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第三章

白壁の都


 白い壁が見えた。

 丘陵地帯を抜けると、谷間に広がる巨大な都市が姿を現した。白亜の城壁に囲まれた交易都市ルミエール。大陸西部最大の商業拠点。

「うわあ!」

 リーゼが目を輝かせた。

「すっごい大きい! シエル、見て見て! あの塔! あの尖塔!」

「見えてる」

「塔の先に旗がいっぱい立ってる! お祭りかな?」

「交易都市だ。各国の商館の旗だろう」

「つまんない答え」

 彼女が頬を膨らませた。だが、すぐにまた歓声を上げる。

「あ、城壁の門のところに人がたくさん! 馬車も! 荷車も! 活気があるね!」

 呪われた村を出てから四日。街道沿いの宿場町で一泊しただけの強行軍だったが、ルミエールに辿り着けたのは僥倖だった。薬草の在庫が尽きかけている。食料も心許ない。何より、情報が必要だ。

 あの村の呪詛が教会式の改造版だったということは、教会の誰かが民間人を実験台にしているということだ。それがどこまでの規模なのか、他にも同じことが起きている場所があるのか。

 考えなければならないことは山ほどある。

 だが、今は。

「まず物資の補給だ。薬草を仕入れたい」

「あたしは竪琴の弦を買いたいな。一本切れかけてるの」

「それと、宿を取ろう。しばらくこの街に滞在するかもしれない」

「やった! 久しぶりのベッド!」

 リーゼが両手を広げて伸びをした。蜂蜜色の髪が日差しに透ける。

 彼女と一緒にいると、世界が少しだけ明るく見える。

 それが僕の勘違いなのか、それとも彼女自身が持つ何かのおかげなのか。

 わからないまま、僕は白壁の都へ足を踏み入れた。


 城門を潜ると、喧騒が耳を包んだ。

 石畳の大通りに商人と旅人がひしめき合っている。香辛料の匂い、焼き立てのパンの匂い、革なめしの匂い。馬のいななき。値引き交渉の怒鳴り声。子供の笑い声。

 生きている街だ、と思った。あの村とは何もかもが違う。

「すごいね。あたし、こんな大きな街は久しぶり」

「人混みに気をつけろ。スリが多い」

「はーい」

 返事の軽さが心配になる。

 まず宿を探した。大通りから一本入った裏通りに、こぢんまりとした宿屋を見つけた。『翡翠のランプ亭』という看板が掛かっている。

「二部屋」

 僕がそう言う前に、リーゼが受付に身を乗り出した。

「二部屋! できれば隣同士で!」

「お連れさまですか」

「旅の相棒です!」

 宿の女将がにやりと笑った。

「お熱いことで」

「違う」

 即答したが、リーゼは否定しなかった。それがまた女将の笑みを深くした。

 隣り合った二部屋に荷物を置き、まず僕は薬草店を回ることにした。

「リーゼ、好きに街を見て回っていい。ただし夕方までに宿に戻れ」

「了解。シエルも無理しないでね」

「無理はしない」

「嘘つき」

 またそれだ。彼女は僕の嘘を見抜くのが上手い。


 ルミエールの薬草街は、城壁の南側に広がっていた。

 大小の薬種問屋、乾燥薬草の卸売り、鉱物薬の専門店。薬師にとっては楽園のような場所だ。

 僕は三軒の店を回り、必要な薬草を仕入れた。月見草の根、乾燥した白蛇舌、星霜花の粉末。どれも旅に必要な基本材料だ。

