海が、優しかった。
消灯域を抜けてから半日。灯船は穏やかな海を滑るように進んでいた。波は低く、風は柔らかく、空は抜けるような青で、まるで世界の果てに近づいているとは思えないほどの凪だった。
なのに——私の胸がざわついている。
この優しさが、嘘くさい。
五つの試練を越えてきて、学んだことがある。試練は正面から来るとは限らない。第一の試練は「最も大切な記憶を差し出せ」と言った。第二の試練は「絆を差し出せ」と言った。どれも、旅人の弱いところを的確に突いてきた。
今、世界がこれほど穏やかなのは——それ自体が、試練の一部なんじゃないか。
「おい、ルナ」
マリンの声で我に返った。
「何をぼーっとしてんだ。前見ろ、前」
前方の海に、薄い光の幕のようなものが漂っていた。虹色にきらきらと揺れる、透明な膜。灯火魔法の残滓に似ているけれど、それよりもずっと古い、ずっと深い力の名残。
灯船がその膜に触れた瞬間——世界が変わった。
いや、変わったのではない。「変わらなかった」のだ。海も空も風も、何一つ変わらない。ただ、心の中に声が響いた。
——旅を諦めよ。
聞こえたのは声であり、声ではなかった。鼓膜を震わせる音ではなく、灯火の奥に直接刻まれる言葉。思考と感覚の境目をすり抜けて、意識の一番深いところに届く。
——引き返せ。引き返せば、全員助かる。
温かい声だった。怒っていない。脅していない。ただ穏やかに、優しく、当然のことを告げるように。引き返せ、と。
「第六の試練だ」
アッシュの声が、遠くに聞こえた。
「この試練は何も要求しない。何も奪おうとしない。ただ——選択を迫る。進むか、退くか」
声が続いた。灯火の奥で。
——引き返せば、仲間を危険にさらす必要はない。
——消灯域をもう一度越える必要もない。
——戻れば、全員が安全に島へ帰れる。
――お前はもう、十分に頑張った。
温かい。この声は温かい。
引き返す誘惑が、波のように押し寄せてきた。消灯域の暗闇を思い出す。仲間の灯火が弱まっていく恐怖。自分の灯火を削って渡した時の、胸の空洞。イグニスの涙。マリンの震える声。
あんな思いを、もう一度するのか。
この先にはまだ試練がある。第七の試練。最後にして最も厳しい試練。灯台が何を要求するのかもわからない。仲間がもっとひどい目に遭うかもしれない。誰かの灯火が消えるかもしれない。
引き返せば——全員が生きている。今のまま、全員が。
――島は沈むけれど。
その声は、試練の声ではなかった。私自身の声だ。胸の奥で反論する、小さな声。
カンデラ島が沈む。灯火の枯渇が進む。おばあちゃんが一人で聖堂を守っている。島の人たちが、私の帰りを待っている。
引き返したら、島は救えない。
でも——仲間は助かる。
「ルナ」
ソレイユの声がした。硬い声。必死で何かに抗っているような声。
「この声が聞こえるか。灯火に直接干渉してくる種類の精神攻撃だ。感情を増幅させて、撤退衝動を植え付けている。理論的には——」
「理論はいいよ、メガネ」マリンが歯を食いしばりながら言った。「わかってても効くんだから、タチ悪い」
マリンの手が震えていた。舵輪を握る手。消灯域の時と同じ震え。
リラが目を閉じていた。唇が動いている。祈りの言葉か。それとも、自分自身に言い聞かせているのか。
イグニスは——じっと前を見ていた。赤い目に、何か深いものが揺れている。
アッシュは黙って腕を組んでいた。灯台守りであるアッシュには、この試練は効かないのだろう。彼はただ、私たちが何を選ぶのかを見ている。
声が続く。
——お前の仲間を見よ。
——消灯域で、彼らはどれほど苦しんだか。
——この先は、もっと過酷だ。
——全員が無事に帰れる保証は、どこにもない。
私は膝を抱えた。
わかっている。この先が過酷だということは、わかっている。島を救うために灯台を目指すと決めたのは私だ。仲間を巻き込んだのも私だ。イグニスもソレイユもマリンもリラさんも、私の旅に付いてきてくれた。私のために危険を冒してくれている。
もし、この先で誰かの灯火が消えたら。
