← TOP
プライバシーポリシー お問い合わせ

第八章

黎明の使徒


 セラ・ブライトフォール。

 第三使徒。黎明の使徒。聖遺物「暁の剣(ドーンブレイド)」の担い手。

 かつての同僚。そして――僕が使徒だった頃、唯一「友人」と呼べた人間。

 月明かりの下、彼女は街道の真ん中に立っていた。銀色の髪が夜風に揺れている。白い外套の裾が翻り、その下の銀の甲冑が光を反射している。

 右手に提げた暁の剣。柄から伸びる光の刃が、静かに脈動している。白く、鋭く、美しい光だった。

 僕は知っている。あの光がどれだけの破壊力を持っているか。

「ルシアン」

 セラがもう一度、僕の名前を呼んだ。

 隣でリーゼが僕の袖を掴んだ。小さく引いている。逃げよう、と言いたいのだろう。

 でも逃げられない。セラの前で背を向けるのは自殺行為だ。

「……久しぶりだな、セラ」

「二年ぶりかしら。あなたが死んだと聞いた日から数えて」

「死んだことになっているんだろう? なら僕は幽霊だ。見なかったことにしてくれると助かる」

「冗談を言える余裕があるのね」

 セラの目が細くなった。笑ってはいない。かつての彼女なら、僕の軽口に苦笑しながら「相変わらずね」と言ったはずだ。

 今の彼女の目には、笑みがなかった。

「隣の子は?」

 セラの視線がリーゼに向いた。

「旅の連れだ。関係ない」

「関係なくはないでしょう。教会の前線拠点に潜入した共犯者よ」

 知っている。やはりノクスの情報は教会にも渡っていた。セラはここで待ち伏せしていたのだ。

「シエル……この人は……」

 リーゼが小さく囁いた。「シエル」と呼んでくれた。僕の偽名を。彼女は「ルシアン」という名前を聞いたはずだ。でも今はそれに触れない。

「使徒だ。教会の最高戦力。勝てない相手だ」

「……えっ」

「だから僕の後ろにいろ。絶対に離れるな」

 僕は一歩前に出た。リーゼを背中に庇う。

 セラが僕を見ている。碧い瞳が月光を映して光っている。

「ルシアン。一つだけ訊くわ」

「なんだ」

「マルヒェン村の虐殺。あなたがやったの?」

 静寂が降りた。

 夜風が止んだように感じた。街道の砂利が、月光の下で白く輝いている。

「……教会の報告書には何と書いてある」

「第七使徒ルシアン・ヴァルトローが聖遺物の暴走により村を壊滅させた。使徒本人も死亡。以上」

「それが教会の結論だろう」

「私が訊いているのは教会の結論じゃない。あなたの答えよ」

 セラの声が硬かった。でもその奥に、何かを願うような響きがあった。

 否定してくれ、と言っているように聞こえた。

「……村の呪いを解こうとした。呪眼を使って、呪いの紋章を解体しようとした。だが暴走した。結果として村は壊滅した。僕のせいだ」

「暴走? あなたの呪眼が?」

「呪いが想定以上に複雑だった。いや、違う。あの呪いは僕が知っている自然発生の呪いとは別物だった。人工的に設計された呪詛だ。解呪の手順が通常と異なり、呪眼の干渉が予想外の連鎖反応を起こした」

 セラの表情が変わった。眉が寄り、目が鋭くなる。

「人工の呪詛?」

「教会が撒いた。計画的に。各地の呪いの病は全て教会の人工呪詛だ。マルヒェン村もそうだった」

「何を――」

「証拠がある。さっき拠点の文書庫から持ち出した。聖女収穫計画。知っているか、セラ」

 セラの顔が強張った。

「……知らない」

「そうだろうな。使徒にも知らされていない最高機密だ。大司教アベラールの直轄計画。呪いを撒いて聖女を炙り出す。ヴェルハイデを滅ぼしたのもその一環だ」

「黙りなさい」

 セラの声が鞭のように鋭くなった。

「あなたが何を言おうと、私には任務がある。異端者の確保。それが私の仕事よ」

「僕が異端者か」

「教会がそう定めた」

「教会が正しいと思うか?」

 セラは答えなかった。

 暁の剣が、ぶん、と低い音を立てた。光の刃が明るさを増す。セラの感情が剣に伝わっている。聖遺物は使い手の感情に呼応する。光が揺れているのは、彼女の心が揺れているからだ。

