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第二章

呪われた村


 村が見えたのは、丘を越えた直後だった。

 街道沿いの小さな集落。畑と牧草地に囲まれた、よくある農村のはずだった。だが、何かがおかしい。

 煙突から煙が出ていない。昼間なのに、人の姿がない。

「ねえ、シエル」

 隣を歩くリーゼが足を止めた。蜂蜜色の髪が風に揺れる。

「あの村、静かすぎない?」

「ああ」

 僕も同じことを考えていた。  街道からは炊事の煙が見えるのが普通だ。洗濯物を干す女性や、走り回る子供たちがいるのが当たり前の光景。それが一切ない。

「疫病かもしれない。近づかないほうがいい」

「でも、もし困ってる人がいたら」

 リーゼが僕の袖を掴んだ。翡翠の瞳が真っ直ぐにこちらを見上げる。

「シエルは薬師でしょ?」

 その目で見るな、と思った。  そんな澄んだ目で見られると、断れなくなる。

「……わかった。ただし、僕の後ろから離れるな」

「了解!」

 彼女は笑った。嬉しそうに、無邪気に。  この笑顔が全部本物なのかどうか、僕にはまだわからない。


 村の入り口に辿り着くと、異変はすぐにわかった。

 石積みの門の柱に、荒い文字で書かれた立て札がある。

『病ノ村。入ルナ。入レバ出ラレズ』

「……出られず、か」

 僕は薬師の外套のフードを深く被り直した。右目の眼帯がずれていないか確認する。癖みたいなものだ。

「随分と物騒だね」

 リーゼの声に普段の軽さはなかった。

 門を潜ると、異臭が鼻を突いた。腐臭ではない。もっと鋭い、金属質の匂い。錆びた鉄を舐めたような苦味が空気に混じっている。

「この匂い……」

 僕は知っている。  紋章術の副産物だ。大量の魔素が強制的に変質させられた時に発生する、独特の残滓。これは通常の疫病じゃない。

 だが、それを口にはしなかった。

「シエル? どうしたの」

「いや。まず村の状況を確認しよう」

 最初に見つけたのは、井戸の傍で倒れている老人だった。

 リーゼが駆け寄る前に僕が手を伸ばした。老人の首筋に触れる。脈はある。だが肌が異常に冷たく、額にはうっすらと黒い紋様が浮いている。

 呪紋だ。

 間違いない。これは紋章術で構成された呪詛――人工的な呪いだ。

「生きてるわ。でも、この模様……」

 リーゼが老人の額を覗き込んだ。

「病気の痕?」

「わからない。とにかく、他の住人も確認する」


 村の集会所が臨時の療養所になっていた。

 扉を開けると、藁の敷かれた床に二十人ほどの村人が横たわっている。老若男女。みな額に黒い紋様を浮かべ、意識がない。

「薬師さんか!」

 奥から声がした。四十代くらいの男が、血走った目でこちらに駆け寄ってくる。

「旅の薬師のシエルだ。事情を聞かせてくれ」

「あたしはリーゼ。手伝えることがあれば何でも言ってね」

 男はゴルドと名乗った。村長の息子らしい。

「一週間前からだ」

 ゴルドは憔悴しきった声で語った。

「最初は子供が一人、高熱を出した。次の日にはもう三人。三日後には村の半分が倒れた。額にこの黒い模様が出て、目が覚めない」

「医者は?」

「街から呼んだ。だが首を振るだけだった。見たことのない病だと」

 当然だ。これは病気じゃない。

「他の村にも同じ症状は?」

「聞いてない。うちの村だけだ」

 一つの村だけに限定された呪詛。それは自然発生ではありえない。誰かが意図的に仕掛けたということだ。

「村に最近、見慣れない人物が来なかったか」

「……一週間半ほど前に、教会の巡回司祭が来た。井戸の水を祝福してくれるって言って」

 僕の手が止まった。

 教会。

「その司祭は今どこに?」

「翌日にはもう発った。いつもの巡回だと」

 井戸の水を祝福する。その行為に紋章術を仕込むのは、技術的には可能だ。水源に呪詛を溶かし込めば、村全体に効率よく呪いを撒ける。

 だが、なぜこんな辺鄙な村を?

