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第六章

情報屋の代価

〔百三十七日目。森を抜け、交易町グレイフォードに到着。小さな町だが地下街がある。裏社会の情報が集まる場所だと、道中で出会った行商人が言っていた。ミラの呪紋の追跡を遮るため、まず安全な拠点を確保する必要がある〕


 グレイフォードは灰色の町だった。

 石造りの建物が密集し、路地は狭く、空は建物に切り取られて細長い。港町のような活気はなく、かといって寂れてもいない。表通りには商店が並び、裏通りには名前のない酒場がひしめいている。

 街道の検問を避けて山道を抜けてきた。三人とも泥だらけだった。

「まず宿を取る。それから情報を集める」

「情報って?」

「ミラの呪紋を追跡している連中のこと。教会の施設の場所。それから——」

 僕は言葉を切った。

「それから?」

「呪紋を安全に無効化する方法」

 リーゼは頷いた。

 ミラは僕の外套の裾を握ったまま、町の様子をおそるおそる見回している。人混みが怖いのだ。施設の中にずっと閉じ込められていた子供にとって、知らない大人が大勢いる場所は恐怖でしかない。

「大丈夫だよ、ミラ。あたしとお兄ちゃんがいるから」

 リーゼがミラの手を取った。少女の強張りが少し和らぐ。

 宿は裏通りの目立たない安宿を選んだ。主人は口数の少ない老人で、余計な詮索をしないタイプだった。銀貨を三枚渡して三日分の部屋を取った。

 部屋に入り、扉を閉めた。

「リーゼ、ミラを頼む。僕は少し出てくる」

「一人で?」

「情報を集めるには一人の方がいい。二人連れは目立つ。三人連れはもっと」

「それはそうだけど……」

 リーゼの表情に不安が浮かんだ。

「二時間で戻る。戻らなかったら——」

「戻らなかったら?」

「窓から逃げろ。南の門を出て街道を西に。三日歩けば自由都市フェルマに着く」

「シエル」

 リーゼの声が硬くなった。

「あたしたちを置いて捕まるつもり?」

「そうは言っていない」

「言ってなくても、そういう段取りの話でしょ。やめて。一緒に行く」

「ミラを一人にできない」

 その一言で、リーゼは黙った。

 正論だった。ミラは一人にできない。追手がいつ来るかわからない。リーゼがそばにいなければ、ミラは恐怖で潰れてしまう。

「……二時間だからね。一分でも遅れたら探しに行くから」

「わかった」

 僕は外套のフードを深く被り、部屋を出た。


 グレイフォードの地下街は、表通りの雑貨屋の地下に入り口があった。

 石段を降りると、別の世界が広がっていた。

 天井の低い通路が迷路のように入り組み、壁にランプが等間隔で灯っている。酒場、賭博場、質屋、薬屋。表では扱えない品物が、ここでは堂々と取引されている。

 人の目が違う。品定めする目。値踏みする目。隙を窺う目。

 僕はカウンターだけの小さな酒場に入り、薬湯を一杯注文した。

 隣に座った男に訊いた。

「この辺りで、情報を売り買いできる場所は」

 男は僕を一瞥した。薬師の外套と薬箱を見て、少し警戒を緩めた。

「情報屋なら、奥の青い扉だ。ノクスって小僧がいる。何でも知ってるが、対価は高い」

「ノクス」

「見た目はガキだが、舐めるなよ。この地下街じゃ誰も逆らえない」

 礼を言って席を立った。

 奥へ進む。通路は狭くなり、ランプの間隔が広くなった。影が濃い。

 青い扉は通路の行き止まりにあった。古びた木の扉に、青い塗料が塗られている。

 ノックした。

「どうぞ」

 中から声がした。高い声。少年の声だ。

 扉を開けると、小さな部屋があった。壁一面に棚が並び、書類や地図や手帳が山積みになっている。部屋の中央に机が一つ。その向こうに椅子。

 椅子に座っているのは、少年だった。

影の取引

 外見は十四歳前後。色素の薄い銀灰色の髪が肩にかかっている。整った顔立ち。大きな琥珀色の瞳。華奢な体つき。どう見ても子供だ。

 だが、目が違った。

 少年の目は、子供の目ではなかった。深い。底が見えない。何十年もの時間が凝縮されたような瞳。

「いらっしゃい、薬師さん」

 少年——ノクスが微笑んだ。にこやかで、人懐っこい笑顔。だがその笑顔は、リーゼのそれとは本質的に違っていた。リーゼの笑顔は本音を隠す仮面だ。ノクスの笑顔は相手を油断させる道具だ。

