← TOP
プライバシーポリシー お問い合わせ

第十二章

別離と闇


 朝の光が、廃墟に差し込んでいた。

 僕は――いや、僕のことはまだいい。

 先に、あの場所で起きたことを書かなければならない。

 僕が去った後のことを。

 手帳を見れば書いてある。書いてあるはずだ。でも手帳は彼女の枕元に置いてきた。

 だからこれは、後から聞いた話と、推測と、鎖越しに感じた気配の断片をつなぎ合わせた記録だ。

 正確ではないかもしれない。

 でも書いておく。忘れる前に。


 リーゼが目を覚ましたのは、夜明け直後だったらしい。

 いつもの癖で隣を確認する。僕がいるはずの場所に手を伸ばす。

 手が触れたのは、冷えた石の床だけだった。

「シエル?」

 声が廃墟に反響した。

 返事はない。

 リーゼは体を起こした。周囲を見回す。焚き火の跡。灰になった薪。僕の革鞄がない。外套もない。

「シエル——?」

 声が大きくなった。

 枕元に何かがある。

 手帳だ。僕の手帳。

 なぜここに。なぜ僕がいないのに、手帳だけがここに。

 リーゼは手帳を手に取った。最後のページが開いてあった。

 一行だけ。僕の筆跡で。

「リーゼを頼む」

 彼女の指が震えた。

「——嘘」

 声が掠れた。

「嘘でしょ。嘘って言ってよ」

 誰にも聞こえない声で、そう言ったらしい。

 それから、叫んだ。

「シエルっ!!」


 レイヴンが駆けつけたのは、その叫び声を聞いてすぐだった。

 廃墟の入り口で見張りをしていたレイヴンは、リーゼの声に弾かれるように走り込んできた。

「姫、何が——」

「シエルがいない! いない、手帳だけ残して——レイヴン、あの馬鹿がいなくなった!」

 リーゼは手帳を胸に押しつけていた。手が震えている。顔は蒼白で、翡翠の瞳が大きく見開かれている。

「あの男が去った」

 レイヴンの声は平坦だった。

「追うか」

「追う! 当たり前でしょ!」

 リーゼは立ち上がった。外套を掴み、竪琴を背中に括りつけ、廃墟の出口に向かって走ろうとした。

 そして、膝から崩れた。

「姫!」

「っ——」

 胸の奥が灼けるように痛んだのだ。鎖の契約。呪いの共鳴。

 離れれば呪いが加速する。それは僕だけでなく、リーゼにも。

 呪いが彼女の体を内側から締め上げている。心臓の裏側を氷の爪で掻かれるような痛み。聖女の浄化が自動的に発動して金色の光が指先から漏れるが、追いつかない。鎖が——あの見えない鎖が、引き千切られようとしている。

「姫! 大丈夫か!」

「……大丈夫じゃ、ない。でも、大丈夫」

 リーゼは歯を食いしばって立ち上がった。

「あの馬鹿……。自分が壊れるって、わかってるのに……!」

「……あの男も同じ呪いを受けているのか」

「鎖の契約。あたしとシエルは呪いで繋がれてる。離れると互いに呪いが加速する。あたしは聖女の力である程度抑えられるけど、シエルには浄化の手段がない。離れれば一方的に壊れるのはあっちの方なの」

 レイヴンの表情が変わった。

「なぜそんなことを知りながら去った」

「あたしのためだと思ってるからだよ!」

 リーゼの声が裂けた。

「あたしが泣いてたのを見たんだ。きっと。昨日の夜。それで——あたしの傍にいるのが辛い存在だから、自分がいない方がいいって。そういうふうに考える人なの。あの人は。いつもそう。いつもいつも自分を後回しにして、全部自分で抱え込んで——」

 涙が溢れた。止まらなかった。

「あたしは怒ってない。怒ってないって言ったのに。なんで信じてくれないの。あたしが泣いたのは、シエルのせいじゃない。お父様やお母様のことを思い出しただけで——シエルが悪いんじゃない——なのに——」

 レイヴンは黙っていた。

 泣きじゃくるリーゼの傍で、ただ黙って立っていた。

 やがてリーゼが袖で目を拭い、顔を上げた。

「追うよ。絶対に追う。連れ戻す」

「姫、お体が——」

「体なんかどうでもいい。シエルが壊れる方が問題」

 リーゼは手帳を懐にしまった。

「あの手帳にはシエルの全部が詰まってる。記憶の代わり。これがなくなったらシエルは今までの自分を全部失う。なのにあたしに渡して行った。自分はもう壊れてもいいって——そういう意味でしょ」

