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第十五章

終末の瞳


 〔――日目。聖廟の地下。リーゼが装置に繋がれている。アベラールの言葉がまだ頭の中で反響している。師匠を殺したのは僕の呪眼だと。あの人が仕組んだ暴走だと。でも引き金を引いたのは、この目だ。この、僕の〕


 世界が、止まっていた。

 止まっていたのは世界ではなく僕の方だった。膝が石の床に触れている。冷たい。それだけが確かだった。

 アベラールの言葉が、まだ耳の奥に残っている。

 『お前の師匠を殺したのは――お前自身の呪眼だよ、ルシアン』

 あの温和な声。慈悲深い老人の声。その声が告げた残酷な真実が、僕の中の何かを砕いていた。

 嘘だと言いたかった。

 嘘ではなかった。

 呪眼の暴走。マルヒェン村で起きたことの真実。僕は村を救おうとして呪眼を使い、そしてアベラールが遠隔で暴走を誘発した。制御を失った終末の瞳は、村の呪いだけでなく――師匠の紋章構造そのものを解体した。

 カルロ・ヴェネディス。

 名前は手帳に書いてある。何度も読んだから、文字だけは頭に残った。声は、もう曖昧だ。顔は、とうに失った。

 残っているのは――あの人が最後に僕の名を呼んだ、という記憶の残滓だけ。

 『ルシアン』

 その声すら、本当に聞こえたのか、手帳の記録から再構成した偽の記憶なのか、もうわからない。

 殺したのは僕だ。

 この目が。

「――面白いだろう?」

 アベラールの声が、聖廟の地下に反響した。

「お前が守ろうとした師匠を、お前自身の力が殺した。お前が封じようとした瞳が、お前を呪いの担い手にした。滑稽だとは思わんかね、ルシアン」

 答えられなかった。

 膝をついたまま、動けなかった。

 石の床が冷たい。冷たいのに、右目だけが灼けるように熱い。眼帯の下で呪眼が脈打っている。まるで、今の僕の感情を喰らおうとしているかのように。

「さて」

 アベラールが踵を返した。法衣の裾が床を掃く。

「装置の起動を始めよう。聖女たちの浄化力を束ね、大陸全土の魔素を掌握する。長年の夢がようやく叶う」

 装置。

 聖廟の地下に広がる巨大な紋章構造体。その中心に、リーゼが繋がれている。

 僕は顔を上げた。


 それは、悪夢のような光景だった。

 地下空間は大聖堂の礼拝堂ほどの広さがあった。壁も天井も床も、びっしりと紋章で覆われている。幾何学模様が脈打つように発光し、空間全体が一つの巨大な魔術回路になっていた。

 中央に聳える装置は、祭壇と檻を組み合わせたような異形の構造物だった。水晶の柱が円形に並び、その一本一本に人が繋がれている。聖女たちだ。目を閉じ、意識を奪われた女性たちが、水晶の中に半ば埋め込まれるようにして佇んでいる。

 十二本の柱。十二人の聖女。

 その全てから、細い金色の光の糸が伸びていた。糸は装置の頂点で束ねられ、太い光の柱となって天井を貫いている。浄化力の収束。聖女の力を一つに集め、増幅し、放出する――大陸規模の魔力掌握装置。