「ゴルドさん、患者を診させてくれ」

「頼む。もう何人か、危ないんだ」


 僕は薬師の鞄から道具を取り出した。聴診器、温度計、調合済みの基本薬。

 一人ずつ確認していく。脈拍、体温、瞳孔反射。全員に共通しているのは、額の黒い紋様と、異常な低体温。生命力が呪詛によって吸い取られている。

「シエル、こっちの人、水を飲ませたほうがいい?」

「ああ、頼む。少しずつ口に含ませるだけでいい」

 リーゼは文句一つ言わずに動いた。患者の頭を支え、匙で水を唇に運ぶ。その手つきは意外に慣れている。

「看病、慣れてるんだな」

「まあね。昔、ちょっとだけ」

 彼女はそれ以上言わなかった。笑顔のまま視線を逸らした。

 昔。彼女の「昔」を僕は知らない。

 知らなくていい、と思う。僕だって自分の「昔」を隠しているんだから。


 夕方になっても状況は変わらなかった。

 僕の持っている薬では対処できない。解熱剤も鎮痛剤も、呪詛には効かない。紋章術で構成された呪いは、紋章術で解くしかない。

 集会所の隅で薬を調合しながら、僕は頭を抱えていた。

〔七日目。呪いの村に立ち寄った。住民約四十名中、二十四名が紋章呪詛に罹患。教会の巡回司祭による井戸の汚染が疑われる。僕の薬では対処不可能〕

 手帳に書き終えて、ペンを置いた。

「シエル」

 リーゼが近づいてきた。手に温かいスープの椀を持っている。

「少し休んだら? ずっと働きっぱなしだよ」

「いい。まだやることが」

「ご飯食べなきゃ、やることもできないよ」

 椀を押しつけられた。断る隙を与えない。

 仕方なく受け取る。干し肉と根菜のスープだ。ゴルドが出してくれた食材を彼女が調理したらしい。

「……うまい」

「でしょ? あたしの特製スープ、だんだん腕が上がってきたと思わない?」

「塩が多い」

「ひどっ」

 リーゼが頬を膨らませた。だが、すぐに表情を切り替えて僕の隣に座った。

「ねえ。この病気、普通のじゃないんでしょ」

 見透かされている。

「……なぜそう思う」

「シエルの顔。薬を調合してる時、ずっと眉間にしわ寄せてた。普通の病なら、あなたはもっと淡々とやるでしょ。困ってるってことは、薬じゃ治らないんだ」

 観察力が鋭い。吟遊詩人というのは人を見る仕事だと彼女は言っていた。嘘じゃないらしい。

「呪いだ」

 僕は短く答えた。

「紋章術で構成された呪詛。自然発生じゃない。誰かが意図的に仕掛けた」

「……それって」

「薬じゃ治せない。紋章術で呪詛の構造を解析して、解呪するしかない」

「シエルに、できるの?」

 その問いに僕は答えなかった。

 できる。呪眼を使えば。

 だが、使えば記憶が消える。どれだけの記憶が消えるかは、使う力の大きさによる。村全体の呪いを解くとなれば――考えたくもない。

「……考えさせてくれ」

 リーゼはそれ以上聞かなかった。ただ、隣に座ったまま黙っていた。

 彼女がそばにいると、右目の奥の疼きが和らぐ。それだけは確かだった。


 深夜、集会所に悲鳴が響いた。

「ミラ! ミラ!」

 母親の絶叫だった。

 飛び起きて駆けつけると、十歳くらいの少女が痙攣を起こしている。額の黒い紋様が脈打つように明滅し、泡を吹いている。

「シエル!」

 リーゼが僕の横に駆け寄った。

 少女の名前はミラ。最初に倒れた子供の一人だと聞いていた。一番長く呪詛に晒されている。

 僕は素早く脈を取った。弱い。呼吸も浅い。体温が下がり続けている。

「助けて、薬師さま! この子、この子だけは!」

 母親が僕の外套にすがりついた。

 周囲の村人たちも目を覚まし、不安な視線がこちらに集中する。

 薬では間に合わない。  呪詛の進行が加速している。このままでは、あと数時間。

「……」

 僕の右手が、無意識に眼帯に触れていた。

 使うのか。ここで。

 代償が怖い。何を失うかわからない。師匠の顔か。師匠の声か。それとも、もっと大切な何かか。

 でも。

 この子が死ぬのを見ていられるか?