 レイヴンは長い沈黙の後、口を開いた。

「……あの男のことは信用していない。だが、姫がそこまで言うなら」

「レイヴン」

「俺は姫に従う。それが騎士の務めだ」

 リーゼは泣き笑いのような顔をした。

「ありがとう」

「礼は要らん。行くぞ。あの男の足跡を追う。廃都の石畳なら、まだ露で足跡が残っているはずだ」

 二人が廃墟を出ようとした、その時だった。


 僕の話に戻る。

 廃都を出て、どれくらい歩いただろう。

 わからない。

 時間の感覚が曖昧になっている。太陽が昇り始めたのは覚えている。東の空が白く、それから橙色になって、やがて青くなった。

 それだけの時間が経った。たぶん。

 右目の疼痛が止まらない。

 眼帯の下で呪いが脈を打っている。鎖の契約が反応している。離れるな。離れるな。離れるな。鎖が見えない手で僕の胸を掴み、引き戻そうとしている。

 無視した。歩き続けた。

 足元がおぼつかない。廃都の外の街道は荒れ果てていて、轍の跡も草に埋もれている。石が多い。何度もつまずいた。

 視界がぼやけている。

 右目だけじゃない。左目も。焦点が合わない。遠くの景色が二重に見える。近くの草も、自分の手も。

 これが鎖の代償だ。離れれば壊れる。聞いていた。わかっていた。

 でもこんなに早いとは。

 歩き始めて何時間だ。半日も経っていない。なのにもう、体がこんなに——

 手帳を確認しようとした。

 手帳がない。

 そうだ。彼女の枕元に置いてきた。

 手帳がなければ、何も確認できない。忘れたことに気づくこともできない。

 今、僕は何を覚えている?

