← TOP
プライバシーポリシー お問い合わせ

第十三章

鎖を選ぶ理由

〔二百六十三日目。日数が正しいかはわからない。手帳の記録にいくつか空白がある。自分の筆跡でないページが増えた。右目が灼けるように痛む。文字が揺れて読みにくい。でも書く。書かなければ、消える〕


 地面が冷たかった。

 頬に触れているのが土なのか石なのか、判別できない。体中が軋んでいる。関節の一つ一つに錆びた釘を打ち込まれたような鈍痛。右目は焼けるどころではなく、頭蓋ごと燃えているようだった。

 何が起きた。

 断片的な映像が明滅する。リーゼの手が離れた。走った。夜の森を。呪いが這い上がってきた。脚から、腰から、胸を通って頭へ。目の奥で何かが暴れて、世界がぐちゃぐちゃに歪んで――

 空白。

空白の手帳

 空白の後に、ここにいる。

「――おい。死んでるのか」

 声がした。低く、粗い声。知っている声だ。たぶん知っている。手帳を確認しなければ確信が持てない。

 目を開けた。左目だけが光を捉えた。右目は眼帯の下で脈を打ち続けている。

 赤い髪の男が僕を見下ろしていた。顔の左頬に古い刀傷。大剣を背負い、革の鎧を纏っている。全身が返り血で汚れていた。自分の血なのか他人の血なのか、判別がつかない。

「……レイヴン」

 名前は出た。手帳なしでも。元ヴェルハイデ近衛騎士。リーゼの――エリザヴェータの護衛。

「生きてたか。運のいい野郎だ」

 レイヴンの声に安堵はなかった。鉄のように硬い声だ。

 僕は体を起こそうとした。腕が震えて力が入らない。三度目の挑戦で、なんとか上体だけを起こした。

 周囲を見渡す。森の中だった。木々の合間から明け方の光が差し込んでいる。焚き火の残り火が微かに赤い。

 僕はここで倒れていたのか。どのくらいの時間が経った。

「レイヴン。リーゼは」

「その前に訊く」

 レイヴンが僕の眼前にしゃがみ込んだ。近い。彼の目が僕を射抜いている。血走った眼。怒りと疲労の色。

「おまえ、なぜ姫を一人にした」


 心臓が縮んだ。

 姫。レイヴンがそう呼ぶのはリーゼ――エリザヴェータだけだ。

「何があった」

「質問してるのは俺の方だ、ルシアン」

 本名で呼ばれた。その響きが、頭の奥に冷たい針を刺す。

「おまえは元使徒だ。第七使徒。教会の犬だった男だ。その男が姫と旅をしていた。そして姫を一人にして消えた。――何を企んでいる」

「何も企んでいない」

「信じると思うか」

「思わない。でも事実だ」

 レイヴンの拳が僕の胸ぐらを掴んだ。引き寄せられ、顔が近づく。血と鉄の匂いがした。

「五年前、おまえたち使徒がヴェルハイデを焼いた。俺の国を。俺の仲間を。俺が守るべきだった全てを」

「僕はあの作戦に参加していない」

「だが教会側にいただろう。知っていたんだろう。ヴェルハイデが潰されることを」

 返す言葉がなかった。

 知っていた。事前に知っていたかは記憶が曖昧だ。だが使徒だった。教会に属していた。ヴェルハイデを滅ぼした組織の一員だった。

 その事実は消えない。

「姫はおまえを信じていた。なぜだかわからんが、あの人はおまえを信じた。その姫を、おまえは置いて行った。逃げたんだ。違うか」

「……違わない」

 レイヴンの拳に力がこもった。殴られるかと思った。

 殴られなかった。

 代わりに、突き放すように離された。背中が地面に落ち、痛みが全身を駆け抜けた。

「姫は攫われた」

 レイヴンの声が変わった。怒りの底に、別の感情が混じっている。恐怖だ。彼は怯えている。

「第一使徒マグナスだ。あいつが姫を連れていった。聖都プロヴィデンスに」


 聖都プロヴィデンス。

 教会の心臓部。大司教アベラールの膝元。

「いつだ」

「昨日の夕刻。俺は間に合わなかった」

 レイヴンが自分の左腕を見下ろした。肩から肘にかけて、布が赤黒く染まっている。切り傷だ。深い。

「マグナスと斬り合った。勝てるわけがなかった。俺が足止めしている間に姫を逃がそうとしたが――あいつの聖遺物は重力だ。俺も姫も、その場に縫い止められた」

 天秤の冠(リブラ・クラウン)。重力を支配する聖遺物。地面に叩きつけられたら、指一本動かせない。

