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第11章

第六の試練──諦め

パート1

 海が、優しかった。

 消灯域を抜けてから半日。灯船は穏やかな海を滑るように進んでいた。波は低く、風は柔らかく、空は抜けるような青で、まるで世界の果てに近づいているとは思えないほどの凪だった。

 なのに——私の胸がざわついている。

 この優しさが、嘘くさい。

 五つの試練を越えてきて、学んだことがある。試練は正面から来るとは限らない。第一の試練は「最も大切な記憶を差し出せ」と言った。第二の試練は「絆を差し出せ」と言った。どれも、旅人の弱いところを的確に突いてきた。

 今、世界がこれほど穏やかなのは——それ自体が、試練の一部なんじゃないか。

「おい、ルナ」

 マリンの声で我に返った。

「何をぼーっとしてんだ。前見ろ、前」

 前方の海に、薄い光の幕のようなものが漂っていた。虹色にきらきらと揺れる、透明な膜。灯火魔法の残滓に似ているけれど、それよりもずっと古い、ずっと深い力の名残。

 灯船がその膜に触れた瞬間——世界が変わった。

 いや、変わったのではない。「変わらなかった」のだ。海も空も風も、何一つ変わらない。ただ、心の中に声が響いた。

 ——旅を諦めよ。

 聞こえたのは声であり、声ではなかった。鼓膜を震わせる音ではなく、灯火の奥に直接刻まれる言葉。思考と感覚の境目をすり抜けて、意識の一番深いところに届く。

 ——引き返せ。引き返せば、全員助かる。

 温かい声だった。怒っていない。脅していない。ただ穏やかに、優しく、当然のことを告げるように。引き返せ、と。

「第六の試練だ」

 アッシュの声が、遠くに聞こえた。

「この試練は何も要求しない。何も奪おうとしない。ただ——選択を迫る。進むか、退くか」

 声が続いた。灯火の奥で。

 ——引き返せば、仲間を危険にさらす必要はない。

 ——消灯域をもう一度越える必要もない。

 ——戻れば、全員が安全に島へ帰れる。

 ――お前はもう、十分に頑張った。

 温かい。この声は温かい。

 引き返す誘惑が、波のように押し寄せてきた。消灯域の暗闇を思い出す。仲間の灯火が弱まっていく恐怖。自分の灯火を削って渡した時の、胸の空洞。イグニスの涙。マリンの震える声。

 あんな思いを、もう一度するのか。

 この先にはまだ試練がある。第七の試練。最後にして最も厳しい試練。灯台が何を要求するのかもわからない。仲間がもっとひどい目に遭うかもしれない。誰かの灯火が消えるかもしれない。

 引き返せば——全員が生きている。今のまま、全員が。

 ――島は沈むけれど。

 その声は、試練の声ではなかった。私自身の声だ。胸の奥で反論する、小さな声。

 カンデラ島が沈む。灯火の枯渇が進む。おばあちゃんが一人で聖堂を守っている。島の人たちが、私の帰りを待っている。

 引き返したら、島は救えない。

 でも——仲間は助かる。

「ルナ」

 ソレイユの声がした。硬い声。必死で何かに抗っているような声。

「この声が聞こえるか。灯火に直接干渉してくる種類の精神攻撃だ。感情を増幅させて、撤退衝動を植え付けている。理論的には——」

「理論はいいよ、メガネ」マリンが歯を食いしばりながら言った。「わかってても効くんだから、タチ悪い」

 マリンの手が震えていた。舵輪を握る手。消灯域の時と同じ震え。

 リラが目を閉じていた。唇が動いている。祈りの言葉か。それとも、自分自身に言い聞かせているのか。

 イグニスは——じっと前を見ていた。赤い目に、何か深いものが揺れている。

 アッシュは黙って腕を組んでいた。灯台守りであるアッシュには、この試練は効かないのだろう。彼はただ、私たちが何を選ぶのかを見ている。

 声が続く。

 ——お前の仲間を見よ。

 ——消灯域で、彼らはどれほど苦しんだか。

 ——この先は、もっと過酷だ。

 ——全員が無事に帰れる保証は、どこにもない。

 私は膝を抱えた。

 わかっている。この先が過酷だということは、わかっている。島を救うために灯台を目指すと決めたのは私だ。仲間を巻き込んだのも私だ。イグニスもソレイユもマリンもリラさんも、私の旅に付いてきてくれた。私のために危険を冒してくれている。