 名前。ルシアン・ヴァルトロー。偽名はシエル。元第七使徒。薬師。呪眼を持っている。呪眼を使うと記憶が消える。

 旅の相棒がいた。名前は。

 リーゼ。

 リーゼ。彼女の本名は。

 エリザヴェータ。ヴェルハイデの第二王女。聖女。蜂蜜色の髪。翡翠の瞳。竪琴を弾く。歌が上手い。料理は時々失敗する。笑顔が明るい。でも泣いている時もある。

 覚えている。まだ覚えている。

 でもいつまで。

 足を止めた。道端の岩に腰を下ろした。

 息が上がっている。ただ歩いているだけなのに。体が鉛のように重い。

 ポケットを探った。ペンがある。手帳の代わりになるものは——外套の裏地は書けない。革鞄の中に、薬草のラベル用の紙片がいくつかあった。

 震える手で紙片を広げ、ペンを走らせた。

 〔リーゼ。エリザヴェータ。蜂蜜色の髪。翡翠の瞳。竪琴。歌。笑顔。忘れるな〕

 書いた。読み返した。

 読み返して、安堵した。まだ書ける。まだ読める。まだ、彼女のことを覚えている。

 立ち上がって、また歩き始めた。


 リーゼの方へ話を戻す。

 廃墟の出口に向かったリーゼとレイヴンの前に、それは現れた。

 足音はなかった。

 気配もなかった。

 ただ突然、そこにいた。

 黒い法衣。金髪をオールバックに撫でつけた、彫りの深い顔立ち。三十代の男。感情のない目。

 廃墟の入り口を塞ぐように、一人の男が立っていた。

 レイヴンが瞬時に大剣の柄に手をかけた。

「……何者だ」

 男は答えなかった。

 リーゼが先に気づいた。

 胸の奥で、聖女の力が警鐘を鳴らしている。この男の周囲の魔素が異常だ。重い。空気そのものが歪んでいる。普通の人間ではない。使徒級だ。

 いや——使徒そのもの。

「マグナス」

 リーゼが呟いた。

 第一使徒。「頂点の使徒」。聖遺物「天秤の冠(リブラ・クラウン)」の所持者。重力を支配する男。

 教会最強の戦力。

 マグナスは無言でリーゼを見た。

 その視線が、聖女の力を感知している。魔素が揺れている。リーゼの体から微かに漏れる金色の光を、マグナスの目は正確に捉えていた。

「聖女か」

 低い声だった。必要なことだけを言う声。

「レイヴン、下がって」

 リーゼが一歩前に出た。

「下がれません!」

「下がって。この人には敵わない」

「姫——」

「あたしを攫いに来たんでしょう」

 リーゼはマグナスに向かって言った。声は震えていたが、視線は逸らさなかった。

「教会の聖女収穫計画。あたしが聖女だって、感知したんでしょう」

 マグナスは微かに目を細めた。

「情報は正しかったようだ」

「誰の情報?」

「答える義務はない」

 マグナスが一歩踏み出した。

 それだけで空気が変わった。

 廃墟の床が軋んだ。石畳にひびが入った。重力が歪んでいる。マグナスの一歩が、周囲の重力場そのものを変えている。

 レイヴンが大剣を抜いた。

「姫に触れるな」

「抵抗は無意味だ。下がれ」

「断る」

 レイヴンが斬りかかった。

レイヴンの奮戦

 大剣を両手で振りかぶり、マグナスの肩口を狙う。元近衛騎士の全力の一撃。鎧ごと人体を断つ重量の刃。

 マグナスは手を上げた。ただそれだけの動作で。

 レイヴンの大剣が、空中で止まった。

 止まったのではない。重力が反転したのだ。剣が上方向に引かれ、レイヴンの腕が持ち上がり、体ごと浮き上がった。

「ぐ——っ!」

「言った。無意味だと」

 マグナスが手を振り下ろすと、レイヴンの体が床に叩きつけられた。石畳が砕ける。粉塵が舞い上がる。

「レイヴン!」

 リーゼが叫んだ。

 レイヴンは倒れたまま、歯を食いしばって立ち上がろうとしていた。口から血が滴っている。内臓にダメージがある。それでも大剣を手放していない。

「まだ、だ——」

「やめて! 死んじゃう!」

 リーゼがレイヴンの前に立ちはだかった。両手を広げて、マグナスに向き合う。

一人で立つ聖女

「あたしが行けばいいんでしょう。レイヴンには手を出さないで」

「姫、何を——」

「黙って!」

 リーゼの声が裂けた。

 涙が頬を伝っている。でも目は逸らしていない。マグナスの無表情な目を、まっすぐに見つめている。

「あたしは行く。でも条件がある。この人を見逃して。あと——」

 リーゼは懐から手帳を取り出した。シエルの手帳。

「これを持って行かせて」

 マグナスは手帳を見た。何の価値もない品物だという目。

「好きにしろ」

「もう一つ。あたしの仲間が——シエルっていう男がいる。この廃都のどこかにいるかもしれない。探さないで」

