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第七章

教会の影


 夜明け前に町を出た。

 三人で。

 宿の裏口から闇に紛れ、街灯の届かない路地を抜けた。東門は使わない。教会の先遣隊がどの方角から来るかわからない以上、門を通るのは危険だ。町の南端にある排水路の格子を外し、石造りの暗渠を這って城壁の外に出た。

 ミラの手が冷えていた。

 暗渠の中で僕の外套の裾を掴んでいた小さな指が、氷のように冷たい。恐怖か、呪いの影響か。たぶん両方だ。

「大丈夫か」

「……うん」

 嘘だ。声が震えている。でもこの子は頷いた。グレイフォードを発つ前の夜に「一緒に行く」と決めた時と同じ、小さな頷き。

 暗渠を抜けると、夜の草原が広がっていた。星が低い。冷たい風が頬を打つ。

「東だ。街道には出ない。林道を使う」

「了解。ミラ、手つなごっか」

 リーゼがミラの手を取った。小さな手を包むように。ミラが少しだけ安堵した顔をした。

 僕が先頭を歩き、リーゼとミラが続く。林道は暗く、木の根が足元を脅かす。ミラが何度かつまずいた。そのたびにリーゼが支えた。

 一時間歩いた。

 二時間歩いた。

 ミラの足取りが遅くなっていく。十歳の子供に夜通しの行軍は酷だ。わかっていた。わかっていて連れてきた。

「少し休もう」

 林道の脇にある大きな岩の陰に腰を下ろした。ミラがリーゼの肩にもたれかかる。すぐに瞼が落ちた。

「寝ちゃったね」

 リーゼが囁いた。ミラの黒髪を撫でている。

「疲れてるんだ。呪いの発作がなければいいが」

「あたしが見てるよ。シエルも少し休みな」

「いい。見張りは僕がやる」

 リーゼは何か言いかけて、やめた。僕の顔を見て、言っても無駄だと判断したのだろう。

 三十分ほど休んで、また歩き始めた。ミラを起こすと、目をこすりながらも黙って立ち上がった。文句を言わない。この子はいつもそうだ。

 空が白み始めた頃、修道院が見えた。

 丘の上に建つ白い石造りの建物。周囲を葡萄畑が囲み、一見すると穏やかな田園風景の一部に見える。

 だが、あれが教会の前線拠点だ。

「ここから先はミラを連れていけない」

 リーゼが頷いた。わかっていた。最初からそう決めていた。三人で来る。だがミラを戦闘に巻き込まない。

 修道院から南に三百メートルほど離れた森の中を探した。使える場所がないか。

 あった。

 大きな樫の木の根元に、岩が張り出して小さな空洞を作っている。大人なら身を屈めなければ入れない程度の窪みだが、ミラの体なら十分だ。上を木の枝が覆い、道からは見えない。雨も凌げる。

「ミラ。ここで待っていてくれ」

 ミラが僕を見上げた。琥珀色の瞳が潤んでいる。呪いの紋章が浮かぶ左腕を庇うように抱えながら、それでも何も言わなかった。

 十歳にして、大人の事情を飲み込む目を持っている。それは彼女が聞き分けがいいからではない。我慢することに慣れてしまったからだ。呪いに蝕まれる体を「大丈夫」と言われ続け、家族に捨てられ、施設に預けられ、逃げ出した先で僕たちに拾われた。

