審問官の巡回をやり過ごすのは、思ったより簡単だった。
あの晩、リーゼと裏口から宿を抜け出して、運河の向こう側の安宿に移った。翡翠のランプ亭の女将には悪いことをしたが、荷物は翌朝リーゼが回収してきた。審問官は深夜の巡回で宿帳を確認しただけで、部屋まで踏み込む前に僕たちはもういなかった。
街を出るつもりだった。だが、薬種問屋の店主から別の依頼を紹介された。
依頼人の指定した場所は、ルミエールの東端にある石造りの工房だった。
かつては染物屋だったらしい。壁に染料の跡がこびりつき、天窓から差し込む西日が赤茶けた床を照らしている。奥の作業台に薬草を広げ、僕は調合を始めた。
依頼の内容は単純だった。
慢性の関節痛に効く膏薬を三十壺。報酬は銀貨八枚。ルミエールの相場を考えれば破格だった。
――破格すぎた、と今なら思う。
「シエル、ここ広いね。あたし、あっちの棚使っていい?」
リーゼが竪琴を抱えたまま工房の中を歩き回っている。好奇心旺盛な猫のように、棚の瓶を覗き込んだり、壁の染みに顔を近づけたりしている。
「好きにすればいい。ただし瓶には触らないで」
「わかってるって。あたしが触ると壊すと思ってるでしょ」
「前科がある」
「あれはシエルが変なところに置くからでしょ!」
彼女はぷっと頬を膨らませてから、窓辺の椅子に腰を下ろした。竪琴の弦を軽く弾く。澄んだ音が石壁に反響した。
僕は膏薬の材料を量りながら、手帳に目を落とした。
昨夜書いた走り書きがある。
〔依頼人の名前はダリオ。四十代、中肉中背。右手に古い火傷の跡。話し方に訛りなし。ルミエールの住人ではない可能性。薬種問屋の店主からの紹介だが、店主自身もこの男をよく知らない様子。報酬が高い。注意〕
注意、と自分で書いている。書いた時点で違和感があったのだ。
なのに僕は依頼を受けた。銀貨八枚は、この先二週間の宿代と食事代を賄える額だったから。審問官に見つかって宿を変えた直後で、資金に余裕が欲しかった。
リーゼが弦を爪弾きながら、小さく鼻歌を歌い始めた。
聞いたことのない旋律だ。どこか物悲しくて、でも温かい。彼女の歌を聞いていると、右目の奥の鈍痛がわずかに和らぐ気がする。気のせいかもしれない。でも、気のせいだとしても構わなかった。
「ねえ、シエル」
「なに」
「その膏薬、何が入ってるの?」
「柳樹皮の粉末と、蜜蝋と、薄荷油。あとは竜胆草の抽出液を少し」
「竜胆草って苦いやつでしょ。前に飲まされたの、まだ覚えてるんだけど」
「あれは解熱剤。これは塗り薬だから味は関係ない」
「じゃあ舐めても苦い?」
「舐めるな」
リーゼがけらけらと笑う。
僕はその笑い声を聞きながら、蜜蝋を火にかけた。甘い匂いが工房に広がる。
この時間が好きだった。
彼女が傍にいて、取り留めのない話をして、僕が素っ気なく答える。それだけのことが、僕の一日の中で一番穏やかな時間だった。
手帳にそんなことは書けない。書いたら、未来の僕が読んで困惑するだろう。
――いや。未来の僕は、この感覚すら忘れているかもしれない。
右目の奥が、きり、と痛んだ。
「シエル? 顔色悪いよ」
「大丈夫。蜜蝋の匂いで少し」
「嘘。蜜蝋の匂い、シエル好きじゃん」
鋭い。この子は妙に鋭い。
「……少し目が疲れただけだ」
「眼帯、きつく締めすぎなんじゃない? 前も言ったけど、あたしが新しいの縫ってあげようか」
「いい。これで慣れてる」
リーゼは少し寂しそうな顔をして、また竪琴に視線を落とした。
僕は彼女から目を逸らして、調合に集中した。
柳樹皮の粉末を擂り潰す。蜜蝋と混ぜ合わせる。薄荷油を数滴。単純な作業だ。手が覚えている。頭を使う必要がない。
だからこそ、思考が別のことに向かう。
昨日、リーゼが見つけたあの文書。ヴェルハイデの紋章が刻まれた古い羊皮紙。彼女はそれを見た瞬間、一瞬だけ表情を凍らせた。すぐに笑顔に戻ったけれど、あの一瞬は見逃せなかった。
ヴェルハイデ。五年前に教会の聖戦で滅ぼされた小国。
僕がまだ使徒だった頃、その作戦の報告書を読んだことがある。「異端の温床の浄化」と書かれていた。
リーゼとヴェルハイデに何の関係がある?
