村が見えたのは、丘を越えた直後だった。
街道沿いの小さな集落。畑と牧草地に囲まれた、よくある農村のはずだった。だが、何かがおかしい。
煙突から煙が出ていない。昼間なのに、人の姿がない。
「ねえ、シエル」
隣を歩くリーゼが足を止めた。蜂蜜色の髪が風に揺れる。
「あの村、静かすぎない?」
「ああ」
僕も同じことを考えていた。 街道からは炊事の煙が見えるのが普通だ。洗濯物を干す女性や、走り回る子供たちがいるのが当たり前の光景。それが一切ない。
「疫病かもしれない。近づかないほうがいい」
「でも、もし困ってる人がいたら」
リーゼが僕の袖を掴んだ。翡翠の瞳が真っ直ぐにこちらを見上げる。
「シエルは薬師でしょ?」
その目で見るな、と思った。 そんな澄んだ目で見られると、断れなくなる。
「……わかった。ただし、僕の後ろから離れるな」
「了解!」
彼女は笑った。嬉しそうに、無邪気に。 この笑顔が全部本物なのかどうか、僕にはまだわからない。
村の入り口に辿り着くと、異変はすぐにわかった。
石積みの門の柱に、荒い文字で書かれた立て札がある。
『病ノ村。入ルナ。入レバ出ラレズ』
「……出られず、か」
僕は薬師の外套のフードを深く被り直した。右目の眼帯がずれていないか確認する。癖みたいなものだ。
「随分と物騒だね」
リーゼの声に普段の軽さはなかった。
門を潜ると、異臭が鼻を突いた。腐臭ではない。もっと鋭い、金属質の匂い。錆びた鉄を舐めたような苦味が空気に混じっている。
「この匂い……」
僕は知っている。 紋章術の副産物だ。大量の魔素が強制的に変質させられた時に発生する、独特の残滓。これは通常の疫病じゃない。
だが、それを口にはしなかった。
「シエル? どうしたの」
「いや。まず村の状況を確認しよう」
最初に見つけたのは、井戸の傍で倒れている老人だった。
リーゼが駆け寄る前に僕が手を伸ばした。老人の首筋に触れる。脈はある。だが肌が異常に冷たく、額にはうっすらと黒い紋様が浮いている。
呪紋だ。
間違いない。これは紋章術で構成された呪詛――人工的な呪いだ。
「生きてるわ。でも、この模様……」
リーゼが老人の額を覗き込んだ。
「病気の痕?」
「わからない。とにかく、他の住人も確認する」
村の集会所が臨時の療養所になっていた。
扉を開けると、藁の敷かれた床に二十人ほどの村人が横たわっている。老若男女。みな額に黒い紋様を浮かべ、意識がない。
「薬師さんか!」
奥から声がした。四十代くらいの男が、血走った目でこちらに駆け寄ってくる。
「旅の薬師のシエルだ。事情を聞かせてくれ」
「あたしはリーゼ。手伝えることがあれば何でも言ってね」
男はゴルドと名乗った。村長の息子らしい。
「一週間前からだ」
ゴルドは憔悴しきった声で語った。
「最初は子供が一人、高熱を出した。次の日にはもう三人。三日後には村の半分が倒れた。額にこの黒い模様が出て、目が覚めない」
「医者は?」
「街から呼んだ。だが首を振るだけだった。見たことのない病だと」
当然だ。これは病気じゃない。
「他の村にも同じ症状は?」
「聞いてない。うちの村だけだ」
一つの村だけに限定された呪詛。それは自然発生ではありえない。誰かが意図的に仕掛けたということだ。
「村に最近、見慣れない人物が来なかったか」
「……一週間半ほど前に、教会の巡回司祭が来た。井戸の水を祝福してくれるって言って」
僕の手が止まった。
教会。
「その司祭は今どこに?」
「翌日にはもう発った。いつもの巡回だと」
井戸の水を祝福する。その行為に紋章術を仕込むのは、技術的には可能だ。水源に呪詛を溶かし込めば、村全体に効率よく呪いを撒ける。
だが、なぜこんな辺鄙な村を?
