【社交の香薬 ― グラティア】用法: 手首に一滴。効果: 周囲に好印象を与える微かな芳香。副作用: 使い続けると、自分の本当の匂いを忘れる。

石畳の響きが変わった。
街道の荒れた土から王都の敷石に切り替わる、あの微かな振動の変化を、ノエル・カエルレウスは眠りの淵にいても正確に感じ取ることができた。幼い頃から馬車に乗せられ、王都と各地を往復する暮らしが身体に沁みついている。外交官の次男とはそういうものだ。どこにいても安らげず、どこに着いても故郷ではない。
薄く目を開けると、窓の隙間から灰色がかった朝の光が差し込んでいた。グリセルダ王都の空は、いつもこの色だとノエルは思う。白でも青でもない。王冠と同じ、灰色。
「――ノエル様。間もなく王宮の東門でございます」
向かいの座席で控えていた従者のリュカが、静かに声をかけた。十年来の付き人だが、ノエルが本当に眠っているときと偽りの眠りのときを区別できるようになったのは、ここ数年のことだ。今日は偽りのほうだと見抜いたのだろう。
「ありがとう、リュカ。到着は予定通り?」
「は。半刻ほど早うございます。風が追い風でしたので」
ノエルは身を起こし、旅装の皺を両手で軽く伸ばした。二週間に及ぶ東方への外交使節団の任務は、表向きには成功裏に終わった。東の辺境伯との通商条約の更新。カエルレウス家が代々担う、退屈だが欠かせない仕事だ。
しかしノエルにとって、この旅の本当の目的は別にあった。
膝の上に広げた手帳に目を落とす。革表紙の手帳には、外交文書の下書きに見せかけた暗号が並んでいる。東方の辺境伯が灰の審判に際してどの大公家を支持するか。その腹の中を探ることが、兄から課せられた使命だった。
結果は上々だ。辺境伯は中立を装いながらも、金の家――アウレウス家の資金援助を受けている。その証拠となる取引の記録を、宴席の隙に書庫から書き写してきた。マグナス・アウレウスの手は、想像以上に広く伸びている。
ノエルは手帳を閉じ、指先で表紙を叩いた。
灰の審判。王冠が次の王を選ぶ、この国の最も重要な儀式。現国王が病に伏して以来、四つの大公家はそれぞれの候補者を立て、水面下で激しく動いている。ルベウス家は武力による示威、ヴィリディス家は沈黙による防衛、アウレウス家は資金による懐柔。そしてカエルレウス家は――情報による支配。
盤上の駒を動かすように、ノエルは頭の中で人物の配置を整理した。
まず、味方にすべき者。フェリクス王子は王冠に最も近い存在だが、あの少年に政治力はない。内気で控えめで、庭いじりばかりしているという。王冠がフェリクスを選ぶならば、実質的な後見人の座を得ることが重要だ。カエルレウス家の嫡男――兄のレナートが後見人となれば、王権を操ることは造作もない。
次に、排除すべき者。アデル・ルベウスは危険だ。あの直情的な気性は予測が難しい。だが逆に言えば操りやすくもある。適切な挑発を与えれば、勝手に暴走して自滅するだろう。
そして、最も警戒すべき者。マグナス・アウレウス。温厚な笑顔の裏に何を隠しているのか。東方での調査で分かったのは、この男が二十年以上にわたって周到に布石を打ってきたということだ。その布石の全貌が見えない。
ノエルは窓の外に目を向けた。王宮の尖塔が朝靄の中にぼんやりと浮かんでいる。灰色の空に灰色の塔。この国の権力の中枢は、いつだって曖昧な色をしている。
白か黒かはっきりしているほうが、ずっと楽だろうに。
その思考が自分自身に跳ね返ってくることに、ノエルは気づいていた。白か黒か。善か悪か。そんな単純な区分が許されない場所で、自分はずっと灰色の中を泳いできた。笑顔の裏に計算を隠し、親切の下に打算を忍ばせ、すべての言葉に二重の意味を持たせる。
それがカエルレウス家の次男の務めだ。
馬車が東門をくぐる。衛兵が敬礼する気配。ノエルは旅装の上に薄い外套を羽織り直し、袖口を整えた。帰還の報せは兄に先に送ってある。門を入ればすぐに密談の場が設けられているはずだ。
リュカが馬車の扉を開けると、初秋の冷たい風が流れ込んだ。ノエルは一歩を踏み出す前に、無意識の仕草で手首の内側に触れた。社交の香薬、グラティア。出発前に付けたものはとうに効果が切れている。だがこの仕草だけは癖になっていた。仮面を被り直す合図のようなものだ。
「さて」
ノエルは馬車を降り、朝の光の中に完璧な笑顔を浮かべた。
誰もいない東門の通路で。見ているのはリュカと衛兵だけの場所で。それでも、笑顔を作った。
いつからだろう。笑顔が仮面なのか、それとも仮面が本当の顔になったのか、自分でも分からなくなったのは。
カエルレウス家の王宮内の私室は、青を基調とした落ち着いた部屋だった。壁掛けの藍染めの織物、深い碧色の絨毯、蒼玉をあしらった文机。外交を担う家にふさわしく、室内には各地の調度品が品よく配されている。