訊きたい。でも訊けない。訊いたら、僕も訊かれる。
お前は何者だ、と。
――だから僕たちは、互いの過去を覗かない。
蜜蝋が程よく溶けた。薄荷油を加えて混ぜる。清涼感のある匂いが立ち上る。
三壺目を仕上げたところで、外の通りから鐘の音が聞こえた。
夕刻の鐘ではない。時刻が合わない。
「……リーゼ」
「うん。聞こえた」
彼女の声のトーンが変わっていた。笑みが消え、翡翠の瞳が窓の外を凝視している。
鐘が三度鳴った。短く、鋭く。

ルミエールに来て四日。この鐘の意味は覚えている。
審問官の招集鐘だ。
「まずいね」
「まずい」
僕は手を止め、作業台の下に隠していた革鞄を引き寄せた。調合済みの薬と、最低限の荷物。いつでも逃げられるように準備してある。
窓から通りを見下ろした。
人の流れが変わっている。市民が道の端に寄り、中央を空けている。遠くから、規律正しい足音が近づいてくる。
白い外套に銀の胸当て。聖廟教会の紋章を掲げた一隊。
審問官だ。
十人はいる。先頭を歩くのは、長身の男。短く刈り込んだ灰色の髪。右手に錫杖。
錫杖の先端に、紋章が刻まれている。
僕の右目が、眼帯の下で疼いた。使わなくてもわかる。あの錫杖は紋章術の触媒だ。しかも、高位の。
「シエル、裏口は?」
「この工房に裏口はない」
「えっ」
「窓が二つ。正面の扉が一つ。地下はない」
リーゼの顔が青ざめた。
僕は舌打ちを噛み殺した。ここを指定したのは依頼人だ。出口が少なく、袋小路に近い立地。見通しのいい天窓。
――罠だ。
最初からわかっていたはずだ。手帳にも書いていた。なのに僕は来た。金に目が眩んだのか。それとも、ルミエールの居心地の良さに気が緩んだのか。
「リーゼ、竪琴を置いて。荷物をまとめろ。三十秒」
「う、うん!」
彼女は素早く動いた。竪琴を背に括りつけ、外套を羽織る。旅慣れた手つきだった。初めて会った時からそうだ。この子は逃げることに慣れている。
僕も革鞄を肩にかけ、外套のフードを深く被った。
足音が近づいてくる。工房の前の通りで止まった。
「薬師シエル殿」
外から声がかかった。低く、落ち着いた声。
「聖廟教会審問局、第四隊隊長のガルシアだ。少々お話を伺いたい。扉を開けていただけるか」
話を伺いたい。穏やかな口調だ。だが、十人の審問官を引き連れて「話を伺いたい」とは言わない。
「シエル」
リーゼが僕の袖を掴んだ。小さな手が震えている。
「大丈夫。まだ扉は開けていない」
「でも——」
「窓から出る。東側の窓の下は路地だ。高さは三メートルほど。飛べる」
「飛べる、って——」
「僕が先に降りる。君を受け止める」
リーゼは一瞬だけ躊躇って、それから頷いた。
僕は東側の窓に手をかけた。
――その瞬間、窓枠が青白く光った。
紋章だ。窓枠の表面に、蔦のように幾何学模様が広がっていく。線の一本一本が魔素を帯びて輝いている。
「封鎖紋章……!」
正面の扉にも。天窓にも。壁のひび割れにも。建物全体を覆うように、紋章が展開されていく。
外から、ガルシアの声がした。
「申し訳ないが、逃走の恐れがある以上、建物を封じさせていただいた。紋章が完成すれば、内部からの脱出は不可能だ。大人しく扉を開けていただきたい」
封鎖紋章。建物の構造そのものを檻に変える紋章術。四等以上の術者にしか使えない高等術だ。
しかも範囲が広い。工房だけじゃない。隣接する民家まで巻き込んでいる。
「ちょっと待って。隣の家にも紋章が——」
リーゼが天窓を見上げた。紋章の光は隣の建物の壁にも広がっている。あの中には住人がいるはずだ。
「わかってる」
僕は歯を食いしばった。
一般人を巻き込む封鎖。審問官がここまでやるのは、相手が余程の危険人物だと判断した場合だけだ。
つまり、向こうはもう確信に近いものを持っている。僕が――ただの薬師ではないと。
「シエル殿。返答がなければ、扉を破る」
ガルシアの声に苛立ちはない。任務を遂行する者の冷静さだけがあった。
「シエル、どうするの」
リーゼが僕を見上げている。翡翠の瞳に不安が揺れている。でも、パニックにはなっていない。この子はいつもそうだ。怖がっても、倒れない。
選択肢を整理する。
一つ。大人しく出頭する。審問を受ける。ただの薬師だと言い張る。――無理だ。正体を疑われている以上、右目を調べられる。眼帯の下を見られたら終わりだ。
二つ。封鎖紋章を破る。――僕の刻印術では出力が足りない。あの紋章は四等以上の精度で組まれている。
三つ。呪眼を使う。
右目が熱を持った。まるで答えを知っているかのように。
使えば解ける。あの程度の紋章なら、呪眼で構造を読み取り、解体できる。
でも代償がある。村の呪いを解いた時、僕は師匠の――
――師匠の。
名前。名前は――手帳に書いてある。カルロ・ヴェネディス。文字は読める。でも、呼んだ時の感触がない。かつては「先生」と呼んでいたのか、「師匠」と呼んでいたのか。文字を見ても、実感が湧かない。
あの時の代償がそれだ。次に使えば、何を失う?
「シエル殿。最後の警告だ」
扉が軋んだ。外から紋章を刻む音が聞こえる。破壊用の紋章だ。
残り時間はない。
「リーゼ。僕の後ろにいて。何があっても離れるな」
「シエル——」
「いいから」
僕は深呼吸した。
革鞄の中から、小瓶を二つ取り出す。一つは煙幕用の調合薬。もう一つは、匂いを攪乱する忌避剤。最低限の時間稼ぎにはなる。
扉が砕けた。
木片が飛び散り、白い外套の審問官が雪崩れ込んでくる。先頭の二人が剣を構え、後続が紋章を展開する。
僕は煙幕の小瓶を床に叩きつけた。白い煙が一気に膨れ上がり、工房を覆う。
「目を瞑れ!」
リーゼの手を掴み、作業台の影に身を伏せる。煙の中で審問官たちが咳き込んでいる。
「散開しろ! 風の紋章で煙を払え!」
ガルシアの指示が飛ぶ。冷静だ。慌てていない。
青白い光が煙の中で瞬いた。風の紋章。数秒で煙が吹き散らされる。
その数秒で僕は動いた。
忌避剤を通路にばら撒きながら、工房の奥へ。壁際に古い煙突がある。使われていない煙突の内部なら、封鎖紋章の網目が粗いかもしれない。