「ゴルドさん、患者を診させてくれ」
「頼む。もう何人か、危ないんだ」
僕は薬師の鞄から道具を取り出した。聴診器、温度計、調合済みの基本薬。
一人ずつ確認していく。脈拍、体温、瞳孔反射。全員に共通しているのは、額の黒い紋様と、異常な低体温。生命力が呪詛によって吸い取られている。
「シエル、こっちの人、水を飲ませたほうがいい?」
「ああ、頼む。少しずつ口に含ませるだけでいい」
リーゼは文句一つ言わずに動いた。患者の頭を支え、匙で水を唇に運ぶ。その手つきは意外に慣れている。
「看病、慣れてるんだな」
「まあね。昔、ちょっとだけ」
彼女はそれ以上言わなかった。笑顔のまま視線を逸らした。
昔。彼女の「昔」を僕は知らない。
知らなくていい、と思う。僕だって自分の「昔」を隠しているんだから。
夕方になっても状況は変わらなかった。
僕の持っている薬では対処できない。解熱剤も鎮痛剤も、呪詛には効かない。紋章術で構成された呪いは、紋章術で解くしかない。
集会所の隅で薬を調合しながら、僕は頭を抱えていた。
〔七日目。呪いの村に立ち寄った。住民約四十名中、二十四名が紋章呪詛に罹患。教会の巡回司祭による井戸の汚染が疑われる。僕の薬では対処不可能〕
手帳に書き終えて、ペンを置いた。
「シエル」
リーゼが近づいてきた。手に温かいスープの椀を持っている。
「少し休んだら? ずっと働きっぱなしだよ」
「いい。まだやることが」
「ご飯食べなきゃ、やることもできないよ」
椀を押しつけられた。断る隙を与えない。
仕方なく受け取る。干し肉と根菜のスープだ。ゴルドが出してくれた食材を彼女が調理したらしい。
「……うまい」
「でしょ? あたしの特製スープ、だんだん腕が上がってきたと思わない?」
「塩が多い」
「ひどっ」
リーゼが頬を膨らませた。だが、すぐに表情を切り替えて僕の隣に座った。
「ねえ。この病気、普通のじゃないんでしょ」
見透かされている。
「……なぜそう思う」
「シエルの顔。薬を調合してる時、ずっと眉間にしわ寄せてた。普通の病なら、あなたはもっと淡々とやるでしょ。困ってるってことは、薬じゃ治らないんだ」
観察力が鋭い。吟遊詩人というのは人を見る仕事だと彼女は言っていた。嘘じゃないらしい。
「呪いだ」
僕は短く答えた。
「紋章術で構成された呪詛。自然発生じゃない。誰かが意図的に仕掛けた」
「……それって」
「薬じゃ治せない。紋章術で呪詛の構造を解析して、解呪するしかない」
「シエルに、できるの?」
その問いに僕は答えなかった。
できる。呪眼を使えば。
だが、使えば記憶が消える。どれだけの記憶が消えるかは、使う力の大きさによる。村全体の呪いを解くとなれば――考えたくもない。
「……考えさせてくれ」
リーゼはそれ以上聞かなかった。ただ、隣に座ったまま黙っていた。
彼女がそばにいると、右目の奥の疼きが和らぐ。それだけは確かだった。
深夜、集会所に悲鳴が響いた。
「ミラ! ミラ!」
母親の絶叫だった。
飛び起きて駆けつけると、十歳くらいの少女が痙攣を起こしている。額の黒い紋様が脈打つように明滅し、泡を吹いている。
「シエル!」
リーゼが僕の横に駆け寄った。
少女の名前はミラ。最初に倒れた子供の一人だと聞いていた。一番長く呪詛に晒されている。
僕は素早く脈を取った。弱い。呼吸も浅い。体温が下がり続けている。
「助けて、薬師さま! この子、この子だけは!」
母親が僕の外套にすがりついた。
周囲の村人たちも目を覚まし、不安な視線がこちらに集中する。
薬では間に合わない。 呪詛の進行が加速している。このままでは、あと数時間。
「……」
僕の右手が、無意識に眼帯に触れていた。
使うのか。ここで。
代償が怖い。何を失うかわからない。師匠の顔か。師匠の声か。それとも、もっと大切な何かか。
でも。
この子が死ぬのを見ていられるか?
