セラ・ブライトフォール。
第三使徒。黎明の使徒。聖遺物「暁の剣(ドーンブレイド)」の担い手。
かつての同僚。そして――僕が使徒だった頃、唯一「友人」と呼べた人間。
月明かりの下、彼女は街道の真ん中に立っていた。銀色の髪が夜風に揺れている。白い外套の裾が翻り、その下の銀の甲冑が光を反射している。
右手に提げた暁の剣。柄から伸びる光の刃が、静かに脈動している。白く、鋭く、美しい光だった。
僕は知っている。あの光がどれだけの破壊力を持っているか。
「ルシアン」
セラがもう一度、僕の名前を呼んだ。
隣でリーゼが僕の袖を掴んだ。小さく引いている。逃げよう、と言いたいのだろう。
でも逃げられない。セラの前で背を向けるのは自殺行為だ。
「……久しぶりだな、セラ」
「二年ぶりかしら。あなたが死んだと聞いた日から数えて」
「死んだことになっているんだろう? なら僕は幽霊だ。見なかったことにしてくれると助かる」
「冗談を言える余裕があるのね」
セラの目が細くなった。笑ってはいない。かつての彼女なら、僕の軽口に苦笑しながら「相変わらずね」と言ったはずだ。
今の彼女の目には、笑みがなかった。
「隣の子は?」
セラの視線がリーゼに向いた。
「旅の連れだ。関係ない」
「関係なくはないでしょう。教会の前線拠点に潜入した共犯者よ」
知っている。やはりノクスの情報は教会にも渡っていた。セラはここで待ち伏せしていたのだ。
「シエル……この人は……」
リーゼが小さく囁いた。「シエル」と呼んでくれた。僕の偽名を。彼女は「ルシアン」という名前を聞いたはずだ。でも今はそれに触れない。
「使徒だ。教会の最高戦力。勝てない相手だ」
「……えっ」
「だから僕の後ろにいろ。絶対に離れるな」
僕は一歩前に出た。リーゼを背中に庇う。
セラが僕を見ている。碧い瞳が月光を映して光っている。
「ルシアン。一つだけ訊くわ」
「なんだ」
「マルヒェン村の虐殺。あなたがやったの?」
静寂が降りた。
夜風が止んだように感じた。街道の砂利が、月光の下で白く輝いている。
「……教会の報告書には何と書いてある」
「第七使徒ルシアン・ヴァルトローが聖遺物の暴走により村を壊滅させた。使徒本人も死亡。以上」
「それが教会の結論だろう」
「私が訊いているのは教会の結論じゃない。あなたの答えよ」
セラの声が硬かった。でもその奥に、何かを願うような響きがあった。
否定してくれ、と言っているように聞こえた。
「……村の呪いを解こうとした。呪眼を使って、呪いの紋章を解体しようとした。だが暴走した。結果として村は壊滅した。僕のせいだ」
「暴走? あなたの呪眼が?」
「呪いが想定以上に複雑だった。いや、違う。あの呪いは僕が知っている自然発生の呪いとは別物だった。人工的に設計された呪詛だ。解呪の手順が通常と異なり、呪眼の干渉が予想外の連鎖反応を起こした」
セラの表情が変わった。眉が寄り、目が鋭くなる。
「人工の呪詛?」
「教会が撒いた。計画的に。各地の呪いの病は全て教会の人工呪詛だ。マルヒェン村もそうだった」
「何を――」
「証拠がある。さっき拠点の文書庫から持ち出した。聖女収穫計画。知っているか、セラ」
セラの顔が強張った。
「……知らない」
「そうだろうな。使徒にも知らされていない最高機密だ。大司教アベラールの直轄計画。呪いを撒いて聖女を炙り出す。ヴェルハイデを滅ぼしたのもその一環だ」
「黙りなさい」
セラの声が鞭のように鋭くなった。
「あなたが何を言おうと、私には任務がある。異端者の確保。それが私の仕事よ」
「僕が異端者か」
「教会がそう定めた」
「教会が正しいと思うか?」
セラは答えなかった。
暁の剣が、ぶん、と低い音を立てた。光の刃が明るさを増す。セラの感情が剣に伝わっている。聖遺物は使い手の感情に呼応する。光が揺れているのは、彼女の心が揺れているからだ。
「……ルシアン」
「なんだ」
「私はね、あなたが死んだと聞いた時、泣いたのよ」
声が震えていた。
「使徒になって以来、泣いたことなんてなかった。任務で人を殺しても、味方が死んでも、泣かなかった。でもあなたの訃報を聞いた時だけは――」
セラは剣を構え直した。
「だから確かめに来た。あなたの目で、あなたの口で。真実を聞きたかった。でも——」
光の刃が輝きを増した。
「真実がどうであれ、任務は任務よ。私はあなたを連れ帰る。生きていようと死んでいようと」
構えが変わった。
僕は彼女の戦い方を知っている。暁の剣は光の刃を自在に操る聖遺物だ。近距離では一撃必殺の斬撃、中距離では光の刃を射出し、遠距離では光の壁を展開して面制圧を行う。
あらゆる距離で最強。それが第三使徒セラ・ブライトフォールだ。
「リーゼ。僕から離れるな。何があっても走るな。逃げるタイミングは僕が作る」
「シエル、あなたまさか——」
「呪眼を使う」
「だめ! さっきも使ったでしょ! これ以上使ったら——」
「使わなければ死ぬ」
リーゼが唇を噛んだ。反論の言葉を探している。でも見つからない。彼女にもわかっているのだ。目の前に立っている女騎士が、どれほどの脅威か。
「……約束して。死なないで」
「約束する」
何度目の約束だろう。守れるかわからない約束を、また一つ重ねた。
僕は眼帯に手をかけた。
眼帯を外した。
世界が裂けた。
色が消え、構造が露わになる。大気中の魔素が光の粒子として視界を満たす。街道の砂利の一粒一粒が意味を持った記号として読み取れる。
そして——セラが見える。
彼女の体内を巡る魔力の流れ。心臓から放射される魔素の脈動。筋肉の緊張パターン。重心の位置。呼吸のリズム。
全てが、文字を読むように明瞭だ。
暁の剣が見える。
光の刃の構造。柄の中核にある聖遺物の結晶。そこから放射される光属性の魔素が、セラの意志に従って刃の形を取っている。
刃の密度は不均一だ。切っ先に向かうほど密度が上がる。根元は柔軟で、先端は硬い。つまり振り始めは速く、打撃の瞬間に最大の硬度になる設計。
聖遺物の設計思想が読み取れる。「暁の剣」は攻撃に特化した聖遺物だ。防御機能はあるが副次的。本質は「一撃で決める」兵器。
「……その目」
セラが息を呑んだ。
「変わっていないのね。いいえ――もっと深くなっている。以前より」
「お褒めにあずかる」
「褒めていない」
セラが踏み込んだ。
速い。
呪眼で筋肉の収縮パターンを読んでいなければ、反応できなかっただろう。右足の踏み込みから斬撃の軌道を予測する。右上段から左下段への袈裟斬り。
僕は左に跳んだ。
