〔百三十七日目。森を抜け、交易町グレイフォードに到着。小さな町だが地下街がある。裏社会の情報が集まる場所だと、道中で出会った行商人が言っていた。ミラの呪紋の追跡を遮るため、まず安全な拠点を確保する必要がある〕
グレイフォードは灰色の町だった。
石造りの建物が密集し、路地は狭く、空は建物に切り取られて細長い。港町のような活気はなく、かといって寂れてもいない。表通りには商店が並び、裏通りには名前のない酒場がひしめいている。
街道の検問を避けて山道を抜けてきた。三人とも泥だらけだった。
「まず宿を取る。それから情報を集める」
「情報って?」
「ミラの呪紋を追跡している連中のこと。教会の施設の場所。それから——」
僕は言葉を切った。
「それから?」
「呪紋を安全に無効化する方法」
リーゼは頷いた。
ミラは僕の外套の裾を握ったまま、町の様子をおそるおそる見回している。人混みが怖いのだ。施設の中にずっと閉じ込められていた子供にとって、知らない大人が大勢いる場所は恐怖でしかない。
「大丈夫だよ、ミラ。あたしとお兄ちゃんがいるから」
リーゼがミラの手を取った。少女の強張りが少し和らぐ。
宿は裏通りの目立たない安宿を選んだ。主人は口数の少ない老人で、余計な詮索をしないタイプだった。銀貨を三枚渡して三日分の部屋を取った。
部屋に入り、扉を閉めた。
「リーゼ、ミラを頼む。僕は少し出てくる」
「一人で?」
「情報を集めるには一人の方がいい。二人連れは目立つ。三人連れはもっと」
「それはそうだけど……」
リーゼの表情に不安が浮かんだ。
「二時間で戻る。戻らなかったら——」
「戻らなかったら?」
「窓から逃げろ。南の門を出て街道を西に。三日歩けば自由都市フェルマに着く」
「シエル」
リーゼの声が硬くなった。
「あたしたちを置いて捕まるつもり?」
「そうは言っていない」
「言ってなくても、そういう段取りの話でしょ。やめて。一緒に行く」
「ミラを一人にできない」
その一言で、リーゼは黙った。
正論だった。ミラは一人にできない。追手がいつ来るかわからない。リーゼがそばにいなければ、ミラは恐怖で潰れてしまう。
「……二時間だからね。一分でも遅れたら探しに行くから」
「わかった」
僕は外套のフードを深く被り、部屋を出た。
グレイフォードの地下街は、表通りの雑貨屋の地下に入り口があった。
石段を降りると、別の世界が広がっていた。
天井の低い通路が迷路のように入り組み、壁にランプが等間隔で灯っている。酒場、賭博場、質屋、薬屋。表では扱えない品物が、ここでは堂々と取引されている。
人の目が違う。品定めする目。値踏みする目。隙を窺う目。
僕はカウンターだけの小さな酒場に入り、薬湯を一杯注文した。
隣に座った男に訊いた。
「この辺りで、情報を売り買いできる場所は」
男は僕を一瞥した。薬師の外套と薬箱を見て、少し警戒を緩めた。
「情報屋なら、奥の青い扉だ。ノクスって小僧がいる。何でも知ってるが、対価は高い」
「ノクス」
「見た目はガキだが、舐めるなよ。この地下街じゃ誰も逆らえない」
礼を言って席を立った。
奥へ進む。通路は狭くなり、ランプの間隔が広くなった。影が濃い。
青い扉は通路の行き止まりにあった。古びた木の扉に、青い塗料が塗られている。
ノックした。
「どうぞ」
中から声がした。高い声。少年の声だ。
扉を開けると、小さな部屋があった。壁一面に棚が並び、書類や地図や手帳が山積みになっている。部屋の中央に机が一つ。その向こうに椅子。
椅子に座っているのは、少年だった。

外見は十四歳前後。色素の薄い銀灰色の髪が肩にかかっている。整った顔立ち。大きな琥珀色の瞳。華奢な体つき。どう見ても子供だ。