「座って。何をお求め?」

「情報を」

「そりゃそうだ。ここは情報屋だもの。問題は、何の情報か。そして、何を対価に払えるか」

 僕は椅子に座った。ノクスとの間に机を挟む。

「教会の呪詛術式について知りたい」

 ノクスの琥珀の瞳が、一瞬だけ光った。興味の光だ。

「呪詛術式ね。具体的には?」

「各地で発生している呪いの病。あれは自然発生じゃない」

「うん、そうだね。それで?」

「あれが何なのか。誰が、何の目的で撒いているのか」

 ノクスは机に肘をついた。細い指を組み、その上に顎を乗せる。

「ずいぶん踏み込んだ質問だ。普通の薬師が聞くようなことじゃないね」

「普通の薬師かどうかは関係ない」

「関係あるよ。だって——」

 ノクスの笑顔が、ほんの少しだけ鋭くなった。

「普通の薬師は、教会式の呪詛が『六角形基底構造』で組まれてることなんて知らないからね」

 空気が凍った。

 僕は何も言っていない。六角形基底構造のことは、まだ一言も。

「驚いた? 僕は情報屋だよ。お客さんが何を知っていて、何を知らないか。来る前からだいたい分かってる」

「僕のことを調べたのか」

「調べるまでもないかな。ルミエールで審問官の封鎖紋章を一瞬で解体した薬師。二年前に死んだことになってる元第七使徒。名前は——」

「やめろ」

 声が低く出た。

 ノクスは首を竦めた。だが怯えてはいない。楽しんでいる。

「怒らないでよ。言わないから。本名は言わない。お客さんは『シエル』。それでいい」

「何が望みだ」

「望み? 情報屋に望みなんてないよ。あるのは取引だけ。僕は情報を売る。お客さんは対価を払う。シンプルでしょ」

 ノクスは机の引き出しから、一枚の羊皮紙を取り出した。テーブルの上に広げる。

 地図だった。大陸の広域地図。だがそこには、通常の地図にはない印が書き込まれている。赤い点が十以上。散在している。

「これは?」

「過去三年間で、呪いの病が発生した場所だよ」

 僕は地図を見つめた。赤い点の分布。北から南へ。東から西へ。一見すると無秩序に散らばっているが——

「パターンがある」

「さすが。気づくの早いね」

 赤い点を結ぶと、同心円のように広がっている。中心は——

「聖都プロヴィデンス」

「正解。呪いの病は、聖都を中心に放射状に広がってる。最初は近郊の村から始まって、徐々に範囲が拡大してる。まるで——」

「実験の範囲を広げているみたいに」

「そう。実験なんだよ、これ」

 ノクスは指で地図の一点を叩いた。

「教会が作った人工呪詛。コードネームは知らないけど、内部では『聖化処置』って呼ばれてるらしい」

「聖化処置」

「聖女の力を人工的に再現するための前段階。呪いを刻んで、生き残った個体から聖女の因子を抽出する——みたいなことを、教会の上層部が進めてる」

 血が引いた。

 ミラの顔が浮かんだ。あの施設で呪いを刻まれた子供たち。動かなくなった子は連れていかれた。

「子供を使ってるのか」

「子供の方が適合率が高いらしいね。大人は呪詛に耐えられずに死ぬ。子供は稀に生き残る。生き残った子供から、聖女の力の萌芽を——」

「聞きたくない」

 声が掠れた。

