沈黙が、廃都に落ちた。
リーゼの言葉が空気の中に漂っている。消えない。消えてくれない。
「あなたが仕えていた教会が滅ぼした国の、姫だよ」
彼女はまだ笑っていた。涙の跡が乾いた頬で、口元だけが弧を描いている。いつもの笑顔だ。いつもの、明るくて軽やかで、何もかもを覆い隠すための笑顔。
僕は言葉を失っていた。
廃墟の居間だった場所に、風だけが吹いている。崩れかけた天井から月明かりが差し込み、砕けた床の石畳を青白く照らしている。かつてこの部屋には誰が住んでいたのだろう。家族がいて、食卓があって、笑い声があったのだろう。
それを奪ったのが、僕の仕えた組織だ。
「……知って、いたのか」
声が掠れた。
「僕が教会の人間だったと」
「うん」
リーゼは頷いた。軽く、簡単に。まるで明日の天気の話をするみたいに。
「セラさんが呼んでたから。ルシアン、って。あの戦いの時」
あの夜の戦い。セラとの対決。あの混乱の中で、彼女は聞いていた。セラが僕を本名で呼んだのを。
隠していた全てが、最悪の形で崩れた。
「あの時から?」
「あの時から」
「それなのに――なぜ、一緒にいた?」
リーゼは竪琴の弦に指を触れた。音は出さなかった。ただ指先が弦の上を滑るだけだ。
「だって、シエルはシエルだから」
「答えになっていない」
「なってるよ」
彼女は顔を上げた。翡翠の瞳がまっすぐに僕を見ている。
「あたしが一緒に旅をしてきたのはシエルだよ。薬を作って、文句を言って、手帳に何でも書いて、あたしの選ぶ店に文句言いながら結局ついてきて――」
「それは偽名だ。全部嘘だ」
「名前が嘘だっただけでしょ」
僕は口を閉じた。
違う。名前だけじゃない。経歴も、身分も、この旅の全部が嘘の上に成り立っている。彼女も、僕も。
「リーゼ」
「……それもあたしの偽名だけどね」
彼女は小さく笑った。でもその笑顔は、さっきまでの張りつめた笑みとは違った。力が抜けている。疲れ切った人間の、諦めに似た穏やかさ。
「僕の本名は、ルシアン・ヴァルトローだ」

言った。
口にしたのは二年ぶりだ。セラに呼ばれたのを除けば、自分から名乗ったのはもう何年ぶりかわからない。いや、わからないのは記憶が消えているからだ。
リーゼは黙って聞いていた。
「元第七使徒。『終末の使徒』」
風が吹いた。廃墟の壁を撫でるように通り抜けて、リーゼの蜂蜜色の髪を揺らした。
「聖遺物『終末の瞳』の所持者。教会史上最年少で使徒に選ばれた――」
「知ってるよ」
リーゼが遮った。
「全部じゃないけど、だいたいは。セラさんの口ぶりで察しがついた。七使徒の名前くらい、あたしも知ってる」
当然だ。七使徒は大陸中に名が知れている。特に「終末の使徒」ルシアン・ヴァルトローは、マルヒェン村の虐殺犯として手配され、同時に死亡と公表された異端の使徒だ。
彼女の国を滅ぼした教会の、最高戦力の一角だった男。
それが僕だ。
「……怒らないのか」
「怒る?」
「君の国を滅ぼしたのは教会だ。僕はその教会の使徒だった。剣だった。直接ヴェルハイデの戦いに関わっていなくても、あの組織の一員だったことに変わりはない」
リーゼは首を傾げた。
「シエル――ルシアン? ルシアンって呼んだ方がいい?」
「……好きに呼べ」
「じゃあシエルで。慣れてるから」
彼女は竪琴を膝の上に置き直した。
「あたしはね、シエル。あなたがあたしの国を滅ぼした人だとは思ってない」
「僕は教会の人間だった。それは事実だ」
「教会の人間だった。過去形でしょ」
「過去形だからといって罪が消えるわけじゃない」
リーゼは少しだけ黙った。
それから、静かに言った。
「セラさんとの戦いの時、あたしは見てたよ。あなたの目が光って、あたしを守ろうとしてくれた時の顔」
「……」
「あの顔をする人が、あたしの国を滅ぼした人だとは思えない。あたしには、わかる」
わかる。
彼女はそう言った。確信に満ちた声で。
僕は何も言い返せなかった。言い返す言葉がなかったのではない。言い返したい言葉が多すぎて、何一つ形にならなかった。
君にわかるはずがない。僕が使徒だった頃に何をしていたか、君は知らない。教会の命令で異端者を追い、野良紋章士を捕らえ、時には力で制圧した。直接手を下していなくても、教会の暴力装置として機能していた。
ヴェルハイデが滅ぼされた時、僕は何をしていた?