「姫は――最後に叫んだ。おまえの名を」

 息が止まった。

「シエル、と。偽名の方を」

 レイヴンの声に軽蔑が混じっていた。偽名を叫ばせたことへの怒り。けれど同時に、姫がその名を叫んだという事実の重さが、彼の目に影を落としている。

「俺は叩きのめされて転がった。意識が戻った時には二人とも消えていた。マグナスの部隊が聖都に向かったことだけは追跡できた」

「それで、僕を探していたのか」

「……おまえの力が要る」

 その言葉を絞り出すのに、レイヴンがどれほどの屈辱を呑み込んだか。元使徒に頭を下げることの意味を、彼は骨で理解している。

「元使徒でなければ聖都には入れない。教会の内部構造を知っている人間でなければ、姫を取り戻せない。――俺にはおまえしか心当たりがない」

「だから僕を探した」

「ああ。おまえの呪いの痕跡を辿った。暴走の跡は目立つ。森が半里にわたって枯れていた」

 僕は右手で顔を覆った。呪いの暴走で森を枯らした。そこまで制御を失っていたのか。

 頭痛が増している。こめかみを万力で締められているようだ。記憶の断片が散らばっている。昨日の記憶。一昨日の記憶。手帳を見なければ、どこからどこまでが本当で、どこからが欠落なのかわからない。

「……手帳を取ってくれ」

「あ?」

「外套の内ポケット。革表紙の手帳だ」

 レイヴンは怪訝な顔で僕の外套を探り、手帳を引き抜いた。放るように投げてよこす。

 僕はそれを両手で受け止めた。

 この手帳が、今の僕の全てだ。


 震える手でページをめくった。

 最新の記述を探す。

 〔二百六十一日目。リーゼの隣にいることで、彼女を危険に晒している。教会が僕を追っている以上、彼女の傍にいれば巻き込まれる。鎖の契約は僕がいなくても、彼女が離れることを選べば解除されるかもしれない。不確かだ。でも試す価値はある。僕がいなくなれば、彼女は自由になれる〕

 自分の筆跡だ。でも、書いた時の感情が遠い。他人の日記を読んでいるような感覚。

 次のページ。

 〔二百六十二日目。夜明け前。リーゼが眠っている間に発つ。手帳の最後のページに一行だけ書いた。「リーゼを頼む」。誰に宛てたのかは自分でもわからない。ノクスか。レイヴンか。それとも、未来の自分か〕

 そして、次のページは空白だった。暴走で書けなかったのだろう。

 ページを戻す。もっと前。リーゼと旅をしていた頃の記録。

 ページをめくるたびに、彼女の名前が目に飛び込んでくる。

 〔百四十日目。リーゼが風邪をひいた。薬を調合した。彼女は苦い薬を嫌がって顔を顰める。子供みたいだ〕

 〔百五十三日目。リーゼが即興で歌を作った。「薬師シエルの歌」。内容はくだらない。でも笑ってしまった。声に出して笑ったのは何年ぶりだろう〕

 〔百七十八日目。ミラが夜泣きした。リーゼが抱きしめて子守歌を歌った。その横顔を見ていた。手帳にこんなことを書くのはおかしいが、綺麗だと思った〕

 〔百九十一日目。リーゼの歌が上手くなっている。以前より浄化の効果が強い。彼女の傍にいるだけで呪いの進行が遅くなる。これは利己的な理由だ。でも、それだけじゃない。それだけじゃないと信じたい〕

 ページの大半が、リーゼのことだった。

 薬草の記録。天候の記録。戦闘の記録。そういった実務的な内容に混じって、いや、それ以上の分量で、彼女に関する記述が手帳を埋めている。

 彼女が作った料理の味。彼女が言った冗談。彼女の笑顔の種類。彼女が泣いた夜のこと。

 過去の僕は、必死に書き留めていた。

 忘れないように。消さないように。この人のことだけは。

「……何を読んでいる」

 レイヴンの声が遠い。

「自分の記憶だ」

「は?」

「僕の呪眼は使うたびに記憶を奪う。もう三年以上分の記憶が欠けている。だから手帳に書く。忘れた分を、文字で補う」

 レイヴンが沈黙した。

 僕は読み続けた。


 あるページで、手が止まった。

 〔二百十五日目。手帳を整理していて気づいたことがある。僕は師匠の言葉を断片的に書き残している。いくつかは読み返すたびに「知っている」と思えるが、いくつかは完全に他人の言葉だ。今日見つけた一節を写す――〕