 嘘だ。シエルはもう廃都にはいない。去ったのだから。でもリーゼは、マグナスがシエルを追う可能性を潰そうとしている。

 マグナスはわずかに首を傾げた。

「その男には用がない。聖女だけだ」

「……わかった」

 リーゼはレイヴンを振り返った。

「レイヴン」

「姫——行かせるわけにはいきません」

「行くの。あたしが決めた」

「俺は姫を守ると——」

「生きて。お願い」

 リーゼの声が、静かに、でも確かに言った。

「シエルを見つけて。手帳は——渡せないけど、あの人を見つけて。一人にしないで」

 レイヴンの顔が歪んだ。騎士としての誇りと、主君の命令の間で引き裂かれている。

「姫……」

「あたしは大丈夫。教会はあたしを殺さない。聖女は貴重だから。でもシエルは違う。あの人は呪いで壊れかけてる。手帳もない。このままじゃ——」

 リーゼの声が震えた。

「このままじゃ、あたしのことも忘れちゃう」

 マグナスが無言で歩み寄ってきた。

 リーゼはその場に立ったまま、抵抗しなかった。

 マグナスの手がリーゼの肩に触れた。重力が変化し、リーゼの体がわずかに浮き上がる。拘束の術だ。逃げられない。

「……教会に逆らっても、誰も救えない」

 マグナスが呟いた。

 低い声だった。命令でも脅迫でもない。もっと個人的な、独白のような言葉。

 リーゼはその言葉に一瞬だけ目を見開いた。

「あなたも、何かを抱えてるんだね」

 マグナスは答えなかった。

 リーゼは最後にレイヴンを見た。

「レイヴン。シエルを頼む」

 手帳の最後のページと同じ言葉だ。

 ただし託す相手が違う。シエルはリーゼをレイヴンに託し、リーゼはシエルをレイヴンに託した。

 レイヴンは床に倒れたまま、拳を石畳に叩きつけた。砕けた石が飛び散る。

「……必ず、取り戻す」

「うん。待ってる」

 リーゼは笑った。

 泣きながら、笑った。

 マグナスが彼女を連れて、廃墟を出て行った。


 僕は何も知らなかった。

 リーゼが攫われたことも。レイヴンが傷ついたことも。マグナスが来たことも。

 僕はただ、壊れながら歩いていた。

 街道の脇の草むらに足を取られて転んだ。膝を打った。痛みは鈍い。感覚が遠のいている。

 起き上がる。

 歩く。

 右目が灼ける。呪いが加速している。彼女と離れるたびに、鎖が締まるように痛みが増す。

 視界の端が暗い。

 黒い靄のようなものが左右から迫ってくる。それは視覚の異常なのか、呪いの侵食が見えているのか、区別がつかない。

 手の甲に、黒い筋が走っている。血管に沿って、呪いの紋様が浮き出している。見たことがある。ミラの腕に同じ紋様があった。あの時は聖女の力で浄化した。リーゼが、歌で。

 リーゼ。

 名前を口の中で転がす。

 リーゼ。エリザヴェータ。ヴェルハイデの。

 ヴェルハイデの何だったか。

 王女。第二王女。

 覚えている。まだ。

 ポケットの紙片を取り出して確認する。

 〔リーゼ。エリザヴェータ。蜂蜜色の髪。翡翠の瞳。竪琴。歌。笑顔。忘れるな〕

 読んだ。覚えている。全部覚えている。

 紙片をしまう。

 歩く。

 足が重い。膝が笑う。体が前に進むことを拒否している。鎖が引き戻そうとしている。

 無視する。歩く。

 なぜ歩いているのか。

 彼女のためだ。

 僕がいなくなれば、彼女は——

 彼女は——

 何だ。何を考えていた。

「……リーゼ」

 声に出した。確認のために。

 リーゼ。旅の仲間。聖女。笑顔が明るい。竪琴を弾く。歌が上手い。

 覚えている。

 歩く。


 太陽が高くなった。

 たぶん昼だ。影が短い。

 喉が渇いている。水筒は革鞄の中にある。手が震えて蓋がうまく開けられない。三度目の挑戦でようやく開いた。

 水を飲む。半分こぼした。服が濡れた。構わない。

 座り込んだ。

 街道の脇に、古い道標がある。文字が刻まれている。

 読めない。

 目が霞んでいるせいか。いや——文字が読めないのか。

 じっと見つめる。

 文字だ。文字は読める。「プロヴィデンス 四十二リーグ」。読めた。

 読めた。

 安堵する。文字が読めなくなったらおしまいだ。記録も読めなくなる。

 紙片を取り出す。

 〔リーゼ。エリザヴェータ。蜂蜜色の髪。翡翠の瞳。竪琴。歌。笑顔。忘れるな〕

 読めた。覚えている。

 しまう。

 立ち上がる。

 歩く。

 歩く。

 歩く。


 いつの間にか、森の中にいた。

 街道から外れたのか。それとも街道が森に入ったのか。わからない。記憶が途切れている。

 ――空白。

 何があった。さっきまで、道標のところにいたはずだ。それからどうやってここまで来た?