「シエル」

 リーゼの声が、耳元で聞こえた。

「あたしに何かできることある?」

 僕は彼女を見た。翡翠の瞳に、迷いはなかった。

 使おう。最小限だけ。

「……全員を下がらせてくれ。この子と僕だけにしてほしい」

「え? でも」

「頼む」

 リーゼは一瞬だけ僕の目を見つめた。何かを察したのかもしれない。

「わかった。みんな、少し外に出よう。薬師さんの邪魔になるから」

 手際よく村人たちを外に誘導していく。母親だけが離れたがらなかったが、リーゼが肩を抱いて「大丈夫、シエルは凄腕だから」と囁いた。

 嘘だ。凄腕なんかじゃない。代償なしには何もできない、壊れかけの男だ。

 集会所に残ったのは、僕と少女だけになった。

 ミラの痙攣が強くなる。時間がない。

「……ごめん」

 誰にでもなく呟いて、眼帯に手をかけた。


 眼帯を外すと、世界が変わった。

 右目が開く。  呪眼――終末の瞳が起動する。

 最初に見えたのは、色だった。

 通常の視界では見えないはずの魔素の流れが、蛍光色の糸のように空間を満たしている。空気中を漂う無数の光の粒子。壁の木材に染み込んだ微弱な魔力。床の石に刻まれた大地の記憶。

 世界が見えすぎる。

 ミラの体に視線を向けた瞬間、息が詰まった。

 少女の全身を、黒い紋章が覆っている。通常の目では額にうっすら見える程度の紋様が、呪眼で見れば全身を蔦のように絡めとっている。心臓を中心に、幾何学的な紋章が何重にも展開されている。六角形の基盤構造に、無数の補助紋が枝分かれしている。

 美しい、と思ってしまった。

 それが呪いであるにもかかわらず、紋章の構成は精緻で洗練されている。これを組んだ術者は相当な腕前だ。教会の――少なくとも四等以上の紋章士の仕事。

 見る。もっと深く。

 紋章の中核を探す。呪詛には必ず核がある。全体の構造を維持し、外部の魔素を吸収して増殖する中枢。それを壊せば、呪いは崩壊する。

 右目の奥が熱い。脈打つように痛む。

 見えた。

 心臓の直上、第四層の紋章群の中心に核がある。正八面体の結晶構造。そこから放射状に伸びる黒い線が、少女の生命力を吸い上げている。

 だが、罠がある。核に直接干渉すると、防御紋章が起動して呪詛が暴走する設計になっている。丁寧に、外側の補助紋から順に解除しなければならない。

 全部で十七層。

 僕は片膝をつき、ミラの額に右手を当てた。

 呪眼を通じて紋章に干渉する。最外殻の紋章の継ぎ目を見つけ、そこに極小の魔力を流し込む。紋章の接合部を内側から押し広げ、結合を解く。

 一層目、解除。

 黒い紋様の外縁が、わずかに薄くなった。

 二層目。三層目。

 右目が燃えるように熱い。視界の端がちらつく。

 四層目で手が止まった。

 構造が変わっている。外側と内側で術式の系統が違う。まるで二人の術者が別々に呪いを重ねたような――いや、これは。

 教会式の標準呪詛術式だ。

 僕は知っている。かつて使徒だった頃、教本で見た。教会が異端者に施す制裁用の呪詛。それを改造して、もっと広範囲に、もっと緩やかに、しかし確実に殺すように変えてある。

 吐き気がした。

 こんなものを、子供に。

「……くそ」

 五層目、六層目、七層目。  手が震える。集中が乱れそうになる。

 見える。見えすぎる。ミラの体の中を流れる血液の一滴まで、骨の髄に刻まれた生命の紋章まで、全てが見える。人間の体はそれ自体が一つの巨大な紋章だ。生命と死の境界線が、呪眼には怖いほど鮮明に映る。

 八層目。

記憶の代わりに

 ――ここで、何かが消えた。

 右目の奥で、ぱちん、と小さな音がした。まるでガラスの珠が割れるような。

 何かを思い出そうとした。大切な何か。

 今朝の、朝食の――何を食べた? リーゼが何かを作ってくれた。何だった?