 ノクスが僕を見た。琥珀色の瞳に、一瞬だけ同情のような色が浮かんだ。すぐに消えたが。

「聞きたくなくても、知らなきゃいけないこともあるでしょ。特にあなたは」

「どういう意味だ」

「あなたが連れてる女の子。ミラっていうんだっけ。あの子の体に刻まれてるのも、この『聖化処置』の呪紋だよ」

 知っている。知っているが、他人の口から聞くと胃の奥が冷える。

「そして——ヴェルハイデ王国を滅ぼした時に使われたのも、同じ技術」

 リーゼの顔が浮かんだ。

「ヴェルハイデの何を知っている」

「五年前、教会が『聖戦』と称してヴェルハイデを滅ぼした。公式には『異端の温床の浄化』。でも実際の目的は——聖女の回収だった」

「聖女の回収」

「ヴェルハイデは、歴史上最も多くの聖女を輩出した国だよ。教会はその血統ごと欲しかった。聖戦は名目。本当の狙いは、聖女の血を引く女性を片端から捕まえること」

 胸が痛い。右目ではなく。

 リーゼの歌が蘇る。故郷を離れた旅人の歌。帰れない場所への祈り。

 彼女が隠しているもの。彼女が守り続けている秘密。

 ヴェルハイデの王女。

 聖女。

「……それで。あんたが売れる情報は、これだけか」

「いいや。まだある。でも、ここからは無料じゃない」

 ノクスは椅子の背にもたれた。少年の体が大人の仕草をする違和感。

「もっと詳しいことが知りたいなら——教会の前線拠点に行ってもらう必要がある」

「前線拠点」

「グレイフォードから東に二日の場所にある、教会の研究施設。表向きは修道院だけど、地下には呪詛の研究棟がある。そこに保管されてる文書を盗んできてほしい」

「何の文書だ」

「『聖化処置』の完全な術式記録と、実験の被験者リスト。それがあれば、教会が何をしてるか全貌がわかる。ミラの呪紋を解く手がかりにもなるかもしれない」

「かもしれない、か」

「確約はできない。でも、ないよりはましでしょ」

 確約できないと言いながら餌を吊るす。巧みな交渉だ。

「交換条件は?」

「文書を手に入れたら、僕に写しを一部くれればいい。原本はあなたが持ってていいよ」

「それだけ?」

「それだけ。僕は情報が欲しいだけだから。武力なんて要らない」

 話がうますぎる。だが。

「なぜ自分で取りに行かない」

「僕は情報屋であって、戦闘員じゃないからね。あの施設には審問官が常駐してる。入るには力がいる。僕にはない。でもあなたには——」

 ノクスが僕の右目を見た。眼帯の下を。

「あるでしょ」


 部屋に戻ると、リーゼとミラが待っていた。

 ミラはリーゼの膝の上で眠っていた。リーゼはミラの髪を撫でながら、窓の外を見ていた。

「おかえり。二時間きっかりだね」

「約束したから」

「何か分かった?」

 僕はリーゼの向かいに座り、ノクスから聞いた情報を話した。

 呪いの病が教会製の人工呪詛であること。ヴェルハイデ滅亡と同じ技術が使われていること。教会が聖女を人工的に作ろうとしていること。

 リーゼの表情が変わっていくのを見ていた。

 最初は真剣に聞いていた。ヴェルハイデの名前が出た時、唇が微かに震えた。聖女の話が出た時、目が鋭くなった。教会が子供を実験していると聞いた時、膝の上のミラを抱える腕に力が入った。