「シエル」
リーゼの声が、耳元で聞こえた。
「あたしに何かできることある?」
僕は彼女を見た。翡翠の瞳に、迷いはなかった。
使おう。最小限だけ。
「……全員を下がらせてくれ。この子と僕だけにしてほしい」
「え? でも」
「頼む」
リーゼは一瞬だけ僕の目を見つめた。何かを察したのかもしれない。
「わかった。みんな、少し外に出よう。薬師さんの邪魔になるから」
手際よく村人たちを外に誘導していく。母親だけが離れたがらなかったが、リーゼが肩を抱いて「大丈夫、シエルは凄腕だから」と囁いた。
嘘だ。凄腕なんかじゃない。代償なしには何もできない、壊れかけの男だ。
集会所に残ったのは、僕と少女だけになった。
ミラの痙攣が強くなる。時間がない。
「……ごめん」
誰にでもなく呟いて、眼帯に手をかけた。
眼帯を外すと、世界が変わった。
右目が開く。 呪眼――終末の瞳が起動する。
最初に見えたのは、色だった。
通常の視界では見えないはずの魔素の流れが、蛍光色の糸のように空間を満たしている。空気中を漂う無数の光の粒子。壁の木材に染み込んだ微弱な魔力。床の石に刻まれた大地の記憶。
世界が見えすぎる。
ミラの体に視線を向けた瞬間、息が詰まった。
少女の全身を、黒い紋章が覆っている。通常の目では額にうっすら見える程度の紋様が、呪眼で見れば全身を蔦のように絡めとっている。心臓を中心に、幾何学的な紋章が何重にも展開されている。六角形の基盤構造に、無数の補助紋が枝分かれしている。
美しい、と思ってしまった。
それが呪いであるにもかかわらず、紋章の構成は精緻で洗練されている。これを組んだ術者は相当な腕前だ。教会の――少なくとも四等以上の紋章士の仕事。
見る。もっと深く。
紋章の中核を探す。呪詛には必ず核がある。全体の構造を維持し、外部の魔素を吸収して増殖する中枢。それを壊せば、呪いは崩壊する。
右目の奥が熱い。脈打つように痛む。
見えた。
心臓の直上、第四層の紋章群の中心に核がある。正八面体の結晶構造。そこから放射状に伸びる黒い線が、少女の生命力を吸い上げている。
だが、罠がある。核に直接干渉すると、防御紋章が起動して呪詛が暴走する設計になっている。丁寧に、外側の補助紋から順に解除しなければならない。
全部で十七層。
僕は片膝をつき、ミラの額に右手を当てた。
呪眼を通じて紋章に干渉する。最外殻の紋章の継ぎ目を見つけ、そこに極小の魔力を流し込む。紋章の接合部を内側から押し広げ、結合を解く。
一層目、解除。
黒い紋様の外縁が、わずかに薄くなった。
二層目。三層目。
右目が燃えるように熱い。視界の端がちらつく。
四層目で手が止まった。
構造が変わっている。外側と内側で術式の系統が違う。まるで二人の術者が別々に呪いを重ねたような――いや、これは。
教会式の標準呪詛術式だ。
僕は知っている。かつて使徒だった頃、教本で見た。教会が異端者に施す制裁用の呪詛。それを改造して、もっと広範囲に、もっと緩やかに、しかし確実に殺すように変えてある。
吐き気がした。
こんなものを、子供に。
「……くそ」
五層目、六層目、七層目。 手が震える。集中が乱れそうになる。
見える。見えすぎる。ミラの体の中を流れる血液の一滴まで、骨の髄に刻まれた生命の紋章まで、全てが見える。人間の体はそれ自体が一つの巨大な紋章だ。生命と死の境界線が、呪眼には怖いほど鮮明に映る。
八層目。

――ここで、何かが消えた。
右目の奥で、ぱちん、と小さな音がした。まるでガラスの珠が割れるような。
何かを思い出そうとした。大切な何か。
今朝の、朝食の――何を食べた? リーゼが何かを作ってくれた。何だった?