――思い出せない。
記憶が消えている。五年前の記憶は断片的で、手帳にも詳しいことは書かれていない。使徒時代の記録は、教会を追われた時にほとんど処分した。手帳には「別の地域の任務にいた」と書いてある。だが、記憶のない期間に自分が何をしていたか——手帳に書かれていないことが、本当になかったとは限らない。
でも、一つだけ確かなことがある。
僕は教会に疑問を持たなかった。少なくとも長い間は。使徒に選ばれたことを誇りに思い、与えられた任務をこなし、教会の正義を信じていた。
ヴェルハイデが滅ぼされた時も、僕は教会の側にいた。
それが――この子の家族を殺し、故郷を灰にした組織の、一員だったということだ。
「シエル」
リーゼの声が、僕の思考を引き戻した。
「難しい顔してる」
「……難しいことを考えてる」
「やめなよ。今は」
「やめられない」
リーゼは立ち上がった。外套の埃を払い、崩れかけた窓枠に手をかけて外を見た。
廃都の夜だ。月明かりに照らされた瓦礫の街並み。かつては人々が行き交っていたであろう石畳の大通りに、今は草だけが生えている。
「ここがあたしの国だった」
リーゼの声は静かだった。
「五年前までは、ここに人がいた。市場があって、教会があって、お城の塔にはいつも旗が翻ってた。あたしはあの塔の窓から、街を眺めるのが好きだった」
「……」
「全部、なくなった。教会が来て、一晩で」
彼女の声に怒りはなかった。悲しみだけがあった。怒りを通り越した、乾いた悲しみ。
「あたしは逃げた。お父様もお母様も、お姉様も、みんな残って――あたしだけ、レイヴンに連れられて裏門から」
リーゼが振り返った。
「でもね、シエル。あたしが憎いのは教会であって、教会にいた全員じゃないよ」
「それは――」
「セラさんだって教会の人でしょ。でもあの人は、あなたのことを心配してた。『友人』だって顔をしてた。教会にもいろんな人がいる。全員があたしの敵じゃない」
正しい。理屈としては正しい。
でも感情は理屈通りには動かない。彼女だってそれはわかっているはずだ。
「……わかった」
「わかったって、何がわかったの」
「君が怒っていないということは。少なくとも、今は」
リーゼは唇を尖らせた。
「怒ってないよ。あたし、嘘つかない。嘘つくの下手だし」
「君の嘘は確かに下手だ」
「ひどっ」
彼女はぷっと頬を膨らませた。その仕草がいつもと同じすぎて、僕は少しだけ安堵した。
少しだけ。
火を起こした。
廃墟の中で焚ける材料はいくらでもあった。崩れた梁の破片を集め、着火紋章で火を点ける。橙色の炎が立ち上り、廃墟の壁に揺れる影を作った。
リーゼは火の傍で竪琴を抱えて座っている。弦を弾く気配はない。
「お腹すいた」
「干し肉がまだ残ってる」
「硬いやつ?」
「硬いやつ」
「……食べる」
僕は革鞄から干し肉の包みを出して渡した。リーゼは一切れ受け取り、ゆっくりと噛み始めた。
僕も一切れ口に入れた。塩気が強くて硬い。でも空腹には変わりない。
「ねえ、シエル」
「うん」
「あなたはどうして教会を離れたの」
干し肉を噛む手が止まった。
「……手帳に書いてある。でも、全部は覚えていない」
「覚えてることだけでいいよ」
僕は手帳を取り出した。使徒時代の記録が残っている数少ないページを開く。
〔マルヒェン村。呪いの瘴気が村を覆っていた。村人が倒れ、子供が泣いていた。僕は呪眼を使って瘴気の紋章を解体しようとした。でも瘴気は人工的に作られたもので、解体すると暴走する仕掛けが施されていた。呪眼が暴走し――以降の記憶なし〕
そこまでは覚えている。手帳に書いてあるから。
でもその先がない。
「マルヒェン村で、何かがあった。呪いの瘴気を解こうとして、呪眼が暴走して。目を覚ました時には村は壊滅していて、僕は虐殺犯として手配されていた」
「……」
「教会に嵌められたんだと思う。あの瘴気は教会が仕掛けたもので、僕の呪眼を暴走させるための罠だった。たぶん」
「たぶん?」
「記憶がない。だから確信が持てない」
リーゼは干し肉を噛みながら、じっと僕の顔を見ていた。
「でも、あなたは村を救おうとしたんでしょ」
「手帳にはそう書いてある」
「自分の言葉は信じないの?」
「手帳を書いた自分と、今の自分が同じ人間だとは限らない。記憶が消えるたびに、僕は少しずつ別の人間になっていく」
リーゼの表情が微かに歪んだ。痛みを堪えるように。
「シエルはシエルだよ。記憶があってもなくても」
「それは君の願望だ」
「願望でもいい。あたしはそう思ってる」
僕は手帳を閉じた。
