星読み通信 第三九一号より
【見出し】「舌の魔女」タマラ・グレイ、王都中央市場の自動鑑定装置導入に異議——「機械には味がわからない」
王都中央市場に精霊炉式自動品質鑑定装置が試験導入され、三十年の経験を持つ仲卸人タマラ・グレイ氏が公然と反対意見を表明した。同氏は毎朝五十種以上の魔獣肉を試食して品質を見極める「目利き」の達人として知られ、「舌の魔女」の異名を取る。市場管理局は「鑑定の効率化と均質化が目的」と説明するが、グレイ氏は「舌でしかわからないものがある」と譲らない。伝統の技と新時代の技術、その攻防の行方に業界の注目が集まっている。
夜明け前の王都は、死んだように静かだった。
石畳の上に残った昨夜の雨の名残が、街灯の魔導灯に照らされて黒く光っている。商店街のシャッターはすべて下り、路地裏の酒場からも人声は消え、大通りを行き交うのは夜警の足音と、遠くの塔から響く鐘の余韻だけだった。
その静寂の中を、一人の女が歩いていた。
タマラ・グレイ。四十五歳。灰色がかった黒髪を首の後ろできつく束ね、使い込まれた革のエプロンを腰に巻き、底の厚い作業靴で石畳を踏みしめている。歩幅は広く、歩調は速い。迷いのない足取りだった。三十年間、同じ道を同じ時刻に歩き続けてきた者だけが持つ確信に満ちた足取りだった。
午前三時。
まだ夜と言ってよい時刻に、タマラは毎朝目を覚ます。身支度に十五分。自宅から王都中央市場までの道のりに二十分。到着は三時三十五分。市場の正門が開くのは四時だが、仲卸人には裏門から入る特権が与えられている。三十年間、タマラが裏門に到着する時刻は、ほとんどぶれたことがない。
夜明け前の空気は冷たく、肺の奥を刺すようだった。だが、タマラにとってこの冷気は歓迎すべきものだった。舌の感覚を研ぎ澄ますには、冷たい空気がいい。暖かい部屋にいると味蕾が鈍る。寒さが舌を覚醒させ、微細な味の差異を捉える準備を整えてくれる。
市場が近づくにつれて、空気が変わった。
まず匂いが来た。血と脂と塩と、それから獣特有の体臭が混ざり合った、独特の匂い。人によっては顔をしかめるその匂いを、タマラは深く吸い込んだ。匂いの中に情報がある。今朝の入荷の鮮度、種類の偏り、保存状態の良し悪し——すべてが、この空気の中に溶けている。
裏門の前に着くと、守衛のバルトが欠伸を噛み殺しながら立っていた。白髪混じりの髭を蓄えた大柄な男で、元冒険者だという。退役後にこの職に就いて十年になる。
「おはようさん、タマラ。今日も一番乗りだな」
「当たり前だよ」
タマラは素っ気なく答えた。バルトは慣れたもので、鉄の門扉を開けながら世間話を続けた。
「今朝の入荷は多いぞ。北の狩場から大型の銀角鹿が三頭入ったらしい。それから、東の森の火吹き猪も」
「火吹き猪? この時期に?」
「ああ、珍しいだろう。繁殖期の前に仕留めたらしい。脂の乗りがいいって、狩人組合の連中が言ってた」
タマラは片眉を上げた。火吹き猪は秋から冬にかけてが旬で、春先のこの時期に出回ることは少ない。繁殖期前の個体は確かに脂が乗るが、同時に肉質が変化しやすい。ホルモンバランスの変動が筋繊維に影響を与え、調理法によっては獣臭さが前面に出てしまう。見た目だけでは判断できない——舌で確かめなければわからない類の差異だ。
「ありがとう、バルト。確認するよ」
「お手柔らかにな。売り手が泣くぞ」
バルトの冗談を背中で聞き流しながら、タマラは市場の中へ足を踏み入れた。
* * *

王都中央市場は、テラ・ノーヴァ大陸最大の食肉市場だった。
大崩落から五十年。復興の時代を経て発展期に入った王都は、人口が急速に膨らんでいた。かつては十万人に満たなかった人口は、今や三十万を超える。周辺の村落から流入する人々、復興事業の労働者、新しい産業に惹きつけられた商人たち——そのすべてを養うために、王都中央市場は年々規模を拡大してきた。
市場の建物は、大崩落以前の石造りの躯体に、復興期の木造の増築が重なり、さらに近年の鉄骨とガラスの拡張部分が加わって、時代の地層のような建築になっていた。天井は高く、最も古い区画では石のアーチが優美な曲線を描き、新しい区画では鉄骨のトラスが機能的に空間を支えている。早朝の市場は魔導灯の青白い光に照らされ、昼間の喧騒とは異なる静謐な緊張感に包まれていた。
タマラが最初に向かったのは、自分の仲卸店——「グレイ商会」の売り場だった。
市場の中央通路に面した、間口四メートルほどの店だ。大きくはないが、位置がいい。中央通路は市場で最も人通りが多く、一等地と呼ばれる場所だ。タマラの父、アルベルト・グレイがこの場所を確保したのは四十年前のことだった。以来、グレイ商会はこの場所を一度も手放していない。
店の奥に入り、作業台の上に並べられた道具を確認する。鑑定用の小皿が五十枚。鑑定用の箸が五膳。水差しと、口をすすぐための湯吞みが三つ。それに、小さな帳面と鉛筆。すべてが、昨夜タマラが自分で準備して帰った通りの配置になっていた。
タマラは革エプロンの紐をきつく結び直し、手を洗い場で丁寧に洗った。石鹸は使わない。香りが舌の邪魔をする。水だけで三度洗い、清潔な布で拭く。指先の感覚を確認するように、親指と人差し指を擦り合わせた。
準備は整った。
市場の時計が三時四十五分を指した。あと十五分で、仕入れ場が開く。その前に、タマラにはやるべきことがあった。
毎朝の儀式——五十種の試食だ。
* * *
仕入れ場は、市場の奥に広がる巨大な冷蔵区画だった。
地脈術を応用した精霊炉が常時稼働し、区画全体を低温に保っている。壁面には霜が薄く張りつき、吐く息が白くたなびく。鉄のフックに吊るされた魔獣の枝肉が、整然と並んでいた。銀角鹿、火吹き猪、霧牛、雷兎、そして大型の地竜まで。数十種類の魔獣肉が、それぞれの産地と狩猟日の札をぶら下げて、買い手を待っていた。
タマラは仕入れ場に入ると、まず全体を見渡した。今朝の入荷は確かに多い。北の狩場からの大型獣が中心で、品質にばらつきがありそうだった。バルトの言った銀角鹿三頭は、仕入れ場の中央に鎮座していた。見事な角を持つ成獣で、体長は二メートルを優に超える。枝肉にされてなお、その筋肉の隆起は力強さを物語っていた。
だが、タマラが最初に手を伸ばしたのは、銀角鹿ではなかった。
壁際に並んだ小型の魔獣——森鶏の枝肉だった。
森鶏は一般的な食材で、王都の食卓に最もよく上がる魔獣肉の一つだ。派手さはないが、だからこそ品質の善し悪しが如実に出る。タマラは森鶏の胸肉に指先を当てた。軽く押して、弾力を確かめる。指を離したときの戻り具合を見る。
表面の色を確認する。新鮮な森鶏の胸肉は、淡い桜色をしている。時間が経つと灰色がかり、さらに劣化すると緑がかった光沢が出る。今朝の森鶏は桜色がわずかに褪せ始めていた。狩猟から丸一日以上は経っている。許容範囲内だが、最上級ではない。
タマラは小さなナイフで薄い一切れを切り取り、小皿に載せた。まず視覚で確認する。断面の繊維の走り方、脂肪の散り具合、血合いの色。次に嗅覚。鼻を近づけて、肉の匂いを嗅ぐ。新鮮な森鶏は、かすかに甘い草の匂いがする。古くなると、酸味を帯びた匂いに変わる。
そして——舌。
タマラは切り取った肉片を口に入れた。
噛まない。まず舌の上に載せる。舌先で表面の質感を確かめる。なめらかさ、湿り気、微細な凹凸。次に、舌の奥に移して温度を感じる。新鮮な肉は冷蔵庫から出した直後でもわずかに温もりを持っている。生命力の残滓とでも言うべきもので、完全に冷え切った肉には感じられないものだ。
ゆっくりと噛む。一度、二度、三度。繊維がほぐれていく感触を確かめる。弾力、粘り、歯ごたえ。脂肪が溶け出すタイミングと量。そして、味。
塩味、甘味、酸味、苦味、旨味——五つの基本味を分解して評価する。森鶏の胸肉であれば、甘味と旨味が強く、酸味と苦味はほとんど感じられないのが良品の証だ。塩味はわずかにある程度で、これは肉に含まれるミネラルに由来する。
タマラは口の中で肉片を転がしながら、舌の各部位で味を確認した。舌先は甘味に敏感で、舌の両側は酸味を、奥は苦味を捉える。舌全体で旨味を感じる。それぞれの部位が返してくる信号を、脳の中で統合する。三十年の経験が、その信号を「品質」という一つの評価に変換する。
吐き出す。
鑑定の試食は、飲み込まない。一日に五十種以上を試食するのだ。すべて飲み込んでいたら、昼前に胃が破裂する。タマラは肉片を吐き出し用の容器に出し、水で口をすすいだ。
帳面に記録する。「森鶏・胸肉・北エルデン産・良品・やや鮮度落ち・特記なし」。
これが一品目。
あと四十九品、残っている。
* * *
一品一品、タマラは丁寧に試食を続けた。