 もし、この先で誰かの灯火が消えたら。

 それは——私のせいだ。

 仲間を危険にさらし続けることは、本当に正しいのか。私一人の島を救うために、五人の命を賭け続けることは。

 声が、優しく囁く。

 ――引き返しなさい。それが、仲間を大切にするということだ。


パート2


 イグニスは、声を聞いていた。

 灯火の奥に響く言葉。引き返せ。諦めろ。それは影灯機関の訓練で使われた洗脳術に似ていた。灯火に直接干渉し、感情を操作する技法。だから——耐性があった。完全に無効というわけではなかったが、影灯機関で受けた精神操作に比べれば、この声は生ぬるい。

 しかし、効いている者がいる。

 ルナだ。

 イグニスの目は暗闘の中で鍛えられた。暗殺者の目は微細な変化を見逃さない。ルナの肩が微かに震えているのが見えた。膝を抱える腕に力が入りすぎている。灯火が揺れている。消灯域で削られた灯火が、今度は内側から——自分自身の迷いによって、さらに萎もうとしている。

 引き返せ、と声が言う。

 イグニスはその声を切り捨てた。

 引き返す理由がない。

 影灯機関を抜けた時に、帰る場所は失った。フェロスに戻れば殺される。他の島に行っても、暗殺者の烙印を背負った人間を受け入れる場所はない。

 だが——そういう消去法の話ではない。

 イグニスはルナを見た。

 膝を抱えて、暗い海を見つめている少女。自分を犠牲にしようとして止められた。仲間を巻き込んでいることに罪悪感を覚えている。引き返すべきかと悩んでいる。

 この主は馬鹿だ。

 その言葉がまた浮かんだ。旅の最初の夜にも浮かんだ言葉。しかし今、その言葉の温度が違っていた。

 旅の最初にルナが差し出したおむすびの温かさ。嵐の中で手を引いてくれた力。傷を癒してくれた灯守りの光。毎日欠かさず作ってくれた食事。「おはよう」と笑いかけてくれる声。

 それらの一つ一つが、影灯機関が消し去ったはずのものを蘇らせた。

 感情。

 名前のつけられなかったもの。胸の奥で芽吹いて、少しずつ根を張って、今では抜くことができなくなったもの。

 消灯域の夜、涙が出た。あれが涙だと知ったのは、ルナに教えてもらったからだ。

 声が囁く。引き返せ、と。

 イグニスは立ち上がった。

「俺が旅を続ける理由は一つだ」

 声は低かった。いつもの感情を消した声ではない。感情を——持ったままの声。

「この主を守ると決めた」

 ルナがゆっくりと顔を上げた。

「最初は——命令だと思っていた。影灯機関の任務と同じだ。命じられたから守る。道具として。しかし——」

 イグニスは自分の手のひらを見下ろした。暗殺のために鍛えられた手。灯喰いの技で幾つもの灯火を奪ってきた手。しかし今、この手はルナの冷たい指を握った記憶を持っている。

