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第五章

呪いの子

〔百三十一日目。ルミエールを脱出し、東の森を抜けている。追手の気配は薄れたが消えてはいない。右目の疼痛は中程度。師匠の名前は手帳を見れば読める。だが顔は思い出せない。もう二度と思い出せない気がする〕


 森に入って三日目の朝だった。

 空はまだ白んだばかりで、木々の隙間から淡い光が漏れている。冷えた空気に落ち葉の匂いが混じる。僕は焚き火の残り火に枝をくべながら、手帳を開いていた。

 昨夜の記録。逃走経路の確認。食料の残量。右目の状態。全て自分の筆跡だが、書いた時の記憶は鮮明だ。まだ直近の記憶は保っている。

「おはよー」

 外套を頭から被ったリーゼが、もぞもぞと起き上がった。蜂蜜色の髪が盛大に跳ねている。寝癖だ。

「もう火つけてくれたんだ。ありがと」

「水を沸かしてある。顔を洗え」

「はーい」

 リーゼは欠伸をしながら水桶に向かった。ばしゃばしゃと音を立てて顔を洗う。いつもの朝だ。逃亡中だという事実を除けば。

 ルミエールを発って三日。南東の森林地帯に入り、街道を避けて獣道を進んでいる。審問官が検問を敷いているのは幹線街道だ。森の中までは追えない。追えないはずだ。

 だが、嫌な予感が消えない。

「シエル、朝ごはん何にする?」

「残りの干し肉と、昨日採った山菜で粥を」

「了解。あたしが作るね」

 リーゼは手際よく鍋を火にかけた。水を入れ、干し肉を裂いて放り込む。山菜を刻む手つきは日に日に慣れている。旅の生活が彼女の手を変えたのか、それとも元々こういう技術を持っていたのか。

 粥の匂いが立ち昇る。

 その匂いを嗅いだ瞬間、右目の奥がきりっと痛んだ。

 反射的に眼帯を押さえる。呪いの鼓動が強くなっている。昨夜より悪い。ルミエールであれだけ呪眼を使った代償が、じわじわと体に回っている。

「大丈夫?」

 リーゼが振り返った。彼女はもう「顔色悪いよ」とは言わない。その代わり「大丈夫?」と訊く。そして僕が「大丈夫だ」と答えることも、それが嘘だということも、知っている。