森鶏の腿肉。胸肉よりも脂が多く、旨味が強い。今朝の入荷は合格。霧牛のロース。きめ細かい霜降りが特徴で、舌の上でとろけるような脂の融け方をする。今朝のものは脂の質がやや硬い。牧草の種類が変わったか、あるいは運動量の多い個体だったか。仕入れるが、最上級の料理店には回さない。一般向けとして卸す。
雷兎の背肉。電気を帯びた魔獣の肉は、独特のピリピリとした後味がある。これは鮮度の指標になる。新鮮なものほどピリピリ感が強く、古くなると消えていく。今朝の雷兎は——タマラの舌がわずかに痺れた。上物だ。
地竜の尾肉。硬いが、じっくり煮込むと繊維がほどけて極上のスープになる。コラーゲンが豊富で、噛むとねっとりとした粘りがある。今朝の地竜は若い個体のもので、肉質がやや柔らかすぎる。悪くはないが、最良でもない。
二十品目を過ぎた頃、タマラの舌が一瞬、止まった。
鉄角牛の肩肉だった。
見た目は問題ない。色も、弾力も、匂いも、通常の範囲内だ。だが、舌の上に載せた瞬間、かすかな違和感があった。甘味がわずかに強すぎる。通常の鉄角牛の肩肉にはない、蜜のような甘味。それ自体は不快ではないのだが、自然な甘味ではなかった。何かが——混じっている。
タマラは眉をひそめた。もう一切れ、切り取って試す。今度は舌の奥で味わう。やはり、不自然な甘味がある。微量だが、確かにある。
「……餌だな」
タマラは呟いた。鉄角牛の飼育に、甘味のある飼料が使われている。おそらく蜜根草の配合が多すぎるのだろう。蜜根草を多量に与えると肉に甘味が移り、一見すると美味に感じられるが、長期的には肉質が緩くなり、保存性が落ちる。見た目と匂いだけでは判別できない。舌だけが捉える差異だ。
タマラは帳面に「鉄角牛・肩肉・南街道牧場産・注意・飼料偏り・甘味過多・要確認」と書き込んだ。仕入れはするが、卸値は下げる。料理人には飼料の偏りについて伝える。
三十品目。四十品目。試食は続く。
舌が疲れてくる頃合いだった。普通の人間であれば、二十品目あたりで味覚が鈍り始める。連続した刺激に舌が慣れてしまい、微細な差異を捉えられなくなるのだ。だが、タマラは違った。三十年の訓練が、彼女の舌に特異な耐久力を与えていた。
水で口をすすぎ、舌をリセットする。冷たい水を舌の上で転がし、味蕾の感度を回復させる。この技術を教えてくれたのは、父のアルベルトだった。
「舌は筋肉だ」と父は言った。「鍛えれば強くなる。毎日使い続ければ、衰えない。だが、酷使すれば壊れる。大事なのは、回復の技術だ。剣士が剣を手入れするように、お前は舌を手入れしろ」
五十品目を終えたのは、午前五時十五分だった。
市場はすでに活気づいていた。他の仲卸人たちが続々と到着し、仕入れ場で品定めを始めている。卸売人たちが声を張り上げて自分の商品を宣伝し、値付け師たちが帳面を片手に走り回っている。王都中央市場の朝が、始まろうとしていた。
午前六時。市場は完全に目を覚ましていた。
中央通路を挟んで左右に並ぶ仲卸店から、威勢のいい声が飛び交っている。「今朝の銀角鹿は極上だぞ!」「雷兎あるよ、雷兎! 新鮮なのが入ったよ!」「霧牛のサーロイン、今なら安くしとくよ!」。売り手たちの声が天井の高い空間に反響し、独特の韻律を持った市場の合唱になる。
その中で、グレイ商会の売り場は静かだった。
タマラは声を張り上げない。派手な看板も掲げない。店先に並べられた肉には、手書きの札が添えられているだけだ。品名、産地、狩猟日、そしてタマラの一言評価。「繊維きめ細かい、焼きに最適」「脂乗り良好、煮込み向き」「旨味濃厚、薄切り推奨」。
それだけで、グレイ商会には客が来る。
最初の客は、王都の高級料理店「銀の匙」の料理長、ヨルグだった。五十代の恰幅のいい男で、白いコック帽を被ったまま市場に現れる。
「おはよう、タマラ。今朝はどうだ」
「銀角鹿のヒレ肉がいい。右の枝肉から取った分だ。左よりも運動量が多かったらしく、赤身が締まっている。ステーキにするなら右側を使え」
「左右で違うのか」
「違う。銀角鹿は右前脚を軸にして走る癖がある。だから右半身の筋肉のほうが発達している。焼いたときの歯ごたえが違う。右は弾力があって、噛むほどに味が出る。左は柔らかいが、味はやや淡い」
ヨルグは感心したように頷いた。二十年以上の付き合いだ。タマラの評価を疑ったことは一度もない。
「右のヒレを二キロ。それから、雷兎はあるか」
「ある。今朝のは上物だ。電気の残り方がしっかりしている。カルパッチョにするなら、仕入れてから三時間以内に使え。それ以降は電気が抜けて、普通の兎肉と変わらなくなる」
「了解した。一キロ頼む」
タマラは頷き、奥の冷蔵庫から指定の肉を取り出した。包丁を手に取り、正確な量を切り分ける。秤に載せて重量を確認し、油紙で包んでヨルグに手渡した。
次の客は、王城の厨房を預かるフランツだった。王族の食事を作る立場の男で、品質への要求は極めて高い。
「タマラ、今日の王城用に霧牛のロースを」
「今朝の霧牛は勧めない」
フランツが驚いた顔をした。
「なぜだ。見たところ、見事な霜降りだが」
「霜降りは見事だが、脂の質が違う。融点が高い。口の中でなかなか溶けない。牧草が変わったんだろう。料理に出して不味いわけじゃないが、王城の食卓に出すなら最上級でなきゃ駄目だ。今日は銀角鹿のランプ肉にしろ。そっちのほうが満足度が高い」
「しかし、陛下は霧牛がお好みで——」
「なら明日にしろ。明日の入荷には東牧場からの霧牛が入る予定だ。東牧場の霧牛は、今の時期でも脂の質が安定している。今日は銀角鹿で凌げ」
フランツは一瞬渋い顔をしたが、最終的には頷いた。タマラの判断に逆らって失敗した経験が、過去に何度もあるのだ。
「わかった。銀角鹿のランプを三キロ」
客は途切れることなく続いた。高級料理店の料理長、街の食堂の主人、貴族の家の料理人、軍の糧食担当官——王都の食を担う者たちが、タマラの評価を求めてグレイ商会を訪れる。
タマラの異名——「舌の魔女」は、この仕事ぶりから生まれたものだった。
その名前を最初に使ったのが誰なのか、正確には誰も覚えていない。十年ほど前、ある料理人が冗談めかして言ったのが始まりだとも、市場の競争相手が皮肉を込めて呼んだのが定着したとも言われている。いずれにせよ、「舌の魔女」の名は王都の食に関わるすべての人間に知れ渡っていた。
その異名を、タマラ自身は好きではなかった。
魔女という言葉には、何か超自然的な力を連想させる響きがある。だが、タマラの技術は魔法ではない。三十年間、毎朝五十種以上の試食を続けてきた蓄積の結果だ。一日も休まず、舌を鍛え続けた結果だ。それは魔法ではなく、ただの——努力だった。
だが、世間はそう見ない。舌一つで魔獣肉の品質を言い当てる女。目を閉じて一口噛んだだけで、産地、鮮度、飼育環境、さらには最適な調理法まで指定する女。それは彼らにとって、魔法にしか見えないのだった。
* * *
午前八時。最初のラッシュが過ぎ、市場はわずかに落ち着いた時間帯に入った。タマラは店番を従業員のダニエルに任せ、裏の休憩所で茶を飲んでいた。
休憩所は仲卸人たちの社交場でもあった。木の長テーブルが三つ並び、壁には古い市場の写真や、優秀仲卸人の表彰状が額に入れて飾られている。タマラの名前も三度ほどそこにあった。
隣に座ったのは、同業者のクルトだった。タマラと同年代の男で、クルト商会という仲卸店を営んでいる。タマラほどの評判はないが、堅実な商売をする真面目な男だった。
「タマラ、聞いたか。例の自動鑑定装置の話」
「聞いた」
「来月から試験導入だそうだ。市場管理局が精霊炉メーカーと組んで開発したらしい」
タマラは茶碗の中の液体を見つめたまま、表情を変えなかった。
「精霊炉の技術を応用して、肉の品質を数値化するんだと。鮮度、脂肪含有率、有害物質の有無、魔力残留量——そういったものを、機械が自動で測定する」
「知っている」
「市場管理局の説明会に出たのか」
「出ていない。だが、話は聞いた」
タマラは茶を一口啜った。苦い。舌がまだ試食の余韻を引きずっていて、茶の味が歪んで感じられる。午前中はいつもそうだ。五十種の試食をした後の舌は、敏感すぎて日常の味覚が狂う。
「正直なところ、どう思う」
「どうも思わない」
「嘘だろう。お前の仕事がなくなるかもしれないんだぞ」
タマラはクルトを見た。クルトの顔には、不安が浮かんでいた。それは自分自身の不安でもあるのだろう。もし機械が品質鑑定をするようになれば、仲卸人の目利きという技術は価値を失う。仲卸人は単なる肉の運び屋になってしまう。
「機械に舌はないよ」
タマラは静かに言った。
「数値は測れるだろうさ。鮮度も、脂肪の量も、有害物質も。だが、味はわからない。この肉がどう調理されるべきか、どの料理人の手に渡るべきか、どの客の舌に合うか——そういうことは、数値では測れない」