これ以上この話を続けても、答えは出ない。僕が罪人なのか被害者なのか。その問いに対する確かな答えは、消えた記憶の中にしかない。
「……寝よう。明日のことは明日考える」
「うん」
リーゼは頷いた。竪琴を壁に立てかけ、外套を毛布代わりにして床に横になった。
僕は火の番をするために起きていた。廃都に獣が出ないとも限らない。
火が爆ぜる音だけが、しばらく続いた。
リーゼの寝息が聞こえ始めて、どれくらい経っただろう。
僕は手帳を読み返していた。火明かりの下で、自分の筆跡を追う。
古いページから順に。
〔百十三日目。嵐の夜、街道で行き倒れの女性を拾った。吟遊詩人。名前はリーゼ〕
ここから始まった。
ページをめくるたびに、リーゼに関する記述が増えていく。最初は簡潔な事実の記録だったものが、次第に感情を含んだ文章に変わっていく。
〔リーゼが朝食を作った。卵焼きが焦げていたが、食べられないほどではなかった。次は僕が作ると言ったら怒った〕
〔リーゼの歌を聞いていると、呪いの痛みが和らぐ。理由は依然として不明。だが、彼女の傍にいたいと思う理由が、それだけではないことに気づき始めている〕
〔リーゼが転んで膝を擦りむいた。大したことはないのに大騒ぎする。薬を塗ってやったら笑顔に戻った。その笑顔を見ると、胸の奥が少しだけ温かくなる。記録すべきことではないかもしれないが、書いておく。忘れたくないから〕
読んでいると、過去の自分がまるで他人のように感じられた。
この言葉を書いた自分は、まだ何かを信じていた。リーゼとの旅に意味があると。傍にいることが許されると。
でも今は違う。
彼女はヴェルハイデの王女だ。教会が滅ぼした国の姫だ。そして僕は、その教会の剣だった男だ。
「あたしの国を滅ぼした人じゃない」と彼女は言った。
本当に?
本当にそうだと、心の底から思えているのか?
笑顔の下に何を隠しているのか、僕には見えない。
僕の呪眼は紋章の構造を解析できる。魔素の流れを読める。世界の仕組みを暴ける。
でも、人の心は見えない。
夜が更けた。
火が小さくなっていた。薪を足そうと立ち上がった時、かすかな音が聞こえた。
リーゼの方向からだ。
息を殺して耳を澄ませた。
泣いている。
声を押し殺して、泣いている。
僕はその場で固まった。
リーゼは僕に背を向けて横になっていた。外套に包まれた肩が小さく震えている。
聞こえないように、見えないように、必死に堪えている。
でも聞こえた。
押し殺した嗚咽。時折漏れる、鼻をすする音。そして――
「……お父様」
小さな声。王女の口調だった。普段のリーゼではない、エリザヴェータの声。
「お母様……ごめんなさい……あたし、あたしは……」
彼女は泣いていた。
「わかる」と言いながら。「怒ってない」と言いながら。割り切れていなかった。当然だ。割り切れるはずがない。
家族を殺した組織の一員だった男が、隣で寝ている。その男の傍にいると自分の呪いが癒される。離れれば呪いが加速する。だから離れられない。
でも離れたい夜もあるだろう。一人で泣きたい夜も。
僕はその場に座り直した。
薪を足す手が止まったまま、動けなかった。
声をかけるべきか。
いや。彼女は僕に聞かれたくないから声を殺しているのだ。ここで声をかければ、彼女のわずかな自尊心さえ奪うことになる。
だから僕は聞いていないふりをした。
火に薪を足して、手帳を開いて、何も書けないまま白いページを見つめた。
彼女の嗚咽が、骨に染みるほど痛かった。
リーゼが泣き止んだのは、夜が最も暗くなる時刻だった。
やがて寝息が安定する。眠ったのだ。泣き疲れて。
僕は手帳を閉じた。
白いページには結局何も書けなかった。
彼女は僕に嘘をついた。「怒ってない」「わかる」と。
そして僕は、その嘘を受け入れた。互いの嘘を暴かない。それが僕たちの旅の暗黙のルールだった。
でもこの嘘は、これまでの嘘とは重みが違う。
僕が傍にいること自体が、彼女を傷つけている。
呪いの共鳴のせいで物理的に離れられない。離れれば互いに呪いが加速する。でも傍にいることが彼女の古い傷を抉り続けるなら、それは別の呪いだ。
僕が教会の人間だったという事実。それ自体が、鎖よりも重い枷になっている。
手帳のマルヒェン村の記録を読み返した。
〔僕は呪眼を使って瘴気の紋章を解体しようとした〕
村を救おうとしていた、と自分は書いている。
でもそれは本当か? 使徒としての任務で村に行き、教会の命令で瘴気を調査していたのではないか? 「村を救おうとした」というのは、追われる身になった後で書き換えた記憶ではないのか?