光の刃が空を切った。白い軌跡が夜闘を裂く。遅れて熱風が頬を撫でた。光の刃が空気を灼いている。
触れれば斬れるのではない。触れれば灼かれる。光と熱を併せ持つ刃だ。
「避けるのね」
「当たるわけにはいかない」
「じゃあ——これは?」
セラの左手が前に突き出された。
暁の剣の光が分裂した。本体の刃はそのままに、五本の光の矢が空中に生成される。
光の矢は操作できる。セラの意志一つで軌道を変え、追尾し、障害物を迂回する。
五本が同時に射出された。
呪眼が全てを捉える。
五本の軌道。それぞれの速度。収束点。魔素の密度から推定される貫通力。
一本目——右に回避。 二本目——左手の刻印紋章を起動。防御壁が一瞬だけ展開され、光の矢を弾く。 三本目——伏せて回避。頭上を光が通過する。 四本目——体を捻って紙一重で躱す。外套の裾が焦げた。 五本目——
五本目が曲がった。
僕の背後に回り込む軌道。リーゼのいる方向だ。
「――!」
僕は振り返り、右手を伸ばした。呪眼で光の矢の紋章構造を読み取る。光属性の魔素を圧縮した弾丸。その結合核に干渉すれば解体できる。
視線が矢に追いつく。干渉する。
光の矢が空中で砕け散った。金色の粒子が夜空に舞う。
リーゼの一メートル手前だった。
「きゃっ——」
リーゼが尻餅をついた。光の粒子が彼女の髪に降り注いでいる。
「大丈夫か!?」
「だ、大丈夫……」
振り返る暇がなかった。
セラがもう目の前にいた。
光の剣が薙ぎ払われる。水平の一閃。
僕は後方に跳んだ。だが勢いが足りない。光の刃の先端が外套を掠め、布が焦げて弾けた。
熱い。右腕の外側が灼ける。
「避けきれなかったわね」
「かすり傷だ」
嘘だ。外套の下、右腕に火傷を負った。皮膚が赤く腫れている。
セラの攻撃は正確だ。使徒級の技量。僕が呪眼で動きを読んでようやく回避できるレベル。
しかも彼女はまだ本気ではない。
わかる。呪眼が見ている。セラの体内の魔力は、まだ三割程度しか行使されていない。暁の剣の出力も最大の半分以下だ。
つまり、今の彼女は僕を「見極めている」。
「ルシアン。あなたの呪眼は確かに万能に近い。でもね——」
セラが剣を構え直した。光の刃の輝きが一段増した。
「見えることと、対処できることは別よ」
正しい。呪眼は見る力だ。全てを解析し、全てを理解する。だが理解したところで、この体は薬師の体だ。使徒時代に比べて体力も反射速度も落ちている。
見えているのに体が追いつかない。その差が、やがて致命的な一撃になる。
「降伏しなさい、ルシアン。あなたを殺したくない」
「僕も君と戦いたくない。でも教会に戻るつもりはない」
「なら——仕方ないわ」
セラが全力を解放した。
暁の剣から放射される光が爆発的に膨れ上がった。白い光が夜を昼に変える。街道全体が白く染まり、影が消えた。
まぶしい。
呪眼があっても、この光は――
光の紋章が空中に展開された。
暁の剣の真の能力。光の刃を一本の剣に留めず、空間全体に光の紋章として展開する。刃のフィールド。この領域内にいる者は、セラの意志一つで光の刃に貫かれる。
逃げ場がない。
紋章の構造を読む。光の紋章は複雑だが、聖遺物由来の力であるため、通常の紋章術とは根本的に設計思想が異なる。解析に時間がかかる。
時間がない。
セラが右手を振り下ろした。
フィールド内の光が、刃となって僕に殺到する。
上から。右から。左から。正面から。四方八面の光の刃。
呪眼が全ての軌道を同時に捉える。
回避不能。防御不能。この数は処理しきれない。
ならば——
僕は地面に手をついた。
呪眼の出力を上げる。右目の奥が灼けるように熱い。視界の解像度がさらに上がる。光の紋章の構造が、分子レベルまで見える。
光のフィールドは一つの巨大な紋章だ。セラを中心に展開された、使徒級の大紋章。個々の刃は紋章の枝葉に過ぎない。根を断てば枝は枯れる。
根はセラの暁の剣だ。柄の中核にある聖遺物の結晶。
僕の目が結晶を捉えた。呪眼の干渉波が発射される——
弾かれた。
聖遺物の結晶には、呪眼の干渉を拒否する防壁がある。当然だ。聖遺物は呪眼と同格の存在。聖遺物同士は直接干渉できない。
使徒だった頃にも同じ壁にぶつかった。終末の瞳は万能に見えて、同格の聖遺物には通じない。
「わかっているでしょう」
セラの声が光の向こうから聞こえた。
「聖遺物を聖遺物で壊すことはできない。あなたが私の剣を無効化できないように、私もあなたの目を封じることはできない。使徒同士の戦いは、聖遺物の外で決まる」
聖遺物の外。
つまり――聖遺物を介さない、純粋な戦闘技術と紋章術の領域。
光の刃が迫る。四方から。
僕は咄嗟の判断で、地面に刻印紋章を展開した。使徒時代に右手の甲に刻んだ防御紋章。出力は低い。セラの攻撃を完全には防げない。
だが一瞬だけ、光の刃を逸らすことはできる。
防御紋章が盾のように展開された。青白い光の壁が、迫る光の刃を弾く。一本、二本、三本。四本目で盾が砕けた。
砕ける前に転がった。光の刃が石畳を抉る。白い閃光と轟音。破片が飛び散る。
「シエル!」
リーゼの悲鳴が遠くから聞こえた。
起き上がる。右腕の火傷が激しく痛む。呪眼の酷使で頭が軋んでいる。
セラが間合いを詰めてくる。暁の剣を正眼に構えて。
近距離。光の剣の間合い。
彼女の踏み込みが見える。右足。重心移動。斬撃の軌道——左から右への横薙ぎ。
かわす。ぎりぎりで。光の刃が髪を焦がす。
反撃のチャンスは、斬撃の直後の硬直。セラの剣術は隙が少ないが、大振りの後にわずかな間がある。
そこを突く。
僕は左手で懐の薬瓶を投げた。閃光弾。
セラの目の前で白い光が弾けた。
「く——!」
セラが顔を背ける。一瞬の視界遮断。
僕は踏み込んだ。右手の刻印紋章に残りの魔力を集中させる。出力は微々たるものだ。でも、これしかない。
掌打。
魔力を乗せた右の掌がセラの胸甲に叩き込まれた。衝撃波が甲冑を伝わり、セラの体が後方に吹き飛ぶ。
五メートル。
セラは空中で体勢を立て直し、着地した。砂利が散る。
「……やるじゃない」
セラが胸甲を見下ろした。掌打の痕が残っている。だが甲冑は砕けていない。
「でも——今のでわかったわ。あなたの魔力はもう枯渇しかけている。呪眼の維持で精一杯でしょう」
見透かされている。
その通りだった。呪眼を維持するだけで、僕の魔力は急速に消耗している。攻撃に回せる魔力はほとんど残っていない。
体が重い。視界の端が暗くなり始めている。
呪眼の代償が進行している。頭の奥で何かが軋む。何かが千切れようとしている。
何を――何を失おうとしている?