「だが、管理局は効率化と均質化を求めているんだ。味よりも安全性、個人の技術よりも標準化——そういう時代の流れだろう」
「流れだからって、正しいとは限らない」
クルトは溜息をついた。
「お前らしいな。だが、俺は不安だよ。うちには、お前ほどの目利きはいない。機械に取って代わられたら——」
その言葉は、休憩所のドアが開く音に遮られた。
入ってきたのは、若い女だった。
十八歳。タマラと同じ灰色がかった黒髪を、肩のあたりで無造作に切り揃えている。だが、母親と違って化粧をしていた。唇に淡い色を乗せ、目元にも薄くラインを引いている。服装も市場向きとは言えない。薄手のブラウスに、膝丈のスカート。足元は底の薄い街歩き用の靴だった。
ミラ・グレイ。タマラの一人娘。
「母さん、起きてたんだ」
「起きてたんだ、じゃない。今何時だと思っている」
「八時でしょ。普通の人が起きる時間よ」
ミラは当然のようにそう言って、タマラの向かいに座った。クルトが気まずそうに席を外し、二人きりになった。
「何しに来た」
「別に。たまには市場に来てもいいでしょ。一応、うちの家業なんだし」
「来たことないくせに」
「だから今日来たの」
タマラはミラを見つめた。娘の顔立ちは、亡くなった夫のレオンに似ている。彫りが深く、目が大きく、鼻筋が通っている。レオンは十二年前に病で亡くなった。タマラが三十三歳、ミラが六歳のときだった。それ以来、タマラは一人で娘を育てながら仲卸業を続けてきた。
ミラが市場を嫌っていることは、タマラもよく知っていた。
幼い頃は、父親が連れてきてくれることもあった。だが、父が亡くなった後、ミラは市場に近づかなくなった。「臭い」「早起きが嫌」「地味」「友達に自慢できない」——理由は山ほど並べられた。タマラはそれについて何も言わなかった。継がせたいとは思っていたが、無理強いするつもりはなかった。
「で、本当は何の用だ」
ミラは少し黙ってから、口を開いた。
「今日、学院の進路面談があるの。それで——将来のこと、ちょっと聞きたくて」
「私に聞いてどうする」
「母さんは、なんでこの仕事を続けてるの」
唐突な質問だった。タマラは一瞬言葉に詰まった。
「なんで、って——」
「だって、毎朝三時に起きて、生肉を五十種類も口に入れて、一日中血と脂の匂いの中にいるんでしょ。しかも、もうすぐ機械に取って代わられるかもしれないって話じゃない。なんで、そんな仕事をわざわざ続けるのか、わからないの」
タマラは茶碗を置いた。
「機械の話、どこで聞いた」
「星読み通信に載ってたわ。『舌の魔女、自動鑑定装置に反対』って。母さん、名前出てたよ」
タマラの眉間にしわが寄った。記者の取材を受けた覚えはない。おそらく、市場管理局の説明会での発言を誰かが伝えたのだろう。
「あの記事は正確じゃない」
「でも、機械が入ってくるのは本当なんでしょ?」
「本当だ」
「じゃあ、母さんの仕事は——」
「なくならない」
タマラは断言した。ミラが少し驚いた顔をした。
「どうして、そう言い切れるの」
「機械には舌がないからだ」
「それだけ?」
「それだけだ」
ミラは納得していない顔をしていた。だが、それ以上は問い詰めなかった。立ち上がり、スカートの埃を払った。
「進路面談、三時からだから。夕方には帰る」
「何の進路を考えているんだ」
「まだ決めてない。でも、少なくともこの仕事じゃないことは確かよ」
その言葉を残して、ミラは休憩所を出て行った。
タマラは空になった茶碗を見つめた。娘の言葉が、胸の奥に小さな棘を残していた。
午前の商いが一段落した昼前、タマラは店の奥の小部屋に入った。
壁には古い写真が一枚だけ掛けてある。三十代のアルベルト・グレイが、若き日の妻マーサと共に市場の前で笑っている写真だ。二人の間には、まだ幼いタマラが立っている。五歳か六歳の頃だろう。父の大きな手に包まれた小さな手が、カメラに向かって手を振っている。
タマラは写真を見上げた。父は七年前に亡くなった。六十八歳だった。最後の日まで市場に立ち、前日の夕方に倒れ、翌朝には息を引き取った。市場の仲間たちは「グレイの大将は市場で生まれて市場で死んだようなもんだ」と言った。それは正確ではなかった。父は市場で生まれてはいない。だが、市場で死んだようなものだという部分は、おおむね正しかった。
タマラが初めて試食をしたのは、十歳のときだった。
当時はまだ、女の子が仲卸の仕事に就くことは珍しかった。市場は男の世界で、力仕事が多く、言葉遣いも荒い。母のマーサは反対した。「あの子にもっと別の道を」と。だが、父は首を振った。
「この子には舌がある」
父がそう言ったのは、タマラが食卓で何気なく口にした一言がきっかけだった。
「このお肉、昨日のと違う。同じお店で買ったのに、味が違うよ。昨日のほうが甘かった」
マーサは気づかなかった。だが、アルベルトは目を見開いた。翌日、彼はタマラを市場に連れて行き、三種類の霧牛の切り身を並べて見せた。
「食べてみろ。どれが一番うまいか、わかるか」
十歳のタマラは三つの切り身を順番に口に入れた。そして、迷わず一つを指差した。
「これ。これが一番おいしい」
それは、三つの中で最も高価な上等品だった。
アルベルトは笑った。嬉しそうに、そして少し悲しそうに笑った。この子は自分と同じ舌を持っている。それは才能であると同時に、厳しい道を歩むことを意味していた。
十五歳で正式に弟子入り。朝三時の起床から、五十種の試食まで、父のすべてを叩き込まれた。
「舌で食うな。舌で考えろ」
これが父の口癖だった。美味いか不味いかを判断するのは素人でもできる。プロの目利きは、味から情報を読み取る。産地、鮮度、飼育環境、保存状態、そして——その肉が誰の手に渡り、どう調理され、誰の口に入るべきかまでを、一口の試食から導き出す。
「お前の舌は、客と生産者をつなぐ橋だ。お前がいい加減な鑑定をすれば、客は不味いものを食わされ、真面目な生産者は報われない。舌に嘘をつくな。絶対に」
父の教えは、タマラの骨の髄にまで染み込んでいた。
三十年間、一日も欠かさず試食を続けた。風邪を引いても、熱があっても、味覚が鈍っていると感じた日は、その旨を客に正直に伝えた。「今日の私の舌は七割だ。それでも良ければ買ってくれ」と。そう言うと、客はかえって信頼した。自分の舌の状態を正確に把握できるということは、それだけ舌に自覚的だということだからだ。
レオンと出会ったのも、市場だった。
レオンは料理人だった。王都の小さな食堂で働いていた。毎朝市場に仕入れに来るうちに、タマラと顔なじみになった。最初は客と仲卸人の関係だった。だが、レオンはいつしかタマラの推薦する肉ばかりを買うようになり、タマラもまた、レオンの料理のためにとっておきの部位を取り置くようになった。
「お前の選んだ肉で作った料理は、いつも客が『おかわり』って言うんだ」
レオンはそう言って笑った。二十五歳で結婚し、二十七歳でミラが生まれた。幸せな日々だった。レオンは市場の仕事を理解し、朝三時に起きるタマラのために夜の家事を引き受けてくれた。ミラを風呂に入れ、寝かしつけ、朝食を準備してくれた。
レオンが死んだとき、タマラは三日間、市場を休んだ。
三十年で唯一の、三日間の休みだった。
四日目の朝、タマラは午前三時に目を覚ました。体が勝手に動いた。身支度をし、革エプロンを巻き、市場への道を歩き始めた。泣きながら歩いた。石畳の上に涙が落ちた。だが、足は止まらなかった。市場に着き、裏門をくぐり、仕入れ場に入った。冷蔵区画の冷気が涙を凍らせた。
五十種の試食を終えたとき、タマラは気づいた。
泣き止んでいた。
舌が動いているあいだは、悲しみが遠のいた。味に集中しているあいだは、レオンのいない朝の空虚さを忘れられた。それは逃避かもしれない。だが、タマラにはそれしかなかった。舌と市場と——それだけが、彼女を支えてくれた。
* * *
午後になると、市場の客足は減る。主な取引は午前中に終わり、午後は翌日の仕入れの段取りと、店の清掃に充てられる。タマラはカウンターに肘をつき、帳面を見返していた。
今朝の試食結果を、改めて整理する。五十三品を試食し、そのうち最上級の評価をつけたのは七品。銀角鹿のヒレ肉(右半身)、雷兎の背肉、森鶏の手羽先、角鯨の赤身——いずれも、今朝の入荷の中で傑出した品質のものだった。
問題のある品は三品。鉄角牛の飼料偏りのほかに、山羊魔獣の一品に微かな異臭を感じ、もう一品の岩猪に鮮度の低下を検知した。いずれも、見た目だけでは判断が難しいものだった。
タマラは帳面を閉じ、窓の外を見た。市場の中央通路を、作業員たちが何かを運び込んでいるのが見えた。大きな木箱を台車に載せ、市場管理局の職員が付き添っている。