「行かないで」

 小さな声だった。言ってから、ミラ自身がはっとした顔をした。言うつもりがなかったのだ。

「……ごめんなさい。大丈夫。待ってる」

「謝るな」

 僕はしゃがんで、ミラと目線を合わせた。

「怖いのは当然だ。一人で待つのは、戦いに行くのと同じくらい勇気がいる」

 ミラの唇が震えた。

「ミラ」

 リーゼがしゃがんで、ミラと反対側から顔を覗き込んだ。

「あたしたち、絶対に戻ってくるよ」

「……絶対?」

「絶対」

 リーゼの声に迷いがなかった。嘘の匂いがしない。いや——この嘘は、嘘にしないと決めた嘘だ。

 リーゼがミラの頭を撫でた。蜂蜜色の髪が、ミラの黒髪に触れる。その手が一瞬だけ淡く光りかけて――すぐに消えた。僕にしか気づけない、微かな輝き。

 ミラの左腕の呪い紋章が、わずかに薄くなった。

「……わかった」

 ミラは小さく頷いた。唇を結んで、泣くのを堪えている顔。

「ここにいる。動かない。だから——早く帰ってきて」

「ああ、約束する」

 僕はミラの頭に手を置いた。黒い髪は細くて柔らかかった。

 外套の内側から乾パンと水袋を取り出して、ミラの膝元に置いた。それから薬包を一つ。

「発作が来たら、この粉を水で飲め。苦いが、痛みは引く」

「わかった」

「絶対にここから動くな。僕たちが戻るまで。誰が来ても声を出すな」

「……うん」

 ミラは岩の窪みに身を寄せた。外套で体を包み、膝を抱える。

 小さな体が、岩陰に溶け込んでいく。

 僕は立ち上がった。リーゼも立ち上がった。

 二人で歩き出す。振り返りたかった。でも振り返れば、行けなくなる。

 背中に小さな声が届いた。

「――気をつけて」

 僕は片手を上げた。振り返らずに。


 修道院の偵察は丘の下から行った。

 リーゼと二人で、南側の森の縁に身を潜める。ミラを隠した場所からは少し離れている。

 僕の右目は、眼帯越しにも微かな圧迫感を感じていた。

 紋章だ。

 修道院の壁面に、肉眼では見えない紋章が刻まれている。探知紋章、警報紋章、防御紋章。少なくとも三重の結界が張られている。

「まるっきり要塞だね」

 リーゼが丘の下から修道院を見上げて呟いた。吟遊詩人の旅装に竪琴を背負った姿は、どこから見ても無害な旅の芸人だ。

「結界は三重。ただし最外殻は探知のみ。侵入者の魔力反応を検知する」

「つまり、あたしなら引っかからない?」

「紋章術を使わなければ」

「使わないよ。使えないし」

 嘘だ。彼女の手は光る。紋章を介さない、もっと別の力で。

 でもそれは紋章術ではないから、探知紋章には引っかからない。理論上は。

「あたしは正面から入る。旅の吟遊詩人が歌を聞かせたいって言えば、修道院なら断らないでしょ」

「普通の修道院ならな」

「ここだって表向きは修道院でしょ? 表向きの顔がある以上、旅人を追い返すのは不自然。あたしを入れるよ」

 リーゼの読みは正しかった。教会の偽装拠点は、偽装を維持するために一般人の出入りをある程度許容する必要がある。特に巡礼者や旅芸人は、追い返せば逆に怪しまれる。

「僕は夜に裏から入る。二層目の結界は防御紋章だが、起点の設計が読めれば無力化できる」

「呪眼を使うの?」

「……最小限に」

 リーゼの表情が曇った。彼女は知っている。僕が目を使うたびに何かを失うことを。

「大丈夫だ。結界の解析程度なら、代償はほとんどない」

「ほとんど、ってゼロじゃないんでしょ」

「ゼロじゃない」

 嘘はつかなかった。彼女にはこの類の嘘は通じない。

 リーゼは唇を噛んで、それからふっと息を吐いた。

「わかった。でも約束して。無理だと思ったらすぐ引き返す。情報なんか、命より大事じゃないから」

「……わかった」

「約束だよ?」

「ああ」

 これは嘘かもしれない。わからない。その場になってみなければ。

 でも彼女の目を見ていると、約束を守りたいとは思った。

 森の奥——ミラが隠れている方角に、一瞬だけ目を向けた。あの子は大丈夫だろうか。一人で岩陰に蹲って、怖い思いをしていないだろうか。

 早く終わらせなければ。


 リーゼが修道院の正門を叩いたのは、午前の遅い時間だった。

 僕は丘の裏手の森に身を潜め、建物を観察していた。ミラの隠れ場所が視界の端に入る位置を選んだ。何かあればすぐに駆けつけられる距離。

 門が開き、灰色の法衣を着た男がリーゼを迎えた。短いやりとりの後、リーゼが竪琴を見せる。男が頷く。門が開かれ、リーゼが中に入った。

 第一段階は成功だ。

 日が傾くのを待つ。

 手帳を開いて、状況を記録した。

 〔前線拠点。外観は修道院。結界三重。内部構造は不明。リーゼが先行潜入。夜間に裏手から侵入予定。文書庫の位置をノクスの情報から推定——地下一階、東棟〕

 ペンが止まった。

 ノクスの情報。信じていいのか。あの情報屋は僕たちの居場所を教会に売った。同時に、教会の拠点情報を僕たちに売った。

 両方に売る。それがノクスのやり方だ。誰にでも情報を渡し、その結果生まれる混乱から利益を得る。

 つまりこの拠点の情報も、罠である可能性がある。

 でも行くしかなかった。

 各地に撒かれた呪いの正体が教会の人工呪詛だとわかった以上、その全貌を掴まなければミラを救えない。彼女の左腕に浮かぶ呪い紋章は、マルヒェン村と同じパターンだ。根本から解呪するには、呪いの設計図が必要だ。