「——今は、違う」

 言葉が足りない。感情を表す語彙が少なすぎる。言いたいことの半分も言えない。

「引き返す理由がないのではない。引き返したくないのだ。この旅を——」

 イグニスは一瞬、言葉を探した。

「——終わらせたくない」

 それは、影灯機関の暗殺者には決して許されなかった言葉だった。「したくない」という意志の表明。道具には意志がない。命令に従うだけだ。

 しかし今、イグニスは道具ではなかった。

 ルナの灯火の光が、自分の灯火の中に温かい点を作った夜から。おむすびの温かさを手のひらに感じた朝から。少しずつ、少しずつ、イグニスは「人間」に戻り始めていた。

 そして今、ようやく——自分の言葉で、自分の意志を口にした。

 初めて。


 ソレイユは目を閉じて、声を聞いていた。

 引き返せ。

 その声は巧妙だった。感情に訴えるだけでなく、論理的に正しいことを言う。引き返せば全員助かる。先に進めばリスクがある。合理的な判断として、撤退は選択肢の一つだ。

 ソレイユの中の研究者が、その論理を検討していた。リスクとリターンの計算。灯台到達の確率。仲間の灯火の状態。消灯域の消耗からの回復率。

 数字だけを見れば、撤退は妥当だ。

 しかし——数字が全てではないと、この旅で学んだ。

 父の研究ノートを思い出した。父、エトワール・ルーチェ。灯台の実在を主張して学界から追放された男。妄想家と呼ばれ、失意のうちに死んだ男。

 私がこの旅に出たのは、父の名誉を回復するためだった。灯台の実在を自分の目で確かめ、科学的に証明する。それが動機だった。

 でも今は。

 私は目を開けた。

 甲板に座っている仲間たちを見渡した。マリンが舵輪にしがみついている。リラが祈っている。イグニスが立ち上がって、不器用な言葉を絞り出している。ルナが膝を抱えて、迷っている。

「父の名誉のために始めた旅だった」

 私は声に出した。自分でも驚くほど、静かな声だった。

「灯台の存在を科学的に証明する。それが全てだった。感情は不要だ。人間関係は研究の妨げだ。そう思っていた」

 ソレイユは腕を組み、眼鏡を押し上げた。

「でも今は——違う」

 違う。その二文字を口にするのに、どれほどの勇気が必要だったか。科学者としての自分を否定することではない。科学者としての自分の外側にも、自分がいると認めること。それが怖かった。

「ルーチェ島の研究室に一人でいた私は、確かに安全だった。でも——あそこにいても、父の論文は完成しなかっただろう。本物を見なければ、本物の理論は生まれない。父はそう言っていた」

 ソレイユは少しだけ笑った。引き攣った、不慣れな笑み。

「それに——灯台を見たいのは、もう父のためだけじゃない。この仲間と一緒に灯台を見たいからだ。そこに科学的根拠はない。論文にも書けない。でも……私は、そう思っている」

 マリンが目を丸くした。ソレイユが、感情で動く発言をしたのは初めてかもしれない。

「非合理的だ」

 ソレイユは自分で自分にツッコミを入れた。

「非合理的に——引き返したくない」


 あたしは舵輪を握ったまま、声を聞いていた。

 引き返せ。

 帰れ。

 帰る場所に帰れ。

 帰る場所。

 ……あたしに、帰る場所なんかない。

 エミセラ島の波止場。あたしが生まれ育った場所。でも、あそこに「帰る」なんて感覚はなかった。屋根のある場所で眠れる日と、木箱の陰で丸くなる日があるだけだ。「おかえり」と言ってくれる人はいない。「行ってらっしゃい」もない。

 引き返して、どこに帰る?

