古い井戸は、城壁の南東にあった。
雑草に覆われた空き地の隅。崩れかけた石組みの井戸枠。蓋は厚さ三寸の石板で、表面に苔がこびりついている。百年の歳月が、ここを忘れさせていた。
日没直後。空は紫から紺に変わりつつある。聖都の灯りが遠くに見える。城壁の外側、貧民街とも呼ばれる区画の外れ。人通りはない。

「これか」
レイヴンが石板を見下ろした。
「紋章の鍵がかかっていると言っていたな」
「ああ」
僕は眼帯に手をかけた。今度は自分の意志で。
「使うのか」
「最小限だ。鍵の解除だけ」
眼帯を少しだけ浮かせた。右目が薄く開く。
世界の裏側が透ける。石板の表面に刻まれた紋章が、暗がりの中で青白く浮かび上がった。
単純な封印紋章だった。五角形の基底。魔素の回転方向は時計回り。干渉すべき節点は一つ。
右手を石板に触れさせ、逆位相の魔力を流し込む。
かちり、と小さな音がして、紋章が消えた。
眼帯を戻す。頭の奥で微かな痛み。だが記憶の欠落は感じない。この程度なら代償は軽い。
「開けるぞ」
レイヴンと二人で石板をずらした。重い。だがレイヴンの腕力は並ではない。石板が脇に押しのけられ、真っ暗な穴が口を開けた。
冷たい空気が吹き上がってきた。地下の匂い。湿った石と、古い水の匂い。
「先に行く」
レイヴンが大剣を背から外し、穴に足をかけた。井戸の内壁に錆びた足掛けが残っている。それを頼りに降りていく。
僕も続いた。
地下通路は、思ったより広かった。
高さは人が立てる程度。幅は二人が並んで歩けるほど。壁は荒削りの岩盤だが、床には古い敷石が残っている。排水路だったという話は本当らしい。足元に薄く水が流れている。
光はない。僕は薬箱から蛍光苔の瓶を出した。蓋を開けると、淡い緑色の光が通路を照らす。
「便利だな、薬師は」
「これは薬学じゃなくて、ただの採取品だ」
蛍光苔の瓶を掲げて、西に進む。ノクスの指示通り。
通路は何度か屈曲し、天井が低くなる場所もあった。レイヴンは大柄な体を屈めて進む。大剣を片手で持ち、もう片方の手で壁に触れながら。
「シエル」
「何だ」
「この通路、崩れないだろうな」
「百年前に掘られたものだ。保証はできない」
「……勘弁してくれ」
最初の分岐。右。ノクスの指示通り。
二つ目の分岐。右。
三つ目の分岐。右。
行き止まり。壁に聖廟教会の紋章が浮かんでいた。
今度も眼帯を浮かせた。紋章の構造を読む。先ほどより複雑だ。七角形の基底に二重の回転構造。節点は五つ。だが干渉パターンさえわかれば、解除は可能。
三十秒かけて紋章を解体した。
壁の一部がずれた。石壁が内側に開き、その向こうに別の通路が見える。
空気が変わった。
冷たく、清潔で、魔素を含んだ空気。紋章術で空調が管理されている空間の匂いだ。ここは――
「教会の施設だ」
レイヴンの声が硬くなった。
僕たちは通路をくぐった。
聖廟の地下回廊は、上の都市とは別世界だった。
白い石壁。等間隔に並ぶ魔導灯。天井に描かれた紋章がぼんやりと光を放ち、通路全体を冷たい明るさで満たしている。
広い。天井が高い。荷車が通れるほどの幅がある。
そして、無人だった。
「警備は?」
「見える範囲にはいない。だが」
僕は眼帯の下で目を細めた。呪眼を使わずとも、壁の紋章が脈動しているのがわかる。
「監視紋章が至る所にある。動くものに反応する型だ」
「避けられるか」
「避けるのは無理だ。範囲が広すぎる」
「じゃあどうする」
「紋章の感度を下げる。完全に止めると警報が鳴る。だが感度を鈍らせれば、人間大の反応を拾えなくなる」
微妙な調整だ。呪眼の精密制御が要る。
僕は眼帯を外した。今度は完全に。
右目が開く。世界が二重になる。通常の視界の上に、紋章の設計図が重なる。
天井の監視紋章。壁に埋め込まれた警報紋章。床板の下の感圧紋章。三種類の紋章が網のように通路を覆っている。