まだわからない。失った後にしかわからない。
「ルシアン」
セラが一歩踏み出した。暁の剣を構えたまま。
「あなたが本当にマルヒェン村を滅ぼしたなら、私がここで終わらせる」
光の刃が輝きを増す。
「でも――」
セラの足が止まった。
「でも、あなたの話が本当なら……教会が呪いを撒いていたなら……」
彼女の声が揺れた。碧い瞳に迷いが浮かんでいる。
「私は今まで何のために戦ってきたの? 教会の正義を信じて、異端者を討ち、民を守ってきた。その教会が、民を害していたのなら——」

「セラ」
「黙って!」
叫んだ声が夜空に響いた。
暁の剣の光が激しく明滅した。彼女の感情が剣を揺らしている。
「黙って。今は……今は戦うことしかできないの。考えたくない。考えたら、私は——」
セラが再び踏み込んだ。
今度の斬撃は重かった。怒りと混乱が乗った一撃。技の精度は落ちているが、その分力が増している。
呪眼で軌道を読む。上段からの振り下ろし。
かわす——体が動かない。
足が痺れていた。呪眼の酷使で神経伝達が遅延している。
光の刃が迫る。
回避不能。
僕は腕を上げて防御した。左腕。防御紋章を展開する魔力は残っていない。
生身の腕で、使徒の一撃を受ける。
覚悟した。左腕を失う覚悟を。
光が、左腕に触れる寸前で——
止まった。
セラが剣を止めていた。
左腕の肌に、光の熱が伝わっている。あと一ミリで切断されるところだった。
「……なんで防御しないの」
セラの声が震えていた。
「もう魔力がないだろう。さっき言っただろう」
「嘘でしょ。あなたが……あなたがこんなに弱いはずがない。第七使徒が。終末の使徒が」
「第七使徒は二年前に死んだんだ。今の僕はただの薬師だよ、セラ」
セラの腕が下がった。暁の剣の光が弱まる。
その目に、涙が浮かんでいた。
「馬鹿。なんで……なんでこんなになるまで……」
「呪眼の代償だ。使うたびに壊れていく。もう元には戻れない」
「ルシアン——」
その時。
街道の両端から、複数の足音が聞こえた。
整然とした、軍靴の足音。
松明の光が、森の中から無数に現れた。
白い外套。銀の胸当て。聖廟教会の紋章。
審問官。
十人。二十人。まだ増える。三十人以上。
街道の前方から。後方から。森の中から。完全に包囲されていた。
「な——」
セラが振り返った。その顔に驚愕が浮かんでいる。
「この部隊は——私は要請していない!」
審問官の一人が前に進み出た。兜の下から、冷たい声が響く。
「第三使徒セラ・ブライトフォール殿。大司教アベラール猊下の勅命により、我々第一審問大隊が異端者の確保に参上しました。以後の指揮は当方が執ります」
「第一大隊!? 聞いていないわよ。私の任務よ。私が——」
「猊下の判断です。対象は最重要級。使徒一人では不十分と判断されました」
セラの顔が歪んだ。第一大隊。教会の審問官の中でも最精鋭の部隊。通常は聖都の守護にしか動かない。それがここに来ている。
アベラールは最初からセラだけに任せるつもりはなかったのだ。セラが揺さぶりの前衛で、大隊が本命の包囲網。
「ルシアン・ヴァルトロー。同行者。共に投降せよ。抵抗すれば即時排除する」
審問官の声に感情はなかった。任務遂行の機械だ。
三十人以上の審問官。その中に紋章術師が少なくとも十人。全員が紋章を展開し始めている。
呪眼が見える。十の紋章が同時に起動する光景。拘束術、攻撃術、防御術、探知術。多層的な戦術紋章の展開。一つ一つは三等から四等程度だが、これだけの数を同時に相手にするのは不可能だ。
僕の魔力は枯渇している。呪眼の維持だけで限界だ。
逃げ道がない。
完全に、詰んだ。
「シエル……」
リーゼが僕の背中にしがみついている。彼女の体が震えているのが伝わってくる。
「大丈夫だ」
「嘘つき」
「……ああ、嘘だ」
大丈夫じゃない。何も大丈夫じゃない。
呪眼が暗くなっていく。維持できない。魔力が尽きる。
目を閉じなければ。でも閉じたら、もう何も見えない。三十人以上の審問官に囲まれて、僕たちは——
「投降の意思がないなら、排除する」
審問官が号令した。
十の紋章が一斉に輝いた。攻撃紋章の連射態勢。火球、氷槍、雷撃、風刃。四属性の同時攻撃が準備されている。
呪眼が全てを見ている。でも体が動かない。
これが最後だ。
ここで終わるのか。
師匠の顔を忘れたまま。リーゼの秘密を知らないまま。ミラの呪いを解けないまま。
何も果たせないまま、ここで——
「——だめ」
背後で、声がした。
リーゼの声だった。
だが、いつもの明るい声ではなかった。もっと低く、もっと静かで、もっと――
強い声だった。
「だめだよ。ここで、終わりになんかさせない」
僕は振り返った。
リーゼが僕の背中から離れて、前に出ようとしている。
「リーゼ、下がれ!」
「下がらない」
彼女の翡翠の瞳が、月明かりの下で光っている。涙が浮かんでいた。でも泣いてはいなかった。泣きそうな顔をしているのに、目だけは真っ直ぐ前を見ていた。
「あたしがずっと隠してきたもの、今出さなかったら、あなたが死んじゃう」
「何を——」
「ごめんね、シエル。あたしも嘘つきだったんだ」
リーゼが両手を前に差し出した。
その手のひらが、光り始めた。
金色だった。
あの時と同じ。工房での治療の時に見た、あの光。だがあの時とは比べものにならない。
光が膨れ上がった。
リーゼの両手から放射された金色の光が、球体のように広がっていく。彼女の全身を包み込み、髪を靡かせ、外套を翻す。
蜂蜜色の髪が金色の光に染まり、一瞬だけ純金のように輝いた。