 灯台の願い。あたしの報酬。契約上の対価。家族が欲しいという願いを叶えてもらうために、この船に乗った。そういう建前だった。

 でも、もう——わかっている。

 第四の試練で、あたしの願いは暴かれた。「家族が欲しい」。みんなの前で泣いた。恥ずかしくて死にたかった。なのに全員が「もう家族じゃん」と笑った。

 あの時から——いや、もっと前から。ルナが毛布をかけてくれた朝から。みんなで食卓を囲んだ日から。あたしはもう知っていた。

 帰る場所は、ここだ。

 この船が、あたしの居場所だ。

「帰る場所なんかない」

 あたしは声に出した。声が震えた。うるさい、震えるな。

「ここが私の居場所だ」

 言っちまった。あーもう。

「……って言わせんな、恥ずかしい」

 顔が熱い。舵輪を握る手に力を込めた。前を見ろ。泣くな。泣いたらカッコ悪い。

 でも——声が聞こえなくなっていた。

 引き返せ、という声が。帰れ、という声が。

 だって帰る場所はここなんだから。ここから離れたら、あたしには何も残らない。

 引き返すことが「帰る」ことだなんて、大嘘だ。


 私は——目を閉じていた。

 声が聞こえている。引き返せ。引き返せば安全だ。

 十年前の記憶が蘇る。

 消灯域の手前。灯火が枯渇して、もう一歩も進めなかった。エレナさん——ルナの母が、私の灯火に最後の灯渡しをしてくれた。温かかった。太陽みたいに温かかった。

「リラ、島に戻りなさい」

 エレナさんは笑っていた。ルナと同じ笑顔。怖くないよ、大丈夫だよ、と言っているみたいな笑顔。

「あなたは生きて。生きて、いつかルナに——」

 何を伝えてほしかったのか。最後の言葉は波の音にかき消された。

 十年間、その言葉の続きを探してきた。贖罪のために。あの時止められなかった自分を許せなくて。

 でも——第五の試練で、ルナに言ってもらった。

「お母さんはリラさんのことを恨んでなんかない。私もそう。だから、自分を許してあげて」

 贖罪のための旅は終わった。自分を許した。過去の後悔を手放した。

 では——私がこの旅を続ける理由は、何だろう。

 目を開けた。

 ルナが膝を抱えている。あの子の横顔は、エレナさんに似ている。でも、エレナさんとは違う。エレナさんは一人で先に進んだ。ルナは一人で進もうとしない。一人で全部背負おうとするけれど、仲間がそれを許さない。

 エレナさんが見たかった灯台。

 消灯域の先にあるはずの、願いの灯台。

「贖罪のためじゃない」

 私は静かに言った。声は穏やかだった。穏やかだけれど、芯があった。

「エレナさんが見たかった灯台を、私もこの目で見たい。それだけよ」

 理由はそれで十分だった。

 十年前に見送ることしかできなかった先代巫女が目指した場所に、今度は私も辿り着く。後悔のためではなく。弔いのためでもなく。ただ——見たいから。

 あの人が見たかった景色を、同じ目で見たい。

 それが、リラ・ファナルがこの旅を続ける理由だ。


 アッシュは腕を組んだまま、船べりにもたれかかっていた。

 五人の声を、黙って聞いていた。

 千年。

 千年の間、アッシュは灯台を目指す旅人を見てきた。何十組も。何百人も。灯台への道を歩み、試練に挑み、そして——散っていった者たちを。

 最も強い戦士が来た。灯火の炎を武器に変え、試練の番人を力でねじ伏せようとした。第三の試練で、最も大切な力を奪われて倒れた。

 最も賢い学者が来た。試練のルールを分析し、理論で突破しようとした。第四の試練で、最も大切な知識を差し出して進んだ。しかし灯台に辿り着いた時、代償として全ての記憶を失った。

 最も信仰深い巫女が来た。祈りの力で試練に立ち向かい、灯台に願いを捧げた。代償は——命だった。

 全員が犠牲を払った。

 何かを失い、何かを捧げ、何かを犠牲にして。

 それが灯台への道だと、千年の間信じられてきた。アッシュ自身も——最初はそう信じていた。千年前にアッシュが灯台に辿り着いた時、代償として「普通の人間としての生」を捧げた。不老の灯台守りになることは、永遠の孤独を意味した。それは犠牲だ。