「そこか!」
審問官の一人が追ってくる。剣を振りかぶる。
僕は革鞄から薬瓶を抜き、投げつけた。忌避剤だ。目に入れば数分は視界を奪える。
瓶が顔の前で弾け、審問官が顔を押さえて後退した。
「リーゼ、煙突の中に入れるか」
「無理! 狭すぎる!」
見れば確かに、煙突の開口部は子供がやっと通れるほどの幅しかない。
後ろから足音。三人の審問官が扇状に展開して迫ってくる。
逃げ道がない。
「薬師シエル。抵抗は無意味だ」
ガルシアが煙の向こうから歩いてきた。錫杖を床に突く。その先端の紋章が脈動するように光っている。
「貴殿に対する嫌疑は、無認可紋章術の行使。および、二年前のマルヒェン村における虐殺への関与だ」
マルヒェン村。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。
リーゼが息を呑んだのが聞こえた。彼女は僕を見ている。僕の反応を見ている。
「……人違いだ」
「そうかもしれん。だが確認が必要だ。右目の眼帯を外していただきたい」
「断る」
「では、こちらで外させていただく」
ガルシアが錫杖を掲げた。紋章が展開する。
拘束紋章。対象の四肢を魔力の鎖で縛る術だ。
三等の精度。速い。
僕は作業台を蹴倒して盾にした。紋章の鎖が台に絡みつき、木材が軋む。
「シエル!」
リーゼが叫んだ。
右翼から別の審問官が回り込んでくる。僕はリーゼを庇いながら後退した。壁に背がつく。これ以上は下がれない。
左右から剣。正面からガルシアの紋章。
囲まれた。
「シエル、あたしが囮になる。あたしに用はないはずだから——」
「馬鹿を言うな」
僕は彼女の肩を押して自分の後ろに下がらせた。
「同行者も拘束する。規定だ」
ガルシアが無感情に言った。規定。この男にとって僕たちは案件に過ぎない。
審問官の一人がリーゼに手を伸ばした。
「触るな」
僕の声が、自分でも驚くほど低く出た。
右目が灼けるように熱い。眼帯の下で、何かが蠢いている。
使うしかない。
わかっている。使えば何かを失う。何を失うかはわからない。でも使わなければ、目の前のこの子が——
「シエル、だめ。あなたの目が——」
リーゼは知っている。あの村で見たから。僕が眼帯を外した時に何が起こるか。そして、その後に何を失うか。
「大丈夫だよ、リーゼ」
嘘だ。大丈夫なわけがない。
でも僕はいつも嘘をつく。名前も、過去も、この穏やかな旅の全部が嘘だ。
だったら、もう一つくらい嘘を重ねても同じだ。
「少し、目を瞑っていて」
リーゼが何か言おうとした。でも僕はもう手を伸ばしていた。
眼帯の結び目に指をかける。
引く。
――世界が、裏返った。
色が消えた。
赤も青も緑も、全てが褪せて灰色になる。代わりに、世界を構成するものの骨格が露わになった。
見える。
空気中を漂う魔素の粒子。一つ一つが微かな光を放ちながら、気流に乗って流れている。その密度、その方向、その属性。すべてが、文字を読むように明瞭に理解できる。
壁の封鎖紋章が見える。
幾何学模様の一本一本の線が、意味を持った記号として読み取れる。起点。分岐。収束。魔素の流路。干渉波の周期。術者の魔力特性。設計思想。意図。癖。
六角形を基底にした封鎖式。二重回転の安定構造。魔素の供給源は外部——ガルシアの錫杖。供給が途絶えれば八秒で崩壊する構造。
ただし、錫杖自体に蓄魔機構がある。破壊しても残存魔力で二十三秒は維持される。
二十三秒。それだけあれば十分だ。
審問官たちが展開している紋章も見える。拘束術。強化術。探知術。防御術。全部で七つ。一人あたり一つか二つの術を維持している。
七つの紋章の構造が、設計図のように僕の視界に浮かんでいる。
美しい、と思った。
紋章術は美しい。幾何学の論理と魔素の流動が織りなす、精緻な構造体。人間の知性が生み出した、世界への干渉手段。
同時に、恐ろしい。
全てが見える。見えすぎる。審問官たちの体内を巡る魔力の流れ。心臓の鼓動に同期した魔素の脈動。筋肉の収縮パターンから予測される次の動作。
人間が、機械のように見える。分解可能な構造物のように。
これが呪眼だ。終末の瞳。世界を解体する目。
「な——」
ガルシアが僕の右目を見て、言葉を失った。
僕の右目は今、金色に輝いている。瞳孔の中で複雑な紋章が回転している。見る者に本能的な恐怖を与える、人外の瞳。
「全員、構えろ! あの目は——」
遅い。
僕は見えている全てを、同時に処理した。
まず、壁の封鎖紋章。
構造の要となる節点が三つある。そのうち最も脆い一点——六角形の第三頂点に位置する接合部。ここに逆位相の魔素を流し込めば、紋章全体が連鎖崩壊する。
僕は右手を壁に向けた。指先から、目に見えないほど微細な魔素の糸が伸びる。呪眼が紋章の構造を読み取り、最適な干渉パターンを算出し、実行する。
一瞬。
壁の紋章が砕けた。青白い光が破片のように散って消える。連鎖的に、天窓の紋章も、扉の紋章も、隣家にかかっていた紋章も——全てが音もなく崩壊した。
「封鎖紋章が——!」
「全解除だと!?」
審問官たちが動揺する。当然だ。四等以上の術者が展開した封鎖紋章を、一瞬で解体されるなど、あり得ない。
次。
ガルシアの錫杖。蓄魔機構の構造が見える。水晶核の内部に圧縮された魔力。その流路を遮断する。
僕は視線を錫杖に向けた。それだけでいい。呪眼が起動している間、僕の視線そのものが干渉の媒介になる。
錫杖の先端の紋章が消えた。水晶核が白濁し、ただの石になる。
「馬鹿な——」
ガルシアが錫杖を見下ろした。長年の相棒を失った兵士のような顔をしている。
「紋章の無力化……これは、まさか——」
「動かないでもらえるかな」
僕は静かに言った。呪眼が起動している時、僕の声は不思議と凪いでいる。感情が遠のくからだ。怖い。この冷静さが怖い。
「全員の紋章は解析済みだ。僕が視線を向ければ、その紋章は消える。抵抗しても意味がない」
