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第十一章

使徒の罪


 沈黙が、廃都に落ちた。

 リーゼの言葉が空気の中に漂っている。消えない。消えてくれない。

「あなたが仕えていた教会が滅ぼした国の、姫だよ」

 彼女はまだ笑っていた。涙の跡が乾いた頬で、口元だけが弧を描いている。いつもの笑顔だ。いつもの、明るくて軽やかで、何もかもを覆い隠すための笑顔。

 僕は言葉を失っていた。

 廃墟の居間だった場所に、風だけが吹いている。崩れかけた天井から月明かりが差し込み、砕けた床の石畳を青白く照らしている。かつてこの部屋には誰が住んでいたのだろう。家族がいて、食卓があって、笑い声があったのだろう。

 それを奪ったのが、僕の仕えた組織だ。

「……知って、いたのか」

 声が掠れた。

「僕が教会の人間だったと」

「うん」

 リーゼは頷いた。軽く、簡単に。まるで明日の天気の話をするみたいに。

「セラさんが呼んでたから。ルシアン、って。あの戦いの時」

 あの夜の戦い。セラとの対決。あの混乱の中で、彼女は聞いていた。セラが僕を本名で呼んだのを。

 隠していた全てが、最悪の形で崩れた。

「あの時から?」

「あの時から」

「それなのに――なぜ、一緒にいた?」

 リーゼは竪琴の弦に指を触れた。音は出さなかった。ただ指先が弦の上を滑るだけだ。

「だって、シエルはシエルだから」

「答えになっていない」

「なってるよ」

 彼女は顔を上げた。翡翠の瞳がまっすぐに僕を見ている。

「あたしが一緒に旅をしてきたのはシエルだよ。薬を作って、文句を言って、手帳に何でも書いて、あたしの選ぶ店に文句言いながら結局ついてきて――」

「それは偽名だ。全部嘘だ」

「名前が嘘だっただけでしょ」

 僕は口を閉じた。

 違う。名前だけじゃない。経歴も、身分も、この旅の全部が嘘の上に成り立っている。彼女も、僕も。

「リーゼ」

「……それもあたしの偽名だけどね」

 彼女は小さく笑った。でもその笑顔は、さっきまでの張りつめた笑みとは違った。力が抜けている。疲れ切った人間の、諦めに似た穏やかさ。

「僕の本名は、ルシアン・ヴァルトローだ」

偽りの名前

 言った。

 口にしたのは二年ぶりだ。セラに呼ばれたのを除けば、自分から名乗ったのはもう何年ぶりかわからない。いや、わからないのは記憶が消えているからだ。

 リーゼは黙って聞いていた。

「元第七使徒。『終末の使徒』」

 風が吹いた。廃墟の壁を撫でるように通り抜けて、リーゼの蜂蜜色の髪を揺らした。

「聖遺物『終末の瞳』の所持者。教会史上最年少で使徒に選ばれた――」

「知ってるよ」

 リーゼが遮った。

「全部じゃないけど、だいたいは。セラさんの口ぶりで察しがついた。七使徒の名前くらい、あたしも知ってる」

 当然だ。七使徒は大陸中に名が知れている。特に「終末の使徒」ルシアン・ヴァルトローは、マルヒェン村の虐殺犯として手配され、同時に死亡と公表された異端の使徒だ。

 彼女の国を滅ぼした教会の、最高戦力の一角だった男。

 それが僕だ。

「……怒らないのか」

「怒る?」

「君の国を滅ぼしたのは教会だ。僕はその教会の使徒だった。剣だった。直接ヴェルハイデの戦いに関わっていなくても、あの組織の一員だったことに変わりはない」

 リーゼは首を傾げた。

「シエル――ルシアン? ルシアンって呼んだ方がいい?」

「……好きに呼べ」

「じゃあシエルで。慣れてるから」

 彼女は竪琴を膝の上に置き直した。

「あたしはね、シエル。あなたがあたしの国を滅ぼした人だとは思ってない」

「僕は教会の人間だった。それは事実だ」

「教会の人間だった。過去形でしょ」

「過去形だからといって罪が消えるわけじゃない」

 リーゼは少しだけ黙った。

 それから、静かに言った。

「セラさんとの戦いの時、あたしは見てたよ。あなたの目が光って、あたしを守ろうとしてくれた時の顔」

「……」

「あの顔をする人が、あたしの国を滅ぼした人だとは思えない。あたしには、わかる」

 わかる。

 彼女はそう言った。確信に満ちた声で。

 僕は何も言い返せなかった。言い返す言葉がなかったのではない。言い返したい言葉が多すぎて、何一つ形にならなかった。

 君にわかるはずがない。僕が使徒だった頃に何をしていたか、君は知らない。教会の命令で異端者を追い、野良紋章士を捕らえ、時には力で制圧した。直接手を下していなくても、教会の暴力装置として機能していた。

 ヴェルハイデが滅ぼされた時、僕は何をしていた?