 しかし——千年の間に、アッシュは気づいた。

 灯台は犠牲を「求めている」のではない。犠牲を「払えるかどうかを試している」のだ。旅人が「犠牲を払う覚悟がある」と示した時、灯台はそれを受け入れてきた。

 だが——犠牲を払わない覚悟を示した旅人は、千年の間、一人もいなかった。

 全員が犠牲を当然のものと受け入れた。

 全員が「何かを失うことでしか願いは叶わない」と信じていた。

 アッシュはそれを見るたびに、胸の奥が軋んだ。灯台守りとしての彼は、旅人に真実を告げることを許されていない。灯台の本当のルール——犠牲を払わなくても願いは叶えられるという可能性——を口にすることはできない。旅人自身が気づかなければならない。

 千年間、誰も気づかなかった。

 しかし。

 この一行は——違うかもしれない。

 アッシュは目を細めた。

 ルナ・カンデラ。自己犠牲の衝動を持ちながら、仲間に止められる少女。犠牲を払おうとして、「そうじゃない」と言ってもらえる少女。

 イグニス。感情を殺されながら、涙を取り戻した少年。道具から人間へ。

 ソレイユ。理論の壁を越えて、心で答えを出そうとしている学者。

 マリン。金でしか動かないフリをしながら、とっくに家族を見つけている子供。

 リラ。贖罪を手放して、自分自身のために生き始めた元巫女。

 千年見てきた旅人たちの中で、この一行だけが——犠牲を「当然」と受け入れなかった。

 試練のたびに、犠牲の代わりの方法を探した。差し出す代わりに、守った。失う代わりに、繋いだ。

 消灯域でルナが灯渡しに走った時、仲間が止めた。一人で背負わせなかった。

 これだ。

 千年待った。千年、ずっと。

 この結末を見せてくれるかもしれない。

 アッシュは腕を解いて、空を見上げた。

 千年前に灯台に辿り着いた時、アッシュは願った。「灯台守りになりたい」と。その真意は——いつか、犠牲を払わずに灯台に辿り着く旅人を見届けたかったからだ。

 永遠の孤独は、そのための代償だった。

 千年間、一度も。

 一度も、そんな旅人は現れなかった。

 でも今——ここにいる。

 この六人の中に。

 アッシュの灯火が、千年ぶりに温かく揺れた。

 言葉にはしなかった。灯台守りとして、ヒントを与えることは許されていない。

 ただ——願った。

 頼む。

 違う結末を見せてくれ。


全員の手

パート3

 全員の言葉を聞いていた。

 イグニスの、不器用な、でも初めての意志表明。ソレイユの、理論を超えた本音。マリンの、恥ずかしそうな居場所の宣言。リラさんの、穏やかな決意。

 そしてアッシュは何も言わなかったけれど——その目が、何かを見守っていた。千年分の期待を込めたような、静かな目。

 試練の声がまだ囁いている。引き返せ、と。

 でも、その声の力が弱くなっていた。仲間の声のほうが、ずっと強く響いている。

 私は立ち上がった。

 膝が少し震えた。灯火はまだ弱い。消灯域の消耗と灯渡しの代償が、体の奥に残っている。でも——立った。

「私ね」

 声が出た。自分でも意外なくらい、はっきりした声。

「引き返そうかと思ったの。正直に言うと」

 全員の視線が集まった。

「みんなを危険にさらし続けるのが怖かった。消灯域で、みんなが苦しんでるのを見て。私が灯台を目指すって言い出したせいで、みんなが死にかけて。それが——すごく、怖かった」

 言葉にすると、胸の奥がきゅっとなった。

「だから——灯渡しで全部渡しちゃえば楽だって思ったの。自分の灯火を使い切れば、私は消えるけど、みんなは助かる。それって、一番簡単な方法じゃない? 自分一人が犠牲になれば、他の誰も傷つかない」