 思い出せない。

 構うな。今はこの子を助けることだけ考えろ。

 九層目、十層目。

 紋章の核が近づく。防御紋章が反応し始めている。慎重に、一つずつ。

 十一層目。十二層目。十三層目。

 視界が白く明滅した。右目の縁から、温かいものが伝っている。涙か、血か。

 十四層目。十五層目。十六層目。

 あと一つ。

 核を覆う最後の外殻。これを外せば、核がむき出しになる。核自体は――砕ける。僕の呪眼なら、構造を「見て」、その結合を解くだけでいい。

 最後の紋章を解除した。

 核が露出する。正八面体の黒い結晶。禍々しい光を放って脈動している。

 砕け。

 僕は右手に全ての意識を集中させた。呪眼が核の構造を読み取り、分子レベルの結合を一つずつ切断していく。

 ぱきん。

 核が砕けた。

 黒い紋章が、ミラの全身から塵のように散っていく。

 少女の呼吸が深くなった。頬にわずかに赤みが戻る。

 助かった。

 僕は眼帯を押し当てるようにして右目を覆い、床に手をついた。

 世界が元に戻る。魔素の糸も、紋章の残光も消える。ただの暗い集会所。ただの木の壁と石の床。

 頭が痛い。吐き気がする。

 でも、この程度で済んだはずだ。最小限しか使っていない。一人分の解呪だけだ。失ったのは、きっと些細な記憶だけ。

 ――些細な記憶。

 今朝の朝食が思い出せないのは、些細と言えるだろうか。


 扉を開けると、リーゼが飛び込んできた。

「シエル! 大丈夫!?」

「ああ。ミラは――あの子は安定した。あとは体力が戻れば」

「本当?」

 リーゼが集会所の中を覗き、穏やかに眠るミラを見て息を吐いた。

「よかった……」

 母親が泣きながら少女に駆け寄った。ミラの手を握り、額を撫で、名前を繰り返し呼んでいる。

「他の患者も、時間はかかるが同じ方法で治療できる」

 嘘だ。一人ずつ呪眼で解呪していたら、僕の記憶がいくつ消えるかわからない。だが、他に方法がない。

「シエル」

 リーゼが僕の顔を覗き込んだ。

「目、赤いよ。泣いてた?」

「……泣いてない。薬の調合で煙が」

「嘘つき」

 彼女は笑ったが、その目は笑っていなかった。

 僕の右目の下、眼帯の縁から赤い筋が一本流れているのを見たのだろう。急いで袖で拭った。

「少し休む。明日からまた治療する」

「うん。おやすみ、シエル」

 おやすみ、と返した。声が掠れていた。


〔八日目。呪いの少女ミラの解呪に成功。紋章呪詛は教会式の改造版。核を粉砕すれば解呪可能。ただし一人ずつの作業が必要。代償として直近の記憶に若干の欠落あり。許容範囲内〕