「……ルシアン」

「なんだ」

「私はね、あなたが死んだと聞いた時、泣いたのよ」

 声が震えていた。

「使徒になって以来、泣いたことなんてなかった。任務で人を殺しても、味方が死んでも、泣かなかった。でもあなたの訃報を聞いた時だけは――」

 セラは剣を構え直した。

「だから確かめに来た。あなたの目で、あなたの口で。真実を聞きたかった。でも——」

 光の刃が輝きを増した。

「真実がどうであれ、任務は任務よ。私はあなたを連れ帰る。生きていようと死んでいようと」

 構えが変わった。

 僕は彼女の戦い方を知っている。暁の剣は光の刃を自在に操る聖遺物だ。近距離では一撃必殺の斬撃、中距離では光の刃を射出し、遠距離では光の壁を展開して面制圧を行う。

 あらゆる距離で最強。それが第三使徒セラ・ブライトフォールだ。

「リーゼ。僕から離れるな。何があっても走るな。逃げるタイミングは僕が作る」

「シエル、あなたまさか——」

「呪眼を使う」

「だめ! さっきも使ったでしょ! これ以上使ったら——」

「使わなければ死ぬ」

 リーゼが唇を噛んだ。反論の言葉を探している。でも見つからない。彼女にもわかっているのだ。目の前に立っている女騎士が、どれほどの脅威か。

「……約束して。死なないで」

「約束する」

 何度目の約束だろう。守れるかわからない約束を、また一つ重ねた。

 僕は眼帯に手をかけた。


 眼帯を外した。

 世界が裂けた。

 色が消え、構造が露わになる。大気中の魔素が光の粒子として視界を満たす。街道の砂利の一粒一粒が意味を持った記号として読み取れる。

 そして——セラが見える。

 彼女の体内を巡る魔力の流れ。心臓から放射される魔素の脈動。筋肉の緊張パターン。重心の位置。呼吸のリズム。

 全てが、文字を読むように明瞭だ。

 暁の剣が見える。

 光の刃の構造。柄の中核にある聖遺物の結晶。そこから放射される光属性の魔素が、セラの意志に従って刃の形を取っている。

 刃の密度は不均一だ。切っ先に向かうほど密度が上がる。根元は柔軟で、先端は硬い。つまり振り始めは速く、打撃の瞬間に最大の硬度になる設計。

 聖遺物の設計思想が読み取れる。「暁の剣」は攻撃に特化した聖遺物だ。防御機能はあるが副次的。本質は「一撃で決める」兵器。

「……その目」

 セラが息を呑んだ。

「変わっていないのね。いいえ――もっと深くなっている。以前より」

「お褒めにあずかる」

「褒めていない」

 セラが踏み込んだ。

 速い。

 呪眼で筋肉の収縮パターンを読んでいなければ、反応できなかっただろう。右足の踏み込みから斬撃の軌道を予測する。右上段から左下段への袈裟斬り。

 僕は左に跳んだ。

 光の刃が空を切った。白い軌跡が夜闘を裂く。遅れて熱風が頬を撫でた。光の刃が空気を灼いている。

 触れれば斬れるのではない。触れれば灼かれる。光と熱を併せ持つ刃だ。

「避けるのね」

「当たるわけにはいかない」

「じゃあ——これは?」

 セラの左手が前に突き出された。

 暁の剣の光が分裂した。本体の刃はそのままに、五本の光の矢が空中に生成される。

 光の矢は操作できる。セラの意志一つで軌道を変え、追尾し、障害物を迂回する。

 五本が同時に射出された。

 呪眼が全てを捉える。

 五本の軌道。それぞれの速度。収束点。魔素の密度から推定される貫通力。

 一本目——右に回避。  二本目——左手の刻印紋章を起動。防御壁が一瞬だけ展開され、光の矢を弾く。  三本目——伏せて回避。頭上を光が通過する。  四本目——体を捻って紙一重で躱す。外套の裾が焦げた。  五本目——

