〔二百三日目。意識が戻った。体中が痛む。リーゼが傍にいる。彼女の手が金色に光っていた——もう隠す気がないのか、それとも隠す余裕がなかったのか。どちらにせよ、僕は生きている。彼女のおかげで〕
天井に見覚えがなかった。
木目の荒い板張り。隙間から朝の光が細く差し込んでいる。空気は湿っていて、どこか遠くで鳥の声がする。
体を起こそうとして、全身に激痛が走った。
「動かないで」
声。聞き覚えのある声。僕の右側から。
首だけ動かすと、リーゼがいた。椅子に座って、僕のベッドの脇で膝を抱えている。目の下に濃い隈がある。翡翠の瞳は充血していて、明らかに寝ていない。
「……ここは」
「ノクスの隠れ家。覚えてる? あの倉庫の地下」
断片的に思い出す。セラとの戦闘。光の刃。僕の呪眼が暴走しかけて——それをリーゼが。
リーゼの手が、金色に。
「どれくらい寝てた」
「二日」
「二日……」
「ずっと熱が下がらなかったの。やっと今朝になって落ち着いた」
二日間。彼女はずっとここにいたのか。
右目が鈍く痛む。眼帯はしてある。誰かがつけ直してくれたのだろう。リーゼだ、きっと。
「水、もらえるか」
「うん。はい」
リーゼが木のコップを差し出した。僕の頭を支えるようにして飲ませてくれる。水が喉を通る感覚が、今はひどくありがたかった。
「……ありがとう」
「お礼なんていいよ。薬師が倒れたら、あたしが困るもん」
軽い口調だった。いつもの調子だった。でも彼女の手が震えていた。コップを持つ指先が、微かに。
僕はそれに気づかないふりをした。
体を起こせるようになったのは、その日の午後だった。
隠れ家は地下の小部屋が三つと、小さな台所がある構造だった。薄暗いが、壁に刻まれた照明紋章が淡い光を放っている。ノクスが管理している場所の一つらしい。
奥の部屋から、小さな足音が聞こえた。
「シエルさん!」
ミラが駆けてきた。小さな手で僕の袖を掴む。大きな瞳が潤んでいた。
「起きた……よかった……」
「心配かけたな。大丈夫だよ」
「リーゼおねえちゃんがずっと泣いてた。シエルさんが起きないって」
リーゼが慌ててミラの口を塞ごうとした。
「ちょ、ミラ! 泣いてないから! 目にゴミが入っただけ!」
「二日もゴミ入るの?」
「入るの! この地下、埃っぽいでしょ!」
ミラがきょとんとした顔で首を傾げている。僕は少しだけ笑った。久しぶりに笑った気がした。
「ミラ、傷は大丈夫か」
「うん。ノクスさんが薬くれた」
ミラの腕に巻かれた包帯は清潔だった。呪いの紋章は——まだ薄く残っている。消えてはいない。だが進行は止まっているように見える。
リーゼの浄化のおかげだろう。あの光が、ミラの呪いも抑えている。
僕がそう考えていると、奥の通路から足音がした。軽く、音を立てないように歩く癖のある足音。
「おはよう、シエル。いい朝だね」
ノクスだった。
外見十四歳の少年は、薄い笑みを浮かべて壁にもたれかかった。飄々とした態度。何事もなかったかのような口調。
僕は黙ってノクスを見た。
教会に居場所を売った男だ。
あの情報がなければ、セラはあのタイミングで僕たちを見つけられなかった。ノクスが教会に流した情報が、あの戦闘を引き起こした。
「言いたいことがあるなら聞くよ」
ノクスが肩をすくめた。
「殴りたいなら殴ってもいい。回復してからの方がいいけど」
「……殴らない」
殴ったところで何も変わらない。それに、ミラの治療にはノクスの情報網が必要だ。教会製の人工呪詛を解く手がかりは、ノクスの手元にしかない。
わかっているのだ。ノクスも、僕も。だから彼は堂々とここにいる。僕たちが彼を切れないことを知っている。
「シエルさん、ノクスさんのこと嫌いなの?」
ミラが小さな声で訊いた。
「嫌いじゃないよ。信用していないだけだ」
「それ、嫌いよりひどくない?」
ノクスが苦笑した。「子供は容赦ないね」
リーゼは黙っていた。ノクスを見る翡翠の瞳に、いつもの明るさはなかった。彼女もわかっている。裏切りの事実を。そして、それでも切れない現実を。
「……まあいい」
僕は壁にもたれて、話を変えた。