〔追記。リーゼが明日の朝食は塩を減らすと言っていた。彼女の料理は実際にはそんなに塩辛くない。言ってしまった手前、書いておく〕


 翌日から三日間、僕は一人ずつ村人の呪詛を解いていった。

 一人目。昨日の夕食を思い出せなくなった。  三人目。村に来た日のことが曖昧になった。  五人目。街道で見た花の名前を忘れた。

 大した記憶じゃない。大した記憶じゃないはずだ。

 リーゼは治療中、いつも集会所の外で待っていた。僕が出てくるたびに水を差し出し、汗を拭くための布を手渡してくれた。

「お疲れさま」

 毎回、同じ言葉。同じ笑顔。

 七人目を終えた夜。

 リーゼが竪琴を持ち出した。

 集会所の前で焚き火に当たりながら、静かに弦を弾く。

「何を弾くんだ」

「子守歌。病気の人が早く良くなるように」

 歌が始まった。

 ヴェルハイデの民謡だ。宿場町の夜にリーゼが弾いていたのと同じ旋律。古い言葉で紡がれる、穏やかな祈りの歌。

 不思議なことが起きた。

 歌声が響くたびに、集会所の中から微かなうめき声が聞こえなくなっていく。まるで歌が患者たちの苦しみを鎮めているかのように。

 僕の右目の疼きも、少しだけ楽になった。

「……いい歌だな」

「でしょ? あたしの十八番」

 リーゼは微笑んだ。焚き火の光が翡翠の瞳を琥珀色に染めている。

「昔、よく歌ってもらったの。眠れない夜に」

「誰に?」

「……お姉ちゃん」

 その一言だけ、声が震えた。

 僕は追及しなかった。人にはそれぞれ、触れてほしくない過去がある。僕自身がそうであるように。

「もう一曲、聞かせてくれないか」

「えっ、シエルから頼むなんて珍しい」

「気が向いただけだ」

「素直じゃないなあ」

 リーゼは嬉しそうに笑って、新しい曲を弾き始めた。

 今度は明るい曲だった。旅人の歌。知らない土地を巡り、知らない人と出会い、いつか故郷に帰るという歌。

 故郷。

 僕に故郷はあるだろうか。聖都プロヴィデンスは僕の故郷だったか。教会の白い壁と、訓練場の石畳。師匠の声。

 師匠。

 そうだ、師匠の名前は――


 十二人目の解呪を終えた日の朝。

 目が覚めた時、妙な違和感があった。

 手帳を開く。昨日の記録を読み返す。

〔十日目。患者十二名の解呪完了。残り十二名。体調に問題はない〕

 自分の筆跡だ。間違いない。でも、書いた時の記憶がぼんやりしている。

 リーゼが朝食を運んできた。黒パンとチーズ、乾燥果物を水で戻したもの。

「はい、朝ごはん。今日はちゃんと塩加減したからね」

「ありがとう」

 パンをちぎって口に入れる。咀嚼しながら、頭の中で何かを辿っていた。

 師匠のことを考えようとした。

 顔は覚えている。大きな手。低い声。紋章術の基礎を教えてくれた人。

 名前。

 名前は――

「シエル? どうしたの、固まってるよ」

「……いや、何でもない」

 なんでもなくない。

 師匠の名前が出てこない。

 あの人の名前。毎日呼んでいた名前。朝の訓練で、夜の講義で、何百回も口にした名前。

 手帳を開いた。古いページを捲る。震える指で、師匠について書いた記録を探す。

 あった。

〔――先生が言っていた。「力の本質は破壊ではない。理解だ」。正しいと思う〕

 名前の部分が、読めなかった。

 いや、違う。書いてあるのに、それが誰の名前なのか、文字と意味が結びつかない。知っている文字列のはずなのに、頭の中で空回りしている。

 指先が冷たくなった。

 消えている。師匠の名前が、僕の記憶から消えている。

「シエル?」

 リーゼが僕の手に触れた。温かい手だった。

「顔色悪いよ。今日は休んだら?」

「大丈夫だ」

「大丈夫って言う時のシエル、全然大丈夫じゃないんだよ」

 彼女の声は優しかった。でも、その優しさが今は痛い。

「大丈夫だ」

 もう一度、繰り返した。

 それしか言えなかった。


 残り十二名の解呪を続けた。

 一人、また一人。黒い紋章を砕くたびに、何かが削れていく感覚がある。何を失っているのかすらわからないのが、一番怖い。

 最後の一人を終えた時、村長が杖をつきながら僕の前に頭を下げた。

「恩人だ。この恩は一生忘れない」

「いい。旅の薬師の仕事だ」

「せめて報酬を」

「薬草の補充と、二日分の食料があればいい」

 ゴルドが泣いていた。母親たちが子供を抱きしめて泣いていた。

 僕は何も感じなかった。

 嘘だ。感じていた。ただ、それを表に出す余裕がなかっただけだ。

 右目の奥が、ずっとくすぶるように痛んでいる。


 村を発つ前の晩、僕は手帳を開いた。

〔十三日目。呪いの村の治療完了。全二十四名、解呪成功。死者なし。代償として記憶の欠落あり。具体的な欠落範囲の特定は困難〕

〔師匠の名前が思い出せなくなっている。手帳の過去の記述を見ても、文字は読めるが意味が繋がらない。これは初めての症状ではない。呪眼を使うたびに同じことが起きている。わかっていたはずなのに〕

