〔二百八日目。ヴェルハイデ廃都に向かっている。リーゼが変わった。笑う回数が減った。歌わなくなった。何かを覚悟している顔をしている。僕は何も訊かない。訊けない。彼女がそこで何を見るのか、僕には知る権利がない〕
南西への街道は、日を追うごとに荒れていった。
最初の二日間は、まだ旅人の姿があった。街道沿いの村で水を補給し、干し肉を買い足した。だが三日目から人の気配が消えた。
ヴェルハイデに近づいているのだ。
五年前に教会の聖戦で滅ぼされた王国。その周辺は今も「穢れの地」として教会が立ち入りを禁じている。旅人が寄りつかない理由はそれだ。
街道の石畳は割れ、雑草が隙間から伸びている。かつては整備されていたのだろう。舗装の下から覗く石組みは丁寧な仕事だった。この道を作った職人は、もういない。
「シエル、休憩しない?」
ミラが僕の外套の裾を引っ張った。小さな顔が疲労で曇っている。当然だ。十歳の子供に一日中歩かせるのは酷だった。
「ああ、あの木の下で休もう」
街道脇の大樹の根元に腰を下ろした。ノクスは少し離れた岩の上に座り、例の飄々とした顔で周囲を見回している。
ミラは僕の隣に座って、すぐに目を擦り始めた。眠いのだろう。
「ミラ、少し寝ていいよ。着いたら起こすから」
「うん……」
ミラは僕の肩にもたれかかって、あっという間に寝息を立て始めた。小さな体の重みが肩に伝わる。
リーゼは大樹の反対側に立って、南西の方角を見つめていた。
蜂蜜色の髪が風に揺れている。いつもなら「風が気持ちいいね」とか「あの雲、動物に見えない?」とか、取り留めのないことを言うはずだった。
何も言わなかった。
三日目からずっとこうだ。リーゼの口数が減った。笑顔の回数が減った。竪琴を弾く時間が減った。代わりに、黙って遠くを見つめる時間が増えた。
僕は手帳を開いた。
〔二百六日目。リーゼが歌わなくなった。三曲は弾いていたのが一曲になり、今日はゼロだった。食事は作ってくれるが、味見をしない。味が濃いかどうか、気にしていない〕
味を気にしないリーゼ。それがどれほど異常なことか、傍にいればわかる。
〔二百七日目。リーゼが寝ている間に泣いていた。声は出していなかった。肩が震えていた。僕は気づかないふりをした〕
手帳を閉じた。
訊きたかった。何が辛いのか。何を怖がっているのか。僕に何ができるのか。
でも訊けない。訊いたら、彼女は笑って「大丈夫だよ」と言う。あの笑顔で。嘘の笑顔で。
僕にそれを見抜く権利はない。僕自身が「大丈夫」と嘘をつき続けている人間だから。
「……シエル」
リーゼが振り返った。風が止んだ。翡翠の瞳が僕を見ている。
「明日には着くと思う」
「ああ」
「着いたら——あたし、少し変になるかもしれない。ごめんね、先に謝っておく」
「変って?」
「泣いたり、怒ったり。わかんない。自分でもわかんない」
リーゼは目を逸らした。唇を引き結んでいる。
「いつもみたいに笑えないかもしれない。それだけ」
「……別に、いつも笑ってなくていい」
僕の口から出た言葉に、自分で少し驚いた。
リーゼが目を見開いた。
「笑いたくない時は笑わなくていい。泣きたいなら泣けばいい。僕はどこにも行かない」
鎖があるから——とは言わなかった。言えばそういう意味になってしまう。鎖のせいで離れられないだけだ、と。
そうじゃない。
そうじゃないと、思う。
リーゼは数秒だけ僕を見つめて、それから目を伏せた。
「……ありがとう」
小さな声だった。普段の元気な声でも、からかうような声でもない。ただ静かな、素の声。
初めて聞いた声のような気がした。
〔二百九日目。ヴェルハイデ廃都に到着した〕
最初に見えたのは、城壁だった。
正確には、城壁だったものだ。
かつて白い石灰岩で築かれていたであろう壁は、半ば崩れ落ちていた。残った部分も黒く煤けて、蔦に覆われている。城門は焼け落ち、門柱だけが骨のように突き立っていた。

門柱に紋章が刻まれていた。二頭の獅子が盾を掲げた意匠。風雨に晒されて摩耗しているが、まだ読み取れる。
ヴェルハイデ王国の紋章だ。
リーゼの足が止まった。
門柱の前で立ち尽くしている。風が蜂蜜色の髪を乱しているのに、彼女は手で押さえようともしなかった。ただ紋章を見上げている。
「リーゼ?」
「……うん。大丈夫。行こう」