嘘じゃない。見えている。全部見えている。
拘束紋章を維持している審問官が二人。強化術をかけている者が三人。探知術が一人。防御紋章が一人。残りは近接戦闘要員で、紋章術を使っていない。
紋章術を使っている者は、全員無力化できる。
だが——近接戦闘要員は別だ。呪眼は紋章を見て、解析し、干渉する力。紋章を使わない相手には通じない。
僕の体は薬師だ。戦闘訓練は受けているが、審問官の精鋭と剣で渡り合えるほどではない。
「ガルシア隊長、指示を!」
審問官の一人が叫んだ。
ガルシアは数秒の沈黙の後、口を開いた。
「……全員、紋章を解除しろ」
「隊長!?」
「紋章術は通じない。近接で制圧する。包囲を維持しろ」
冷静な判断だ。紋章が無効なら、数の力で押す。正しい。
四人の審問官が剣を構えて前進してくる。
僕は左手でリーゼの手を掴み、後退した。
窓だ。封鎖紋章は解除した。東側の窓から飛べる。
だが、外にも人がいる。窓の外の路地に、二人。呪眼で見える。体内の魔素の流れが軍人のそれだ。伏兵。
「窓の外にも二人いる」
「えっ——じゃあどこから——」
「天窓」
「天窓!? あたしたち鳥じゃないんだけど!」
「棚を使う。登れるか」
「登る!」
リーゼの返事は早かった。この子は文句を言いながらも、いつも最後にはついてくる。
僕は作業台の残骸を蹴って審問官の足を止め、壁際の棚に飛びついた。古い棚板が軋む。体重を分散させながら一段、二段と登る。
リーゼが後に続く。竪琴が背中で揺れている。
「待て!」
審問官が棚に手をかけた。僕は上から薬瓶を投げ落とした。忌避剤ではない。唐辛子の粉末を溶かした刺激剤だ。瓶が割れて中身が飛び散り、審問官が顔を押さえて後退した。
「ごめん、刺激が強いけど後遺症はない」
誰に謝っているんだ、僕は。
天窓に手が届く。ガラスは古く、枠も腐食している。体重をかければ——
割れた。ガラスの破片が降り注ぐ。僕は外套の袖で顔を覆い、枠を掴んで体を引き上げた。

屋根の上に出る。夕暮れの風が吹き抜けた。ルミエールの白い建物が夕日に染まって橙色に輝いている。
「リーゼ、手を」
下から伸びてきた手を掴み、引き上げる。リーゼが屋根に這い上がり、荒い息をついた。
「はあ……はあ……屋根の上って、思ったより怖い……」
「見下ろすな。前だけ見ろ」
「言われなくても見下ろしてない! ……ちょっと見たけど」
屋根伝いに移動する。ルミエールの建物は密集している。屋根から屋根へ飛び移れる距離だ。
背後で天窓から審問官が顔を出した。
「屋根に出た! 追え!」
追ってくる。当然だ。
僕はリーゼの手を引いて走った。瓦が滑る。傾斜がきつい箇所では四つん這いになって進む。
「シエル、右目——まだ光ってる」
「わかってる」
呪眼はまだ起動している。意図的に止めていない。止められない、と言う方が正確かもしれない。一度開いた目は、見ることをやめてくれない。
世界が紋章の設計図として見え続けている。屋根瓦の一枚一枚に染み込んだ微量の魔素。空気中の魔力の流れ。遠くの教会の塔から放射される探知紋章の波紋。
美しい。
恐ろしい。
そして、頭の奥で何かが軋んでいる。代償が始まっている。
何かを忘れ始めている。まだわからない。何を失っているのか、失った瞬間にはわからないのだ。後から、ふと気づく。あったはずの何かが、ない。
隣の屋根に飛び移る。着地の衝撃で膝が笑った。リーゼは僕より身軽だ。猫のように軽やかに着地する。
「あっちの路地に降りられそう——」
リーゼが指さした先に、屋根から路地に降りられる梯子がある。洗濯物を干すために設置されたものだろう。
そこまであと三十メートル。
「止まれ!」
前方の屋根に、人影が現れた。審問官だ。先回りされた。
後ろからも足音。挟まれた。
前方の審問官が紋章を展開した。攻撃紋章。火球を生成する三等術。
見える。
紋章の構造が見える。火属性の魔素を球状に圧縮し、指向性を持たせて射出する。起点は術者の右手。収束に要する時間は一・二秒。射出速度は——
速い。
僕は呪眼で紋章の起点を捉え、干渉した。火球が形成される直前に、魔素の流路を遮断する。
紋章が空中でほどけた。火球は生まれなかった。
「くそっ——紋章が消された!」
審問官が叫ぶ。だが、別の一人が剣を抜いて突進してくる。
紋章を使わない近接攻撃。
僕は横に跳んだ。屋根の端。足場が危うい。
剣が空を切る。瓦が砕け、破片が路地に落ちていく。
「シエル!」
リーゼが竪琴を振り上げた。審問官の背中に叩きつけようとしている。
「やめろ! 怪我する!」
僕はリーゼを引き戻し、審問官の足を払った。体術の基本。使徒時代に叩き込まれた動き。審問官がバランスを崩し、屋根を滑り落ちかける。
その隙に走る。
梯子まであと十メートル。
「待て!」
背後からガルシアの声。いつの間に屋根に上がってきた。
振り返ると、ガルシアは錫杖なしで立っていた。だが、その右手が光っている。
刻印型だ。
ガルシアの右手の甲に、紋章が刻まれている。錫杖は触媒に過ぎない。本命は自身の体に刻んだ紋章だったのだ。
紋章が展開する。
見える。拘束術ではない。もっと大規模な——
空間固定紋章。
対象を含む空間そのものの時間流を遅延させる、二等の大紋章。
二等!?
ガルシアは二等術者だったのか。審問官の隊長が二等——あり得る。教会は本気で僕を獲りに来ている。
紋章が完成する前に止めなければ。
僕は呪眼を全力で向けた。
空間固定紋章の構造が視界に展開される。通常の紋章より一桁複雑だ。節点が四十七。分岐が百二十三。魔素の流路が三次元的に絡み合い、空間そのものに干渉する設計。
解析に時間がかかる。
一秒。
紋章は七割完成している。
二秒。
解析完了。要の節点は三つ。第十二、第二十九、第四十一。同時に干渉すれば——
僕は右目に意識を集中した。三点同時干渉。呪眼の演算能力を限界まで引き出す。
視界の端が暗くなった。
頭の奥で、何かが千切れる感覚。
――空白。
何を――今、何を考えていた?