だが、目が違った。
少年の目は、子供の目ではなかった。深い。底が見えない。何十年もの時間が凝縮されたような瞳。
「いらっしゃい、薬師さん」
少年——ノクスが微笑んだ。にこやかで、人懐っこい笑顔。だがその笑顔は、リーゼのそれとは本質的に違っていた。リーゼの笑顔は本音を隠す仮面だ。ノクスの笑顔は相手を油断させる道具だ。
「座って。何をお求め?」
「情報を」
「そりゃそうだ。ここは情報屋だもの。問題は、何の情報か。そして、何を対価に払えるか」
僕は椅子に座った。ノクスとの間に机を挟む。
「教会の呪詛術式について知りたい」
ノクスの琥珀の瞳が、一瞬だけ光った。興味の光だ。
「呪詛術式ね。具体的には?」
「各地で発生している呪いの病。あれは自然発生じゃない」
「うん、そうだね。それで?」
「あれが何なのか。誰が、何の目的で撒いているのか」
ノクスは机に肘をついた。細い指を組み、その上に顎を乗せる。
「ずいぶん踏み込んだ質問だ。普通の薬師が聞くようなことじゃないね」
「普通の薬師かどうかは関係ない」
「関係あるよ。だって——」
ノクスの笑顔が、ほんの少しだけ鋭くなった。
「普通の薬師は、教会式の呪詛が『六角形基底構造』で組まれてることなんて知らないからね」
空気が凍った。
僕は何も言っていない。六角形基底構造のことは、まだ一言も。
「驚いた? 僕は情報屋だよ。お客さんが何を知っていて、何を知らないか。来る前からだいたい分かってる」
「僕のことを調べたのか」
「調べるまでもないかな。ルミエールで審問官の封鎖紋章を一瞬で解体した薬師。二年前に死んだことになってる元第七使徒。名前は——」
「やめろ」
声が低く出た。
ノクスは首を竦めた。だが怯えてはいない。楽しんでいる。
「怒らないでよ。言わないから。本名は言わない。お客さんは『シエル』。それでいい」
「何が望みだ」
「望み? 情報屋に望みなんてないよ。あるのは取引だけ。僕は情報を売る。お客さんは対価を払う。シンプルでしょ」
ノクスは机の引き出しから、一枚の羊皮紙を取り出した。テーブルの上に広げる。
地図だった。大陸の広域地図。だがそこには、通常の地図にはない印が書き込まれている。赤い点が十以上。散在している。
「これは?」
「過去三年間で、呪いの病が発生した場所だよ」
僕は地図を見つめた。赤い点の分布。北から南へ。東から西へ。一見すると無秩序に散らばっているが——
「パターンがある」
「さすが。気づくの早いね」
赤い点を結ぶと、同心円のように広がっている。中心は——
「聖都プロヴィデンス」
「正解。呪いの病は、聖都を中心に放射状に広がってる。最初は近郊の村から始まって、徐々に範囲が拡大してる。まるで——」
「実験の範囲を広げているみたいに」
「そう。実験なんだよ、これ」
ノクスは指で地図の一点を叩いた。
「教会が作った人工呪詛。コードネームは知らないけど、内部では『聖化処置』って呼ばれてるらしい」
「聖化処置」
「聖女の力を人工的に再現するための前段階。呪いを刻んで、生き残った個体から聖女の因子を抽出する——みたいなことを、教会の上層部が進めてる」
血が引いた。
ミラの顔が浮かんだ。あの施設で呪いを刻まれた子供たち。動かなくなった子は連れていかれた。
「子供を使ってるのか」
「子供の方が適合率が高いらしいね。大人は呪詛に耐えられずに死ぬ。子供は稀に生き残る。生き残った子供から、聖女の力の萌芽を——」
「聞きたくない」
声が掠れた。
ノクスが僕を見た。琥珀色の瞳に、一瞬だけ同情のような色が浮かんだ。すぐに消えたが。