「……そう」

 一言だった。だがその一言に、凝縮された感情があった。

「ノクスという情報屋が、教会の前線拠点から文書を盗んでくることを条件に、さらに詳しい情報を渡すと言っている」

「行こう」

 即答だった。

「リーゼ」

「行くよ。教会の施設に潜入して、文書を取ってくる。それでミラの呪いを解く手がかりが見つかるんでしょ」

「『かもしれない』だ。確約ではない」

「かもしれなくても、何もしないよりいい」

「危険だ。審問官が常駐している」

「ルミエールでも審問官に囲まれたけど、逃げられたじゃん」

「あの時は僕が呪眼を——」

 言いかけて、止めた。あの時の代償。師匠の名前。ルミエールでの代償は、顔。どちらも、もう戻らない。

「シエル」

 リーゼの声が静かになった。

「あたしには、どうしても知らなきゃいけないことがあるの」

 翡翠の瞳がまっすぐに僕を見ていた。

 仮面が剥がれている。明るい吟遊詩人の仮面の下にある、別の誰かの目だ。

 決意の目。覚悟の目。

「ヴェルハイデが滅ぼされた本当の理由。教会が何をしたのか。あたしは知らなきゃいけない。どうしても」

「なぜだ」

 訊いてしまった。踏み込むべきではないと分かっていて。

 リーゼは答えなかった。ミラの髪を撫でる手が止まっていた。

「……あたしの理由は、今は言えない。ごめん」

「リーゼ——」

「でもお願い、シエル。この一つだけ、信じて。あたしは逃げたいんじゃない。向き合いたいの」

 彼女の声が震えていた。笑顔はなかった。

 僕はリーゼの笑顔が消えた顔を何度か見てきた。審問官の旗を見た時。夜中にかすかに泣いていた時。ヴェルハイデの文書を見つけた時。

 でも今の表情は、それらとも違った。

 強い。

 脆さの奥に、折れない何かがある。

「……僕は反対だ」

「シエル——」

「僕は反対だが、君を止める権利はない。君の人生は君のものだ」

 リーゼの目が揺れた。

「でも——」

「でも、だ」

 僕は言葉を選んだ。手帳に書く時のように。一文字ずつ、慎重に。

「……僕にも、守りたいものがある」

 ミラの寝顔を見た。そしてリーゼを見た。

「君たちを危険に晒すわけにはいかない。だからノクスの言う通りに動くのは反対だ。罠かもしれない」

「罠だったとしても——」

「罠だったとしても行くのか」

「行く」

 沈黙が落ちた。

 重い沈黙だった。焚き火のない部屋で、窓から入る街の喧騒だけが遠く聞こえている。

「リーゼ。僕は君を信じている。信じているから言うが——あの情報屋は信用できない」

「根拠は?」

「根拠じゃない。直感だ」

「シエルが直感で判断するの、珍しいね」

「珍しいから言ってる」

 リーゼが唇を噛んだ。

「あたしだって分かってるよ。ノクスってやつが胡散臭いのは。でも他に手がかりがないじゃん。ミラの呪いを解くにも、教会の真実を知るにも——あの情報屋を使うしかない」

「使うのはいい。使われるのは駄目だ」

「何が違うの」

「主導権がどちらにあるかだ。ノクスは僕たちに潜入を持ちかけた。つまり、僕たちを道具として使おうとしている。その構図のまま動けば、向こうの思う壺だ」

 リーゼは黙った。

「だから、行くにしても条件を詰める。作戦を立てる。こちらのペースで動く。それが最低条件だ」

「……それなら、行ってもいいの?」

「行ってもいいとは言ってない」

「言ってるようなものでしょ」

 リーゼが少しだけ笑った。疲れた笑顔だった。

「ありがとう、シエル」

「礼を言われるようなことはしていない」

「してるよ。あたしの話を聞いてくれた」

 そう言って、リーゼはミラの髪を撫でた。

 眠っている少女の寝息が、静かに部屋に満ちている。


 翌朝、僕は再びノクスのもとを訪れた。

 今度はリーゼと一緒だった。ミラは宿に残した。リーゼが教えた鍵の閉め方と、「絶対に扉を開けないこと」という約束を守ってくれると信じるしかなかった。

「おや。お連れさんも一緒?」

 ノクスがリーゼを見て、にこりと笑った。