「大丈夫だ」

「うん」

 それだけだった。それだけで十分だった。


 粥を食べ終えて出発の準備をしていた時だった。

 音が聞こえた。

 最初は小動物だと思った。茂みの向こうで何かが動いている。落ち葉を踏む音。不規則で、弱い。獣にしては軽すぎる。

「シエル」

 リーゼも気づいている。竪琴を背負い直しながら、音の方向を見据えた。

 僕は薬箱の蓋を閉め、外套のポケットに煙幕の小瓶を確認した。いつでも取り出せる位置。

 茂みが揺れた。

闇の中の少女

 出てきたのは、子供だった。

 小さな体。汚れた衣服。裸足。髪は絡まって団子になり、顔は泥で汚れている。十歳くらいの少女。

 少女は僕たちを見て、凍りついた。

 大きな瞳が恐怖に見開かれている。濡れた唇が震えている。逃げようとして足がもつれ、地面に転んだ。

「待って、大丈夫だよ」

 リーゼが素早く動いた。僕より先に少女の傍に膝をついている。

「怪我してない? あたしたちは怖い人じゃないよ」

 少女はリーゼを見上げた。逃げたい。でも体が動かない。そんな顔をしていた。

 僕は少女の状態を薬師の目で観察した。

 痩せている。頬がこけ、手足が枝のように細い。数日間ろくに食べていない。足の裏が血だらけだ。裸足で長い距離を歩いた、あるいは走った痕跡。

 だが、それよりも。

 少女の首筋から鎖骨にかけて、黒い紋様が浮いていた。

 衣服の襟元から覗く、幾何学的な模様。

 呪紋だ。

 心臓が跳ねた。右目が反射的に疼く。

「……名前は」

 僕は少女の前にしゃがみ込んだ。なるべく低い声で、脅かさないように。

「わたし、は」

 声が掠れている。喉が乾いているのだ。

 リーゼが水筒を差し出した。少女はおそるおそる受け取り、一口含んだ。二口目は我慢できずに一気に飲んだ。

「ゆっくりでいい。慌てなくていい」

「……ミラ」

 名前を聞いて、僕とリーゼは同時に顔を見合わせた。

 呪われた村の少女と同じ名前だ。偶然だろう。ミラという名前は珍しくない。

 だが偶然にしては、胸の奥が妙にざわついた。

「ミラか。僕はシエル。こっちはリーゼ」

「シエルは薬師で、あたしは吟遊詩人。旅をしてるの」

 リーゼは笑顔で自己紹介した。少女——ミラの警戒が、ほんのわずかに和らいだ。

「ミラ、一人でこの森にいるのか?」

 小さく頷いた。

「どこから来たの?」

「……にげてきた」

「逃げてきた? どこから?」

 ミラの体が震えた。唇を噛み、俯いた。

「いや、今は言わなくていい。無理しなくていい」

 僕は手を挙げてリーゼの追及を止めた。今この子に必要なのは訊問じゃない。

「薬師だから、体を診せてくれないか。怪我をしているだろう」

 ミラは少しの間、僕の顔を見つめていた。眼帯を。薬箱を。そして、僕の左手を。

 何を判断したのか、小さく頷いた。


 足の裏の傷を手当てしながら、僕は少女の体に刻まれた呪紋を観察した。

 首筋。肩。腕の内側。衣服をめくれば、おそらく全身に及んでいる。

 呪眼は使っていない。使わなくても、薬師の目で見てわかることがある。

 紋様の配置。線の太さ。曲線の角度。幾何学模様の基底構造。

 それらが、記憶の奥底で何かと重なった。

 手帳を見るまでもなかった。忘れたくても忘れられない。二年前、あの村で見た紋章。マルヒェン村を壊滅させた呪いの残滓。現場に残されていた紋章の痕跡。

 教会式の呪詛術式。六角形の基底構造。

 似ている。

 いや。似ているどころではない。

 右手が震えた。消毒液を塗っている指先が、微かに。

「いたい?」

 ミラが不安そうに僕を見上げた。

「いや、少し染みるだけだ。すぐ終わる」

 声は平静を装った。内心は嵐だった。

 この紋章パターンを知っている。手帳に何度もスケッチした。夢に見た。二年間、ずっと追いかけてきた。

 だが今は、この子の治療が先だ。

「リーゼ、包帯を」

「はい」

 リーゼが革鞄から包帯を取り出して手渡してくれた。ミラの足を丁寧に巻く。

「ミラ、お腹は空いてないか」

 少女の目が光った。空腹の証拠だった。

「残り物だけど、粥がまだある。温め直そう」

 リーゼが鍋を火にかけ直した。ミラはそれを食い入るように見つめていた。


 ミラは粥を三杯食べた。

 一杯目は両手で椀を抱え、がむしゃらに啜った。二杯目はようやく息をつきながら。三杯目は、少しだけ速度が落ちて、味を確かめるように。

「美味しい?」

 リーゼが椀を受け取りながら訊いた。

 ミラは頷いた。目の縁が赤くなっていた。

「もっと食べる?」

「……いい。もう、おなかいっぱい」

「そっか。よかった」

 リーゼはミラの頭を撫でた。自然な仕草だった。まるで昔からそうしてきたかのように。

 僕は少し離れた場所に座り、手帳を開いていた。書くべきことが多い。

〔百三十一日目。追記。森の中で少女を発見。名前はミラ。推定十歳。全身に呪紋あり。裸足で逃走した形跡。極度の衰弱と脱水。何らかの施設から逃げてきた模様。詳細は本人が話せるようになるまで待つ〕