 四軒目の薬種問屋に入った時、店主が声をかけてきた。

「おや、薬師さんかね。腕章を見せてもらえるか」

 僕は左腕の腕章を見せた。教会が発行する正式な薬師免許証ではなく、独立薬師組合の簡易資格証。偽名で取得したものだ。

「ふむ。旅の薬師か。ちょうどいい、腕のいい薬師を探していたんだ」

「依頼か」

「そうだ。うちの得意先の貴族が、特注の調合薬を求めている。正式な薬師に頼むと足がつくような――少々、込み入った品でね」

 足がつくような調合薬。つまり、教会の認可外の薬品だ。

「報酬は」

「金貨五枚。材料費は別途」

 金貨五枚。旅の薬師の一月分の稼ぎに匹敵する。破格だ。

「依頼内容を聞かせてくれ」

 店主は声を落とした。

「紋章刻印の補助薬だ。肌に紋章を刻む際の痛みを抑え、定着率を上げる軟膏。配合は薬師なら知っているだろう」

 知っている。教会で使われている標準処方だ。材料も特殊なものは必要ない。だが、認可外の調合となると話が変わる。教会の管理下にない紋章刻印――つまり、闇の紋章士に提供するものだ。

「依頼人に会いたい」

「それは……難しいな。匿名でのやり取りが条件だ」

「匿名でも構わないが、何のために使うかは知りたい」

 店主は一瞬だけ目を泳がせた。

「用途は聞かないのが暗黙の了解だ、薬師さん」

「断るかどうかの判断材料にする。それだけだ」

「……防御用だと聞いている。自衛のための紋章刻印だと」

 嘘をついている、と思った。

 目の動き。声の微妙な揺れ。言葉を選ぶ間合い。嘘つきは嘘つきを見抜く。僕自身が嘘で塗り固めた人生を送っているから。

 だが、深追いはしない。金が必要だ。薬草代、宿代、食事代。リーゼの竪琴の弦代も。旅の資金は常に不足している。

「わかった。引き受ける。明日の夕方までに納品すればいいか」

「ああ、助かる。材料はうちから出す」

 店主は安堵したように笑った。

 だが、帰り際に振り返った時、店主が誰かに目配せしたのが見えた。店の奥の、暗い通路の先に人影がある。

 気のせいかもしれない。  そうでないかもしれない。


 宿に戻り、部屋で調合を始めた。

 テーブルに材料を並べる。乳鉢、乳棒、計量天秤、蒸留器。薬師の道具は旅の間も常に手入れを欠かさない。

 紋章刻印の補助軟膏。配合自体は単純だ。月見草の油を基剤にして、鎮痛作用のある白蛇舌の粉末を混合。そこに定着促進のための微量の魔石粉を加える。

 手を動かしながら、頭の中では別のことを考えていた。

 あの店主の依頼。匿名の貴族。教会の認可外の紋章刻印。

 ルミエールは交易都市だ。様々な人間が出入りする。教会の影響力はあるが、聖都のような絶対的な支配は及んでいない。裏社会が独自に動いている。

 そこに教会の息がかかった人物がいたとしても、不思議はない。

 考えすぎだろうか。

 村の呪詛を見てから、何でも教会に結びつけてしまう自分がいる。

 手帳を開いた。

〔十七日目。ルミエール到着。薬草の補充完了。薬種問屋から紋章刻印補助薬の調合依頼を受けた。金貨五枚。依頼人は匿名。店主の態度に不自然さあり。注意を払う〕

〔リーゼは街を散策中。夕方には戻ると約束。彼女が一人で大丈夫かどうか、少し気になっている。いつから気になるようになったのか、手帳を遡っても明確な起点がわからない〕