 ――思い出せない。

 記憶が消えている。五年前の記憶は断片的で、手帳にも詳しいことは書かれていない。使徒時代の記録は、教会を追われた時にほとんど処分した。手帳には「別の地域の任務にいた」と書いてある。だが、記憶のない期間に自分が何をしていたか——手帳に書かれていないことが、本当になかったとは限らない。

 でも、一つだけ確かなことがある。

 僕は教会に疑問を持たなかった。少なくとも長い間は。使徒に選ばれたことを誇りに思い、与えられた任務をこなし、教会の正義を信じていた。

 ヴェルハイデが滅ぼされた時も、僕は教会の側にいた。

 それが――この子の家族を殺し、故郷を灰にした組織の、一員だったということだ。

「シエル」

 リーゼの声が、僕の思考を引き戻した。

「難しい顔してる」

「……難しいことを考えてる」

「やめなよ。今は」

「やめられない」

 リーゼは立ち上がった。外套の埃を払い、崩れかけた窓枠に手をかけて外を見た。

 廃都の夜だ。月明かりに照らされた瓦礫の街並み。かつては人々が行き交っていたであろう石畳の大通りに、今は草だけが生えている。

「ここがあたしの国だった」

 リーゼの声は静かだった。

「五年前までは、ここに人がいた。市場があって、教会があって、お城の塔にはいつも旗が翻ってた。あたしはあの塔の窓から、街を眺めるのが好きだった」

「……」

「全部、なくなった。教会が来て、一晩で」

 彼女の声に怒りはなかった。悲しみだけがあった。怒りを通り越した、乾いた悲しみ。

「あたしは逃げた。お父様もお母様も、お姉様も、みんな残って――あたしだけ、レイヴンに連れられて裏門から」

 リーゼが振り返った。

「でもね、シエル。あたしが憎いのは教会であって、教会にいた全員じゃないよ」

「それは――」

「セラさんだって教会の人でしょ。でもあの人は、あなたのことを心配してた。『友人』だって顔をしてた。教会にもいろんな人がいる。全員があたしの敵じゃない」

 正しい。理屈としては正しい。

 でも感情は理屈通りには動かない。彼女だってそれはわかっているはずだ。

「……わかった」

「わかったって、何がわかったの」

「君が怒っていないということは。少なくとも、今は」

 リーゼは唇を尖らせた。

「怒ってないよ。あたし、嘘つかない。嘘つくの下手だし」

「君の嘘は確かに下手だ」

「ひどっ」

 彼女はぷっと頬を膨らませた。その仕草がいつもと同じすぎて、僕は少しだけ安堵した。

 少しだけ。


 火を起こした。

 廃墟の中で焚ける材料はいくらでもあった。崩れた梁の破片を集め、着火紋章で火を点ける。橙色の炎が立ち上り、廃墟の壁に揺れる影を作った。

 リーゼは火の傍で竪琴を抱えて座っている。弦を弾く気配はない。

「お腹すいた」

「干し肉がまだ残ってる」

「硬いやつ?」

「硬いやつ」

「……食べる」

 僕は革鞄から干し肉の包みを出して渡した。リーゼは一切れ受け取り、ゆっくりと噛み始めた。

 僕も一切れ口に入れた。塩気が強くて硬い。でも空腹には変わりない。

「ねえ、シエル」

「うん」

「あなたはどうして教会を離れたの」

 干し肉を噛む手が止まった。

「……手帳に書いてある。でも、全部は覚えていない」

「覚えてることだけでいいよ」

 僕は手帳を取り出した。使徒時代の記録が残っている数少ないページを開く。

 〔マルヒェン村。呪いの瘴気が村を覆っていた。村人が倒れ、子供が泣いていた。僕は呪眼を使って瘴気の紋章を解体しようとした。でも瘴気は人工的に作られたもので、解体すると暴走する仕掛けが施されていた。呪眼が暴走し――以降の記憶なし〕