「なっ——」
セラが息を呑んだ。
「これは……」
審問官たちが動揺した。紋章の展開が乱れる。
金色の光が爆発的に広がった。
リーゼを中心に、光の波が同心円状に拡がっていく。街道を。森を。夜空を。全てを金色に染めながら。
光の波が審問官の紋章に触れた瞬間——紋章が消えた。
十の紋章が、同時に。
火球が霧散した。氷槍が蒸発した。雷撃が雲散した。風刃が凪いだ。
呪い系の紋章だけではない。審問官たちが展開した全ての攻撃紋章が、金色の光に触れた瞬間に無力化されている。
浄化だ。
聖女の浄化。
紋章を介さない、純粋な祈りの力。呪いも穢れも、人為的な害意すらも祓う、人類最古の奇跡。
「聖女……」
セラが呟いた。暁の剣を握る手が震えている。
「まさか……ヴェルハイデの……」
金色の光が僕にも届いた。
温かかった。
体の奥に染み渡るような、深い温もり。呪眼の痛みが和らぐ。枯渇しかけた魔力が、微かに回復する感覚。
だがそれだけではなかった。
右目の奥で、何かが変わった。
呪眼が——暴走しかけている。
リーゼの浄化の光が、呪眼の中核に触れたのだ。呪眼は聖遺物であると同時に、呪いの産物でもある。呪いと聖なる力が接触し、予想外の反応が起きている。
視界が真っ白に染まった。
呪眼の出力が、意志に反して跳ね上がる。見えすぎる。全てが見えすぎる。審問官一人一人の魔力回路。セラの暁の剣の結晶構造。大気中の魔素の一粒一粒。地面の下を流れる地脈の魔力。
世界が設計図になった。
ただの設計図ではない。世界そのものの構造が、紋章として読み取れる。空間を構成する法則。時間の流れを規定する数式。存在と非存在の境界。
終末の瞳の真の力。世界を「見る」のではない。世界を「読む」力だ。
読みすぎている。
頭が割れそうだ。情報の奔流が脳を灼いている。
「あ——」
声が出た。痛みの声ではない。もっと原始的な、存在が軋む音。
「シエル!」
リーゼの声が聞こえた。金色の光の中心から。
彼女が僕に駆け寄ってくる。光を纏ったまま。
「目が——シエル、あなたの目が——」
僕の右目は今、眼帯を外したまま全開放されている。金色の瞳の中で、世界最大の紋章が高速回転している。暴走している。止められない。
代償が来る。
今までとは比較にならない代償が。
記憶が消える。高速で。直近の記憶から、過去に向かって。
三日前の記憶が消えた。ノクスとの会話が霧に沈む。二週間前。ミラを助けた夜の記憶が遠くなる。一ヶ月前。リーゼと旅を始めた頃の——
だめだ。
リーゼとの記憶を失うわけにはいかない。
「シエル!」
リーゼが僕の手を掴んだ。
金色の光が、彼女の手から僕の手へ流れ込んだ。
その瞬間——
世界が変わった。
暴走していた呪眼の出力が、急速に収束した。金色の光が、呪眼の暴走を包み込み、鎮めていく。浄化の力が呪いの力を中和しているのだ。
だが、中和だけでは終わらなかった。
呪眼と浄化が、接触した。
呪いの力と聖なる力が、反発するのではなく——
共鳴した。
僕の右目から放射される呪いの波動と、リーゼの手から放射される浄化の波動が、重なり合った。干渉し合い、増幅し合い、一つの新しい波動になった。
金色と金色が混ざり、白い光になった。
白い光が僕とリーゼを包み込んだ。二人だけの結界のように。
審問官たちには触れない。セラにも触れない。ただ僕とリーゼだけを包んでいる。
体の奥で、何かが繋がった。
リーゼの鼓動が聞こえた。彼女の心臓の音が。自分の鼓動と重なって、同じリズムを刻んでいる。
彼女の感情が流れ込んでくる。恐怖。覚悟。悲しみ。そして——僕を失いたくないという、強い想い。
僕の感情も彼女に流れているのだろう。隠してきた全てが。呪眼の恐怖。記憶を失う絶望。そして——彼女の傍にいたいという、どうしようもない願い。
共鳴が成立した。
呪いの共鳴。
呪眼の力と聖女の力が互いを認識し、結びついた。二つの力が一つの回路になった。
その回路が告げている。
離れるな、と。
離れれば、回路が断たれる。断たれた回路は暴走する。呪眼は制御を失い、僕の記憶を全て喰らう。浄化の力はリーゼの体を灼き尽くす。
離れれば、二人とも死ぬ。
鎖の契約。
それが成立した瞬間を、僕は確かに感じ取った。
白い光が収束していく。金色の残光が夜空に舞い上がり、星のように散って消えた。
静寂が降りた。
街道の上に、金色の粒子がゆっくりと降り注いでいた。
審問官たちは動きを止めていた。彼らの紋章は全て浄化されて消えている。武器だけが残り、術者としての力を一時的に失った状態だ。
セラが立ち尽くしていた。
暁の剣は聖遺物だから浄化の影響を受けていない。光の刃はまだ健在だ。だがセラは剣を下ろしていた。
彼女の碧い瞳が、リーゼを見つめている。
「聖女……」
セラの声はかすれていた。
「ヴェルハイデの聖女……。第二王女。エリザヴェータ」
リーゼが息を呑んだ。
セラは知っていたのだ。ヴェルハイデに聖女がいたことを。捜索対象だった「遺体未発見の第二王女」のことを。
「……あなた、ルシアンと一緒にいたの。ずっと」
セラの声は、もう戦う者の声ではなかった。
リーゼは答えなかった。金色の光は消えていたが、彼女の手はまだ微かに輝いている。僕の手を握ったまま。
「ルシアン。あなたは知っていたの? この子が聖女だと」
「……いや」
正直に答えた。確信はなかった。今この瞬間まで。
でも薄々は気づいていた。彼女の手が光る理由。僕の傍にいると呪いが緩やかになる理由。全部、聖女の力だったのだ。