「状況を教えてくれ。セラは」
「追ってきてないよ」
ノクスが細い指で壁の紋章に触れた。照明の光が少し強くなる。
「あの戦闘の後、教会の部隊は一時撤退した。第三使徒が単独で判断したらしい。本来なら追撃すべき場面だけど、彼女はしなかった」
セラが追ってこなかった。
それは僕を見逃したということだ。使徒としての任務を放棄して。
「理由は」
「さあ。僕は彼女の心の中までは売ってないよ」
ノクスの答えは不誠実だったが、嘘ではないだろう。セラの判断はセラ自身にしかわからない。
ただ、一つだけ推測できることがある。
セラは揺れている。僕を「ルシアン」だと確認した上で、それでも追わなかった。かつての友人を——いや、使徒としてはあり得ない判断だ。
「それから、もう一つ」
ノクスの声のトーンが変わった。薄い笑みが消え、年齢不詳の瞳がまっすぐ僕を見た。
「あの戦闘で、君たちに起きたこと。自覚はある?」
僕はリーゼを見た。
リーゼは唇を引き結んで、目を伏せた。
自覚はある。
あの瞬間——リーゼが聖女の力を全開放して僕の呪眼の暴走を止めた時。彼女の浄化の光と僕の呪いが、何かの回路を作るように繋がった。
胸の奥に、微かな脈動がある。自分のものではない鼓動。リーゼのそれと同期するように、とくん、とくんと打っている。

「呪いの共鳴だ」
ノクスが淡々と言った。
「聖女の浄化と呪眼の魔力が干渉して、一種の共鳴回路が成立した。古い文献では『鎖の契約』と呼ばれている」
「鎖の契約……」
「聖女と呪われた者が結ばれる現象だよ。百年に一度あるかないかの、極めて稀な事象だ。文献には二例しか記録がない」
ノクスが壁際の棚から古い本を引き出し、ページをめくった。
「効果は単純だ。聖女は呪われた者の呪いを持続的に抑制する。呪われた者は聖女に魔力の器を提供する。互いが互いの均衡を保つ、共生関係」
「……代償は」
僕の問いに、ノクスは数秒だけ黙った。
「離れられない」
「離れられない?」
「三日以上、物理的に一定距離を超えて離れると、共鳴回路が不安定になる。聖女側は浄化の力が暴走し、呪われた者の側は呪いが急激に進行する。文献の二例とも、別離を試みた結果は——」
ノクスは言葉を切った。
「……死んだのか」
「片方がね。もう片方は、廃人になった」
部屋の空気が凍った。
ミラが不安そうに僕とリーゼを交互に見ている。
「つまり、僕たちは——」
「三日以上離れたら、どちらかが死ぬ。実質的に、別行動は不可能だよ」
ノクスが本を閉じた。
静寂が落ちた。
照明紋章の光が、ちかちかと揺れていた。
リーゼが口を開いたのは、長い沈黙の後だった。
「……ごめん」
小さな声だった。セラとの戦闘の直後にも聞いた言葉。あの時と同じ、掠れた声。
「あたしが力を使わなければ、こんなことには——」
「使わなければ僕は死んでいた」
「でも——」
「リーゼ」
僕は彼女を見た。
翡翠の瞳が揺れている。罪悪感と、恐怖と、それからもう一つ、名前のつけられない感情が混ざっていた。
「君が力を使ったから、僕は生きている。それは事実だ」
「……うん」
「鎖のことは——考えよう。二人で考えればいい」
自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
本心かどうかはわからない。三日以上離れたら死ぬ。その事実に動揺していないと言えば嘘になる。でも今ここでリーゼを責めたら、彼女は壊れる。それだけはわかった。
リーゼは俯いたまま、小さく頷いた。
「……ノクス」
「なに」
「解除する方法は」
「今のところ不明。でも、調べる価値はある。共鳴回路の構造を分析すれば、何かわかるかもしれない」
「頼む」
「報酬は?」
「……後で交渉する」
「けち」
ノクスが薄く笑った。僕は返事をしなかった。
ミラがそっとリーゼの手を握った。小さな手が、リーゼの震える手を包んでいる。
「リーゼおねえちゃん、泣かないで」
「泣いてないよ。泣いてない」
リーゼは笑った。いつもの笑顔だった。でも目が赤かった。
あの銀髪の騎士は、追ってこなかった。