 調合を終えて、窓の外を見た。

 午後の日差しが白壁に反射して眩しい。ルミエールの街は高台の城壁に囲まれているから、窓からは赤い屋根の連なりが一望できる。

 そろそろリーゼが戻ってくる頃だ。

 僕は完成した軟膏を瓶に詰め、部屋を出た。一階の食堂で水を貰い、窓際の席に座った。

 宿は繁盛しているらしく、旅人や商人で賑わっている。隅のテーブルでは四人の男がカード遊びに興じている。カウンターでは女将が常連客と談笑している。

 普通の光景だ。普通の日常。

 僕にはもう「普通」がわからない。何が普通で何が異常か。記憶が欠けた頭では、基準そのものがずれている。

 昨日の夕食を覚えている。今朝の朝食も覚えている。

 師匠の名前だけが、ぽっかりと穴が開いたように思い出せない。

 手帳には書いてある。何度も読んだ。でも、文字を読み上げても、それが誰のものだったのか実感が伴わない。名札だけが残って、人間が消えたような感覚。

「シエルさん」

 声をかけられて顔を上げた。女将だ。

「お連れのお嬢さん、もう戻られましたよ。裏口から入ってきたけど、何か大きな本を抱えてて。部屋に直行したわ」

「大きな本?」

「古い本みたいだったわね。古書店で掘り出し物でも見つけたんじゃないかしら」

「……ありがとう」

 階段を上がり、リーゼの部屋の前に立った。

 ノックしようとして、止まった。

 扉の向こうから、かすかな音が聞こえる。紙を捲る音。そして――息を呑む音。それとも、嗚咽だろうか。

「リーゼ」

 ノックした。

「……っ、はい! ちょっと待って!」

 慌てた声がして、がたがたと物音がした。何かを隠しているような音。

 十秒ほどして扉が開いた。

「やっほー、シエル。調合終わった?」

 笑顔だった。いつもの明るい笑顔。

 でも、目が赤い。

「泣いてたのか」

「えっ? ちが、これは、あくびしただけ!」

「目が腫れてる」

「……風。外を歩いてたら風がすごくて」

 嘘だ。でも、追及する権利は僕にはない。僕だって、毎日彼女に嘘をついている。

「街で何を見つけた?」

「え?」

「女将が言っていた。大きな本を抱えて帰ってきたと」

 リーゼの表情が一瞬だけ固まった。ほんの一瞬。すぐに笑顔で塗り替えたが、僕はその一瞬を見逃さなかった。

「ああ、うん。古書店があってね。面白そうな本を見つけたんだ」

「何の本」

「えっと、詩集。各地の民謡をまとめたやつ。吟遊詩人にはお宝でしょ?」

 嘘とは言い切れない。半分くらいは本当かもしれない。でも、それが全てではない。

「そうか」

「うん。あとで弾き語りのネタにするんだ」

「楽しみにしてる」

「ほんとに? シエルが楽しみにしてくれるなんて!」

 大げさに喜んで見せる。いつもの彼女だ。

 だが、扉の隙間から見えた部屋の中で、ベッドの上に古い革装丁の書物が伏せて置かれているのが見えた。表紙に何か紋章が型押しされていた。

 民謡の詩集に紋章はつかない。あれは記録文書か、公式の書簡集だ。

「リーゼ」

「なに?」

「今夜、夕食を一緒にどうだ。宿の食堂で」

「えっ、シエルから誘ってくれるの? 嬉しい! じゃあ、ちょっとおめかししなきゃ」

「そんな店じゃないだろ」

「気分の問題!」

 扉が閉まった。

 僕はしばらくその場に立っていた。

 彼女の表情。あの一瞬の硬直。泣いた後の赤い目。慌てて隠した書物。

 何があった?