一つずつ、感度を調整していく。紋章の共振周期をずらし、閾値を引き上げる。人間が通っても反応しない程度に。
代償が来る。
頭の奥で何かが軋む。何かを失っている。何を失ったのか、今はわからない。後でわかる。いつもそうだ。
「行ける。急ごう」
「目が光ってるぞ」
「わかってる。止められないんだ。一度全開にしたら、安全に閉じるまで時間がかかる」
レイヴンが何か言いたそうな顔をしたが、黙って僕の後に続いた。
回廊を進むにつれて、通路が枝分かれしていった。
ノクスの地図を頼りに進む。右、左、直進、右。地下二層目への階段。さらに下へ。
空気が変わった。
冷たさは同じだが、匂いが違う。薬品の匂い。消毒液に似た、だがもっと刺激の強い匂い。そして、かすかに――血の匂い。
「この先だ」
僕は足を止めた。
通路の突き当たりに、大きな鉄扉がある。表面に複雑な紋章が刻まれている。封印紋章ではない。隔離紋章。外部から内部への魔力の干渉を遮断する類のものだ。
だが呪眼には関係ない。呪眼は見るだけで干渉できる。
紋章を解析し、解除する。鉄扉の錠前が外れる音がした。
レイヴンが扉に手をかけ、大剣を構えた。
「開けるぞ」
「ああ」
扉が開いた。
最初に目に入ったのは、光だった。
広大な空間。天井は見えないほど高い。地下にこれほどの空洞があるとは。自然の洞窟を拡張したものだろうか。壁面全体に紋章が刻まれ、青白い光を放っている。
そして、その光の中に。
寝台があった。
何十台もの寝台が、円形に配置されている。中心に向かって放射状に並び、一台一台が紋章の線で繋がれている。巨大な紋章陣の一部だ。地上から見えたあの紋章陣の、核心部分。
寝台の上に人がいた。
動いていない。
目を閉じ、体中に管や紋章の刻印を施された人々。女性ばかりだ。若い。十代から二十代。蒼白い顔。痩せ細った手足。呼吸はしている。だが意識があるようには見えない。
「何だ、これは……」
レイヴンの声が掠れた。
僕は呪眼で見ていた。見えすぎる。
寝台の一つ一つに施された紋章の意味が読み取れる。彼女たちの体内に呪いの紋章が植え付けられている。そして体外から別の紋章が接続され、体内の浄化反応を強制的に引き出している。呪いを入れて、浄化を絞り出す。ポンプのように。
聖女牧場。
ノクスが言っていた言葉の意味が、今わかった。
これは牧場だ。聖女の力を搾り取るための。
「聖女候補者たちだ」
僕の声が震えていた。薬師として、人体にかけられた紋章の非道さが理解できる。
「各地から集められた聖女の素質を持つ女性たちに、人工的に呪いを植え付けている。呪いに反応して浄化能力が発現する。その浄化の力を紋章陣で吸い上げて、中央に集積している」
「中央?」
レイヴンが空間の中心を見た。
そこに、一際大きな寝台があった。いや、寝台というより祭壇だ。白い石の台座。その上に横たわる人影。
金色の光が、薄く、儚く、脈動していた。
蜂蜜色の髪が台座から垂れている。
「リーゼ!」
レイヴンが駆け出した。僕もその後を追った。
台座の上のリーゼは、目を閉じていた。
白い衣装に着替えさせられている。教会の祭服に似た、装飾過多な白い布。首から腕から脚まで、紋章の刻印が走っている。青白い線が彼女の肌の上で脈を打ち、体の内側から金色の光を吸い上げている。
聖女の力を抽出する装置の中核。彼女は装置に繋がれている。
「姫……! 姫、聞こえますか!」
レイヴンが台座に駆け寄り、リーゼの肩に触れようとした。
「触るな!」
僕はレイヴンの腕を掴んで止めた。
「紋章陣が反応する。下手に触れば――」
呪眼で見えている。台座の周囲に防衛紋章が張り巡らされている。接触した者に呪いを移す転写型の罠紋章。レイヴンが触れていたら、彼の体にも呪いが植え付けられていた。
「くそっ……! 姫を見ろ、こんな――」