「知らなかった。でも、どうでもいい」
「どうでもいい?」
「彼女が聖女でも、吟遊詩人でも、王女でも。リーゼはリーゼだ。それ以上の意味はない」
セラが目を見開いた。
そしてその表情が、不意に崩れた。
怒りでも悲しみでもない。もっと深い感情——裏切りに気づいた者の表情。
「……教会はヴェルハイデを、聖女の血を持つ民を回収するために滅ぼした。そうね?」
「ああ」
「そしてこの子が生き延びた第二王女。教会が探している聖女」
「ああ」
「私は……教会の任務として、この子を捕らえる側だった」
セラの声が、自分に言い聞かせるように平坦だった。
「私は……聖女を収穫する計画の、手駒だった?」
答えなかった。答える必要がなかった。セラは自分で答えを出している。
暁の剣の光が消えた。
セラが剣を鞘に——光の刃が消え、柄だけが残った。
「第三使徒! 何をしている! 対象を確保しろ!」
審問官の隊長が叫んだ。
セラは振り返らなかった。
「……私は」
彼女の声が、夜風に溶けた。
「私は、何を信じればいい」
誰にも向けていない問いだった。自分自身にすら。
セラが背を向けた。
街道を歩き始める。審問官の方へではない。森の方へ。
「第三使徒! 命令違反だ! 戻れ!」
「黙りなさい」
セラの声が、氷のように冷たかった。
「私は自分の目で確かめに来た。確かめた。その結果を持ち帰るわ。あなたたちの命令には従わない」
「勅命だぞ! 大司教猊下の——」
「その大司教が嘘をついていた可能性があるなら、勅命にも従う義務はないわ」
セラが森に消えていく。銀色の髪が木々の影に沈んで、見えなくなった。
審問官たちが動揺している。使徒が離脱した。指揮系統が混乱している。
だが彼らはまだ三十人以上いる。紋章は浄化されたが、武器はある。数の暴力は健在だ。
「使徒なしでも構わない。数で制圧する。全員、抜刀!」
隊長が叫んだ。
三十本の剣が抜かれた。
だが――僕とリーゼの間に走る「共鳴」が、まだ余波を放っていた。
金色の残光が僕たちの周囲に漂っている。浄化の余韻だ。この光に触れた術者は、紋章を展開できない。効果時間はあとどれくらいか。
呪眼で見る。余力がほとんどない。視界が暗い。でも辛うじて――
残光の効果時間は、あと約三分。
三分あれば逃げられる。紋章を使えない審問官は、ただの歩兵だ。数は多いが、機動力は落ちる。
「リーゼ、走れるか」
「……走る」
彼女の声は弱々しかった。聖女の力を全開放した代償が来ている。顔が蒼白で、足元がおぼつかない。
僕は彼女の手を掴んだ。共鳴がまだ脈動している。彼女の鼓動が僕の掌に伝わる。
「掴まれ。離すな」
「離さない」
走った。
審問官の包囲の薄い方向——セラが去った森の方へ。
審問官が追ってくる。だが紋章なしの状態では、重い甲冑が足枷になる。僕たちの方が速い。
森に飛び込んだ。枝を掻き分け、根を跳び越え、闇の中を走る。
リーゼが何度か躓いた。そのたびに僕が引き上げた。彼女も僕の手を離さなかった。
走って、走って、走り続けた。
追手の声が遠ざかる。松明の光が見えなくなる。
どれだけ走ったかわからない。
体の限界が来た。
僕の足がもつれ、膝が折れた。石畳ではなく、柔らかい落ち葉の地面に崩れ落ちた。
「シエル!」
リーゼが僕に縋りついた。彼女も限界だったのだろう。二人で地面に倒れ込んだ。
落ち葉の匂い。土の冷たさ。虫の声。
月がまた雲に隠れた。暗い森の中で、二人きりだった。
呼吸を整える余裕もなかった。ただ荒い息を繰り返す。肺が灼けるように熱い。
「……逃げ、切った……?」
リーゼが途切れ途切れに言った。
「たぶん……」
追手の気配はない。遠くに声も松明も見えない。
でも安全かどうかはわからない。何も確実なことはない。
ただ一つ、確実なことがあった。
僕の右手は、リーゼの左手を握っている。共鳴がまだ続いている。二人の鼓動が同期している。
離すと危険だと、体が告げている。
どれくらいそうしていたかわからない。
呼吸が落ち着いてきた頃、リーゼが口を開いた。
「シエル」
「……ん」
「あたし、聖女なの」
暗闇の中で、彼女の声が震えていた。
「知ってたでしょ。薄々」
「……ああ」
「手が光るの、見てたもんね。あの時。ルミエールの市場で」
「見た」
「訊かないでいてくれたんだよね」
「ああ」
リーゼの手が、僕の手の中で震えていた。
「あたしは……ヴェルハイデの生き残りなの。王女なんて大層なもんじゃない。逃げただけ。みんなが死んでいく中を、あたしだけ逃げた。聖女の力があったから生き延びた。他の人には力がなかったから死んだ。それだけの話」
「リーゼ」
「あたしがいれば、みんな助けられたのかもしれない。浄化の力があれば、呪いも防げたのかもしれない。でもあたしは逃げた。怖くて。死にたくなくて。家族を置いて——」
声が詰まった。
嗚咽が漏れた。
暗闇の中で、リーゼが泣いている。
「ごめんね」
彼女がそう言った。
「シエルにも嘘をついてた。名前も、身分も、力も。全部嘘。あたしは吟遊詩人なんかじゃない。逃げ回ってるだけの、臆病な姫様だよ」
「リーゼ」
「しかも今、あたしの力のせいで、変なことが起きちゃった。あなたの目とあたしの力が繋がっちゃって――あたし、わかるの。今、あなたと離れたらだめだって。離れたら二人とも壊れちゃうって。体がそう言ってる」
共鳴。鎖の契約。
彼女にもわかっているのだ。
「ごめんね。あたしのせいで、あなたはもうあたしから離れられない。鎖で繋がれちゃった。あたしみたいな嘘つきと、ずっと一緒にいなきゃいけなくなった」