思い出せない。
構うな。今はこの子を助けることだけ考えろ。
九層目、十層目。
紋章の核が近づく。防御紋章が反応し始めている。慎重に、一つずつ。
十一層目。十二層目。十三層目。
視界が白く明滅した。右目の縁から、温かいものが伝っている。涙か、血か。
十四層目。十五層目。十六層目。
あと一つ。
核を覆う最後の外殻。これを外せば、核がむき出しになる。核自体は――砕ける。僕の呪眼なら、構造を「見て」、その結合を解くだけでいい。
最後の紋章を解除した。
核が露出する。正八面体の黒い結晶。禍々しい光を放って脈動している。
砕け。
僕は右手に全ての意識を集中させた。呪眼が核の構造を読み取り、分子レベルの結合を一つずつ切断していく。
ぱきん。
核が砕けた。
黒い紋章が、ミラの全身から塵のように散っていく。
少女の呼吸が深くなった。頬にわずかに赤みが戻る。
助かった。
僕は眼帯を押し当てるようにして右目を覆い、床に手をついた。
世界が元に戻る。魔素の糸も、紋章の残光も消える。ただの暗い集会所。ただの木の壁と石の床。
頭が痛い。吐き気がする。
でも、この程度で済んだはずだ。最小限しか使っていない。一人分の解呪だけだ。失ったのは、きっと些細な記憶だけ。
――些細な記憶。
今朝の朝食が思い出せないのは、些細と言えるだろうか。
扉を開けると、リーゼが飛び込んできた。
「シエル! 大丈夫!?」
「ああ。ミラは――あの子は安定した。あとは体力が戻れば」
「本当?」
リーゼが集会所の中を覗き、穏やかに眠るミラを見て息を吐いた。
「よかった……」
母親が泣きながら少女に駆け寄った。ミラの手を握り、額を撫で、名前を繰り返し呼んでいる。
「他の患者も、時間はかかるが同じ方法で治療できる」
嘘だ。一人ずつ呪眼で解呪していたら、僕の記憶がいくつ消えるかわからない。だが、他に方法がない。
「シエル」
リーゼが僕の顔を覗き込んだ。
「目、赤いよ。泣いてた?」
「……泣いてない。薬の調合で煙が」
「嘘つき」
彼女は笑ったが、その目は笑っていなかった。
僕の右目の下、眼帯の縁から赤い筋が一本流れているのを見たのだろう。急いで袖で拭った。
「少し休む。明日からまた治療する」
「うん。おやすみ、シエル」
おやすみ、と返した。声が掠れていた。
〔八日目。呪いの少女ミラの解呪に成功。紋章呪詛は教会式の改造版。核を粉砕すれば解呪可能。ただし一人ずつの作業が必要。代償として直近の記憶に若干の欠落あり。許容範囲内〕
〔追記。リーゼが明日の朝食は塩を減らすと言っていた。彼女の料理は実際にはそんなに塩辛くない。言ってしまった手前、書いておく〕
翌日から三日間、僕は一人ずつ村人の呪詛を解いていった。
一人目。昨日の夕食を思い出せなくなった。 三人目。村に来た日のことが曖昧になった。 五人目。街道で見た花の名前を忘れた。
大した記憶じゃない。大した記憶じゃないはずだ。
リーゼは治療中、いつも集会所の外で待っていた。僕が出てくるたびに水を差し出し、汗を拭くための布を手渡してくれた。
「お疲れさま」
毎回、同じ言葉。同じ笑顔。
七人目を終えた夜。
リーゼが竪琴を持ち出した。
集会所の前で焚き火に当たりながら、静かに弦を弾く。
「何を弾くんだ」
「子守歌。病気の人が早く良くなるように」
歌が始まった。
ヴェルハイデの民謡だ。宿場町の夜にリーゼが弾いていたのと同じ旋律。古い言葉で紡がれる、穏やかな祈りの歌。
不思議なことが起きた。
歌声が響くたびに、集会所の中から微かなうめき声が聞こえなくなっていく。まるで歌が患者たちの苦しみを鎮めているかのように。