「ルナ——」

 リラさんの声が悲しく揺れたけれど、私は続けた。

「でも、違った。イグニスが泣いてた。マリンが怒ってた。ソレイユが論理で叱ってくれた。リラさんが、お母さんと同じことをしないでって言ってくれた」

 手のひらを見た。灯渡しで冷え切って、まだ完全に温度が戻っていない手のひら。

「犠牲を払うことは、解決じゃなかった。それは——逃げだった」

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

 ずっと、わからなかった。おばあちゃんが言った「犠牲を払わない方法を探しなさい」の意味が。犠牲なしに灯台の代償をどう払うのかが。

 でも今、少しだけわかった気がする。

「犠牲を払うのは、楽なんだ」

 私は仲間たちを見回した。一人一人の顔を。

「自分が死ねば済むって思えるから。でもそれは——残された人の気持ちを無視してる。おばあちゃんが十年間泣いてたこと。リラさんが十年間後悔してたこと。イグニスが涙を流してくれたこと。そういう人たちの痛みを、犠牲って言葉で踏みにじってる」

 声が震えた。でも、続けた。

「だから——犠牲なんか払わない」

 試練の声が揺れた。

「全員で灯台に行って、全員で帰ってくる」

 風が止んだ。海が凪いだ。世界が、息を止めたみたいに静まった。

「犠牲を払わないで島を救う方法なんて、まだ見つかってない。灯台が何を要求するかもわからない。でも——」

 私は拳を握った。手のひらの中で、灯火がかすかに燃えた。小さな、でも確かな炎。

「犠牲にしないって決めることが、最初の一歩だと思うの。方法は後から見つける。見つかるまで探す。見つからなかったら、作る。それでも無理なら、みんなで考える。一人で背負わない。一人で死なない。そういう覚悟を——したい」

 言い切った時、胸の中で灯火が揺れた。弱いまま。小さいまま。でも——明るくなった。ほんの少しだけ。

 ソレイユが、唐突に目を見開いた。

「……待て」

 眼鏡を押し上げる仕草が早かった。学者の目になっている。何かに気づいた時の、あの目だ。

「犠牲を払わない覚悟……犠牲を払わない覚悟だと?」

 ソレイユは自分の鞄の中をまさぐり始めた。書籍を一冊引っ張り出して、ぱらぱらとページを繰る。

「あった」

 ソレイユの指が、古い文献の一節を指差した。

「父のノートに挟まっていた写し。ファナル島の最古の経典からの引用だ。灯台の伝承の中で、最も古い一節——」

 ソレイユが読み上げた。

「『灯台は犠牲を求めず。灯台は犠牲を受け入れるのみ。真に灯台が求めるは、犠牲なき願い。犠牲を払わぬ覚悟こそが、新たなる灯火を生む種なり』」

 沈黙が落ちた。

 リラが息を呑んだ。「その経典……エレナさんが探していたものだわ。十年前、ファナル島の古い書庫を何日も調べて……見つけられなかったと言っていた」

「父が見つけていた」ソレイユは静かに言った。「ノートの間に挟まっていた。父はこの一節を元に、灯台の真の性質についての仮説を立てていた。『灯台は代償装置ではなく、共鳴装置である』と」

「共鳴装置?」

「灯台は犠牲を食って願いを叶えるのではなく、旅人の灯火と共鳴して新しい力を生む装置だ。犠牲は——旅人が勝手に差し出しているだけなんだ。灯台が要求しているのではなく、旅人が『犠牲を払わなければ願いは叶わない』と信じ込んでいるから、自ら差し出してしまう」

 ソレイユの言葉に、全員が押し黙った。

「つまり——灯台が本当に求めているのは、犠牲じゃない。犠牲を払わない覚悟だ」

 私はソレイユを見た。ソレイユの琥珀色の目が、興奮で輝いている。学者が真実を掴んだ時の目だ。

「お父さんの仮説が——」

「父が正しかったかどうかは、灯台に辿り着けばわかる。でも——ルナ。お前が今言ったこと。犠牲なんか払わない、全員で行って全員で帰る。それは——この経典が言っている『犠牲なき願い』そのものだ」