 聞くべきだろうか。聞いたところで、彼女は笑って誤魔化すだろう。僕がそうするように。

 嘘つき同士の旅は、こういう時に面倒だ。


束の間の日常

 夕食は、宿の食堂で済ませた。

 煮込み料理と黒パン。素朴だが温かい。

「おいしーい! やっぱり屋根の下で食べるご飯は最高!」

 リーゼが幸せそうに頬張っている。着替えてきたらしく、いつもの旅装ではなく、白いブラウスに茶色のスカートという軽装だった。

「その格好、吟遊詩人には見えないな」

「たまにはね。旅装だと肩凝るんだ」

「肩凝りは姿勢の問題だ」

「出た、薬師のお説教」

 彼女が笑う。僕も少しだけ口の端が上がる。

 食事の間、僕は彼女を観察していた。

 笑い方は自然だ。声のトーンも普段通り。食欲もある。会話のテンポも変わらない。

 でも、一つだけ違うことがある。右手。

 リーゼは普段、左手でスプーンを持ち、右手でパンを千切る。だが今夜は右手をほとんど使わない。左手だけで器用に食事をしている。

 右手がテーブルの下にある。

 何かを握っているのだろうか。

「シエル、じっと見すぎ」

「……すまない」

「顔に何かついてる?」

「いや。料理がうまいなと思って」

「あたしが作ったわけじゃないけど」

「だからうまいのかもしれない」

「ひどっ!」

 リーゼが声を上げて笑った。

 その笑い方が少しだけ高い。無理をしている時の笑い方だ。

 わかるようになってしまった。この旅で、彼女の笑い方の種類を。本当に楽しい時の笑い方と、楽しくなくても笑う時の笑い方。

「ねえ、シエル」

「なんだ」

「あたしたち、ここにどのくらいいる?」

「依頼の納品が明日だ。その報酬で物資を整えて、二、三日で発つつもりだが」

「そっか。じゃあ明日、もう一回街を見て回ってもいい?」

「構わないが、気をつけろ」

「うん。あたし、行きたいところがあるの」

「どこ」

「……ひ・み・つ」

 人差し指を唇に当てて、いたずらっぽく笑った。

 その仕草の裏に何があるのか、僕には読めなかった。


 翌朝、リーゼは早くに宿を出た。

「行ってきまーす!」

 階段を駆け下りる軽い足音。扉が開いて閉まる音。

 僕は部屋の窓から彼女が通りに出ていくのを見送った。蜂蜜色の髪を揺らして、人混みに消えていく。

 彼女を目で追っている自分に気づいて、窓から離れた。

 今日は調合薬の最終確認と納品だ。集中しなければ。


 午前中を費やして軟膏の品質を確認し、瓶を三つに小分けした。

 薬種問屋に向かう。南通りの店は朝から忙しそうだった。

「おお、薬師さん。できたかね」

「ここに。配合比は標準処方通りだが、定着率を上げるために魔石粉の粒度を細かくしてある」

 店主が瓶を手に取り、蓋を開けて匂いを確かめた。

「見事だ。この品質なら依頼人も満足するだろう」

「それと、一つ聞きたいことがある」

「なんだね」

「この依頼、本当に防御用の紋章刻印のためか」