「聞きたくなくても、知らなきゃいけないこともあるでしょ。特にあなたは」
「どういう意味だ」
「あなたが連れてる女の子。ミラっていうんだっけ。あの子の体に刻まれてるのも、この『聖化処置』の呪紋だよ」
知っている。知っているが、他人の口から聞くと胃の奥が冷える。
「そして——ヴェルハイデ王国を滅ぼした時に使われたのも、同じ技術」
リーゼの顔が浮かんだ。
「ヴェルハイデの何を知っている」
「五年前、教会が『聖戦』と称してヴェルハイデを滅ぼした。公式には『異端の温床の浄化』。でも実際の目的は——聖女の回収だった」
「聖女の回収」
「ヴェルハイデは、歴史上最も多くの聖女を輩出した国だよ。教会はその血統ごと欲しかった。聖戦は名目。本当の狙いは、聖女の血を引く女性を片端から捕まえること」
胸が痛い。右目ではなく。
リーゼの歌が蘇る。故郷を離れた旅人の歌。帰れない場所への祈り。
彼女が隠しているもの。彼女が守り続けている秘密。
ヴェルハイデの王女。
聖女。
「……それで。あんたが売れる情報は、これだけか」
「いいや。まだある。でも、ここからは無料じゃない」
ノクスは椅子の背にもたれた。少年の体が大人の仕草をする違和感。
「もっと詳しいことが知りたいなら——教会の前線拠点に行ってもらう必要がある」
「前線拠点」
「グレイフォードから東に二日の場所にある、教会の研究施設。表向きは修道院だけど、地下には呪詛の研究棟がある。そこに保管されてる文書を盗んできてほしい」
「何の文書だ」
「『聖化処置』の完全な術式記録と、実験の被験者リスト。それがあれば、教会が何をしてるか全貌がわかる。ミラの呪紋を解く手がかりにもなるかもしれない」
「かもしれない、か」
「確約はできない。でも、ないよりはましでしょ」
確約できないと言いながら餌を吊るす。巧みな交渉だ。
「交換条件は?」
「文書を手に入れたら、僕に写しを一部くれればいい。原本はあなたが持ってていいよ」
「それだけ?」
「それだけ。僕は情報が欲しいだけだから。武力なんて要らない」
話がうますぎる。だが。
「なぜ自分で取りに行かない」
「僕は情報屋であって、戦闘員じゃないからね。あの施設には審問官が常駐してる。入るには力がいる。僕にはない。でもあなたには——」
ノクスが僕の右目を見た。眼帯の下を。
「あるでしょ」
部屋に戻ると、リーゼとミラが待っていた。
ミラはリーゼの膝の上で眠っていた。リーゼはミラの髪を撫でながら、窓の外を見ていた。
「おかえり。二時間きっかりだね」
「約束したから」
「何か分かった?」
僕はリーゼの向かいに座り、ノクスから聞いた情報を話した。
呪いの病が教会製の人工呪詛であること。ヴェルハイデ滅亡と同じ技術が使われていること。教会が聖女を人工的に作ろうとしていること。
リーゼの表情が変わっていくのを見ていた。
最初は真剣に聞いていた。ヴェルハイデの名前が出た時、唇が微かに震えた。聖女の話が出た時、目が鋭くなった。教会が子供を実験していると聞いた時、膝の上のミラを抱える腕に力が入った。
「……そう」
一言だった。だがその一言に、凝縮された感情があった。
「ノクスという情報屋が、教会の前線拠点から文書を盗んでくることを条件に、さらに詳しい情報を渡すと言っている」
「行こう」
即答だった。
「リーゼ」
「行くよ。教会の施設に潜入して、文書を取ってくる。それでミラの呪いを解く手がかりが見つかるんでしょ」
「『かもしれない』だ。確約ではない」
「かもしれなくても、何もしないよりいい」
「危険だ。審問官が常駐している」
「ルミエールでも審問官に囲まれたけど、逃げられたじゃん」
「あの時は僕が呪眼を——」