 設計書の紋章は古い。千年以上前の古代紋章術の体系だ。教会の正規の技術ではない。もっと原始的で、もっと禁忌に近い。

 そして――中央の、最も大きな水晶柱に。

 リーゼがいた。

 蜂蜜色の髪が水晶の中で広がっている。白い肌は青白い光に照らされて幽霊のようだ。手首と足首を紋章の鎖で拘束され、水晶の表面に貼り付けられている。

 目は閉じていた。

 でも――唇が、動いていた。

 聞こえる。

 微かな歌声。

 装置の駆動音と紋章の脈動の中で、かき消されそうなほど小さな声。でも僕の耳には届いた。最初の夜から、嵐の中でさえ届いた声だ。

 ヴェルハイデの民謡。

 あの旋律。何度も聴いた。野営の焚き火の傍で。安宿の薄暗い部屋で。月明かりの街道で。

 装置に繋がれて、意識が朦朧としていて、浄化力を搾り取られながら――それでもリーゼは歌っていた。

 彼女の歌声が、僕の胸の奥の何かに触れた。

 凍りついていたものが、溶ける。

「いい声だろう?」

 アベラールが装置の基部に手を触れた。紋章が明滅を速める。

「ヴェルハイデの第二王女。当代最強の聖女。あの子一人の浄化力は、他の十一人を合わせたものに匹敵する。なぜヴェルハイデを滅ぼしたと思う? あの国が聖女を輩出し続けたからだよ。種を管理せねば、花は摘めないからな」