 日が沈んだ。

 月のない夜だった。雲が空を覆い、星も見えない。侵入には好都合だ。

 僕は外套のフードを深く被り、森を抜けて修道院の裏手に回った。

偽りの使徒

 壁に触れる。石の冷たさが指先に伝わる。

 右目が疼いた。

 眼帯の下で、呪眼が起動を促している。見たい、と目が言っている。壁の向こうの紋章を。結界の構造を。全てを。

「……少しだけだ」

 眼帯を指一本分ずらした。

 世界が変わった。

 色が褪せ、代わりに魔素の流れが見える。壁の表面を走る紋章の線が、設計図のように浮かび上がる。

 第二層の防御紋章。正八角形を基底にした遮断式。魔素の流路は壁の内部を循環し、異常な魔力反応があれば起動して物理障壁を展開する。

 起点は四つ。壁の四隅に埋め込まれた魔石。そのうち一つが他より劣化している。北東の角。石材の経年劣化で魔石との接合部にわずかな隙間がある。

 そこから逆位相の魔素を流し込めば、連鎖的に紋章が崩れる。一時的に。再起動までの猶予は約三分。

 十分だ。

 僕は北東の角に移動した。壁の継ぎ目に指を当てる。眼帯の隙間から覗く右目が、接合部の微細な亀裂を捉える。

 魔素を指先に集中させた。逆位相。紋章の流路に逆方向の流れを差し込む。

 かちり、と音がした。紋章の脈動が止まる。

 三分。

 壁を登った。使徒時代の訓練が体に染みついている。足場のない壁面でも、石の継ぎ目に指をかけ、体重を移動させれば登れる。

 二階の窓に手をかけた。施錠されている。だが錠前は紋章術ではなく、ただの金属製だ。

 懐から細い金属棒を二本取り出す。薬師は薬草を乾燥させる際に使う細い串を持ち歩いている。それが鍵開けにも使えることは、あまり知られていない。

 十秒で開いた。

 窓から滑り込む。暗い廊下。石壁に松明の跡があるが、今は消えている。

 足音を殺して進む。

 呪眼は閉じた。代償を最小限にするため、必要な時だけ使う。

 ノクスの情報では、文書庫は地下一階の東棟。この廊下を東に進み、階段を降りれば着く。

 角を曲がったところで、足を止めた。

 足音。

 前方から近づいてくる。規則的な歩調。巡回の兵士だ。

 僕は壁の窪みに身を潜めた。松明置きの影に体を押し込む。外套の黒がちょうどいい迷彩になった。

 白い法衣の男が通り過ぎる。手に燭台を持ち、反対側の廊下に曲がって消えた。

 呼吸を整える。

 先へ進む。

 東棟への分岐路。階段を見つけた。地下に降りる石段。壁に第三層の紋章――警報紋章が刻まれている。

 これは厄介だ。第三層は最も精密な紋章で、触れれば即座に全館に警報が鳴る。

 右目を薄く開いた。

 紋章の構造が見える。十二角形の多重回転式。設計者の癖が読み取れる。几帳面で、理論に忠実な術者。教会の正規教育を受けた者の典型的な設計だ。

 癖がある設計は、穴も見つけやすい。

 回転式は周期がある。十二角形の各頂点が順番に活性化し、全頂点が揃った瞬間だけ検知精度が最大になる。逆に言えば、頂点が遷移する瞬間——切り替わりの刹那に、ごくわずかな死角が生まれる。