〔追記。リーゼが今夜も歌っていた。あの歌を聴くと、右目の痛みが和らぐ。理由はわからない。彼女の歌には何かがある。それとも、彼女自身に何かがあるのか〕

 ペンを置いた。

 外からリーゼの歌声が微かに聞こえている。ゆっくりとした旋律。ヴェルハイデの子守歌。

「師匠」

 声に出してみた。名前のない呼びかけ。

「僕に紋章術を教えてくれた人。僕を拾ってくれた人。あなたの名前を、僕はもう――」

 言葉が続かなかった。

 手帳を握りしめた。ここに書いてある。文字として残っている。でも、文字は記憶じゃない。思い出の温度も、声の響きも、文字には残らない。

 名前を失うということは、その人との記憶の入り口を失うことだ。名前で呼べなくなった瞬間から、その人は少しずつ輪郭を失っていく。

 手帳がなければ、僕はもうとっくに壊れている。

 いつか手帳に書かれた文字すら読めなくなる日が来るのだろうか。

「……大丈夫だ」

 自分に言い聞かせた。誰もいない部屋で、誰にも聞こえない声で。

 明日にはこの村を発つ。次の町を目指す。リーゼと一緒に。

 彼女がそばにいれば、呪いの進行は緩やかになる。理由はわからない。でも、確かだ。

 だから離れられない。

 それが利用なのか、依存なのか。

 今の僕には、区別がつかなかった。


薬を届ける手

 翌朝、出発の支度をしていると、ミラが走ってきた。

「薬師さま!」

 小さな手に、花を握っていた。野に咲く白い花。名前は――知っていたはずだが、出てこない。

「ありがとうございました!」

「……ああ。元気でな」

「また来てくれる?」

「どうだろうな。旅の薬師だから」

 ミラは少し寂しそうな顔をした。だが、すぐに笑った。

「じゃあ、これ、お守り! 旅が安全でありますように」

 白い花を受け取った。小さくて、軽くて、風が吹けば散ってしまいそうな花。

「ありがとう」

 それだけ言うのが精一杯だった。

「ミラちゃん、元気でね! 絶対また来るからね!」

 リーゼがミラの頭を撫でた。ミラが嬉しそうに笑った。

 村人たちに見送られて、街道に出た。

 朝の風が冷たい。空は高く、雲一つない。

 隣を歩くリーゼが、ふと僕の手元を見た。

「その花、大事にしてるね」

「……まあ」

「シエルって、ああいう子に弱いよね」

「そんなことない」

「あるある。ミラちゃんの前だけ声が優しかった」

「気のせいだ」

 リーゼは笑った。いつもの明るい笑い方。

 でも、しばらく歩いてから、彼女はぽつりと言った。

「ねえ、シエル」

「なんだ」

「あの村で、治療してる時。毎回出てきた後、少しだけ目が虚ろだった」

「……」

「今日も。朝、手帳を読んでた時の顔が怖かった」