 そこまでは覚えている。手帳に書いてあるから。

 でもその先がない。

「マルヒェン村で、何かがあった。呪いの瘴気を解こうとして、呪眼が暴走して。目を覚ました時には村は壊滅していて、僕は虐殺犯として手配されていた」

「……」

「教会に嵌められたんだと思う。あの瘴気は教会が仕掛けたもので、僕の呪眼を暴走させるための罠だった。たぶん」

「たぶん?」

「記憶がない。だから確信が持てない」

 リーゼは干し肉を噛みながら、じっと僕の顔を見ていた。

「でも、あなたは村を救おうとしたんでしょ」

「手帳にはそう書いてある」

「自分の言葉は信じないの?」

「手帳を書いた自分と、今の自分が同じ人間だとは限らない。記憶が消えるたびに、僕は少しずつ別の人間になっていく」

 リーゼの表情が微かに歪んだ。痛みを堪えるように。

「シエルはシエルだよ。記憶があってもなくても」

「それは君の願望だ」

「願望でもいい。あたしはそう思ってる」

 僕は手帳を閉じた。

 これ以上この話を続けても、答えは出ない。僕が罪人なのか被害者なのか。その問いに対する確かな答えは、消えた記憶の中にしかない。

「……寝よう。明日のことは明日考える」

「うん」

 リーゼは頷いた。竪琴を壁に立てかけ、外套を毛布代わりにして床に横になった。

 僕は火の番をするために起きていた。廃都に獣が出ないとも限らない。

 火が爆ぜる音だけが、しばらく続いた。


 リーゼの寝息が聞こえ始めて、どれくらい経っただろう。

 僕は手帳を読み返していた。火明かりの下で、自分の筆跡を追う。

 古いページから順に。

 〔百十三日目。嵐の夜、街道で行き倒れの女性を拾った。吟遊詩人。名前はリーゼ〕

 ここから始まった。

 ページをめくるたびに、リーゼに関する記述が増えていく。最初は簡潔な事実の記録だったものが、次第に感情を含んだ文章に変わっていく。

 〔リーゼが朝食を作った。卵焼きが焦げていたが、食べられないほどではなかった。次は僕が作ると言ったら怒った〕

 〔リーゼの歌を聞いていると、呪いの痛みが和らぐ。理由は依然として不明。だが、彼女の傍にいたいと思う理由が、それだけではないことに気づき始めている〕

 〔リーゼが転んで膝を擦りむいた。大したことはないのに大騒ぎする。薬を塗ってやったら笑顔に戻った。その笑顔を見ると、胸の奥が少しだけ温かくなる。記録すべきことではないかもしれないが、書いておく。忘れたくないから〕

 読んでいると、過去の自分がまるで他人のように感じられた。

 この言葉を書いた自分は、まだ何かを信じていた。リーゼとの旅に意味があると。傍にいることが許されると。

 でも今は違う。

 彼女はヴェルハイデの王女だ。教会が滅ぼした国の姫だ。そして僕は、その教会の剣だった男だ。

 「あたしの国を滅ぼした人じゃない」と彼女は言った。

 本当に?

 本当にそうだと、心の底から思えているのか?