木箱の側面には、文字が書かれていた。
「精霊炉式自動品質鑑定装置 第一号機 ヴェルナー精霊工房製」
タマラの目が細くなった。
来月からの試験導入と聞いていたが、もう機械が届いたのか。管理局は急いでいるらしい。
中央通路の突き当たりに設置場所が用意されていた。作業員たちが木箱を開け、中から銀色に輝く装置を取り出す。精霊炉を組み込んだ金属の筐体で、上部には肉を載せるための平らな台がある。側面には文字盤が複数並び、鑑定結果を数値で表示する仕組みのようだった。
タマラはしばらくその作業を眺めていたが、やがて目を逸らした。
興味がないわけではない。だが、今はまだ見る必要がなかった。機械が何をできるかは、稼働してから確認すればいい。タマラが知りたいのは、機械に何ができないか——だった。
自動鑑定装置の試験運用が始まったのは、翌週の月曜日のことだった。
市場管理局のハインツ局長が自ら立ち会い、仲卸人と卸売人を集めて説明会が開かれた。ハインツは五十代の痩せた男で、眼鏡の奥の目が常に何かを計算しているように動いている。元は帝都の官僚で、三年前に王都市場の管理局長に着任した。着任以来、市場の「近代化」を推進し、帳簿の記録方式の統一、衛生基準の改定、取引時間の標準化などを次々と実施してきた。
自動鑑定装置の導入は、その近代化路線の集大成だった。
「皆さん、本日より精霊炉式自動品質鑑定装置の試験運用を開始いたします」
ハインツの声は、集まった百人近い市場関係者に向けて、落ち着いた調子で響いた。
「この装置は、ヴェルナー精霊工房が三年の歳月をかけて開発したものです。精霊炉の感知能力を応用し、魔獣肉の品質を七つの指標で数値化します。鮮度指数、脂肪含有率、筋繊維密度、魔力残留量、有害物質検出、pH値、そして水分含有率。これらの数値を総合して、S、A、B、C、Dの五段階で品質等級を自動判定します」
会場がざわついた。仲卸人たちの表情はさまざまだった。興味を示す者、不安を隠せない者、露骨に不快そうな者。
「誤解のないように申し上げますが、この装置は仲卸人の皆さんの仕事を奪うものではありません。あくまで補助的なツールとして、品質管理の精度を向上させることが目的です。特に、食の安全に関わる有害物質の検出においては、人間の感覚を補完する役割が期待されています」
ハインツは装置の前に立ち、実演を行った。銀角鹿の切り身を台の上に載せ、精霊炉のスイッチを入れる。装置の内部で青白い光が点滅し、文字盤の針が動き始めた。十秒ほどで結果が表示される。
「鮮度指数九十二、脂肪含有率十八パーセント、筋繊維密度は上位、魔力残留量は基準値内、有害物質不検出、pH五・七、水分含有率七十一パーセント。総合判定——A」
会場から、おお、という声が上がった。十秒で七つの数値が出る。これは確かに、人間の鑑定にはない速度だった。
タマラは腕を組んで、壁にもたれかかっていた。目の前で展開されるデモンストレーションを、表情を変えずに見つめている。
ハインツはさらに数品の肉を装置にかけた。霧牛のロース、雷兎の背肉、森鶏の胸肉。いずれも明確な数値が出て、等級が判定された。装置の精度に、多くの仲卸人が感心した様子を見せた。
「質問はありますか」
ハインツが会場を見渡した。
しばらく沈黙があった。そして、壁際から一つの声が上がった。
「一つ聞いていいかい」
タマラだった。
会場の視線が一斉にタマラに集まった。「舌の魔女」の名は、この場にいる全員が知っている。
「どうぞ、グレイさん」
「その装置で、肉の味はわかるのかい」
ハインツは眼鏡を押し上げた。
「味、ですか」
「そうだ。この肉が甘いか、苦いか。旨味が強いか弱いか。焼いたときにどんな香りがするか。煮込んだときにどんなスープが取れるか。——そういうことが、その機械でわかるのかい」
会場が静まり返った。
ハインツは一拍置いてから答えた。
「現時点では、味そのものを測定する機能はありません。しかし、脂肪含有率や筋繊維密度、水分含有率といった数値から、味の傾向をある程度推測することは可能です」
「推測、ね」
タマラは壁から身を起こした。
「今朝、私はあの銀角鹿のヒレ肉を試食した。右半身と左半身で味が違った。右のほうが締まっていて、噛むほどに旨味が出る。左は柔らかいが味は淡い。料理店の銀の匙に卸すなら右、家庭向けの食堂に卸すなら左。——その判断が、その機械にできるかい」
ハインツは答えなかった。
「それから、今朝の霧牛のロース。脂の融点が高い。牧草が変わったせいだ。見た目は立派な霜降りだが、口の中で溶けきらない。王城の食卓には出せない。——その判断は?」
沈黙。
「もう一つ。鉄角牛の肩肉に、飼料の偏りから来る不自然な甘味があった。蜜根草の過剰投与。肉質が緩んで保存性が落ちる。——見た目も匂いも正常だった。数値にも出ないだろう。だが、私の舌にはわかった」
タマラは装置を真っ直ぐに見つめた。
「数値は便利だ。否定はしない。だが、数値で味はわからない。味がわからなければ、本当の品質はわからない。この機械を『補助』と呼ぶなら結構だ。だが、『代替』と呼ぶなら——私は反対する」
会場にどよめきが広がった。拍手する者もいれば、渋い顔をする者もいた。ハインツは眼鏡の奥の目を細め、何かを考え込むように黙っていた。
* * *
説明会の後、タマラは店に戻った。ダニエルが心配そうな顔で迎えた。
「大将、大丈夫ですか。管理局に睨まれませんかね」
「知るか」
タマラは作業台の前に座り、明日の仕入れリストを確認し始めた。だが、心のどこかで自分の言葉の重さを感じていた。公然と管理局に反対意見を述べたのは、計算ずくの行動ではなかった。言わずにはいられなかったのだ。
機械が悪いとは思わない。数値化できるものは数値化すればいい。だが、味は数値ではない。味は——経験と記憶と、そしてそれを受け取る人間の感情が織り合わさったものだ。それを機械に置き換えることは、できない。
少なくとも、タマラはそう信じていた。
夕方、ミラから手紙が届いた。市場の伝言板に挟まれていた短い紙片だ。
「進路面談、終わった。帰りに友達と寄り道するから、夕飯はいらない。——ミラ」
タマラはその紙片をエプロンのポケットにしまった。進路面談の結果については、何も書かれていなかった。
自動鑑定装置の試験運用が始まって二週間が経った。
装置は市場の中央通路の突き当たりに常設され、仲卸人や卸売人が自由に利用できるようになっていた。管理局の職員が一人常駐し、操作方法の説明と記録の管理を行っている。
利用者は日に日に増えていた。
特に、目利きの経験が浅い若手の仲卸人たちが、装置を積極的に活用し始めた。自分の鑑定に自信がないとき、装置の数値を参考にする。客から品質について問われたとき、「装置でA判定が出ています」と答える。それは確かに便利だった。数値という客観的な裏付けがあることで、若手でもベテランと同等の信頼を得られるようになった。
だが、タマラの目には、別のものが見えていた。
装置を使い始めた仲卸人たちの中に、試食をしなくなる者が出てきたのだ。
数値が出るのに、わざわざ味を見る必要があるのか——そう考える者が、一人、また一人と増えていった。装置にかければ十秒で結果が出る。試食は一品につき数分かかり、しかも舌の疲労を伴う。効率を考えれば、装置に頼るほうが合理的だった。
タマラは変わらなかった。毎朝三時に起き、五十種以上の試食を続けた。装置には一度も肉を載せなかった。
「頑固だなあ、グレイの大将は」
周囲の仲卸人たちはそう言って笑った。敬意の混じった笑いだったが、その中に微かな哀れみが含まれていることを、タマラは感じ取っていた。時代遅れの職人が、新しい技術を受け入れられずに意地を張っている——そう見られていることを。
ある朝、市場管理局のハインツが直接グレイ商会を訪ねてきた。
「グレイさん、少しお時間をいただけますか」
タマラは試食の最中だった。三十八品目の地竜の尾肉を口に含んでいた。ハインツに人差し指を一本立てて「待て」の合図を送り、ゆっくりと肉を咀嚼し、吐き出し、口をすすぎ、帳面に記録してから、ようやくハインツに向き直った。
「何だい」
「装置の試験運用の中間報告をまとめているのですが、グレイさんのご意見もぜひ伺いたいと思いまして」
「意見は説明会で言った通りだよ」
「そうですか。では、一つ提案があります」
ハインツは革鞄から書類を取り出した。
「来週、装置の精度検証テストを行います。装置の鑑定結果と、人間の目利きによる鑑定結果を比較するものです。市場の信頼回復と、装置と人間の共存モデルを示すために、ぜひグレイさんに参加していただきたい」