それは——私のせいだ。
仲間を危険にさらし続けることは、本当に正しいのか。私一人の島を救うために、五人の命を賭け続けることは。
声が、優しく囁く。
――引き返しなさい。それが、仲間を大切にするということだ。
イグニスは、声を聞いていた。
灯火の奥に響く言葉。引き返せ。諦めろ。それは影灯機関の訓練で使われた洗脳術に似ていた。灯火に直接干渉し、感情を操作する技法。だから——耐性があった。完全に無効というわけではなかったが、影灯機関で受けた精神操作に比べれば、この声は生ぬるい。
しかし、効いている者がいる。
ルナだ。
イグニスの目は暗闘の中で鍛えられた。暗殺者の目は微細な変化を見逃さない。ルナの肩が微かに震えているのが見えた。膝を抱える腕に力が入りすぎている。灯火が揺れている。消灯域で削られた灯火が、今度は内側から——自分自身の迷いによって、さらに萎もうとしている。
引き返せ、と声が言う。
イグニスはその声を切り捨てた。
引き返す理由がない。
影灯機関を抜けた時に、帰る場所は失った。フェロスに戻れば殺される。他の島に行っても、暗殺者の烙印を背負った人間を受け入れる場所はない。
だが——そういう消去法の話ではない。
イグニスはルナを見た。
膝を抱えて、暗い海を見つめている少女。自分を犠牲にしようとして止められた。仲間を巻き込んでいることに罪悪感を覚えている。引き返すべきかと悩んでいる。
この主は馬鹿だ。
その言葉がまた浮かんだ。旅の最初の夜にも浮かんだ言葉。しかし今、その言葉の温度が違っていた。
旅の最初にルナが差し出したおむすびの温かさ。嵐の中で手を引いてくれた力。傷を癒してくれた灯守りの光。毎日欠かさず作ってくれた食事。「おはよう」と笑いかけてくれる声。
それらの一つ一つが、影灯機関が消し去ったはずのものを蘇らせた。
感情。
名前のつけられなかったもの。胸の奥で芽吹いて、少しずつ根を張って、今では抜くことができなくなったもの。
消灯域の夜、涙が出た。あれが涙だと知ったのは、ルナに教えてもらったからだ。
声が囁く。引き返せ、と。
イグニスは立ち上がった。
「俺が旅を続ける理由は一つだ」
声は低かった。いつもの感情を消した声ではない。感情を——持ったままの声。
「この主を守ると決めた」
ルナがゆっくりと顔を上げた。
「最初は——命令だと思っていた。影灯機関の任務と同じだ。命じられたから守る。道具として。しかし——」
イグニスは自分の手のひらを見下ろした。暗殺のために鍛えられた手。灯喰いの技で幾つもの灯火を奪ってきた手。しかし今、この手はルナの冷たい指を握った記憶を持っている。
「——今は、違う」
言葉が足りない。感情を表す語彙が少なすぎる。言いたいことの半分も言えない。
「引き返す理由がないのではない。引き返したくないのだ。この旅を——」
イグニスは一瞬、言葉を探した。
「——終わらせたくない」
それは、影灯機関の暗殺者には決して許されなかった言葉だった。「したくない」という意志の表明。道具には意志がない。命令に従うだけだ。
しかし今、イグニスは道具ではなかった。
ルナの灯火の光が、自分の灯火の中に温かい点を作った夜から。おむすびの温かさを手のひらに感じた朝から。少しずつ、少しずつ、イグニスは「人間」に戻り始めていた。
そして今、ようやく——自分の言葉で、自分の意志を口にした。
初めて。
ソレイユは目を閉じて、声を聞いていた。
引き返せ。
その声は巧妙だった。感情に訴えるだけでなく、論理的に正しいことを言う。引き返せば全員助かる。先に進めばリスクがある。合理的な判断として、撤退は選択肢の一つだ。
ソレイユの中の研究者が、その論理を検討していた。リスクとリターンの計算。灯台到達の確率。仲間の灯火の状態。消灯域の消耗からの回復率。
数字だけを見れば、撤退は妥当だ。
しかし——数字が全てではないと、この旅で学んだ。
父の研究ノートを思い出した。父、エトワール・ルーチェ。灯台の実在を主張して学界から追放された男。妄想家と呼ばれ、失意のうちに死んだ男。