 その下に、角ばった筆跡で一行。

 〔「力は誰かのために使え。それだけが、呪いに抗う方法だ」〕

 師匠の言葉。

 カルロ・ヴェネディスの言葉。

 顔はもう思い出せない。声も霞がかかっている。でもこの一行だけは、ペンの筆圧が違う。何度も書き直した跡がある。大事な言葉だと、過去の僕が判断したのだろう。

 「力は誰かのために使え」

 そのすぐ下に、別の日付で書き足された一文があった。

 〔二百二十八日目。師匠の言葉を反芻している。「呪いに抗う方法」とは何だ。呪眼の代償を減らす技術的な方法か。それとも、もっと抽象的な意味か。思い出せない。でも、この言葉を読むたびに胸が痛む。僕はかつて誰かと約束をした気がする。何を約束したのかが、思い出せない〕

 約束。

 この手帳に何度も出てくる言葉だ。「誰かと交わした約束」。内容は失われている。だが痕跡だけが残っている。爪の跡のように、記憶の壁に刻まれた傷痕。

 師匠との約束だったのか。

 「力は誰かのために使え」

 それが約束の内容なのか。

「おい。いつまで読んでいる」

 レイヴンの声が苛立っていた。当然だ。姫が囚われている。一刻を争う。こんな場所で手帳を読んでいる場合ではない。

「レイヴン」

「何だ」

「僕はリーゼを利用していたのかもしれない」

 正直に言った。嘘をつく余裕がなかった。

「彼女の傍にいると、呪いの進行が遅くなる。聖女の浄化だ。僕はそれを知っていて、彼女の隣にいた。利己的な理由だ」

「……知ってる」

「知っていたのか」

「おまえの目を見ればわかる。自分が壊れていくのを止めるために姫を利用していた。違うか」

 否定できなかった。

 レイヴンが唾を吐いた。

「最低だな」

「ああ」

「それでも姫はおまえを選んだ。俺の手を取れと何度言っても聞かなかった。おまえの傍がいいと。嘘つきの元使徒の傍がいいと」

 胸が痛んだ。物理的な痛みではない。もっと奥の、手が届かない場所が。

「だから訊いてるんだ。おまえは何なんだ。姫にとって何なんだ。利用していただけか。それとも――」

「それとも、じゃない」

 声が出た。自分の意志よりも先に。

「利用していた。それは否定しない。でもそれだけじゃなかった。いつからかわからない。手帳を読み返せば、たぶん百五十日目あたりから変わっている。彼女のことを書く量が増えている。薬草の記録よりも多くなっている」

「それが何の証明になる」

「証明にはならない。でも、記憶が消えていく人間にとって、手帳に書くことは命そのものだ。限られたページに、何を残すかは選んでいる。僕は――リーゼのことを残すことを選んでいた。ずっと」