リーゼの声が震えている。泣きながら、それでも言葉を繋いでいる。
「あたし、最低だね。あなたを繋ぎ止めたかった。離れてほしくなかった。でもこんな形じゃなくて……選んでほしかった。あなたに、自分の意志で隣にいてほしかった。鎖なんかじゃなく」
「リーゼ」
「ごめんね。ごめんね、シエル。あたし、もう離れられない——」
僕は彼女の手を握り直した。
震えている手を。冷え切った指を。
「僕も、だよ」
リーゼの嗚咽が止まった。
「……え?」
「僕も離れられない。鎖のせいだけじゃない」
言葉が出てきた。考えて選んだ言葉ではなく、胸の奥から勝手に溢れ出てくる言葉だった。
「僕は嘘つきだ。名前も、過去も、全部嘘だ。元使徒で、村を壊した犯人で、呪眼を使うたびに壊れていく欠陥品だ」
「シエル——」
「君の傍にいると呪いが緩やかになることに、最初から気づいていた。利用していたんだ。君の存在を。君の歌を。傍にいるだけで救われている自分が、ずっと後ろめたかった」
暗闇の中で、リーゼの呼吸が聞こえる。
「でも」
「でも?」
「いつからか、理由はどうでもよくなった」
手帳に書けなかった言葉。書いたら、未来の僕が困惑すると思って書けなかった言葉。
「君が笑うと世界が明るくなる。くだらないことを言うと呆れながら口元が緩む。君が竪琴を弾くと、右目の痛みを忘れられる。それは呪いの緩和とは関係ない。もっと単純なことだ」
「シエル……」
「僕は君の傍にいたいんだ。鎖があってもなくても。嘘の名前でも本当の名前でも。君がヴェルハイデの聖女でも、旅の吟遊詩人でも」
手の中の震えが、少しだけ和らいだ。
「だから謝るな。鎖は僕のせいでもある。呪眼がなければ共鳴は起きなかった。二人のせいだ」
「……二人のせい」
「ああ。二人のせいで、二人の鎖だ」
沈黙が落ちた。
虫の声が遠くに聞こえる。風が木々を揺らしている。
暗闇の中で、リーゼが僕の手を握り返してきた。さっきまでの震えは消えていた。代わりに、しっかりとした力がこもっていた。
「あたしの本当の名前、聞きたい?」
「君が言いたいなら」
「まだ……もうちょっとだけ、リーゼでいさせて。もう少しだけ」
「ああ」
「あなたも……シエルでいい? あたしにとっては、シエルだから」
「構わない。今はそれでいい」
リーゼの手が、僕の手の中で温かくなっていた。
共鳴がゆっくりと落ち着いていく。鼓動の同期が穏やかなリズムに変わる。
鎖だ。
僕たちは鎖で繋がれた。離れれば壊れる。くっついていなければ生きていけない。
それは呪いだ。束縛だ。不自由だ。
でも今、この瞬間だけは。
この鎖が、温かかった。
夜が更けていく。
森の中で、僕たちは大きな樫の木の根元に座っていた。背中を幹に預けて、肩を寄せ合って。
手は繋いだままだ。共鳴が完全に安定するまで、離さない方がいいと体が告げている。
リーゼは少し前に泣き止んだ。目が赤いのは暗くて見えないが、鼻をすする音が時折聞こえる。
「シエル」
「ん」
「さっきの人……セラって呼んでたね」
「ああ」
「あの人、あなたのこと『ルシアン』って呼んだ」
心臓が跳ねた。
聞いていたのだ。当然だ。すぐ隣にいたのだから。
「……ああ」
「それ、本当の名前?」
嘘をつくこともできた。「使徒時代のコードネームだ」とか。でも、彼女が本当のことを話してくれた後に、嘘を重ねるのは——
「……そうだ」
「じゃあシエルっていうのは」
「偽名だ。最初から」
「……知ってた」
「え?」
「だってあの名前、シエルって、空って意味でしょ。なんか嘘っぽいなって思ってた。薬師のくせに名前が綺麗すぎるなって」
僕は少し呆れた。
「そんな理由で?」
「あたしだってリーゼだよ。エリザヴェータの短縮形。考えなさすぎでしょ」
「お互い様だな」
「うん。お互い様」
リーゼが小さく笑った。泣いた後の、少しかすれた笑い。
「ルシアン、か。いい名前だね」
「でも今はシエルでいい」
「うん。あたしもリーゼでいい」
偽名同士。嘘の名前で呼び合う二人。
でもその嘘が、今は心地よかった。
本当の名前で呼び合う日は、いつか来るのだろうか。
その日が来た時、僕たちはまだ隣にいるだろうか。
「……シエル」
「なに」
「あたし、あなたの呪いを治したい」
リーゼの声が、暗闇の中で真っ直ぐに響いた。
「聖女の力があるなら、呪眼の呪いも浄化できるかもしれない。共鳴が成立した今なら、前よりずっと深くまで。あたし、あなたの記憶がこれ以上消えるのを止めたい」
「代償がある。君にも」
「いいよ。あたしの命で、あなたの記憶が守れるなら」
「馬鹿を言うな」
僕の声が、自分でも驚くほど強く出た。
「君が犠牲になる方法は認めない。絶対に」
「……じゃあ一緒に方法を探そうよ。二人とも助かる方法を」
「ああ。そうしよう」
リーゼの手が、僕の手を強く握った。
「約束だよ」
「ああ。約束だ」
何度目だろう。守れるかわからない約束。でも今度は、守りたいと心から思った。
空を見上げた。
雲の切れ間から、星が一つだけ見えた。
弱々しい光だったが、確かにそこにあった。
僕は手帳を取り出した。
暗くて書きにくいが、習慣は体に染みついている。
震える字で書いた。
〔セラと遭遇。戦闘。審問官大隊に包囲される。リーゼが聖女の力を全開放。呪いの共鳴が成立。離れると呪いが加速する——鎖の契約。リーゼはヴェルハイデの聖女。僕は彼女に嘘を話した。元使徒であることを、まだ全ては言えていない。セラは撤退。教会への疑念を抱いている。追手あり。行先未定〕