私がこの旅に出たのは、父の名誉を回復するためだった。灯台の実在を自分の目で確かめ、科学的に証明する。それが動機だった。
でも今は。
私は目を開けた。
甲板に座っている仲間たちを見渡した。マリンが舵輪にしがみついている。リラが祈っている。イグニスが立ち上がって、不器用な言葉を絞り出している。ルナが膝を抱えて、迷っている。
「父の名誉のために始めた旅だった」
私は声に出した。自分でも驚くほど、静かな声だった。
「灯台の存在を科学的に証明する。それが全てだった。感情は不要だ。人間関係は研究の妨げだ。そう思っていた」
ソレイユは腕を組み、眼鏡を押し上げた。
「でも今は——違う」
違う。その二文字を口にするのに、どれほどの勇気が必要だったか。科学者としての自分を否定することではない。科学者としての自分の外側にも、自分がいると認めること。それが怖かった。
「ルーチェ島の研究室に一人でいた私は、確かに安全だった。でも——あそこにいても、父の論文は完成しなかっただろう。本物を見なければ、本物の理論は生まれない。父はそう言っていた」
ソレイユは少しだけ笑った。引き攣った、不慣れな笑み。
「それに——灯台を見たいのは、もう父のためだけじゃない。この仲間と一緒に灯台を見たいからだ。そこに科学的根拠はない。論文にも書けない。でも……私は、そう思っている」
マリンが目を丸くした。ソレイユが、感情で動く発言をしたのは初めてかもしれない。
「非合理的だ」
ソレイユは自分で自分にツッコミを入れた。
「非合理的に——引き返したくない」
あたしは舵輪を握ったまま、声を聞いていた。
引き返せ。
帰れ。
帰る場所に帰れ。
帰る場所。
……あたしに、帰る場所なんかない。
エミセラ島の波止場。あたしが生まれ育った場所。でも、あそこに「帰る」なんて感覚はなかった。屋根のある場所で眠れる日と、木箱の陰で丸くなる日があるだけだ。「おかえり」と言ってくれる人はいない。「行ってらっしゃい」もない。
引き返して、どこに帰る?
灯台の願い。あたしの報酬。契約上の対価。家族が欲しいという願いを叶えてもらうために、この船に乗った。そういう建前だった。
でも、もう——わかっている。
第四の試練で、あたしの願いは暴かれた。「家族が欲しい」。みんなの前で泣いた。恥ずかしくて死にたかった。なのに全員が「もう家族じゃん」と笑った。
あの時から——いや、もっと前から。ルナが毛布をかけてくれた朝から。みんなで食卓を囲んだ日から。あたしはもう知っていた。
帰る場所は、ここだ。
この船が、あたしの居場所だ。
「帰る場所なんかない」
あたしは声に出した。声が震えた。うるさい、震えるな。
「ここが私の居場所だ」
言っちまった。あーもう。
「……って言わせんな、恥ずかしい」
顔が熱い。舵輪を握る手に力を込めた。前を見ろ。泣くな。泣いたらカッコ悪い。
でも——声が聞こえなくなっていた。
引き返せ、という声が。帰れ、という声が。
だって帰る場所はここなんだから。ここから離れたら、あたしには何も残らない。
引き返すことが「帰る」ことだなんて、大嘘だ。
私は——目を閉じていた。
声が聞こえている。引き返せ。引き返せば安全だ。
十年前の記憶が蘇る。
消灯域の手前。灯火が枯渇して、もう一歩も進めなかった。エレナさん——ルナの母が、私の灯火に最後の灯渡しをしてくれた。温かかった。太陽みたいに温かかった。
「リラ、島に戻りなさい」
エレナさんは笑っていた。ルナと同じ笑顔。怖くないよ、大丈夫だよ、と言っているみたいな笑顔。
「あなたは生きて。生きて、いつかルナに——」
何を伝えてほしかったのか。最後の言葉は波の音にかき消された。
十年間、その言葉の続きを探してきた。贖罪のために。あの時止められなかった自分を許せなくて。
でも——第五の試練で、ルナに言ってもらった。
「お母さんはリラさんのことを恨んでなんかない。私もそう。だから、自分を許してあげて」
贖罪のための旅は終わった。自分を許した。過去の後悔を手放した。
