめきながらも、私のそばに来ようとしている。

「大丈夫——大丈夫だから——」

 大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない。灯火がちぎれそうだ。このままじゃ、差し出さなくても奪い取られる。

 ——では、差し出すか。

 声が囁いた。

 差し出せば楽になれる。差し出せば島は救われる。差し出せば——。

「差し出さない!」

 叫んだ。

 でも——声だけじゃ、足りない。言葉だけじゃ、この圧力に抗えない。灯火が一人分では足りない。

 ——一人分では。

 その時、背中に温もりを感じた。

「俺の灯火を使え」

 イグニスだった。

 背中にイグニスの手が触れている。温かい。暗殺者の冷たい手が、今は温かい。そこから灯火が流れ込んでくる——灯渡しじゃない。灯火を差し出しているのではない。灯火が——共鳴している。

 イグニスの灯火と、私の灯火が、触れ合った瞬間に共鳴した。一つになったのではない。二つの灯火がそれぞれの形を保ったまま、同じリズムで揺れ始めた。

「あたしも!」

 マリンが這うようにして近づいてきた。小さな手が私の手を掴んだ。マリンの灯火——弱くて、小さくて、でも消えない灯火が、私の灯火に共鳴した。三つの灯火が同じリズムで揺れる。

「非合理的だが——こういう時は、非合理を信じる」

 ソレイユの手が私の肩に触れた。四つ目の灯火が共鳴に加わった。学者の灯火。知識ではなく、心で燃えている灯火。

「ルナちゃん——一緒に」

 リラさんの手が私の腕を握った。五つ目の灯火。贖罪を手放して、自分のために燃え始めた灯火。お母さんの灯火の記憶を持つ、温かい光。

 五つの灯火が共鳴している。

 一つ一つは小さい。消灯域で削られて、試練で揺さぶられて、旅の途中で何度も消えかけた灯火。

 でも五つが共鳴すると——光が変わった。

 足し算じゃなかった。一つ一つの灯火の合計よりも、共鳴している灯火のほうがずっと強い。ソレイユのお父さんの仮説が正しかったのだと、頭ではなく体でわかった。共鳴装置。灯火は消費されるのではなく、共鳴して増幅される。

 試練の圧力が、少し弱まった。

 いや——圧力が弱まったのではない。私たちの灯火が強くなったのだ。


六つの灯火

パート4

 共鳴する灯火の光が、甲板を照らした。

 白い光ではなかった。五つの色が混ざり合って、見たこともない色になっている。私の灯火の琥珀色。イグニスの灯火の暗い赤。マリンの灯火の碧。ソレイユの灯火の金。リラさんの灯火の柔らかな白。

 五色の光が溶け合って、虹でもなく白でもなく、名前のつけようがない光になっている。強い光。でも眩しくない。温かくて、深くて、この世界の灯火の——始まりの色みたいな光。

 試練の声が揺れた。

 ——これは——。

「犠牲じゃないよ」

 私は言った。膝をついたまま、仲間に触れられたまま。声は震えていたけれど、言葉は真っ直ぐだった。

「誰の灯火も消えてない。誰の灯火も差し出してない。ただ——一緒に燃えてるだけ」

 一緒に燃える。それだけのことだ。

 犠牲を払って消すのではなく。差し出して失うのではなく。ただ、隣にいて、一緒に灯火を燃やす。

 それが——犠牲を払わない覚悟。

 新たなる灯火を生む種。

「ルナ」

 アッシュの声がした。

 振り向くと、アッシュが立っていた。腕組みを解いて、真っ直ぐに私を見ていた。

 その顔に——初めて見る表情が浮かんでいた。

 泣き笑い。

 千年を生きた灯台守りが、泣きながら笑っていた。

「千年間——待った」

 アッシュの声が震えていた。陽気な吟遊詩人の声ではなかった。千年分の孤独と、千年分の祈りと、千年分の希望を全部乗せた、剥き出しの声だった。

「千年間、一人も——犠牲を払わない旅人は現れなかった。全員が当たり前のように灯火を差し出した。命を差し出した。それが正しいと信じて」

 アッシュの目から涙がこぼれた。光の中で、その涙が虹色に光った。

「俺は見ているしかできなかった。灯台守りとして、ヒントを与えることは許されていなかった。旅人が自分で気づかなければならなかった。だから——ただ待った。いつか、犠牲を払わない旅人が来ることを」