紋章だ。紋章を解体する。それだけ考えろ。
三点に同時干渉。逆位相の魔素を注入。
ガルシアの空間固定紋章が、完成寸前で砕け散った。
光の破片が夕暮れの空に舞う。一瞬だけ、花火のように美しかった。
「……化け物め」
ガルシアが呻いた。
僕は答えなかった。答える余裕がなかった。
頭の中で何かが欠けている。何かを忘れた。今この瞬間に。でも何を忘れたのかがわからない。
呪眼を閉じなければ。
僕は意志の力で右目を閉じた。世界に色が戻る。紋章の設計図が消え、ただの夕暮れの街並みが目に映る。
――が、視界がぐらりと揺れた。
足が、もつれる。
「シエル!」
リーゼが僕の腕を掴んだ。小さな体で僕を支えている。
「大丈夫、行ける。梯子まで——」
「あと少し! 掴まって!」
リーゼに支えられながら、梯子にたどり着いた。先にリーゼが降りる。僕は片手で梯子を掴み、もう片方の手で屋根の端に引っかかっている瓦を外した。
瓦を後方に投げる。追ってくる審問官の足元で砕け、一瞬だけ足が止まる。
梯子を降りる。途中で手が滑った。最後の数段を落ちるように降りて、路地の石畳に尻をついた。
「シエル!」
リーゼが駆け寄って僕を引き起こした。
「走れる?」
「走れる」
嘘だ。足が震えている。呪眼の反動だ。体中の魔力が枯渇しかけている。
でも走るしかない。
リーゼに手を引かれるようにして、路地を駆けた。ルミエールの裏路地は入り組んでいる。方向感覚が怪しいが、リーゼは迷いなく角を曲がっていく。
「こっち。この先に運河がある。橋を渡れば市場だよ。人が多いところに紛れ込めば——」
「よく知ってるな」
「散歩してたから。あたし、新しい街に来たら裏道全部歩くの」
この子は。いつの間にそんなことを。
いや——彼女も、逃げ道を確認する習慣があるのだ。僕と同じように。
それがどういう意味か、今は考えない。
運河が見えた。夕日を反射して橙色に光っている。小さな石橋が架かっている。
橋を渡る。市場の喧騒が近づいてくる。人の声、荷車の音、炊き出しの匂い。
その安堵の中で、僕の足が止まった。
「シエル?」
右の脇腹が濡れている。
見下ろすと、外套の内側に血が滲んでいた。天窓のガラスだ。割って出た時に、破片で切っていた。呪眼が起動している間は痛みを感じなかった。
「……切れてる」
「嘘——見せて!」
リーゼが僕の外套をめくった。シャツの下、右の脇腹に十センチほどの裂傷。深くはない。でも血が止まっていない。
「浅い。大丈夫だ。宿に戻れば——」
「大丈夫じゃない! 血がこんなに——」
リーゼは市場の端にある木箱の影に僕を座らせた。周囲を見回して人がいないことを確認してから、僕のシャツを持ち上げる。
「止血しなきゃ。布、ある?」
「鞄の中に包帯がある」
リーゼが革鞄を漁り、包帯を見つけた。だが、傷口を見て眉をひそめた。
「これ、ガラスの破片が残ってる……」
「抜いてくれ。奥まで入っていなければ指で取れる」
「痛くない?」
「我慢する」
リーゼは唇を噛んで、慎重に傷口からガラスの小片を二つ取り出した。僕は歯を食いしばった。痛い。呪眼の反動で体が過敏になっている。
「ごめん、ごめんね——」
「謝るな。君のせいじゃない」
彼女は小片を取り除いてから、包帯で傷口を押さえた。
その瞬間。
リーゼの手のひらが、淡く光った。
金色だった。
夕日の色ではない。もっと純粋な、透明感のある金色。彼女の手のひらから傷口に染み込むように、光が広がった。
温かい。傷口が焼けるような痛みから、じんわりとした温もりに変わる。
一秒にも満たなかった。光はすぐに消えた。
リーゼの手が震えている。
「……っ」
彼女は自分の手を見下ろして、さっと握りしめた。何事もなかったかのように包帯を巻き始める。
「はい、これで止血できると思う。宿に戻ったらちゃんと消毒しないと——」
「リーゼ」
僕の声が、彼女の言葉を遮った。
彼女の手が止まる。
僕は見た。
呪眼はもう閉じている。でも確かに見た。彼女の手のひらから放たれた金色の光。あれは紋章術ではない。紋章の構造がなかった。もっと原始的で、もっと純粋な——
聖女の光に似ている。
かつて使徒だった頃、文献で読んだことがある。聖女の浄化は紋章を介さない。意志と祈りによって穢れを祓う、人類最古の奇跡。発動時に金色の光を放つ。
まさか。
「君の手が——」
言いかけて、止めた。
リーゼの目を見たからだ。
翡翠の瞳の奥に、恐怖があった。
見つかった、という恐怖。暴かれる、という恐怖。それは僕がいつも抱えているものと同じだった。
彼女は僕を見ている。僕が次に何を言うか、息を止めて待っている。
「光っていた」と言えば、彼女は否定するだろう。でも僕は見た。嘘は通じない。
そうなれば説明を求めることになる。君は何者だ。なぜ手が光る。聖女なのか。
そして彼女も訊くだろう。あなたは何者だ。なぜ呪眼を持っている。マルヒェン村で何があった。
嘘が一つ剥がれれば、全部が崩れる。
僕たちの旅は、嘘の上に成り立っている。偽名で出会い、偽りの身分で旅をし、互いの過去を知らないふりをしている。
その嘘が、僕たちを守っている。
真実は、きっと僕たちを引き裂く。
「……シエル?」
リーゼが不安そうに僕の名を呼んだ。僕の偽名を。
「……いや、何でもない」
僕は目を逸らした。
「包帯、ありがとう。上手だな」
「……吟遊詩人は旅が多いからね。怪我の手当ては慣れてるよ」
彼女の声が少し震えていた。でも、笑顔を作っていた。いつもの、明るい笑顔を。
僕たちは互いに嘘をついた。互いの嘘を受け入れた。
それが優しさなのか、臆病さなのか、僕にはわからなかった。
ただ、一つだけわかることがある。
僕は彼女の秘密を暴きたくない。彼女にも、僕の秘密を知ってほしくない。
知ってしまったら、もうこの旅は続けられないから。
「……行こう。宿を変えなきゃ。前の宿はもう使えない」
「うん。あたし、安い宿いくつか見つけてあるよ。運河の向こう側に——」
「さすがだな」
「でしょ? あたしのことスカウト係って呼んでよ」
「呼ばない」
リーゼがくすっと笑った。今度の笑みは少しだけ本物に近かった。
僕たちは市場の雑踏に紛れ、運河を越え、ルミエールの南区画へ向かった。追手の気配はなかった。市場の人混みが天然の隠れ蓑になっている。
薄汚れた三階建ての安宿。受付の老婆に銀貨を渡し、最上階の角部屋を取った。窓が二方向にあり、逃げ道が二つ。リーゼが事前に確認していた宿の一つだ。
部屋に入り、扉に鍵をかけた。
リーゼが椅子に崩れるように座った。張り詰めていた糸が切れたように、肩から力が抜けている。
「……怖かった」
「うん」
「シエルが怪我して、血が出て、それで——」
彼女は言葉を止めた。何かを言いかけて、飲み込んだ。
「大丈夫だ。傷は浅い」
「……うん」
僕はベッドの端に腰を下ろした。
脇腹の傷が鈍く痛む。でも、出血は止まっている。リーゼの手当てのおかげだ。いや——あの光のおかげかもしれない。
考えるな。考えるな。
それより、確認しなければならないことがある。
僕は手帳を取り出した。
ページをめくる。昨日の記録。一昨日の記録。ルミエールに到着した日の記録。
全部覚えている。リーゼとの会話。市場で買った干し肉の値段。宿の部屋番号。依頼人ダリオの特徴。
もっと前。呪われた村での出来事。呪眼を使った記録。その時の代償――師匠の名前が思い出しにくくなったこと。
カルロ。
カルロ・ヴェネディス。
名前は――手帳にある。何度も読み返したから、文字列だけは目に焼きついている。でも、それが「誰か」を指す実感は、もう薄い。
では、顔は?