 覚えていない。

 時間が飛んでいる。

 怖い。

 手の甲の黒い紋様が濃くなっている。手首まで広がっている。

 右目の痛みが一定になった。一定というのは、ずっと痛いということだ。波がない。ただ灼け続けている。

 紙片。

 紙片を確認する。ポケットから出す。

 〔リーゼ。エリザヴェータ。蜂蜜色の髪。翡翠の瞳。竪琴。歌。笑顔。忘れるな〕

 覚えている。

 覚えて——

 蜂蜜色の髪。

 蜂蜜色って、どんな色だ。

 蜂蜜の色だ。金色に近い。暖かい色。朝の光の中で輝く。

 思い出せる。彼女の髪を。頬にかかる癖のある前髪を。

 思い出せる。まだ。

 歩く。

 木の根に足を取られて転んだ。今度は立ち上がれなかった。

 這った。

 地面の湿った土の匂いが鼻についた。腕に力が入らない。膝も。

 這って、木の幹にもたれかかった。

 息が荒い。心臓がおかしい。速すぎるのか遅すぎるのか、自分でもわからない。

 もう一度紙片を取り出す。

 〔リーゼ。エリザヴェータ。蜂蜜色の髪。翡翠の瞳。竪琴。歌。笑顔。忘れるな〕

 翡翠の瞳。

 翡翠って。緑色の石。深い緑。

 彼女の目は深い緑だっただろうか。もう少し明るかった気がする。光を受けると澄んだ色に変わる。

 覚えて。いる。

 ペンを取り出した。紙片の余白に書き足す。

 〔僕の名前はルシアン。偽名はシエル。元第七使徒。薬師。リーゼのそばにいた。リーゼを置いて去った。馬鹿なことをした〕

 書いた。手が震えている。文字が歪んでいる。でも読める。読めるうちは大丈夫だ。

 目を閉じた。


 どれくらい意識を失っていたのか。

 目を開けた時、太陽の位置が変わっていた。西に傾いている。午後だ。数時間は気を失っていたことになる。

 体が動かない。

 いや、動く。動くが、とても遅い。指先に力を入れるのに意識を集中しなければならない。

 手の甲の黒い紋様が、前腕まで達している。

 呪いが体を蝕んでいる。目に見える形で。

 紙片を見る。

 〔リーゼ。エリザヴェータ。蜂蜜色の髪。翡翠の瞳。竪琴。歌。笑顔。忘れるな〕

 リーゼ。

 リーゼ。

 彼女の顔を思い浮かべようとした。

 蜂蜜色の髪。翡翠の瞳。小柄な体。笑顔。

 輪郭がぼやけている。

 師匠の時と同じだ。

 顔が——顔が霧の向こうに——

 いや。まだ見える。まだ見えるはずだ。

 必死に思い出す。

 朝、干し肉を食べている彼女。口を尖らせて文句を言う彼女。竪琴を弾きながら歌う彼女。走る時に髪が揺れる彼女。

 見える。まだ見える。輪郭はぼやけているが、表情は覚えている。

 忘れるな。

 忘れるな。

 忘れるな。

 紙片に書き足す。手が震えて文字にならない。

 〔リーゼ。忘れるな。リーゼの顔。忘れるな。リーゼ。リーゼ。リーゼ〕

 同じ名前を何度も書いている。馬鹿みたいだ。でも書かなければ消える。書いても消えるかもしれない。でも書かないよりはましだ。

 ペンが止まった。インクが薄くなっている。

 革鞄の中に予備のインク瓶があるはずだ。手を突っ込んで探る。指先が瓶に触れた。引き出す。蓋を開ける。ペン先をインクに浸す。

 その動作だけで息が上がった。


 夕暮れが近い。

 森の中は薄暗くなり始めている。木々の間から差し込む橙色の光が、地面に斑模様を作っている。

 僕はまだ木の幹にもたれている。立ち上がる力がない。

 考えなければならない。

 いや、考えることがある。何を考えるんだったか。

 手帳。

 手帳がない。リーゼに預けた。

 でも手帳には書いてあったはずだ。何か大切なことが。

 〔僕は鎖を断ち切りたかったんじゃない〕

 この言葉。どこかで読んだ。手帳のどこかに。いつ書いたのか覚えていない。何を書こうとしていたのかも覚えていない。

 続きがあったはずだ。

 「僕は鎖を断ち切りたかったんじゃない」——その後に、何と書くつもりだった?

 思い出せない。

 鎖。

 鎖の契約。リーゼとの呪いの共鳴。離れられない鎖。離れれば壊れる鎖。

 その鎖を、断ち切りたかったんじゃない。

 じゃあ何を望んでいた?

 「選び直したい」?

 「つなぎ直したい」?