 周期は約三秒。切り替わりの死角は〇・二秒。

 人間の反射速度では通れない。

 でも、タイミングを「見て」いれば話は別だ。

 呪眼で紋章の回転を凝視する。頂点が一つ、二つ、三つと活性化していく。切り替わりの瞬間が見える。

 今だ。

 階段を駆け降りた。二段飛ばしで一気に。紋章の死角を縫うように。

 〇・二秒。

 通過した。警報は鳴らない。

 地下一階の廊下に出た。空気がひんやりとしている。石壁から湿気が滲み出ている。

 右目を閉じた。頭の奥がきりきりと痛む。短時間の使用でも、負荷は確実にかかっている。

 何かを忘れてはいないか?

 手帳を確認した。今日の日付。ミラを森に隠したこと。リーゼが先行潜入したこと。ノクスの情報。結界の構造。

 全部覚えている。大丈夫だ。今のところは。

 ミラは一人で待っている。あの岩陰で、膝を抱えて。早く戻らなければ。

 廊下の奥に、鉄の扉があった。

 文書庫だ。


 鉄扉の鍵は紋章式だった。四桁の魔素配列を正しく入力しなければ開かない。

 僕は一瞬だけ右目を開き、鍵の紋章を読んだ。四桁の配列が見える。光・闇・光・地。教会の教義に基づいた配列だ。宗教的な意味がある。

 入力する。鍵が開いた。

 扉を押す。重い鉄の軋みが響かないよう、ゆっくりと。

 中は広かった。

 石造りの部屋に、木製の書架が整然と並んでいる。羊皮紙の巻物、革装丁の書物、綴じられた報告書。膨大な量の文書が、分類番号順に収められている。

 燭台に火を灯す。懐の火打ち石を使った。紋章術による照明は魔素の痕跡を残すから使えない。

 蝋燭の小さな炎が書架の影を揺らした。

 ノクスの情報では、「計画に関する文書は東棟地下文書庫の第七書架、上段」。

 第七書架を探す。書架には番号が振ってある。第一、第二と順に奥へ進む。

 第七書架。上段。

 革装丁の書類綴じが三冊。表紙に聖廟教会の紋章が型押しされている。

 一冊目を手に取り、開いた。

 最初のページに、赤い印章が押されている。

 「最高機密――閲覧権限:大司教以上」

 大司教以上。つまりアベラール大司教と、ごく少数の高位聖職者だけが読める文書だ。それがなぜこんな前線拠点にある?

 おそらく実務上の必要だ。前線で「計画」を実行する者には、計画の全体像が必要になる。だから写しがここにある。

 ページをめくった。

 最初の数ページは形式的な前文だった。教義に基づく正当化の文言。「神の恵みを正しく管理するために」「大陸の平和と安寧のために」。読み飛ばす。

 そして――本文。

 目が止まった。

 「聖女収穫計画(プロジェクト・ハーヴェスト)」

 計画の概要が箇条書きになっている。

 僕は息を止めて読んだ。

 一、各地に人工呪詛を散布し、呪い耐性の低い地域を選定する。  二、呪いの浸透が一定値を超えた段階で、浄化能力を持つ個体が自然発現する傾向を利用する。  三、発現した浄化能力者を「聖女候補」として教会が「保護」する。  四、候補の中から真の聖女因子を持つ者を選別し、聖都に移送する。  五、聖女因子の研究および人工聖女の生成に供する。