では——私がこの旅を続ける理由は、何だろう。
目を開けた。
ルナが膝を抱えている。あの子の横顔は、エレナさんに似ている。でも、エレナさんとは違う。エレナさんは一人で先に進んだ。ルナは一人で進もうとしない。一人で全部背負おうとするけれど、仲間がそれを許さない。
エレナさんが見たかった灯台。
消灯域の先にあるはずの、願いの灯台。
「贖罪のためじゃない」
私は静かに言った。声は穏やかだった。穏やかだけれど、芯があった。
「エレナさんが見たかった灯台を、私もこの目で見たい。それだけよ」
理由はそれで十分だった。
十年前に見送ることしかできなかった先代巫女が目指した場所に、今度は私も辿り着く。後悔のためではなく。弔いのためでもなく。ただ——見たいから。
あの人が見たかった景色を、同じ目で見たい。
それが、リラ・ファナルがこの旅を続ける理由だ。
アッシュは腕を組んだまま、船べりにもたれかかっていた。
五人の声を、黙って聞いていた。
千年。
千年の間、アッシュは灯台を目指す旅人を見てきた。何十組も。何百人も。灯台への道を歩み、試練に挑み、そして——散っていった者たちを。
最も強い戦士が来た。灯火の炎を武器に変え、試練の番人を力でねじ伏せようとした。第三の試練で、最も大切な力を奪われて倒れた。
最も賢い学者が来た。試練のルールを分析し、理論で突破しようとした。第四の試練で、最も大切な知識を差し出して進んだ。しかし灯台に辿り着いた時、代償として全ての記憶を失った。
最も信仰深い巫女が来た。祈りの力で試練に立ち向かい、灯台に願いを捧げた。代償は——命だった。
全員が犠牲を払った。
何かを失い、何かを捧げ、何かを犠牲にして。
それが灯台への道だと、千年の間信じられてきた。アッシュ自身も——最初はそう信じていた。千年前にアッシュが灯台に辿り着いた時、代償として「普通の人間としての生」を捧げた。不老の灯台守りになることは、永遠の孤独を意味した。それは犠牲だ。
しかし——千年の間に、アッシュは気づいた。
灯台は犠牲を「求めている」のではない。犠牲を「払えるかどうかを試している」のだ。旅人が「犠牲を払う覚悟がある」と示した時、灯台はそれを受け入れてきた。
だが——犠牲を払わない覚悟を示した旅人は、千年の間、一人もいなかった。
全員が犠牲を当然のものと受け入れた。
全員が「何かを失うことでしか願いは叶わない」と信じていた。
アッシュはそれを見るたびに、胸の奥が軋んだ。灯台守りとしての彼は、旅人に真実を告げることを許されていない。灯台の本当のルール——犠牲を払わなくても願いは叶えられるという可能性——を口にすることはできない。旅人自身が気づかなければならない。
千年間、誰も気づかなかった。
しかし。
この一行は——違うかもしれない。
アッシュは目を細めた。
ルナ・カンデラ。自己犠牲の衝動を持ちながら、仲間に止められる少女。犠牲を払おうとして、「そうじゃない」と言ってもらえる少女。
イグニス。感情を殺されながら、涙を取り戻した少年。道具から人間へ。
ソレイユ。理論の壁を越えて、心で答えを出そうとしている学者。
マリン。金でしか動かないフリをしながら、とっくに家族を見つけている子供。
リラ。贖罪を手放して、自分自身のために生き始めた元巫女。
千年見てきた旅人たちの中で、この一行だけが——犠牲を「当然」と受け入れなかった。
試練のたびに、犠牲の代わりの方法を探した。差し出す代わりに、守った。失う代わりに、繋いだ。
消灯域でルナが灯渡しに走った時、仲間が止めた。一人で背負わせなかった。
これだ。
千年待った。千年、ずっと。
この結末を見せてくれるかもしれない。
アッシュは腕を解いて、空を見上げた。
千年前に灯台に辿り着いた時、アッシュは願った。「灯台守りになりたい」と。その真意は——いつか、犠牲を払わずに灯台に辿り着く旅人を見届けたかったからだ。
永遠の孤独は、そのための代償だった。
千年間、一度も。
一度も、そんな旅人は現れなかった。
でも今——ここにいる。
この六人の中に。