 わからない。続きが浮かばない。

 霧の向こうに沈んだ記憶。手帳がなければ確認もできない。

 手帳は彼女の手にある。

 彼女は今、どこにいるだろう。

 廃都で目覚めて、僕がいないことに気づいて、怒っただろうか。泣いただろうか。笑って「馬鹿ね」と言っただろうか。

 全部ありえる。彼女ならどれも。

 胸が痛い。鎖の痛みとは違う。もっと奥の、もっと深い場所が。

 会いたい、と思った。

 会いたい。彼女に。リーゼに。エリザヴェータに。名前はどちらでもいい。偽名でも本名でも。あの笑顔に。あの声に。

 会いたいのに、自分から去った。

 馬鹿だ。

 レイヴンが言った通りだ。これは贖罪じゃない。自己満足だ。

 自分を犠牲にすることで罪の意識から逃げているだけだ。

 彼女の涙を見て、自分が傍にいることが罪だと思った。でも去ることもまた、彼女を泣かせる。どちらに転んでも彼女は泣く。

 なら——

 なら、傍にいて泣かせない努力をする方が、よほど誠実だったのではないか。

「……馬鹿だ」

 自分に言った。声が掠れた。

「僕は、馬鹿だ」

 紙片を見る。

 〔リーゼ。リーゼ。リーゼ〕

 同じ名前が並んでいる。震える文字で。

 僕は彼女を置いて逃げた。

 彼女のためだと言い訳して。

 実際には、自分の罪と向き合う勇気がなかっただけだ。

 彼女の泣き顔を、もう見たくなかっただけだ。

 もう一度、紙片に書く。

 〔戻りたい〕

 書いた。

 でも体が動かない。

 鎖の呪いが、もう体の芯まで食い込んでいる。手の甲から前腕、肘の先まで黒い紋様が広がっている。

 立てない。歩けない。

 視界の端が、もう黒い。

 意識が遠のきかけた。目を閉じる。開ける。また閉じる。

 どこまでが現実でどこからが夢か、境界が曖昧になっている。

 木の幹の感触。背中に押し当たる樹皮のざらつき。風の匂い。草と土の匂い。遠くで鳥が鳴いている。

 そういう感覚は残っている。

 でも、さっき何を考えていたのか、もう思い出せない。

 紙片を見る。

 〔リーゼ。エリザヴェータ。蜂蜜色の髪。翡翠の瞳。竪琴。歌。笑顔。忘れるな〕

 〔僕の名前はルシアン。偽名はシエル。元第七使徒。薬師。リーゼのそばにいた。リーゼを置いて去った。馬鹿なことをした〕

 〔リーゼ。忘れるな。リーゼの顔。忘れるな。リーゼ。リーゼ。リーゼ〕

 〔戻りたい〕

 全部自分で書いた字だ。自分の筆跡だ。

 でもどれを書いたのか、順番が思い出せない。

 怖い。

 消えていく。砂時計の砂のように、上から順に記憶が崩れていく。


 気がつくと、空が暗くなっていた。

 夕暮れを通り越して、夜だ。

 星が見える。木々の隙間から。

 寒い。

 体が震えている。外套を着ているはずなのに。

 僕はまだ木の幹にもたれている。動いていない。何時間こうしていた?

 紙片。紙片はどこだ。

 手元にある。握りしめていた。皺だらけになっている。

 読む。

 〔リーゼ〕

 リーゼ。

 ……誰だ?