 僕は何も答えなかった。

「大丈夫、って言うんでしょ」

「……大丈夫だ」

「うん。そう言うと思った」

 リーゼはそれ以上追及しなかった。

 ただ、歩く距離が少しだけ近くなった気がした。

 僕の右手には、ミラがくれた白い花。左手には、手帳。

 手帳の中に、思い出せなくなった師匠の名前が書いてある。

 僕はまだ、それを読むことはしなかった。読んでも、きっと意味が繋がらないから。

 名前の文字は残っている。でも、名前を呼んだ時の感覚が、もう――

 ――空白。

 街道を歩きながら、僕は何かを考えようとしていた。

 何を考えていたのか、もう思い出せない。


── リーゼ side ──

 集会所の扉が閉まる音を聞くのは、これで十三回目だった。

 あたしは扉の前の木箱に座って、両手で水桶の縁を握っている。中には冷たい井戸水。布が三枚。シエルが出てくるたびに渡すための。

 彼は毎回、同じ順序で出てくる。扉を開け、二歩歩いて、右手で眼帯の位置を確認し、それから、ようやくあたしを見る。「ありがとう」と小さく言って、水を飲み、布で顔を拭く。

 同じ動作。同じ言葉。でも、回数を重ねるたびに、少しずつ何かが変わっていく。

 最初は声だった。

 一人目の治療を終えて出てきた時、シエルの声はいつもより半音低かった。疲れているのだと思った。当然だ。あの中で何をしているのか正確にはわからないけれど、尋常なことではないのは扉越しに伝わる空気でわかる。

 三人目の後、目の焦点が変わった。あたしを見ているのに、あたしの少し奥を見ている。瞳の中で何かが揺らいでいる。焚き火の残り火みたいに、かろうじて灯っている光。

 五人目の後、手が震えていた。水の椀を持つ指先が、かすかに揺れていた。あたしは気づかないふりをした。彼が気づかれたくないことは、わかっていたから。

 そして今日。十二人目を終えて出てきた時。

 シエルは扉を開けて、二歩歩いて——立ち止まった。

 眼帯の位置を確認する手が、一瞬、宙で止まった。何かを思い出そうとするような顔。あるはずのものを探して見つけられない人の顔。

 それから、いつもの仕草に戻って、あたしを見た。

「ありがとう」

 同じ声。同じ言葉。でもその目は、さっきまでと違っていた。

 ——この人は、何かを代償に払っている。

 薬師として治療しているだけなら、こんなふうにはならない。薬を調合して飲ませるだけなら、出てくるたびに目の奥の光が一段ずつ消えていくはずがない。

 あたしは知っている。あの右目の下で何が起きているか。あの村で最初の少女を治した夜、集会所から漏れた赤い光を見た。扉の隙間から差した、一瞬の閃光。あれは薬の光じゃない。