アッシュの灯火が、千年ぶりに温かく揺れた。
言葉にはしなかった。灯台守りとして、ヒントを与えることは許されていない。
ただ——願った。
頼む。
違う結末を見せてくれ。

全員の言葉を聞いていた。
イグニスの、不器用な、でも初めての意志表明。ソレイユの、理論を超えた本音。マリンの、恥ずかしそうな居場所の宣言。リラさんの、穏やかな決意。
そしてアッシュは何も言わなかったけれど——その目が、何かを見守っていた。千年分の期待を込めたような、静かな目。
試練の声がまだ囁いている。引き返せ、と。
でも、その声の力が弱くなっていた。仲間の声のほうが、ずっと強く響いている。
私は立ち上がった。
膝が少し震えた。灯火はまだ弱い。消灯域の消耗と灯渡しの代償が、体の奥に残っている。でも——立った。
「私ね」
声が出た。自分でも意外なくらい、はっきりした声。
「引き返そうかと思ったの。正直に言うと」
全員の視線が集まった。
「みんなを危険にさらし続けるのが怖かった。消灯域で、みんなが苦しんでるのを見て。私が灯台を目指すって言い出したせいで、みんなが死にかけて。それが——すごく、怖かった」
言葉にすると、胸の奥がきゅっとなった。
「だから——灯渡しで全部渡しちゃえば楽だって思ったの。自分の灯火を使い切れば、私は消えるけど、みんなは助かる。それって、一番簡単な方法じゃない? 自分一人が犠牲になれば、他の誰も傷つかない」
「ルナ——」
リラさんの声が悲しく揺れたけれど、私は続けた。
「でも、違った。イグニスが泣いてた。マリンが怒ってた。ソレイユが論理で叱ってくれた。リラさんが、お母さんと同じことをしないでって言ってくれた」
手のひらを見た。灯渡しで冷え切って、まだ完全に温度が戻っていない手のひら。
「犠牲を払うことは、解決じゃなかった。それは——逃げだった」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
ずっと、わからなかった。おばあちゃんが言った「犠牲を払わない方法を探しなさい」の意味が。犠牲なしに灯台の代償をどう払うのかが。
でも今、少しだけわかった気がする。
「犠牲を払うのは、楽なんだ」
私は仲間たちを見回した。一人一人の顔を。
「自分が死ねば済むって思えるから。でもそれは——残された人の気持ちを無視してる。おばあちゃんが十年間泣いてたこと。リラさんが十年間後悔してたこと。イグニスが涙を流してくれたこと。そういう人たちの痛みを、犠牲って言葉で踏みにじってる」
声が震えた。でも、続けた。
「だから——犠牲なんか払わない」
試練の声が揺れた。
「全員で灯台に行って、全員で帰ってくる」
風が止んだ。海が凪いだ。世界が、息を止めたみたいに静まった。
「犠牲を払わないで島を救う方法なんて、まだ見つかってない。灯台が何を要求するかもわからない。でも——」
私は拳を握った。手のひらの中で、灯火がかすかに燃えた。小さな、でも確かな炎。
「犠牲にしないって決めることが、最初の一歩だと思うの。方法は後から見つける。見つかるまで探す。見つからなかったら、作る。それでも無理なら、みんなで考える。一人で背負わない。一人で死なない。そういう覚悟を——したい」
言い切った時、胸の中で灯火が揺れた。弱いまま。小さいまま。でも——明るくなった。ほんの少しだけ。
ソレイユが、唐突に目を見開いた。
「……待て」
眼鏡を押し上げる仕草が早かった。学者の目になっている。何かに気づいた時の、あの目だ。
「犠牲を払わない覚悟……犠牲を払わない覚悟だと?」
ソレイユは自分の鞄の中をまさぐり始めた。書籍を一冊引っ張り出して、ぱらぱらとページを繰る。
「あった」
ソレイユの指が、古い文献の一節を指差した。
「父のノートに挟まっていた写し。ファナル島の最古の経典からの引用だ。灯台の伝承の中で、最も古い一節——」
ソレイユが読み上げた。
「『灯台は犠牲を求めず。灯台は犠牲を受け入れるのみ。真に灯台が求めるは、犠牲なき願い。犠牲を払わぬ覚悟こそが、新たなる灯火を生む種なり』」