わからない。
記憶が消えた部分は、手帳に書かれた言葉でしか補えない。そして手帳に書かれた言葉は、その時の自分が正直だったかどうかに依存する。
嘘つきの手帳は、嘘を記録しているかもしれない。
僕は嘘つきだ。名前も経歴も全部偽っている。そんな人間の書いた記録が、どれほど信じられる?
――空白。
何を考えていた?
ああ。手帳のことだ。
……いや、それだけじゃない。何か、もう一つ考えていたはずだ。大事なことを。
思い出せない。
右目が疼いた。呪いの進行だ。鎖の契約のせいで、リーゼの傍にいても浄化が追いつかなくなっている。
指先が冷たい。
手帳を閉じようとして、古いページの端に書かれた一行が目に留まった。
〔誰かと約束をした。何を約束したのか思い出せない。でも大切な約束だったことだけは覚えている〕
約束。
誰との約束だ。師匠か。それとも別の誰かか。
何を約束したのか。
思い出せない。ここも空白だ。消えた記憶の霧の向こうに、大切だったはずの言葉が沈んでいる。
夜明けが近づいていた。
空の端がわずかに白み始めている。廃都の輪郭が、闇の中から少しずつ浮かび上がる。
その時、足音が聞こえた。
一人分。重い。革靴と金属の擦れる音。武装した人間の足取り。
僕は腰を上げ、鞄の中から護身用のナイフを取り出した。
足音が近づいてくる。廃墟の入り口の方向だ。
影が現れた。
大柄な男だった。赤毛。顔に古い傷跡。背中に大剣を背負っている。旅の汚れがこびりついた傭兵風の外套。
僕とナイフ。男と大剣。どちらが有利かは言うまでもない。
男は僕を見た。暗い目だった。警戒と、敵意と、もう一つ、奇妙な感情が混じっている。
「……お前が、あの薬師か」
低い声だった。粗野だが、どこかに規律のある声。軍人の話し方だ。
「誰だ」
「レイヴンだ。それ以上は聞くな」
レイヴン。聞いたことのない名前だ。手帳にも記録がない。
「用件は」
レイヴンは僕を無視して、奥のリーゼの方を見た。その目が変わった。敵意が消え、代わりに痛みのようなものが浮かんだ。
「……生きておられたか」
敬語ではないが、その口調には敬意があった。
「彼女を知っているのか」
「俺はヴェルハイデの元近衛騎士だ」
空気が変わった。
ヴェルハイデの近衛騎士。つまり、この男は——リーゼの、いやエリザヴェータの家臣だ。滅亡した王国の騎士。
「五年間、探していた」
レイヴンの声に、僅かな震えがあった。
「第二王女エリザヴェータ殿下が生きているという噂を追って、大陸中を歩いた。そして――ここで見つけた」
彼の目が僕に戻った。
敵意が、再び燃え上がった。
「お前は何者だ。姫のそばに何の用がある」
「旅の薬師だ」
「嘘をつくな」
レイヴンの右手が大剣の柄にかかった。
「お前の右目。眼帯で隠しているが、俺にはわかる。お前からは教会の匂いがする」
教会の匂い。元騎士の勘だろうか。それとも具体的な根拠があるのか。
「元使徒だろう。ルシアン・ヴァルトロー」
名前を知っている。
もう隠す意味はないのかもしれない。
「……そうだ」
「やはりな」
レイヴンの目が据わった。大剣の柄を握り締める手に力が入る。
「姫の傍で何をしている。教会の犬が、よりによってヴェルハイデの姫に——」
「元、だ。教会とはもう関係ない」
「関係ないだと? お前たちが俺の国を——」
「やめてよ」
声がした。
振り返ると、リーゼが起き上がっていた。外套をまとい、寝乱れた髪を手で押さえながら、こちらを見ている。
彼女の翡翠の瞳が、一瞬だけ僕の右目——眼帯の上に留まった。奇妙な目だった。怒りでも悲しみでもない。何かを確かめようとする目。何かの答えに辿り着きかけている目。
だがそれは本当に一瞬のことで、すぐにいつものリーゼに戻った。
「リーゼ」
「姫……」
レイヴンの表情が一変した。大剣から手を離し、その場に片膝をついた。