言いかけて、止めた。あの時の代償。師匠の名前。ルミエールでの代償は、顔。どちらも、もう戻らない。
「シエル」
リーゼの声が静かになった。
「あたしには、どうしても知らなきゃいけないことがあるの」
翡翠の瞳がまっすぐに僕を見ていた。
仮面が剥がれている。明るい吟遊詩人の仮面の下にある、別の誰かの目だ。
決意の目。覚悟の目。
「ヴェルハイデが滅ぼされた本当の理由。教会が何をしたのか。あたしは知らなきゃいけない。どうしても」
「なぜだ」
訊いてしまった。踏み込むべきではないと分かっていて。
リーゼは答えなかった。ミラの髪を撫でる手が止まっていた。
「……あたしの理由は、今は言えない。ごめん」
「リーゼ——」
「でもお願い、シエル。この一つだけ、信じて。あたしは逃げたいんじゃない。向き合いたいの」
彼女の声が震えていた。笑顔はなかった。
僕はリーゼの笑顔が消えた顔を何度か見てきた。審問官の旗を見た時。夜中にかすかに泣いていた時。ヴェルハイデの文書を見つけた時。
でも今の表情は、それらとも違った。
強い。
脆さの奥に、折れない何かがある。
「……僕は反対だ」
「シエル——」
「僕は反対だが、君を止める権利はない。君の人生は君のものだ」
リーゼの目が揺れた。
「でも——」
「でも、だ」
僕は言葉を選んだ。手帳に書く時のように。一文字ずつ、慎重に。
「……僕にも、守りたいものがある」
ミラの寝顔を見た。そしてリーゼを見た。
「君たちを危険に晒すわけにはいかない。だからノクスの言う通りに動くのは反対だ。罠かもしれない」
「罠だったとしても——」
「罠だったとしても行くのか」
「行く」
沈黙が落ちた。
重い沈黙だった。焚き火のない部屋で、窓から入る街の喧騒だけが遠く聞こえている。
「リーゼ。僕は君を信じている。信じているから言うが——あの情報屋は信用できない」
「根拠は?」
「根拠じゃない。直感だ」
「シエルが直感で判断するの、珍しいね」
「珍しいから言ってる」
リーゼが唇を噛んだ。
「あたしだって分かってるよ。ノクスってやつが胡散臭いのは。でも他に手がかりがないじゃん。ミラの呪いを解くにも、教会の真実を知るにも——あの情報屋を使うしかない」
「使うのはいい。使われるのは駄目だ」
「何が違うの」
「主導権がどちらにあるかだ。ノクスは僕たちに潜入を持ちかけた。つまり、僕たちを道具として使おうとしている。その構図のまま動けば、向こうの思う壺だ」
リーゼは黙った。
「だから、行くにしても条件を詰める。作戦を立てる。こちらのペースで動く。それが最低条件だ」
「……それなら、行ってもいいの?」
「行ってもいいとは言ってない」
「言ってるようなものでしょ」
リーゼが少しだけ笑った。疲れた笑顔だった。
「ありがとう、シエル」
「礼を言われるようなことはしていない」
「してるよ。あたしの話を聞いてくれた」
そう言って、リーゼはミラの髪を撫でた。
眠っている少女の寝息が、静かに部屋に満ちている。
翌朝、僕は再びノクスのもとを訪れた。
今度はリーゼと一緒だった。ミラは宿に残した。リーゼが教えた鍵の閉め方と、「絶対に扉を開けないこと」という約束を守ってくれると信じるしかなかった。
「おや。お連れさんも一緒?」
ノクスがリーゼを見て、にこりと笑った。
「リーゼさんだっけ。はじめまして、ノクスです。よろしくね」
「よろしく。あんた、見た目の割に目が老けてるね」
「ひどいなあ。よく言われるけど」
リーゼはノクスの前に腰を下ろした。遠慮のない座り方。リーゼなりの威嚇だ。
「条件を詰めに来た」
僕が切り出した。
「前線拠点への潜入。こちらのペースで動く。時期も方法も僕たちが決める」