 千年。

 千年間、一人で。

 旅人が灯台に辿り着いて、灯火を差し出して、命を失うのを見送って。次の旅人を待って。また同じ結末を見て。また待って。

 その繰り返しを、千年。

「アッシュ——」

「千年前に灯台に着いた時、俺は願った。灯台守りになりたいと。犠牲を払わない旅人を見届けたかったから。俺自身は犠牲を払ってしまったがな——永遠の命は、永遠の孤独と引き換えだった」

 アッシュが笑った。涙を流しながら。

「でも今——お前たちがいる。千年待った甲斐があった」

 アッシュが私たちのそばに来て——膝をついた。

「灯台守りとして、俺は中立でなければならない。試練に干渉してはならない。旅人を助けてはならない。それがルールだ」

 アッシュの手が、私たちの重なり合った手の上に置かれた。

「でも——もう千年分のルールは守った。十分だろう」

 六つ目の灯火が、共鳴に加わった。

 アッシュの灯火。千年分の重さを持つ灯火。孤独で磨り減って、薄くなって、でも消えなかった灯台守りの灯火。

 六つの灯火が共鳴した。

 その瞬間——世界が、鳴った。

 音ではなかった。空気が振動して、海が振動して、光が振動して、灯火が振動した。共鳴の波紋が灯船から広がって、海面を走り、灯台に向かって突き進んでいく。

 灯台の塔に波紋が到達した瞬間——塔が、光った。

 今までとは次元が違う光だった。塔全体が発光して、海が真昼のように明るくなった。空に光の柱が立ち上り、雲を貫いて、どこまでも高く伸びていく。

 試練の声が——変わった。

 重い声。古い声。世界の底からの声。

 それが——震えていた。

 ——千年ぶりだ。

 声の質が変わっていた。要求する声ではなかった。試す声でもなかった。

 喜んでいた。

 ——犠牲なき灯火。共鳴する灯火。千年前に灯台が求めた答えを、ようやく——ようやく持ってきた旅人がいる。

 試練の圧力が、消えた。

 灯火を押し潰す力が、嘘のように消えた。代わりに、温もりが流れ込んできた。灯台から放たれる温もり。海を伝って、灯船に到達して、六人の灯火を包み込む。

 柔らかい光。怖くない光。

 まるで——「おかえり」と言っているみたいな光。

 灯台の根元に、扉が現れた。

 白い石の壁の中に、光の線が走って、長方形の輪郭を描いた。扉だ。閉じていた扉が、ゆっくりと——音もなく——開いていく。

 扉の向こうから、光が溢れた。金色でも白色でもない、名前のない色の光。灯火の始まりの色。世界が生まれた時に最初に灯った炎の色。

 原初の炎の光だった。


パート5

 全員が、甲板の上に座り込んでいた。

 試練が終わった。灯火への圧力が消えて、体中から力が抜けて、立っていられなかったのだ。

 マリンが仰向けに寝転がって、空を見上げていた。

「……勝ったのか? あたしたち」

「試練に勝ち負けはない」ソレイユが息を整えながら言った。「突破しただけだ」

「同じことだろ」

「全然違う。試練は敵ではない。試験だ」

「細かいこと言うなよ、メガネ」

 マリンが笑った。疲れ切った、でも晴れやかな笑い。

 リラさんが涙を拭いていた。静かに、穏やかに。

「ルナちゃん。お母さんも——こうすればよかったのかもしれないね」

「リラさん……」

「犠牲を払う代わりに、みんなで灯火を共鳴させる。あの時のエレナさんには、仲間がいなかった。私は脱落して、エレナさんは一人で行くしかなかった。だから——犠牲を払うしか、方法がなかった」