 アベラールの指が紋章に沿って滑る。起動シーケンス。装置が唸りを上げ始めた。

 水晶柱の中の聖女たちが同時に身を捩った。声にならない悲鳴。金色の光が彼女たちの体から引きずり出されるように溢れ、装置の頂点へと吸い上げられていく。

 リーゼの歌声が途切れた。

 代わりに、苦悶の声が漏れた。

「――っ」

 小さな呻き。水晶柱の中で体が弓なりになる。

 見ていられなかった。

「やめろ」

 僕の声は掠れていた。膝が震えている。立てるかもわからない。

「やめろ、アベラール」

「やめる? なぜ? お前に止める力があるのかね、ルシアン」

 アベラールが振り返った。温和な笑みは崩れていない。

「お前の呪眼は確かに強力だ。だがお前は今、自分が師匠を殺した事実に打ちのめされて立つこともできない。違うかね?」

 違わない。

 膝が笑っている。心が折れかけている。師匠の死の真実が、僕の中の土台を粉々にしていた。

 使徒になった理由。旅を続けた理由。力を封じた理由。全て、師匠を失った罪から逃げるためだった。その罪が、想像以上に深かったのだ。

 僕が殺した。

 この目で。

「立てないなら座って見ていればいい。世界が変わる瞬間を」

 アベラールが装置に向き直った。紋章の起動が加速する。地下空間全体が振動し、壁の紋章が連鎖的に発光していく。

 リーゼの声が聞こえた。

 歌ではない。

 叫びだ。

「いや……やめて……みんなを……」

 意識の淵で、まだ他の聖女たちを案じている。自分が最も苦しいはずなのに。

 ――ああ。

 この子は、いつだってそうだ。

 自分より他人を。自分の痛みより、誰かの涙を。笑顔の裏で、全部を引き受けて。

 リーゼ。

 ――いや。

 エリザヴェータ。

 君の本当の名前で呼ぶことすら、まだ僕には慣れていない。でも。

 僕は手帳を取り出した。

 震える手で、最後に書いた記録を読む。

 〔リーゼを取り戻す。それだけが今の僕の全てだ〕

 自分の字だ。自分の覚悟だ。

 師匠を殺したのは僕だ。それは消えない。消してはいけない。

 でも――今、目の前で苦しんでいる彼女を見捨てることは、できない。

 師匠なら何と言うだろう。

 あの穏やかな声で。顔はもう思い出せない。声も曖昧だ。でも口癖は――微かに、まだ。

 『急ぐな、考えろ』

 考えた。

 考えて、答えは一つしかなかった。

 僕は膝に力を込めた。

 震えている。まだ震えている。でも、立てる。

 立たなければならない。

 右目が脈打っている。

 使えば、また記憶を失う。今度は――どれだけ失うかわからない。

 全て、かもしれない。

 リーゼとの旅の記憶。市場での買い物。野営の焚き火。彼女の歌。彼女の笑顔。彼女が怒った顔。泣いた顔。手が光った瞬間。

 全部、消えるかもしれない。

 それでも。

「……アベラール」

 僕は立ち上がった。

 足は震えていた。でも立っていた。

「お前の装置を、壊す」

慈悲という名の鎖

 アベラールが微かに目を細めた。

「ほう。その足で? その心で? 師匠を殺した罪を背負って、まだ立てるのかね」

「立てる」

 嘘じゃない。立てている。膝は笑っているし、心臓は悲鳴を上げているけれど、立てている。

「師匠を殺した罪は消えない。僕はその罪を背負って生きる。でも――罪を背負うことと、目の前の人を見捨てることは、別だ」

 手帳をしまった。

 両手が自由になる。

 右手を、眼帯にかけた。

「全てを忘れるかもしれない。でも――」

 革の結び目に指がかかる。

「君のことだけは、忘れない」

 引いた。


 世界が裏返った。

 色が消えた。赤も青も金も、全ての色彩が灰色に褪せ、代わりに世界の骨格が剥き出しになった。

 見える。

 全てが見える。

 空気中を漂う魔素の粒子。一つ一つが情報を持った記号として認識される。密度、属性、流速、干渉パターン。大気そのものが巨大な演算空間に変わる。

 壁の紋章が見える。数千の幾何学模様が複雑に絡み合い、一つの巨大な魔術回路を形成している。古代紋章術の体系だ。現代の技術とは設計思想が根本的に異なる。六角形基底ではなく、八角形と十二角形の複合構造。節点の数は――数えきれない。数千。いや、数万。

 装置の全容が見える。

 十二本の水晶柱。それぞれが個別の吸収紋章を持ち、聖女たちの浄化力を魔素に変換して中央の集束回路に送り込んでいる。集束回路は浄化力を圧縮し、増幅し、天井を貫く光の柱として上層へ放射している。