「私が装置と競争しろ、って?」
「競争ではありません。比較検証です。装置にできることと、人間の目利きにしかできないことを、客観的に示す良い機会だと思うのですが」
タマラは腕を組んだ。
罠かもしれない、と思った。装置の優位性を証明するために、タマラを当て馬にする——そういう可能性もある。だが、逆に考えれば、この場でタマラが辞退すれば、「舌の魔女は装置との比較を恐れた」という話が広まるだろう。
「いいよ。やる」
ハインツは微かに笑った。その笑みの中に何が含まれているかは、タマラには読めなかった。
* * *
比較検証テストは、市場の関係者と、星読み通信の記者の立ち会いのもとで行われた。
十種類の魔獣肉が用意され、タマラと装置がそれぞれ品質を鑑定する。鑑定項目は、鮮度、品質等級、推奨調理法、そして特記事項の四つ。
タマラはいつも通りに試食した。一品ずつ、丁寧に。指で弾力を確かめ、目で色を見、鼻で匂いを嗅ぎ、そして舌で味を読む。装置は十秒で数値を吐き出す。タマラは一品に三分かけた。
結果が出揃った。
鮮度と品質等級については、タマラの鑑定と装置の判定はほぼ一致した。十品中九品で同じ等級がついた。唯一異なったのは、ある山羊魔獣の肉で、装置がB判定、タマラがC判定をつけた。
「この山羊、表面は問題ないが、深部の繊維が劣化し始めている。あと半日で臭いが出る。今日中に使うならBだが、明日まで持たせるならCだ」
タマラの説明に、ハインツは書記に記録させた。
推奨調理法については、装置は回答を出せなかった。数値から推測可能な範囲として「脂肪含有率から焼き料理向き」「水分含有率から煮込み向き」といった大まかな傾向を示すことはできたが、「銀角鹿のヒレ肉の右半身はステーキに、左半身は刺身に」といった精緻な判断は不可能だった。
特記事項については、タマラが三品に注意書きをつけた。飼料の偏り、運搬時の温度管理の不備、そして一品の微かな苦味。装置はいずれも検出できなかった。
結果として、テストはタマラの面目を保つものとなった。装置は基本的な品質判定において信頼に足る精度を持つが、味に関わる繊細な判断は人間の舌に及ばない——そういう結論だった。
だが、ハインツは満足しているように見えた。
「これで、装置と人間の棲み分けが明確になりました。装置は安全管理と効率化を担い、目利きの技術は品質の最終判断を担う。共存モデルとして、非常に良い形だと思います」
タマラは何も言わなかった。ハインツの言葉に嘘はないだろう。だが、言葉にならない不安が胸の底に沈んでいた。
共存は、今日の話だ。明日はどうなる。装置の精度が上がれば、味も分析できるようになるかもしれない。そうなれば、「共存」は「代替」に変わる。時間の問題かもしれない。
それでも——今日、タマラの舌は装置にできないことをやって見せた。それは確かな事実だった。
テストの後、何人かの若い仲卸人がタマラに声をかけてきた。
「グレイさん、右半身と左半身の違いって、どうやったらわかるんですか」
「毎日食べろ。三年もすればわかる」
「三年……」
「近道はない。舌は鍛えるしかない。だが、鍛え方にはコツがある。比較して食べることだ。同じ種類の肉を、産地を変えて並べて食べる。同じ産地の肉を、鮮度を変えて並べて食べる。違いがわかったら、次はその違いの原因を考える。なぜ違うのか。何が違いを生んでいるのか。それを考え続けることで、舌が鍛えられる」
若い仲卸人たちは真剣な顔で頷いた。彼らの中に、装置を使い始めてから試食をやめていた者がいることを、タマラは知っていた。だが、それを咎めるつもりはなかった。装置の便利さに頼りたくなる気持ちは、理解できる。大事なのは、装置だけでは十分でないことに気づくことだ。
その夜、タマラは自宅の食卓で一人、銀角鹿のヒレ肉を焼いた。右半身の、最上級の部位。今朝の試食で「これは自分で食べよう」と決めていた一切れだった。レオンが生きていた頃、特別な日には二人で良い肉を焼いて食べた。レオンの焼き方は絶妙だった。表面をカリッと、中はしっとりと。タマラが選び、レオンが焼く。完璧な分業だった。
今は、タマラが自分で焼く。レオンほどは上手くない。だが、悪くもない。十二年間、一人で焼き続けてきたのだ。
肉を一切れ口に入れた。旨味が広がった。舌が喜んでいるのがわかった。
ふと、ミラのことを考えた。娘は今日も遅くまで帰ってこない。最近は友人と過ごす時間が増え、家にいることが少なくなった。進路面談の結果も、まだ聞いていない。
市場の仕事を継がないと、ミラは言った。
それは、タマラにとって悲しいことだった。だが、同時に、理解できることでもあった。毎朝三時に起き、生肉を五十種類も口に入れ、一日中血と脂の匂いの中にいる——そんな仕事を好んで選ぶ人間は、そう多くはない。タマラ自身も、もし父の娘でなかったら、この仕事を選んだだろうか。
わからない。
だが、選んだ。選んで、三十年続けた。それだけは確かだった。
その朝は、いつもと何かが違った。
タマラは午前三時に起き、いつも通りの身支度をし、いつも通りの道を歩いた。空気の匂いも、石畳の冷たさも、いつもと変わらない。だが、市場の裏門に着いたとき、バルトの顔色がいつもと違っていた。
「タマラ、今朝はちょっと——」
「何があった」
「北の大狩場から、大量の入荷があったんだ。魔獣肉が二百頭分近い。いつもの三倍だ」
「三倍? なぜそんなに」
「大狩りがあったらしい。ルドガー猟団が銀月の森で大規模な駆除を行ったとかで。魔獣が森から溢れ出してきて、周辺の村に被害が出かけたって話だ」
タマラは眉をひそめた。大量入荷は珍しいことではないが、駆除目的の大狩りで得た肉には注意が必要だった。通常の狩猟と異なり、駆除では手段を選ばないことがある。毒矢を使ったり、落とし穴で捕獲した後に時間をかけて仕留めたりする。ストレスを受けた魔獣の肉は品質が落ちる。極端な場合、肉に有害物質が蓄積されていることもある。
「わかった。確認する」
仕入れ場に入ると、普段より格段に多い枝肉が吊るされていた。銀角鹿、火吹き猪、森鶏、霧牛——種類は多岐にわたるが、そのすべてが「銀月の森」の産地札をつけている。
タマラは試食を始めた。
最初の十品は問題なかった。通常の品質で、特記すべき点はない。ストレスの影響もほとんど感じられない。おそらく、通常の狩猟で仕留められた個体だろう。
二十品目あたりから、微妙な変化を感じ始めた。
肉の味に、かすかな金属臭が混じっている。鉄でも銅でもない、もっと微細な——何と表現すればいいのだろう。タマラは眉間にしわを寄せ、もう一切れ口に入れた。
舌の奥で、わずかな痺れを感じた。
雷兎の残留電気とは違う。これは——もっと深いところから来る痺れだ。肉の繊維の奥に染み込んだ、何かの残留物。
タマラは肉片を吐き出し、入念に口をすすいだ。帳面に「要注意」と大きく書き込む。
三十品目。四十品目。痺れを感じる品が増えていく。すべてではない。十品に一品か二品の割合で、あの不自然な痺れがある。それ以外の品は正常だ。
タマラは一旦試食を中断し、冷蔵区画の管理台帳を確認した。入荷元はルドガー猟団。産地は銀月の森。狩猟日は三日前。
三日前。運搬に二日かかったとして、狩猟から数えて丸三日。鮮度としてはまだ許容範囲だが、問題はそこではない。
銀月の森。
タマラはその名前に、かすかな引っかかりを覚えた。最近、何かで聞いた名前だ。星読み通信だったか、市場の噂話だったか——
思い出した。
二ヶ月前、星読み通信の小さな記事に載っていた。銀月の森の北部で、地脈の異常が観測されたという報告だ。大崩落の影響が遅延的に現れたもので、地脈のエネルギーが局所的に変質している可能性がある、と。
地脈の変質が魔獣に影響を与えることは、よく知られている。魔獣は地脈のエネルギーを取り込んで生きている。地脈が変質すれば、魔獣の体内にもその影響が蓄積される。そして、それは肉に残る。
「まさか——」
タマラは残りの品の試食を急いだ。慎重に、だが手際よく。一品一品、舌の上で転がし、痺れの有無を確認する。
結果、二百頭分近い入荷のうち、痺れを感じたのは約二十頭分だった。一割。決して少なくない数だ。
タマラは帳面を閉じ、仕入れ場を出た。足早に、自動鑑定装置の設置場所に向かった。
* * *
装置の前には、管理局の職員が一人いた。若い男で、名前はフェルディナントと言った。タマラの顔を見て、少し緊張した表情になった。
「グレイさん、何か——」
「この装置で、今朝の銀月の森の入荷分を鑑定したか」
「はい。早朝に全品を通しました。結果は——」
フェルディナントは記録簿を開いた。
「全品、基準値内です。有害物質不検出。品質等級はBからAの範囲で、特に問題は——」