「いいよ」
あっさりだった。
「それと、事前にもう少し情報が欲しい。前線拠点の見取り図。警備体制。審問官の人数と等級」
「はいはい」
ノクスは棚から書類を数枚引き抜いた。手際がいい。最初から用意してあったのだ。
「修道院の見取り図。警備は審問官が常時八名。うち紋章士が五名、近接戦闘員が三名。最高等級は三等。交代は日の出と日没の二回」
「三等が最高か。それなら——」
「まあ、楽勝でしょ。あなたなら」
ノクスの声に含みがあった。「あなたなら」の意味が「呪眼を使えば」だと、暗に示している。
「呪眼を使う前提で話をするな」
「使わないの?」
「使わない方法を探す。それが僕のやり方だ」
ノクスは肩を竦めた。だが目は笑っていない。
リーゼが口を挟んだ。
「ねえノクス。一つ聞いていい?」
「どうぞ」
「あんた、なんでこんなことしてるの。教会の秘密を暴くって、相当なリスクでしょ。情報屋として割に合わなくない?」
いい質問だ。僕も聞きたかった。
ノクスは少し考えるように天井を見上げた。細い指で銀灰色の髪を弄る。
「割に合う合わないで言えば、合わないよ。でもね——僕には教会に借りがあるから」
「借り?」
「昔の話。もう誰も覚えてないくらい昔の話」
ノクスの声が、一瞬だけ変わった。少年の声から、もっと深い何かに。すぐに元に戻ったが、僕は聞き逃さなかった。
「ま、それは僕の事情だから。気にしなくていいよ」
リーゼが僕を見た。「怪しい」と目が言っている。同感だ。
「それと、もう一つ」
ノクスが人差し指を立てた。
「潜入に行く前に、知っておいた方がいいことがある」
「何だ」
「教会が最近、各地で聖女の捜索を強化してる」
リーゼの手が、机の下で握りしめられるのが見えた。
「『聖女を集めている』って情報が入ってきてるんだよね。聖女の素質を持つ女性を片端から教会に連行してるらしい。表向きは『保護』だけど、実際は——」
「実験台にするため?」
リーゼの声が鋭かった。
「さあ。そこまでは分からない。でも、聖女の素質がある人は気をつけた方がいいね」
ノクスの琥珀色の瞳が、一瞬だけリーゼに向いた。
何を知っている。この少年は、リーゼの何を。
「聖女の素質なんて、あたしには関係ないけど」
リーゼは平然と言った。だが僕は見ていた。彼女の喉元が一瞬だけ動いたのを。唾を飲み込む動作。緊張している。
「そうだよね。吟遊詩人さんには関係ない話だ。ごめんごめん」
ノクスは笑顔に戻った。にこやか。無邪気。でも、その笑顔の下で何を計算しているか、見えない。
宿に戻る道すがら、リーゼは黙っていた。
珍しいことだ。普段なら歩きながらでも喋り続ける彼女が、口を閉ざしている。
「リーゼ」
「ん」
「ノクスの話、気になることがあったか」
「……聖女を集めてるって話」
「ああ」
「あれが本当なら、もっと急がなきゃいけない」
「急ぐと判断を誤る」
「でも——」
「師匠が言っていた。『急ぐな、考えろ』と」
師匠の口癖。名前は——手帳を見なければ出てこない。顔も、もう浮かばない。でも言葉は残っている。
リーゼが僕を見た。
「シエルの師匠、いい人だったんだね」
「……ああ。たぶん」
「たぶん?」
「記憶が曖昧なんだ。でも、いい人だったと思う。手帳にそう書いてある」
リーゼは何も言わなかった。ただ僕の隣を歩いた。

宿の前で、リーゼが足を止めた。
「シエル」
「なんだ」
「あたしね、怒ってるの」
「何に」
「教会に。ミラにあんなことをした教会に。あたしの——」
言葉が切れた。
「あたしの大切なものを壊した教会に」
その声は平坦だった。怒りというより、もっと深い感情。悲しみと怒りが長い時間をかけて混ざり合い、硬化したもの。