 試練の声が、消えた。

 完全に。

 ふっ、と。蝋燭の火を吹き消すように、あっけなく。

 代わりに、空気が変わった。甘い匂いが消えて、新鮮な潮風が吹き込んできた。空の色が変わった。曇りが割れて、雲の間から光が射した。

 海が輝いた。

 さっきまでの穏やかな凪ではない。本物の光が海面に踊って、波頭が金色に光っている。あまりにも当たり前の、でも消灯域の後では奇跡みたいに感じる、海の輝き。

「試練を越えた」

 アッシュが言った。

 その声に——震えがあった。ほんの微かな。千年を生きた灯台守りの声が。

「第六の試練、突破だ」

 マリンが弾かれたように声を上げた。

「おい! 前方! 見ろ!」

 全員が前方を向いた。

 海の向こう。水平線の上。雲の切れ間から射し込む光の先に——何かが見えた。

 まだ遠い。まだ小さい。でも確かにそこにある。水平線の上に、糸のように細い影が立っている。

「あれは——」

「灯台だ」

 ソレイユの声が震えた。眼鏡の奥の琥珀色が、潤んでいた。

「父さん……あったよ。灯台が……本当に、あった」

 私の目にも、涙が滲んだ。

 あれが——願いの灯台。お母さんが目指して、帰ってこなかった場所。おばあちゃんが「犠牲を払わない方法を探しなさい」と託してくれた、あの場所。

 まだ遠い。まだ試練がある。第七の試練が待っている。

 でも——見えた。

 灯台が、見えた。


旅を続ける理由

パート4

 その夜、私たちは食事を作った。

 消灯域を抜けてから初めての、火を使った温かい食事。灯し魔法で竈に火を入れた瞬間、船室に明るい光が満ちて、全員がほっと息をついた。光があるって、こんなに贅沢なことだったんだ。

 残りの食材をかき集めて、ありったけの料理を作った。干し魚を戻して煮込みにして、硬パンを薄く切ってスープに浸して柔らかくして、保存してあった根菜を刻んで入れた。エミセラ島で買った塩漬けの肉も投入した。寄せ鍋みたいな、統一感のない煮込み料理。

 でも——温かい。

 鍋の蓋を開けたとき、湯気がぶわっと広がって、いい匂いが甲板いっぱいに広がった。

「いい匂いだな」マリンが鼻をひくひくさせた。

「今日は全部入れたから、味の保証はしないよ」

「非合理的な組み合わせだが……匂いだけで灯火が回復する気がする」

 ソレイユが珍しく冗談めかして言った。

 六人で甲板に丸く座って、鍋を囲んだ。一つの鍋から、それぞれの器に煮込みをよそう。湯気が立ち上って、顔が温まる。

 一口食べた。

 おいしいかどうか、正直わからなかった。味付けは適当だし、食材の組み合わせもめちゃくちゃだ。塩漬けの肉と干し魚が同じ鍋に入ってるなんて、普通ならありえない。

 でも——温かかった。

 体の芯に温もりが染み渡って、灯火がかすかに明るくなるのがわかった。食事は灯火を回復させる。温かい食事は、特に。

「……美味い」

 イグニスが言った。

 全員が驚いて彼を見た。イグニスが自分から味の感想を言ったのは——初めてだった。

「え、今なんて言った?」マリンが目を丸くした。

「……美味い、と言った」

「もう一回言ってくれ」

「断る」

「けちだな!」

 マリンがけらけら笑った。その笑い声に釣られて、ソレイユの口元が緩んだ。リラさんが穏やかに微笑んだ。アッシュが「お、暗殺者も味がわかるようになったか」と軽口を叩いた。