ペンが止まった。
もう一行、書き加えた。
〔リーゼが泣いた。泣きながら謝った。離れられなくなったことを。僕はそれを呪いだとは思わなかった。初めて、鎖が温かいと思った〕
手帳を閉じた。
隣でリーゼが眠りに落ちかけている。僕の肩に頭をもたせかけて。
蜂蜜色の髪が、暗闘の中でもわずかに光って見えた。聖女の力の残滓だろうか。それとも、ただの錯覚か。
彼女の寝顔を見つめた。
泣いた跡が頬にある。睫毛が長い。呼吸が穏やかだ。
この顔を忘れたくない。
師匠の顔は忘れた。もう二度と思い出せない。
でもこの顔は——この顔だけは。
右目の奥が疼いた。呪いは止まっていない。共鳴によって緩やかにはなったが、消えてはいない。
いつか僕は全てを忘れるのかもしれない。名前も、過去も、彼女の顔も。
でも今日を忘れない。
彼女が光った瞬間を。金色の光が夜を昼に変えた瞬間を。震える声で「ごめんね」と言った瞬間を。
手帳に書いた。体にも刻んだ。記憶が消えても、体が覚えているように。
繋いだ手の温もりを。
鎖の重さを。
僕はリーゼの肩にそっと外套をかけて、夜空を見上げた。
雲が少しずつ切れていた。星が増えている。
やがて、東の空がほんの微かに白み始めた。
夜明けが来る。
黎明の使徒は去り、嘘つきの薬師と嘘つきの聖女が残った。
鎖で繋がれたまま。
嘘を抱えたまま。
でも今は、手を離さないまま。
夜明けを、待っている。
── リーゼ side ──
セラの剣がシエルに向かった瞬間、考えるより先に体が動いていた。
考えていたら間に合わなかった。あの光の刃は速い。あの人は腕を上げて防御しようとしていた。生身の腕で。防御紋章を張る魔力もなく。
だめだ、と思った。それすら思考じゃなかった。もっと原始的な、腹の底から突き上げるもの。
あたしは二度も、目の前で大切な人を失わない。
一度目はヴェルハイデだった。お父様が城に残ると言った時、あたしは何もできなかった。お母様が「逃げなさい」と言った時、あたしは泣いて従っただけだった。お姉様が微笑んでくれた最後の顔を、あたしは走り去りながら見ただけだった。
あの時あたしに力があれば。聖女の力を使えていたら。呪いを浄化して、聖戦の紋章術を打ち消して、みんなを守れたかもしれない。
でもあの時のあたしは十四歳で、力の使い方も知らなくて。
今は違う。
力がある。使い方も、五年かけて覚えた。代償も知っている。聖女の力を全開にすれば教会に正体がバレる。回収される。聖女として二度と自由になれない。
——そんなこと、どうでもよかった。
シエルが死ぬ方が、あたしの自由より、ずっと怖い。
手を前に出した。意識して力を込めるまでもなかった。体の奥に仕舞い込んでいた光が、堰を切ったように溢れた。五年間、隠して、抑え込んで、歌の中にだけ細く流していた力が。
金色の光が弾けた。
あたしを中心に、波のように広がっていく。セラの光の紋章が消えた。審問官たちの紋章も消えた。あたしの光に触れたものは全部、浄化された。
——でも。
浄化だけじゃ終わらなかった。
あたしの光がシエルに届いた時、彼の右目が変わった。呪眼が暴走し始めた。あたしの聖女の力が、呪眼の呪いの部分に触れて、何かが起きた。
シエルが声を上げた。痛みの声じゃなかった。もっと深い——存在が軋むような音。
怖かった。
あたしの力がシエルを傷つけている。助けようとしたのに。守ろうとしたのに。あたしの光が、あの人の目を壊そうとしている。
駆け寄って、手を掴んだ。
その瞬間——繋がった。
あたしの光とシエルの呪いが、反発するんじゃなくて、重なった。共鳴した。あたしの鼓動が、シエルの鼓動と同じリズムを刻み始めた。彼の感情があたしに流れ込んできた。恐怖。記憶が消えていく絶望。そして——あたしの傍にいたいという、剥き出しの願い。
あたしの感情も流れていたはずだ。隠してきた全部が。
白い光に包まれて、世界が静かになった。
共鳴が成立した。鎖の契約。
離れれば壊れる。二人とも。
あたしが聖女の力を全開にしたから。呪いが共鳴した。あたしがやったのだ。
逃げて、走って、森に飛び込んで。
シエルの足がもつれて、二人で地面に倒れ込んだ。
落ち葉の上で、息を切らしながら、手だけは離さなかった。離したらだめだと体が言っていた。
シエルに全部話した。聖女のこと。ヴェルハイデのこと。逃げたこと。みんなを置いて逃げたこと。
そして——ごめんね、と言った。
何に対する「ごめんね」だったのか。
全部だ。
嘘をついてきたこと。名前も、身分も、力も。ごめんね。
でも「ごめんね」の一番深い部分は——シエルの自由を奪ったこと。
鎖の契約。あたしに縛りつけてしまった。あたしがいなければ呪いが暴走する。離れれば死ぬ。もうシエルは、あたしから離れるという選択肢を持てない。
あの人は自由だったのに。偽名を使って、旅をして、好きな場所に行って好きな時に去れる人だったのに。あたしがそれを奪った。あたしの力のせいで、物理的に鎖が嵌った。
——ごめんね。あなたの自由を奪ったこと。あなたをあたしに縛りつけたこと。
でも。
同時に、安堵があった。
離れなくて済む。もうシエルは「好きにしろ」と言って一人で去ったりしない。物理的に離れられない。あたしの傍にいるしかない。
その安堵が——一番醜かった。
人の自由を奪っておいて、安心している。鎖を嵌めておいて、ほっとしている。最低だ。自分で思った。最低だと。
泣いた。泣きながら謝った。
シエルは——あの人は。
「僕も、だよ」と言った。