僕は目を閉じた。
師匠の顔を思い浮かべようとした。
灰色の髪を後ろに撫でつけた、大柄な老人。深い皺の刻まれた額。分厚い眼鏡の奥の――
――奥の。
目が。
どんな、目だった?
僕は目を開いた。
手帳をめくる。師匠について書いたページ。
〔カルロ・ヴェネディス師匠。元四等紋章士。六十七歳の時に僕を拾い、薬学と紋章術の基礎を教えてくれた。口癖は「急ぐな、考えろ」。白髪交じりの灰色の髪。大柄。いつも薬草の匂いがする〕
顔の描写がない。
なぜ書かなかった。当たり前だ。顔は覚えているのだから書く必要がないと思ったのだ。書いた時点では。
でも今、僕は師匠の顔を思い出せない。
髪は灰色だと記録してある。体型は痩せ型。口癖も覚えている。声は――声は微かに覚えている。低くて穏やかな声。
でも顔が、ない。
目の色は? 鼻の形は? 笑った時の皺の寄り方は?
全部、霧の向こうだ。
手のひらが冷えている。指先が痺れている。
これが代償だ。
村で名前が薄れた。今度は顔が消えた。次は何だ。声か。薬草の匂いか。師匠と過ごした日々そのものか。
「シエル?」
リーゼの声が遠くから聞こえた。
「……ん」
「顔色、すごく悪い。大丈夫?」
「大丈夫。少し疲れただけだ」
また嘘だ。大丈夫じゃない。何も大丈夫じゃない。
でも彼女にはこれ以上心配をかけたくない。彼女だって今日、恐ろしい思いをした。僕の呪眼を間近で見た。審問官に追われた。そして、自分の手が光るのを、僕に見られた。
「あのさ、シエル」
「なに」
「あたし——」
リーゼが何かを言おうとして、やめた。
代わりに、ベッドの横に椅子を引き寄せて座った。竪琴を膝に乗せる。
「一曲、弾いていい?」
「……好きにすればいい」
リーゼが弦を爪弾いた。
穏やかな旋律。聞いたことのある曲だ。旅の途中で何度か弾いてくれた、名前のない子守歌。
弦の響きが薄汚れた部屋に染み渡る。
右目の奥の痛みが、少しだけ和らいだ。
気のせいだ。気のせいだと思う。でも、彼女が歌う時、呪いが静まるのだ。最初に出会った夜からずっと。
なぜだ。吟遊詩人の歌にそんな力があるはずがない。
あの光と関係があるのか。
考えるな。今は考えるな。
僕はリーゼの曲を聴きながら、手帳を開いた。
新しいページ。
ペンを取る。
師匠の顔を、描こうとした。
スケッチの腕前は人並みだ。薬草のデッサンは日常的にやっている。人の顔くらい描ける。描けるはずだ。
描けるはずなのに。
ペン先が紙に触れて、止まった。
何を描けばいい。
輪郭は? 丸顔だったか、面長だったか。
目は? 大きかったか、細かったか。
口は? 笑っていたか、引き結んでいたか。
何も浮かばない。
師匠の姿が、首から上だけ白い霧に覆われている。体は思い出せる。薬草まみれの作業着。節くれだった指。いつも持っていた古い薬匙。
でも顔だけが、ない。
ペンが震えた。
紙の上に、震える線が一本だけ引かれた。顔の輪郭にも、鼻の線にもならない、ただの震えた線。
リーゼの曲が続いている。
彼女は僕を見ていない。目を閉じて、弦に指を滑らせている。僕に背を向けるように。
見ないでいてくれているのだ。
僕が今、何を失ったのか。何を描こうとして、描けなかったのか。彼女は気づいている。気づいていて、見ないふりをしている。
僕が彼女の光を見なかったように。
僕は手帳を閉じた。
震えるペンをしまった。
天井を見上げる。
安宿の天井は染みだらけで、ひび割れている。何の模様にも見えない。何の記憶にも繋がらない。ただの天井だ。
リーゼの曲が終わった。
静寂が落ちた。
「……シエル」
「うん」
「明日、この街を出よう」
「ああ。そうしよう」
「どこに行く?」
「……東。人が少ないところ」
「じゃあ、あたしがルート考えるね」
「頼む」
リーゼが立ち上がり、窓辺に移動した。外の様子を確認しているのだろう。追手の気配がないか。
僕はベッドに横になった。
天井を見つめる。
手帳を胸の上に置いた。
この手帳には、僕の全てが書いてある。忘れた記憶の代わり。失われた過去の残骸。
でも、描けなかったものは記録できない。
カルロ・ヴェネディス。
名前は覚えている。声は微かに覚えている。薬草の匂いも。「急ぐな、考えろ」という口癖も。
でも顔が、ない。
世界で一番大切だった人の顔が、もう思い出せない。
目を閉じる。
暗闇の中に、師匠の姿を探す。
作業台の前に立つ後ろ姿。振り返る。灰色の髪が揺れる。そして――
――白い霧。
顔があったはずの場所に、何もない。
僕は目を開けた。
天井の染みがぼやけて見えた。
涙が出ているわけではない。ただ、視界が霞んでいる。疲労のせいだ。きっと。
リーゼの鼻歌が聞こえる。窓辺で小さく歌っている。さっきとは違う曲だ。もっと明るい旋律。
その歌声を聞きながら、僕は手帳をもう一度開いた。
震える字で、一行だけ書いた。
〔師匠の顔を忘れた。もう描けない。名前はまだある。声もかろうじて。でも顔が思い出せない。僕は壊れていく。少しずつ、確実に〕
ペンを置いた。
手帳を閉じた。
リーゼの歌が、薄暗い部屋に染みていく。
明日、この街を出る。
審問官から逃げる。また別の街で、別の偽名を使って、別の嘘をつく。
それでも彼女は僕の隣にいるだろうか。
いてほしい、と思った。
いてほしくない、とも思った。
僕の傍にいれば、彼女も追われる。僕の秘密に巻き込まれる。でも彼女がいなくなったら、僕の呪いは加速する。彼女の歌がなければ、僕はもっと速く壊れていく。
利己的だ。
彼女を傍に置く理由が利己的だ。
でも、理由はそれだけじゃない。
彼女が笑うと、世界が少しだけ明るくなる。彼女がくだらないことを言うと、僕は呆れながらも口元が緩む。彼女が竪琴を弾くと、右目の痛みを忘れられる。
それは利己的なんだろうか。それとも――
「シエル、寝た?」
「起きてる」