 知っていて、知らないふりをしている。

 それがあたしにできる、精一杯の誠実さだった。


 朝食の席で、シエルが言った。

「この村の名前は何だっけ」

 あたしの手が止まった。

 昨日教えた。街道沿いの道標を一緒に読んだ。「グリューネ村」って、あたしが声に出して読み上げて、シエルが「緑の村か。名前の通りだ」と言った。

 覚えて、ないの。

 喉の奥が詰まりそうになった。でも、飲み込んだ。

「グリューネ村だよ。ほら、入口の道標に書いてあったじゃん」

「ああ……そうだったな」

 シエルは手帳を開いて、何かを確認した。そして小さく頷いた。手帳に書いてあったのだろう。自分の字で。あたしが教えたことを。

 聞かなかったことにした。おかしいとは、思わないことにした。

 その日の夕方、シエルが薬草の調合手順を説明してくれた。竜胆草の根を乾燥させてから擂り潰す方法。一昨日も同じことを教えてくれた。同じ言葉で、同じ順番で。

「へえ、そうやるんだ。知らなかった」

 あたしは笑った。初めて聞いたみたいに。

 シエルは少しだけ口元を緩めた。「覚えておくと便利だぞ」と言った。

 同じことを、一昨日も言った。

 あたしは薬草を受け取って、教わった通りに擂り潰した。二度目だから、手つきが少し慣れている。それをシエルに悟られないように、わざとぎこちなく動かした。

 嘘をつくのは得意だ。五年間、ずっとそうしてきた。名前を偽り、身分を隠し、笑顔を作って生きてきた。

 でもこの嘘は、今までのどの嘘よりも胸が痛い。

 だって——忘れているのは、あたしとの記憶だ。

 一緒に見た道標。一緒に調合した薬草。小さなことだけれど、二人で過ごした時間の欠片。それがシエルの中から、静かに消えていっている。

 気づかないふりをする。何度でも初めてのふりをする。

 それがあたしにできる、精一杯の優しさだった。


 七人目を終えた夜、あたしは竪琴を手に取った。

 理由はわからない。ただ、弾かなきゃと思った。

 集会所の中からうめき声が聞こえていた。呪いに苦しむ人たちの声。あたしには薬を作る腕もなければ、呪いを解く力もない。できることなんて、水を汲むことと、布を絞ることと——歌うことだけ。

 『銀の月が沈む夜に、旅人は丘に立つ——』

 お母様が教えてくれた歌。ヴェルハイデの子守歌。小さい頃、眠れない夜にお姉様が歌ってくれた。あの歌を歌うと、どんなに怖い夢を見た後でも、いつの間にか眠れた。

 歌いながら、不思議なことに気がついた。

 集会所の中のうめき声が、少しずつ静かになっていく。焚き火の音と、竪琴の弦と、あたしの声だけが残る。

 それだけじゃない。

 治療を終えて出てきたシエルが、あたしの歌を聴いている時。眼帯の下の、こめかみの辺り。いつもぎゅっと寄っている眉間の皺が、ほんの少しだけ緩む。

 右目を押さえる手から、力が抜ける。

 あたしの歌が——何かをしている。

 何を、とは説明できない。あたしの中にある力——聖女の力が、歌に乗って彼に届いているのかもしれない。浄化の祈りが、歌声に溶けて。あたしにはまだ、自分の力をうまく使えない。意識して使えたのは、あの脇腹の傷を手当てした時くらいだ。

 でも歌っている時だけは、あたしの力が自然と滲み出している気がする。

 だから歌う。あたしにできることが、これだけだとしても。

「いい歌だな」

 シエルが言った。焚き火の向こう側で、少しだけ穏やかな顔をしていた。

「でしょ? あたしの十八番」

 笑って答えた。いつもの調子で。

 あたしの力の話はしない。聖女だと知られたら、この旅は終わる。でも、歌なら——歌を歌うだけなら、怪しまれない。吟遊詩人なんだから。

 あたしにできるのは、これだけ。

 竪琴を爪弾きながら、あたしはシエルの横顔を見ていた。焚き火に照らされた右目の眼帯。薬草の匂い。

 ——ああ。

 あの夜と、同じだ。

 五年前。燃えるヴェルハイデの城下町。あたしの手を引いて逃がしてくれた少年。右目に包帯を巻いた、薬草の匂いがする少年。

 あの少年は、あたしを助けた後に崩れ落ちた。右目を押さえて、苦しそうに膝をついて。あたしを救った代償で、何かを失って。

 シエルも同じだ。

 治療のたびに、少しずつ壊れていく。出てくるたびに目の光が薄くなって、声のトーンが変わって、昨日のことを覚えていなくなる。

 同じだ。同じことが起きている。

 あの夜、あたしは何もできなかった。レイヴンに腕を引かれて走った。振り返ったら、少年が倒れていた。動いているかどうかもわからなかった。助けに戻れなかった。

 十四歳のあたしには、何もできなかった。

 でも——今は、十九だ。

 竪琴の弦を、もう一度弾いた。

 『——振り返れば故郷の灯、前を向けば星の道』

 歌の中でだけ、あたしは正直になれる。

 シエルが目を閉じた。痛みが和らいだのかもしれない。あたしの歌で。あたしの力で。

 胸の奥で、静かに誓った。声には出さない。シエルには聞こえないくらい、小さく。

「……今度こそ、倒れる前に支えるから」

 焚き火がぱちりと爆ぜた。

 シエルは目を閉じたまま、少しだけ息を吐いた。苦しそうだった表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

 あたしはそれを見て、また弦を弾いた。

 もう一曲。もう一曲だけ。

 この人が眠れるまで。

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