〔呪紋のパターンについて。教会式六角形基底構造。確認が必要。必ず確認する〕

 手帳を閉じた。

 焚き火の向こうで、リーゼがミラの髪を梳いている。絡まった髪を指で丁寧にほぐしながら、何か話しかけている。ミラの強張った肩が、少しずつ下がっていくのが見えた。

 リーゼは、人の傍に寄り添うのがうまい。それが本能なのか技術なのか、あるいはその両方なのか。

 リーゼの手がミラの首筋の呪紋に触れた瞬間、彼女の動きが止まった。

 一瞬だけ。

 それからすぐに何事もなかったように髪を梳き続けたが、僕はその一瞬を見逃さなかった。

 リーゼも気づいたのだ。この呪紋が、ただの病気の痕ではないことに。


 昼過ぎ、ミラは疲労の限界に達して眠った。

 リーゼが自分の外套をかけてやり、木の根元に寝かせた。少女の寝顔は安らかだった。安全な場所で眠れることの安心感が、小さな顔に滲んでいた。

 ミラが眠っているのを確認してから、リーゼが僕の隣に来た。

「シエル」

「ああ」

「あの子の体の模様。あれ——病気じゃないよね」

 直接的だった。リーゼにしては珍しく、回りくどい言い方をしなかった。

「呪紋だ」

「呪い?」

「紋章術で構成された呪詛。あの村で見たのと同じ類いのものだ」

 リーゼの表情が険しくなった。

「あの村って——ゴルドさんの村?」

「ああ。同じ系統の術式。ただ、あの村の呪いは水に溶かして広範囲に散布するタイプだった。ミラの呪紋は直接体に刻まれている。もっと根が深い」

「治せる?」

 沈黙が落ちた。

 治せる。呪眼を使えば。代償に何を失うか分からないが。

「……時間が要る」

「そう」

 リーゼはそれ以上訊かなかった。僕の曖昧な返事の裏にあるものを、察しているのだろう。

「ねえ、シエル」

「なんだ」

「あの子、『逃げてきた』って言ったよね」

「ああ」

「教会の巡回司祭があの村に呪いを撒いた。ミラの体にも教会式の呪いが刻まれてる」

 リーゼは遠くを見ていた。木々の隙間から覗く空を。

「教会が、子供に呪いを刻んでるの?」

 その声に怒りが滲んでいた。

 リーゼの怒りを見るのは初めてだった。普段は笑っている。困った時も、怖い時も、最後は笑顔で乗り切る。それが彼女の仮面だ。

 でも今、仮面の下から別のものが覗いていた。

「確証はない。でも——」

「でも?」

「可能性は高い」

 リーゼは唇を引き結んだ。翡翠の瞳に浮かぶ感情は、怒りだけではなかった。もっと古くて深い何か。個人的な何か。

 僕は訊かなかった。

「とにかく、ミラが起きたら話を聞こう。無理にじゃない。話せる範囲で」

「うん。あたしが聞くよ。シエルは怖い顔してるから」

「怖い顔はしていない」

「してるよ。眉間にしわ寄ってる」

 僕は意識して眉間の力を抜いた。リーゼが小さく笑った。

 だがその笑顔も、いつもの八十パーセントくらいだった。


 夕暮れ、ミラが目を覚ました。

 最初は自分がどこにいるか分からないようで、体を硬くした。だがリーゼの顔を見て、少しだけ安堵の色を浮かべた。

「おはよう。よく眠れた?」

「……うん」

「お腹すいてない? 今からスープ作るよ」

 リーゼは鍋に水を張り、干し肉と根菜を入れた。森で採ったきのこも少し加える。僕が毒見を済ませた種類だけだ。

「ミラも手伝う?」

 リーゼがきのこの束をミラに渡した。少女は戸惑いながらも、小さな手できのこをちぎった。不揃いの大きさ。でもリーゼは「上手だね」と笑った。

 僕は火の番をしながら、二人を見ていた。

 リーゼがミラに話しかける。ミラが小さな声で答える。リーゼが笑う。ミラの口元が、ほんのわずかに緩む。

 時間をかけて、一枚ずつ警戒の殻を剥がしている。

「はい、できた!」

 スープが煮上がった。椀に三つ、均等に盛り分ける。立ち昇る湯気を、ミラが両手で包むように受け止めた。

「あつい」

「ふーふーしてから飲むんだよ」

 ミラは言われた通り、ふーふーと息を吹きかけた。一口含んで、目を丸くした。

「おいしい」

「でしょ? あたしの得意料理なんだ」

「リーゼお姉ちゃんが作ったの?」

 お姉ちゃん。

 リーゼの手が一瞬止まった。そしてすぐに笑った。今度は百パーセントの笑顔だった。

「そうだよ。お姉ちゃんが作りました」

「おいしい」

「いっぱい食べてね」

 ミラはもう一口、もう一口とスープを飲んだ。冷えた体に温かいものが染み渡っていくのが、表情でわかった。

 僕は自分の椀を手に取った。

「シエルさんも、作ったの?」

 ミラが僕を見た。

「いや。僕は火の番をしただけだ」

「火の番も大事だよ。あたし一人じゃ火つけられないし」

 リーゼがフォローした。余計なお世話だ。

「シエルさんは、お兄ちゃん?」

 スープを飲む手が止まった。

「お兄ちゃん?」

「リーゼお姉ちゃんの、お兄ちゃん?」

「いや、僕たちは兄妹じゃない」

「じゃあ何?」

「旅の仲間だ」

 リーゼが横で意味ありげに笑っている。「旅の仲間って認めた」と言いたげな目をしている。放っておく。

「でも一緒にいるんだから、家族みたいだね」

 ミラの言葉に、場が静かになった。

 家族。

 僕にはもう家族と呼べる人間はいない。リーゼにも、おそらく。