 文字が歪んで見えた。

 呪いを――撒いている。

 意図的に。計画的に。大陸中に呪いを撒き散らし、その呪いが生み出す苦痛の中から、浄化の力を持つ者を炙り出している。

 マルヒェン村の呪いも。ミラの呪いも。各地の呪いの病も。

 全部、これだったのか。

 ページをめくる。手が震えていた。

 計画の実施記録が時系列で並んでいる。地名、日付、散布した呪詛の種類、発現した浄化能力者の数。

 数字の羅列だった。人の苦しみが、ただの数字になっている。

 さらにめくる。

 別の項目があった。

 「関連計画:ヴェルハイデ浄化作戦」

 心臓が跳ねた。

 読む。

 「ヴェルハイデ王国は歴史的に聖女を多く輩出する地域である。同国の聖女因子保有率は通常地域の約七倍。この遺伝的資源を確保するため、以下の作戦を実施する」

 遺伝的資源。

 人間を――人間の血を、「資源」と呼んでいる。

 「一、ヴェルハイデ王国に対し、異端の温床であるとの名目で聖戦を布告する」  「二、王族および高位聖職者を排除し、聖女因子保有者を教会の管理下に置く」  「三、一般住民は呪詛耐性の実験体として各地に分散配置する」

 五年前の聖戦。ヴェルハイデの滅亡。あれは宗教的な浄化ではなかった。

 聖女の血を持つ人間を「収穫」するための戦争だった。

 二冊目を開いた。

 実施報告書。日付は五年前。ヴェルハイデ浄化作戦の結果報告。

 「王族の生死確認:第一王女——死亡確認。国王——死亡確認。王妃——死亡確認。第二王女——遺体未発見。捜索継続中」

 第二王女。遺体未発見。

 リーゼの顔が脳裏に浮かんだ。

 蜂蜜色の髪。翡翠の瞳。時折見せる、明るさの奥にある暗い影。ヴェルハイデの紋章を見た時の、あの一瞬の凍りつき。

 偶然だ。偶然だと思いたい。

 でも、彼女の手は金色に光った。聖女の浄化と同じ色で。

 三冊目。

 計画の進捗報告と、今後の方針。日付は半年前。

 「マルヒェン村における呪詛散布実験は、予期せぬ事態により中断。第七使徒ルシアン・ヴァルトローの聖遺物が暴走し、村の呪詛が想定外の形で解放された。ルシアンは死亡と断定。聖遺物『終末の瞳』は回収不能」