 五本目が曲がった。

 僕の背後に回り込む軌道。リーゼのいる方向だ。

「――!」

 僕は振り返り、右手を伸ばした。呪眼で光の矢の紋章構造を読み取る。光属性の魔素を圧縮した弾丸。その結合核に干渉すれば解体できる。

 視線が矢に追いつく。干渉する。

 光の矢が空中で砕け散った。金色の粒子が夜空に舞う。

 リーゼの一メートル手前だった。

「きゃっ——」

 リーゼが尻餅をついた。光の粒子が彼女の髪に降り注いでいる。

「大丈夫か!?」

「だ、大丈夫……」

 振り返る暇がなかった。

 セラがもう目の前にいた。

 光の剣が薙ぎ払われる。水平の一閃。

 僕は後方に跳んだ。だが勢いが足りない。光の刃の先端が外套を掠め、布が焦げて弾けた。

 熱い。右腕の外側が灼ける。

「避けきれなかったわね」

「かすり傷だ」

 嘘だ。外套の下、右腕に火傷を負った。皮膚が赤く腫れている。

 セラの攻撃は正確だ。使徒級の技量。僕が呪眼で動きを読んでようやく回避できるレベル。

 しかも彼女はまだ本気ではない。

 わかる。呪眼が見ている。セラの体内の魔力は、まだ三割程度しか行使されていない。暁の剣の出力も最大の半分以下だ。

 つまり、今の彼女は僕を「見極めている」。

「ルシアン。あなたの呪眼は確かに万能に近い。でもね——」

 セラが剣を構え直した。光の刃の輝きが一段増した。

「見えることと、対処できることは別よ」

 正しい。呪眼は見る力だ。全てを解析し、全てを理解する。だが理解したところで、この体は薬師の体だ。使徒時代に比べて体力も反射速度も落ちている。

 見えているのに体が追いつかない。その差が、やがて致命的な一撃になる。

「降伏しなさい、ルシアン。あなたを殺したくない」

「僕も君と戦いたくない。でも教会に戻るつもりはない」

「なら——仕方ないわ」

 セラが全力を解放した。

 暁の剣から放射される光が爆発的に膨れ上がった。白い光が夜を昼に変える。街道全体が白く染まり、影が消えた。

 まぶしい。

 呪眼があっても、この光は――

 光の紋章が空中に展開された。

 暁の剣の真の能力。光の刃を一本の剣に留めず、空間全体に光の紋章として展開する。刃のフィールド。この領域内にいる者は、セラの意志一つで光の刃に貫かれる。

 逃げ場がない。

 紋章の構造を読む。光の紋章は複雑だが、聖遺物由来の力であるため、通常の紋章術とは根本的に設計思想が異なる。解析に時間がかかる。

 時間がない。

 セラが右手を振り下ろした。

 フィールド内の光が、刃となって僕に殺到する。

 上から。右から。左から。正面から。四方八面の光の刃。

 呪眼が全ての軌道を同時に捉える。

 回避不能。防御不能。この数は処理しきれない。

 ならば——

 僕は地面に手をついた。

 呪眼の出力を上げる。右目の奥が灼けるように熱い。視界の解像度がさらに上がる。光の紋章の構造が、分子レベルまで見える。

 光のフィールドは一つの巨大な紋章だ。セラを中心に展開された、使徒級の大紋章。個々の刃は紋章の枝葉に過ぎない。根を断てば枝は枯れる。

 根はセラの暁の剣だ。柄の中核にある聖遺物の結晶。

 僕の目が結晶を捉えた。呪眼の干渉波が発射される——

 弾かれた。

 聖遺物の結晶には、呪眼の干渉を拒否する防壁がある。当然だ。聖遺物は呪眼と同格の存在。聖遺物同士は直接干渉できない。

 使徒だった頃にも同じ壁にぶつかった。終末の瞳は万能に見えて、同格の聖遺物には通じない。

「わかっているでしょう」

 セラの声が光の向こうから聞こえた。

「聖遺物を聖遺物で壊すことはできない。あなたが私の剣を無効化できないように、私もあなたの目を封じることはできない。使徒同士の戦いは、聖遺物の外で決まる」

 聖遺物の外。

 つまり――聖遺物を介さない、純粋な戦闘技術と紋章術の領域。

 光の刃が迫る。四方から。

 僕は咄嗟の判断で、地面に刻印紋章を展開した。使徒時代に右手の甲に刻んだ防御紋章。出力は低い。セラの攻撃を完全には防げない。

 だが一瞬だけ、光の刃を逸らすことはできる。

 防御紋章が盾のように展開された。青白い光の壁が、迫る光の刃を弾く。一本、二本、三本。四本目で盾が砕けた。

 砕ける前に転がった。光の刃が石畳を抉る。白い閃光と轟音。破片が飛び散る。

「シエル!」

 リーゼの悲鳴が遠くから聞こえた。

 起き上がる。右腕の火傷が激しく痛む。呪眼の酷使で頭が軋んでいる。

 セラが間合いを詰めてくる。暁の剣を正眼に構えて。

 近距離。光の剣の間合い。

 彼女の踏み込みが見える。右足。重心移動。斬撃の軌道——左から右への横薙ぎ。

 かわす。ぎりぎりで。光の刃が髪を焦がす。

 反撃のチャンスは、斬撃の直後の硬直。セラの剣術は隙が少ないが、大振りの後にわずかな間がある。

 そこを突く。

 僕は左手で懐の薬瓶を投げた。閃光弾。

 セラの目の前で白い光が弾けた。

「く——!」

 セラが顔を背ける。一瞬の視界遮断。

 僕は踏み込んだ。右手の刻印紋章に残りの魔力を集中させる。出力は微々たるものだ。でも、これしかない。

 掌打。

 魔力を乗せた右の掌がセラの胸甲に叩き込まれた。衝撃波が甲冑を伝わり、セラの体が後方に吹き飛ぶ。

 五メートル。

 セラは空中で体勢を立て直し、着地した。砂利が散る。

「……やるじゃない」

 セラが胸甲を見下ろした。掌打の痕が残っている。だが甲冑は砕けていない。

「でも——今のでわかったわ。あなたの魔力はもう枯渇しかけている。呪眼の維持で精一杯でしょう」

 見透かされている。

 その通りだった。呪眼を維持するだけで、僕の魔力は急速に消耗している。攻撃に回せる魔力はほとんど残っていない。

 体が重い。視界の端が暗くなり始めている。

 呪眼の代償が進行している。頭の奥で何かが軋む。何かが千切れようとしている。

 何を――何を失おうとしている?

 まだわからない。失った後にしかわからない。

「ルシアン」

 セラが一歩踏み出した。暁の剣を構えたまま。

「あなたが本当にマルヒェン村を滅ぼしたなら、私がここで終わらせる」

 光の刃が輝きを増す。

「でも――」

 セラの足が止まった。

「でも、あなたの話が本当なら……教会が呪いを撒いていたなら……」

 彼女の声が揺れた。碧い瞳に迷いが浮かんでいる。

「私は今まで何のために戦ってきたの? 教会の正義を信じて、異端者を討ち、民を守ってきた。その教会が、民を害していたのなら——」

正義と友情の間

「セラ」

「黙って!」

 叫んだ声が夜空に響いた。

 暁の剣の光が激しく明滅した。彼女の感情が剣を揺らしている。

「黙って。今は……今は戦うことしかできないの。考えたくない。考えたら、私は——」

 セラが再び踏み込んだ。

 今度の斬撃は重かった。怒りと混乱が乗った一撃。技の精度は落ちているが、その分力が増している。

 呪眼で軌道を読む。上段からの振り下ろし。

 かわす——体が動かない。

 足が痺れていた。呪眼の酷使で神経伝達が遅延している。

 光の刃が迫る。

 回避不能。

 僕は腕を上げて防御した。左腕。防御紋章を展開する魔力は残っていない。

 生身の腕で、使徒の一撃を受ける。

 覚悟した。左腕を失う覚悟を。

 光が、左腕に触れる寸前で——

 止まった。

 セラが剣を止めていた。

 左腕の肌に、光の熱が伝わっている。あと一ミリで切断されるところだった。

「……なんで防御しないの」

 セラの声が震えていた。

「もう魔力がないだろう。さっき言っただろう」

「嘘でしょ。あなたが……あなたがこんなに弱いはずがない。第七使徒が。終末の使徒が」

「第七使徒は二年前に死んだんだ。今の僕はただの薬師だよ、セラ」

 セラの腕が下がった。暁の剣の光が弱まる。

 その目に、涙が浮かんでいた。

「馬鹿。なんで……なんでこんなになるまで……」

「呪眼の代償だ。使うたびに壊れていく。もう元には戻れない」

「ルシアン——」

 その時。

 街道の両端から、複数の足音が聞こえた。

 整然とした、軍靴の足音。

 松明の光が、森の中から無数に現れた。

 白い外套。銀の胸当て。聖廟教会の紋章。

 審問官。

 十人。二十人。まだ増える。三十人以上。

 街道の前方から。後方から。森の中から。完全に包囲されていた。

「な——」

 セラが振り返った。その顔に驚愕が浮かんでいる。

「この部隊は——私は要請していない!」

 審問官の一人が前に進み出た。兜の下から、冷たい声が響く。

「第三使徒セラ・ブライトフォール殿。大司教アベラール猊下の勅命により、我々第一審問大隊が異端者の確保に参上しました。以後の指揮は当方が執ります」

「第一大隊!? 聞いていないわよ。私の任務よ。私が——」

「猊下の判断です。対象は最重要級。使徒一人では不十分と判断されました」

 セラの顔が歪んだ。第一大隊。教会の審問官の中でも最精鋭の部隊。通常は聖都の守護にしか動かない。それがここに来ている。

 アベラールは最初からセラだけに任せるつもりはなかったのだ。セラが揺さぶりの前衛で、大隊が本命の包囲網。

「ルシアン・ヴァルトロー。同行者。共に投降せよ。抵抗すれば即時排除する」

 審問官の声に感情はなかった。任務遂行の機械だ。

 三十人以上の審問官。その中に紋章術師が少なくとも十人。全員が紋章を展開し始めている。

 呪眼が見える。十の紋章が同時に起動する光景。拘束術、攻撃術、防御術、探知術。多層的な戦術紋章の展開。一つ一つは三等から四等程度だが、これだけの数を同時に相手にするのは不可能だ。