 だがミラは家族の形を知っている。知っているからこそ、目の前の関係をそこに当てはめようとする。

「そうだね。今は家族みたいなものかも」

 リーゼがそう言った。軽い口調で。でもその声の奥に、何かが震えていた。

「じゃあ、シエルさんはお兄ちゃんだ」

「……好きに呼べばいい」

「やった。お兄ちゃん」

 くすぐったい。その呼び方は、胸の奥のどこかを不器用に突いた。

 リーゼが肩を揺らして笑っている。後で何か言われるのは確実だ。


 スープを食べ終えた後、焚き火を囲んで三人で座った。

 ミラはリーゼの隣にくっついている。まだ完全に心を開いたわけではないが、リーゼの温かさに引き寄せられているのは明らかだった。

「ねえミラ」

 リーゼが穏やかな声で言った。

「無理に話さなくていいんだけど。逃げてきたって言ってたよね。どこから来たの?」

 ミラの体が強張った。両手で膝を抱え込む。

「……教会の、施設」

「施設?」

「おっきな建物。森の中にあった。白い壁の」

 僕は手帳をそっと開いた。記録を取る。

「そこに何人くらいいた?」

 リーゼが優しく訊く。

「わたしと同じくらいの子が……十人、くらい」

「子供だけ?」

「大人もいた。白い服を着た人たち。司祭さまって呼ばなきゃいけなかった」

 司祭。教会の人間だ。

「その施設で、何をされたの?」

 ミラが黙った。沈黙が長かった。

 リーゼはミラの肩にそっと手を置いた。

「話したくなかったら、話さなくていいからね」

「……紋章を、刻まれた」

 小さな声だった。焚き火の音に紛れるほど小さい。

「痛かった。すごく、痛かった。泣いたら怒られた。動いたら縛られた」

 僕の右手が握りしめられていた。手帳を持つ指が白くなっている。

「毎日、紋章を増やされた。最初は腕だけだったのに、だんだん全身に。体が冷たくなって、力が出なくなって」

「他の子たちは?」

「……動かなくなった子がいた。連れていかれた。戻ってこなかった」

 焚き火が爆ぜた。

 沈黙の中で、風が木々を揺らす音だけが聞こえた。

「わたし、怖くなって。夜中に窓から逃げた。走って、走って、ずっと走って」

「ミラ」

 リーゼがミラを抱き寄せた。少女の小さな体が震えている。

「もう大丈夫だよ。ここにいていいからね」

「……お姉ちゃん」

 ミラがリーゼにしがみついた。声を殺して泣いている。声を出して泣くことすら教えられていないのだと思った。施設では泣いたら怒られた。だから声を殺す。

 リーゼがミラの背中を撫でている。その手が微かに震えているのを、僕は見ていた。

 彼女の目にも、光るものがあった。


 ミラが泣き疲れて眠った後。

 リーゼは少女を外套で包み、そっと寝かせた。

「シエル」

 リーゼの声は低かった。普段の明るさが完全に消えている。

「教会が、子供を集めて呪いの実験をしてる」

「……ああ」

「許せない」

 短い言葉だった。だがその声に込められた感情の密度は、僕が知るリーゼの中で最も高かった。

 彼女はミラの寝顔を見つめていた。翡翠の瞳に映る焚き火の光が、揺れている。

「ルミエールで見つけた文書。ヴェルハイデの紋章が入っていたやつ」

「覚えている」

「あの文書の中に、『聖女再生計画』って言葉があったの」

 僕は黙って聞いた。

「意味はわからなかった。でも今、ミラの話を聞いて——繋がった気がする」

「聖女再生計画」

「うん。教会が聖女を人工的に作ろうとしている——そんなことが、あり得る?」

 あり得る。

 僕はかつて使徒だった。教会の上層部が何を考えているか、断片的にしか知らないが、それでも彼らが聖女の力をどれほど重視していたかは知っている。百年に数人しか生まれない聖女。呪いと穢れを浄化する唯一の力。それを人為的に再現できるなら——教会はあらゆる手段を使うだろう。

 子供を使った実験すら。

 だがその知識を口にすれば、なぜ僕がそんなことを知っているのか問われる。

「わからない。でも、教会が組織的に呪詛を使っているなら——相当深い闇がある」

「……そうだね」

 リーゼは何かを言いかけて、やめた。

 僕たちの間には、いつも同じ壁がある。互いの秘密。互いの過去。踏み込めば崩れる、嘘の上の均衡。

「ミラを、どうする?」

「どうする、とは」

「このまま連れていくのか。どこかに預けるのか」

 リーゼは即答した。

「連れていく。当たり前でしょ」

「逃亡中の僕たちが、子供を連れ歩くのは危険だ」

「置いていく方がもっと危険だよ。あの子一人で森にいたら死ぬ。それに教会が探してるんでしょ? あの施設から逃げた子供を」

 正論だった。反論のしようがない。

「……荷物が増えるぞ」

「増えるくらいがちょうどいいよ。三人の方が賑やかだし」

 リーゼは笑った。今度の笑顔は本物だった。守るべきものを見つけた人間の笑顔。

 僕はため息をついた。

「……好きにしろ」

「シエルの『好きにしろ』、大好き」

「変な言い方をするな」


〔百三十二日目。ミラを連れて移動を続ける。彼女の体力を考慮し、行軍速度を落とした。食料の消費が早い。二日以内に補給が必要。ミラの呪紋の観察を続けている。確信には至っていないが、嫌な予感は消えない〕