「第二王女エリザヴェータ殿下。お目にかかれて光栄です。近衛第三騎士団、レイヴン・グラハートです」
「覚えてるよ、レイヴン。立って。そういうの、もういいから」
リーゼは目を擦りながら歩いてきた。泣いた跡があるのが月明かりでもわかった。でもレイヴンは気づいていないか、気づかないふりをしているか。
「レイヴン。シエルはあたしの旅の仲間だよ。元使徒だけど、今は違う。教会に追われてる側」
元使徒——リーゼがその言葉を口にした時、声がわずかに揺れた。揺れたのは怒りではなかった。もっと複雑な何か。昨夜、彼女が語った「あの夜の少年」の話が、僕の頭の隅をよぎった。
「しかし——」
「あたしが言ってるの。信じて」
レイヴンは顔を上げた。リーゼを見て、それから僕を見た。
僕に向ける目は、信頼とは程遠かった。警戒。不信。そして、もし姫を傷つけたら容赦しないという無言の宣告。
「……わかりました」
立ち上がったレイヴンは、僕より頭半分高かった。
「だが俺は、お前を信用したわけじゃない。薬師」
「構わない」
「姫が信じると言うなら、俺は従う。だが——」
彼は一歩近づいた。低い声で、リーゼに聞こえないように囁いた。
「姫が泣いていたのは、お前のせいか」
心臓を掴まれたような感覚だった。
気づいていた。彼女が泣いていたことに。あるいは、目の腫れから察したのか。
「……僕のせいだ」
否定しなかった。否定できなかった。
レイヴンの目が細まった。
「覚えておけ。次はない」
それだけ言って、彼はリーゼの方に向き直った。騎士として仕えるべき主君に報告するように、これまでの五年間の経緯を簡潔に語り始めた。
僕はその場を離れ、廃墟の端に腰を下ろした。
東の空が白んでいく。
レイヴンとリーゼの会話は聞き取れない距離にいた。時折リーゼの笑い声が聞こえる。本物の笑い声だ。故郷の臣下と再会した安堵が、声に滲んでいる。
僕はそれを聞きながら、手帳を開いた。
新しいページ。
ペンを取る。
〔リーゼの正体はエリザヴェータ・フォン・ヴェルハイデ。ヴェルハイデ王国第二王女。僕が仕えていた教会が滅ぼした国の姫。彼女は僕が元使徒だと知っていた。セラが呼んだ「ルシアン」を聞いていた。それでも傍にいてくれた〕
書いて、止まった。
その先に書くべきことがある。書かなければならないことが。
〔彼女は「怒っていない」「わかる」と言った。でも夜、一人で泣いていた。父と母に謝っていた。僕の存在が、彼女を傷つけている〕
ペン先が震えた。
次の一行は、自分でも驚くほどすんなりと出てきた。
〔彼女のためには、僕がいない方がいいのではないか〕
書いてしまった。
消す気にはなれなかった。
鎖の契約がある。離れれば呪いが加速する。互いに。でもリーゼの傍にはレイヴンがいる。元近衛騎士だ。彼女を守れる。聖女の力の制御はリーゼ自身の問題だが、少なくとも身の安全は確保できる。
僕がいなくなれば、彼女は教会の元使徒と旅をしているという矛盾から解放される。ヴェルハイデの姫として、自分の道を歩ける。
呪いの加速? それは僕の問題だ。彼女に背負わせる理由はない。
——でも、鎖は両方にかかっている。僕が離れればリーゼにも影響がある。
それはわかっている。わかった上で、考えている。
リーゼの聖女の力は強い。彼女自身への呪いの加速は、その浄化力で多少は抑えられるかもしれない。一方で僕には浄化の手段がない。離れれば一方的に壊れるのは僕の方だ。
それでいい。
それでいいのではないか。
「シエル」
リーゼの声で我に返った。手帳を閉じる。
「レイヴンが狩りをしてくれるって。朝ごはん、ちょっと待ってて」
「……ああ」
「顔色悪いよ。ちゃんと寝た?」
「少し」
「嘘。寝てないでしょ」
彼女はため息をついて、僕の傍にしゃがみ込んだ。