それが最初に考えたことだった。地下の隠れ家に辿り着いて、意識のないシエルを寝台に横たえて、二日間ずっと彼の額を冷やし続けた間に、何度も何度も考えた。
追ってくるはずだった。あの人は使徒だ。教会の剣だ。任務を放棄するような人には見えなかった。
なのに追ってこなかった。
あたしには、その理由がわかる気がした。
あの騎士は——セラと名乗ったあの人は、シエルのことを「ルシアン」と呼んだ。
ルシアン。
それがシエルの本当の名前なのか、あたしにはまだ確証がない。でも、あの騎士の声に含まれていた感情は聞き間違えようがなかった。怒りでもない。憎悪でもない。あれは——
「会いたかった」と言っている声だった。
だから追ってこなかった。追えなかった。かつて大切だった人間を、今すぐ捕まえることができなかった。
あたしには、その気持ちが痛いほどわかる。
シエルの熱が下がった朝、あたしは台所で顔を洗った。
小さな鏡が壁にかかっている。覗き込んだ自分の顔は酷いものだった。目の下の隈。荒れた唇。蜂蜜色の髪はぼさぼさで、吟遊詩人としては失格だ。
「……ひどい顔」
水で顔を拭いて、髪を梳いた。指で整える程度しかできないけれど、それでもやらないよりはましだ。
笑顔を作った。鏡の中の自分に。
口角を上げる。目を細める。「おはよう、シエル」と声に出して練習した。
いつもこうする。朝起きたら、まず笑顔の練習をする。一日の最初に泣いていたら、その日はずっと泣いてしまうから。
鏡の中のあたしは、まあまあの笑顔を作れていた。七十点くらい。もう少し。
もう一回。
「おはよう。大丈夫だよ、あたしは元気」
八十点。これでいい。
あたしは鏡から目を逸らして、台所の棚を確認した。ノクスが用意していた食材がいくつかある。乾燥豆、干し肉、玉葱、人参、小さな壺に入った塩。
シチューが作れる。
ミラが手伝ってくれた。
「リーゼおねえちゃん、玉葱むくの得意だよ」
「ほんと? じゃあお願い。あたし玉葱むくと泣いちゃうから」
「泣かないコツがあるの。息を止めるの」
「それ普通に苦しくない?」
「苦しい。でも泣かない」
ミラの論理は明快だった。あたしは笑いながら干し肉を細かく刻んだ。
鍋に水を張り、火にかける。ノクスの隠れ家には簡易な調理用紋章が刻まれていて、火を起こす手間がない。便利だ。こういう生活紋章は教会が管理しているはずだけど、ノクスの隠れ家にあるということは、闇のルートで手に入れたものなのだろう。
玉葱と人参を刻む。干し肉と一緒に鍋に入れる。乾燥豆は昨夜のうちに水で戻しておいた。
「リーゼおねえちゃん、お塩多くない?」
「え? そう? あたしこのくらいが好きなんだけど」
「シエルさん、薄味が好きだよ」
「……マジ?」
ミラが真剣な顔で頷いた。十歳の少女に味付けを指導されている。情けないけど、ミラの方がシエルの好みを知っているのかもしれない。あたしはいつも味が濃くなる。
塩を少し減らして、代わりに乾燥香草を加えた。ほんの少し。シエルが前に調合していた薬の匂いに似た、すっきりした香りの草だ。
「いい匂い」
ミラが鍋を覗き込んだ。あたしはミラの頭を撫でた。柔らかい栗色の髪。この子の体にはまだ呪いの紋章が残っている。あたしの浄化で進行を止めているだけで、根本的な解決には至っていない。
この子を救わなければならない。
そのためにはノクスの情報が要る。教会の人工呪詛の構造を解析して、解呪の手段を見つけなければ。
だからノクスを切れない。裏切り者だと知っていても。
あたしは鍋を木匙でかき混ぜながら、奥の部屋の方を見た。シエルはまだ横になっているはずだ。起き上がれるようにはなったけど、体力はまだ戻っていない。
シエル。
ルシアン。
あの名前が頭の中で何度も繰り返される。
シチューが出来上がった頃、シエルが台所に現れた。壁に手をつきながら、ゆっくり歩いてくる。
「起きて大丈夫なの?」
「匂いがした。腹が減った」
「素直なんだか強情なんだか」
あたしは椅子を引いてシエルを座らせた。木の器にシチューをよそう。湯気が立ち上って、地下の冷たい空気を少しだけ温めた。