 レイヴンは黙った。

 焚き火の残り火が、ぱちり、と小さく爆ぜた。


 沈黙の中で、僕はもう一度手帳を開いた。

 師匠の言葉。

 「力は誰かのために使え。それだけが、呪いに抗う方法だ」

 自分のために力を使えば、呪いは僕を食い潰す。

 でも誰かのためなら。

 リーゼが僕の傍で歌ってくれた時、呪いが鎮まった。あれは彼女の聖女の力だけじゃなかったのかもしれない。彼女が「僕のために」歌ってくれた、その意志そのものが。

 力の使い方。向ける先。

 自分を守るためじゃなく。

「レイヴン」

「……何だ」

「僕は鎖を断ち切りたいんじゃない」

 手帳を閉じた。胸の前で抱えるように。

「選び直したいんだ。彼女の隣にいることを、呪いに強制されたからじゃなく、自分の意志で選びたい。仕方なくじゃなく。怖いからじゃなく。ただ、彼女の隣にいたいから」

 レイヴンが僕を見ていた。赤い目が。

「それは——」

「身勝手だろう。わかってる。でも、身勝手じゃない理由で人の隣にいるのは嘘だ。僕はもう嘘をつきたくない。少なくとも、このことに関しては」

 風が木々を揺らした。夜明けの風。冷たくて、澄んでいる。

「僕の力を、今度こそ正しく使わせてくれ」

「……正しくだと」

「師匠の言葉がある。力は誰かのために使え。僕はずっと力を使うことから逃げていた。使えば記憶が消えるから。でも逃げた結果がこれだ。彼女を一人にした。守れなかった」

 レイヴンの顔が歪んだ。嫌悪か。逡巡か。

「おまえを信じる理由がない」

「ないだろうな」

「姫を利用していた男だ。使徒だった男だ。信用できるわけがない」

「その通りだ」

「――だが」

 レイヴンが立ち上がった。大剣の柄に手をかけ、それを背負い直す。

「俺一人じゃ聖都には入れない。教会の内部構造は知らんし、使徒級の相手と戦う力もない」

「つまり」

「利用してやる。おまえが姫のために使えるなら、使い潰す。途中で裏切ったら――」

 レイヴンの手が大剣の柄を握り締めた。

「俺がおまえを斬る。使徒だろうが関係ない。姫を傷つける者は、全員俺の敵だ」

「……了解した」

 僕は痛む体を引きずって立ち上がった。膝が笑っている。右目は灼けるように痛い。でも、立てる。歩ける。

 まだ壊れていない。


 森の外れに差しかかった時、藪の向こうから声がした。

「やあ、まだ生きていたか。安心したよ」

 飄々とした少年の声。聞き覚えがある。

 藪を掻き分けて現れたのは、外見十四歳ほどの少年だった。銀灰色の髪を無造作に伸ばし、古びた外套を羽織っている。年齢にそぐわない老獪な目。

 ノクス。

 その背後から、おずおずと小さな影が顔を覗かせた。

「シエルさん……!」

 ミラだった。十歳の少女。栗色の髪を二つに結び、大きな目を涙で滲ませている。

「シエルさん、リーゼさんが——」

「知ってる。大丈夫だ、ミラ。取り戻す」

 ミラが僕の腰にしがみついた。小さな体が震えている。僕は片手で彼女の頭を撫でた。

 レイヴンがノクスを睨みつけていた。

「情報屋。おまえは信用ならん」

「おや、手厳しいね。でも今のところ、僕以上に教会の内部構造を知っている人間はいないと思うよ」

「おまえが姫たちの居場所を教会に売ったんだろう」

 レイヴンの声が低い。殺気に近い圧。

 ノクスは片手を上げて微笑んだ。だが、いつもの飄々とした笑みではなかった。

「……ああ。売ったよ。情報を」

「ふざけるな——」

「待ってくれ、レイヴン」

 僕はレイヴンの腕を掴んだ。力が入らない。だが止める意志は伝わったらしい。レイヴンが歯を食いしばって動きを止めた。

「ノクス。理由を聞く」

「理由、ね」

 ノクスの目が変わった。飄々とした仮面が剥がれ、その下にあるものが一瞬だけ覗く。

 古い。

 あの目は、外見よりずっと古い年月を見てきた目だ。

「僕もかつて教会の実験体だった」


 焚き火を囲む四人。ミラは僕の隣で膝を抱えている。レイヴンは離れた場所で立ったまま。ノクスだけが悠然と座っている。

「聖廟教会には表の顔と裏の顔がある。表は信仰と秩序。裏は——研究だ」

 ノクスの声は穏やかだが、底に苦みがあった。

「大司教アベラールが推し進めている計画がある。『聖女収穫計画』。聖女の力を人工的に再現し、管理下に置く研究だ。その過程で、多くの子供が実験体にされた」

「……ミラの呪いも」

「そう。マルヒェン村で撒かれた呪いも、ヴェルハイデの周辺で広がった呪いも、全て同じ計画の一部だ。呪いを撒いて聖女を炙り出す。浄化の力を使わざるを得ない状況を作り、聖女を特定する」