 リラさんの目に、もう後悔の色はなかった。ただ、少しだけ切ない色があった。

「でもルナちゃんは違う。仲間がいる。一人で背負わなくていい。だから——犠牲を払わない方法に、辿り着けた」

 私は頷いた。喉が詰まって、声が出なかった。

 イグニスが私の隣に立っていた。立っている、というより——私のそばから動かなかった。試練の間ずっと背中を支えてくれた手は、もう離れていたけれど、そこにいた。

「イグニス」

「……ああ」

「ありがとう。背中を支えてくれて」

 イグニスは何も言わなかった。ただ——かすかに、本当にかすかに、頷いた。

 旅の最初なら「任務だ」と言っただろう。でも今は、何も言わない。言葉にしない代わりに、ここにいる。それが——イグニスの答えだった。

 アッシュが涙の跡を袖で乱暴に拭って、いつもの陽気な笑みを浮かべた。

「さて。扉が開いた」

 灯台の根元に、光の扉がある。開いたまま、私たちを待っている。

「あの先に何があるのか——千年間、灯台守りとして知っていたが、口にすることは許されなかった。だが今なら少しだけ言える」

 アッシュが灯台を見上げた。

「あの先にあるのは、原初の炎だ。この世界の全ての灯火の始まりであり、灯台の心臓部。原初の炎と対話して——お前の願いを伝えろ、ルナ」

「対話?」

「願いを叶えるというのは、一方的に何かをもらうことじゃない。灯火と灯火が出会って、新しい何かが生まれること。さっきお前たちがやったことと同じだ」

 アッシュが私を見た。千年ぶりに温かくなった灯火を映した目で。

「犠牲を払わずに灯台に辿り着いた旅人は、千年間でお前が初めてだ。だから——原初の炎がお前に何を語るか、俺にもわからない。前例がないからな」

「前例がない」ソレイユが身を乗り出した。「つまり、学術的に未知の領域だということか」

「その通りだ、学者先生。論文のネタとしては最高だろう?」

「最高だ」ソレイユが珍しく頬を緩めた。「父さんの論文の結論が、ようやく書ける」

 マリンが立ち上がって、帽子の埃を払った。

「で、行くんだろ? 灯台の中に」

「うん」

「全員で?」

「当たり前だよ」

 私は立ち上がった。

 膝がまだ少し震えていた。灯火はまだ弱かった。試練の消耗は大きかった。

 でも——六人で、立っている。

 全員が。

「全員で行って、全員で帰ってくる」

 私はそう言って、仲間の顔を一人一人見た。

 イグニスの赤い目。感情が灯った、暗殺者の目。

 ソレイユの琥珀色の瞳。学者の好奇心と、仲間への信頼が混ざった目。

 マリンの碧眼。生意気な光と、居場所を見つけた安堵が宿る目。

 リラさんの穏やかな瞳。贖罪を手放して、自分のために燃えている目。

 アッシュの目。千年分の孤独が溶けて、ようやく温もりを取り戻した目。

 五人が、頷いた。

 灯船が動き始めた。試練の拘束が解けて、風が帆を膨らませた。マリンが舵輪を握り、灯台に向かって船を進めた。

 灯台が近づいてくる。大きくなっていく。水平線の上の細い影が、巨大な白い塔に変わっていく。根元の波が砕ける音が聞こえる。石の壁に海水が打ちつける音。

 そして——扉の光。

 金色でも白色でもない、名前のない光が、灯台の根元から溢れている。

 その光が、私たちを呼んでいる。

 灯船が灯台の根元に着いた。石の足場がある。灯台の壁から張り出した小さな桟橋。マリンが巧みに船を寄せて、全員が桟橋に降り立った。

 足の下が石だった。船の甲板ではなく、石。どれくらいぶりに地面を踏んだだろう。旅が始まってから、ほとんどずっと船の上だった。

 灯台の扉の前に立った。

 六人で。

 光が溢れている。扉の向こうから。温かくて、優しくて、でもどこか畏ろしい光。世界の始まりの光。

 私は手のひらを胸に当てた。灯火がそこにある。小さくて、弱くて、でも消えない灯火。みんなに守ってもらった灯火。みんなと一緒に共鳴させた灯火。

 ——行こう。

 心の中で呟いた。

 お母さん。おばあちゃん。見ていてね。

 犠牲なんか払わないで、ここまで来たよ。

 私は一歩を踏み出した。光の中へ。仲間と一緒に。

 灯台の扉をくぐった。

 光が、私たちを包んだ。

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