 光の柱は地上の大聖堂の祭壇に繋がっている。そこから大陸全土に張り巡らされた教会の紋章網に接続される。全ての紋章術の根幹を支配する、神経系のような構造。

 それを掌握すれば、大陸上の全ての紋章術を制御できる。

 アベラールの野望の全体像が、呪眼を通して初めて完全に理解できた。

 そして――リーゼが見えた。

 水晶柱の中の彼女。体から引きずり出される浄化力の流れ。金色の魔素が細い糸となって装置に吸い上げられている。その流れの中に、彼女の生命力そのものが混じっている。

 このまま続ければ、彼女は死ぬ。

 浄化力だけではない。生命そのものを搾り取られている。他の聖女たちも同じだ。アベラールにとって聖女は消耗品なのだ。使い切ったら、次を「収穫」すればいい。

「……ふむ」

 アベラールが僕を見た。呪眼が全開放された右目を。

 温和な笑みに、初めてかすかな緊張が混じった。

「やはり美しい目だ。終末の瞳。世界を読み解く異端の聖遺物。わしがお前に埋め込んだ甲斐があったというものだ」

「黙れ」

 僕は一歩踏み出した。

 視界の中で世界が分解されていく。アベラールの体内の魔素の流れが見える。心臓の鼓動に同期した魔力の脈動。筋肉の収縮パターン。呼吸のリズム。全てが透けて見える。

 この男もまた、紋章の使い手だ。しかも古代紋章術を操る。装置の設計者であり、運用者。その知識と技術は――使徒級か、それ以上。

「来るかね、ルシアン。いいだろう。見せてやろう。お前に与えた瞳の限界を」

 アベラールが右手を掲げた。

 紋章が展開した。

 見える。

 八角形を基底にした攻撃紋章。古代式だ。現代の紋章術より構造が複雑で、しかし出力は桁違いに高い。属性は闇。魔素の圧縮率が異常に高い。

 収束に要する時間は〇・七秒。

 速い。

 僕は横に跳んだ。闇の弾丸が石の床を抉り、直径三メートルの穴を穿った。破片が飛び散る。

「ほう。避けたか。さすがだ」

 アベラールの声は穏やかなまま。だが紋章の展開速度が上がっている。

 第二撃。第三撃。闇の弾丸が連続で放たれる。

 僕は呪眼で軌道を読み、最小限の動きで躱す。紋章の構造が見えている。発射のタイミングも方向も、全てが読める。

 だが、避けるだけでは駄目だ。

 装置を止めなければ。

 僕は走った。装置の基部に向かって。

「させるかね」

 アベラールの足元の紋章が拡大した。床全体に広がる大規模紋章。

 重力操作。

 体が突然、三倍の重さになった。膝が折れそうになる。足が石の床にめり込む。

「古代式の重力紋章だ。お前の呪眼は確かに紋章を解析し、干渉できる。だが、わしの紋章は装置と直結しているのだよ」

 装置から供給される魔力。聖女たちの浄化力を変換した膨大なエネルギー。それがアベラールの紋章を増幅している。

 つまりアベラールは、聖女十二人分の魔力を纏って戦っている。

 呪眼で重力紋章の構造を読む。解析。節点は百三十七。干渉すべき要点は五つ。だが魔力の供給が多すぎる。一つを潰しても瞬時に修復される。

 五つ同時に干渉する必要がある。

 集中。

 右目に意識を集中した。

 視界の端が暗くなった。

 頭の奥で、何かが軋む音がした。代償が始まっている。

 五点同時干渉。逆位相の魔素を注入。

 重力紋章が崩壊した。体が軽くなる。

 だが――

 頭の中で、何かが消えた。

 ――空白。

 何を。今、何を忘れた。

 わからない。

 わからないまま走る。装置まであと二十メートル。

 アベラールが次の紋章を展開する。今度は空間歪曲。僕と装置の間の空間そのものを捻じ曲げ、距離を引き延ばす。

 呪眼で構造を読む。空間歪曲紋章。十二角形基底。節点三百以上。

 複雑すぎる。解析に時間がかかる。

 二秒。三秒。

 その間にもアベラールは攻撃を重ねる。闇の刃が空気を裂いて飛んでくる。

 一つを躱し、一つを呪眼で紋章を解体して消し、一つが肩を掠めた。外套が裂ける。血が飛ぶ。

「無駄だよ、ルシアン。お前一人では装置には辿り着けない。わしを倒すこともできない。お前の呪眼は確かに最強の解析器だ。だが、解析できることと破壊できることは違う」

 正しい。

 呪眼は紋章を読み、干渉し、解体できる。だが物理的な破壊力はない。アベラールの紋章は装置から無限に近い魔力を供給されて、潰しても潰しても再生する。

 消耗戦になれば僕が先に壊れる。呪眼の代償で記憶が消えていく。

 実際、もう消え始めている。

 何を忘れたのかがわからない。それが一番怖い。

 リーゼとの記憶はまだある。今朝の――今朝?

 今朝、何をしていた?

 聖都に潜入して――レイヴンと――

 レイヴンの顔が、少し曖昧だ。赤毛の。大剣を背負った。名前はレイヴン。でも彼と交わした会話が思い出せない。何を話した? 何を打ち合わせた?

 消えている。直近の記憶から消えている。

 呪眼を使い続ければ、もっと消える。

 もっと古い記憶も。

 リーゼとの記憶も。

 ――やめるな。

 やめたら彼女が死ぬ。

 走り続けろ。

 空間歪曲の解析が完了した。要の節点を十二個同時に干渉する。

 十二個。同時。

 呪眼の演算能力を限界まで引き上げる。

 視界の端がさらに暗くなる。暗闇が中心に向かって侵食してくる。

 十二点同時干渉。

 空間歪曲が崩壊した。捻じ曲がっていた距離が元に戻る。装置まであと十メートル。

 代償。

 頭の奥で、何かが大きく千切れた。

 ――空白。空白。空白。

 市場で――リーゼと――干し肉を――いくらだったか。値段。いくら払った。覚えていない。

 ルミエールの宿。部屋番号は? 何階だった? 窓はどっちを向いていた?

 曖昧だ。全部曖昧になっている。

 手帳。手帳を見なければ。でも今は戦闘中だ。見ている暇はない。

「おや。顔色が悪いぞ、ルシアン。代償が始まったかね」

 アベラールが両手を広げた。装置全体の紋章が脈動を速める。

「その目はな、使えば使うほど持ち主を喰らう。記憶を糧にして力を発揮する寄生体だ。わしはそう設計した。最強の武器であると同時に、最悪の呪いである。それが終末の瞳だよ」