 四日目。

 ミラは少しずつ口数が増えていた。

「お兄ちゃん、あの花なに?」

「ナズナだ。止血に使える」

「お薬になるの?」

「ああ。葉を擂り潰して傷口に塗る。毒はない」

「へえ」

 ミラは僕の説明を真剣な顔で聞いた。子供特有の好奇心だった。

「じゃあ、あの赤いのは?」

「ヒヨドリバナ。これは薬にならない」

「毒?」

「いや。ただの花だ」

「きれいだね」

 ミラが笑った。

はじめてのお花冠

 この子が笑うのを見るのは初めてだった。ぎこちなくて、すぐに消える笑顔。だが確かに笑った。

「ミラちゃん、こっちにおいで。いいもの見つけた」

 リーゼが道端でしゃがみ込んでいた。ミラが駆け寄ると、リーゼは手のひらを開いた。小さな木の実が三つ。

「クルミだよ。割って食べると美味しいの」

「知ってる! 施設の裏に木があった。でも、取ったら怒られた」

「ここでは怒る人いないよ。好きなだけ食べな」

 リーゼはクルミを石で割り、中身をミラに渡した。ミラは口に入れて、目を輝かせた。

「おいしい」

「でしょ? お兄ちゃんにもあげなよ」

 ミラが僕にクルミを差し出した。小さな手のひらの上の、砕けた木の実。

「……ありがとう」

 受け取って食べた。素朴な味だった。

 リーゼと目が合った。彼女は微笑んでいた。少し切なそうに。


 夜。

 焚き火を囲んで三人でスープを飲む。今日の具材は野草と干し肉と、道中で見つけた山芋だ。リーゼが「お芋が入ると一気にごちそう感出るよね」と得意げだった。

「お姉ちゃんの作るスープ、毎日おいしい」

「ほんと? 嬉しいなあ。シエルに聞かせてあげて。あの人なかなか褒めてくれないから」

「お兄ちゃんも美味しいって言ってたよ。さっき」

「え、言ってた? あたし聞いてなかった」

「悪くない、って」

 リーゼが吹き出した。

「あー、シエルの『悪くない』ね。それ、最上級の褒め言葉なんだよ」

「そうなの?」

「そうそう。シエル辞典、あたしが教えてあげる」

 ミラがくすくす笑った。リーゼも笑った。

 焚き火の光に照らされた二つの笑顔を見ていると、奇妙な温かさが胸に広がった。

 僕は薬師だ。旅人だ。偽名の男だ。誰かの兄でもなければ、誰かの家族でもない。

 なのにこの場所は、不思議と居心地がよかった。

 ミラがリーゼに寄りかかっている。眠くなったらしい。

「おやすみ、ミラ。今日もいっぱい歩いたね」

「……おやすみ、お姉ちゃん」

「おやすみ、お兄ちゃん」

「……おやすみ」

 ミラは目を閉じた。

 リーゼがミラの髪を撫でながら、子守歌を口ずさんだ。あの旋律だ。ヴェルハイデの民謡。

 静かな歌声が夜の森に溶けていく。

 右目の痛みが和らぐ。いつもの通りだ。彼女が歌うと、呪いが静まる。

 でも今夜は、もう一つ気づいたことがある。

 ミラの首筋の呪紋が、わずかに薄くなっていた。

痛みを消す指先

 リーゼの歌を聴いている間だけ、黒い紋様の色が淡くなる。気のせいかと思って目を凝らしたが、間違いない。

 リーゼの歌が、ミラの呪いにも作用している。

 それはつまり。

 いや。今は考えるな。考えを口にするな。

 焚き火が爆ぜた。

 僕は手帳を開いて、今日の出来事を記録した。ミラが笑ったこと。クルミを分けてくれたこと。「お兄ちゃん」と呼ばれたこと。

 書きながら、自分でも驚いていた。

 手帳の記録は本来、記憶の保存のためだ。忘れないための備忘録。冷静で客観的であるべきだ。

 なのに最近、記述の温度が変わっている。食事の味。リーゼの笑顔。ミラの小さな手。そういうものを書き留めている。

 これは備忘録ではない。日記だ。

 いや、もしかすると——

 日記ですらないのかもしれない。

 失いたくないものの一覧表だ。


 五日目の朝。

 異変は、唐突に訪れた。

 僕が水を汲みに小川へ向かった時だった。

 キャンプから五分ほど離れた沢。岩場を流れる水は冷たく透き通っていた。

 水筒を沈めながら、周囲の気配を確かめる。鳥の声。風の音。虫の羽音。

 そして——足音。

 違う。足音ではない。もっと静かなもの。気配。

 僕は身を低くした。

 沢の対岸、茂みの向こうに影が動いた。一つではない。複数。

 白い布。外套の裾。

 僕の心臓が冷えた。

 教会の装束だ。

 追手が来た。

 だがどうやって? 森の中の移動経路は街道から外れている。見つかるはずが——

 ミラだ。

 ミラの体の呪紋。あれに追跡用の紋章が組み込まれていたとしたら。施設から逃げた実験体を回収するために、呪紋自体が発信機になっている。

 僕は水筒を掴んで走った。


 キャンプに戻ると、リーゼがミラの髪を結んでいた。

「シエル? どうしたの、すごい顔してる」

「荷物をまとめろ。三十秒」