レイヴンの声が割れた。
僕もリーゼの顔を見ていた。
蒼白い肌。青い血管が透けて見える。頬が痩け、唇は色を失っている。呼吸は浅い。だが胸は上下している。生きている。

生きているが、壊されかけている。
呪眼で紋章陣の構造を読む。彼女から吸い上げられた浄化の力は、放射状の紋章回路を通じて空間全体に分配されている。そして回路の先は――地下のさらに深部に伸びている。巨大な魔力貯蔵庫に接続されている。
どれだけの時間、こうして搾り取られていたのか。
「紋章を解除する。少し時間がかかる」
僕は台座の紋章陣に意識を集中した。罠紋章の構造を解析する。転写型。逆位相で無効化できる。だが回路が複雑で、一つ間違えば装置全体が暴走する可能性がある。
慎重に。一つずつ。
頭の奥で、また何かが軋んだ。代償。何を失ったかは後でわかる。
罠紋章を一つ解除。二つ目。三つ目。
リーゼの体に接続された抽出紋章に手を伸ばそうとした時。
「いけない、やめろ」
声がした。
背後から。穏やかで、柔らかい声。
僕とレイヴンは同時に振り返った。
白い法衣の老人が立っていた。
五十代半ば。だが姿勢はまっすぐで、衰えの気配がない。銀髪を後ろに撫でつけ、顔には深い皺が刻まれている。その皺が作る表情は、温和な微笑みだった。
慈悲に満ちた目。孫に語りかけるような声。
大司教アベラール。
「やめた方がいい、と言ったのだよ。その紋章陣を下手に弄ると、彼女の体に反動が来る。最悪の場合、心臓が止まる」
僕の手が止まった。
嘘か。本当か。
呪眼で検証する。装置の構造を追う。アベラールの言葉は――
本当だった。
抽出紋章はリーゼの生命維持と直結している。急激な切断は心臓への負荷を引き起こす。段階的に出力を下げなければ安全に切り離せない。
「おまえか。おまえがこれをやったのか」
レイヴンが大剣を抜いた。刃が魔導灯の光を反射する。
「レイヴン、待て」
「待てるか! 姫をこんな目に――」
「落ち着け。リーゼの命に関わる」
レイヴンの体が震えた。剣を握る手が白くなるほど力んでいる。だが僕の言葉に、辛うじて理性が繋ぎ止められた。
アベラールは微笑んだまま、ゆっくりと歩み寄ってきた。その背後に護衛はいない。一人だった。
「久しぶりだね、ルシアン。いや、今はシエルと名乗っているのだったか」
「……アベラール」
「大きくなったな。最後に会ったのは、使徒に任じた日だったかね。あの頃は十六歳だった。初々しかった」
懐かしげに目を細める。まるで遠い親戚の成長を喜ぶ老人のように。
「聖女の浄化力を集積して、何をするつもりだ」
僕は率直に訊いた。
「素晴らしい質問だ」
アベラールが手を広げた。慈悲深い司祭の仕草。
「この大陸の魔力は、混沌としている。七つの国が勝手に紋章術を使い、魔素の流れは歪み、呪いが生まれ、人が苦しむ。誰も管理していないのだよ。誰も責任を取らない」
「だから管理者になるというのか」
「神の代行者だよ、ルシアン。わしはこの装置で聖女の浄化力を集積し、大陸全土の魔素の流れを一元管理する。呪いは根絶される。暴走は防がれる。全ての紋章術はわしの管理下に置かれ、秩序ある世界が生まれる」
「その代償として、聖女の命を搾り取っている」
「必要な犠牲だよ」
穏やかな口調のまま、アベラールはそう言った。
「一人の聖女の命で、万の民が救われる。千年続く秩序が手に入る。それを悪と断じるのは、短慮というものだ」
「リーゼ一人の命じゃないだろう」
僕は寝台に並ぶ女性たちを顎で示した。
「何十人もの聖女候補者を拉致して、呪いを植え付けて、力を搾り取っている。全員、人間だ」
「ああ。人間だよ。だが聖女の力は天に授かったもの。それを天のために使うのは、むしろ本来の在り方ではないかね」
天のため。