「シエル、考えすぎ。あたしが言ったこと、もう一回言おうか? あなたはあたしの国を——」
「滅ぼした人じゃない。覚えてる」
「じゃあ、そう思ってて」
「思う努力はする」
「努力しないでいいの。ただそう思って」
リーゼが笑う。朝の光の中で、蜂蜜色の髪が淡く輝いている。
綺麗だ、と思った。
その思いが、刃のように胸を刺した。
この顔を見る資格が、僕にあるのだろうか。
レイヴンが兎を仕留めてきた。僕が火で炙り、三人で分けて食べた。
食事の間、レイヴンは僕をほとんど見なかった。リーゼとだけ話した。五年間の空白を埋めるように、ヴェルハイデの生き残りの消息を語った。数は少ないが、大陸各地に散っているらしい。
リーゼは一人一人の名前を聞いて、時に笑い、時に沈んだ。知っている名前が出るたびに表情が変わる。生きている者の名には安堵を、そうでない者の名には沈黙を。
僕はその会話に加わらなかった。加われなかった。
食後、リーゼが水を汲みに行った。レイヴンと二人きりになった。
「ルシアン・ヴァルトロー」
レイヴンは火を見つめたまま言った。
「ヴェルハイデが滅ぼされた時、お前はどこにいた」
「覚えていない。記憶が消えている」
「便利な言い訳だな」
「言い訳ではない。呪眼の代償だ。使うたびに記憶が消える」
レイヴンは鼻を鳴らした。信じていない。
「姫は優しすぎる。昔からそうだった。敵にまで手を差し伸べる。それが王族としての美徳だと教えられて育った」
「……」
「だからお前のような男にも笑顔を見せる。でも俺は違う。俺は騎士だ。姫を守るのが務めだ」
「知っている」
「なら聞け。お前は姫の傍にいるべきじゃない。教会の匂いがする男が姫の近くにいれば、いずれ教会を引き寄せる」
正論だった。
反論できない。反論する気もなかった。
「レイヴン」
「なんだ」
「彼女を、頼めるか」
レイヴンが初めて僕の目を見た。
「……何を言っている」
「僕がいなくなっても、彼女を守れる人間がいるなら。それでいい」
レイヴンは何かを言いかけて、やめた。
代わりに、長い沈黙が落ちた。
「……お前、逃げる気か」
「逃げるのではない」
「同じだ。姫を置いて去ることに変わりはない」
「彼女のためだ」
「そう思い込んでいるだけだ」
レイヴンの声に、怒りとは違う何かがあった。軽蔑でもない。もっと複雑な感情。
「お前のような男は知っている。自分を犠牲にすることで罪から逃れようとする人間だ。それは贖罪じゃない。ただの自己満足だ」
刺さった。
正確に。
「……かもしれない」
「姫が泣いたのはお前のせいだと言ったな。なら泣かせない方法を考えろ。去ることが答えだと思うなら、お前は姫を何も理解していない」
リーゼの足音が聞こえた。水桶を運んでくる音。
レイヴンは何事もなかったかのように立ち上がり、リーゼから桶を受け取った。
「重いだろう。こういうのは俺に言え」
「あはは、久しぶりだねレイヴンのそれ。昔もよくそうやって侍女の仕事取ってたでしょ」
「うるさい。騎士の仕事だ」
二人のやり取りを見ながら、僕は考えていた。
ふとリーゼがこちらを振り返った。レイヴンと笑い合っていた顔のまま——だが目だけが違った。あの翡翠の瞳が、僕の眼帯をじっと見ていた。何かを訊きたくて、でも訊けないでいるような。
目が合うと、リーゼは何事もなかったようにレイヴンの方に向き直った。
何だったのだろう。
レイヴンの言葉が頭から離れない。
「去ることが答えだと思うなら、お前は姫を何も理解していない」
理解。
僕はリーゼを理解しているだろうか。
彼女が何を望んでいるか。何を恐れているか。何を失いたくないか。
「あなたはあたしの国を滅ぼした人じゃない」と彼女は言った。「あたしには、わかる」と。
夜、泣いていたのに。
それは嘘なのか。それとも、嘘と真実が混ざった、もっと複雑なものなのか。
僕にはわからなかった。