 リーゼの顔色が変わった。

「追手?」

「南東の沢向こうに人影。教会の装束。三人以上」

 リーゼは一瞬たりとも迷わなかった。外套を羽織り、竪琴を背負い、荷物を鞄に押し込む。

 ミラが怯えている。

「お兄ちゃん、白い服の人——」

「大丈夫だ。絶対に渡さない」

 自分でも驚くほどはっきりと言っていた。

 ミラの手を取り、北へ走った。リーゼが横を走る。ミラの足は短い。全力で走っても大人の早歩き程度だ。

「シエル、抱えた方が早い」

「わかってる」

 僕はミラを背負った。軽い。痩せた十歳の少女は驚くほど軽かった。

 走る。木の枝を避け、根を跨ぎ、獣道を辿る。後方に気配を感じる。追ってきている。

「三人。いや、四人だ」

「速い?」

「僕たちよりは」

 リーゼが横を走りながら、竪琴のケースから何かを取り出した。金属製の小さな筒。

「何だそれは」

「非常用の発煙筒。旅芸人の小道具。煙幕になるよ」

「いつの間にそんなものを」

「ルミエールで買った。シエルの真似」

 呆れる暇もなかった。

「使え。ここの風は北から吹いている。南に投げれば煙が追手に向かう」

 リーゼが発煙筒に着火し、後方に投げた。白い煙が立ち昇り、風に乗って南東に流れていく。

 数秒稼げればいい。

 北の尾根に向かう。尾根を越えれば別の谷に出る。追跡紋章の有効範囲がどの程度かわからないが、距離を取れば信号は弱くなるはずだ。

「お兄ちゃん、わたしのせいだ」

 背中でミラが呟いた。

「わたしの体の模様が——教えてるんだ。居場所を」

 この子は知っていたのか。

「関係ない。悪いのは呪いを刻んだ奴だ」

「でも——」

「関係ない」

 二度言った。ミラが黙った。背中にしがみつく力が少し強くなった。


 尾根を越え、北の谷へ降りた。

 気配は遠のいている。完全に撒いたかは分からない。だが少なくとも、目視の範囲からは外れた。

 岩場の窪みに身を隠した。三人とも息が上がっている。

「はあ……はあ……。走ったー」

「リーゼ、発煙筒はあと何本ある」

「あと二本。もう一個買っておけばよかった」

「十分だ」

 ミラを下ろした。少女は僕の外套の裾を離さなかった。

「ミラ、大丈夫だ。もう離れた」

「……ほんとに?」

「ほんとだ」

 ミラの手を、僕の手で包んだ。

 冷たい。この子の手はいつも冷たい。呪紋が体温を奪っているのだ。

 だが——僕が触れた瞬間、微かな温もりが戻った気がした。

「お兄ちゃんの手、あったかい」

「そうか」

「施設の人たちは、冷たかった。触られるの嫌いだった」

「僕も普段は嫌いだ」

「でも、お兄ちゃんのはいい」

 小さな指が僕の手を握りしめた。

 胸の奥が痛んだ。右目ではなく、もっと深い場所。


 その夜は焚き火を焚けなかった。煙が追手に居場所を教える。

 暗い岩場で、三人寄り添うようにして座った。ミラが真ん中。リーゼが左。僕が右。

 リーゼが外套をミラにかけた。

「寒くない?」

「大丈夫。お姉ちゃんとお兄ちゃんがいるから」

 ミラは両手で二人の腕を掴んでいた。左手がリーゼの腕。右手が僕の腕。離すまいとするように。

「ねえ、お姉ちゃん」

「なあに?」

「歌、歌って。施設にいた時、夜が怖かった。でもお姉ちゃんの歌聴いたら、怖くなくなった」

 リーゼは微笑んだ。

「いいよ。小さい声でね」

 竪琴は弾けない。音が響く。だからリーゼは口だけで歌った。囁くような声で。

 あの旋律。ヴェルハイデの子守歌。

 古い言葉が夜の闇に溶ける。意味はわからない。でも旋律が伝えている。ここは安全だ。怖くない。眠っていい。

 ミラの呼吸が穏やかになっていく。

 やがて寝息に変わった。

 リーゼの歌が止まった。

 暗闇の中で、二人の呼吸だけが聞こえる。

「シエル」

「ああ」

「あの子を守ろう」

「ああ」

「それと、シエル」

「なんだ」

「ありがとう。あの子を背負って走ってくれて」

「当然のことをしただけだ」

「シエルの『当然のこと』って、普通の人にはできないよ」

 暗闇の中で、リーゼの声だけが温かかった。

「リーゼこそ。発煙筒、よく準備していたな」

「えへへ。あたしだって成長してるんだよ」

 小さな笑い声。

 闇の中でも、彼女が笑っているのがわかった。


〔百三十五日目。追手は撒いた。だがミラの呪紋に追跡機能が組み込まれている可能性がある以上、長居はできない。呪紋の無効化が必要だが、僕の薬学知識だけでは手が出ない。呪眼を使えば解析・無効化は可能だが——代償を考えると、安易には使えない〕

〔ミラが笑うようになった。リーゼがそばにいると特に。疑似家族のような形ができつつある。これを「幸せだ」と書くべきか迷う。幸せは失う前提の概念だから。でも今夜だけは、書いておく。温かい夜だった〕