 知っている。

 知っている。ずっと知っていた。

 この目は僕のものじゃない。僕に埋め込まれた聖遺物だ。僕の力じゃない。この目に寄生されているだけだ。

 でも今、この目しか頼るものがない。

「――なら最後まで喰わせてやる」

 僕は呟いた。

 全力で走った。


 地下空間に、新たな足音が響いた。

 金属の靴音。鎧を纏った者の、力強い足取り。

 光が射した。

 白ではない。暁の色。夜明けの空のような、薄紅と金が混じった光。

 聖遺物の光だった。

「――遅くなった」

 声。

 低く、凛々しく、真っ直ぐな声。

 セラ・ブライトフォールが、地下への階段を駆け下りてきた。

 銀髪のショートカット。白い外套の下に甲冑。右手に握られた剣が、暁の光を放っている。聖遺物「暁の剣(ドーンブレイド)」。光の刃を自在に生成する、第三使徒の武器。

「セラ」

 僕の声が掠れた。

「私は、あなたの味方だ」

 セラが僕の隣に立った。

 彼女の目は真っ直ぐにアベラールを見据えている。かつての上官を。教会の最高権力者を。

「遅くなってごめん。教会の真実を確かめるのに時間がかかった。でも、もう迷わない」

「……何を調べた」

「聖女牧場。人工呪詛計画。マルヒェン村の真相。全部」

 セラの声が震えていた。怒りで。悲しみで。

「私はずっと教会を信じていた。正義のために戦っていると。でも――全部嘘だった。ルシアン、あなたは嵌められた。私たちは全員、この男に利用されていた」

「セラ」

 アベラールが穏やかに名を呼んだ。

「お前まで裏切るのかね。第三使徒」

「裏切る? 裏切ったのはあなただ、大司教」

 セラが暁の剣を構えた。光の刃が伸び、地下空間を照らす。

暁の剣、二度目の抜刀

「教会の理念を。民の信頼を。使徒たちの忠誠を。全てを裏切ったのは、あなただ」

 アベラールはため息をついた。

 まるで聞き分けのない子供を諭すような顔で。

「やれやれ。若い者は理想が高くていけない」

 アベラールの紋章が膨れ上がった。装置から供給される魔力が増大している。

 セラが動いた。

 速い。使徒の中でも最速と言われた身体能力。光の刃が弧を描いてアベラールに迫る。

 闇の壁が刃を受け止めた。光と闇がぶつかり合い、火花のように魔素が散る。

「ルシアン、装置に集中して! アベラールは私が押さえる!」

 セラが叫んだ。光の剣を次々に生成し、アベラールに斬りかかる。一振り、二振り、三振り。闇の紋章がそのたびに壁を形成して防ぐ。

 僕は走った。

 装置まであと五メートル。

 紋章の鎖がリーゼの手首を縛っている。水晶柱の表面を走る吸収紋章が彼女の浄化力を搾り取っている。

 構造を読む。鎖の紋章は装置の主回路に直結している。単純に切断すれば逆流が起き、繋がれている聖女の命を危険に晒す。

 装置全体の紋章を一括で解体する必要がある。

 数万の節点。数十万の接続。古代紋章術の複雑な体系。

 解析に――どれだけの呪眼の出力が必要だ。

 全力だ。

 全力を出せば、解析も解体もできる。

 その代償は。

 全ての記憶。

「リーゼ」

 水晶柱に手を触れた。冷たい表面。その向こうに彼女がいる。

 リーゼの目がうっすらと開いた。翡翠の瞳が焦点を結ばないまま揺れ、僕を捉えた。

「シエ……ル……」

「来たよ」

「だめ……逃げて……装置が……全部吸い取られる……」

「逃げない」

「呪眼……使ったら……全部忘れちゃう……」

 彼女は知っている。この目の代償を。

「忘れない」

「嘘つき……」

 泣いていた。水晶の中で、涙が頬を伝っている。