 僕の魔力は枯渇している。呪眼の維持だけで限界だ。

 逃げ道がない。

 完全に、詰んだ。

「シエル……」

 リーゼが僕の背中にしがみついている。彼女の体が震えているのが伝わってくる。

「大丈夫だ」

「嘘つき」

「……ああ、嘘だ」

 大丈夫じゃない。何も大丈夫じゃない。

 呪眼が暗くなっていく。維持できない。魔力が尽きる。

 目を閉じなければ。でも閉じたら、もう何も見えない。三十人以上の審問官に囲まれて、僕たちは——

「投降の意思がないなら、排除する」

 審問官が号令した。

 十の紋章が一斉に輝いた。攻撃紋章の連射態勢。火球、氷槍、雷撃、風刃。四属性の同時攻撃が準備されている。

 呪眼が全てを見ている。でも体が動かない。

 これが最後だ。

 ここで終わるのか。

 師匠の顔を忘れたまま。リーゼの秘密を知らないまま。ミラの呪いを解けないまま。

 何も果たせないまま、ここで——

「——だめ」

 背後で、声がした。

 リーゼの声だった。

 だが、いつもの明るい声ではなかった。もっと低く、もっと静かで、もっと――

 強い声だった。

「だめだよ。ここで、終わりになんかさせない」

 僕は振り返った。

 リーゼが僕の背中から離れて、前に出ようとしている。

「リーゼ、下がれ!」

「下がらない」

 彼女の翡翠の瞳が、月明かりの下で光っている。涙が浮かんでいた。でも泣いてはいなかった。泣きそうな顔をしているのに、目だけは真っ直ぐ前を見ていた。

「あたしがずっと隠してきたもの、今出さなかったら、あなたが死んじゃう」

「何を——」

「ごめんね、シエル。あたしも嘘つきだったんだ」

 リーゼが両手を前に差し出した。

 その手のひらが、光り始めた。

 金色だった。

 あの時と同じ。工房での治療の時に見た、あの光。だがあの時とは比べものにならない。

 光が膨れ上がった。

 リーゼの両手から放射された金色の光が、球体のように広がっていく。彼女の全身を包み込み、髪を靡かせ、外套を翻す。

 蜂蜜色の髪が金色の光に染まり、一瞬だけ純金のように輝いた。

「なっ——」

 セラが息を呑んだ。

「これは……」

 審問官たちが動揺した。紋章の展開が乱れる。

 金色の光が爆発的に広がった。

 リーゼを中心に、光の波が同心円状に拡がっていく。街道を。森を。夜空を。全てを金色に染めながら。

 光の波が審問官の紋章に触れた瞬間——紋章が消えた。

 十の紋章が、同時に。

 火球が霧散した。氷槍が蒸発した。雷撃が雲散した。風刃が凪いだ。

 呪い系の紋章だけではない。審問官たちが展開した全ての攻撃紋章が、金色の光に触れた瞬間に無力化されている。

 浄化だ。

 聖女の浄化。

 紋章を介さない、純粋な祈りの力。呪いも穢れも、人為的な害意すらも祓う、人類最古の奇跡。

「聖女……」

 セラが呟いた。暁の剣を握る手が震えている。

「まさか……ヴェルハイデの……」

 金色の光が僕にも届いた。

 温かかった。

 体の奥に染み渡るような、深い温もり。呪眼の痛みが和らぐ。枯渇しかけた魔力が、微かに回復する感覚。

 だがそれだけではなかった。

 右目の奥で、何かが変わった。

 呪眼が——暴走しかけている。

 リーゼの浄化の光が、呪眼の中核に触れたのだ。呪眼は聖遺物であると同時に、呪いの産物でもある。呪いと聖なる力が接触し、予想外の反応が起きている。

 視界が真っ白に染まった。

 呪眼の出力が、意志に反して跳ね上がる。見えすぎる。全てが見えすぎる。審問官一人一人の魔力回路。セラの暁の剣の結晶構造。大気中の魔素の一粒一粒。地面の下を流れる地脈の魔力。