大丈夫じゃないことはわかっていた。でも僕は頷いて、彼女の隣を歩いた。
城門をくぐると、王都の残骸が広がっていた。
瓦礫。灰。焼けた木材の残骸。五年の歳月が雑草と苔で覆い隠そうとしているが、破壊の痕跡は消えていない。建物の壁は半壊し、屋根は崩れ、かつて通りだった場所は瓦礫の山になっている。
人の気配は一切なかった。風の音と、瓦礫を踏む自分たちの足音だけが響いていた。
「ここが……」
ミラが僕の手を握りしめた。小さな手が震えている。
「シエルさん、ここ怖い」
「大丈夫だよ、ミラ。危ないものはない」
危ないものはない。もう何も残っていないから。人も、建物も、生活の痕跡も。全てが灰と瓦礫に還っている。
リーゼは僕たちの少し先を歩いていた。迷いのない足取りだった。瓦礫の道を、左に曲がり、右に曲がり、焼け落ちた建物の残骸の間を縫って進む。
道を知っている。
この街の道を、彼女は知っている。
僕はその事実を黙って飲み込んだ。
かつての大通りだったのだろう。道幅が広い。両脇に建物の基礎だけが残っている。商店だったのか、住居だったのか。壁の一部に色褪せた看板が残っている。文字は読めない。
「ここ、パン屋さんだった」
リーゼが呟いた。
僕は足を止めた。
パン屋。彼女がそう言った建物の跡には、石造りの竈が半壊したまま残っていた。煤で黒くなった壁。割れた窓枠。
「朝になるとね、焼きたてのパンの匂いが通りに広がるの。あたし、この匂いが好きだった」
リーゼの声は静かだった。感情を押し殺しているのではない。もう感情の蓋が開きかけていて、押し殺す余裕がないのだ。
「あっちが仕立て屋で、その隣が花屋。春になると、通りじゅう花だらけになるの」
花屋の跡には何も残っていなかった。花も、棚も、看板も。焼けた地面に雑草が茂っているだけだ。
リーゼは歩き続けた。僕は黙ってついていった。ミラは僕の手を握ったまま、小さく息を殺している。ノクスは後方で無言だった。
大通りを抜けると、緩やかな坂道があった。石畳は比較的残っていたが、所々が陥没して雑草に埋もれている。坂の両側には、かつて並木だったであろう木々の切り株が点々と残っていた。
「桜桃の並木だったの」
リーゼが切り株の一つに手を触れた。
「五年前の春に、最後の花が咲いた。あたしは見られなかったけど。逃げたのが秋だったから」
最後の春。そして秋の夜に彼女は逃げた。
逃げた。この街から。
坂を上りきると、視界が開けた。
丘の上に、城があった。
否——城があった場所に、廃墟があった。
かつて天守閣だったであろう石組みの残骸が、空を突き刺すように聳えている。壁は半分以上が崩れ、残った部分も黒く焼け焦げている。城の周りを囲んでいた堀は干上がり、泥と瓦礫で埋まっていた。
城門は完全に失われていた。巨大な石のアーチだけが残り、その向こうに崩れた中庭が見える。

リーゼの足が止まった。
完全に。
「……」
彼女は声を出さなかった。城の廃墟を見上げたまま、石のように動かなかった。
風が吹いた。瓦礫の間を通り抜ける風が、低い音を立てた。まるで、この街の亡霊が嘆いているかのような音。
「リーゼ」
僕は彼女の名前を呼んだ。偽名を。
返事はなかった。
「リーゼ」
もう一度呼んだ。
彼女の肩が震えた。
「……ここが、あたしの家だった」
掠れた声だった。
家。
この城が、彼女の家。
僕の中で、何かが繋がりかけた。パン屋を知っていたこと。花屋を知っていたこと。並木が桜桃だと知っていたこと。そしてこの城を「家」と呼んだこと。
吟遊詩人が城に住むはずがない。
でも僕は何も言わなかった。彼女の嘘を暴く気はなかった。今はまだ。
「入る?」
「……うん」
城の内部は、外から見る以上に酷かった。
大広間の天井は抜け落ち、空が直接見えた。壁を飾っていたであろうタペストリーは焼け落ち、金具だけが壁に残っている。床の石板は割れ、隙間から雑草が伸びていた。
焦げた柱。溶けた燭台。砕けたシャンデリアの破片が床に散乱している。
五年前の炎の痕跡が、そのまま残されていた。
誰も片付けなかったのだ。片付ける人間がいなかったのだ。
リーゼは大広間を横切って、奥の廊下に向かった。壁が崩れて半分露天になった廊下を、彼女は躊躇いなく歩いた。この先に何があるのか知っている歩き方だった。
「リーゼおねえちゃん、待って」