沈黙が落ちた。
リラが息を呑んだ。「その経典……エレナさんが探していたものだわ。十年前、ファナル島の古い書庫を何日も調べて……見つけられなかったと言っていた」
「父が見つけていた」ソレイユは静かに言った。「ノートの間に挟まっていた。父はこの一節を元に、灯台の真の性質についての仮説を立てていた。『灯台は代償装置ではなく、共鳴装置である』と」
「共鳴装置?」
「灯台は犠牲を食って願いを叶えるのではなく、旅人の灯火と共鳴して新しい力を生む装置だ。犠牲は——旅人が勝手に差し出しているだけなんだ。灯台が要求しているのではなく、旅人が『犠牲を払わなければ願いは叶わない』と信じ込んでいるから、自ら差し出してしまう」
ソレイユの言葉に、全員が押し黙った。
「つまり——灯台が本当に求めているのは、犠牲じゃない。犠牲を払わない覚悟だ」
私はソレイユを見た。ソレイユの琥珀色の目が、興奮で輝いている。学者が真実を掴んだ時の目だ。
「お父さんの仮説が——」
「父が正しかったかどうかは、灯台に辿り着けばわかる。でも——ルナ。お前が今言ったこと。犠牲なんか払わない、全員で行って全員で帰る。それは——この経典が言っている『犠牲なき願い』そのものだ」
試練の声が、消えた。
完全に。
ふっ、と。蝋燭の火を吹き消すように、あっけなく。
代わりに、空気が変わった。甘い匂いが消えて、新鮮な潮風が吹き込んできた。空の色が変わった。曇りが割れて、雲の間から光が射した。
海が輝いた。
さっきまでの穏やかな凪ではない。本物の光が海面に踊って、波頭が金色に光っている。あまりにも当たり前の、でも消灯域の後では奇跡みたいに感じる、海の輝き。
「試練を越えた」
アッシュが言った。
その声に——震えがあった。ほんの微かな。千年を生きた灯台守りの声が。
「第六の試練、突破だ」
マリンが弾かれたように声を上げた。
「おい! 前方! 見ろ!」
全員が前方を向いた。
海の向こう。水平線の上。雲の切れ間から射し込む光の先に——何かが見えた。
まだ遠い。まだ小さい。でも確かにそこにある。水平線の上に、糸のように細い影が立っている。
「あれは——」
「灯台だ」
ソレイユの声が震えた。眼鏡の奥の琥珀色が、潤んでいた。
「父さん……あったよ。灯台が……本当に、あった」
私の目にも、涙が滲んだ。
あれが——願いの灯台。お母さんが目指して、帰ってこなかった場所。おばあちゃんが「犠牲を払わない方法を探しなさい」と託してくれた、あの場所。
まだ遠い。まだ試練がある。第七の試練が待っている。
でも——見えた。
灯台が、見えた。

その夜、私たちは食事を作った。
消灯域を抜けてから初めての、火を使った温かい食事。灯し魔法で竈に火を入れた瞬間、船室に明るい光が満ちて、全員がほっと息をついた。光があるって、こんなに贅沢なことだったんだ。
残りの食材をかき集めて、ありったけの料理を作った。干し魚を戻して煮込みにして、硬パンを薄く切ってスープに浸して柔らかくして、保存してあった根菜を刻んで入れた。エミセラ島で買った塩漬けの肉も投入した。寄せ鍋みたいな、統一感のない煮込み料理。
でも——温かい。
鍋の蓋を開けたとき、湯気がぶわっと広がって、いい匂いが甲板いっぱいに広がった。
「いい匂いだな」マリンが鼻をひくひくさせた。
「今日は全部入れたから、味の保証はしないよ」
「非合理的な組み合わせだが……匂いだけで灯火が回復する気がする」
ソレイユが珍しく冗談めかして言った。
六人で甲板に丸く座って、鍋を囲んだ。一つの鍋から、それぞれの器に煮込みをよそう。湯気が立ち上って、顔が温まる。
一口食べた。
おいしいかどうか、正直わからなかった。味付けは適当だし、食材の組み合わせもめちゃくちゃだ。塩漬けの肉と干し魚が同じ鍋に入ってるなんて、普通ならありえない。
でも——温かかった。
体の芯に温もりが染み渡って、灯火がかすかに明るくなるのがわかった。食事は灯火を回復させる。温かい食事は、特に。
「……美味い」
イグニスが言った。