 店主の手が止まった。

「何か気になることが?」

「この軟膏は確かに紋章刻印の補助に使える。だが、配合をわずかに変えれば、呪詛紋章の刻印補助にも転用できる。そのことを知っていて頼んだなら、話が変わる」

「いや、そんなことは」

「別に咎めるつもりはない。ただ、知っておきたいだけだ」

 店主は額の汗を拭った。

「……正直に言えば、用途の詳細は俺も知らん。仲介しているだけだ。ただ、この街で紋章関連の闇取引が増えているのは事実だ」

「闇取引」

「ここ半年ほどだ。教会の認可外の紋章師が流入してきている。何かを探しているらしいが、詳しいことは」

「わかった。ありがとう」

 金貨五枚を受け取り、店を出た。

 教会の認可外の紋章師の流入。呪詛紋章の材料の需要。

 あの村の呪いと関連があるのだろうか。それとも別の案件か。

 考えながら歩いていると、大通りに出た。


 そこで、僕は足を止めた。

 大通りの向こう側、城門へ続く広い街路に、一団が入ってきていた。

 白い外套。銀の装飾が施された甲冑。胸には聖廟教会の紋章――円環に囲まれた六芒星。

 審問官だ。

 十人ほどの一団。先頭に立つのは、灰色の髪を短く刈り上げた壮年の男。その目つきには見覚えがある。教会の審問局に所属する執行官の特徴的な鋭さだ。

 僕は反射的にフードを深く被り直した。右手が眼帯に触れる。

 審問官がルミエールに。偶然か。

 偶然であってほしい。

 だが、あの街道で見た審問官の旗。そして今、交易都市に到着した審問官の一団。動きが早い。彼らは何かを追っている。

 僕を、だろうか。

 いや。マルヒェン村の「虐殺犯」は公式には死亡扱いだ。わざわざ審問官を派遣して死人を探すとは思えない。

 なら、他に目的がある。

 一団が通り過ぎるのを待ちながら、僕は壁際に身を寄せた。審問官たちの会話が断片的に聞こえる。

「――ルミエールの教会支部に連絡は」

「済んでいる。今夜中に市内の宿場を巡回する」

「逃亡者の特徴は」

「若い女。蜂蜜色の髪。吟遊詩人の――」

 心臓が跳ねた。

 蜂蜜色の髪。吟遊詩人。

 リーゼ。

 聞き間違いではないかと耳を澄ませたが、審問官たちはすでに遠ざかっていた。それ以上の会話は聞き取れない。

 偶然の一致かもしれない。蜂蜜色の髪の吟遊詩人など、大陸にいくらでもいるだろう。

 だが。

 あの村の教会式呪詛。ルミエールに増える闇紋章師。そして審問官の派遣。

 何かが動いている。大きな何かが。

 僕の知らないところで――いや、僕が知ろうとしなかっただけで。

 足早に宿に戻った。


 宿に戻ると、リーゼはまだ帰っていなかった。

 部屋で彼女を待ちながら、手帳を開いた。

〔十八日目。ルミエールに教会の審問官の一団が到着。十名前後。巡回の口実で市内の宿場を調べるとの断片情報あり。「蜂蜜色の髪の吟遊詩人」という特徴が聞こえた。リーゼに該当する。偶然か意図的な捜索か不明。いずれにせよ、長居は危険〕