「だからあたしは行く。教会の施設に。何があっても」
「わかった」
「反対しないの?」
「反対はした。でも、君は行くと決めた。なら、僕は一緒に行く」
「……シエル」
「一人で行かせるわけにはいかない。それだけだ」
リーゼが少しだけ笑った。目の縁が赤かった。
「ありがと」
「礼はいい。作戦を練るぞ」
午後。宿の部屋で、ノクスから貰った見取り図を広げた。
リーゼが隣で地図を覗き込む。ミラは窓辺で、リーゼに教わった綾取りをしている。
「修道院の正門はここ。地下への入り口は裏手の庭。警備の交代は日の出と日没」
「日没の交代時が狙い目だね。引き継ぎの数分間は人数が半分になる」
「そうだ。その隙に裏手から入り、地下に降りる」
「文書の保管場所は?」
「ノクスの情報だと、地下一階、東棟の書庫。鍵は紋章式の錠前」
「紋章式か……。シエル、開けられる?」
「呪眼を使わなくても、刻印型の解錠術で対処できる。三等以下の紋章錠なら」
「じゃあ大丈夫だね」
「楽観的すぎる」
「シエルは悲観的すぎるよ」
僕たちは顔を見合わせた。
ミラが綾取りの手を止めて、こちらを見た。
「お兄ちゃんとお姉ちゃん、喧嘩してるの?」
「してないよ。作戦会議。仲良しだから大丈夫」
「仲良し、か」
「仲良しでしょ?」
「……否定はしない」
リーゼが得意げに笑った。ミラもつられて笑った。
僕は手帳に作戦の概要を書き込みながら、この温かい時間がいつまで続くか考えていた。
続かない。わかっている。
でも今は、この部屋の中だけが世界でいい。
その夜。
ミラが眠った後、リーゼと二人で窓辺に座っていた。
街の灯りが暗い空に反射して、薄い琥珀色の光を作っている。
「シエル」
「ああ」
「さっきは、ごめん」
「何がだ」
「強引だったでしょ。行くって言い張って」
「いつものことだ」
「いつものことって……。まあ、そうだけど」
リーゼが膝を抱えた。
「あたしさ、シエルに嘘ついてる」
「知ってる」
「知ってるんだ」
「お互い様だ。僕も君に嘘をついている」
しばらく沈黙が続いた。
風が窓を揺らした。遠くで犬が吠えている。
「いつか、全部話す」
リーゼが言った。
「いつかって、いつだ」
「わかんない。でも、いつか。シエルに全部話したい。あたしが誰で、どこから来て、何を隠してるか」
「……」
「その時、嫌いにならないでね」
声が小さかった。普段の明るさが完全に消えている。
僕は答えなかった。答えられなかった。
リーゼの秘密が何であれ、僕は彼女を嫌いにはならないだろう。
だが、僕の秘密を知った時、彼女が僕を嫌いにならない保証はない。
元使徒。教会の犬だった男。彼女の故郷を滅ぼした側の人間。
「僕もいつか話す」
それだけ言った。
「その時、嫌いにならないでくれとは言わない」
「なんで」
「嫌われても仕方がない過去だからだ」
リーゼが僕を見た。翡翠の瞳が揺れている。
「シエル——」
「今は、これでいい。互いに嘘をついたまま。それが僕たちの旅だ」
「……うん」
リーゼは膝に顔を埋めた。
僕は窓の外を見た。
灰色の町の夜空。星は見えない。雲が厚い。
明日、もう一度ノクスのところに行く。作戦の詳細を詰める。
教会の前線拠点に潜入する。文書を盗む。ミラの呪いを解く手がかりを掴む。
その先に何があるか、まだ見えない。
でも——止まっているわけにはいかない。
〔百三十八日目。ノクスとの二度目の面会。作戦の概要を固めた。潜入は三日後の予定。リーゼの決意は固い。僕の不安も固い。だが動かなければ何も変わらない〕