「嘘つき。シエルはいっつも嘘つく。大丈夫って言って大丈夫じゃないし、平気って言って平気じゃないし——」

「うん。僕は嘘つきだ」

「だから——全部忘れちゃうよ。あたしのことも。あたしたちの旅のことも。全部——」

「忘れない。忘れても——君のことだけは」

 また嘘か。

 わからない。約束できる根拠なんてない。呪眼の代償は記憶の消失だ。全力で使えば全てを失う。それは変えられない。

 でも。

 僕は嘘つきだ。最初の出会いから嘘をついてきた。名前も、過去も、全部嘘だった。

 ならせめて最後の嘘くらい、優しい嘘にしたい。

「待ってて。すぐに出す」

 僕は水晶柱から手を離し、装置の前に立った。


 地下空間に、さらなる異変が起きた。

 装置を守るように展開されていた防御紋章が、内側から砕けた。

 重力が歪む。

 天井から降り注ぐ瓦礫が空中で静止し、ゆっくりと回転を始めた。

 マグナスが来た。

 第一使徒「頂点の使徒」。金髪オールバック、彫りの深い顔立ち。黒い法衣が重力の歪みに煽られてはためいている。

 聖遺物「天秤の冠(リブラ・クラウン)」が発動していた。重力を支配する力。

 マグナスはアベラールの前に立った。

 セラが警戒して剣を構える。

「マグナス——あなたはどっちの味方だ」

 マグナスは答えなかった。

 代わりに、アベラールを見た。

「大司教」

「なんだね、マグナス」

「あなたは言った。教会に逆らっても誰も救えない、と」

「その通りだろう? 世界は秩序が必要だ。教会こそがその秩序の礎だ」

「では——」

 マグナスの聖遺物が光を増した。重力の歪みがアベラールに向かって集束する。

「教会を壊す」

 アベラールの目が、初めて見開かれた。

「マグナス。お前まで——」

「俺はお前に使徒にされた。聖遺物を埋め込まれた。選ぶ権利すらなかった」

 マグナスの声は低く、静かだった。感情をそぎ落とした、いつもの簡潔な口調。だがその奥に、長年押し込めてきた怒りが燃えていた。

「お前が作った秩序は、人を道具にする秩序だ。聖女を牧場で飼い、使徒に聖遺物を埋め込み、逆らう者を異端として殺す。それは秩序ではない。支配だ」

「支配の何が悪い。人は導かれなければ——」

「黙れ」

 重力が爆発的に変動した。アベラールの体が床に叩きつけられる。

 だがアベラールは装置に繋がっている。聖女たちの浄化力を纏った膨大な魔力が、重力の束縛を内側から押し返す。

「第一使徒。お前の力は確かに強い。だが装置が動いている限り、わしは十二人の聖女に匹敵する力を持っている。お前一人では——」

「一人じゃない」

 セラの光の刃が横薙ぎに走った。アベラールの防御紋章を削り取る。

 マグナスの重力がアベラールの動きを封じ、セラの光が防御を崩す。

 そして僕は――装置を読む。

 呪眼の全力。

 世界が完全に色を失った。灰色すら消え、純粋な構造だけが残る。紋章の設計図。魔素の流路。力の流れ。因果の糸。

 装置の全体像が、僕の脳裏に展開された。

 数万の節点。数十万の接続。古代紋章術の体系で構築された、大陸規模の魔力掌握装置。

 その全てを、同時に解体する。

 必要な干渉点は——四千七百二十三。

 四千七百二十三の節点に、同時に逆位相の魔素を注入する。

 人間の脳が同時に処理できる情報量を、遥かに超えている。

 でも呪眼は人間の機能じゃない。人間を超えた演算を可能にする寄生体だ。

 やれる。

 代償を払えば、やれる。

 頭の奥で、記憶が軋み始めた。


 解析と同時に、記憶が消えていく。

 最初に消えたのは、ルミエールの宿の記憶だった。安宿の部屋。天井の染み。リーゼが窓辺で竪琴を弾いていた——弾いていた? いつ? どこで?