 僕のことだ。

 僕がマルヒェン村で起こしたこと。村を救おうとして呪眼を使い、暴走し、村が壊滅した。その真相がここに書いてある。

 あの村の呪いも教会が撒いたものだった。僕はそれを知らずに解呪しようとして、呪眼が暴走した。教会は僕を犯人に仕立て上げ、同時に「死亡」と発表した。

 全部繋がった。

 マルヒェン村の呪い、ミラの呪い、各地の呪いの病、ヴェルハイデの滅亡。全てが「聖女収穫計画」の一環だった。

 僕は書類綴じを閉じた。

 手が震えている。怒りなのか、恐怖なのか、わからない。

 ――物音。

 廊下から足音が聞こえた。一人ではない。複数。走っている。

 まずい。

 僕は書類綴じを外套の内側に押し込んだ。三冊は嵩張る。一冊目と三冊目だけを取り、二冊目は戻した。

 蝋燭を吹き消す。暗闇の中で扉に耳を当てた。

 足音が近い。地下に降りてくる。

「――文書庫の封が解かれている! 侵入者だ!」

 鍵の紋章に、解錠記録が残っていたか。しまった。開ける時に痕跡を消す余裕がなかった。

 逃げる。

 扉を開けて廊下に出た。右手が階段。足音はそこから降りてくる。

 左手。廊下の奥に別の通路がある。地下をさらに奥に進む道だ。

 左に走った。

 石壁の廊下を駆ける。背後で「止まれ!」という怒声が響いた。

 角を曲がる。暗い通路の先に、明かりが見えた。

 地下通路が地上に繋がっている。物資の搬入用の通路だ。石段を駆け上がると、中庭に出た。

 月のない夜空の下、修道院の中庭。石畳に枯れた噴水がある。

 そして――中庭の向こう側に、リーゼがいた。


 彼女は走っていた。

 背後から審問官が二人追ってきている。リーゼは竪琴を抱えて全力で走り、中庭に飛び出してきた。

「シエル!」

「こっちだ!」

 僕たちは中庭の中央で合流した。リーゼの息が上がっている。頬が紅潮し、翡翠の瞳が大きく見開かれている。

「見つかった——酒場で歌ってたら途中で巡回が増えて、あたしの荷物を調べ始めて——」

「ノクスだ」

「え?」

「ノクスが教会にも情報を売った。僕たちがここに来ることを」

 リーゼの顔から血の気が引いた。

「あの子が——」

「後だ。まず逃げる」

 中庭の四方から足音が迫っていた。扉が次々と開き、白い法衣の審問官が現れる。松明の光が中庭を照らし出す。

 五人。いや、八人。さらに増える。

 建物の二階の窓からも人影が見える。弓を構えている者がいる。

「リーゼ、僕の後ろに」

「うん——あ、シエル、これ」

 リーゼが外套の内側から羊皮紙の束を取り出した。

「酒場で酔った修道士から聞いた情報のメモ。あと、厨房の奥の部屋に地図があったから盗んできた」

「……盗んだのか」

「吟遊詩人は旅の途中で色々拾うの」

 この子は本当に——

 考えている暇はなかった。審問官が包囲を縮めてくる。

「投降しろ! 武器を捨て、両手を上げろ!」

 審問官の一人が叫んだ。手に紋章が光っている。攻撃紋章の準備態勢だ。

 八人。紋章術師が少なくとも三人。残りは近接戦闘要員。

 逃走経路を探す。中庭の北側に物置小屋がある。その屋根を伝えば外壁に届く。外壁を越えれば葡萄畑。畑を抜ければ森に入れる。

 だが紋章術師三人の攻撃を掻い潜りながら壁まで走るのは、リーゼを連れてでは厳しい。

 右目が疼く。

 使えば簡単だ。三人の紋章を全て無力化し、近接要員の動きを読んで回避する。呪眼ならそれができる。

 代償は?