 いや。知っている。知っているはずだ。

 蜂蜜色の髪。翡翠の瞳。竪琴。歌。笑顔。

 紙片に書いてある。これは僕の字だ。僕がこの人のことを書いた。

 思い出せ。

 必死に。

 蜂蜜色の——

 金色に近い、暖かい色の髪。風に揺れる。頬にかかる前髪を指で払う仕草。

 翡翠の——

 緑の瞳。深い。でも光を受けると明るくなる。笑うと細くなる。

 笑顔。

 笑顔が——

 見える。まだ見える。ぼやけているが、確かに見える。口元が弧を描く。歯が見える。目が細くなる。頬が上がる。

 この顔は。

 この顔は、大切な人の顔だ。

 僕にとって、世界で一番大切な人の。

「リーゼ」

 声に出した。声が掠れて、自分の声だとわからなかった。

「リーゼ……」

 返事はない。

 当然だ。ここに彼女はいない。僕が去ったのだから。


 足音。

 足音が聞こえた。

 重い。速い。一人分。草を踏み、枝を折りながら走ってくる音。

 僕は目を開けた——いつの間にか閉じていた——闇の中で、何かが近づいてくる。

 人影。

 大きな影だ。月明かりに照らされて、赤い髪が見えた。

 赤毛。大剣。

 知っている。この人を知っている。

 名前は——

「……おい。生きてるか」

 低い声。荒い息。走ってきたのだ。長い距離を。

 男が僕の前に膝をついた。血まみれだった。法衣の下の鎧が砕け、脇腹から血が滲んでいる。唇も切れている。片目が腫れ上がっている。

 満身創痍だ。

「レイ、ヴン……」

 名前が出てきた。レイヴン。元ヴェルハイデの近衛騎士。

「見つけたぞ、薬師。足跡を追った。半日かかった」

「なぜ——」

「姫が攫われた」

 言葉が、脳に届くまでに時間がかかった。

 姫。リーゼ。攫われた。

「マグナスが来た。第一使徒だ。聖女の力を感知して廃都に現れた。俺は手も足も出なかった。姫は——俺とお前を守るために、自分から行った」

 体の奥で、何かが砕ける音がした。

 リーゼが。

 攫われた。

 僕がいない間に。

 僕が去った後に。

「姫は言った。『シエルを見つけて。一人にしないで』と」

 レイヴンの目が僕を射抜いた。

 血と泥にまみれた顔。片目が腫れて半分閉じている。でも開いている方の目に、燃えるような光があった。

「俺はお前を信用していない。お前がいなければ姫は攫われなかったかもしれない。お前が傍にいて、呪眼を使って戦えば、マグナスにも抵抗できたかもしれない」

「……」

「だが姫が命じた。お前を見つけろと。お前の力が要ると」

 レイヴンが僕の胸ぐらを掴んだ。力加減など知ったことではないという握力で。

「おまえの力が要る、ルシアン」

 紙片が膝から滑り落ちた。

 〔リーゼ。リーゼ。リーゼ〕と書かれた紙片が。

 レイヴンの目がそれを見て、一瞬だけ動揺した。

 すぐに元の厳しい目に戻った。

「立てるか」

「……わから、ない」

「立て。立たなければ姫が死ぬ」

 死ぬ。

 リーゼが。

 体が動いた。

 理屈ではない。考えるより先に、腕に力が入った。膝が地面を押した。木の幹を支えにして、体を引き上げた。

 視界が揺れる。黒い靄が迫ってくる。手の甲の紋様が脈打つように痛む。

 でも立った。

 立っている。

 膝が震えている。風が吹いたら倒れそうだ。でも、立っている。

「レイヴン」

「なんだ」

「僕は……馬鹿なことをした」

「知っている」

「リーゼを、取り戻す」

 声が震えた。掠れて、途切れて、まともに聞こえたかどうかもわからない。

 でもレイヴンは頷いた。

「当然だ。行くぞ」

 レイヴンが僕の腕を引いた。体を支えるように肩を貸してきた。

 血まみれの騎士が、呪いに蝕まれた元使徒を支えている。

 滑稽な絵面だ。

「レイヴン」

「なんだ」

「すまない」

「謝るな。謝る暇があったら歩け」

「……ああ」

 僕は歩き始めた。

 レイヴンに支えられて。

 紙片はポケットにしまった。

 〔リーゼ。忘れるな〕

 忘れない。

 まだ忘れていない。

 彼女の顔も。名前も。笑顔も。泣き顔も。

 全部覚えている。

 覚えているうちに。

 取り戻す。

 夜の森を、二人の男が歩いていく。一人は血まみれで、一人は呪いに蝕まれて。どちらも満身創痍で、まともに歩くことすらままならない。

 でも歩いている。

 同じ方向に。

 同じ人のために。


── リーゼ side ──

 あの人の体温が消えていたのに気づいた瞬間を、あたしは一生忘れないと思う。

 手を伸ばした。石の床が冷たかった。それだけで全部わかった。

 起き上がって、手帳を見つけて、最後のページを読んだ。

 『リーゼを頼む』

 ——ああ、やっぱり。

 怒りが来た。それから悲しみが来た。それから、もっと深い場所から、静かな確信が来た。

 この人は、やっぱりあの夜の人だ。

 五年前、燃える城下町であたしを逃がした少年と同じことをしている。あの夜も、少年はあたしの手を離した。「逃げろ」と言って、自分は兵士の前に立ちはだかった。代償を払うとわかっていて。目の力を使えば記憶が消えるとわかっていて。

 そしてあたしを助けた後、あの少年は倒れた。あたしを逃がして、自分は残った。

 今日も同じだ。

 あたしを置いて、一人でいなくなる。あたしのためだと思い込んで。自分が壊れる方を選んで。

 「また、あたしを置いていくの」

 声が出た。誰もいない廃墟に、自分の声が反響した。

 鎖の契約のことは知っている。離れれば呪いが加速する。あたしには聖女の浄化がある。ある程度は耐えられる。でもシエルにはそれがない。離れれば一方的に壊れるのはあっちの方だ。

 シエルはそれを知っている。知った上で去った。

 つまり、自分が壊れることを選んだ。あたしのために。

 ——ふざけないで。

 あたしのためだって? あたしがいつそんなこと頼んだ。壊れてくれなんて言ってない。いなくなってくれなんて言ってない。あたしが昨日泣いたのは、シエルのせいじゃない。お父様やお母様のことを思い出しただけだ。それなのに、あの人は「自分が傍にいるから泣くのだ」と、そう思ったのだ。

 馬鹿。大馬鹿。

 胸の奥が灼けるように痛んだ。鎖の契約が反応している。シエルが離れていく。距離が開くたびに、見えない鎖が引き千切られるように軋む。

 あたしは追おうとした。

 追えなかった。


 マグナスの手はひどく冷たかった。

 第一使徒。重力を支配する男。レイヴンの大剣を空中で止めて、片手で床に叩きつけた。あたしは聖女の力で感じ取っていた。この男には敵わない。戦闘力の次元が違う。

 抵抗しようとした。でも、できなかった。レイヴンがこれ以上傷つくのを見ていられなかった。

 だからあたしは自分から行った。

 不思議なことに、マグナスに連れ去られる時、恐怖よりもシエルへの怒りの方が大きかった。

 あたしがこうなったのは、シエルがいなくなったからだ。シエルが傍にいてくれたら、二人で逃げられたかもしれない。呪眼の力で紋章を解析して、マグナスの聖遺物にも対抗できたかもしれない。