 思い出せない。

 構わない。進め。

 装置の節点を一つずつ特定していく。百。二百。五百。千。

 記憶が加速的に剥落する。

 市場での買い物。リーゼが「あたしが選ぶ!」と言って、外れの屋台を引いた日。腹を壊して二人で宿で唸った夜。——それは、いつのことだ。彼女の笑い声は覚えているのに、場所が消えた。いつ。どこ。何の市場。

 千五百。二千。

 ノクスとの取引。情報屋の少年。慇懃無礼な口調。「僕」と名乗る少年。——名前は何だったか。ノクス。ノクス。名前は覚えている。でも顔が薄い。どんな顔だった。目の色は。

 二千五百。三千。

 ヴェルハイデの廃都。崩れた城壁。リーゼが泣いていた。彼女が本当の名前を明かした夜。エリザヴェータ。——あの時、僕は何と答えた? 何を言った? 彼女の涙を拭いたか? 手帳に書いたはずだ。でも手帳は今、読めない。

「ルシアン!」

 セラの声が遠くから聞こえた。

「目から血が出ている! 無理をするな!」

 右目から血が流れている。頬を伝い、顎から滴り落ちる。呪眼の限界が近い。

 三千五百。四千。

 記憶の崩壊が加速する。

 リーゼの歌。彼女が初めて僕のために歌ってくれた夜。焚き火の傍で。星が綺麗で——星? どこの空だ。何の季節だ。春? 秋? わからない。でも彼女の歌は覚えている。旋律は覚えている。ヴェルハイデの民謡。哀しくて、温かくて。