 わからない。今日はすでに結界の解析と警報紋章の回避で二度使っている。三度目の代償がどれほどのものか、予測できない。

「シエル」

 リーゼが僕の手を握った。小さな、温かい手。

「無茶しないで」

「しない。たぶん」

「たぶん、ってなに」

 僕は外套の内側から小瓶を三つ取り出した。煙幕。忌避剤。そして、閃光弾――マグネシウムの粉末と過酸化物を調合した、薬師の自家製だ。

「目を瞑れ。三秒後に走る。北の物置小屋に向かって」

「うん」

 リーゼは目を閉じた。

 僕は三つの小瓶を同時に投げた。

 閃光弾が最初に弾けた。白い光が中庭を焼く。審問官たちが顔を背ける。直後に煙幕が膨れ上がり、忌避剤が飛散する。

「走れ!」

 リーゼの手を引いて駆けた。白煙の中を北に向かって。

 煙の向こうで紋章が光った。風の術で煙を払おうとしている。だが忌避剤が混ざった煙は、目と喉を強烈に刺激する。術の展開に必要な集中力を削ぐ。

 物置小屋に辿り着いた。壁に手をかけ、屋根に登る。リーゼを引き上げる。

 屋根の上から外壁までは五メートルほどの距離。跳べる。

「リーゼ、飛べるか」

「飛ぶ!」

 僕が先に跳んだ。外壁の上部に手をかけ、体を引き上げる。リーゼが後に続く。彼女の跳躍は僕より身軽だ。

 外壁の上に立った。眼下に暗い葡萄畑が広がっている。

「下に飛び降りる。膝を曲げて着地しろ」

「高くない!?」

「四メートルだ。大丈夫」

「大丈夫って言う人、だいたい大丈夫じゃない!」

 背後で「壁に登った! 追え!」という声が上がった。

「飛ぶぞ」

「もーっ!」

 二人で飛び降りた。葡萄畑の柔らかい土が衝撃を吸収した。足首がじんと痛んだが、折れてはいない。

 リーゼが横で転がっている。

「い、生きてる……」

「走れるか」

「走れる! たぶん!」

 畑の畝を縫って走った。葡萄の蔓が顔を打つ。足元がぬかるんでいる。

 背後から追ってくる気配がある。松明の光が揺れている。

 でも畑を抜ければ森だ。森に入れば追手を撒ける。暗い森は逃走者の味方だ。

 畑の端に着いた。目の前に暗い森が広がっている。

 森に飛び込んだ。枝が引っかかる。木の根に足を取られる。それでも走った。リーゼの手を離さずに。

 五分走った。十分走った。

 追手の声が遠ざかっていく。松明の光が木々の間に見えなくなった。

 大きな樫の木の陰で立ち止まった。

 二人とも息が上がっている。リーゼが膝に手をついて荒い呼吸を繰り返している。

「はあ……はあ……もう走れない……」

「少し休もう」

 僕は樫の木の幹に背を預けた。脇腹の古傷が痛む。まだ完全には治っていない。

 呼吸を整えながら、外套の内側を確認した。書類綴じ二冊。無事だ。リーゼのメモと地図も、彼女の外套の中にある。

「シエル、さっき言ってた……ノクスが教会にも情報を売ったって……」

「ああ。僕たちがこの拠点に来ることを、教会側に伝えていた。だから巡回が増えた。僕たちが来るとわかっていたんだ」

「……ってことは、拠点だけじゃない。あたしたちの行動も筒抜けだったってこと?」

 リーゼの声が低かった。怒りが底に沈んでいる。

「可能性はある。少なくとも東に向かったことは把握されている」

「ミラ——」

 リーゼが息を呑んだ。僕も同じことを考えていた。

 ミラが一人で待っている。あの森の中の岩陰で。追手がこの周辺を捜索すれば、見つかるかもしれない。

「急がないと。ミラのところに戻らないと」

「ああ。だが追手を引き連れたまま戻れば、ミラの居場所を教えるようなものだ」

「じゃあどうするの」

「まず撒く。完全に。それから迂回して戻る」

 リーゼは黙った。暗闇の中で、彼女の拳が握りしめられているのが見えた。

「……シエル」

「なに」

「文書庫で、何を見つけた?」

 僕は少し迷った。

 彼女に伝えるべきか。聖女収穫計画のこと。ヴェルハイデの滅亡がその一環だったこと。「第二王女——遺体未発見」という記述。

 伝えれば、彼女は動揺する。そしてその動揺の理由を僕が問えば、嘘の一つが剥がれる。

 でも伝えなければ、彼女に判断材料を与えないことになる。それは彼女を守ることではなく、支配することだ。

「……各地の呪いは、教会が意図的に撒いている。ノクスの情報は正しかった」

「それは聞いた。でもそれだけじゃないでしょ。顔を見ればわかる」

 鋭い。本当に鋭い。