「問題がある」
タマラの声は低く、断定的だった。フェルディナントが言葉を飲み込んだ。
「二十頭分ほどの肉に、不自然な味がある。金属臭と、舌の痺れ。地脈の変質による汚染の可能性がある」
「しかし、装置では検出されて——」
「だから問題だと言っている」
タマラはフェルディナントの記録簿を手に取り、ざっと目を通した。確かに、全品が基準値内と判定されている。有害物質の欄はすべて「不検出」。精霊炉の感知能力が捉えられる範囲の有害物質は、存在しないということだ。
だが、タマラの舌は何かを捉えた。装置が検出できない何かを。
「管理局長のハインツに連絡してくれ。すぐに」
「しかし——」
「すぐに、だ」
フェルディナントは慌てて走り出した。タマラは装置の前に立ち、銀色の筐体を見つめた。
機械は沈黙していた。文字盤の針は動かず、精霊炉の青白い光も消えている。機械には、自分が何を見落としたのかもわからない。わかる術がない。
タマラの舌だけが、危険を感じ取っていた。
ハインツが市場に駆けつけたのは、午前八時を過ぎた頃だった。
タマラは問題のある肉を仕入れ場の隅に隔離し、他の仲卸人に手を出さないよう伝えていた。ハインツはタマラの報告を聞き、眼鏡を何度も押し上げながら考え込んだ。
「装置では検出されなかった、と」
「されなかった。だが、私の舌には引っかかった。金属臭と痺れ。地脈汚染の兆候だ」
「グレイさん、失礼ですが——それは確かなのですか。装置の感度は非常に高く、既知の有害物質であれば微量でも検出できるはずです」
「既知のものなら、だろう。だが、地脈の変質による汚染は既知のパターンに収まらない。変質のしかたは場所ごと、時期ごとに異なる。装置のデータベースに登録されていない種類の汚染物質であれば、検出のしようがない」
ハインツの表情が硬くなった。タマラの指摘は、論理的に正しかった。装置は「既知の有害物質」を検出するものであり、「未知の有害物質」には対応できない。それは装置の設計上の限界であり、開発者であるヴェルナー精霊工房も認めている事実だった。
「仮に——仮にですが、グレイさんの感覚が正しいとして、どの程度の危険があるのですか」
「わからない。私は毒物の専門家じゃない。ただ、三十年間魔獣肉を味見してきた経験から言えば、あの痺れは正常じゃない。食べて即座に害があるかどうかはわからないが、長期的に摂取し続ければ体に蓄積する可能性はある」
「しかし、確証がないのであれば——」
「確証がないから危険なんだ」
タマラの声が、初めて感情を帯びた。
「確証があるなら、対処は簡単だ。回収して廃棄すればいい。だが、確証がない段階で『問題なし』として市場に流してしまったら、取り返しがつかなくなる。二百頭分の肉が王都中の食卓に上がるんだぞ。三十万人が食べる可能性があるんだ」
ハインツは黙った。
タマラは続けた。
「二十頭分を隔離している。残りの百八十頭分は問題ないと私は判断した。だが、二十頭分については、専門機関に検査を依頼するべきだ。結果が出るまで流通させるべきじゃない」
「検査には時間がかかります。その間、二十頭分の肉は売れません。損失が——」
「損失と人命を天秤にかけるのか」
ハインツは口をつぐんだ。
沈黙が流れた。市場の喧騒が、二人の間の静寂を際立たせていた。
やがて、ハインツが口を開いた。
「わかりました。二十頭分の隔離を維持し、王都薬学院に検査を依頼します。結果が出るまで、該当の肉は流通させません」
「それでいい」
「ただし——結果が問題なしだった場合、グレイさんの判断が過剰反応だったということになります。その場合、市場への信頼に関わる問題になりかねません」
「構わない。私は舌で感じたことを伝えただけだ。それが過剰反応だったなら、喜んでそう認める。だが、正しかった場合に備えないほうが、よほど問題だ」
ハインツは深く頷いた。その目の奥に、何か——敬意に近いものが、一瞬だけ光ったように、タマラには見えた。
* * *
その日の午後、王都薬学院から検査官が派遣された。
二人の検査官が防護服を着て仕入れ場に入り、隔離された二十頭分の肉からサンプルを採取した。詳細な検査には三日かかると言われた。タマラは頷いた。三日間、この二十頭分の肉は宙に浮く。入荷元のルドガー猟団にも連絡が入り、銀月の森での狩猟は一時中止となった。
市場には噂が広まった。
「グレイの大将が、入荷の肉に異常を見つけたらしい」
「装置じゃ検出できなかったのに、舌でわかったんだと」
「さすが舌の魔女だな」
「いやいや、装置で問題なしと出てるのに、大袈裟じゃないか」
「もし何もなかったら、狩猟団に損害賠償もんだぞ」
意見は割れた。タマラを支持する者と、過剰反応だと批判する者。市場の空気が、微妙に揺れていた。
午後、タマラは店に戻り、通常の業務を続けた。だが、心の中は穏やかではなかった。
検査結果が出るまでの三日間、タマラは自分の判断の正しさを証明する術を持たない。舌が感じた違和感は確かなものだったが、それを数値で示すことはできない。「舌の魔女が異常を感じた」——それは、市場においてはある種の権威を持つ言葉だったが、科学的な根拠としては何の力もなかった。
クルトが心配そうに顔を出した。
「タマラ、大丈夫か。ルドガー猟団の連中が怒っているぞ。狩猟停止命令が出て、収入が止まったと」
「怒るのは自由だ。だが、安全を確認せずに肉を流通させるわけにはいかない」
「俺はお前の味方だ。だが、もし検査で何も出なかったら——」
「出なかったら、謝る。土下座でも何でもする。だが、出た場合に動かなかったほうが、取り返しがつかない」
クルトは黙って頷いた。三十年の付き合いだ。タマラが適当なことを言う人間でないことは、クルトが一番よく知っている。
その日の午後遅く、ルドガー猟団の団長であるヴォルフが市場を訪ねてきた。五十代の筋骨隆々の男で、顔に深い傷跡がある。銀月の森で三十年以上魔獣を狩り続けてきた歴戦の猟師だった。
「グレイ。話がある」
ヴォルフの声は低く、抑制されていたが、怒りが滲んでいた。タマラは店の奥のテーブルに彼を通した。
「聞こう」
「うちの猟団が仕留めた獣の肉に問題があると、お前が言ったそうだな」
「正確には、一部の肉に違和感を感じた。全体の約一割だ。残りの九割には問題がないと判断した」
「違和感、だと。装置では問題なしと出ているのに」
「装置が検出できないものもある。地脈の変質による影響は、既知のデータベースにないものだ」
ヴォルフは太い指でテーブルを叩いた。
「俺たちは三十年、銀月の森で狩りをしてきた。あの森の獣は健康だ。俺が保証する」
「あなたの目は獣の状態を見ている。私の舌は肉の状態を見ている。見ているものが違う」
「だから何だ。お前の舌一つで、俺たちの生業が止められたんだ」
「止めたのは管理局だ。私は報告しただけだ」
ヴォルフの目が細くなった。だが、それ以上の言葉は出なかった。しばらく沈黙が流れた後、ヴォルフはゆっくりと立ち上がった。
「検査結果が出たら、教えてもらう。もし何もなかったら——覚悟しておけ」
「何も出なかったら、あなたに直接謝罪する。約束する」
ヴォルフは何も言わずに店を出て行った。タマラはテーブルの上で組んだ自分の手を見つめた。指先が、かすかに震えていた。
自分の判断が正しいという確信はある。だが、確信と証明は違う。証明がなければ、確信はただの思い込みだ。三日間。結果が出るまでの三日間が、途方もなく長く感じられた。
その夜、タマラは自宅で遅い夕食を取っていた。
玄関の扉が開く音がして、ミラが帰ってきた。
「ただいま」
「遅い」
「友達とご飯食べてきた」
ミラはキッチンに入ってきて、テーブルの上の食べかけの皿を見た。
「母さん、また一人で食べてるの」
「他に誰がいるんだ」
ミラは椅子に座り、頬杖をついた。何か言いたそうな顔をしていた。
「……今日、学院で噂になってた。母さんのこと」
「噂?」
「市場の肉に問題を見つけたって。装置じゃわからなかったけど、母さんの舌で見つけたって。星読み通信の速報に載ってたよ」
「もう載ったのか。早いな」
「母さん、大丈夫なの。もし何もなかったら——」
「何もなければ、それでいい。だが、何かあった場合を考えろ」
ミラは黙った。しばらくして、小さな声で言った。
「母さんの舌って、本当にそんなにすごいの」
「すごくはない。三十年やっただけだ」
「三十年、毎日五十種類——」
「五十以上だ。多い日は七十を超える」
ミラの目が少し大きくなった。
「……馬鹿みたい」
「何だと?」
「いい意味で。馬鹿みたいにすごい、って意味」
タマラは娘の顔を見た。ミラの表情には、いつもの反抗的な色がなかった。代わりに、何か別のもの——戸惑いに近い感情が浮かんでいた。