〔追記。薬種問屋からの依頼を完了。金貨五枚。不自然な点が多い。教会認可外の紋章師がルミエールに増えているとの情報〕

 ペンを置いて、窓の外を見た。西日が白壁を橙色に染めている。

 リーゼが遅い。

 時計塔が五時を打った。約束は夕方までに戻ること。まだ約束は破っていないが、審問官の件を知った後では落ち着かない。

 窓辺に立って通りを見下ろした。行き交う人々の中に蜂蜜色の髪を探す。

 いた。

 通りの向こうから、リーゼが歩いてくる。だが、足取りが普段と違う。いつもの軽やかさがない。うつむき加減で、左手に何かを抱えている。

 宿の入り口で一度足を止めた。深呼吸をするように胸に手を当てて、それから扉を開けた。

 階段を上がってくる足音。彼女の部屋の扉が開いて閉まる音。

 僕は少し待ってから、彼女の部屋をノックした。

「リーゼ」

「あ、シエル。ちょっと待ってね」

 また「待って」だ。昨日と同じ。何かを隠す時間が必要なのだろう。

 扉が開いた。

「おかえり、シエル! 納品終わった?」

「ああ。それより」

 僕は彼女の顔をじっと見た。

 笑顔。いつもの笑顔。でも、目の奥に揺らぎがある。翡翠の瞳の中に、波紋のように広がる何か。悲しみとも怒りとも違う。もっと深い、根底からの震え。

「リーゼ、何かあったのか」

「え? 何もないよ? 楽しかった! お菓子屋さんでね、焼きたてのタルトを――」

「嘘をつくな」

 声が硬くなった。自分でも意図しないほど。

 リーゼの笑顔が固まった。

「……どうして」

「目を見ればわかる。何かあった」

 沈黙が落ちた。廊下に二人の影が伸びている。

 リーゼは数秒間、僕を見つめた。それから、ふっと力が抜けたように肩を落とした。

「……入って」


 リーゼの部屋は小さかった。ベッドと小さな机、椅子が一つ。窓から差し込む夕日が部屋全体を暖色に染めている。

 ベッドの上に、昨日見た革装丁の書物が置いてあった。

 そして、その隣にもう一冊。今日、古書店で見つけたのだろう新しい一冊。

 リーゼはベッドに腰を下ろし、古い方の書物を手に取った。

「……古書店でね、見つけちゃったの」

「それは」

「ヴェルハイデ王国の記録文書。滅亡した国の、行政文書の写し」

 ヴェルハイデ。

 五年前に教会の「聖戦」で滅ぼされた小国。聖女を多く輩出したとされる王国。

「なぜそんなものが古書店に」

「ルミエールは交易都市でしょ。滅んだ国の文書なんて、誰かが持ち出して売っぱらったんだよ。戦利品として、あるいは古物として」

 リーゼの声は落ち着いていた。だが、書物を持つ手が微かに震えている。

「吟遊詩人として、こういう歴史資料には興味があって」

「リーゼ」

「各地の歌の由来を調べるのに、こういう記録文書は――」

「手が震えている」

 彼女は手元を見た。自分の震えに気づいていなかったのかもしれない。

「……あ。ほんとだ。寒いのかな」

「夏だ」

「冷え性で」

 また嘘だ。でも、彼女の目が僕に訴えている。これ以上聞かないでほしい、と。

 だから、僕は別のことを言った。

「見せてもらっていいか」

「え」

「ヴェルハイデの記録文書。僕も興味がある」

 リーゼは一瞬ためらった。だが、書物を差し出した。

 受け取って、表紙を見た。

 古い革に型押しされた紋章。盾の中に鋼の百合と三日月。ヴェルハイデ王家の紋章だ。

 ページを開く。黄ばんだ羊皮紙に、古い書体で記された行政記録。人口統計、交易品目、徴税記録。滅亡前の王国の日常が淡々と記されている。

 普通の資料だ。吟遊詩人が興味を持ってもおかしくない。

 だが、一枚だけ折り目がついているページがあった。

 開くと、王族の系図だった。

 王の名前、王妃の名前。そして、二人の王女の名前。

 第一王女と、第二王女。

 第二王女の名の横に、一つの記号が添えられている。六芒星を円で囲んだ印。

 聖女の印だ。

 僕はそのページから目を上げ、リーゼを見た。

 彼女はベッドに座ったまま、膝の上で拳を握りしめていた。視線を逸らしている。

 何かを言いかけて、止めた。

 聞いてはいけない。今はまだ。

 彼女にも彼女の「昔」がある。僕がそうであるように。

「面白い資料だな」

「……でしょ?」

「ヴェルハイデの民謡の歌詞に出てくる地名と、この交易記録を照合すれば、歌の成立時期がわかるかもしれない」

「うん。そう思って」

 嘘が嘘を呼ぶ。僕が「面白い資料だ」と言い、彼女が「そう思って」と答える。互いの本音を包み隠す、優しい嘘の応酬。

「リーゼ」

「なに」

「今夜は早めに休め。明日の朝、この街を発つ」

「え? もう少しいるって」

「予定が変わった。長居しないほうがいい」

 審問官のことは言わなかった。余計な不安を与えたくない。

「……わかった。シエルがそう言うなら」

 珍しく素直だった。いつもなら理由を聞いてくるのに。

 彼女も何かを感じているのかもしれない。この街に漂う、不穏な空気を。


 部屋に戻り、荷物を整理した。明朝の出発に備えて、薬草と道具を鞄に詰め直す。

 金貨五枚は内ポケットに分散させた。これだけあれば、しばらくは困らない。

 手帳を開く。

〔十八日目・夜。リーゼがヴェルハイデの記録文書を古書店で入手。手の震え、目の赤み、表情の硬直を確認。彼女とヴェルハイデの間に何か深い関係がある。追及はしなかった〕