僕の右目の疼きも、少しだけ楽になった。
「……いい歌だな」
「でしょ? あたしの十八番」
リーゼは微笑んだ。焚き火の光が翡翠の瞳を琥珀色に染めている。
「昔、よく歌ってもらったの。眠れない夜に」
「誰に?」
「……お姉ちゃん」
その一言だけ、声が震えた。
僕は追及しなかった。人にはそれぞれ、触れてほしくない過去がある。僕自身がそうであるように。
「もう一曲、聞かせてくれないか」
「えっ、シエルから頼むなんて珍しい」
「気が向いただけだ」
「素直じゃないなあ」
リーゼは嬉しそうに笑って、新しい曲を弾き始めた。
今度は明るい曲だった。旅人の歌。知らない土地を巡り、知らない人と出会い、いつか故郷に帰るという歌。
故郷。
僕に故郷はあるだろうか。聖都プロヴィデンスは僕の故郷だったか。教会の白い壁と、訓練場の石畳。師匠の声。
師匠。
そうだ、師匠の名前は――
十二人目の解呪を終えた日の朝。
目が覚めた時、妙な違和感があった。
手帳を開く。昨日の記録を読み返す。
〔十日目。患者十二名の解呪完了。残り十二名。体調に問題はない〕
自分の筆跡だ。間違いない。でも、書いた時の記憶がぼんやりしている。
リーゼが朝食を運んできた。黒パンとチーズ、乾燥果物を水で戻したもの。
「はい、朝ごはん。今日はちゃんと塩加減したからね」
「ありがとう」
パンをちぎって口に入れる。咀嚼しながら、頭の中で何かを辿っていた。
師匠のことを考えようとした。
顔は覚えている。大きな手。低い声。紋章術の基礎を教えてくれた人。
名前。
名前は――
「シエル? どうしたの、固まってるよ」
「……いや、何でもない」
なんでもなくない。
師匠の名前が出てこない。
あの人の名前。毎日呼んでいた名前。朝の訓練で、夜の講義で、何百回も口にした名前。
手帳を開いた。古いページを捲る。震える指で、師匠について書いた記録を探す。
あった。
〔――先生が言っていた。「力の本質は破壊ではない。理解だ」。正しいと思う〕
名前の部分が、読めなかった。
いや、違う。書いてあるのに、それが誰の名前なのか、文字と意味が結びつかない。知っている文字列のはずなのに、頭の中で空回りしている。
指先が冷たくなった。
消えている。師匠の名前が、僕の記憶から消えている。
「シエル?」
リーゼが僕の手に触れた。温かい手だった。
「顔色悪いよ。今日は休んだら?」
「大丈夫だ」
「大丈夫って言う時のシエル、全然大丈夫じゃないんだよ」
彼女の声は優しかった。でも、その優しさが今は痛い。
「大丈夫だ」
もう一度、繰り返した。
それしか言えなかった。
残り十二名の解呪を続けた。
一人、また一人。黒い紋章を砕くたびに、何かが削れていく感覚がある。何を失っているのかすらわからないのが、一番怖い。
最後の一人を終えた時、村長が杖をつきながら僕の前に頭を下げた。
「恩人だ。この恩は一生忘れない」
「いい。旅の薬師の仕事だ」
「せめて報酬を」
「薬草の補充と、二日分の食料があればいい」
ゴルドが泣いていた。母親たちが子供を抱きしめて泣いていた。
僕は何も感じなかった。
嘘だ。感じていた。ただ、それを表に出す余裕がなかっただけだ。
右目の奥が、ずっとくすぶるように痛んでいる。
村を発つ前の晩、僕は手帳を開いた。
〔十三日目。呪いの村の治療完了。全二十四名、解呪成功。死者なし。代償として記憶の欠落あり。具体的な欠落範囲の特定は困難〕