ミラが声をかけたが、リーゼは振り返らなかった。聞こえていないのか、聞こえていても止まれないのか。
「ミラ、ノクスと一緒にここで待っていてくれ」
「でも——」
「大丈夫。僕がついていく」
ミラは不安そうに頷いた。ノクスが無言でミラの肩に手を置いた。珍しく、あの少年の顔に温度があった。
僕はリーゼの後を追った。
廊下の突き当たりに、小さな部屋があった。
扉は失われていた。石造りの壁は比較的残っていたが、天井の一部が崩れて瓦礫が室内に散乱している。
部屋の奥に、窓があった。窓枠のガラスは割れ、蔦が外から侵入して壁を覆っている。窓の下に、小さな木の椅子が——半分焼けた木の椅子が、まだ残っていた。
リーゼはその椅子の前で膝をついた。
「……」
彼女の手が椅子に触れた。焼け焦げた木肌を、指先でなぞった。
「ここで竪琴を習ったの」
声が震えていた。
「母上が——おかあさんが、この椅子に座って。あたしは床に座って。弦の押さえ方から教えてもらった」
母上。
その言葉は、吟遊詩人の口からは出ない。
「最初は全然弾けなかった。指が痛くて泣いて。そしたらおかあさんが笑って——」
リーゼの声が途切れた。
「『泣いてもいいけれど、手は止めないで。音は涙よりも遠くに届くから』って」
その言葉を口にした瞬間、リーゼの肩が大きく揺れた。
僕は彼女の後ろに立っていた。何を言えばいいのかわからなかった。何も言えなかった。
リーゼの手が椅子から離れ、顔を覆った。
「……っ」
声にならない声が漏れた。
彼女が泣いている。
今まで見たことのない泣き方だった。いつもの「泣いてない、目にゴミが入っただけ」のような泣き方ではない。体の奥から絞り出されるような、五年分の痛みが溢れ出すような泣き方。
肩が震えている。背中が丸まっている。床に崩れ落ちるように、膝をついたまま前のめりになっている。
声は出さなかった。声を出したら——本当に壊れてしまうと知っているかのように、唇を噛み締めて、音を殺して泣いていた。
僕はしゃがんで、彼女の隣に膝をついた。
何も言わなかった。
ただ、手を伸ばした。
彼女の手を——顔を覆っている手を、そっと握った。
リーゼの手は冷たかった。震えていた。僕の手も震えていたかもしれない。
握り返してきた。強く。痛いくらいに。
僕はそのまま黙って、彼女の隣にいた。
崩れた天井から空が見えた。灰色の雲が流れている。どこかで鳥が鳴いた。
時間がどれくらい経ったのかわからない。
風が吹くたびに瓦礫が軋み、蔦の葉が擦れた。この城が——この街が、まだ生きている最後の音のように。
リーゼが顔を上げたのは、だいぶ経ってからだった。
目が真っ赤だった。頬が濡れていた。でも、もう震えは止まっていた。
「……ごめん、見苦しいとこ見せた」
「見苦しくない」
「嘘。ひどい顔してるでしょ、あたし」
「いつもと変わらない」
「それ褒めてないよね」
僕は少しだけ笑った。彼女も、ほんの少しだけ口元を緩めた。涙で顔がぐちゃぐちゃのまま。
「ここに住んでたんだな」
「……うん」
「城に」
「うん」
もう隠す気がないようだった。あるいは、隠す力が残っていないのか。
リーゼは目を拭い、僕の隣に座った。焼けた椅子を背にして、床に並んで座る。瓦礫だらけの小さな部屋。かつて誰かの大切な場所だった場所。
「あたしね、この城で生まれたの」
リーゼが静かに話し始めた。
「お姫様じゃないけど——まあ、似たようなもの。この国の偉い人の娘だった」
偉い人。彼女は「王」とは言わなかった。でも城に住む「偉い人」の意味は限られている。
「小さい頃は幸せだったよ。毎日花が咲いてて、みんな笑ってて。おかあさんが竪琴を教えてくれて、おとうさんが城下町に連れ出してくれて」
彼女の声は穏やかだった。泣き疲れた後の、透明な声。
「パン屋のおじさんがね、あたしが行くと焼きたてのパンをおまけしてくれたの。いっつも。おかあさんには内緒だよ、って」
あのパン屋。大通りの、竈だけが残った建物。
「花屋のおばさんは、あたしの誕生日に花冠を作ってくれた。青い花が好きだって言ったら、毎年青い花冠を」
彼女の声が、少し揺れた。
「みんな、死んじゃった」
風が吹いた。
「教会が来たの。聖戦だって。この国は異端の温床だから浄化するって。意味わかんなかった。あたし十四歳だったし。異端って何。浄化って何。おとうさんが何かした? おかあさんが悪いことした? パン屋のおじさんが何を——」