 笑顔の下に何を隠しているのか、僕には見えない。

 僕の呪眼は紋章の構造を解析できる。魔素の流れを読める。世界の仕組みを暴ける。

 でも、人の心は見えない。


 夜が更けた。

 火が小さくなっていた。薪を足そうと立ち上がった時、かすかな音が聞こえた。

 リーゼの方向からだ。

 息を殺して耳を澄ませた。

 泣いている。

 声を押し殺して、泣いている。

 僕はその場で固まった。

 リーゼは僕に背を向けて横になっていた。外套に包まれた肩が小さく震えている。

 聞こえないように、見えないように、必死に堪えている。

 でも聞こえた。

 押し殺した嗚咽。時折漏れる、鼻をすする音。そして――

「……お父様」

 小さな声。王女の口調だった。普段のリーゼではない、エリザヴェータの声。

「お母様……ごめんなさい……あたし、あたしは……」

 彼女は泣いていた。

 「わかる」と言いながら。「怒ってない」と言いながら。割り切れていなかった。当然だ。割り切れるはずがない。

 家族を殺した組織の一員だった男が、隣で寝ている。その男の傍にいると自分の呪いが癒される。離れれば呪いが加速する。だから離れられない。

 でも離れたい夜もあるだろう。一人で泣きたい夜も。

 僕はその場に座り直した。

 薪を足す手が止まったまま、動けなかった。

 声をかけるべきか。

 いや。彼女は僕に聞かれたくないから声を殺しているのだ。ここで声をかければ、彼女のわずかな自尊心さえ奪うことになる。

 だから僕は聞いていないふりをした。

 火に薪を足して、手帳を開いて、何も書けないまま白いページを見つめた。

 彼女の嗚咽が、骨に染みるほど痛かった。


 リーゼが泣き止んだのは、夜が最も暗くなる時刻だった。

 やがて寝息が安定する。眠ったのだ。泣き疲れて。

 僕は手帳を閉じた。

 白いページには結局何も書けなかった。

 彼女は僕に嘘をついた。「怒ってない」「わかる」と。

 そして僕は、その嘘を受け入れた。互いの嘘を暴かない。それが僕たちの旅の暗黙のルールだった。

 でもこの嘘は、これまでの嘘とは重みが違う。

 僕が傍にいること自体が、彼女を傷つけている。

 呪いの共鳴のせいで物理的に離れられない。離れれば互いに呪いが加速する。でも傍にいることが彼女の古い傷を抉り続けるなら、それは別の呪いだ。

 僕が教会の人間だったという事実。それ自体が、鎖よりも重い枷になっている。

 手帳のマルヒェン村の記録を読み返した。

 〔僕は呪眼を使って瘴気の紋章を解体しようとした〕

 村を救おうとしていた、と自分は書いている。

 でもそれは本当か? 使徒としての任務で村に行き、教会の命令で瘴気を調査していたのではないか? 「村を救おうとした」というのは、追われる身になった後で書き換えた記憶ではないのか?

 わからない。

 記憶が消えた部分は、手帳に書かれた言葉でしか補えない。そして手帳に書かれた言葉は、その時の自分が正直だったかどうかに依存する。

 嘘つきの手帳は、嘘を記録しているかもしれない。

 僕は嘘つきだ。名前も経歴も全部偽っている。そんな人間の書いた記録が、どれほど信じられる?

 ――空白。

 何を考えていた?