 ミラが僕の袖を握り締めた。

「僕は百年以上前にその研究の被験者だった。結果として老いない体を手に入れた。だが引き換えに、多くのものを失った」

「百年以上前?」

 レイヴンが疑わしげに目を細めた。

「見た目通りの年齢じゃない。それは前にも言ったはずだよ、レイヴン」

「信じていなかっただけだ」

「信じなくても事実は変わらない。僕はこの百年、教会の闇を観察し続けてきた。情報網を構築し、人脈を築き、機が熟すのを待っていた」

「機?」

「教会を内側から崩す機会だよ。外から攻めても聖都は落ちない。内部に亀裂を入れるには、教会自身に矛盾を突きつける必要がある」

 ノクスが僕を見た。

「シエル。君たちの情報を教会に売ったのは、教会の反応を見るためだ」

「反応?」

「アベラールがどう動くか。どの程度の戦力を割くか。聖女の確保にどこまで本気か。それを測るために、君たちを餌にした」

 レイヴンが地面を蹴った。

「おまえ——!」

「怒るのは当然だ。でも結果として、教会の本気度が分かった。マグナスを直接投入してきた。第一使徒を。つまりアベラールは聖女の確保を最優先事項と位置づけている。計画が最終段階に入っている証拠だ」

「姫を危険に晒した言い訳にはならん!」

「ならないよ。言い訳じゃない。僕は自分の目的のために他人を駒にした。それは事実だ」

 ノクスの声が低くなった。仮面のない声。

「でも教会を潰したいのは本気だ。百年前から、ずっと」

 沈黙が落ちた。

 ミラが小さな声で言った。

「ノクスさんは……ミラと同じだったの?」

「同じだったよ、ミラ。痛い思いをして、怖い思いをして、逃げ出した。違うのは、僕は逃げた先で復讐を選んだということだけだ」

 ノクスがミラの頭をそっと撫でた。その仕草だけが、この少年の本当の温度に見えた。


「教会の内部構造を教えろ」

 僕はノクスに向き直った。

「聖都プロヴィデンスの構造。地下施設の配置。警備体制。リーゼが囚われている可能性の高い場所。全部だ」

「全部、ね。いいよ。元々そのつもりで来たんだ」

 ノクスが外套の内側から、丸めた羊皮紙を取り出した。広げると、精密な図面が描かれている。聖都の地図だ。

「聖都プロヴィデンスは三層構造だ。地上の都市部、城壁内の教会区域、そして地下の研究施設。リーゼが連れていかれたのは、おそらく地下の最深部。『聖廟』と呼ばれる区画だ」