声が震え始めた。でも、泣かなかった。もう涙は出尽くしたのかもしれない。
「秋の夜だった。城に火がついて。おかあさんが——」
リーゼは言葉を切った。
目を閉じた。
僕の中にも、断片的な記憶がある。
五年前の秋。僕はまだ使徒だった。第七使徒ルシアン・ヴァルトロー。十六歳。
ヴェルハイデへの聖戦には参加しなかった。僕に割り当てられた任務は別の地域だった。だが報告書は読んだ。「異端国家ヴェルハイデの浄化完了。残存勢力なし」と書かれた、簡潔な報告書。
あの報告書の「浄化」が何を意味していたか、今の僕にはわかる。
城を焼いた。街を焼いた。パン屋も、花屋も、桜桃の並木も。
人を殺した。王を、民を、子供を。
「残存勢力なし」——つまり、皆殺しだ。
そう思われていた。
でも一人、生き残った。
目の前にいるこの子が。
リーゼが再び口を開いた。声は低く、記憶の底を浚うような話し方だった。
「城下町に火が回った時、あたし一人で逃げようとしたの。城の中は煙だらけで、廊下も階段もわからなくなって。やっと外に出たら——城下町も燃えてた」
彼女の声が少し震えた。
「兵士がいたの。教会の兵士。あたしを見つけて、追いかけてきた。路地に逃げ込んだけど行き止まりで、もう駄目だって思った時に——」
リーゼの目が、遠い場所を見ていた。五年前の夜を。
「少年が来たの。あたしより少し年上くらいの。教会の黒い法衣を着てたけど、兵士とは違った。右目に包帯を巻いてて——」
右目に包帯。
その言葉が耳に引っかかった。何かが僕の記憶の底で揺れたような気がした。だが手を伸ばしても掴めない。霧の中に沈んだ石を探るように、指先が空を切る。
「その少年が、兵士の前に立ったの。それで——目が光った。一瞬だけ。赤い、不思議な光。兵士たちが急に動けなくなって、崩れるみたいに座り込んだ」
目が光った。
呪眼、と僕の中で何かが反応した。だがそれは漠然とした既視感でしかなく、具体的な記憶に結びつかなかった。
「でもその直後、その少年が右目を押さえて崩れたの。すごく苦しそうで。膝をついて、肩で息をして。あたし怖くて動けなかったら——」
リーゼの声が、かすかに震えた。
「その少年が、崩れたまま言ったの。『……大丈夫。君は、逃げていい』って。穏やかな声で。目が光った後なのに、あの人自身が一番つらそうだったのに」
僕は黙って聴いていた。彼女の語る少年の姿が、不思議な残響を伴って頭の中に響いていた。教会の法衣。右目の包帯。目の光。代償。
どこかで聞いた話のような気がする。いや——どこかで経験した記憶のような。
だが何も思い出せない。呪眼の代償で消えた記憶の空白は、掴もうとするほど深く沈んでいく。
「あたし、走ったの。振り返ったら、あの少年はまだ膝をついたままだった。薬草の匂いがしたの、あの人から。城下町が燃えてて、煙と血の匂いばっかりだったのに、あの人の傍だけ薬草の匂いがした」
薬草の匂い。
僕の外套にも、常に薬草の匂いが染み付いている。薬師の職業病のようなものだ。だがそれだけの偶然で何かを結びつけるのは飛躍だと、僕の理性が判断した。
「あの少年がいなければ、あたしはあの夜死んでた。あの人が誰だったのか、今でもわからない。教会の法衣を着てたのに、教会の兵士からあたしを庇ってくれた。——あの人も、大丈夫だったのかな」
リーゼの視線が、僕の眼帯の上をかすめた。ほんの一瞬だけ。気のせいだったかもしれない。
僕は何も言えなかった。何かを言うべきだという直感と、何を言えばいいのかわからないという無力感が拮抗していた。彼女の話す少年の特徴——教会の法衣、右目の包帯、目の光、代償——それらが僕自身と重なることに、僕は気づいていなかった。気づけなかった。記憶がないから。
「それで——そのあと城に戻ったの。煙で前が見えなかったけど、なんとか廊下まで辿り着いて。そしたらレイヴンが来てくれた」
リーゼの声が、少し安定を取り戻した。
「レイヴンっていう騎士がね、あたしを見つけて連れ出してくれたの。城の裏の秘密の通路を通って。走った。ずっと走った。後ろで城が燃えてて。振り返りたかったけど——」
『殿下、振り返ってはなりません』
その声が聞こえた気がした。リーゼの記憶の中の声が、彼女の語りを通じて。