 ああ。手帳のことだ。

 ……いや、それだけじゃない。何か、もう一つ考えていたはずだ。大事なことを。

 思い出せない。

 右目が疼いた。呪いの進行だ。鎖の契約のせいで、リーゼの傍にいても浄化が追いつかなくなっている。

 指先が冷たい。

 手帳を閉じようとして、古いページの端に書かれた一行が目に留まった。

 〔誰かと約束をした。何を約束したのか思い出せない。でも大切な約束だったことだけは覚えている〕

 約束。

 誰との約束だ。師匠か。それとも別の誰かか。

 何を約束したのか。

 思い出せない。ここも空白だ。消えた記憶の霧の向こうに、大切だったはずの言葉が沈んでいる。


 夜明けが近づいていた。

 空の端がわずかに白み始めている。廃都の輪郭が、闇の中から少しずつ浮かび上がる。

 その時、足音が聞こえた。

 一人分。重い。革靴と金属の擦れる音。武装した人間の足取り。

 僕は腰を上げ、鞄の中から護身用のナイフを取り出した。

 足音が近づいてくる。廃墟の入り口の方向だ。

 影が現れた。

 大柄な男だった。赤毛。顔に古い傷跡。背中に大剣を背負っている。旅の汚れがこびりついた傭兵風の外套。

 僕とナイフ。男と大剣。どちらが有利かは言うまでもない。

 男は僕を見た。暗い目だった。警戒と、敵意と、もう一つ、奇妙な感情が混じっている。

「……お前が、あの薬師か」

 低い声だった。粗野だが、どこかに規律のある声。軍人の話し方だ。

「誰だ」

「レイヴンだ。それ以上は聞くな」

 レイヴン。聞いたことのない名前だ。手帳にも記録がない。

「用件は」

 レイヴンは僕を無視して、奥のリーゼの方を見た。その目が変わった。敵意が消え、代わりに痛みのようなものが浮かんだ。

「……生きておられたか」

 敬語ではないが、その口調には敬意があった。

「彼女を知っているのか」

「俺はヴェルハイデの元近衛騎士だ」

 空気が変わった。

 ヴェルハイデの近衛騎士。つまり、この男は——リーゼの、いやエリザヴェータの家臣だ。滅亡した王国の騎士。

「五年間、探していた」

 レイヴンの声に、僅かな震えがあった。

「第二王女エリザヴェータ殿下が生きているという噂を追って、大陸中を歩いた。そして――ここで見つけた」

 彼の目が僕に戻った。

 敵意が、再び燃え上がった。

「お前は何者だ。姫のそばに何の用がある」

「旅の薬師だ」

「嘘をつくな」

 レイヴンの右手が大剣の柄にかかった。

「お前の右目。眼帯で隠しているが、俺にはわかる。お前からは教会の匂いがする」

 教会の匂い。元騎士の勘だろうか。それとも具体的な根拠があるのか。

「元使徒だろう。ルシアン・ヴァルトロー」

 名前を知っている。

 もう隠す意味はないのかもしれない。

「……そうだ」

「やはりな」

 レイヴンの目が据わった。大剣の柄を握り締める手に力が入る。

「姫の傍で何をしている。教会の犬が、よりによってヴェルハイデの姫に——」

「元、だ。教会とはもう関係ない」

「関係ないだと? お前たちが俺の国を——」

「やめてよ」

 声がした。

 振り返ると、リーゼが起き上がっていた。外套をまとい、寝乱れた髪を手で押さえながら、こちらを見ている。

 彼女の翡翠の瞳が、一瞬だけ僕の右目——眼帯の上に留まった。奇妙な目だった。怒りでも悲しみでもない。何かを確かめようとする目。何かの答えに辿り着きかけている目。

 だがそれは本当に一瞬のことで、すぐにいつものリーゼに戻った。

「リーゼ」

「姫……」

 レイヴンの表情が一変した。大剣から手を離し、その場に片膝をついた。

「第二王女エリザヴェータ殿下。お目にかかれて光栄です。近衛第三騎士団、レイヴン・グラハートです」

「覚えてるよ、レイヴン。立って。そういうの、もういいから」

 リーゼは目を擦りながら歩いてきた。泣いた跡があるのが月明かりでもわかった。でもレイヴンは気づいていないか、気づかないふりをしているか。

「レイヴン。シエルはあたしの旅の仲間だよ。元使徒だけど、今は違う。教会に追われてる側」

 元使徒——リーゼがその言葉を口にした時、声がわずかに揺れた。揺れたのは怒りではなかった。もっと複雑な何か。昨夜、彼女が語った「あの夜の少年」の話が、僕の頭の隅をよぎった。

「しかし——」

「あたしが言ってるの。信じて」

 レイヴンは顔を上げた。リーゼを見て、それから僕を見た。

 僕に向ける目は、信頼とは程遠かった。警戒。不信。そして、もし姫を傷つけたら容赦しないという無言の宣告。

「……わかりました」

 立ち上がったレイヴンは、僕より頭半分高かった。

「だが俺は、お前を信用したわけじゃない。薬師」

「構わない」

「姫が信じると言うなら、俺は従う。だが——」

 彼は一歩近づいた。低い声で、リーゼに聞こえないように囁いた。

「姫が泣いていたのは、お前のせいか」

 心臓を掴まれたような感覚だった。

 気づいていた。彼女が泣いていたことに。あるいは、目の腫れから察したのか。

「……僕のせいだ」

 否定しなかった。否定できなかった。

 レイヴンの目が細まった。

「覚えておけ。次はない」

 それだけ言って、彼はリーゼの方に向き直った。騎士として仕えるべき主君に報告するように、これまでの五年間の経緯を簡潔に語り始めた。

 僕はその場を離れ、廃墟の端に腰を下ろした。


 東の空が白んでいく。

 レイヴンとリーゼの会話は聞き取れない距離にいた。時折リーゼの笑い声が聞こえる。本物の笑い声だ。故郷の臣下と再会した安堵が、声に滲んでいる。

 僕はそれを聞きながら、手帳を開いた。

 新しいページ。

 ペンを取る。

 〔リーゼの正体はエリザヴェータ・フォン・ヴェルハイデ。ヴェルハイデ王国第二王女。僕が仕えていた教会が滅ぼした国の姫。彼女は僕が元使徒だと知っていた。セラが呼んだ「ルシアン」を聞いていた。それでも傍にいてくれた〕

 書いて、止まった。

 その先に書くべきことがある。書かなければならないことが。

 〔彼女は「怒っていない」「わかる」と言った。でも夜、一人で泣いていた。父と母に謝っていた。僕の存在が、彼女を傷つけている〕

 ペン先が震えた。

 次の一行は、自分でも驚くほどすんなりと出てきた。

 〔彼女のためには、僕がいない方がいいのではないか〕

 書いてしまった。

 消す気にはなれなかった。

 鎖の契約がある。離れれば呪いが加速する。互いに。でもリーゼの傍にはレイヴンがいる。元近衛騎士だ。彼女を守れる。聖女の力の制御はリーゼ自身の問題だが、少なくとも身の安全は確保できる。