〔王族の系図のページに折り目。第二王女の横に聖女の印。単なる興味で王族の系図を詳しく見る吟遊詩人がいるだろうか。いないだろう〕

〔仮説を立てることはできる。だが、仮説を確認する行為は信頼を壊す。彼女が話してくれるまで待つ。僕にはその義務がある。自分の秘密を隠している以上〕

 ペンを置いた。

 彼女が何者であろうと、今は関係ない。彼女がそばにいてくれることだけが重要だ。

 利己的な考えだとわかっている。

 でも、記憶が消えていく恐怖の中で、彼女の存在が唯一の楔なのだ。彼女がいると呪いの進行が緩やかになる。それだけは確かな事実として、手帳にも記録してある。

 だから離れられない。

 だから、彼女の秘密にも踏み込めない。踏み込んで、もし彼女が離れていったら。

 僕は――


 深夜。

 眠れない夜だった。

 ベッドに横たわったまま天井を見つめている。白壁の都の月明かりが薄いカーテン越しに差し込んで、天井に淡い影を作っている。

 ヴェルハイデの記録文書。王族の系図。第二王女の横に刻まれた聖女の印。リーゼの赤い目。震える手。

 彼女が何者であれ、今は関係ない。そう自分に言い聞かせたはずだった。でも頭の中で仮説が勝手に組み上がっていく。薬師の悪い癖だ。症状を見れば原因を推測してしまう。

 隣の部屋から、かすかに竪琴の音が聞こえた。リーゼも眠れないのだろう。

 ヴェルハイデの民謡。穏やかで、どこか悲しい旋律。

 あの歌を聴くたびに、右目の奥の疼きが少しだけ楽になる。理由はわからない。わからないまま、その安らぎに甘えている。

 ――宿の階下で、重い扉が開く音がした。

 一つではない。複数の足音。金属が触れ合う、硬い音。

 僕は反射的に起き上がった。

 壁に耳を当てる。声が聞こえる。低く、規律正しい話し方。

「――巡回中の身元確認を行う」

 審問官だ。

 この時間に宿を回っている。昼間、大通りで見た白い外套の一団。あの時聞こえた断片。「蜂蜜色の髪。吟遊詩人の――」

 心臓が跳ねた。

 隣の部屋の竪琴が止まった。リーゼも気づいたのか。

 宿帳を調べている。僕たちの名前は偽名だが、職業は「薬師」と「吟遊詩人」で書いた。蜂蜜色の髪の吟遊詩人を探しているなら、宿帳だけで十分に引っかかる。

 ――まずい。

 僕は音を立てないように靴を履き、外套を羽織った。鞄はベッドの脇に置いてある。すぐ手が届く距離。

 階下から、女将の声。

「ええ、二階に何組かお泊りですが……」

 足音が階段に向かっている。

 まだ上がってきてはいない。まだ時間はある。

 だが、今夜はまずい。明日の朝を待ってはいられない。

 僕は音を殺してリーゼの部屋の前に立った。ノックは小さく、二回。それだけでいい。

 扉が開いた。ほとんど間を置かず。

 リーゼは外套を羽織り、竪琴を背に括りつけていた。片手にヴェルハイデの記録文書を抱えている。目が覚めていた。声がなくても、足音と空気の変化で察したのだろう。

 彼女の翡翠の瞳が、暗い廊下で僕を見上げた。

 何も訊かなかった。ただ一言。

「行くんでしょ」

「ああ」

 僕は頷いた。

 彼女はヴェルハイデの文書を胸に抱き直した。荷物をまとめる時間はあるが、あの文書だけは最初に確保した。それが彼女にとって何を意味するのか、今はまだ訊けない。

 階下の足音が、一段、階段を上がった。


〔十八日目・深夜。宿に審問官の巡回。身元確認の名目。蜂蜜色の髪の吟遊詩人を探している。リーゼが該当する可能性が極めて高い。即座に移動する〕

〔リーゼは何も訊かずに準備を終えていた。この子は逃げることに慣れている。その事実が、僕の仮説をまた一つ補強する〕

〔聞かなければならない。聞きたくない。この矛盾を、いつまで抱えていられるだろう〕

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