「レイヴンがね、あたしの手を引いて走りながら言ったの。『殿下、振り返ってはなりません』って」
殿下。
その呼称が意味するものは一つしかない。
「でも振り返った。一回だけ。城の天守が燃えてた。真っ赤だった。空まで赤かった」
リーゼの翡翠の瞳が、ここではない遠くを見ていた。五年前の夜を。
「あの夜から、あたしはリーゼになった。名前を変えて、髪を染めようかと思ったけど上手くいかなくて。吟遊詩人のふりをして旅をした。おかあさんが教えてくれた竪琴があったから」
吟遊詩人は偽りの姿。本当は——
「レイヴンとは途中ではぐれた。たぶんまだ生きてると思う。あの人は強いから」
リーゼが僕を見た。
翡翠の瞳がまっすぐに。
「シエル」
「うん」
「あたしの本当の名前は、エリザヴェータ・フォン・ヴェルハイデ」
心臓が止まった。
止まって——動いた。
「あなたが仕えていた教会が滅ぼした国の、姫だよ」
世界が静止した。
音が消えた。風も、鳥の声も、瓦礫が軋む音も。全てが遠のいて、彼女の声だけが頭の中に反響していた。
エリザヴェータ・フォン・ヴェルハイデ。
ヴェルハイデ王国の王女。
滅亡した国の、唯一の生き残り。
そして——「あなたが仕えていた教会が」。
彼女は知っている。
僕が元使徒だと。
「……知って、いたのか」
声が掠れた。自分の声が、自分のものに聞こえなかった。
「セラが——あの銀髪の騎士が、あなたのこと『ルシアン』って呼んだ」
「聞いて——」
「聞いてた。全部」
リーゼは——エリザヴェータは、静かに言った。
「使徒は教会の剣でしょう。あたし、調べたことあるの。聖廟教会の七使徒。教皇に仕える最高戦力」
僕は何も言えなかった。
彼女は続けた。
「あなたが使徒だったってことは、教会側の人間だったってことだよね。あたしの国を滅ぼした教会の」
「……ああ」
「あたしの家族を殺した組織の」
「ああ」
否定できない。否定する権利がない。
僕は使徒だった。教会に属していた。ヴェルハイデの聖戦には参加しなかったが、同じ組織にいた。同じ旗の下にいた。
僕の仲間が——かつての仲間が、この街を焼いた。この城を燃やした。パン屋のおじさんを殺した。花屋のおばさんを殺した。
彼女の両親を。
「知ってて……黙っていたのか」
「うん」
リーゼの返事は、驚くほど穏やかだった。
「だって、知ったら——あなた、離れていくでしょう?」
息が詰まった。
「あたしがヴェルハイデの姫だってわかったら、あなたは罪悪感で壊れる。教会にいた自分を許せなくなる。あたしの顔を見るたびに、滅ぼした国のことを思い出す」
その通りだった。今まさに、僕の胸の中で罪悪感が暴風のように渦巻いている。
「そしたらあなた、ここにいられなくなる。『僕が傍にいるべきじゃない』って言い出して、離れようとする」
その通りだ。
今この瞬間、僕の頭の中でまさにその言葉が形を成そうとしている。
「離れたら、鎖の契約で——」
「死ぬ。それは知ってる」
リーゼが小さく笑った。涙の跡が乾いた頬に、薄い笑みが浮かんでいた。
「だから黙ってた。知らなければ、あなたは離れない。知らなければ、あたしたちはこのまま一緒にいられる。嘘つきのまま」
「リーゼ——」
「リーゼじゃないよ。エリザヴェータ。……でも、リーゼって呼んでくれていいよ。その方が好き」
僕は彼女を見た。
蜂蜜色の髪。翡翠の瞳。小さな体。竪琴を背負った、偽名の吟遊詩人。
その全てが、嘘だった。吟遊詩人ではなく王女。旅人ではなく亡国の姫。
でも——
シチューの味が濃くなること。竪琴の弦を爪弾く癖。朝起きて笑顔の練習をすること。僕のシチューを美味しいと言って食べること。ミラの頭を撫でる手。
それは嘘なのか。
嘘のはずがない。
「……なぜ今、言った」
「え?」
「黙っていればよかった。知らないまま——」
「知らないままじゃ、もう無理だったの」
リーゼが——エリザヴェータが、壊れた窓の向こうの空を見上げた。
「ノクスに言われたんだ。鎖の契約は感情を増幅するって。隠し事を抱えたまま共鳴を続けたら、いつか壊れるって」
「……」
「あたし、あなたの傍にいたいの。嘘じゃなく。偽名じゃなく。あたしの本当の名前で。だから——」
彼女は僕に向き直った。
翡翠の瞳に、涙の膜が張っていた。でも泣いてはいなかった。これ以上泣かないと決めた目をしていた。