 四千百。四千二百。四千三百。

 リーゼの笑顔が砕けていく。

 市場で振り返った笑顔。——消えた。

 雨の日に傘を差し出してくれた時の笑顔。——消えた。

 怪我をした僕を叱る時の、泣きそうな笑顔。——消えた。

 一つ一つ。額縁から絵が剥がれ落ちるように。写真が一枚ずつ燃えるように。

 彼女の笑顔が、消えていく。

「やめてっ!」

 リーゼの叫びが水晶柱の中から響いた。

「やめて、シエル! 全部忘れちゃうよ! あたしのこと全部忘れちゃう!」

「忘れない」

 声が出ているかどうかもわからない。喉が枯れている。目から血が流れている。

「忘れない。忘れても——」

 四千四百。四千五百。

 リーゼと初めて会った夜。

 嵐。石橋の下。泥の中に倒れていた蜂蜜色の髪。処置しながら触れた額。痛みが消えた驚き。

 名前を訊いた。

 「リーゼよ。旅の吟遊詩人。あなたは?」

 「……シエル。旅の薬師だ」

 嘘で始まった出会い。

 その記憶が、輪郭を失い始めている。嵐の音が遠ざかる。石橋の下の炎が薄れる。彼女の翡翠の瞳が霧に包まれていく。

「やだ——やだよ——忘れないで——」

 リーゼが泣いている。水晶の中で。

「シエル、お願い、やめて。あたしなんかのために全部失わないで——」

 君「なんか」じゃない。

 四千六百。

 もう何も見えない。

 世界は紋章の構造だけだ。色もない。音もほとんど聞こえない。記憶が削られすぎて、感覚器官の処理能力が落ちている。

 でも。

 歌声だけが聞こえる。

 リーゼが歌っている。泣きながら。装置の中で。

 ヴェルハイデの民謡。あの旋律。何度も何度も聴いた旋律。

 彼女の声だけは聞こえる。

 四千七百。

 あと二十三。

 手を伸ばす。右手を装置の核心に向ける。

 四千七百十。四千七百十五。四千七百二十。

 あと三つ。

 リーゼの歌が——変わった。

 民謡ではない。彼女が自分の言葉で歌っている。

 歌詞が聞こえる。泣きながらの、震える声で。

「忘れても、いいよ——忘れても、あたしが覚えてるから——」

「全部、あたしが覚えてるから——あなたの代わりに——」

「だから——生きて——」

 金色の光が、水晶柱の中から溢れ出した。

 リーゼの浄化の光。装置に吸い上げられるのではなく、彼女自身の意志で放たれた光。それが鎖の契約を通じて僕に流れ込んでくる。

 温かい。

 右目の灼ける痛みが、ほんの少しだけ和らいだ。

 彼女の浄化が——呪眼の侵食を、最後の瞬間に遅らせている。

 全ての記憶を喰い尽くす前に。

 核を。記憶の核を。彼女への想いだけを——守ろうとしている。

 リーゼ。

 四千七百二十一。

 四千七百二十二。

 四千七百二十三。


 全てが、同時に崩壊した。

 四千七百二十三の節点に、逆位相の魔素が注入された。

 装置の紋章が砕けた。

 連鎖的に。爆発的に。数万の幾何学模様が同時にほどけ、光の破片となって地下空間を満たした。水晶柱にひびが入り、鎖の紋章が消滅し、聖女たちの拘束が解かれた。

 光が溢れた。

 二つの光。

 リーゼの浄化の金色と、呪眼の蒼白い光。

 二つの光が混ざり合い、螺旋を描いて上昇していく。天井を貫き、地上へ。大聖堂を満たし、聖都の空へ。

 装置の残骸が崩れ落ちる。水晶柱が砕け、鉄の枠が歪み、紋章の光が消えていく。

「馬鹿な——装置が——」

 アベラールが叫んだ。装置からの魔力供給が途絶え、彼の纏っていた力が急速に萎んでいく。

 マグナスの重力がアベラールを床に叩きつけた。今度は抵抗できなかった。

 セラの光の刃が、アベラールの四肢を縫い止めるように地面に突き刺さった。

「終わりだ、大司教」

 セラの声が響いた。

「お前の野望も、聖女牧場も、全て」

 アベラールは仰向けに倒れたまま、天井を見上げていた。

 温和な笑みは消えていた。

 代わりに浮かんでいたのは――空虚だった。何十年もかけた計画が、一瞬で崩れた。その現実を受け止めきれない老人の、空虚な目。

「……そうか。終わりか」

 それだけ呟いて、アベラールは目を閉じた。


 装置が崩壊し、聖女たちが水晶柱から解放されていく。

 レイヴンとノクスが地下に駆けつけ、意識のない聖女たちを一人ずつ運び出している。

 僕は、立っていた。

 いや——立っていられなかった。

 膝が折れた。

 石の床に手をついた。

 右目から血が流れ続けている。眼帯はもうない。呪眼は開いたまま。でももう何も見えない。紋章の構造も、魔素の流れも。何も。

 視界が暗い。

 左目の視界も霞んでいる。体中の魔力が枯渇している。指先が痺れている。

 頭の中が空っぽだ。

 何も思い出せない。

 名前は——シエル。いや、ルシアン。どっちだ。どっちも僕の名前だ。それは覚えている。

 他に何がある?

 師匠の名前は——

 ――空白。

 旅のことは——

 ――空白。

 仲間の名前は——

 ――空白。空白。空白。

 何も残っていない。

 ただ一つ。

 歌声が聞こえる。

 どこからか。近くから。

 蜂蜜色の髪の——

 名前が出てこない。でも。

 この人を知っている。

 この人が大切だ。

 理由はわからない。何も覚えていない。でも、この胸の奥の温かさだけが残っている。この人の声を聴くと、何かが安心する。何かが鎮まる。

「シエル!」

 誰かが僕の名を叫んでいる。

 蜂蜜色の髪の女性が、崩壊した水晶柱の残骸を越えて走ってくる。裸足で。傷だらけの体で。泣きながら。

 彼女が僕の体を支えた。小さな手が、僕の頬に触れた。

 温かい。

 痛みが引いていく。

 彼女の手が、金色に光っている。

「だめ——起きて——目を開けて——」

 目は開いている。でも、もう見えない。

 暗い。世界が暗い。

 視界が闇に沈んでいく。

 でも——歌声が聞こえる。

 彼女が歌っている。僕を抱きしめながら。泣きながら。

 あの旋律。

 何度も聴いた旋律。

 いつ聴いたかは思い出せない。でも、この旋律だけは体が覚えている。

 温かい。

 暗闇の中で、彼女の歌声だけが光のように響いている。

「忘れても……いいよ……あたしが全部覚えてるから……」

 ああ。

 この声を。

 この温かさを。

 僕は知っている。

 何も覚えていないのに。何も思い出せないのに。

 この人のことだけは——知っている。

 意識が遠のいていく。

 最後に聞こえたのは、彼女の歌声だった。

 視界が完全に消えた。

 でも、歌声だけが——ずっと、聞こえていた。

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