〔師匠の名前が思い出せなくなっている。手帳の過去の記述を見ても、文字は読めるが意味が繋がらない。これは初めての症状ではない。呪眼を使うたびに同じことが起きている。わかっていたはずなのに〕
〔追記。リーゼが今夜も歌っていた。あの歌を聴くと、右目の痛みが和らぐ。理由はわからない。彼女の歌には何かがある。それとも、彼女自身に何かがあるのか〕
ペンを置いた。
外からリーゼの歌声が微かに聞こえている。ゆっくりとした旋律。ヴェルハイデの子守歌。
「師匠」
声に出してみた。名前のない呼びかけ。
「僕に紋章術を教えてくれた人。僕を拾ってくれた人。あなたの名前を、僕はもう――」
言葉が続かなかった。
手帳を握りしめた。ここに書いてある。文字として残っている。でも、文字は記憶じゃない。思い出の温度も、声の響きも、文字には残らない。
名前を失うということは、その人との記憶の入り口を失うことだ。名前で呼べなくなった瞬間から、その人は少しずつ輪郭を失っていく。
手帳がなければ、僕はもうとっくに壊れている。
いつか手帳に書かれた文字すら読めなくなる日が来るのだろうか。
「……大丈夫だ」
自分に言い聞かせた。誰もいない部屋で、誰にも聞こえない声で。
明日にはこの村を発つ。次の町を目指す。リーゼと一緒に。
彼女がそばにいれば、呪いの進行は緩やかになる。理由はわからない。でも、確かだ。
だから離れられない。
それが利用なのか、依存なのか。
今の僕には、区別がつかなかった。

翌朝、出発の支度をしていると、ミラが走ってきた。
「薬師さま!」
小さな手に、花を握っていた。野に咲く白い花。名前は――知っていたはずだが、出てこない。
「ありがとうございました!」
「……ああ。元気でな」
「また来てくれる?」
「どうだろうな。旅の薬師だから」
ミラは少し寂しそうな顔をした。だが、すぐに笑った。
「じゃあ、これ、お守り! 旅が安全でありますように」
白い花を受け取った。小さくて、軽くて、風が吹けば散ってしまいそうな花。
「ありがとう」
それだけ言うのが精一杯だった。
「ミラちゃん、元気でね! 絶対また来るからね!」
リーゼがミラの頭を撫でた。ミラが嬉しそうに笑った。
村人たちに見送られて、街道に出た。
朝の風が冷たい。空は高く、雲一つない。
隣を歩くリーゼが、ふと僕の手元を見た。
「その花、大事にしてるね」
「……まあ」
「シエルって、ああいう子に弱いよね」
「そんなことない」
「あるある。ミラちゃんの前だけ声が優しかった」
「気のせいだ」
リーゼは笑った。いつもの明るい笑い方。
でも、しばらく歩いてから、彼女はぽつりと言った。
「ねえ、シエル」
「なんだ」
「あの村で、治療してる時。毎回出てきた後、少しだけ目が虚ろだった」
「……」
「今日も。朝、手帳を読んでた時の顔が怖かった」
僕は何も答えなかった。
「大丈夫、って言うんでしょ」
「……大丈夫だ」
「うん。そう言うと思った」
リーゼはそれ以上追及しなかった。
ただ、歩く距離が少しだけ近くなった気がした。
僕の右手には、ミラがくれた白い花。左手には、手帳。
手帳の中に、思い出せなくなった師匠の名前が書いてある。
僕はまだ、それを読むことはしなかった。読んでも、きっと意味が繋がらないから。
名前の文字は残っている。でも、名前を呼んだ時の感覚が、もう――
――空白。
街道を歩きながら、僕は何かを考えようとしていた。
何を考えていたのか、もう思い出せない。
── リーゼ side ──
集会所の扉が閉まる音を聞くのは、これで十三回目だった。