全員が驚いて彼を見た。イグニスが自分から味の感想を言ったのは——初めてだった。
「え、今なんて言った?」マリンが目を丸くした。
「……美味い、と言った」
「もう一回言ってくれ」
「断る」
「けちだな!」
マリンがけらけら笑った。その笑い声に釣られて、ソレイユの口元が緩んだ。リラさんが穏やかに微笑んだ。アッシュが「お、暗殺者も味がわかるようになったか」と軽口を叩いた。
イグニスの耳が、少し赤くなっていた。
私は——笑った。
消灯域の暗闇の中で、凍えて、怯えて、自分の灯火を削り続けて、死にかけて、止められて、泣かれて、怒られて。
でも今、六人で鍋を囲んでいる。
温かい食事を、一緒に食べている。
「ねえ、みんな」
「ん?」
「ありがとう」
マリンが眉を寄せた。「何がだよ」
「止めてくれて。灯渡しを」
「……あー」マリンがそっぽを向いた。「別に。あんたが倒れたら操舵手としての仕事が増えるだけだからな。あたしの負担が増えるのは勘弁だ」
「はいはい」
「その『はいはい』やめろっつってんだろ!」
笑い声。暗闇の後の笑い声は、格別に温かい。
ソレイユが二杯目の煮込みをよそいながら、「この料理の再現性を検証するために、食材の配合比率を記録しておきたい」と言った。
「再現する気? これ?」
「科学とは再現性だ」
「無理だよ。今日はありあわせで作っただけだもん」
「……やはり非合理的だな、お前の料理は」
リラさんがお茶を淹れてくれた。薬草茶。リラさんの手際は丁寧で、湯の温度も茶葉の量も完璧だ。元巫女としての教育の賜物だろう。
「ルナちゃん。灯台、見えたわね」
「うん。見えた」
「エレナさんも……きっとあそこを目指していたのね」
リラさんの目に、涙ではなく、光があった。十年間の後悔を手放した人の、澄んだ目。
「一緒に見に行きましょう。エレナさんの代わりに、じゃなくて——私たちの足で」
「うん」
アッシュが鍋の残りをおかわりしながら、ぽつりと言った。
「千年分の腹の虫がようやく治まりそうだ」
「千年も空腹だったんですか」
「比喩だよ。千年間ずっと、旅人を見送るだけだったからな。たまにはこうやって、鍋を囲む側にいたかったのさ」
アッシュの声は軽かったけれど、その言葉の重さを私は感じ取った。千年間、一人で。灯台守りとして、旅人を試し、旅人が犠牲を払うのを見届け、また次の旅人を待つ。その繰り返し。
孤独だったろうな、と思った。
「アッシュ。私たち、最後の試練も突破するから。犠牲なんか払わないで」
「……ああ」
アッシュが笑った。いつもの陽気な笑顔。でも、その目の奥に——祈りのようなものが見えた。
食事が終わって、片付けをした。
鍋を洗って、器を拭いて、甲板の上をきれいにして。マリンが帆を張り直して、航路を確認した。ソレイユが灯台までの距離を計算した。
「この速度なら、あと二日で到着する。ただし、最後の試練がどこにあるかによって変わる」
「最後の試練……第七の試練」
「全てを差し出せ、だろう」アッシュが言った。「一番厳しい試練だ」
私は水平線の向こうを見た。灯台の影は、もう見えなかった。夕暮れの空に溶けてしまっていた。でも、そこにあることは知っている。
全員で行って、全員で帰る。
犠牲なんか払わない。
その覚悟を胸に、私は手のひらを握りしめた。お母さんの灯火がかすかに温かい。まるで、「頑張れ」と言ってくれているみたいに。
夕暮れの空が、紅色から紫色に変わっていく。最初の星が瞬き始める。マリンが「今夜は星がよく見える。航路の修正ができる」と嬉しそうに言った。
消灯域の暗闇はもう遠い。でも、あの暗闘を越えたからこそ、今この星空が美しく見えるのだと思う。
「明日は、もっといい料理を作るね」
「おう。期待してるぞ」マリンが言った。
「非合理的に美味いやつを頼む」ソレイユが言った。
「……ああ」イグニスが言った。
小さな「ああ」だった。でも、旅の最初の頃とは全然違う「ああ」だった。
灯船は西へ進む。水平線の向こうへ。
微かな光が見える——灯台だ。
まだ遠い。でも確かに、そこにある。