「鎖のせいだけじゃない」と。
あの声を聞いた時、胸の奥で何かが崩れた。堤防みたいなものが。ずっと堪えていたものが、全部流れ出した。
嬉しかった。嬉しいと思った自分が、また醜かった。
セラがシエルを「ルシアン」と呼んだこと。
聞こえていた。はっきりと。最初に街道に立っていた時から。
「久しぶりね、ルシアン」
ルシアン。
シエルの本当の名前。偽名だとは最初から薄々思っていた。「空」なんて名前、薬師にしては綺麗すぎる。
でも本当の名前を知ることと、その名前の意味を知ることは違う。
セラは「第七使徒」と言った。シエルは「使徒だ」とあたしに説明した。「教会の最高戦力」と。
使徒。
教会の人間だった。シエルは——ルシアンは、教会の最高戦力だった。
ヴェルハイデを滅ぼした教会の。
あたしの家族を殺した教会の。
頭の奥で、何かがちかちかと点滅した。あの夜の記憶。燃える城。白い甲冑の兵士。そして——教会の法衣を着た少年。右目に包帯を巻いた、あの少年。
あの少年は教会の人間だった。使徒だったかもしれない。シエルも使徒だった。
五年前、ヴェルハイデにいた使徒。
あの夜、教会の法衣を着て城下町にいた少年。
心臓がうるさい。
まだ確認できない。シエルに「五年前、ヴェルハイデにいた?」と訊く勇気が、今のあたしにはない。訊いたら——答えがどちらでも、何かが壊れる気がして。
シエルは「知らなかった」と言った。あたしが聖女だと。「でも、どうでもいい」と。「リーゼはリーゼだ」と。
あの言葉を聞いた時、あたしも同じことを思った。
ルシアンでもシエルでも、使徒でも薬師でも。この人はこの人だ。
でも——もし本当にあの夜の少年だったら。
教会の使徒が、教会の聖戦の最中に、敵国の王女を助けた。代償で倒れた。あたしを逃がすために。
そして今もまた、あたしを守ろうとして、記憶を失い続けている。
……ずるいよ、シエル。
シエルが眠った。
あたしの肩にもたれかかるようにして、呼吸が穏やかになった。
共鳴のせいだろう。繋がったままだから、あたしの心臓の音が聞こえているはず。鼓動が同期している。あたしが穏やかにしていれば、シエルの体も安定する。
だから深呼吸した。穏やかに。静かに。
でも頭の中は嵐だった。
シエルは大量の記憶を失った。呪眼の暴走の代償。あの戦闘の最中、記憶が高速で消えていくのを、共鳴を通じて感じた。直近の記憶から、過去に向かって。
どこまで消えたのだろう。
ミラのことを覚えているだろうか。三人で焚き火を囲んだ夜を覚えているだろうか。スープの塩加減のことを——あれはもう忘れていたか。じゃあ、あたしのことは?
あたしのことを忘れていたら。
目を覚ました時、「誰だ」と言われたら。
胸が痛い。
でも——もし忘れていても、あたしが覚えている。ずっとそうだった。シエルが忘れたことを、あたしが覚えてきた。それはこの旅で、あたしが自分に課した役割だ。
忘れていいよ。忘れても、あたしが覚えてるから。
そう思った。心からそう思った。
——でも本当は、忘れてほしくない。
ずるい。
「忘れていいよ」と言える自分でいたいのに、本音は「忘れないで」だ。あたしのことだけは消さないでと、叫びたい。あの人が手帳に書いてくれた言葉——「鎖が温かいと思った」——を、消さないでほしい。
本音と建前が、ぐちゃぐちゃになっている。
シエルの寝顔を見つめた。月明かりが薄く差し込んで、長い睫毛に影を落としている。眉間の皺は消えている。呼吸は穏やか。繋いだ手の中で、脈拍が静かに刻まれている。
あたしの鼓動と、同じリズムで。
東の空がほんの微かに白み始めた。
虫の声が少し変わった。夜の虫から、明け方の虫へ。空気が冷たくなっている。
シエルはまだ眠っている。
あたしは膝を抱えて、白み始めた空を見上げた。
鎖の契約。
離れれば壊れる。くっついていなければ生きられない。
それは呪いだ。でも——呪いの中に、あたしは確かに温かさを感じてしまっている。シエルと同じだ。あの人も「鎖が温かい」と言った。あたしたちは同じものを感じている。同じ鎖に繋がれて、同じ温度を分け合っている。
声に出さずに、言葉が胸の奥から滲み出した。独りの時だけ出てくる、あの言葉遣い。お母様の前にいた頃の、あたし。
……わたくしは、貴方の鎖になりました。
それが救いなのか呪いなのか、まだわかりません。
貴方の自由を奪ったことを、わたくしは一生悔いるでしょう。でも、同じくらい——貴方の隣にいられることを、一生感謝するでしょう。
ずるい鎖です。
でも、この鎖を断ち切る気は、ありません。
エリザヴェータの言葉が静かに途切れて、あたしの中に馴染んだ声が戻ってきた。
『銀の月が沈む夜に、旅人は丘に立つ——』
心の中で歌が流れた。お母様の歌。ヴェルハイデの子守歌。
『振り返れば故郷の灯、前を向けば星の道——』
故郷の灯はもうない。
でも、前を向けば——隣に、この人がいる。
シエルが微かに身じろいだ。あたしの手を、眠ったまま握り直した。力は弱かったけれど、確かに握り返していた。
覚えているのかもしれない。体が。あたしの手の温度を。
記憶が消えても、体が覚えてくれたらいい。
目を覚ました時、あたしを忘れていても——手の温もりだけは残っていてくれたら。
夜明けが近い。
あたしは目を閉じなかった。この人が目を覚ますまで、起きている。もし目を覚ました時にあたしのことを忘れていたら、また名乗ればいい。何度でも。
——おはよう、シエル。あたしはリーゼ。あなたの旅の相棒だよ。
何度でも、最初から。