「お腹すかない? あたしお腹すいた」
「……市場で何か買ってくるか」
「あたしが行くよ。シエルは怪我してるんだから」
「一人で出るな。危険だ」
「じゃあ一緒に行こう。ゆっくり歩けば大丈夫でしょ?」
僕は体を起こした。脇腹が痛んだ。でも歩けないほどではない。
「……行くか」
「何食べたい?」
「何でもいい」
「じゃあ、あたしが決めるね。この前見つけた屋台のシチューが美味しそうだったの」
「君の選ぶ店は当たり外れが激しい」
「当たりの方が多い!」
「前回は腹を壊した」
「あれは例外!」
リーゼがむくれた顔で扉を開ける。
僕はその後に続いた。
薄暗い廊下を歩きながら、ふと隣の彼女を見た。
蜂蜜色の髪。翡翠の瞳。小さな背中に括りつけた竪琴。
彼女は振り返って、笑った。
「どうしたの?」
「いや、何でも」
何でもない。
ただ、この顔は忘れたくない、と思っただけだ。
手帳に書くまでもなく、覚えていたい顔だ。
でも僕の記憶は、いつか全て消える。
師匠の顔がそうだったように。
だからいつか、彼女の顔も――
「シエル、早く早く! お店閉まっちゃう!」
「……行く」
僕はその考えを振り払って、彼女の後を追った。
夕暮れのルミエール。
橙色の光に染まった石畳を、二人で歩く。
偽名の薬師と、偽名の吟遊詩人。
互いの嘘を抱えたまま、互いの秘密を暴かないまま。
でも今だけは、隣を歩いている。
それだけで十分だと、嘘でもいいから思っていたかった。
――夜。
リーゼが眠った後、僕はもう一度手帳を開いた。
師匠の顔を描こうとした最後のページ。震えた一本線だけが残っている。
ペンを持つ。
もう一度、試す。
輪郭を描こうとする。丸いのか、面長なのか。わからない。何も浮かばない。
目を描こうとする。大きいのか、小さいのか。わからない。
ペンが震える。線が歪む。紙の上に生まれるのは、人の顔ではなく、ただの震えた線の集まりだ。
やめた。
ペンを置いた。
手帳のそのページを見つめた。
白い紙の上の、一本の震えた線。
それが今の僕に残された、師匠の顔の全てだ。
隣のベッドで、リーゼが寝息を立てている。穏やかな呼吸。
僕は手帳を閉じ、枕元に置いた。
目を閉じる。
暗闇の中に、もう一度だけ師匠の姿を探す。
――白い霧しか、見えなかった。
── リーゼ side ──
白い外套が雪崩れ込んできた瞬間、あたしの頭の中を一つの選択肢がよぎった。
使える。あたしの力を使えば、この場を切り抜けられる。
聖女の浄化。紋章術とは異なる、もっと根源的な力。穢れを祓い、呪いを鎮め、傷を癒す光。あたしの手のひらから放たれるあの金色の輝きは、審問官たちの展開する紋章を無力化できるはずだ。
使えば——シエルが呪眼を使わなくて済む。
なのに。
あたしの手は竪琴を抱いたまま、動かなかった。
正体がバレる。聖女だと知られたら、教会に捕まる。ヴェルハイデの王女だと知られたら、殺される。五年間必死に隠してきた全てが、一瞬で崩れる。
怖かった。
その恐怖が、あたしの手を止めた。
そしてその一瞬の臆病さが——シエルに呪眼を使わせた。
「少し、目を瞑っていて」
シエルの声は穏やかだった。いつもの「大丈夫」の嘘と同じトーンで、あたしを守ろうとする声。
眼帯を外した瞬間、空気が変わった。温度が下がったわけじゃない。音が消えたわけでもない。でも——世界の質感が変わった。あたしの聖女の力が、本能的に反応していた。「見るな」と。「あの光を直視するな」と。
あたしは目を瞑らなかった。
薄目を開けて、見ていた。
シエルの右目が金色に輝いていた。あの夜と同じ色。五年前、燃える城下町であたしを救った少年の目と同じ光。
美しかった。そして——恐ろしかった。
封鎖紋章が砕ける。審問官たちが動揺する。シエルが淡々と紋章を解体していく。まるで糸を一本ずつ抜いていくように。機械みたいに正確で、感情が抜け落ちた声で「動かないでもらえるかな」と言った。
あの声は、シエルの声じゃなかった。
呪眼が起動している時のシエルは、別人になる。いつもの不器用な優しさが消えて、全てを見透かす冷たい目になる。人間を、構造物として見る目。
怖い。でも目を逸らせなかった。
屋根の上を走っている時、シエルの手を握った。冷たかった。汗ばんでもいなかった。呪眼が起動している間、痛みも恐怖も感じていないのだ。体がどれだけ悲鳴を上げていても。
ガルシアの空間固定紋章を砕いた瞬間。
あたしは見た。
シエルの右目の光が一段強くなって——それから、彼の体が一瞬、揺らいだ。物理的な揺れじゃない。もっと深い——存在そのものが揺らいだような。
何かが消えた。
シエルの中から、何かが消えた。それはあたしの聖女の感覚が告げていた。さっきまであった温度が、一つ失われた。記憶という形の、灯火が一つ。
——あたしが力を使えば、よかった。
あたしが臆病じゃなければ。あたしが正体を晒す覚悟があれば。この人に呪眼を使わせなくて済んだ。
この人からまた何かを奪わなくて済んだ。
あたしの臆病が、この人を壊した。
安宿の部屋で、シエルが手帳をめくっている。
あたしは椅子に座ったふりをして、横目で見ていた。
最初は落ち着いた手つきだった。ルミエールの記録を読み返している。市場の値段。宿の部屋番号。あたしとの会話。
それからページが遡っていく。呪われた村の記録。師匠についての記述。
シエルの指が止まった。
ページの上で、指先がかすかに震えていた。
何かを探している。何かを確認しようとしている。見つけたくて、見つけたくなくて。
シエルが目を閉じた。
何かを思い浮かべようとしている顔。記憶の中を手探りで歩いている顔。暗い部屋で落とし物を探しているみたいに、手を伸ばして、触れようとして——
届かない。
目を開けた時の、シエルの瞳。
あたしは息を止めた。