 世界が設計図になった。

 ただの設計図ではない。世界そのものの構造が、紋章として読み取れる。空間を構成する法則。時間の流れを規定する数式。存在と非存在の境界。

 終末の瞳の真の力。世界を「見る」のではない。世界を「読む」力だ。

 読みすぎている。

 頭が割れそうだ。情報の奔流が脳を灼いている。

「あ——」

 声が出た。痛みの声ではない。もっと原始的な、存在が軋む音。

「シエル!」

 リーゼの声が聞こえた。金色の光の中心から。

 彼女が僕に駆け寄ってくる。光を纏ったまま。

「目が——シエル、あなたの目が——」

 僕の右目は今、眼帯を外したまま全開放されている。金色の瞳の中で、世界最大の紋章が高速回転している。暴走している。止められない。

 代償が来る。

 今までとは比較にならない代償が。

 記憶が消える。高速で。直近の記憶から、過去に向かって。

 三日前の記憶が消えた。ノクスとの会話が霧に沈む。二週間前。ミラを助けた夜の記憶が遠くなる。一ヶ月前。リーゼと旅を始めた頃の——

 だめだ。

 リーゼとの記憶を失うわけにはいかない。

「シエル!」

 リーゼが僕の手を掴んだ。

 金色の光が、彼女の手から僕の手へ流れ込んだ。

 その瞬間——

 世界が変わった。

 暴走していた呪眼の出力が、急速に収束した。金色の光が、呪眼の暴走を包み込み、鎮めていく。浄化の力が呪いの力を中和しているのだ。

 だが、中和だけでは終わらなかった。

 呪眼と浄化が、接触した。

 呪いの力と聖なる力が、反発するのではなく——

 共鳴した。

 僕の右目から放射される呪いの波動と、リーゼの手から放射される浄化の波動が、重なり合った。干渉し合い、増幅し合い、一つの新しい波動になった。

 金色と金色が混ざり、白い光になった。

 白い光が僕とリーゼを包み込んだ。二人だけの結界のように。

 審問官たちには触れない。セラにも触れない。ただ僕とリーゼだけを包んでいる。

 体の奥で、何かが繋がった。

 リーゼの鼓動が聞こえた。彼女の心臓の音が。自分の鼓動と重なって、同じリズムを刻んでいる。

 彼女の感情が流れ込んでくる。恐怖。覚悟。悲しみ。そして——僕を失いたくないという、強い想い。

 僕の感情も彼女に流れているのだろう。隠してきた全てが。呪眼の恐怖。記憶を失う絶望。そして——彼女の傍にいたいという、どうしようもない願い。

 共鳴が成立した。

 呪いの共鳴。

 呪眼の力と聖女の力が互いを認識し、結びついた。二つの力が一つの回路になった。

 その回路が告げている。

 離れるな、と。

 離れれば、回路が断たれる。断たれた回路は暴走する。呪眼は制御を失い、僕の記憶を全て喰らう。浄化の力はリーゼの体を灼き尽くす。

 離れれば、二人とも死ぬ。

 鎖の契約。

 それが成立した瞬間を、僕は確かに感じ取った。

 白い光が収束していく。金色の残光が夜空に舞い上がり、星のように散って消えた。


 静寂が降りた。

 街道の上に、金色の粒子がゆっくりと降り注いでいた。

 審問官たちは動きを止めていた。彼らの紋章は全て浄化されて消えている。武器だけが残り、術者としての力を一時的に失った状態だ。

 セラが立ち尽くしていた。

 暁の剣は聖遺物だから浄化の影響を受けていない。光の刃はまだ健在だ。だがセラは剣を下ろしていた。

 彼女の碧い瞳が、リーゼを見つめている。

「聖女……」

 セラの声はかすれていた。

「ヴェルハイデの聖女……。第二王女。エリザヴェータ」

 リーゼが息を呑んだ。

 セラは知っていたのだ。ヴェルハイデに聖女がいたことを。捜索対象だった「遺体未発見の第二王女」のことを。

「……あなた、ルシアンと一緒にいたの。ずっと」

 セラの声は、もう戦う者の声ではなかった。

 リーゼは答えなかった。金色の光は消えていたが、彼女の手はまだ微かに輝いている。僕の手を握ったまま。

「ルシアン。あなたは知っていたの? この子が聖女だと」

「……いや」

 正直に答えた。確信はなかった。今この瞬間まで。

 でも薄々は気づいていた。彼女の手が光る理由。僕の傍にいると呪いが緩やかになる理由。全部、聖女の力だったのだ。

「知らなかった。でも、どうでもいい」

「どうでもいい?」

「彼女が聖女でも、吟遊詩人でも、王女でも。リーゼはリーゼだ。それ以上の意味はない」

 セラが目を見開いた。

 そしてその表情が、不意に崩れた。

 怒りでも悲しみでもない。もっと深い感情——裏切りに気づいた者の表情。

「……教会はヴェルハイデを、聖女の血を持つ民を回収するために滅ぼした。そうね?」

「ああ」

「そしてこの子が生き延びた第二王女。教会が探している聖女」

「ああ」

「私は……教会の任務として、この子を捕らえる側だった」

 セラの声が、自分に言い聞かせるように平坦だった。

「私は……聖女を収穫する計画の、手駒だった?」

 答えなかった。答える必要がなかった。セラは自分で答えを出している。

 暁の剣の光が消えた。

 セラが剣を鞘に——光の刃が消え、柄だけが残った。

「第三使徒! 何をしている! 対象を確保しろ!」

 審問官の隊長が叫んだ。

 セラは振り返らなかった。

「……私は」

 彼女の声が、夜風に溶けた。

「私は、何を信じればいい」

 誰にも向けていない問いだった。自分自身にすら。

 セラが背を向けた。

 街道を歩き始める。審問官の方へではない。森の方へ。

「第三使徒! 命令違反だ! 戻れ!」

「黙りなさい」

 セラの声が、氷のように冷たかった。

「私は自分の目で確かめに来た。確かめた。その結果を持ち帰るわ。あなたたちの命令には従わない」

「勅命だぞ! 大司教猊下の——」

「その大司教が嘘をついていた可能性があるなら、勅命にも従う義務はないわ」

 セラが森に消えていく。銀色の髪が木々の影に沈んで、見えなくなった。

 審問官たちが動揺している。使徒が離脱した。指揮系統が混乱している。

 だが彼らはまだ三十人以上いる。紋章は浄化されたが、武器はある。数の暴力は健在だ。

「使徒なしでも構わない。数で制圧する。全員、抜刀!」

 隊長が叫んだ。

 三十本の剣が抜かれた。

 だが――僕とリーゼの間に走る「共鳴」が、まだ余波を放っていた。

 金色の残光が僕たちの周囲に漂っている。浄化の余韻だ。この光に触れた術者は、紋章を展開できない。効果時間はあとどれくらいか。

 呪眼で見る。余力がほとんどない。視界が暗い。でも辛うじて――

 残光の効果時間は、あと約三分。

 三分あれば逃げられる。紋章を使えない審問官は、ただの歩兵だ。数は多いが、機動力は落ちる。

「リーゼ、走れるか」

「……走る」

 彼女の声は弱々しかった。聖女の力を全開放した代償が来ている。顔が蒼白で、足元がおぼつかない。

 僕は彼女の手を掴んだ。共鳴がまだ脈動している。彼女の鼓動が僕の掌に伝わる。

「掴まれ。離すな」

「離さない」

 走った。

 審問官の包囲の薄い方向——セラが去った森の方へ。

 審問官が追ってくる。だが紋章なしの状態では、重い甲冑が足枷になる。僕たちの方が速い。

 森に飛び込んだ。枝を掻き分け、根を跳び越え、闇の中を走る。

 リーゼが何度か躓いた。そのたびに僕が引き上げた。彼女も僕の手を離さなかった。

 走って、走って、走り続けた。

 追手の声が遠ざかる。松明の光が見えなくなる。

 どれだけ走ったかわからない。

 体の限界が来た。

 僕の足がもつれ、膝が折れた。石畳ではなく、柔らかい落ち葉の地面に崩れ落ちた。

「シエル!」

 リーゼが僕に縋りついた。彼女も限界だったのだろう。二人で地面に倒れ込んだ。

 落ち葉の匂い。土の冷たさ。虫の声。

 月がまた雲に隠れた。暗い森の中で、二人きりだった。

 呼吸を整える余裕もなかった。ただ荒い息を繰り返す。肺が灼けるように熱い。

「……逃げ、切った……?」

 リーゼが途切れ途切れに言った。

「たぶん……」

 追手の気配はない。遠くに声も松明も見えない。

 でも安全かどうかはわからない。何も確実なことはない。

 ただ一つ、確実なことがあった。

 僕の右手は、リーゼの左手を握っている。共鳴がまだ続いている。二人の鼓動が同期している。

 離すと危険だと、体が告げている。


 どれくらいそうしていたかわからない。

 呼吸が落ち着いてきた頃、リーゼが口を開いた。

「シエル」

「……ん」

「あたし、聖女なの」

 暗闇の中で、彼女の声が震えていた。

「知ってたでしょ。薄々」

「……ああ」

「手が光るの、見てたもんね。あの時。ルミエールの市場で」

「見た」

「訊かないでいてくれたんだよね」

「ああ」

 リーゼの手が、僕の手の中で震えていた。

「あたしは……ヴェルハイデの生き残りなの。王女なんて大層なもんじゃない。逃げただけ。みんなが死んでいく中を、あたしだけ逃げた。聖女の力があったから生き延びた。他の人には力がなかったから死んだ。それだけの話」