「ねえ、母さん。その——舌で味を見るの、私にもできるかな」
タマラは驚いた。だが、表情には出さなかった。
「試してみるか」
「え、今?」
「今でなくてもいい。明日の朝、市場に来い。三時半に裏門の前で待ってろ」
「三時半!? 無理——」
「お前が聞いたんだ。やるか、やらないか」
ミラは唇を噛んだ。数秒の沈黙の後、小さく頷いた。
「……やる。一回だけ」
「一回で十分だ」

翌朝の午前三時半、ミラは裏門の前に立っていた。
タマラが到着したとき、娘は厚手のコートに身を包み、寒さに震えながら門柱にもたれかかっていた。目の下に隈があり、髪はいつもより乱れている。明らかに寝不足だった。
「来たか」
「……来たわよ。死にそうだけど」
「死なない。行くぞ」
守衛のバルトが裏門を開けてくれた。ミラを見て、目を丸くした。
「おや、お嬢さん。珍しいな。何年ぶりだ」
「十二年ぶりかしら。お父さんに連れてきてもらったとき以来」
「そうか。レオンさんと来た時の——あのとき、お嬢さんはまだちっちゃかったな」
ミラは小さく微笑んだ。タマラは黙って先を歩いた。
市場の中に入ると、ミラの足が一瞬止まった。
「……すごい」
早朝の市場は、昼間とはまるで別の顔をしていた。魔導灯の青白い光に照らされた広大な空間。天井の高いアーチの下に並ぶ仲卸店の列。まだ人のいない中央通路は、石の床が磨き上げられて鏡のように光を反射していた。
「夜の市場って、こんな感じなんだ」
「夜じゃない。朝だ」
「まだ暗いわよ」
「暗いときが一番よく見える。余計なものが目に入らないからな」
タマラはグレイ商会の店に入り、いつもの準備を始めた。小皿を並べ、箸を用意し、水差しを置く。ミラは壁際に立って、母の手つきを見ていた。
「手を洗え。石鹸は使うな。水だけで三回洗って、この布で拭け」
ミラは言われた通りにした。タマラの動作を真似て、手を洗い、布で拭いた。
「仕入れ場に行く。ついてこい」
冷蔵区画に入った瞬間、ミラが身をすくめた。
「寒っ!」
「当たり前だ。冷蔵庫の中なんだから」
「こんなところに毎朝——」
「三十年、毎朝だ」
ミラは何も言えなくなったようだった。吐く息が白く凍り、コートの襟を立てて体を縮めている。
タマラは最初の肉——森鶏の胸肉——を取り出し、薄い一切れを切った。小皿に載せて、ミラの前に差し出した。
「食べてみろ」
「生で?」
「生で。噛まずに、まず舌の上に載せろ」
ミラは恐る恐る肉片を口に入れた。顔をしかめるかと思ったが、意外にも平静だった。
「舌の上に載せたら、何を感じる」
「……冷たい。あと、ちょっと——なめらかな感じ?」
「それが表面の質感だ。新鮮な肉はなめらかで、古くなるとざらつく。覚えておけ」
「うん」
「次に、ゆっくり噛んでみろ。一回だけ」
ミラが噛んだ。目が少し大きくなった。
「……弾力がある。ぷりっとしてる」
「そうだ。それが繊維の状態を示している。弾力があるのは新鮮な証拠だ。古くなると、ぐにゃっとする。噛んだときの感触で、鮮度がわかる」
「へえ……」
「もう一回噛め。今度は味に集中しろ。甘いか、苦いか、酸っぱいか」
ミラがもう一度噛んだ。目を閉じて、口の中に意識を集中させているようだった。
「甘い——かな。ほんのり」
「よし。森鶏の胸肉は、新鮮なら甘味がある。この甘味が消えていたら、鮮度が落ちている。——吐き出せ。飲み込むな」
ミラは肉片を吐き出し用の容器に出した。少し顔を赤くしていた。
「お茶を飲むみたいに味見するんだね」
「茶のほうが簡単だ。肉は情報量が多い。一口の中に、産地、飼育法、狩猟方法、鮮度、保存状態——全部入っている。それを読み取るのが目利きの仕事だ」
タマラは次の品——雷兎の背肉——を切り出した。
「次はこれだ。さっきの森鶏と比べてみろ」
ミラは雷兎の肉片を口に入れた。今度は、先ほどより真剣な表情だった。
「あ——舌がぴりぴりする」
「雷兎は電気を帯びている。新鮮なほどピリピリ感が強い。このピリピリがなくなったら、鮮度が落ちている証拠だ」
「全然違う。森鶏とは別の——なんだろう、味の種類が違う感じ」
「そうだ。魔獣の種類によって味のプロファイルが違う。それを覚えることが第一歩だ。五十種類のプロファイルを頭に入れるのに、私は三年かかった」
「三年——」
「父はもっと早かった。一年で覚えたと聞いている。才能の差だ。だが、才能がなくても時間をかければ覚えられる」
タマラは次々と肉を切り出し、ミラに試食させた。霧牛のロース、銀角鹿のヒレ、火吹き猪のバラ。ミラは一品ごとに少しずつ表情が変わっていった。最初の戸惑いが、興味に変わり、やがて集中に変わった。
十品目を試食した頃、ミラが言った。
「母さん、これ——さっきの火吹き猪と違う」
タマラの手が止まった。ミラが食べていたのは、別の火吹き猪のバラ肉だった。先ほどとは別の個体のもので、産地が異なる。
「何が違う」
「脂の味。さっきのは甘くてとろっとしてたけど、こっちは——ちょっとくどい。しつこい感じ」
タマラは目を細めた。その通りだった。二頭目の火吹き猪は、飼育場での運動量が不足しているため、脂が重たくなっている。食べて不味いわけではないが、上等とは言えない。
「正解だ」
ミラが驚いた顔をした。
「え、当たったの?」
「当たった。脂の質の違いを、十品目で感じ取れたのは——悪くない」
タマラの声に、微かな温もりがあった。ミラは母の言葉に照れたように目を逸らし、それからぼそりと言った。
「……もう少し、やってもいい?」
「好きなだけやれ。あと四十品残ってる」
ミラは苦笑した。だが、その顔には——朝の寒さの中にもかかわらず——かすかな光が差していた。
* * *
二十品目を過ぎた頃、ミラの舌は限界に近づいていた。
「母さん、もう何を食べても同じ味がする……」
「舌が疲れたんだ。水で口をすすげ。冷たい水を舌の上で十秒転がせ。それから深呼吸を三回」
ミラは言われた通りにした。水を含み、舌の上で転がし、吐き出す。深呼吸を三回。
「……あ、ちょっと戻った」
「それが回復の技術だ。じいちゃんが私に教えてくれた。舌は筋肉と同じで、使えば疲れる。だが、正しく休ませれば回復する。プロの目利きは、疲れ方と回復のタイミングを自分の体で知っている」
ミラは母の顔を見つめた。
「じいちゃんも、こうやって教えてくれたの?」
「ああ。私が十歳のとき、同じことをしてくれた。最初の試食で、霧牛の上等品を当てたんだ。それで父が——じいちゃんが、『この子には舌がある』って」
「舌がある——」
「お前にもあるよ。さっき、火吹き猪の脂の違いを見抜いただろう。十品目で気づくのは、才能だ」
ミラの目が潤んだ。それは寒さのせいかもしれなかったし、そうでないのかもしれなかった。
「でも——三十年、毎日これを続けるなんて、私には——」
「三十年のことは、三十年後に考えればいい。今は、一日のことだけ考えろ」
タマラは次の肉を切り出した。だが、その手が——わずかに震えていた。
娘と並んで試食をする朝が来るとは、思っていなかった。レオンが死んで以来、タマラはずっと一人で市場に立ってきた。一人で試食をし、一人で帳面に記録し、一人で客に肉を卸してきた。それが当たり前だった。当たり前のことを、寂しいと感じる余裕さえなかった。
だが今、隣にミラがいる。
まだ不器用で、味の表現も拙く、二十品で舌が疲れてしまう。だが——ミラの舌は確かに何かを捉えていた。肉の味の違いを、感覚として理解し始めていた。
それは、タマラにとって——三十年の仕事の中で、最も嬉しい瞬間の一つだった。

三日後の朝、王都薬学院から検査結果が届いた。
タマラは店の奥の小部屋で、検査官から報告を受けた。ハインツも同席していた。
「結論から申し上げます」
検査官——中年の女性で、名前はグレーテと言った——は、分厚い報告書を開いた。
「隔離された二十頭分の魔獣肉から、未知の地脈由来化合物が検出されました」
タマラは息を呑んだ。
「化合物の正体は、地脈エネルギーの変質によって生成された有機金属錯体です。銀月の森の地脈が局所的に変質し、その影響を受けた植物を魔獣が摂食したことで、体内に蓄積されたものと考えられます」
「毒性は」
「急性毒性は低く、少量の摂取で即座に健康被害が出る可能性は低いです。しかし、慢性毒性については未確認です。長期間にわたって継続的に摂取した場合、肝臓や腎臓に負担がかかる可能性があります。特に、子供や高齢者、体の弱い方は注意が必要です」
ハインツの顔から血の気が引いていた。
「つまり——グレイさんの判断は正しかったということですか」