「リーゼさんだっけ。はじめまして、ノクスです。よろしくね」

「よろしく。あんた、見た目の割に目が老けてるね」

「ひどいなあ。よく言われるけど」

 リーゼはノクスの前に腰を下ろした。遠慮のない座り方。リーゼなりの威嚇だ。

「条件を詰めに来た」

 僕が切り出した。

「前線拠点への潜入。こちらのペースで動く。時期も方法も僕たちが決める」

「いいよ」

 あっさりだった。

「それと、事前にもう少し情報が欲しい。前線拠点の見取り図。警備体制。審問官の人数と等級」

「はいはい」

 ノクスは棚から書類を数枚引き抜いた。手際がいい。最初から用意してあったのだ。

「修道院の見取り図。警備は審問官が常時八名。うち紋章士が五名、近接戦闘員が三名。最高等級は三等。交代は日の出と日没の二回」

「三等が最高か。それなら——」

「まあ、楽勝でしょ。あなたなら」

 ノクスの声に含みがあった。「あなたなら」の意味が「呪眼を使えば」だと、暗に示している。

「呪眼を使う前提で話をするな」

「使わないの?」

「使わない方法を探す。それが僕のやり方だ」

 ノクスは肩を竦めた。だが目は笑っていない。

 リーゼが口を挟んだ。

「ねえノクス。一つ聞いていい?」

「どうぞ」

「あんた、なんでこんなことしてるの。教会の秘密を暴くって、相当なリスクでしょ。情報屋として割に合わなくない?」

 いい質問だ。僕も聞きたかった。

 ノクスは少し考えるように天井を見上げた。細い指で銀灰色の髪を弄る。

「割に合う合わないで言えば、合わないよ。でもね——僕には教会に借りがあるから」

「借り?」

「昔の話。もう誰も覚えてないくらい昔の話」

 ノクスの声が、一瞬だけ変わった。少年の声から、もっと深い何かに。すぐに元に戻ったが、僕は聞き逃さなかった。

「ま、それは僕の事情だから。気にしなくていいよ」

 リーゼが僕を見た。「怪しい」と目が言っている。同感だ。

「それと、もう一つ」

 ノクスが人差し指を立てた。

「潜入に行く前に、知っておいた方がいいことがある」

「何だ」

「教会が最近、各地で聖女の捜索を強化してる」

 リーゼの手が、机の下で握りしめられるのが見えた。

「『聖女を集めている』って情報が入ってきてるんだよね。聖女の素質を持つ女性を片端から教会に連行してるらしい。表向きは『保護』だけど、実際は——」

「実験台にするため?」

 リーゼの声が鋭かった。

「さあ。そこまでは分からない。でも、聖女の素質がある人は気をつけた方がいいね」

 ノクスの琥珀色の瞳が、一瞬だけリーゼに向いた。

 何を知っている。この少年は、リーゼの何を。

「聖女の素質なんて、あたしには関係ないけど」

 リーゼは平然と言った。だが僕は見ていた。彼女の喉元が一瞬だけ動いたのを。唾を飲み込む動作。緊張している。

「そうだよね。吟遊詩人さんには関係ない話だ。ごめんごめん」

 ノクスは笑顔に戻った。にこやか。無邪気。でも、その笑顔の下で何を計算しているか、見えない。


 宿に戻る道すがら、リーゼは黙っていた。

 珍しいことだ。普段なら歩きながらでも喋り続ける彼女が、口を閉ざしている。

「リーゼ」

「ん」

「ノクスの話、気になることがあったか」

「……聖女を集めてるって話」

「ああ」

「あれが本当なら、もっと急がなきゃいけない」

「急ぐと判断を誤る」

「でも——」

「師匠が言っていた。『急ぐな、考えろ』と」

 師匠の口癖。名前は——手帳を見なければ出てこない。顔も、もう浮かばない。でも言葉は残っている。

 リーゼが僕を見た。

「シエルの師匠、いい人だったんだね」

「……ああ。たぶん」

「たぶん?」

「記憶が曖昧なんだ。でも、いい人だったと思う。手帳にそう書いてある」

 リーゼは何も言わなかった。ただ僕の隣を歩いた。

元騎士の忠誠

 宿の前で、リーゼが足を止めた。

「シエル」

「なんだ」

「あたしね、怒ってるの」

「何に」

「教会に。ミラにあんなことをした教会に。あたしの——」

 言葉が切れた。