わからないまま、一日が過ぎていった。
夜が来た。
二度目の夜。廃都の闇はどこまでも深い。
レイヴンが見張りを買って出た。「お前たちは休め」と。僕に向ける目はまだ硬かったが、リーゼの前では表立った敵意を見せなかった。
リーゼは竪琴を抱えて横になった。今夜は曲を弾かなかった。
「おやすみ、シエル」
「おやすみ」
簡素なやりとり。いつもと同じだ。いつもと同じようにリーゼは目を閉じ、いつもと同じように僕は手帳を開く。
でもいつもとは違う。
何もかもが変わってしまった。
僕は手帳の最後のページを開いた。
白紙だ。
ペンを取った。
しばらく何も書けなかった。ペン先が紙に触れたまま、インクの点だけが落ちた。
リーゼの寝息が聞こえ始めた。
今夜は泣いていない。疲れが勝ったのか。それとも、レイヴンがいることで安心したのか。
レイヴンがいれば大丈夫だ。彼は騎士だ。主君を守る力がある。
僕には何がある?
記憶が消えていく呪い。使えば壊れる目。教会に追われる身。そして――彼女の国を滅ぼした組織にいたという、消えない過去。
手帳に、一行だけ書いた。
「リーゼを頼む」
ペンを置いた。
手帳を閉じ、リーゼの枕元に置いた。
外套を羽織り、革鞄を肩にかけた。
最後に、彼女の寝顔を見た。
蜂蜜色の髪が頬にかかっている。月明かりに照らされた横顔は穏やかで、起きている時の忙しなさが嘘のように静かだった。
この顔を忘れたくないと、いつか手帳に書いた。
もうすぐ忘れるかもしれない。離れれば呪いが加速する。彼女の名前も、顔も、声も、全部消えていくだろう。
それでもいい。
忘れることが、僕にできる最後の贖罪だ。
僕は音を立てないように立ち上がった。廃墟の入り口に向かう。
レイヴンが外で見張りをしている。彼の目を避けるのは難しい。でも廃墟には壁の崩れた箇所がいくつもある。反対側から出れば――
足が止まった。
振り返りたかった。もう一度だけ彼女の顔を見たかった。
振り返らなかった。
振り返ったら、もう行けなくなる。
夜明け前の廃都に、僕は一人で歩き出した。
右目が疼いた。鎖の呪いが反応している。離れるな、と。離れれば壊れる、と。
わかっている。
わかった上で、歩いている。
手帳は彼女の枕元に置いてきた。最後のページに、一行だけ残して。
「リーゼを頼む」
それが僕に書ける、最後の嘘だった。
彼女を頼むのではない。僕が彼女から逃げるのだ。
罪から。過去から。彼女の涙から。
レイヴンが言った通りだ。これは贖罪ではない。自己満足だ。
わかっている。
わかっていて、止まれない。
廃都の石畳を踏む足音だけが、夜明け前の静寂に消えていった。
── リーゼ side ──
目が覚めたのは、空気が変わったからだった。
隣にいた温度が消えている。焚き火の残り火がかすかに赤く光っているだけで、シエルの気配がない。
枕元に、手帳が置いてあった。
あたしは寝ぼけた頭のまま、それを拾い上げた。シエルの手帳。彼がいつも大事そうに書いている、あの手帳。
なんで、ここに。
最後のページが開いてあった。そこに一行だけ。
『リーゼを頼む』
心臓が止まった。
嘘。
嘘でしょ。
飛び起きた。外套も竪琴もそのままに、裸足で廃墟の入り口まで走った。レイヴンが見張りをしているはずの外に出ると、彼が立ち上がった。
「姫? どうされた」
「シエルは——シエルはどこ」
「……あの薬師なら、さっき南の壁の崩れたところから出て行った。止めようとしたが、振り返らなかった」
膝が折れそうになった。
行った。
行ってしまった。
あの馬鹿。あの大馬鹿。やっぱりそうする。やっぱり「僕がいない方がいい」って。言わなかったけど、あの顔を見ればわかるよ。ずっとそう考えてたんでしょ。
怒りが込み上げてきた。