「リーゼ」

「あたしがいれば、みんな助けられたのかもしれない。浄化の力があれば、呪いも防げたのかもしれない。でもあたしは逃げた。怖くて。死にたくなくて。家族を置いて——」

 声が詰まった。

 嗚咽が漏れた。

 暗闇の中で、リーゼが泣いている。

「ごめんね」

 彼女がそう言った。

「シエルにも嘘をついてた。名前も、身分も、力も。全部嘘。あたしは吟遊詩人なんかじゃない。逃げ回ってるだけの、臆病な姫様だよ」

「リーゼ」

「しかも今、あたしの力のせいで、変なことが起きちゃった。あなたの目とあたしの力が繋がっちゃって――あたし、わかるの。今、あなたと離れたらだめだって。離れたら二人とも壊れちゃうって。体がそう言ってる」

 共鳴。鎖の契約。

 彼女にもわかっているのだ。

「ごめんね。あたしのせいで、あなたはもうあたしから離れられない。鎖で繋がれちゃった。あたしみたいな嘘つきと、ずっと一緒にいなきゃいけなくなった」

 リーゼの声が震えている。泣きながら、それでも言葉を繋いでいる。

「あたし、最低だね。あなたを繋ぎ止めたかった。離れてほしくなかった。でもこんな形じゃなくて……選んでほしかった。あなたに、自分の意志で隣にいてほしかった。鎖なんかじゃなく」

「リーゼ」

「ごめんね。ごめんね、シエル。あたし、もう離れられない——」

 僕は彼女の手を握り直した。

 震えている手を。冷え切った指を。

「僕も、だよ」

 リーゼの嗚咽が止まった。

「……え?」

「僕も離れられない。鎖のせいだけじゃない」

 言葉が出てきた。考えて選んだ言葉ではなく、胸の奥から勝手に溢れ出てくる言葉だった。

「僕は嘘つきだ。名前も、過去も、全部嘘だ。元使徒で、村を壊した犯人で、呪眼を使うたびに壊れていく欠陥品だ」

「シエル——」

「君の傍にいると呪いが緩やかになることに、最初から気づいていた。利用していたんだ。君の存在を。君の歌を。傍にいるだけで救われている自分が、ずっと後ろめたかった」

 暗闇の中で、リーゼの呼吸が聞こえる。

「でも」

「でも?」

「いつからか、理由はどうでもよくなった」

 手帳に書けなかった言葉。書いたら、未来の僕が困惑すると思って書けなかった言葉。

「君が笑うと世界が明るくなる。くだらないことを言うと呆れながら口元が緩む。君が竪琴を弾くと、右目の痛みを忘れられる。それは呪いの緩和とは関係ない。もっと単純なことだ」

「シエル……」

「僕は君の傍にいたいんだ。鎖があってもなくても。嘘の名前でも本当の名前でも。君がヴェルハイデの聖女でも、旅の吟遊詩人でも」

 手の中の震えが、少しだけ和らいだ。

「だから謝るな。鎖は僕のせいでもある。呪眼がなければ共鳴は起きなかった。二人のせいだ」

「……二人のせい」

「ああ。二人のせいで、二人の鎖だ」

 沈黙が落ちた。

 虫の声が遠くに聞こえる。風が木々を揺らしている。

 暗闇の中で、リーゼが僕の手を握り返してきた。さっきまでの震えは消えていた。代わりに、しっかりとした力がこもっていた。

「あたしの本当の名前、聞きたい?」

「君が言いたいなら」

「まだ……もうちょっとだけ、リーゼでいさせて。もう少しだけ」

「ああ」

「あなたも……シエルでいい? あたしにとっては、シエルだから」

「構わない。今はそれでいい」

 リーゼの手が、僕の手の中で温かくなっていた。

 共鳴がゆっくりと落ち着いていく。鼓動の同期が穏やかなリズムに変わる。

 鎖だ。

 僕たちは鎖で繋がれた。離れれば壊れる。くっついていなければ生きていけない。

 それは呪いだ。束縛だ。不自由だ。

 でも今、この瞬間だけは。

 この鎖が、温かかった。


 夜が更けていく。

 森の中で、僕たちは大きな樫の木の根元に座っていた。背中を幹に預けて、肩を寄せ合って。

 手は繋いだままだ。共鳴が完全に安定するまで、離さない方がいいと体が告げている。

 リーゼは少し前に泣き止んだ。目が赤いのは暗くて見えないが、鼻をすする音が時折聞こえる。

「シエル」

「ん」

「さっきの人……セラって呼んでたね」

「ああ」

「あの人、あなたのこと『ルシアン』って呼んだ」

 心臓が跳ねた。

 聞いていたのだ。当然だ。すぐ隣にいたのだから。

「……ああ」

「それ、本当の名前?」

 嘘をつくこともできた。「使徒時代のコードネームだ」とか。でも、彼女が本当のことを話してくれた後に、嘘を重ねるのは——

「……そうだ」

「じゃあシエルっていうのは」

「偽名だ。最初から」

「……知ってた」

「え?」

「だってあの名前、シエルって、空って意味でしょ。なんか嘘っぽいなって思ってた。薬師のくせに名前が綺麗すぎるなって」

 僕は少し呆れた。

「そんな理由で?」

「あたしだってリーゼだよ。エリザヴェータの短縮形。考えなさすぎでしょ」

「お互い様だな」

「うん。お互い様」

 リーゼが小さく笑った。泣いた後の、少しかすれた笑い。

「ルシアン、か。いい名前だね」

「でも今はシエルでいい」

「うん。あたしもリーゼでいい」

 偽名同士。嘘の名前で呼び合う二人。

 でもその嘘が、今は心地よかった。

 本当の名前で呼び合う日は、いつか来るのだろうか。

 その日が来た時、僕たちはまだ隣にいるだろうか。

「……シエル」

「なに」

「あたし、あなたの呪いを治したい」

 リーゼの声が、暗闇の中で真っ直ぐに響いた。

「聖女の力があるなら、呪眼の呪いも浄化できるかもしれない。共鳴が成立した今なら、前よりずっと深くまで。あたし、あなたの記憶がこれ以上消えるのを止めたい」

「代償がある。君にも」

「いいよ。あたしの命で、あなたの記憶が守れるなら」

「馬鹿を言うな」

 僕の声が、自分でも驚くほど強く出た。

「君が犠牲になる方法は認めない。絶対に」

「……じゃあ一緒に方法を探そうよ。二人とも助かる方法を」

「ああ。そうしよう」

 リーゼの手が、僕の手を強く握った。

「約束だよ」

「ああ。約束だ」

 何度目だろう。守れるかわからない約束。でも今度は、守りたいと心から思った。

 空を見上げた。

 雲の切れ間から、星が一つだけ見えた。

 弱々しい光だったが、確かにそこにあった。


 僕は手帳を取り出した。

 暗くて書きにくいが、習慣は体に染みついている。

 震える字で書いた。

 〔セラと遭遇。戦闘。審問官大隊に包囲される。リーゼが聖女の力を全開放。呪いの共鳴が成立。離れると呪いが加速する——鎖の契約。リーゼはヴェルハイデの聖女。僕は彼女に嘘を話した。元使徒であることを、まだ全ては言えていない。セラは撤退。教会への疑念を抱いている。追手あり。行先未定〕