シエルが一口食べた。
少し間を置いてから、もう一口。
「……味が濃い」
「え! ミラの助言で減らしたのに!」
「リーゼが作ると、いつもこうなるよね」
シエルの口元がかすかに緩んだ。笑っているのだ。あたしにしかわからないくらい微かに。
「ひどい。あたし頑張ったんだけど」
「頑張った結果がこれなら、次からはミラに任せた方がいい」
「シエルさん、ひどいこと言う」
ミラが口を尖らせた。でも目は笑っていた。
あたしはむくれた顔を作って見せたけれど、胸の奥は温かかった。

こうやって四人で食卓を囲んでいる時間が好きだった。偽物の日常で、偽物の名前で、本当のことなんて何一つ言えない関係だけど。
この温かさだけは、嘘じゃないと信じたい。
ノクスが自分の器を受け取りながら、ちらりとあたしを見た。何か言いたげな目だったけれど、口には出さなかった。
賢い子だ。嫌いだけど、賢い。
夜。
ミラを寝かしつけた後、あたしは自分のベッドに横になった。
隣の部屋でシエルが眠っている。壁一枚を隔てた向こう側に、彼の気配がある。鎖の契約のせいか、彼が近くにいることが体でわかる。胸の奥の脈動が、彼の鼓動と重なっている。
とくん。とくん。
不思議な感覚だった。気持ち悪いとは思わなかった。むしろ——安心する。彼が生きていることが、脈拍で伝わってくる。
三日以上離れたら死ぬ。
ノクスの言葉が頭の中で反響した。
怖いことだ。普通なら。自由を奪われるということだ。この先どこに行くにも、何をするにも、シエルと一緒でなければならない。
なのに——
あたしは天井を見上げた。
怖くなかった。
怖くないことが、一番怖かった。
暗い天井を見つめているうちに、心の言葉が変わっていた。リーゼの声ではなく、もっと奥にしまい込んだ声——王宮の廊下を歩いていた頃の、あの呼吸。
正直に言おう。あたし——いえ、わたくしは、最初から覚悟していたのだ。
この人の傍を離れるつもりはなかった。鎖があろうとなかろうと。
言葉遣いが元に戻った。エリザヴェータの覚悟を、リーゼの声で言い直す。
だって、あたしがいなければ彼は壊れる。
最初に出会った夜から知っていた。あたしに触れた時、彼の目の奥の痛みが引いたことを。あたしの歌を聴いている時、彼の右目の脈動が静まることを。
あたしは聖女だ。ヴェルハイデの聖女。呪いを浄化する力を持って生まれた。
その力が、彼の呪いを抑えている。
あたしがいなくなれば、彼の記憶の消失は加速する。手帳に書き留めた全てが意味を失い、彼は自分が誰かもわからなくなる。
そうさせるわけにはいかない。
「あたしがいなければ」——その言葉が、あたしの存在意義になっている。国を失い、家族を失い、名前すら偽って生きているあたしに残された、たった一つの意味。
この人を守ること。この人の傍にいること。
それがなくなったら、あたしには何も残らない。
でも。
暗い天井を見つめながら、あたしは別のことを考えていた。
セラが彼を「ルシアン」と呼んだ。
ルシアン。
その名前に聞き覚えがないわけではない。ヴェルハイデの王城で暮らしていた幼い頃、大人たちの会話の端に聞いた名前。「聖廟教会の使徒」。「教会の剣」。「七つの聖遺物の担い手」。
使徒は七人。教会の最高戦力にして、教皇の剣。
あたしの国を滅ぼした教会の。
五年前の夜を思い出す。炎。悲鳴。城壁が崩れる音。母上の叫び声。「逃げなさい、エリザヴェータ!」
あの夜、教会の軍勢が押し寄せてきた。聖戦という名の侵略。「異端の温床を浄化する」と、大司教が笑顔で宣言した日。
使徒が何人参加したのか、あたしは知らない。逃げるのに必死で、そんなことを確認する余裕はなかった。
でも使徒は教会の人間だ。教会に仕える者だ。あたしの国を、あたしの家族を、あたしの全てを奪った組織の。
シエルが——ルシアンが、もしその使徒だったとしたら。
あたしの国を滅ぼした教会に、かつて属していたとしたら。
寝返りを打った。毛布を顔まで引き上げる。
でも、と思う。
目の前の彼は——あたしが知っている彼は、そんな人間じゃない。