「あたしの大切なものを壊した教会に」

 その声は平坦だった。怒りというより、もっと深い感情。悲しみと怒りが長い時間をかけて混ざり合い、硬化したもの。

「だからあたしは行く。教会の施設に。何があっても」

「わかった」

「反対しないの?」

「反対はした。でも、君は行くと決めた。なら、僕は一緒に行く」

「……シエル」

「一人で行かせるわけにはいかない。それだけだ」

 リーゼが少しだけ笑った。目の縁が赤かった。

「ありがと」

「礼はいい。作戦を練るぞ」


 午後。宿の部屋で、ノクスから貰った見取り図を広げた。

 リーゼが隣で地図を覗き込む。ミラは窓辺で、リーゼに教わった綾取りをしている。

「修道院の正門はここ。地下への入り口は裏手の庭。警備の交代は日の出と日没」

「日没の交代時が狙い目だね。引き継ぎの数分間は人数が半分になる」

「そうだ。その隙に裏手から入り、地下に降りる」

「文書の保管場所は?」

「ノクスの情報だと、地下一階、東棟の書庫。鍵は紋章式の錠前」

「紋章式か……。シエル、開けられる?」

「呪眼を使わなくても、刻印型の解錠術で対処できる。三等以下の紋章錠なら」

「じゃあ大丈夫だね」

「楽観的すぎる」

「シエルは悲観的すぎるよ」

 僕たちは顔を見合わせた。

 ミラが綾取りの手を止めて、こちらを見た。

「お兄ちゃんとお姉ちゃん、喧嘩してるの?」

「してないよ。作戦会議。仲良しだから大丈夫」

「仲良し、か」

「仲良しでしょ?」

「……否定はしない」

 リーゼが得意げに笑った。ミラもつられて笑った。

 僕は手帳に作戦の概要を書き込みながら、この温かい時間がいつまで続くか考えていた。

 続かない。わかっている。

 でも今は、この部屋の中だけが世界でいい。


 その夜。

 ミラが眠った後、リーゼと二人で窓辺に座っていた。

 街の灯りが暗い空に反射して、薄い琥珀色の光を作っている。

「シエル」

「ああ」

「さっきは、ごめん」

「何がだ」

「強引だったでしょ。行くって言い張って」

「いつものことだ」

「いつものことって……。まあ、そうだけど」

 リーゼが膝を抱えた。

「あたしさ、シエルに嘘ついてる」

「知ってる」

「知ってるんだ」

「お互い様だ。僕も君に嘘をついている」

 しばらく沈黙が続いた。

 風が窓を揺らした。遠くで犬が吠えている。

「いつか、全部話す」

 リーゼが言った。

「いつかって、いつだ」

「わかんない。でも、いつか。シエルに全部話したい。あたしが誰で、どこから来て、何を隠してるか」

「……」

「その時、嫌いにならないでね」

 声が小さかった。普段の明るさが完全に消えている。

 僕は答えなかった。答えられなかった。

 リーゼの秘密が何であれ、僕は彼女を嫌いにはならないだろう。

 だが、僕の秘密を知った時、彼女が僕を嫌いにならない保証はない。

 元使徒。教会の犬だった男。彼女の故郷を滅ぼした側の人間。

「僕もいつか話す」

 それだけ言った。

「その時、嫌いにならないでくれとは言わない」

「なんで」

「嫌われても仕方がない過去だからだ」

 リーゼが僕を見た。翡翠の瞳が揺れている。

「シエル——」

「今は、これでいい。互いに嘘をついたまま。それが僕たちの旅だ」

「……うん」

 リーゼは膝に顔を埋めた。

 僕は窓の外を見た。

 灰色の町の夜空。星は見えない。雲が厚い。

 明日、もう一度ノクスのところに行く。作戦の詳細を詰める。

 教会の前線拠点に潜入する。文書を盗む。ミラの呪いを解く手がかりを掴む。

 その先に何があるか、まだ見えない。

 でも——止まっているわけにはいかない。


〔百三十八日目。ノクスとの二度目の面会。作戦の概要を固めた。潜入は三日後の予定。リーゼの決意は固い。僕の不安も固い。だが動かなければ何も変わらない〕

〔追記。リーゼが「いつか全部話す」と言った。僕も同じことを言った。その「いつか」が来た時、僕たちはまだ隣にいられるだろうか。答えはわからない。手帳に書いても、答えは出ない〕