 僕がいなくなれば、彼女は教会の元使徒と旅をしているという矛盾から解放される。ヴェルハイデの姫として、自分の道を歩ける。

 呪いの加速? それは僕の問題だ。彼女に背負わせる理由はない。

 ——でも、鎖は両方にかかっている。僕が離れればリーゼにも影響がある。

 それはわかっている。わかった上で、考えている。

 リーゼの聖女の力は強い。彼女自身への呪いの加速は、その浄化力で多少は抑えられるかもしれない。一方で僕には浄化の手段がない。離れれば一方的に壊れるのは僕の方だ。

 それでいい。

 それでいいのではないか。

「シエル」

 リーゼの声で我に返った。手帳を閉じる。

「レイヴンが狩りをしてくれるって。朝ごはん、ちょっと待ってて」

「……ああ」

「顔色悪いよ。ちゃんと寝た?」

「少し」

「嘘。寝てないでしょ」

 彼女はため息をついて、僕の傍にしゃがみ込んだ。

「シエル、考えすぎ。あたしが言ったこと、もう一回言おうか? あなたはあたしの国を——」

「滅ぼした人じゃない。覚えてる」

「じゃあ、そう思ってて」

「思う努力はする」

「努力しないでいいの。ただそう思って」

 リーゼが笑う。朝の光の中で、蜂蜜色の髪が淡く輝いている。

 綺麗だ、と思った。

 その思いが、刃のように胸を刺した。

 この顔を見る資格が、僕にあるのだろうか。


 レイヴンが兎を仕留めてきた。僕が火で炙り、三人で分けて食べた。

 食事の間、レイヴンは僕をほとんど見なかった。リーゼとだけ話した。五年間の空白を埋めるように、ヴェルハイデの生き残りの消息を語った。数は少ないが、大陸各地に散っているらしい。

 リーゼは一人一人の名前を聞いて、時に笑い、時に沈んだ。知っている名前が出るたびに表情が変わる。生きている者の名には安堵を、そうでない者の名には沈黙を。

 僕はその会話に加わらなかった。加われなかった。

 食後、リーゼが水を汲みに行った。レイヴンと二人きりになった。

「ルシアン・ヴァルトロー」

 レイヴンは火を見つめたまま言った。

「ヴェルハイデが滅ぼされた時、お前はどこにいた」

「覚えていない。記憶が消えている」

「便利な言い訳だな」

「言い訳ではない。呪眼の代償だ。使うたびに記憶が消える」

 レイヴンは鼻を鳴らした。信じていない。

「姫は優しすぎる。昔からそうだった。敵にまで手を差し伸べる。それが王族としての美徳だと教えられて育った」

「……」

「だからお前のような男にも笑顔を見せる。でも俺は違う。俺は騎士だ。姫を守るのが務めだ」

「知っている」

「なら聞け。お前は姫の傍にいるべきじゃない。教会の匂いがする男が姫の近くにいれば、いずれ教会を引き寄せる」

 正論だった。

 反論できない。反論する気もなかった。

「レイヴン」

「なんだ」

「彼女を、頼めるか」

 レイヴンが初めて僕の目を見た。

「……何を言っている」

「僕がいなくなっても、彼女を守れる人間がいるなら。それでいい」

 レイヴンは何かを言いかけて、やめた。

 代わりに、長い沈黙が落ちた。

「……お前、逃げる気か」

「逃げるのではない」

「同じだ。姫を置いて去ることに変わりはない」

「彼女のためだ」

「そう思い込んでいるだけだ」

 レイヴンの声に、怒りとは違う何かがあった。軽蔑でもない。もっと複雑な感情。

「お前のような男は知っている。自分を犠牲にすることで罪から逃れようとする人間だ。それは贖罪じゃない。ただの自己満足だ」

 刺さった。

 正確に。

「……かもしれない」

「姫が泣いたのはお前のせいだと言ったな。なら泣かせない方法を考えろ。去ることが答えだと思うなら、お前は姫を何も理解していない」

 リーゼの足音が聞こえた。水桶を運んでくる音。

 レイヴンは何事もなかったかのように立ち上がり、リーゼから桶を受け取った。

「重いだろう。こういうのは俺に言え」

「あはは、久しぶりだねレイヴンのそれ。昔もよくそうやって侍女の仕事取ってたでしょ」

「うるさい。騎士の仕事だ」

 二人のやり取りを見ながら、僕は考えていた。

 ふとリーゼがこちらを振り返った。レイヴンと笑い合っていた顔のまま——だが目だけが違った。あの翡翠の瞳が、僕の眼帯をじっと見ていた。何かを訊きたくて、でも訊けないでいるような。