あの目を、知っている。故郷を失った人間の目。探しても見つからないものがあると気づいた時の、絶望ではない、もっと静かな——諦めの手前にある、空白。
シエルが手帳をもう一度開いた。新しいページ。ペンを取って、何かを描こうとしている。
輪郭を描こうとしているのだとわかった。人の顔の輪郭。
ペンが止まった。震える線が一本引かれて——それきり。
描けない。
思い出せないから。描けない。
——師匠の顔を、失ったんだ。
あたしは理解した。あの村で名前の実感が薄れて、今度は顔が消えた。この人にとって世界で一番大切な人の顔が、呪眼の代償として奪われた。
あたしのせいだ。
あたしが力を使わなかったから。
涙が出そうになった。奥歯を噛んだ。泣くな。ここで泣いたら、シエルが気づく。あたしが泣いたら、この人は自分のことより先にあたしを心配する。そういう人だ。自分が壊れているのに、人のことばかり気にする、馬鹿みたいに優しい人。
だから——背を向けた。
竪琴を膝に乗せて、シエルに背を向けるように椅子の角度を変えた。
「一曲、弾いていい?」
「……好きにすればいい」
弦に指を置いた。
見ないであげること。それがあたしにできる精一杯だった。
泣いている人を正面から見つめるのは残酷だ。「大丈夫?」と訊くのも。「泣いていいんだよ」と言うのも。全部、余計なお世話だ。
この人が今欲しいのは、言葉じゃない。静かな時間だ。崩れかけた何かを——震える手で必死に支えている間、誰にも見られずにいられる時間。
だから背を向けて、弾いた。
あの歌を。お母様が教えてくれた歌を。ヴェルハイデの祈りの歌。
『銀の月が沈む夜に、旅人は丘に立つ——』
あたしの中にある力を、意識して歌に込めた。聖女の浄化。祈りの力。うまくできているかわからない。でもあの村で歌った時、シエルの痛みが和らいでいるように見えた。あたしの歌が少しでもあの人の呪いを鎮められるなら。
弾きながら、指先がかすかに金色に光っている気がした。気のせいかもしれない。でも、祈りは込めた。精一杯の。
背中越しに、シエルの気配を感じている。手帳を閉じた音。ペンをしまう音。ベッドに横になった気配。
——泣いているのかもしれない。泣いていないのかもしれない。
どちらでもいい。あたしは見ない。見ないと決めた。
この人の涙を覗くのは、この人の記憶を覗くのと同じだ。許されていないものに手を伸ばすのと同じだ。
だから歌う。背を向けて、歌う。
曲が終わった。
静寂が落ちた。薄暗い部屋に、あたしの弦の残響だけが微かに震えている。
シエルが天井を見つめている気配がした。
あたしは窓辺に移動した。外の様子を確認するふりをして、実際には自分の顔を整えるための時間が欲しかった。
窓ガラスに映るあたしの顔。目が赤い。泣いていないのに、赤い。こらえているだけで、体は正直に反応する。
あの夜を思い出していた。
五年前。燃える城下町。あたしの手を引いて逃がしてくれた少年。安全な場所まで導いてくれた後、右目を押さえて崩れ落ちた少年。
あの少年も——目を使った後に、壊れた。
シエルも今、同じように壊れていく。治療のたびに。あたしを守るたびに。呪眼の代償として記憶を差し出して、少しずつ、自分自身が削れていく。
もしこの人が本当にあの少年なら。
五年前、あたしを助けた代償で、何かを失ったのだろうか。あの夜の記憶を。あたしを救った記憶を。十四歳の女の子を逃がすために右目を光らせて、その代償に——何を。
五年前から、ずっと失い続けているのだろうか。
あたしを助けた、あの一瞬から。
窓ガラスに額を当てた。冷たいガラスが、熱い額に心地よかった。
小さく、口が動いた。声にはならなかった。
——……ごめんね。あたしを助けたせいなら、ごめんね。
涙が一滴だけ、頬を伝った。手の甲で拭った。一滴だけ。それだけ。
振り返った。
シエルがベッドに横たわっている。手帳を胸の上に置いて、天井を見つめている。あの手帳の中に、もう描けなくなった師匠の顔がある。震えた線が一本だけ残ったページ。
あたしは深呼吸した。
笑おう。笑わなきゃ。あたしまで沈んだら、この部屋は真っ暗になる。
笑顔を作った。五年間磨いてきた、あたしの一番の嘘。
「シエル、お腹すかない? あたしお腹すいた」
声が震えていないか確かめた。大丈夫。いつもの調子だ。
「……市場で何か買ってくるか」
「あたしが行くよ。シエルは怪我してるんだから」
「一人で出るな。危険だ」
「じゃあ一緒に行こう。ゆっくり歩けば大丈夫でしょ?」
日常を取り戻す。いつもの会話を取り戻す。それが今、あたしにできる最善。
シエルが体を起こした。痛そうな顔をして、でも「行くか」と言った。
あたしは扉を開けた。薄暗い廊下に出て、振り返って笑った。
シエルがあたしを見ていた。何を考えているかわからない目。でもその目の奥に、微かな——ほんの微かな、安堵のようなものが見えた。
あたしがいつも通りだから。あたしが笑っているから。世界がまだ壊れていないと、そう思えるから。
それでいい。あたしの笑顔がそういう役割なら、いくらでも笑う。
屋台のシチューの話をしながら、あたしは隣を歩いた。
脇腹に包帯を巻いた薬師と、竪琴を背負った嘘つきの吟遊詩人。夕暮れのルミエールの石畳を、肩を並べて歩く。
泣かない。あたしは泣かない。
だってあたしが泣いたら、シエルが気を遣うでしょ。
「大丈夫か」って、自分が全然大丈夫じゃないくせに、あたしのことを心配するでしょ。
だから笑う。
笑って、くだらない話をして、ご飯を食べて。
明日もその次の日も、隣を歩いて。
この人が忘れていくものを、あたしが覚えていればいい。この人が失った記憶の分だけ、あたしが歌えばいい。あたしの歌が少しでも呪いを鎮められるなら、一生歌い続ける。
——今度こそ。今度こそ、置いていかない。
五年前みたいに、背中を向けて走らない。
あの路地で倒れていた少年を、今度は置き去りにしない。