「計画の名前がある。『聖女収穫計画』。呪いを撒いて、浄化能力者を炙り出す。聖女の力を持つ人間を回収する計画だ」

 闇の中で、リーゼの息が止まった。

「聖女を……」

「ああ。そして――ヴェルハイデ王国の滅亡も、この計画の一環だった。聖女の血統を持つ民族を丸ごと教会の管理下に置くための戦争だったんだ」

 沈黙。

 長い沈黙。

 闇の中で、リーゼの呼吸が聞こえない。息を止めているのだ。

「リーゼ……?」

「……大丈夫」

 彼女の声が、別人のように聞こえた。

 平坦で、感情の抜け落ちた声。まるで王族が臣下に告げるような、整った口調。

「大丈夫です」

 です。

 彼女が「です」と言った。いつもの「だよ」「だって」「でしょ」ではなく。

 それは彼女の仮面が一瞬だけずれた証だった。

「リーゼ」

「……ごめん。大丈夫だよ。ちょっとびっくりしただけ」

 声のトーンが戻った。明るい、いつもの彼女。でも僕にはわかる。さっきの一瞬は演技ではなかった。

 彼女はヴェルハイデという名前に反応した。聖女という言葉に凍りついた。

 つまり――

 考えるな。今は考えるな。

 今は逃げることが先だ。

「先に進もう。追手が犬を使ってくるかもしれない。川を渡って匂いを消す」

「うん……うん、そうだね。行こう」

 リーゼが立ち上がった。声は明るかったが、手が震えていた。暗闇の中でも、それだけはわかった。

 僕は彼女の手を取った。冷え切っている。

「……冷たいな」

「えへへ、冷え性なの」

「走れば温まる」

「もう走るの!? 鬼!」

 軽口が戻ってきた。それだけで少し安堵した。彼女が軽口を言えるうちは、まだ大丈夫だ。

 僕たちは暗い森の中を走った。

 川を見つけ、浅瀬を渡った。冷たい水が靴を濡らした。リーゼが「つめたっ」と悲鳴を上げた。

 対岸に上がり、さらに走る。

 森を抜けると、月の隠れた夜空の下に街道が白く伸びていた。

 ここまで来れば、とりあえずは安全だ。修道院から直線距離で三キロ以上離れている。

「少し歩こう。次の街道の分岐まで行けば、どちらに逃げたかわからなくなる」

「うん。もう足がぱんぱん……」

 リーゼが足を引きずりながら歩いている。竪琴が背中で揺れている。

 僕たちは街道を黙って歩いた。

 リーゼは何も訊かなかった。聖女収穫計画の詳細も、ヴェルハイデの記述も、それ以上は訊こうとしなかった。

 僕も訊かなかった。彼女がなぜ動揺したのか。なぜ一瞬だけ口調が変わったのか。

 訊けなかった。

 訊いたら、全部が崩れる。

 僕たちはまた、互いの嘘を抱えて歩いた。暗い街道を。肩を並べて。


 街道を三十分ほど歩いたところで、分岐路に出た。

 北に向かう道と、東に向かう道。

 ミラのことが頭から離れなかった。早く戻らなければ。追手を撒いてから南に回り込んで、あの森に——

 だが足が止まった。

 分岐路の先に——誰かが立っている。

 街道の真ん中に。

 月が雲の切れ間から顔を覗かせた。淡い銀色の光が、街道を照らす。

 銀髪。

 短く刈り込まれた銀色の髪が、月光を反射して光っている。

 白い外套。銀の胸当て。その上に聖廟教会の紋章。

 右手に剣を提げている。だが普通の剣ではない。刀身がない。柄だけがある。その柄から、淡い光が脈動している。

 光の剣。

 僕の右目が、眼帯の下で激しく疼いた。

 知っている。この気配を。この光を。この威圧感を。

 かつて隣に立っていた人間の気配を、体が覚えている。

 彼女が口を開いた。

 凛とした声が、夜の街道に響いた。

「久しぶりね、ルシアン」

 隣でリーゼが息を呑んだ。

 ルシアン。

 僕の本名が、夜風に乗って消えていった。

 銀髪の女騎士が、光の剣を抜いて立っている。

 柄から伸びた光の刃が、夜闇を切り裂くように白く輝いていた。

 第三使徒。黎明の使徒。

 セラ・ブライトフォール。

「……セラ」

 僕の口から、その名前が零れた。

 覚えている。彼女の名前は覚えている。銀色の髪も。真っ直ぐな目も。不器用な笑い方も。

 忘れていなかった。まだ。

 セラは僕を見つめていた。月明かりの下、彼女の碧い瞳が揺れている。

 怒りではなかった。

 もっと複雑な何かが、その目の奥にあった。

「——生きていたのね」

 その声は、震えていた。

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