〔追記。リーゼが「いつか全部話す」と言った。僕も同じことを言った。その「いつか」が来た時、僕たちはまだ隣にいられるだろうか。答えはわからない。手帳に書いても、答えは出ない〕
翌日の昼。
僕は一人でノクスの元を訪ねた。
最終確認のためだ。リーゼとミラは宿で待っている。
「おや。今日はお一人?」
「最終確認だ。見取り図の地下一階、東棟の書庫で間違いないか」
「間違いないよ。文書は黒い革表紙の帳簿。三冊ある。全部持ってきてくれると助かるけど、最低でも一冊目があればいい」
「わかった」
僕は立ち上がりかけた。
「あ、そうだ。もう一つ」
ノクスが思い出したように——いや、最初からこの瞬間を待っていたかのように言った。
「言い忘れてたことがあるんだけど」
嫌な予感がした。
ノクスは机に肘をつき、いつもの笑顔を浮かべた。
にこやか。無邪気。人畜無害。
だが今、その笑顔の裏に、何か決定的なものが潜んでいた。
「君たちの居場所、教会にも売っておいたよ」
世界が、停止した。
「時間はあまりないね」
ノクスは笑っている。穏やかに。楽しそうに。
「何を——」
「取引は取引だからさ。僕は情報屋。情報は売る。買い手は選ばない。教会だって、お客さんだよ」
椅子を蹴って立ち上がった。
「ふざけるな」
「ふざけてないよ。真剣そのものだ」
ノクスの琥珀色の瞳が、僕を見上げていた。少年の顔。少年ではない目。
「教会はもうこの町に向かってる。到着は明日の朝。たぶん審問官一個小隊。君たちが潜入するより先に、ここが包囲される」
「なぜ——」
「なぜって? こうすれば君たちは動くしかなくなるでしょ。考えてる暇がなくなる。退路が断たれれば、人は前に進むしかない」
ノクスは立ち上がった。小さな体が、暗い部屋の中で不気味に見えた。
「僕は教会を潰したいんだ。そのために君たちが必要。でも、悠長に作戦を練ってもらってる余裕はない」
「僕たちを駒にしたのか」
「駒っていうと聞こえが悪いなあ。協力者、って言ってよ」
「ミラがいる。あの子を危険に——」
「知ってる。だから教えてるんでしょ、今。黙っていれば君たちは何も知らずに明日捕まる。でも教えたってことは——逃げる時間を与えてるってこと」
ノクスの声が変わった。少年の声ではない。もっと古い、もっと深い声。
「僕は味方だよ、シエル。方法が気に入らないのは分かるけど」
「味方が裏切り者と同じことをするのか」
「裏切りじゃない。先手を打ったんだ。教会に追われてる状態なら、君たちは前線拠点に行くしかなくなる。そこで文書を手に入れれば、教会の弱みを握れる。弱みがあれば、交渉できる。これは最短ルートなんだよ」
理屈は通っている。だが許せない。
「ミラのことも売ったのか」
ノクスが一瞬だけ、目を逸らした。
「……ミラの情報は売ってない。教会に売ったのは『元第七使徒がグレイフォードにいる』って情報だけ」
「それで十分だ。僕が捕まれば、リーゼもミラも巻き込まれる」
「だから今すぐ逃げればいい。明日の朝まで猶予がある。僕の言う通りに動けば——」
「もう十分だ」
僕は扉に手をかけた。
「シエル」
ノクスの声が追いかけてきた。
「情報は渡したよ。地図も見取り図も、全部。あとは君たちの判断だ。逃げるのも、戦うのも、潜入するのも——自由だよ」
扉を開けた。
「でもね、一つだけ覚えておいて」
背中に、少年の声が突き刺さった。
「教会は、君が思ってるより近くまで来てる。逃げ続けるだけじゃ、いつか追いつかれる。あの女の子の呪いも、吟遊詩人さんの秘密も、君の右目の呪いも——全部、教会が鍵を握ってる。僕を使わなきゃ、永遠に逃げ続けるだけだよ」
扉を閉めた。
石段を駆け上がった。
地上に出ると、灰色の空が広がっていた。