「正確に言えば、グレイさんの舌がこの化合物の存在を感知したかどうかは科学的には証明できません。しかし、グレイさんが異常を感じた肉と、化合物が検出された肉は完全に一致しています。偶然とは考えにくいでしょう」
グレーテは報告書の一ページをめくった。
「なお、自動鑑定装置がこの化合物を検出できなかった理由についても分析しました。装置のデータベースには、この種の地脈由来有機金属錯体が登録されていません。つまり、装置はこの化合物の存在を『知らない』のです。検出対象として認識されていないため、測定結果に反映されませんでした」
「装置のアップデートで対応できますか」
「この化合物については、データベースに追加すれば検出可能になるでしょう。しかし、地脈の変質パターンは場所ごと、時期ごとに異なります。今回検出された化合物と同じものが今後も現れるとは限りません。新たな変質が生じれば、新たな未知の化合物が生成される可能性があります。その度にデータベースを更新する必要があり、常に後追いになります」
タマラは黙っていた。
グレーテは最後にこう付け加えた。
「人間の味覚は、化学分析装置に比べて精度は劣ります。しかし、『何かがおかしい』という直感的な検知能力においては、現時点で機械を上回っています。未知の物質に対する警戒信号を発する能力——それは、長年の経験によって培われた、生物としてのセンサーの賜物です」
ハインツは深い溜息をついた。
「グレイさん——ありがとうございました。あなたの判断がなければ、この肉が王都中の食卓に上がっていたかもしれない」
タマラは首を振った。
「礼には及ばない。私は自分の仕事をしただけだ」
* * *
検査結果は即座に市場全体に共有された。
隔離された二十頭分の肉は廃棄処分となり、ルドガー猟団には銀月の森の北部区域での狩猟禁止令が出された。市場管理局は緊急声明を発表し、自動鑑定装置の限界を認めるとともに、「人間の目利きと装置の併用による多層的な品質管理体制の構築」を新たな方針として打ち出した。
星読み通信の一面には、大きな見出しが躍った。
「『舌の魔女』の警告が的中——自動鑑定装置が見逃した汚染肉、人間の舌が検知」
市場の仲卸人たちの反応も変わった。
「やっぱりグレイの大将は違うな」
「装置じゃわからねえことがあるんだよ。俺たちも舌を怠けさせちゃいけねえ」
「おい、明日から試食を再開するぞ。装置だけに頼ってたら恥ずかしいだろう」
タマラに対する視線が、一変していた。哀れみの混じった敬意ではなく、純粋な畏敬の念が——「舌の魔女」の異名に、新たな重みを加えていた。
だが、タマラ自身は冷静だった。
今回は、たまたま自分の舌が異常を検知した。だが、次回もそうとは限らない。タマラの舌にも限界がある。加齢で味覚は衰える。体調が悪ければ精度が落ちる。風邪を引けば味がわからなくなる。舌という生物のセンサーは、優秀だが脆い。
装置と舌。どちらか一方では不十分で、両方が必要だ。
タマラはそう理解していた。だが、その理解を言葉にする前に——目の前に、一人の少女が立った。
「母さん」
ミラだった。学院の制服のまま、息を切らせて市場に駆け込んできた。
「星読み通信で見た。母さんの舌が——汚染肉を見つけたって」
「ああ」
「すごいじゃない! 装置が見逃したのを、母さんだけが気づいたんでしょ!」
「大袈裟だ。仕事をしただけだ」
「仕事をしただけ、って——」
ミラの目に涙が光っていた。タマラは驚いた。娘が泣くのを見るのは、久しぶりだった。
「ミラ——」
「あの日、一緒に試食したでしょ。火吹き猪の脂の違いを当てたとき、母さんが『悪くない』って言ってくれたでしょ。あのとき——ちょっとだけ、わかった気がしたの。母さんがなんでこの仕事を続けてるのか」
タマラは黙っていた。
「味を見るって、ただ美味しいか不味いかを判断することじゃないんだよね。その肉が——安全かどうか、誰の口に入るべきか、どう調理されるべきか——全部、味の中に入ってるんだよね。それを読み取るのが、母さんの仕事なんだよね」
「……ああ」
「私ね、進路面談で先生に聞かれたの。『将来何がしたい?』って。答えられなかった。何もしたいことがないと思ってた。でも——」
ミラは涙を拭った。
「でも今日、思ったの。母さんみたいに、誰かの食べるものを守る仕事って、すごく大事なんだって。地味で、早起きで、生肉を口に入れなきゃいけなくて、全然カッコよくないけど——でも、すごく大事な仕事なんだって」
タマラの胸の奥で、何かが——長い間凍りついていた何かが、溶けるように温かくなった。
「カッコよくないは余計だ」
ミラが泣き笑いの顔をした。
「ねえ、母さん。私——もうちょっと、市場に来てもいい? 試食の仕方、もっと教えてくれない?」
タマラは娘の顔を見つめた。レオンに似た目。レオンに似た鼻筋。だが、その瞳の奥に宿る光は——タマラ自身のものだった。三十年前、十歳のタマラが初めて霧牛の上等品を当てたとき、父のアルベルトが見た光と、同じものだった。
「明日も三時半だ。遅れるな」
「三時半——やっぱり死ぬ……」
「死なない。じいちゃんも、私も、死ななかった」
ミラは笑った。涙の跡が残った頬で、笑った。
タマラは微かに——本当に微かに——口角を上げた。
舌で伝えられることがある。味で受け継がれるものがある。父から娘へ、そして娘からその娘へ。三十年の蓄積は、数値にはならない。帳面に書き切れない。だが、舌の記憶として、確かに受け継がれていく。
王都中央市場の朝は、今日も喧騒の中で始まっていた。威勢のいいかけ声と、肉を切る包丁の音と、氷を砕く音と、値踏みの掛け合い。三十万人の食卓を支える市場の朝は、決して止まらない。
その中心に、タマラは立っている。
明日からは——二人で。
編集部のデスクに、若い記者のカイルが原稿を置いた。
「デスク、タマラ・グレイの後日取材、まとまりました」
編集長のゲルトが原稿に目を通した。白髪交じりの眉が、読み進めるにつれて上がっていく。
「ほう——娘が市場に通い始めたのか」
「はい。毎朝三時半に裏門の前に立っているそうです。まだ十品が限界で、二十品を超えると舌が死ぬって嘆いてました」
「十品か。母親は五十を超えるんだろう」
「五十三品が平均だそうです。多い日は七十超え。しかも三十年間、一日も休んでいない」
ゲルトは原稿を置き、椅子の背にもたれかかった。
「人間の舌ってのは、大したもんだな。精霊炉が三年かけて開発した装置が見逃したものを、四十五年の舌が一口で見抜いた。機械は賢いが、賢くないものも見えない。人間は愚かだが、愚かなりに何かを感じ取る」
「深いですね、デスク」
「深くなんかない。当たり前のことだ。——見出しは決まったか」
「はい。『舌の魔女、弟子を取る——王都市場に新しい朝が来た』でどうでしょう」
「悪くない。だが、もう少し短くしろ。読者は見出しで記事を選ぶ。三秒で惹きつけろ」
カイルは首を傾げ、少し考えてから言った。
「じゃあ——『舌は、継がれる』」
ゲルトは目を細め、ゆっくりと頷いた。
「それでいい」
**カット1(0:00〜0:05)** 暗闘の中、石畳を踏む革靴のアップ。足音だけが響く。カメラが上にパンし、革エプロン姿のタマラの横顔。夜明け前の王都の街並みが背景に広がる。 ナレーション:「午前三時。王都中央市場の朝は、彼女から始まる」
**カット2(0:05〜0:10)** 冷蔵区画で吊るされた魔獣の枝肉がずらりと並ぶ。タマラが薄い肉片を箸で持ち上げ、口に運ぶ。目を閉じる。舌の上で何かを感じ取る表情のアップ。背景に品質の文字が次々と浮かび上がる。 ナレーション:「五十種の味を舌に刻む。三十年、一日も休まず」
**カット3(0:10〜0:16)** 精霊炉式自動鑑定装置が青白く光り、数値を表示する。それを見つめる仲卸人たち。タマラだけが腕を組んで壁にもたれている。 ナレーション:「機械は数値を出す。だが——」
**カット4(0:16〜0:22)** タマラが肉片を口に含み、表情が変わる瞬間。目が鋭くなり、背景が赤く染まる。「危険」の二文字が画面を覆う。装置の文字盤が「異常なし」を示す中、タマラだけが異変に気づいている。 ナレーション:「——味は、数値にならない」
**カット5(0:22〜0:26)** 早朝の裏門。コートに身を包んだミラが寒さに震えている。タマラが歩いてくる。二人が並んで門をくぐる後ろ姿。 ナレーション:「舌は、鍛えられる。舌は——」
**カット6(0:26〜0:30)** 市場の中で、タマラがミラに肉片を差し出す。ミラが口に入れ、目を閉じる。やがて目を開いて——笑顔。タイトルロゴが浮かび上がる。 ナレーション:「——継がれる」 テロップ:「星読みニュースと十の仕事 第三話『王都市場の目利き』」