シエルは無愛想で、素っ気なくて、いつも「大丈夫」と嘘をつく。でもあたしが危ない時は体を張るし、ミラの傷に薬を塗る手は驚くほど丁寧だ。
シチューの味が濃いと文句を言いながらも、最後まで残さず食べる。
手帳に何かを書く時、少しだけ目が柔らかくなる。あたしのことを書いている時だけ。あたしがそれを知っていることを、彼は知らない。
そんな人が、あたしの国を滅ぼすような——
「元」使徒だ。今は違う。今は追われている側だ。教会に嵌められて、呪いを背負って、記憶を失いながら逃げている。
あたしと同じだ。
教会に全てを奪われた側の人間だ。
……そう思いたい。そう信じたい。
真実を確かめるのが怖い。
だから訊かない。訊いたら、あの人も訊いてくる。「君は誰だ」と。
あたしたちはいつもこうだ。互いの嘘の上に立って、その下を覗かないようにしている。
覗いたら崩れるから。
眠れなかった。
ベッドから抜け出して、台所に行った。
水を一杯飲む。冷たい水が喉を通る。
壁際の小さな窓から、夜空が見えた。星が瞬いている。地下の隠れ家だけど、この窓だけは地上に面している。換気のためだろう。
窓枠に肘をついて、外の暗闇を見つめた。
あたしの国があった方角。南西。ここからは見えない。見えるわけがない。もう残っていないのだから。
ヴェルハイデ。
故郷の名を唱えた途端、心の声が幼い日の調子に滑り落ちた。
緑の丘陵に囲まれた小さな王国。城下町には花が溢れていて、春になると桜桃の並木が白い花を咲かせた。父上は優しい王だった。民に愛されていた。母上は美しく聡明で、わたくしの竪琴の手ほどきをしてくださった。
全部、灰になった。
その一言で、あたしはリーゼに戻った。感傷に浸っている余裕は、今のあたしにはない。
「眠れないの?」
声に振り返ると、ノクスが壁にもたれていた。腕を組んで、あの読めない目であたしを見ている。
「……あんたこそ」
「僕は元々あまり眠らないんだ。体質でね」
体質。嘘だろうな、とあたしは思った。この少年の「体質」が普通でないことは、とっくに気づいている。老いない体。古い時代の知識。教会の闇を知り過ぎている、子供の見た目をした何者か。
「リーゼ、一つ忠告」
「なに」
「鎖の契約は、感情を増幅させる」
「……どういう意味」
「共鳴回路は魔力だけじゃなく、感情の波長も共有する。近くにいればいるほど、相手への感情が強まる。依存が、加速するんだよ」
ノクスの声は淡々としていた。忠告というより、観察報告のようだった。
「それが善い感情なら問題ない。でも、疑念や恐怖が混じっていたら——共鳴がそれも増幅する。やがて互いを破壊しかねない」
「……何が言いたいの」
「隠し事を抱えたまま共鳴を続けるのは危険だ、ということ」
ノクスがあたしの目を見た。暗い瞳の奥に、年齢に不相応な深さがあった。
「君が何を隠しているかは訊かない。でも、いつか選ばなきゃならない時が来る。嘘を守るか、彼を守るか」
あたしはノクスから目を逸らした。
「……余計なお世話」
「そうだね。おやすみ」
ノクスは音もなく暗がりに消えた。
あたしは窓枠に頬をつけて、冷たい夜風を感じていた。
翌朝。
シエルの体調はだいぶ戻っていた。自分で起き上がり、手帳に何かを書いている。ベッドの端に座って、あの使い込まれた手帳をめくっている横顔が見えた。
あたしは台所でミラと朝食の支度をしながら、こっそり彼を見ていた。
シエルの手帳。あの中にはあたしのことが書いてある。日に日に増えている。それを知ったのは偶然だった。数週間前、シエルが調合に集中している間に手帳が開いたまま机に置かれていて——
見てしまった。いけないと思いながら。
〔リーゼが今日も同じ曲を弾いていた。あの旋律を聞くと右目の痛みが和らぐ。理由はわからない。でも彼女がいるだけで楽になる。それは事実だ〕
あの文字を見た時の気持ちを、何と呼べばいいのかわからない。嬉しかった。同時に、苦しかった。
あたしがいるだけで楽になる——それは、あたしの聖女の力のおかげだ。あたし自身のおかげじゃない。浄化の力がなければ、あたしは彼にとって何でもない。
……本当に?