走った。宿に向かって。
頭の中で計算する。明日の朝までに町を出なければならない。荷物をまとめ、ミラを連れて、街道を避けて——
いや。
ノクスの言葉が蘇る。
『逃げ続けるだけじゃ、いつか追いつかれる』
正しい。悔しいが、正しい。
教会は僕たちを追い続ける。ミラの呪紋が発信機である限り。シエルという偽名の下に元使徒がいる限り。リーゼという偽名の下に——
考えるな。今は走れ。
宿が見えた。
扉を開ける。階段を上がる。部屋の前で息を整え、ノックした。
「リーゼ。僕だ」
鍵が開く音。リーゼの顔。
「おかえり。どうしたの、すごい汗——」
「荷物をまとめろ。今すぐだ」
リーゼの表情が変わった。何も訊かずに動き始めた。
ミラが不安そうにこちらを見ている。
「お兄ちゃん?」
「大丈夫だ。少し予定が変わっただけだ」
嘘だ。大丈夫じゃない。何も大丈夫じゃない。
でも、この二人の前で崩れるわけにはいかない。
荷物を詰めながら、僕は考えた。
ノクスに裏切られた。いや、最初から利用されていた。
だがノクスが渡した情報自体は——おそらく本物だ。嘘の情報で動かしても意味がない。情報屋にとって情報の信頼性は生命線だ。
つまり、前線拠点の見取り図は使える。
教会がこの町に来る。明日の朝。
逃げるか、先手を打つか。
「シエル」
リーゼが荷物を背負い終えて、僕の横に立った。
「何があったか、聞いていい?」
「ノクスが——」
言葉が詰まった。
「僕たちの居場所を教会に売った」
リーゼの目が見開かれた。
一拍の沈黙。
それから、リーゼは深く息を吸い込んだ。
「……あの野郎」
初めて聞く口調だった。明るくも優しくもない。低く、硬い声。
「明日の朝までに町を出る。それは分かった。でもシエル、その後は?」
「二つある。逃げるか、前に進むか」
「前に進むって——拠点に行くってこと?」
「ああ。追われながら潜入する。狂気の沙汰だ」
「狂気の沙汰は得意だよ。ルミエールの屋根の上とか」
リーゼが笑った。場違いな笑顔だった。でもその笑顔に、僕は救われた。
「ミラはどうする」
「安全な場所に預ける?」
「この町に信用できる人間はいない」
「じゃあ連れていくしかない」
「子供を戦場に——」
「置いていく方が危険だって、前に言ったのシエルだよ」
そうだった。自分の言葉で返された。
「……わかった。三人で行く。ただし、ミラは絶対に戦闘に巻き込まない」
「当然。あたしが守る」
リーゼの声に迷いはなかった。
ミラが僕の外套の裾を掴んだ。
「お兄ちゃん、また逃げるの?」
「逃げるんじゃない。進むんだ」
ミラは首を傾げた。
「違いがわかんない」
「僕にもわからない。でも、何もしないよりはいい」
ミラは小さく頷いた。
僕は手帳を開いた。最後のページに書き込む。
〔百三十九日目。ノクスに売られた。教会が明朝到着。選択肢は二つ。逃亡か、前進か。リーゼは前に進むと言った。僕は——僕も、進むことにした。これが正しい判断かはわからない。でも、逃げ続けることの限界は見えている。守りたいものが増えた。守るためには、力が要る。力を使えば壊れる。それでも、使わなければ守れないなら——僕はこの手を伸ばす〕
手帳を閉じた。
窓の外、灰色の空の向こうに、夜が迫っていた。
明日の朝、教会が来る。
その前に、僕たちはこの町を出る。
東へ。教会の前線拠点へ。
罠かもしれない。だがその罠の中に、僕たちが必要とするものがある。
ミラの呪いを解く手がかり。
ヴェルハイデの真実。
そして——マルヒェン村の真実。
全てが繋がっている。全ての糸が、教会に通じている。
ならば、その糸を辿るしかない。
たとえその先に、何が待っていようとも。