 イグニスの耳が、少し赤くなっていた。

 私は——笑った。

 消灯域の暗闇の中で、凍えて、怯えて、自分の灯火を削り続けて、死にかけて、止められて、泣かれて、怒られて。

 でも今、六人で鍋を囲んでいる。

 温かい食事を、一緒に食べている。

「ねえ、みんな」

「ん?」

「ありがとう」

 マリンが眉を寄せた。「何がだよ」

「止めてくれて。灯渡しを」

「……あー」マリンがそっぽを向いた。「別に。あんたが倒れたら操舵手としての仕事が増えるだけだからな。あたしの負担が増えるのは勘弁だ」

「はいはい」

「その『はいはい』やめろっつってんだろ!」

 笑い声。暗闇の後の笑い声は、格別に温かい。

 ソレイユが二杯目の煮込みをよそいながら、「この料理の再現性を検証するために、食材の配合比率を記録しておきたい」と言った。

「再現する気? これ?」

「科学とは再現性だ」

「無理だよ。今日はありあわせで作っただけだもん」

「……やはり非合理的だな、お前の料理は」

 リラさんがお茶を淹れてくれた。薬草茶。リラさんの手際は丁寧で、湯の温度も茶葉の量も完璧だ。元巫女としての教育の賜物だろう。

「ルナちゃん。灯台、見えたわね」

「うん。見えた」

「エレナさんも……きっとあそこを目指していたのね」

 リラさんの目に、涙ではなく、光があった。十年間の後悔を手放した人の、澄んだ目。

「一緒に見に行きましょう。エレナさんの代わりに、じゃなくて——私たちの足で」

「うん」

 アッシュが鍋の残りをおかわりしながら、ぽつりと言った。

「千年分の腹の虫がようやく治まりそうだ」

「千年も空腹だったんですか」

「比喩だよ。千年間ずっと、旅人を見送るだけだったからな。たまにはこうやって、鍋を囲む側にいたかったのさ」

 アッシュの声は軽かったけれど、その言葉の重さを私は感じ取った。千年間、一人で。灯台守りとして、旅人を試し、旅人が犠牲を払うのを見届け、また次の旅人を待つ。その繰り返し。

 孤独だったろうな、と思った。

「アッシュ。私たち、最後の試練も突破するから。犠牲なんか払わないで」

「……ああ」

 アッシュが笑った。いつもの陽気な笑顔。でも、その目の奥に——祈りのようなものが見えた。

 食事が終わって、片付けをした。

 鍋を洗って、器を拭いて、甲板の上をきれいにして。マリンが帆を張り直して、航路を確認した。ソレイユが灯台までの距離を計算した。

「この速度なら、あと二日で到着する。ただし、最後の試練がどこにあるかによって変わる」

「最後の試練……第七の試練」

「全てを差し出せ、だろう」アッシュが言った。「一番厳しい試練だ」

 私は水平線の向こうを見た。灯台の影は、もう見えなかった。夕暮れの空に溶けてしまっていた。でも、そこにあることは知っている。

 全員で行って、全員で帰る。

 犠牲なんか払わない。

 その覚悟を胸に、私は手のひらを握りしめた。お母さんの灯火がかすかに温かい。まるで、「頑張れ」と言ってくれているみたいに。

 夕暮れの空が、紅色から紫色に変わっていく。最初の星が瞬き始める。マリンが「今夜は星がよく見える。航路の修正ができる」と嬉しそうに言った。

 消灯域の暗闇はもう遠い。でも、あの暗闘を越えたからこそ、今この星空が美しく見えるのだと思う。

「明日は、もっといい料理を作るね」

「おう。期待してるぞ」マリンが言った。

「非合理的に美味いやつを頼む」ソレイユが言った。

「……ああ」イグニスが言った。

 小さな「ああ」だった。でも、旅の最初の頃とは全然違う「ああ」だった。

 灯船は西へ進む。水平線の向こうへ。

 微かな光が見える——灯台だ。

 まだ遠い。でも確かに、そこにある。

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