怒りと——その裏側にあるもの。恐怖。シエルがいなくなったら、鎖の契約で呪いが加速する。あたしの浄化の力が届かなくなる。シエルの呪眼は制御を失い、記憶が雪崩のように消えていく。
あたしのことも。忘れる。
あたしの名前も、顔も、一緒に旅したことも、手を繋いだことも、全部。
——それは、いや。
それだけは、絶対にいや。
でも。
ここで立ち止まってしまったのは、別の感情が足を掴んだからだった。
レイヴンが「元使徒だろう」とシエルを呼んだ時。「ルシアン・ヴァルトロー」と。
あたしは寝たふりをしながら、全部聞いていた。
元使徒。第七使徒。ルシアン。
……五年前、ヴェルハイデにいた使徒。
頭の中で何かが繋がりかけていた。ずっと確かめられなかったこと。ずっと「まさかね」と目を逸らしてきたこと。
あの夜の少年は、教会の法衣を着ていた。右目に包帯を巻いていた。目を光らせて兵士を止めた後、代償で崩れ落ちた。薬草の匂いがした。
使徒だったなら、あの光は呪眼だ。右目の包帯は、呪眼を隠すためだ。代償で崩れ落ちたのは、記憶を失ったから。
——あの少年が、ルシアンだった?
十六歳の第七使徒が、聖戦の任務でヴェルハイデにいた。「異端の浄化」だと聞かされていた任務。でもあの少年は——あの人は、教会の兵士から、あたしを庇った。
シエルが「参加していない」と言ったのは、覚えていないからだ。呪眼の代償で記憶が消えている。彼はあの夜のことを何も覚えていない。あたしを助けたことも。代償に記憶を失ったことも。
もしそうだとしたら。
シエルは——ルシアンは、五年前にあたしを救って、記憶を失った。
そして今もまた、あたしのために記憶を失い続けている。
呪眼を使うたびに。あたしを守るたびに。あの人は自分を削って、あたしを生かしている。
涙が出た。
止められなかった。声を押し殺して、廃墟の壁に手をついて、膝を折って泣いた。
ずるい。ずるいよ、シエル。
怒りたいのに。教会の人間だったって知って、怒りたいのに。国を滅ぼした組織にいたって、憎みたいのに。
怒れないじゃん。憎めないじゃん。
あの夜、あたしの命を救ってくれた人が、今あたしの前からいなくなろうとしている。あたしのために。あたしを傷つけないために。自分が壊れる方を選んで。
——ずるい。そんなの、ずるいよ。
「姫。追われますか」
レイヴンの声が、冷静にあたしに問いかけた。
あたしは目を拭った。乱暴に。袖で。王女の作法もなにもあったものじゃない。
「追う。当たり前でしょ」
「あの男は教会の——」
「知ってる。知ってて追うの」
レイヴンが黙った。数秒間。それから、深くため息をついた。
「……姫は昔から、そういうお方でした」
「褒めてないでしょそれ」
「褒めていません」
あたしは裸足のまま、靴を探しに戻った。竪琴を背負い、外套を羽織った。手帳をしっかりと懐に入れた。
行かなきゃ。
追いつかなきゃ。
あの人が全部忘れる前に。あたしのことを忘れる前に。
走りながら、あたしの中でもう一つの声が響いた。ずっと押し込めていた、あたし自身の声。リーゼではない。エリザヴェータの声。
——……あの時、わたくしを救ってくれた人。
足が止まりかけた。
——もし貴方がそうだとしたら。
涙が風に散った。
——わたくしは、貴方を許さなければなりません。怒ることを、やめなければなりません。
でも。
——いいえ。許すのではない。
あたしは走った。廃都の石畳を裸足で蹴って。靴を履く時間さえ惜しんで。
——貴方はあの夜、わたくしに言ったのでしょう。「大丈夫。君は、逃げていい」と。
——だからわたくしは、貴方に言い返しに行くのです。
夜明け前の空が、わずかに白み始めていた。シエルが歩いて行った方角に。
エリザヴェータの声が風に溶けて、足を動かしているのはリーゼだった。王女の祈りを胸に抱えたまま、旅芸人の脚で石畳を蹴る。
あたしは走った。
逃げていいなんて、言わせない。