「ここに来たの。あたしの全部が埋まっているこの場所に。あなたを連れて」
僕は黙っていた。
何を言えばいい。謝ればいいのか。許しを乞えばいいのか。「僕はヴェルハイデの聖戦には参加していない」と言えば、少しは楽になるのか。
ならない。参加していなくても、僕はあの組織にいた。同じ聖衣を纏い、同じ祈りを捧げ、同じ旗の下で剣を振るっていた。
彼女の家族を殺した組織の一員だった。
「……僕は」
声が出た。
「僕はヴェルハイデの聖戦に参加していない。別の任務にいた。でも——それは言い訳にならない」
「知ってるよ」
「僕がいた組織が、君の国を——」
「知ってる」
「君の家族を——」
「知ってるって。全部」
リーゼは僕の言葉を遮った。
「知ってて、あたしはあなたの傍にいたの。最初からじゃないよ。ルシアンって呼ばれた時に気づいた。それまでは本当に知らなかった」
「気づいてから——どれくらい」
「二週間くらい。セラの戦闘の後から」
二週間。鎖の契約が成立してから、ずっと。
元使徒だと知りながら、彼女は僕の傍にいた。シチューを作り、竪琴を弾き、「大丈夫?」と笑いかけた。
知っていて。
全部、知っていて。
「怖くなかったのか」
「怖かったよ。めちゃくちゃ怖かった」
リーゼは正直に答えた。
「でも——あたしが知ってるシエルは、シチューの味にうるさい薬師でしょ。ミラの傷に丁寧に薬を塗る人でしょ。手帳にあたしのことを書いてる人でしょ」
「……手帳、見たのか」
「ごめん。一回だけ」
僕は額に手を当てた。
秘密も何もあったものじゃない。互いの嘘で成り立っていた関係が、今、音を立てて崩れている。
だが——崩れた後に残っているものが、何もないわけではなかった。
「リーゼ」
「うん」
「僕の本当の名前は、ルシアン・ヴァルトローだ」
初めて、自分の口から本名を告げた。二年間、誰にも言わなかった名前。
「元第七使徒。今は追われている。マルヒェン村の事件の犯人にされた。本当は——村を救おうとして、呪眼が暴走した」
「……うん」
「呪眼の代償で記憶が消え続けている。師匠の顔はもう思い出せない。いずれ全部消える」
「知ってる。手帳に書いてあった」
「……全部読んだのか」
「一ページだけ。あたしのことが書いてあるところだけ」
僕は天井を見上げた。崩れた天井の向こうの空。灰色の雲が、ゆっくりと流れていた。
「君の国を滅ぼした教会に、僕はいた。それは変えられない事実だ」
「うん」
「許してほしいとは言わない。許されることじゃない」
「許すとか許さないとか、そういう話じゃないよ」
リーゼが言った。
「あなたが国を滅ぼしたわけじゃない。教会が滅ぼしたの。大司教が命令して、軍勢が実行した。あなたはそこにいなかった」
「でも——」
「でもじゃない」
リーゼの声に、初めて強さがあった。
「あたしが欲しいのは、あなたの罪悪感じゃない。あたしが欲しいのは——」
彼女は言葉を探した。
「あたしが欲しいのは、嘘じゃないあなた」
僕は彼女を見た。
彼女は僕を見ていた。
翡翠の瞳に映る僕は、どんな顔をしているのだろう。
元使徒。呪眼の持ち主。記憶を失い続ける壊れた人間。彼女の国を滅ぼした組織の元一員。
それでも彼女は「嘘じゃないあなた」が欲しいと言った。
僕はそれに値するのか。わからない。わからないけれど——
「……ルシアン、って呼ばれるのは久しぶりだ」
「慣れる?」
「いや。シエルでいい。シエルの方が、今の僕には合っている」
「じゃああたしもリーゼでいいよ。エリザヴェータって長いし」
「……七文字は確かに長い」
「でしょ」
リーゼが笑った。
泣いた後の、腫れた目で。ぐちゃぐちゃの顔で。
でもその笑顔は——今まで見たどの笑顔よりも、本物に見えた。
僕たちはしばらく、崩れた部屋の中に並んで座っていた。
風が瓦礫の間を通り抜けていく。蔦の葉が擦れる音。遠くで鳥が鳴く声。
リーゼは竪琴を膝の上に置いた。弦に指を滑らせた。
旋律が流れ出した。
あの曲だった。旅の途中で何度も聞いた、名前のない子守歌。リーゼが最もよく弾く曲。
でも——今日は違って聞こえた。
この城で、この部屋で、焼けた椅子の前で弾くその曲は、名前のない曲ではなかった。
ヴェルハイデの民謡だ。
母親から教わった曲。この国で歌い継がれてきた曲。