あたしは扉の前の木箱に座って、両手で水桶の縁を握っている。中には冷たい井戸水。布が三枚。シエルが出てくるたびに渡すための。
彼は毎回、同じ順序で出てくる。扉を開け、二歩歩いて、右手で眼帯の位置を確認し、それから、ようやくあたしを見る。「ありがとう」と小さく言って、水を飲み、布で顔を拭く。
同じ動作。同じ言葉。でも、回数を重ねるたびに、少しずつ何かが変わっていく。
最初は声だった。
一人目の治療を終えて出てきた時、シエルの声はいつもより半音低かった。疲れているのだと思った。当然だ。あの中で何をしているのか正確にはわからないけれど、尋常なことではないのは扉越しに伝わる空気でわかる。
三人目の後、目の焦点が変わった。あたしを見ているのに、あたしの少し奥を見ている。瞳の中で何かが揺らいでいる。焚き火の残り火みたいに、かろうじて灯っている光。
五人目の後、手が震えていた。水の椀を持つ指先が、かすかに揺れていた。あたしは気づかないふりをした。彼が気づかれたくないことは、わかっていたから。
そして今日。十二人目を終えて出てきた時。
シエルは扉を開けて、二歩歩いて——立ち止まった。
眼帯の位置を確認する手が、一瞬、宙で止まった。何かを思い出そうとするような顔。あるはずのものを探して見つけられない人の顔。
それから、いつもの仕草に戻って、あたしを見た。
「ありがとう」
同じ声。同じ言葉。でもその目は、さっきまでと違っていた。
——この人は、何かを代償に払っている。
薬師として治療しているだけなら、こんなふうにはならない。薬を調合して飲ませるだけなら、出てくるたびに目の奥の光が一段ずつ消えていくはずがない。
あたしは知っている。あの右目の下で何が起きているか。あの村で最初の少女を治した夜、集会所から漏れた赤い光を見た。扉の隙間から差した、一瞬の閃光。あれは薬の光じゃない。
知っていて、知らないふりをしている。
それがあたしにできる、精一杯の誠実さだった。
朝食の席で、シエルが言った。
「この村の名前は何だっけ」
あたしの手が止まった。
昨日教えた。街道沿いの道標を一緒に読んだ。「グリューネ村」って、あたしが声に出して読み上げて、シエルが「緑の村か。名前の通りだ」と言った。
覚えて、ないの。
喉の奥が詰まりそうになった。でも、飲み込んだ。
「グリューネ村だよ。ほら、入口の道標に書いてあったじゃん」
「ああ……そうだったな」
シエルは手帳を開いて、何かを確認した。そして小さく頷いた。手帳に書いてあったのだろう。自分の字で。あたしが教えたことを。
聞かなかったことにした。おかしいとは、思わないことにした。
その日の夕方、シエルが薬草の調合手順を説明してくれた。竜胆草の根を乾燥させてから擂り潰す方法。一昨日も同じことを教えてくれた。同じ言葉で、同じ順番で。
「へえ、そうやるんだ。知らなかった」
あたしは笑った。初めて聞いたみたいに。
シエルは少しだけ口元を緩めた。「覚えておくと便利だぞ」と言った。
同じことを、一昨日も言った。
あたしは薬草を受け取って、教わった通りに擂り潰した。二度目だから、手つきが少し慣れている。それをシエルに悟られないように、わざとぎこちなく動かした。
嘘をつくのは得意だ。五年間、ずっとそうしてきた。名前を偽り、身分を隠し、笑顔を作って生きてきた。
でもこの嘘は、今までのどの嘘よりも胸が痛い。
だって——忘れているのは、あたしとの記憶だ。
一緒に見た道標。一緒に調合した薬草。小さなことだけれど、二人で過ごした時間の欠片。それがシエルの中から、静かに消えていっている。