 翌日の昼。

 僕は一人でノクスの元を訪ねた。

 最終確認のためだ。リーゼとミラは宿で待っている。

「おや。今日はお一人?」

「最終確認だ。見取り図の地下一階、東棟の書庫で間違いないか」

「間違いないよ。文書は黒い革表紙の帳簿。三冊ある。全部持ってきてくれると助かるけど、最低でも一冊目があればいい」

「わかった」

 僕は立ち上がりかけた。

「あ、そうだ。もう一つ」

 ノクスが思い出したように——いや、最初からこの瞬間を待っていたかのように言った。

「言い忘れてたことがあるんだけど」

 嫌な予感がした。

 ノクスは机に肘をつき、いつもの笑顔を浮かべた。

 にこやか。無邪気。人畜無害。

 だが今、その笑顔の裏に、何か決定的なものが潜んでいた。

「君たちの居場所、教会にも売っておいたよ」

 世界が、停止した。

「時間はあまりないね」

 ノクスは笑っている。穏やかに。楽しそうに。

「何を——」

「取引は取引だからさ。僕は情報屋。情報は売る。買い手は選ばない。教会だって、お客さんだよ」

 椅子を蹴って立ち上がった。

「ふざけるな」

「ふざけてないよ。真剣そのものだ」

 ノクスの琥珀色の瞳が、僕を見上げていた。少年の顔。少年ではない目。

「教会はもうこの町に向かってる。到着は明日の朝。たぶん審問官一個小隊。君たちが潜入するより先に、ここが包囲される」

「なぜ——」

「なぜって? こうすれば君たちは動くしかなくなるでしょ。考えてる暇がなくなる。退路が断たれれば、人は前に進むしかない」

 ノクスは立ち上がった。小さな体が、暗い部屋の中で不気味に見えた。

「僕は教会を潰したいんだ。そのために君たちが必要。でも、悠長に作戦を練ってもらってる余裕はない」

「僕たちを駒にしたのか」

「駒っていうと聞こえが悪いなあ。協力者、って言ってよ」

「ミラがいる。あの子を危険に——」

「知ってる。だから教えてるんでしょ、今。黙っていれば君たちは何も知らずに明日捕まる。でも教えたってことは——逃げる時間を与えてるってこと」

 ノクスの声が変わった。少年の声ではない。もっと古い、もっと深い声。

「僕は味方だよ、シエル。方法が気に入らないのは分かるけど」

「味方が裏切り者と同じことをするのか」

「裏切りじゃない。先手を打ったんだ。教会に追われてる状態なら、君たちは前線拠点に行くしかなくなる。そこで文書を手に入れれば、教会の弱みを握れる。弱みがあれば、交渉できる。これは最短ルートなんだよ」

 理屈は通っている。だが許せない。

「ミラのことも売ったのか」

 ノクスが一瞬だけ、目を逸らした。

「……ミラの情報は売ってない。教会に売ったのは『元第七使徒がグレイフォードにいる』って情報だけ」

「それで十分だ。僕が捕まれば、リーゼもミラも巻き込まれる」

「だから今すぐ逃げればいい。明日の朝まで猶予がある。僕の言う通りに動けば——」

「もう十分だ」

 僕は扉に手をかけた。

「シエル」

 ノクスの声が追いかけてきた。

「情報は渡したよ。地図も見取り図も、全部。あとは君たちの判断だ。逃げるのも、戦うのも、潜入するのも——自由だよ」

 扉を開けた。

「でもね、一つだけ覚えておいて」

 背中に、少年の声が突き刺さった。

「教会は、君が思ってるより近くまで来てる。逃げ続けるだけじゃ、いつか追いつかれる。あの女の子の呪いも、吟遊詩人さんの秘密も、君の右目の呪いも——全部、教会が鍵を握ってる。僕を使わなきゃ、永遠に逃げ続けるだけだよ」