本当にそうなの?
わからない。わからないから怖い。
「リーゼおねえちゃん、パン焦げてる」
「あっ!」
慌ててパンをひっくり返した。片面が真っ黒だ。
「あーあ。あたしほんとダメだなあ」
「焦げたとこ削れば食べられるよ」
「ミラは優しいね……」
焦げた面を削って、何事もなかったかのように皿に並べた。シエルには一番マシなやつを渡そう。
朝食の後、シエルが言った。
「少し外の空気を吸いたい」
「大丈夫? まだ——」
「ずっと地下にいると気が滅入る。地上の出口は」
「東の階段を上がると廃屋の裏に出るよ」
ノクスが指さした方角に、狭い石段があった。
あたしはシエルについていった。鎖の契約があるから、というのは言い訳だ。本当は、彼が一人で行くのが不安だっただけだ。
階段を上がると、朽ちかけた廃屋の裏手に出た。
朝の光が眩しかった。二日間地下にいた目には、ただの曇り空の光すら刺すように明るい。
シエルが目を細めて空を見上げた。風が彼の黒髪を揺らしている。
「……風が気持ちいい」
珍しい言葉だった。シエルが「気持ちいい」なんて言うのは滅多にない。
「ね、生きてるって感じでしょ」
「大袈裟だ」
「大袈裟じゃないよ。二日も寝てたんだから」
あたしは隣に立って、同じ空を見上げた。
灰色の雲の合間から、薄い日差しが漏れている。名前も知らない鳥が遠くの木立で鳴いていた。
彼の右手に、あたしの左手が触れた。
意図したわけじゃない。並んで立っていたら、自然と。
シエルは手を引かなかった。あたしも引かなかった。
指先が触れているだけの、それだけのこと。
でも胸の奥の脈動が——鎖の共鳴が、温かく波打った。
彼が考えていることが、ほんの少しだけ伝わってくる気がした。不安。安堵。それから——あたしの名前を心の中で呼んでいるような、かすかな波紋。
気のせいだろうか。
気のせいだといいな。気のせいじゃないといいな。
どっちなのか、自分でもわからない。
その日の夕方。
あたしはまたシチューを作った。今度はミラの監督のもとで。
「お塩はこのくらい」
「少なくない?」
「これでいいの」
ミラ先生は厳しかった。でもおかげで、今度のシチューはまともな味になった——と思う。
四人で食卓を囲んだ。ノクスは相変わらず飄々としていて、ミラは嬉しそうにパンをちぎってシチューに浸していた。
シエルが一口食べて、少し間を置いた。
「……美味しい」
「え、ほんと!?」
「ミラが監督したんだろう」
「なんであたしの功績じゃないの!」
「前科がある」
シエルの口元が緩んだ。あの微かな笑み。
あたしはむくれた顔を作ったけれど、心の中では飛び上がりたいくらい嬉しかった。美味しいと言ってくれた。それだけで、今日一日の疲れが消える。
単純だ。あたしは単純だ。
でも、こういう瞬間が好きだった。嘘の名前で呼び合って、本当のことは何も言えないけれど、温かいシチューを食べて、くだらない会話をして。
こういう時間が、あたしの全てだった。
食事の後。
あたしは竪琴の弦を確認した。セラとの戦闘で一本切れていたのを、予備の弦に張り替える。慣れた作業だ。指が勝手に動く。
弦を張り終えて、軽く爪弾いた。澄んだ音が地下の小部屋に響く。
少しだけ弾こう。調律を確認するために。
指が弦を滑る。出てきたのは、ヴェルハイデの民謡だった。母上が教えてくれた曲。幼い頃、城の中庭で何度も歌った曲。
歌詞は声に出さなかった。出したら——出したら泣いてしまうから。