 ペンが止まった。

 もう一行、書き加えた。

 〔リーゼが泣いた。泣きながら謝った。離れられなくなったことを。僕はそれを呪いだとは思わなかった。初めて、鎖が温かいと思った〕

 手帳を閉じた。

 隣でリーゼが眠りに落ちかけている。僕の肩に頭をもたせかけて。

 蜂蜜色の髪が、暗闘の中でもわずかに光って見えた。聖女の力の残滓だろうか。それとも、ただの錯覚か。

 彼女の寝顔を見つめた。

 泣いた跡が頬にある。睫毛が長い。呼吸が穏やかだ。

 この顔を忘れたくない。

 師匠の顔は忘れた。もう二度と思い出せない。

 でもこの顔は——この顔だけは。

 右目の奥が疼いた。呪いは止まっていない。共鳴によって緩やかにはなったが、消えてはいない。

 いつか僕は全てを忘れるのかもしれない。名前も、過去も、彼女の顔も。

 でも今日を忘れない。

 彼女が光った瞬間を。金色の光が夜を昼に変えた瞬間を。震える声で「ごめんね」と言った瞬間を。

 手帳に書いた。体にも刻んだ。記憶が消えても、体が覚えているように。

 繋いだ手の温もりを。

 鎖の重さを。

 僕はリーゼの肩にそっと外套をかけて、夜空を見上げた。

 雲が少しずつ切れていた。星が増えている。

 やがて、東の空がほんの微かに白み始めた。

 夜明けが来る。

 黎明の使徒は去り、嘘つきの薬師と嘘つきの聖女が残った。

 鎖で繋がれたまま。

 嘘を抱えたまま。

 でも今は、手を離さないまま。

 夜明けを、待っている。


── リーゼ side ──

 セラの剣がシエルに向かった瞬間、考えるより先に体が動いていた。

 考えていたら間に合わなかった。あの光の刃は速い。あの人は腕を上げて防御しようとしていた。生身の腕で。防御紋章を張る魔力もなく。

 だめだ、と思った。それすら思考じゃなかった。もっと原始的な、腹の底から突き上げるもの。

 あたしは二度も、目の前で大切な人を失わない。

 一度目はヴェルハイデだった。お父様が城に残ると言った時、あたしは何もできなかった。お母様が「逃げなさい」と言った時、あたしは泣いて従っただけだった。お姉様が微笑んでくれた最後の顔を、あたしは走り去りながら見ただけだった。

 あの時あたしに力があれば。聖女の力を使えていたら。呪いを浄化して、聖戦の紋章術を打ち消して、みんなを守れたかもしれない。

 でもあの時のあたしは十四歳で、力の使い方も知らなくて。

 今は違う。

 力がある。使い方も、五年かけて覚えた。代償も知っている。聖女の力を全開にすれば教会に正体がバレる。回収される。聖女として二度と自由になれない。

 ——そんなこと、どうでもよかった。

 シエルが死ぬ方が、あたしの自由より、ずっと怖い。

 手を前に出した。意識して力を込めるまでもなかった。体の奥に仕舞い込んでいた光が、堰を切ったように溢れた。五年間、隠して、抑え込んで、歌の中にだけ細く流していた力が。

 金色の光が弾けた。

 あたしを中心に、波のように広がっていく。セラの光の紋章が消えた。審問官たちの紋章も消えた。あたしの光に触れたものは全部、浄化された。

 ——でも。

 浄化だけじゃ終わらなかった。

 あたしの光がシエルに届いた時、彼の右目が変わった。呪眼が暴走し始めた。あたしの聖女の力が、呪眼の呪いの部分に触れて、何かが起きた。

 シエルが声を上げた。痛みの声じゃなかった。もっと深い——存在が軋むような音。

 怖かった。

 あたしの力がシエルを傷つけている。助けようとしたのに。守ろうとしたのに。あたしの光が、あの人の目を壊そうとしている。

 駆け寄って、手を掴んだ。

 その瞬間——繋がった。

 あたしの光とシエルの呪いが、反発するんじゃなくて、重なった。共鳴した。あたしの鼓動が、シエルの鼓動と同じリズムを刻み始めた。彼の感情があたしに流れ込んできた。恐怖。記憶が消えていく絶望。そして——あたしの傍にいたいという、剥き出しの願い。