 目が合うと、リーゼは何事もなかったようにレイヴンの方に向き直った。

 何だったのだろう。

 レイヴンの言葉が頭から離れない。

 「去ることが答えだと思うなら、お前は姫を何も理解していない」

 理解。

 僕はリーゼを理解しているだろうか。

 彼女が何を望んでいるか。何を恐れているか。何を失いたくないか。

 「あなたはあたしの国を滅ぼした人じゃない」と彼女は言った。「あたしには、わかる」と。

 夜、泣いていたのに。

 それは嘘なのか。それとも、嘘と真実が混ざった、もっと複雑なものなのか。

 僕にはわからなかった。

 わからないまま、一日が過ぎていった。


 夜が来た。

 二度目の夜。廃都の闇はどこまでも深い。

 レイヴンが見張りを買って出た。「お前たちは休め」と。僕に向ける目はまだ硬かったが、リーゼの前では表立った敵意を見せなかった。

 リーゼは竪琴を抱えて横になった。今夜は曲を弾かなかった。

「おやすみ、シエル」

「おやすみ」

 簡素なやりとり。いつもと同じだ。いつもと同じようにリーゼは目を閉じ、いつもと同じように僕は手帳を開く。

 でもいつもとは違う。

 何もかもが変わってしまった。

 僕は手帳の最後のページを開いた。

 白紙だ。

 ペンを取った。

 しばらく何も書けなかった。ペン先が紙に触れたまま、インクの点だけが落ちた。

 リーゼの寝息が聞こえ始めた。

 今夜は泣いていない。疲れが勝ったのか。それとも、レイヴンがいることで安心したのか。

 レイヴンがいれば大丈夫だ。彼は騎士だ。主君を守る力がある。

 僕には何がある?

 記憶が消えていく呪い。使えば壊れる目。教会に追われる身。そして――彼女の国を滅ぼした組織にいたという、消えない過去。

 手帳に、一行だけ書いた。

「リーゼを頼む」

 ペンを置いた。

 手帳を閉じ、リーゼの枕元に置いた。

 外套を羽織り、革鞄を肩にかけた。

 最後に、彼女の寝顔を見た。

 蜂蜜色の髪が頬にかかっている。月明かりに照らされた横顔は穏やかで、起きている時の忙しなさが嘘のように静かだった。

 この顔を忘れたくないと、いつか手帳に書いた。

 もうすぐ忘れるかもしれない。離れれば呪いが加速する。彼女の名前も、顔も、声も、全部消えていくだろう。

 それでもいい。

 忘れることが、僕にできる最後の贖罪だ。

 僕は音を立てないように立ち上がった。廃墟の入り口に向かう。

 レイヴンが外で見張りをしている。彼の目を避けるのは難しい。でも廃墟には壁の崩れた箇所がいくつもある。反対側から出れば――

 足が止まった。

 振り返りたかった。もう一度だけ彼女の顔を見たかった。

 振り返らなかった。

 振り返ったら、もう行けなくなる。

 夜明け前の廃都に、僕は一人で歩き出した。

 右目が疼いた。鎖の呪いが反応している。離れるな、と。離れれば壊れる、と。

 わかっている。

 わかった上で、歩いている。

 手帳は彼女の枕元に置いてきた。最後のページに、一行だけ残して。

「リーゼを頼む」

 それが僕に書ける、最後の嘘だった。

 彼女を頼むのではない。僕が彼女から逃げるのだ。

 罪から。過去から。彼女の涙から。

 レイヴンが言った通りだ。これは贖罪ではない。自己満足だ。

 わかっている。

 わかっていて、止まれない。

 廃都の石畳を踏む足音だけが、夜明け前の静寂に消えていった。


── リーゼ side ──

 目が覚めたのは、空気が変わったからだった。

 隣にいた温度が消えている。焚き火の残り火がかすかに赤く光っているだけで、シエルの気配がない。

 枕元に、手帳が置いてあった。

 あたしは寝ぼけた頭のまま、それを拾い上げた。シエルの手帳。彼がいつも大事そうに書いている、あの手帳。

 なんで、ここに。

 最後のページが開いてあった。そこに一行だけ。

 『リーゼを頼む』

 心臓が止まった。

 嘘。

 嘘でしょ。

 飛び起きた。外套も竪琴もそのままに、裸足で廃墟の入り口まで走った。レイヴンが見張りをしているはずの外に出ると、彼が立ち上がった。

「姫? どうされた」

「シエルは——シエルはどこ」

「……あの薬師なら、さっき南の壁の崩れたところから出て行った。止めようとしたが、振り返らなかった」

 膝が折れそうになった。

 行った。

 行ってしまった。

 あの馬鹿。あの大馬鹿。やっぱりそうする。やっぱり「僕がいない方がいい」って。言わなかったけど、あの顔を見ればわかるよ。ずっとそう考えてたんでしょ。

 怒りが込み上げてきた。

 怒りと——その裏側にあるもの。恐怖。シエルがいなくなったら、鎖の契約で呪いが加速する。あたしの浄化の力が届かなくなる。シエルの呪眼は制御を失い、記憶が雪崩のように消えていく。