リーゼの唇が動いた。今日初めて、歌詞を口にした。小さな声で。
あたしには聞き取れるか聞き取れないかの声量だった。でも聞こえた。風が運んできた。
帰る場所はもうないけれど。
あの丘の風を忘れない。
名前を変えても消えないものがある。
あなたがくれた歌がある。
リーゼの声が震えた。弦を弾く指が止まりかけて、でも止まらなかった。
『泣いてもいいけれど、手は止めないで。音は涙よりも遠くに届くから』
母親の言葉を守っているのだ。泣きながら、手は止めない。
僕はただ聴いていた。
何も言わず、何もせず。
彼女の歌が、廃墟の空に吸い込まれていった。崩れた天井の向こうの灰色の空に。
もう残っていない国に。もう帰れない場所に。
でも、歌は届く。音は涙よりも遠くに届く。
曲が終わった。
リーゼが竪琴を下ろした。
長い沈黙。
「……あたしね」
リーゼが呟いた。
「ずっと逃げてたの。五年間。名前を変えて、過去を隠して、笑って生きてきた。笑ってないと壊れるから。ここに来るのも怖かった。来たら壊れるって思ってた」
「壊れた?」
「うん。壊れた。でも——」
リーゼは僕の手を見た。さっきからずっと、僕たちの手は繋がったままだった。いつ繋いだのか覚えていない。
「壊れても、握ってくれる手があった」
僕は何も言えなかった。
言えなかったけれど、手を握る力を少しだけ強くした。
リーゼが、微かに握り返した。
大広間に戻ると、ミラが駆け寄ってきた。
「リーゼおねえちゃん、目が赤い!」
「埃が入ったの。ほら、ここ埃っぽいでしょ」
「また同じ言い訳……」
ミラが呆れた顔をしている。十歳の少女に見透かされる嘘をつくリーゼは、やはりリーゼだった。
ノクスが壁にもたれて僕を見ていた。何も訊かなかった。あの目で全てを察しているのだろう。
「帰ろう」
リーゼが言った。
「帰る? どこに?」
ミラの問いに、リーゼは少し考えてから答えた。
「隠れ家。今はあそこが家だから」
ミラが嬉しそうに笑った。家という言葉に。
城門を出る時、リーゼは一度だけ振り返った。
崩れた城を。焼けた街を。灰と瓦礫に覆われた、かつての王都を。
僕も振り返った。
ここがリーゼの——エリザヴェータの故郷だった。ここで生まれ、ここで育ち、ここで全てを失った。
教会が奪った。僕がいた組織が。
その事実は消えない。鎖のように、僕たちに纏わりついている。
でも——鎖には、もう一つの意味がある。
繋がっている、ということだ。
互いの秘密を知った。互いの本当の名前を知った。嘘の旅が、今日、少しだけ本当になった。
僕たちはまだ偽名で呼び合っている。まだ嘘をついている。教会に追われているし、鎖の呪いも解けていない。師匠の顔も思い出せないし、リーゼの国は灰のままだ。
何も解決していない。
でも——隣を歩いている。
それだけが、今の僕にある確かなことだった。
帰り道、リーゼがぽつりと言った。
「ねえ、シエル」
「なに」
「シチュー、今度はあたしが味見するから」
「……それは助かる」
「ひどい。もうちょっと期待してよ」
「期待した結果があの塩加減だった」
「それ根に持ってるでしょ」
僕たちは、いつもの会話をした。偽名で呼び合って、くだらないことで言い合って。
でも前とは何かが違っていた。
何が違うのかは、うまく言葉にできない。
ただ——彼女の隣を歩く足が、少しだけ軽かった。
〔二百九日目。追記。リーゼの本当の名前を知った。彼女は僕の名前を知っていた。互いの正体を知った上で、僕たちはまだ一緒にいる。鎖のせいだけじゃない。そう、信じたい。
リーゼの過去にも教会が関わっていた。滅亡の夜、教会の法衣を着た少年が彼女を救ったという。右目に包帯を巻き、目を光らせて兵士を無力化し、その代償で崩れ落ちた少年。正体は不明。
――彼女は笑っていた。泣いた後に。本当の名前を言った後に。今まで見た中で一番きれいな笑顔だった。
この顔を忘れたくない。
この顔だけは、絶対に忘れたくない〕
── リーゼ side ──
言ってしまった。
本当の名前。本当の過去。五年間、誰にも明かさなかったものを。
崩れた天井の向こうに灰色の空が広がっている。あたしの家だった城。あたしの国だった廃墟。その中で、あたしはシエルの隣に座って、手を繋いでいる。
この人に、全部話してしまった。