 六日目の夜。

 ミラとリーゼが眠った後、僕は一人で手帳を開いた。

 月明かりが薄く岩場を照らしている。

 手帳を捲り、古いページを探した。

 あった。

 マルヒェン村の記録。二年前。呪眼がまだ今ほど進行していなかった頃。

 僕はあの村を救おうとした。村を覆った呪いを解こうとした。だが間に合わなかった。呪いは暴走し、村は壊滅した。僕は犯人に仕立て上げられた。

 その時のスケッチが残っている。震える線で描いた、呪いの紋章パターン。

 僕は新しいページを開いた。

 ペンを取り、ミラの呪紋を記憶を頼りにスケッチした。首筋の紋様。肩の紋様。腕の内側の紋様。

 描き終えて、二つのページを並べた。

 マルヒェン村の紋章と、ミラの呪紋。

 手が震えた。

 同じだ。

 基底構造が同じ。六角形の基盤。補助紋の展開パターン。魔素の流路設計。線の角度。曲線の半径。全てが一致している。

 細部に違いはある。マルヒェン村のものは広域散布型。ミラのは個体刻印型。だが設計思想は同一だ。同じ術者が、同じ理論に基づいて構築している。

 つまり——

 マルヒェン村の呪いと、ミラに刻まれた呪い。その背後にいるのは、同じ人間だ。

 二年前に僕の人生を壊した呪いと、今この少女を蝕んでいる呪いが、同じ手で作られている。

 偶然じゃない。

 教会は、同じ技術を使い続けている。村を壊滅させ、子供を実験台にし、聖女を人工的に作ろうとしている。

 全てが繋がっている。

 手帳を閉じた。

 ミラの寝顔を見た。小さな胸が規則的に上下している。首筋に浮かぶ黒い紋章が、月明かりに薄く浮かんでいる。

 この子の呪いは、あの村の呪いと同じ術者の仕業だ。

 確信した。

 月が雲に隠れた。闇が深くなった。

 僕は手帳を胸に抱えた。

 眠れないとわかっていた。二年間追い続けてきた真実の輪郭が、今夜ようやく形を成した。

 僕を犯人に仕立て上げた教会。

 ミラの体に呪いを刻んだ教会。

 ヴェルハイデを滅ぼした教会。

 リーゼが歌の中に隠す悲しみの源。

 全ての糸が、一つの場所に繋がっている。

 明日からは、ただ逃げるだけの旅ではいられなくなる。

 目を閉じた。暗闇の向こうに、師匠の姿を探す。いつもの癖だ。

 顔は見えない。白い霧だけがある。

 でも声が、微かに聞こえた。

 『急ぐな、考えろ』

 考える。必ず。

 この子を守るために。僕たちの旅を続けるために。

 全てを失う前に、真実に辿り着くために。


── リーゼ side ──

 四日目の夕方、スープの塩加減を調整していた。

 昨日、シエルが言ったのだ。「少し塩が強いかな」と。あの人にしては珍しく、味について具体的な感想だった。「悪くない」と「まずくはない」の二通りしか引き出しがないと思っていたから、「塩が強い」なんて明確な言葉が出たことに少し嬉しくなった。

 だから今日は塩を控えめにした。ほんの少し。あたしなりの気遣い。

 椀を渡した時、シエルはひとくち啜って、首を傾げた。

「今日は薄味だね」

 不思議そうな顔だった。なんでこんなに味が薄いんだろう、という、純粋な疑問の顔。

 ——あたしは笑った。

「そう? じゃあ明日は調整するね」

「ああ。頼む」

 それだけ。シエルはそれ以上何も言わずにスープを飲み干した。

 覚えていないのだ。昨日の自分が「塩が強い」と言ったことを。あたしがそれを聞いて、今日の味付けを変えたことを。昨日と今日が繋がっていない。あの人の中では、毎日の食事がそれぞれ独立した出来事になっている。

 慣れた。こういうこと。

 毎日のように起きる。あの人は覚えていない。あたしだけが覚えている。

 ミラが横から椀を差し出した。

「お姉ちゃん、おかわり」

「はいはい。いっぱい食べな」

 スープをよそいながら、あたしはミラの首筋にちらりと目をやった。黒い紋様は消えていない。リーゼの歌を聴いている間は少し薄くなる。でも歌が止まれば元に戻る。

 十歳の体に刻まれた呪い。教会が子供にやったこと。

 許せない、という感情は昨日と変わっていない。変わらないけれど、今はそれを脇に置いて、この子にスープをよそう。怒ることより、温めることの方が今は大事だ。


 食後、ミラがシエルの横にちょこんと座った。

「お兄ちゃん、昨日教えてくれた薬草の名前なんだっけ?」

「薬草?」

「うん。白い花のやつ。傷に効くって」

「ああ、ヤロウだ。ノコギリソウとも言う。葉を揉んで傷口に当てると止血効果がある。花は乾燥させて煎じると、熱冷ましになる」

 ミラは「へえー」と目を丸くして聞いていた。

 同じ説明だった。昨日と一語一句、同じ。イントネーションまで同じ。「葉を揉んで傷口に当てると」の部分で少し間が開くところまで同じ。

 ミラは気づいていない。十歳の子供にとって、大人の説明はいつだって新鮮だ。同じことを二度聞いても「昨日も聞いた」とは思わない。むしろ「ちゃんと教えてくれた」と喜んでいる。

 あたしだけが知っている。昨日の夕方、同じ場所で、同じ質問に、同じ答えが返ったことを。

 シエルが忘れたことを、あたしが覚えている。

 この小さな三人の生活の中で、あたしは「記憶」になっている。昨日と今日を繋ぐ、唯一の糸。シエルの手帳にはたくさんの記録がある。でも手帳に書けないことがある。スープの塩加減。薬草を教えた時の声の調子。ミラが笑った角度。そういう些細なことは、あたしの中にだけある。