旋律だけを弾いた。
静かな曲だ。夕暮れの丘で風に吹かれながら歌う、故郷を想う歌。歌詞の一節が頭の中に浮かぶ。
『帰る場所はもうないけれど、あの丘の風を忘れない』
忘れない。忘れるものか。
あたしは弦を弾きながら、窓の外の暗闇を見つめた。
ヴェルハイデのある方角。南西。あの廃墟の下に、あたしの全てが眠っている。
行きたい。
ずっとそう思っていた。怖くて言えなかった。行ったら壊れてしまう気がして。でも——
もう壊れかけているなら、同じことだ。
竪琴を置いて、シエルのいる部屋を覗いた。
彼は手帳に何かを書いていた。ペンを走らせる横顔が、ランプの光に照らされている。
あたしの胸の中で、鎖の脈動がとくんと打った。
彼が生きている。ここにいる。あたしの傍に。
あたしがいなければ壊れてしまう人。あたしが傍にいる理由をくれた人。
でもあたしは、彼に嘘をついている。名前も、過去も、何もかも。
そして彼も、あたしに嘘をついている。
互いの嘘が、あたしたちを繋いでいる。鎖のように。
「嘘を守るか、彼を守るか」——ノクスの言葉が耳の奥で響いた。
あたしは深呼吸した。
そして部屋に入った。
「シエル」
「ん」
「あたし、行きたいところがある」
シエルが手帳から顔を上げた。僕の——彼の黒い瞳が、あたしを見た。
「行きたいところ?」
「うん」
あたしは窓の方を見た。ヴェルハイデの方角を。
怖い。言ったら戻れない。でも、もう逃げるのは嫌だった。五年間逃げ続けた。逃げて、笑って、偽名を名乗って、本当の自分を殺して。
もう、いい。
もう、行かなきゃ。
「南西に——古い王国の廃墟があるの」
シエルの目が、わずかに揺れた。
「ヴェルハイデか」
「……知ってるの」
「名前だけは。五年前に滅んだ国だ」
そう。あたしの国。
言えない。まだ言えない。でも、行くことはできる。あの場所に立つことはできる。
「そこに——確かめたいことがあるの。あたしの、大切なことが」
シエルは黙ってあたしを見ていた。長い沈黙。あたしの心臓が、鎖の共鳴とは関係なく速くなる。
「……わかった」
「え」
「行こう。ヴェルハイデに」
シエルはそれだけ言って、手帳に視線を戻した。訊かない。何を確かめに行くのか。なぜヴェルハイデなのか。
訊かないでいてくれる。いつもそうだ。あたしの嘘を暴かない。あたしの過去を覗かない。
それが優しさなのか、臆病さなのか——きっと両方だ。あたしたちは、いつもそう。
「ありがとう、シエル」
「礼を言われることじゃない。鎖があるんだ、一緒に行くしかないだろう」
「……それもそうだね」
笑った。笑えた。
でも心の中では、覚悟を決めていた。
ヴェルハイデに行ったら——あたしは、自分の本当の名前と向き合わなければならない。
そしてたぶん、シエルにも。
あたしは彼の横顔を見つめた。
ランプの光に照らされた、痩せた頬と、眼帯と、手帳を書く細い指。
この人が元使徒だったとしても。教会の人間だったとしても。
今のこの人は——あたしのシチューを食べて「美味しい」と言ってくれる、ただの薬師だ。
それを信じたい。
信じさせて。
その夜、あたしは鏡の前に立った。
笑顔の練習はしなかった。
代わりに、自分の目を見つめた。翡翠の瞳。母上と同じ色。
あの夜——五年前の夜に、この目で最後に見たのは、燃える城の天守だった。
あたしの目に、覚悟が映っていた。
鏡の中のあたしは——初めて、笑っていなかった。