その言葉が、僕の中の何かに触れた。使徒だった頃、何度も聞いた言葉だ。天のため。教会のため。信仰のため。
全部、嘘だった。
アベラールのためだ。全てはこの男一人の野望のためだった。
「もう一つ教えてやろう、ルシアン。いや、教えるべきだろうな。おまえには知る権利がある」
アベラールが一歩近づいた。
「おまえの師匠。カルロ・ヴェネディスのことだ」
名前を聞いた瞬間、頭の奥が震えた。
「カルロはかつて教会の四等紋章士だった。わしの部下でもあった。優秀な男だったよ。紋章術の理論に深い見識を持ち、聖遺物の研究にも携わっていた」
「……知っている」
「だが彼はある時、わしの計画に反対した。聖女牧場計画の前身となる研究を見て、これは人の道に反すると。教会を離れ、隠遁した」
手帳に書いてあった。師匠は元教会の紋章士。それは知っている。
「問題は、カルロが教会を離れた時に持ち出したものだ」
「持ち出した?」
「聖遺物の一つをね」
アベラールが僕を見つめた。慈悲深い目が、初めて別の色を帯びた。研究者が実験体を観察する目だ。
「終末の瞳(アポカリプス・アイ)。おまえの右目に宿る聖遺物。あれはおまえが生まれ持った力ではない」
血が凍った。
「カルロが教会から持ち出し、幼いおまえの右目に埋め込んだのだよ。おまえが五歳の時だ」
「嘘だ」
「嘘ではない。記録がある。カルロ自身の研究日誌にも記されている。聖遺物は生体に埋め込むことで真の力を発揮する。カルロはそれを知っていた。教会がいずれ全ての聖遺物を回収に来ると予見し、最も危険な聖遺物を、最も教会から遠い場所に隠した。幼い孤児の目の中に」
「……師匠が、僕に」
「おまえは器だよ、ルシアン。聖遺物の器として選ばれた子供だ。カルロはおまえを愛していたかもしれんが、同時に利用してもいた。教会の武器を隠すための、人間の金庫として」
膝が震えた。
手帳を握る手に力がこもる。
師匠が僕の目に呪眼を埋め込んだ。五歳の時に。僕の記憶にはない。五歳の記憶など、呪眼を使う前から曖昧だ。でも――
「力は誰かのために使え。それだけが、呪いに抗う方法だ」
師匠はこの言葉を残した。呪いが何であるかを知っていたから。自分が埋め込んだものだから。その代償も、その苦しみも、全て知っていて僕に言ったのだ。
贖罪だったのか。
あの言葉は。
「そして」
アベラールが続けた。声は変わらず穏やかだ。
「カルロの最期についても、おまえは知るべきだろう」
心臓が止まりそうだった。
「カルロは、おまえの呪眼が暴走した時に巻き込まれて死んだ」
「……何を」
「おまえの呪眼は制御が難しい。特に幼い頃は暴走しやすかった。カルロは抑制紋章を施して管理していたが、限界があった。おまえが十五歳の時、一度大きな暴走が起きた」
記憶を探る。十五歳。何があった。
思い出せない。その前後の記憶が丸ごと欠落している。手帳にも記載がない。書けなかったのか、書かなかったのか。
「暴走のきっかけを作ったのは――わしだ」
アベラールが微笑んだ。
「カルロの居場所は掴んでいた。聖遺物を回収するために、暴走を誘発する外部刺激を送った。遠隔で紋章を起動するだけの簡単な仕事だった」
「おまえが……」
「呪眼は暴走し、周囲を破壊した。カルロはおまえを止めようとした。おまえの前に立ちはだかって、抑制紋章を刻もうとした。だが暴走の出力は想定以上でね」
穏やかな声で、残酷なことを言う。
「おまえの師匠を殺したのは――おまえ自身の呪眼だよ、ルシアン。暴走させたのはわしだがね」
世界が歪んだ。
音が遠くなった。アベラールの声も、レイヴンの怒号も、地下施設の冷たい空気も、全てが膜の向こう側に押しやられた。
代わりに。
記憶の断片が、泡のように浮かび上がってきた。
暗い部屋。夜。十五歳の僕は床に倒れている。右目が灼けるように熱い。視界が金色に染まっている。
「ルシアン!」