 それは重荷じゃない。

 重荷だと思ったことは一度もない。

 でも、時々怖くなる。

 あたしまで忘れたら、この日々は消える。三人で焚き火を囲んだ夜のこと。ミラがシエルに「お兄ちゃん」と初めて呼んだ時のこと。シエルが照れくさそうに目を逸らしたこと。全部、消える。誰の記憶にも残らなくなる。

 だから覚えておく。あたしが。全部。


 夜になって、ミラが先に眠った。

 焚き火の傍で、シエルが手帳を書いている。ペンの音がかりかりと聞こえる。

 あたしは少し離れた場所に座って、二人を見ていた。

 シエルがミラの寝相を直している。外套がずれた肩にかけ直して、額に手を当てて熱がないか確かめている。薬師の手つき。でもそれだけじゃない。その手つきの奥に、不器用な優しさがある。

 ミラがシエルに懐いているのは、あたしにとって——嬉しいことだった。

 あの子は大人を怖がっていた。施設で白い服の人たちに何をされたか、全部は聞いていない。聞かなくても想像がつく。痛かった。泣いたら怒られた。動いたら縛られた。大人の手は冷たかった。

 そんなミラが、シエルの手を「あったかい」と言った。

 あの子が心を開ける大人がこの世にいることが、あたしには救いだった。

 シエルは自分のことを「普段は嫌いだ」と言っていた。人に触れられるのが。でもミラの小さな手を払いのけなかった。「好きに呼べばいい」と言って、「お兄ちゃん」を受け入れた。

 この人は優しい。

 本人は絶対に認めないだろうけど。

 優しくなければ、逃亡中に子供を背負って走らない。優しくなければ、夜中にミラの外套をかけ直したりしない。そういうことを自然にやるくせに、「当然のことだ」で片づけてしまう。

 ——五年前のあの夜も、そうだったんだろうか。

 燃える城下町の路地裏で、あたしの手を引いて走ってくれた少年。教会の人間なのに、あたしを助けた。代償で崩れ落ちた。「逃げていい」と言った。

 あの少年も、きっと「当然のことだ」と思っていたに違いない。

 シエルがミラを助ける姿を見るたびに、あの夜が重なる。背負って走る背中。迷わない足取り。「絶対に渡さない」という声。

 確信はまだない。

 でも確信に近い場所にいる。心臓がうるさい。この人が「あの人」であってほしいと願うたびに、体の奥の光がじわりと温かくなる。

 ——お願いだから、そうであってほしい。

 確かめるのが怖い。でも、確かめたい。

 今はまだ、この距離でいい。三人で焚き火を囲んで、スープの塩加減を言い合って、ミラの寝息を聞きながら手帳を書くシエルの横顔を見ている。この時間が、あたしにとっては何より大切だった。


 焚き火が小さくなって、虫の声が大きくなった。

 シエルが手帳を閉じて、少し離れた木の根元に背を預けた。考え事をしている。ミラの呪紋のことだろう。あの人の眉間には、いつもの皺が刻まれている。

 あたしは膝を抱えた。

 三人。あたしとシエルとミラ。家族みたい、とミラが言った。家族みたいなもの、とあたしが答えた。

 家族。

 あたしにはもう、本当の家族はいない。お父様も、お母様も、お姉様も。ヴェルハイデの城壁と一緒に焼けてしまった。レイヴンがどこにいるかもわからない。あたしは一人だった。ずっと。

 でも今は、三人だ。

 シエルが忘れることを、あたしが覚えている。ミラが怖がる夜に、あたしが歌を歌う。シエルがミラの傷を治して、あたしがスープを作る。みんなで役割がある。みんなで、支え合っている。

 壊れやすい家族だ。

 シエルの記憶はいつ消えるかわからない。ミラの体には呪いが刻まれている。あたしの正体はいつバレてもおかしくない。

 それでも。

 『銀の月が沈む夜に、旅人は丘に立つ——』

 口の中で、お母様の歌が零れた。声には出さない。ミラが起きてしまうから。

 『振り返れば故郷の灯、前を向けば星の道——』

 前を向けば、星の道。

 あたしの星は、二つある。不器用な薬師と、小さな女の子。

 独りだった空が、少しだけ賑やかになった。

 胸の奥から、あの頃の声がせり上がってきた。お母様の前で使っていた、もう一人のあたしの言葉。

 ——わたくしは、この日々を守ります。

 誰にも聞こえない声で、そう呟いた。お母様に聞かせるみたいに。

 呟き終えると、声はいつものあたしに戻っていた。焚き火のそばにいるのは王女じゃない。旅芸人のリーゼだ。

 たとえ明日、シエルが今日のことを忘れても。あたしが覚えているから。この温かさを、この焚き火の匂いを、ミラの寝息を。全部、あたしの中に仕舞っておくから。

 だから大丈夫。

 あたしがいる限り、この日々は消えない。

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