 あたしの感情も流れていたはずだ。隠してきた全部が。

 白い光に包まれて、世界が静かになった。

 共鳴が成立した。鎖の契約。

 離れれば壊れる。二人とも。

 あたしが聖女の力を全開にしたから。呪いが共鳴した。あたしがやったのだ。


 逃げて、走って、森に飛び込んで。

 シエルの足がもつれて、二人で地面に倒れ込んだ。

 落ち葉の上で、息を切らしながら、手だけは離さなかった。離したらだめだと体が言っていた。

 シエルに全部話した。聖女のこと。ヴェルハイデのこと。逃げたこと。みんなを置いて逃げたこと。

 そして——ごめんね、と言った。

 何に対する「ごめんね」だったのか。

 全部だ。

 嘘をついてきたこと。名前も、身分も、力も。ごめんね。

 でも「ごめんね」の一番深い部分は——シエルの自由を奪ったこと。

 鎖の契約。あたしに縛りつけてしまった。あたしがいなければ呪いが暴走する。離れれば死ぬ。もうシエルは、あたしから離れるという選択肢を持てない。

 あの人は自由だったのに。偽名を使って、旅をして、好きな場所に行って好きな時に去れる人だったのに。あたしがそれを奪った。あたしの力のせいで、物理的に鎖が嵌った。

 ——ごめんね。あなたの自由を奪ったこと。あなたをあたしに縛りつけたこと。

 でも。

 同時に、安堵があった。

 離れなくて済む。もうシエルは「好きにしろ」と言って一人で去ったりしない。物理的に離れられない。あたしの傍にいるしかない。

 その安堵が——一番醜かった。

 人の自由を奪っておいて、安心している。鎖を嵌めておいて、ほっとしている。最低だ。自分で思った。最低だと。

 泣いた。泣きながら謝った。

 シエルは——あの人は。

 「僕も、だよ」と言った。

 「鎖のせいだけじゃない」と。

 あの声を聞いた時、胸の奥で何かが崩れた。堤防みたいなものが。ずっと堪えていたものが、全部流れ出した。

 嬉しかった。嬉しいと思った自分が、また醜かった。


 セラがシエルを「ルシアン」と呼んだこと。

 聞こえていた。はっきりと。最初に街道に立っていた時から。

 「久しぶりね、ルシアン」

 ルシアン。

 シエルの本当の名前。偽名だとは最初から薄々思っていた。「空」なんて名前、薬師にしては綺麗すぎる。

 でも本当の名前を知ることと、その名前の意味を知ることは違う。

 セラは「第七使徒」と言った。シエルは「使徒だ」とあたしに説明した。「教会の最高戦力」と。

 使徒。

 教会の人間だった。シエルは——ルシアンは、教会の最高戦力だった。

 ヴェルハイデを滅ぼした教会の。

 あたしの家族を殺した教会の。

 頭の奥で、何かがちかちかと点滅した。あの夜の記憶。燃える城。白い甲冑の兵士。そして——教会の法衣を着た少年。右目に包帯を巻いた、あの少年。

 あの少年は教会の人間だった。使徒だったかもしれない。シエルも使徒だった。

 五年前、ヴェルハイデにいた使徒。

 あの夜、教会の法衣を着て城下町にいた少年。

 心臓がうるさい。

 まだ確認できない。シエルに「五年前、ヴェルハイデにいた?」と訊く勇気が、今のあたしにはない。訊いたら——答えがどちらでも、何かが壊れる気がして。

 シエルは「知らなかった」と言った。あたしが聖女だと。「でも、どうでもいい」と。「リーゼはリーゼだ」と。

 あの言葉を聞いた時、あたしも同じことを思った。

 ルシアンでもシエルでも、使徒でも薬師でも。この人はこの人だ。

 でも——もし本当にあの夜の少年だったら。

 教会の使徒が、教会の聖戦の最中に、敵国の王女を助けた。代償で倒れた。あたしを逃がすために。

 そして今もまた、あたしを守ろうとして、記憶を失い続けている。

 ……ずるいよ、シエル。


 シエルが眠った。

 あたしの肩にもたれかかるようにして、呼吸が穏やかになった。

 共鳴のせいだろう。繋がったままだから、あたしの心臓の音が聞こえているはず。鼓動が同期している。あたしが穏やかにしていれば、シエルの体も安定する。

 だから深呼吸した。穏やかに。静かに。

 でも頭の中は嵐だった。

 シエルは大量の記憶を失った。呪眼の暴走の代償。あの戦闘の最中、記憶が高速で消えていくのを、共鳴を通じて感じた。直近の記憶から、過去に向かって。

 どこまで消えたのだろう。

 ミラのことを覚えているだろうか。三人で焚き火を囲んだ夜を覚えているだろうか。スープの塩加減のことを——あれはもう忘れていたか。じゃあ、あたしのことは?

 あたしのことを忘れていたら。

 目を覚ました時、「誰だ」と言われたら。

 胸が痛い。

 でも——もし忘れていても、あたしが覚えている。ずっとそうだった。シエルが忘れたことを、あたしが覚えてきた。それはこの旅で、あたしが自分に課した役割だ。

 忘れていいよ。忘れても、あたしが覚えてるから。

 そう思った。心からそう思った。

 ——でも本当は、忘れてほしくない。

 ずるい。

 「忘れていいよ」と言える自分でいたいのに、本音は「忘れないで」だ。あたしのことだけは消さないでと、叫びたい。あの人が手帳に書いてくれた言葉——「鎖が温かいと思った」——を、消さないでほしい。

 本音と建前が、ぐちゃぐちゃになっている。

 シエルの寝顔を見つめた。月明かりが薄く差し込んで、長い睫毛に影を落としている。眉間の皺は消えている。呼吸は穏やか。繋いだ手の中で、脈拍が静かに刻まれている。

 あたしの鼓動と、同じリズムで。


 東の空がほんの微かに白み始めた。

 虫の声が少し変わった。夜の虫から、明け方の虫へ。空気が冷たくなっている。

 シエルはまだ眠っている。

 あたしは膝を抱えて、白み始めた空を見上げた。

 鎖の契約。

 離れれば壊れる。くっついていなければ生きられない。

 それは呪いだ。でも——呪いの中に、あたしは確かに温かさを感じてしまっている。シエルと同じだ。あの人も「鎖が温かい」と言った。あたしたちは同じものを感じている。同じ鎖に繋がれて、同じ温度を分け合っている。

 声に出さずに、言葉が胸の奥から滲み出した。独りの時だけ出てくる、あの言葉遣い。お母様の前にいた頃の、あたし。

 ……わたくしは、貴方の鎖になりました。

 それが救いなのか呪いなのか、まだわかりません。

 貴方の自由を奪ったことを、わたくしは一生悔いるでしょう。でも、同じくらい——貴方の隣にいられることを、一生感謝するでしょう。

 ずるい鎖です。

 でも、この鎖を断ち切る気は、ありません。

 エリザヴェータの言葉が静かに途切れて、あたしの中に馴染んだ声が戻ってきた。

 『銀の月が沈む夜に、旅人は丘に立つ——』

 心の中で歌が流れた。お母様の歌。ヴェルハイデの子守歌。

 『振り返れば故郷の灯、前を向けば星の道——』

 故郷の灯はもうない。

 でも、前を向けば——隣に、この人がいる。

 シエルが微かに身じろいだ。あたしの手を、眠ったまま握り直した。力は弱かったけれど、確かに握り返していた。

 覚えているのかもしれない。体が。あたしの手の温度を。

 記憶が消えても、体が覚えてくれたらいい。

 目を覚ました時、あたしを忘れていても——手の温もりだけは残っていてくれたら。

 夜明けが近い。

 あたしは目を閉じなかった。この人が目を覚ますまで、起きている。もし目を覚ました時にあたしのことを忘れていたら、また名乗ればいい。何度でも。

 ——おはよう、シエル。あたしはリーゼ。あなたの旅の相棒だよ。

 何度でも、最初から。

← 嘘と鎖の契約者 トップへ戻る
← 2110 Lab TOPへ戻る
プライバシーポリシー お問い合わせ