声。低くて穏やかな声。
師匠の声。
霧の向こうから——いや、霧の中から、初めて鮮明に聞こえた。記憶が戻ったのではない。衝撃で壁に亀裂が入り、封じられていた断片が一瞬だけ溢れ出したのだ。
「目を閉じろ、ルシアン! わしを見ろ! わしの声に集中しろ!」
目の前に人が立っている。大柄な老人。灰色の髪。深い皺。分厚い眼鏡の奥の――
茶色い目だ。
温かくて、深くて、怒りと悲しみと愛情が混在した茶色い目。
師匠の顔だ。
思い出した。
この瞬間の、この一瞬の顔だけを。
師匠は僕の前に立っていた。両手を広げて。盾のように。呪眼の暴走から僕自身を守ろうとするように。
「力は誰かのために使え。約束してくれ、ルシアン」
紋章が弾けた。光が溢れた。師匠の体が吹き飛ばされ――
記憶が途切れた。
「……っ」
僕は床に膝をついていた。
両手が震えている。手帳を落としていた。拾おうとして、指が滑る。
師匠を殺したのは僕だ。
アベラールが暴走を仕掛けた。だが実際に師匠の命を奪ったのは、僕の呪眼だ。
「約束してくれ、ルシアン」
あれが約束だったのか。師匠が死ぬ間際に交わした約束。
「力は誰かのために使え」
師匠は知っていた。呪眼を埋め込んだのが自分だと。その代償が記憶の喪失だと。だから、せめてその力の使い方だけでも伝えようとした。死の間際に。自分を殺す力の前で。
「ルシアン、見てみなさい」
アベラールの声が耳に入った。
「おまえはずっとそうだ。力に翻弄され、大切な者を傷つける。マルヒェン村もそうだっただろう? おまえは村を救おうとして呪眼を使い、暴走し、結局村を半壊させた。わしが汚名を着せるまでもなく、おまえは破壊者だよ」
「黙れ」
レイヴンの怒声だった。
「姫を弄び、こんな化け物どもの装置に繋いでおいて、よくもそんな顔で笑えるな。聖職者の面を被った外道が」
「レイヴンといったかね。ヴェルハイデの騎士」
アベラールがレイヴンに視線を向けた。穏やかな目のまま。
「ヴェルハイデもまた、聖女を多く輩出した国だった。あの国の血筋には聖女の因子が濃い。だから滅ぼす必要があったのだよ。管理下に置けない聖女は危険だからね」
「だから国ごと焼いたと!?」
「必要な処置だよ。残念だがね」
レイヴンが剣を振り上げた。
「レイヴン!」
僕は立ち上がり、レイヴンの腕を掴んだ。
「離せ、シエル! こいつを――」
「リーゼが繋がっている。装置を動かしているのはアベラールだ。今ここであいつを倒しても、装置の制御が失われればリーゼの心臓が止まる」
レイヴンの腕が震えている。殺意と理性のせめぎ合い。
「……くそっ」
剣が下がった。
アベラールが微笑んだ。余裕のある笑みだった。
「わかっているではないか、ルシアン。おまえは昔から聡明だった。だからこそ使徒に選んだのだよ」
「僕を使徒にしたのは、呪眼を教会の管理下に置くためだろう」
「その通り。カルロが隠した聖遺物を回収するため、おまえごと教会に取り込んだ。マグナスにおまえを推薦させたのも、全てはその計画の一環だ」
マグナスの名前が出た。あの寡黙な第一使徒が、僕を推薦したのもアベラールの指示だったのか。
「全部おまえの掌の上だったということか」
「全てとは言わんよ。おまえが教会を去ったのは想定外だった。マルヒェン村の件も、わしが仕組んだ暴走ではあったが、おまえが生き延びるとは思わなかった」
穏やかに。慈悲深く。残酷なことを。
「だが今、こうしてここに来てくれた。呪眼を持って。聖女の浄化と呪眼の解析能力。両方が揃えば、わしの装置は完成する」
「完成?」
「ルシアン。おまえの呪眼は、この装置の最後のピースなのだよ」
絶望が、足元から這い上がってくる。
全ては計算されていた。僕がここに来ることも。リーゼが囚われたことも。
おびき寄せられたのだ。
リーゼを餌にして。
「さて」