「聖廟?」

「教会の名前の由来になった場所だよ。表向きは聖遺物の保管庫。実際は――研究施設だ。聖女計画の中枢」

 ノクスの指が地図の一点を叩いた。

「正面からは入れない。城門の検問は使徒級の紋章で守られている。通常の手段では突破不可能だ」

「じゃあどうする」

「地下通路がある」

 ノクスの指が地図を辿った。城壁の外側から、地下に潜り込むルート。

「百年前に掘られた古い坑道だ。元は鉱山の排水路。教会の公式記録からは抹消されているが、僕は知っている。自分が逃げた道だからね」

「百年前の坑道が今も使えるのか」

「三年前に確認した。狭くて汚いが、通れる」

「待て」

 レイヴンが割り込んだ。

「おまえの情報を信じて突入して、罠だったらどうする。また姫の居場所を売るつもりかもしれん」

「その可能性はあるね」

「……おまえな」

「でも考えてみてくれ。僕がここにいる理由は何だ。教会に売るなら、君たちの位置情報を伝えるだけでいい。わざわざ顔を出して地図まで見せる必要はない」

「信用できるとは言っていない」

「信用はいらないよ。利用してくれればいい。僕は教会を潰したい。君たちはリーゼを取り戻したい。利害が一致している。それだけで十分だ」

 レイヴンとノクスの視線がぶつかった。

 僕は二人の間に手を差し入れた。

「ノクス。一つだけ約束しろ」

「何を?」

「ミラの安全だ。聖都には連れていけない」

「それは当然だ。ミラは僕の隠れ家に置いていく。信頼できる人間が一人いる」

「シエルさん」

 ミラが僕の袖を引いた。大きな瞳が潤んでいる。

「リーゼさんを、助けてね」

「……ああ。約束する」

 約束。

 その言葉を口にした時、胸の奥で何かが震えた。師匠との約束。内容は思い出せない。でも「約束」という行為そのものが、僕の中の何かに触れる。

 約束は守るものだ。

 それだけは、記憶がなくても知っている。


 陽が昇った。

 森を出て、街道に合流する。南東の方角。聖都プロヴィデンスまで、馬を使えば一日半。徒歩なら三日。

「馬は手配してある」

 ノクスが指を鳴らすと、街道の向こうから馬が二頭、引き手に導かれてやってきた。引き手は顔を布で覆った女性で、ノクスに軽く頷くと、馬を繋ぎ止めて無言で去っていった。

「情報屋の手回しのよさだけは認めてやる」

 レイヴンが渋い顔で馬に跨がった。

 僕はミラの前にしゃがみ込んだ。

「いい子にしていろ。すぐ戻る」

「……嘘つき」

「え?」

「シエルさんは嘘つきだもん。すぐ戻るって言って、前も長かった」

 返す言葉がなかった。

「でも、信じる。シエルさんとリーゼさんが一緒に帰ってくるの、信じて待ってる」

 ミラの目はまっすぐだった。怖がりで、おどおどしていた少女の目ではなかった。

「……ありがとう、ミラ」

 僕は彼女の頭を一度だけ撫でて、馬に跨がった。

 ノクスがミラの肩に手を置いた。

「大丈夫だよ、ミラ。彼らは帰ってくる。少なくとも、あの目をした人間は死なない。死ぬ前に帰ってくる」

「ノクスさんも行くの?」

「途中までね。案内役だから」

 ノクスが三頭目の馬――いつの間にか用意されていた――に飛び乗った。

 僕たちは馬を走らせた。


 街道を南東に飛ばしながら、僕は片手で手帳を開いた。馬上で書くのは難しいが、不可能ではない。

 揺れる馬の背で、短い一文を書き加えた。

 〔リーゼを取り戻しに行く。力を使う覚悟はある。失う記憶があるなら、それでもいい。ただし、彼女のことだけは忘れない。この手帳がある限り〕

再会の誓い

 手帳を閉じた。

 胸の内ポケットにしまう。

 風が吹いていた。初秋の乾いた風。髪が煽られ、眼帯の端がはためく。右目の痛みは変わらない。でも、痛みの向こう側に、妙な静けさがある。

 覚悟を決めた後の静けさだ。

 前にも、こんな感覚があった気がする。

 いつだ。どこでだ。

 思い出せない。

 でも、体が覚えている。この感覚の先に何があるかを、体だけが知っている。

「シエル」

 レイヴンが隣に馬を並べてきた。

「一つだけ言っておく」

「何だ」

「姫を傷つけたら殺す。それだけだ」

「わかっている」

「……それと」

 レイヴンが前を向いたまま、低い声で続けた。

「手帳の話。おまえが記憶を失う呪いを持っていること。姫は知っていたのか」

「……知っていた。最後の方は」

「そうか」

 それきり、レイヴンは口を閉ざした。

 何を思ったのか、その横顔からは読み取れなかった。


 一日半の行程を、僕たちは一日で駆けた。

 馬を替え、夜を徹して走り続けた。レイヴンの体力は化け物じみていた。傷だらけの体で一睡もせず、馬を操り続ける。元近衛騎士の底力だ。

 ノクスは途中の分岐点で別れた。先行して地下通路の入り口を確保するという。

「城壁の南東、古い井戸が目印だ。蓋が石板で塞がれている。紋章の鍵がかかっているけど、シエルなら解除できるだろう」

「ああ」

「中に入ったら西に進め。分岐が三つある。全て右を選べ。突き当たりの壁に教会の紋章がある。これも解除すれば、聖廟の地下回廊に出る」

「了解した」

「一つ忠告。聖廟の地下には膨大な紋章が張り巡らされている。警報紋章、監視紋章、妨害紋章。呪眼で全て見えるだろうが、全てに対処しようとしたら記憶がいくつ飛ぶかわからない。最小限の干渉で進むことだ」