 あたしのことも。忘れる。

 あたしの名前も、顔も、一緒に旅したことも、手を繋いだことも、全部。

 ——それは、いや。

 それだけは、絶対にいや。

 でも。

 ここで立ち止まってしまったのは、別の感情が足を掴んだからだった。

 レイヴンが「元使徒だろう」とシエルを呼んだ時。「ルシアン・ヴァルトロー」と。

 あたしは寝たふりをしながら、全部聞いていた。

 元使徒。第七使徒。ルシアン。

 ……五年前、ヴェルハイデにいた使徒。

 頭の中で何かが繋がりかけていた。ずっと確かめられなかったこと。ずっと「まさかね」と目を逸らしてきたこと。

 あの夜の少年は、教会の法衣を着ていた。右目に包帯を巻いていた。目を光らせて兵士を止めた後、代償で崩れ落ちた。薬草の匂いがした。

 使徒だったなら、あの光は呪眼だ。右目の包帯は、呪眼を隠すためだ。代償で崩れ落ちたのは、記憶を失ったから。

 ——あの少年が、ルシアンだった?

 十六歳の第七使徒が、聖戦の任務でヴェルハイデにいた。「異端の浄化」だと聞かされていた任務。でもあの少年は——あの人は、教会の兵士から、あたしを庇った。

 シエルが「参加していない」と言ったのは、覚えていないからだ。呪眼の代償で記憶が消えている。彼はあの夜のことを何も覚えていない。あたしを助けたことも。代償に記憶を失ったことも。

 もしそうだとしたら。

 シエルは——ルシアンは、五年前にあたしを救って、記憶を失った。

 そして今もまた、あたしのために記憶を失い続けている。

 呪眼を使うたびに。あたしを守るたびに。あの人は自分を削って、あたしを生かしている。

 涙が出た。

 止められなかった。声を押し殺して、廃墟の壁に手をついて、膝を折って泣いた。

 ずるい。ずるいよ、シエル。

 怒りたいのに。教会の人間だったって知って、怒りたいのに。国を滅ぼした組織にいたって、憎みたいのに。

 怒れないじゃん。憎めないじゃん。

 あの夜、あたしの命を救ってくれた人が、今あたしの前からいなくなろうとしている。あたしのために。あたしを傷つけないために。自分が壊れる方を選んで。

 ——ずるい。そんなの、ずるいよ。

「姫。追われますか」

 レイヴンの声が、冷静にあたしに問いかけた。

 あたしは目を拭った。乱暴に。袖で。王女の作法もなにもあったものじゃない。

「追う。当たり前でしょ」

「あの男は教会の——」

「知ってる。知ってて追うの」

 レイヴンが黙った。数秒間。それから、深くため息をついた。

「……姫は昔から、そういうお方でした」

「褒めてないでしょそれ」

「褒めていません」

 あたしは裸足のまま、靴を探しに戻った。竪琴を背負い、外套を羽織った。手帳をしっかりと懐に入れた。

 行かなきゃ。

 追いつかなきゃ。

 あの人が全部忘れる前に。あたしのことを忘れる前に。

 走りながら、あたしの中でもう一つの声が響いた。ずっと押し込めていた、あたし自身の声。リーゼではない。エリザヴェータの声。

 ——……あの時、わたくしを救ってくれた人。

 足が止まりかけた。

 ——もし貴方がそうだとしたら。

 涙が風に散った。

 ——わたくしは、貴方を許さなければなりません。怒ることを、やめなければなりません。

 でも。

 ——いいえ。許すのではない。

 あたしは走った。廃都の石畳を裸足で蹴って。靴を履く時間さえ惜しんで。

 ——貴方はあの夜、わたくしに言ったのでしょう。「大丈夫。君は、逃げていい」と。

 ——だからわたくしは、貴方に言い返しに行くのです。

 夜明け前の空が、わずかに白み始めていた。シエルが歩いて行った方角に。

 エリザヴェータの声が風に溶けて、足を動かしているのはリーゼだった。王女の祈りを胸に抱えたまま、旅芸人の脚で石畳を蹴る。

 あたしは走った。

 逃げていいなんて、言わせない。

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