 でもシエルは去った。あたしを守るためだと思い込んで。結果、あたしはもっと危険な場所に連れていかれようとしている。

 ——もし生きてたら、絶対に殴る。一発じゃ足りない。

 手帳を懐に抱きしめた。シエルの手帳。シエルの記憶の全て。これだけは手放さない。マグナスが「好きにしろ」と言ってくれたのは、せめてもの救いだった。


 暗い場所に入れられた。

 石造りの部屋。窓はない。天井が低い。空気が冷たく湿っている。地下だろう。教会の施設の地下。

 両手に鎖がかけられた。物理的な鎖。鉄の鎖。壁の環に繋がれて、立ち上がれるが歩き回ることはできない。

 皮肉だ。

 「鎖の契約者」が、本物の鎖に繋がれている。

 鉄の鎖は冷たくて重い。手首に食い込んで痛い。ガチャガチャと音がうるさい。

 でも、シエルとの鎖は違った。

 見えなかった。音もしなかった。でもあの鎖の方が、ずっと重かった。そしてずっと温かかった。離れれば痛いのは、繋がっていた証拠だから。痛みは——嫌だけど——あの人がまだ生きている証だから。

 胸の奥で、鎖の契約がかすかに脈動している。シエルの存在を感じる。遠い。すごく遠い。でも、ある。あの人はまだ、この世界のどこかにいる。

 暗い部屋の中で、あたしは手帳を開いた。鎖に繋がれた手で、不器用にページをめくる。

 シエルの筆跡。几帳面で、でも後半に行くほど乱れていく文字。あたしのことがたくさん書いてある。薬草の記録の合間に、あたしの名前が何度も出てくる。

 〔リーゼの歌が上手くなっている〕

 〔リーゼが作ったシチューが辛すぎた。塩と砂糖を間違えたらしい。でも全部食べた〕

 〔リーゼの笑顔を見ると、呪いのことを一瞬忘れる。これは比喩ではなく事実だ〕

 ——馬鹿。こんなの読んだら、余計に怒れなくなるじゃない。

 手帳を胸に押し当てた。シエルの匂いがする。薬草と、インクと、あの人の匂い。

 泣かない。泣いてる場合じゃない。

 ……ちょっとだけ、泣いた。暗い部屋の中で、誰にも聞こえないように。


 時間が過ぎた。どれくらいかわからない。

 鎖の感覚で、シエルがまだ生きていることだけはわかる。弱くなっている。遠くなっている。でも消えてはいない。

 あの人は来る。

 あたしはそう信じている。根拠はない。根拠なんかない。でも信じている。

 だってあの人は、記憶を全部失っても、あたしの名前を紙切れに書き続けるような人だから。

 ——知ってるよ、シエル。あんたがそういう人だってこと、あたしが一番よく知ってる。

 来なかったら殴りに行く。こっちから探しに行く。鎖でも壁でも教会でも、全部ぶち壊して。

 鉄の鎖がガチャリと鳴った。手首が痛い。でも、見えない鎖の方がもっと痛い。もっと重い。もっと温かい。

 暗い部屋の中で、あたしの中の別の声が静かに語りかけた。

 それはリーゼではなく、エリザヴェータの声だった。

 ——……来なさい、ルシアン。

 鎖が鳴る。

 ——来て、あの夜の続きを始めましょう。五年前、貴方はわたくしを助けて倒れた。今度は、わたくしが貴方を助ける番です。

 王女の声が鎖の音に重なって消えた。残ったのは、鉄の冷たさと、あたしの呼吸だけだった。

 手帳を抱きしめたまま、あたしは目を閉じた。

 暗い。寒い。鉄の鎖が重い。

 でも心の中には、もう一つの鎖がある。見えないけれど、確かにある。あの人とあたしを繋ぐ、温かくて痛い鎖が。

 切れていない。まだ、切れていない。

 だからあたしは待つ。

 待って、待って、待って——そして来なかったら、自分から行く。

 あたしはヴェルハイデの王女だ。待つだけの女じゃない。

← 嘘と鎖の契約者 トップへ戻る
← 2110 Lab TOPへ戻る
プライバシーポリシー お問い合わせ