「わかってる」

 ノクスが薄く笑った。

「……頑張れよ、シエル。僕にはできなかったことを、君がやってくれ」

 百年逃げ続けた少年の声が、その一瞬だけ震えた。


 夕刻。

 丘の上から、それが見えた。

 聖都プロヴィデンス。

 大陸中央に聳える白亜の都市。巨大な城壁が環を描き、その内側に無数の尖塔が天を突いている。中央に最も高い塔――大聖堂の尖塔。夕日を浴びて黄金色に輝いている。

 美しい都だった。

 遠くから見れば、ただ美しい。

「……でかいな」

 レイヴンが呟いた。

 僕は城壁を見つめていた。白い石壁。その表面に刻まれた紋章の数々。ここからでは肉眼では見えない。だが、わかる。感じる。右目が脈を打っている。

 脈が、速くなっている。

 まずい。

 呪眼が勝手に起動しようとしている。

 僕は眼帯を押さえた。だが遅かった。右目の奥で何かが弾け、瞳孔の中で紋章が回転し始める。

 視界が反転した。

 左目の世界と右目の世界が重なる。現実の風景の上に、紋章の設計図が透けて見える。

 見えた。

 城壁の内側に張り巡らされた紋章群。数百。いや、数千。防御紋章、探知紋章、結界紋章、攻撃紋章。多層多重の紋章ネットワークが、都市全体を覆っている。

 そしてその中心に――城壁の下、地の底に――途方もなく巨大な紋章が脈動していた。

 何だ、あれは。

 一つの紋章がこれほどの規模を持つはずがない。都市の地下全域を覆う紋章陣。幾何学的な美しさの中に、禍々しい脈動がある。呪いの紋章に似ている。だがもっと複雑で、もっと古い。

「シエル! おい、目が——」

 レイヴンの声が遠い。

 僕は眼帯を押さえ、意志の力で呪眼を閉じた。視界が通常に戻る。代わりに、頭の奥を錐で刺すような痛みが走った。

「……大丈夫だ。制御できた」

「目が光っていたぞ。勝手に」

「ああ。呪眼がこの都市に反応している。城壁の中に膨大な紋章がある。地下にも」

「どういうことだ」

「わからない。だが、ただの防衛紋章じゃない。何か別の目的がある」

 城壁の白い石が、夕日に燃えている。

 美しい都の地下に、何が眠っている。

 右目が疼いた。見たい、と呪眼が囁いている。もっとよく見ろ、と。あの紋章陣の全容を、隅から隅まで。

 僕は歯を食いしばって、その誘惑を押し殺した。

「行くぞ」

「ああ」

 丘を下りながら、僕は一度だけ振り返った。

 聖都の城壁。金色に光る尖塔。

 あの中にリーゼがいる。

 待っていろ。

 今度は逃げない。


── リーゼ side ──

 何日経ったかわからない。

 暗い部屋の中では、朝も夜も同じだ。鉄の扉が開くのが食事の合図で、それが一日に二回。だから、扉が開いた回数を数えれば日数がわかるはずだった。

 最初の二日は数えていた。三日目から怪しくなった。眠りが浅くて、起きているのか寝ているのかわからない時間が増えた。

 でも、一つだけ確かなことがある。

 胸の奥で、鎖の契約がまだ脈動している。

 シエルが生きている。

 弱い。とても弱い。灯火が風に揺れるような頼りなさ。でも消えていない。あの人は、まだどこかで生きている。

 そして今日——さっき——鎖越しに、かすかな変化を感じた。

 呪眼が動いた。

 あたしの聖女の力が、遠い場所からの紋章の起動を感じ取った。シエルの呪眼が——微かに、ほんの一瞬だけ——瞳を開いた。

 あの人がまだ戦っている。まだ壊れていない。

 手帳を抱きしめる腕に力がこもった。


 鉄の扉が開いた。

 食事の時間だ。質素な黒パンと水の入った椀を持って入ってきたのは、マグナスだった。

 第一使徒が直接食事を運んでくる。他の兵士に任せてもいいはずなのに、いつもこの人が来る。表情はない。事務的な所作で、パンと椀を床に置く。

 最初の日は怖かった。レイヴンを片手で叩き伏せた男が、あたしのすぐ傍にいる。でも日が経つにつれて、少しだけわかったことがある。この人は——残酷ではない。必要なことを、必要なだけする。それ以上のことはしない。

「食え」

「……ありがとう」

 マグナスが一瞬、不思議そうな顔をした。捕らえた相手に礼を言われるのは想定外だったのだろう。

「使徒が迎えに来る。元第七使徒が」

 あたしの心臓が跳ねた。

 マグナスはあたしの反応を観察していた。感情のない目で。でもそこにわずかな——好奇心のような何かがあった。

「知ってる。あの人は来る」

「なぜそう言い切れる」

 言い切れる根拠なんて、ない。鎖の契約で生きていることはわかるが、来るかどうかはわからない。呪いで壊れかけている。手帳もない。記憶が崩れている。あたしのことさえ忘れかけているかもしれない。