名前を言った瞬間、シエルの顔が凍りついたのを覚えている。心臓が止まったような顔。そしてすぐに——罪悪感に塗り潰されていく表情。
やっぱり、そうなるよね。
わかってた。わかってたけど、もう黙ってられなかった。ノクスに言われたこともある。でもそれだけじゃない。この城に来て、おかあさんの椅子を見て、全部が溢れてしまった。嘘の器がいっぱいになって、こぼれた。
シエルは「僕はヴェルハイデの聖戦に参加していない」と言った。「でもそれは言い訳にならない」と。
馬鹿だなあ、この人は。
言い訳にならないなんて、あたしは思ってない。参加していなかったなら、それはそれで事実だ。あの夜城を焼いたのはシエルじゃない。教会という組織にいたことと、あたしの家族を殺したこととは、同じじゃない。
……でも。
あの夜の少年の話をしている時、あたしはちらりとシエルの眼帯を見てしまった。
右目を覆う、黒い眼帯。
五年前の夜。燃える城下町。教会の法衣を着た少年。右目に包帯。目の光。代償で崩れ落ちた姿。薬草の匂い。
……似てる。
最初に会った時から、ずっと思っていた。嵐の夜にシエルが手当てをしてくれた時、眼帯と薬草の匂いに心臓が跳ねた。あの時は「まさかね」と自分に言い聞かせた。偶然だと。右目に何かを抱えた人間なんて、この大陸にいくらでもいる。薬師なら薬草の匂いがして当たり前だ。
でも、旅を続けるうちに「偶然」の数が増えていった。
シエルが呪眼を使った時の、あの光。五年前の少年の目が放った光と、同じ色だった。赤い、不思議な光。
シエルが呪眼を使った後に苦しむ姿。右目を押さえて崩れる姿。あの夜の少年と、同じだった。
この人が、あの夜の人なんじゃないか。
そう思ったことが、何度もある。
でも確かめられなかった。確かめて違ったら——期待した自分が惨めだから。確かめてそうだったら——この人が背負うものがまた一つ増えるから。
シエルは覚えていないのだ。呪眼の代償で記憶を失っている。五年前のことなんて、とっくに消えているだろう。あたしを助けたことも。あの夜、城下町にいたことも。
もし本当にこの人があの少年だとしたら。
あの人は、あたしを助けるために呪眼を使って、その代償であの夜の記憶を失った。あたしを救った記憶を、自分から差し出した。
——そんなの、ずるい。
泣きそうになって、慌てて視線を逸らした。今はそれよりも、もっと大きなことがある。あたしの名前を知ったシエルが、どうするか。離れようとするんじゃないか。「僕がいるべきじゃない」って、あの顔で言い出すんじゃないか。
でも、シエルは離れなかった。
手を握ってくれた。冷たい手で。震える手で。何も言わずに、あたしの隣にいてくれた。
ああ、よかった。
よかった——と思う自分が、少し怖い。
だってあたし、まだ全部は話していない。
聖女のこと。あたしの力のこと。シエルの呪いが楽になるのは、あたしの浄化のせいだということ。あたしがいなくなったら、シエルの呪いは加速する。あたしがいるからシエルは壊れずに済んでいる。
それを言ったら、シエルは——「利用していたのか」と思うだろうか。あたしが傍にいたのは、自分の呪いを抑えるためだったのかと。
違う。違うけど——違うと証明できる言葉を、あたしは持っていない。
全部話せたら、どんなに楽だろう。
でも今日は、名前だけで精一杯だった。
……帰り道、シエルとくだらない話をした。シチューの塩加減がどうとか。いつもと同じ。何も変わらないみたいに。
でも変わった。
手を繋いだまま歩いていたことに、途中まで気づかなかった。気づいてからも離さなかった。シエルも離さなかった。
——この人が、あの夜の人だったらいいのに。
そう思ってしまう自分を、あたしは止められなかった。
確証はない。たぶん永遠にないかもしれない。シエルの記憶は消えているし、あたしが見たのは暗闇の中の一瞬だけだ。
でも。
もしそうだったら。
あたしは二度、この人に救われたことになる。あの夜と、嵐の夜と。
二度も助けてくれた人の隣で、あたしはまだ嘘をついている。聖女であること。あたしがいるから呪いが鎮まること。それを知っていて黙っていること。
——ごめんね、シエル。
いつか全部話すから。
全部話しても、まだ隣にいてくれるって信じていいなら。
……おかあさん。
あたし、大丈夫だよ。まだ泣いてるけど、手は止めてないから。