気づかないふりをする。何度でも初めてのふりをする。
それがあたしにできる、精一杯の優しさだった。
七人目を終えた夜、あたしは竪琴を手に取った。
理由はわからない。ただ、弾かなきゃと思った。
集会所の中からうめき声が聞こえていた。呪いに苦しむ人たちの声。あたしには薬を作る腕もなければ、呪いを解く力もない。できることなんて、水を汲むことと、布を絞ることと——歌うことだけ。
『銀の月が沈む夜に、旅人は丘に立つ——』
お母様が教えてくれた歌。ヴェルハイデの子守歌。小さい頃、眠れない夜にお姉様が歌ってくれた。あの歌を歌うと、どんなに怖い夢を見た後でも、いつの間にか眠れた。
歌いながら、不思議なことに気がついた。
集会所の中のうめき声が、少しずつ静かになっていく。焚き火の音と、竪琴の弦と、あたしの声だけが残る。
それだけじゃない。
治療を終えて出てきたシエルが、あたしの歌を聴いている時。眼帯の下の、こめかみの辺り。いつもぎゅっと寄っている眉間の皺が、ほんの少しだけ緩む。
右目を押さえる手から、力が抜ける。
あたしの歌が——何かをしている。
何を、とは説明できない。あたしの中にある力——聖女の力が、歌に乗って彼に届いているのかもしれない。浄化の祈りが、歌声に溶けて。あたしにはまだ、自分の力をうまく使えない。意識して使えたのは、あの脇腹の傷を手当てした時くらいだ。
でも歌っている時だけは、あたしの力が自然と滲み出している気がする。
だから歌う。あたしにできることが、これだけだとしても。
「いい歌だな」
シエルが言った。焚き火の向こう側で、少しだけ穏やかな顔をしていた。
「でしょ? あたしの十八番」
笑って答えた。いつもの調子で。
あたしの力の話はしない。聖女だと知られたら、この旅は終わる。でも、歌なら——歌を歌うだけなら、怪しまれない。吟遊詩人なんだから。
あたしにできるのは、これだけ。
竪琴を爪弾きながら、あたしはシエルの横顔を見ていた。焚き火に照らされた右目の眼帯。薬草の匂い。
——ああ。
あの夜と、同じだ。
五年前。燃えるヴェルハイデの城下町。あたしの手を引いて逃がしてくれた少年。右目に包帯を巻いた、薬草の匂いがする少年。
あの少年は、あたしを助けた後に崩れ落ちた。右目を押さえて、苦しそうに膝をついて。あたしを救った代償で、何かを失って。
シエルも同じだ。
治療のたびに、少しずつ壊れていく。出てくるたびに目の光が薄くなって、声のトーンが変わって、昨日のことを覚えていなくなる。
同じだ。同じことが起きている。
あの夜、あたしは何もできなかった。レイヴンに腕を引かれて走った。振り返ったら、少年が倒れていた。動いているかどうかもわからなかった。助けに戻れなかった。
十四歳のあたしには、何もできなかった。
でも——今は、十九だ。
竪琴の弦を、もう一度弾いた。
『——振り返れば故郷の灯、前を向けば星の道』
歌の中でだけ、あたしは正直になれる。
シエルが目を閉じた。痛みが和らいだのかもしれない。あたしの歌で。あたしの力で。
胸の奥で、静かに誓った。声には出さない。シエルには聞こえないくらい、小さく。
「……今度こそ、倒れる前に支えるから」
焚き火がぱちりと爆ぜた。
シエルは目を閉じたまま、少しだけ息を吐いた。苦しそうだった表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
あたしはそれを見て、また弦を弾いた。
もう一曲。もう一曲だけ。
この人が眠れるまで。