 でも、あたしは知っている。

「だって、あの人はいつもそうだから」

 声が自分でも意外なほど穏やかだった。

「自分が壊れてでも、誰かを助けに来る人だから。五年前もそうだった。今もきっとそう」

 マグナスが沈黙した。

 長い沈黙だった。鉄の扉の向こうで、誰かの足音が遠ざかっていくのが聞こえた。

「……教会に逆らっても、何も変わらない」

 マグナスはそう言って、背を向けた。前にも同じようなことを言っていた。「誰も救えない」と。

「あなたも、誰かを助けたかったことがあるの」

 マグナスの足が止まった。

 振り返らなかった。そのまま鉄の扉を閉めて、出て行った。

 ——あの人も、何かを抱えている。

 教会の最強の使徒。でもあの目は、あたしが知っているどの使徒よりも疲れた目だった。


 黒パンをちぎりながら、あたしは考えていた。

 五年前のことを。

 あの夜、城下町が燃えていた。レイヴンとはぐれて、あたしは一人で逃げていた。教会の兵士に見つかりそうになった時、少年が現れた。教会の法衣を着た少年。右目に包帯を巻いた、あたしと同じくらいの年頃の少年。

 あの少年は、兵士の前に立ちはだかった。目を光らせた。兵士たちが動けなくなった。呪眼の力だ。

 そして代償で崩れ落ちた。あたしの代わりに。あたしを逃がすために。

 あれがシエルだった。ルシアンだった。

 十六歳の第七使徒は、「異端の浄化」だと聞かされた任務で、異端を助けた。教会を裏切った。あたし一人のために。

 そして呪眼の代償で、あの夜のことを全部忘れた。

 今のシエルも同じだ。

 記憶を失いながら、あたしを守り続けている。手帳に「忘れるな」と何度も書いて。紙切れにあたしの名前を繰り返して。自分が壊れていくのを知りながら。

 同じ人だ。

 五年経って、名前が変わって、記憶が消えても、この人の本質は変わっていない。

 誰かのために自分を差し出す。それが、ルシアン・ヴァルトローという人間だ。

 手帳を開いた。シエルの筆跡が並んでいる。

 〔力は誰かのために使え。それだけが、呪いに抗う方法だ〕

 師匠の言葉だと書いてある。シエルの根っこにある言葉。記憶を何度失っても、何度も書き直した一節。

 ——あたしも、そうする。

 聖女の力。ずっと隠してきた。正体がバレるのが怖かった。ヴェルハイデの王女だと知られれば、教会に狙われる。聖女だと知られれば、もっと危険になる。

 でも——もういい。

 シエルが来る。あの人が来た時、あたしは助けてもらうだけの存在でいたくない。

 あたしにも力がある。聖女の浄化。呪いを鎮める力。見えない鎖を癒す力。

 今度は一緒に戦う。

 正体がバレる? 上等だ。聖女だと知られる? 構わない。

 あたしはもう逃げない。五年間、偽名で逃げ続けた。リーゼという名前に隠れて。でもシエルだって偽名だ。あの人は偽名の裏で、ずっとあたしを守ろうとしていた。

 なら、あたしだって。

 鉄の鎖がガチャリと鳴った。手首の鎖の跡が赤い。でも痛みなんか、もう気にならない。

 あたしはエリザヴェータ・フォン・ヴェルハイデ。

 聖女で、王女で。

 ——シエルの、リーゼだ。

 暗い部屋の中で、口の中だけで古い歌を口ずさんだ。ヴェルハイデの民謡。お母様がよく歌っていた子守歌。

 『風の道を辿りなさい、雨の声を聞きなさい——いつか必ず朝が来る、夜が明ける丘の上で』

 シエルの前で歌った時、呪いが鎮まった。あの歌にはあたしの浄化の力が乗る。

 今は届かない。距離が遠すぎる。

 でも、もうすぐ届く。

 鎖越しに感じる。あの人の存在が、少しずつ——近づいている。

 ——来なさい、ルシアン。

 あたしはここにいる。

 待ってる。でも、ただ待ってるだけじゃない。

 あんたが来たら、まず殴る。それから泣く。それから——一緒に、ここを出る。

 今度は、あたしが貴方の手を取る番だから。

← 嘘と鎖の契約者 トップへ戻る
← 2110 Lab TOPへ戻る
プライバシーポリシー お問い合わせ