アベラールが手を差し伸べた。慈悲に満ちた手。
「大人しくここに残りなさい、ルシアン。おまえの呪眼を装置に接続する。痛みは最小限にしよう。そして全てが完成した暁には、おまえもリーゼも解放してやる。約束しよう」
「嘘だ」
「嘘かもしれんね。だがおまえに選択肢があるかね」
ない。
アベラールの言う通り、装置はリーゼの生命と直結している。暴れれば彼女が死ぬ。逃げれば彼女が死ぬ。
レイヴンが歯を食いしばっている。僕を見ている。どうする、と目が問うている。
僕は床に落ちた手帳を拾い上げた。
震える手で。
そして、呼吸を整えた。
師匠の言葉が手帳の中にある。ページを開かなくても覚えている。
「力は誰かのために使え。それだけが、呪いに抗う方法だ」
その時。
歌声が聞こえた。
最初は空耳だと思った。
だが違う。確かに聞こえる。微かな、途切れ途切れの声。台座の上から。
リーゼが歌っていた。
装置に繋がれたまま。意識があるのかないのか。目を閉じたまま、唇だけがかすかに動いている。
歌声は弱々しかった。かつて酒場を沸かせた張りのある声ではない。風に消えてしまいそうな、糸のように細い声。
でも旋律は確かだった。
知っている旋律。
最初の夜に聴いた歌。焚き火の傍で竪琴を弾きながら歌ってくれた、あの歌。ヴェルハイデの民謡。
『銀の月が沈む夜に、旅人は丘に立つ――』
古い言葉の歌詞が、途切れ途切れに紡がれる。
装置が微かに揺らいだ。紋章陣の光が一瞬ちらつく。リーゼの聖女の力が、歌に乗って漏れ出している。浄化の歌。装置の制御から僅かにはみ出した、彼女自身の意志による浄化。
『振り返れば故郷の灯、前を向けば星の道――』
帰れない場所への祈り。失われたものへの歌。
それでも旅人は歩く。風が名前を呼ぶから。
聞こえているか。
彼女は知っている。僕がここにいることを。歌声で呼んでいるのだ。
リーゼ。
僕は手帳を胸ポケットにしまった。
右目が熱い。呪眼が脈打っている。恐怖がある。力を使えば記憶を失う。師匠の顔を思い出したばかりなのに。また消えるかもしれない。
でも。
「力は誰かのために使え」
師匠。
僕はようやく、あなたの言葉の意味がわかった気がする。
「アベラール」
僕は顔を上げた。
「一つだけ訊く」
「何だね」
「師匠は――カルロ・ヴェネディスは。最後まで、僕を守ろうとしてくれたのか」
アベラールが少し意外そうな顔をした。
「ああ。愚かな男だったよ。暴走するおまえの前に立ちはだかって、抑制紋章を刻もうとした。成功していれば、おまえの呪眼は二度と暴走しなかっただろう。代わりに力も失われたがね。彼はおまえの力より、おまえの安全を選んだ」
涙は出なかった。
ただ、胸の奥が静かに燃えていた。
師匠は僕に呪眼を埋め込んだ。それは事実だ。利用したのかもしれない。でも最後に、自分の命をかけて僕を守ろうとした。力を封じてでも。
それが答えだ。
力をどう使うか。誰のために使うか。それだけが、この呪いに抗う方法。
リーゼの歌が続いている。薄れかけた旋律が、地下空間に細く響いている。
「……わかった」
僕は呟いた。
レイヴンに目配せをした。彼は無言で頷いた。何をするつもりかは伝わっていないだろう。だが、「動く」という意志だけは伝わったはずだ。
アベラールが微笑んでいる。
「返答は? 大人しく残るかね」
僕は眼帯を外した。
右目が全開する。
金色の光が溢れ、地下空間の全てが紋章の設計図として展開される。
アベラールの微笑みが、初めて変化した。慈悲の仮面に、一筋の亀裂が走った。
「……ほう」
「断る」
「そうか」
アベラールが両手を広げた。穏やかな動作で。だがその手のひらに、巨大な紋章が展開し始めた。一等の紋章。いや、それ以上の。
「さて、終末の瞳よ」
アベラールが笑った。
「最後に見せてもらおうか――おまえの全力を」