 扉を閉めた。

 石段を駆け上がった。

 地上に出ると、灰色の空が広がっていた。

 走った。宿に向かって。

 頭の中で計算する。明日の朝までに町を出なければならない。荷物をまとめ、ミラを連れて、街道を避けて——

 いや。

 ノクスの言葉が蘇る。

 『逃げ続けるだけじゃ、いつか追いつかれる』

 正しい。悔しいが、正しい。

 教会は僕たちを追い続ける。ミラの呪紋が発信機である限り。シエルという偽名の下に元使徒がいる限り。リーゼという偽名の下に——

 考えるな。今は走れ。

 宿が見えた。

 扉を開ける。階段を上がる。部屋の前で息を整え、ノックした。

「リーゼ。僕だ」

 鍵が開く音。リーゼの顔。

「おかえり。どうしたの、すごい汗——」

「荷物をまとめろ。今すぐだ」

 リーゼの表情が変わった。何も訊かずに動き始めた。

 ミラが不安そうにこちらを見ている。

「お兄ちゃん?」

「大丈夫だ。少し予定が変わっただけだ」

 嘘だ。大丈夫じゃない。何も大丈夫じゃない。

 でも、この二人の前で崩れるわけにはいかない。

 荷物を詰めながら、僕は考えた。

 ノクスに裏切られた。いや、最初から利用されていた。

 だがノクスが渡した情報自体は——おそらく本物だ。嘘の情報で動かしても意味がない。情報屋にとって情報の信頼性は生命線だ。

 つまり、前線拠点の見取り図は使える。

 教会がこの町に来る。明日の朝。

 逃げるか、先手を打つか。

「シエル」

 リーゼが荷物を背負い終えて、僕の横に立った。

「何があったか、聞いていい?」

「ノクスが——」

 言葉が詰まった。

「僕たちの居場所を教会に売った」

 リーゼの目が見開かれた。

 一拍の沈黙。

 それから、リーゼは深く息を吸い込んだ。

「……あの野郎」

 初めて聞く口調だった。明るくも優しくもない。低く、硬い声。

「明日の朝までに町を出る。それは分かった。でもシエル、その後は?」

「二つある。逃げるか、前に進むか」

「前に進むって——拠点に行くってこと?」

「ああ。追われながら潜入する。狂気の沙汰だ」

「狂気の沙汰は得意だよ。ルミエールの屋根の上とか」

 リーゼが笑った。場違いな笑顔だった。でもその笑顔に、僕は救われた。

「ミラはどうする」

「安全な場所に預ける?」

「この町に信用できる人間はいない」

「じゃあ連れていくしかない」

「子供を戦場に——」

「置いていく方が危険だって、前に言ったのシエルだよ」

 そうだった。自分の言葉で返された。

「……わかった。三人で行く。ただし、ミラは絶対に戦闘に巻き込まない」

「当然。あたしが守る」

 リーゼの声に迷いはなかった。

 ミラが僕の外套の裾を掴んだ。

「お兄ちゃん、また逃げるの?」

「逃げるんじゃない。進むんだ」

 ミラは首を傾げた。

「違いがわかんない」

「僕にもわからない。でも、何もしないよりはいい」

 ミラは小さく頷いた。

 僕は手帳を開いた。最後のページに書き込む。

〔百三十九日目。ノクスに売られた。教会が明朝到着。選択肢は二つ。逃亡か、前進か。リーゼは前に進むと言った。僕は——僕も、進むことにした。これが正しい判断かはわからない。でも、逃げ続けることの限界は見えている。守りたいものが増えた。守るためには、力が要る。力を使えば壊れる。それでも、使わなければ守れないなら——僕はこの手を伸ばす〕

 手帳を閉じた。

 窓の外、灰色の空の向こうに、夜が迫っていた。

 明日の朝、教会が来る。

 その前に、僕たちはこの町を出る。

 東へ。教会の前線拠点へ。

 罠かもしれない。だがその罠の中に、僕たちが必要とするものがある。

 ミラの呪いを解く手がかり。

 ヴェルハイデの真実。

 そして——マルヒェン村の真実。

 全てが繋がっている。全ての糸が、教会に通じている。

 ならば、その糸を辿るしかない。

 たとえその先に、何が待っていようとも。

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