窓辺の長椅子に腰を下ろしていたのは、ノエルより五つ年上の青年だった。
レナート・カエルレウス。カエルレウス家の嫡男にして、次期当主の最有力候補。ノエルと同じ深い藍色の髪を持つが、弟のような柔和さはない。整った顔立ちの中に冷徹な知性が宿り、口元にはつねに薄い笑みが刻まれている。
「お帰り、ノエル」
「ただいま戻りました、兄上。東方の件、ご報告いたします」
ノエルは外套を脱ぎながら手帳を差し出した。レナートはそれを受け取り、暗号を読み解くように頁をめくった。その速度は恐ろしく速い。ノエルが二週間かけて集めた情報を、兄はものの数分で咀嚼してしまう。
「辺境伯はアウレウス側か。予想通りだが、取引の詳細まで取れたのは上出来だ」
「マグナス殿は東方だけでなく、南方の鉱山主にも手を伸ばしているようです。鉱物素材の流通を押さえにかかっている」
「鉱物素材。薬の原料か」
「はい。特に記憶操作薬の素材となる月光石の産出を、一手に握ろうとしている節があります」
レナートの目が鋭くなった。その一瞬の変化を、ノエルは見逃さなかった。兄は何かを知っている。月光石という名前に反応した。
だがレナートはすぐに表情を戻し、手帳を閉じた。
「よくやった。疲れているだろう。まず身を休めろ」
「いえ、その前に伺いたいことが。留守の間に宮廷で何か動きは?」
レナートは窓の外に目を向けた。灰の庭園が見下ろせるその窓から、灰色の花々が秋風に揺れるのが見えた。
「大きな動きはない。ただ、一つ面白い話がある」
「面白い?」
「宮廷の薬師に、面白い娘がいる」
ノエルは兄の口調の変化を敏感に察知した。「面白い」という言葉を、レナートが使うときは決まって「利用できる」という意味だ。
「薬師見習いだ。名をクロエ・グリザイユという。孤児として薬師ギルドに引き取られ、この春から宮廷に配属された」
「見習いの薬師が、なぜ兄上の耳に?」
「首席薬師のベアトリクスが、じきじきに目をかけている。あの女が弟子に関心を見せるのは極めて異例だ。加えて、フェリクス王子が灰の庭園で接触している。そして――」
レナートは一度言葉を切り、弟の目を真っ直ぐに見た。
「王妃の離宮の清掃に派遣された。ヴィリディス家のヴィオラ嬢が、それとなく彼女を気にかけている」
ノエルの思考が高速で回転した。ベアトリクス。フェリクス。離宮。ヴィオラ。これだけの人間がひとりの薬師見習いに関わっているのは、偶然ではありえない。
「使えるかもしれない」とレナートは言った。
「接近せよ、ということですか」
「お前の得意分野だろう。社交の場で自然に近づき、何者なのか探れ。特にヴィオラとの関係が気になる。ヴィリディス家は前当主の処刑以来、表舞台を避けてきたが、ここにきて不穏な動きがある」
ノエルは軽く頷いた。了解、という意味と、すでに接近の筋書きを練り始めている、という意味の二重の頷き。
「承知しました。明日の夜、首席薬師主催の薬草講座があると聞いています。社交の名目で顔を出しましょう」
「いい判断だ。それから、グラティアを切らすな」
レナートは立ち上がりざまにそう言い足した。社交の香薬。人の好意を引き寄せる灰薬。ノエルの仕事道具の一つだ。
兄の足音が遠ざかるのを聞きながら、ノエルは長椅子に深く身を沈めた。
クロエ・グリザイユ。孤児の薬師見習い。
その名前を心の中で転がす。駒としての価値を査定するように。彼女がどんな弱みを持ち、どんな望みを抱いているか。弱みは付け入る隙となり、望みは操るための紐となる。人間関係とはそういうものだ。少なくとも、ノエルが教えられてきた世界では。
旅の疲れが急に襲ってきた。二週間、一度も仮面を外さなかった疲労が、骨の髄まで沁みている。
ノエルは天井を見上げた。青い天井。カエルレウスの青。冷徹で、計算高く、感情を持たない色。
母もこの天井を見て、何を思ったのだろう。
その思考を、ノエルは意図的に遮断した。母のことを考えるのは無駄だ。とうに死んだ人間のことを想っても、何の駒にもならない。
感情は弱さだ。
父がそう教えた。母が死んだ夜、泣きじゃくる幼い自分の頬を叩き、父はそう言った。「泣くな。涙は敵に見せる隙だ。カエルレウスの人間は泣かない」
以来、ノエルは泣いていない。怒ったこともない。本当に笑ったことも、ないかもしれない。
あるのは計算だけだ。誰に笑顔を向ければ得になるか。誰に親切にすれば情報が引き出せるか。誰と距離を置けば身の安全が保てるか。全ては盤上の駒の動き。将棋を指すように人間関係を操作する。
それがノエル・カエルレウスだ。
少なくとも、自分ではそう信じている。

翌日の夕刻。
宮廷の東翼に位置する薬草庭園は、社交の場としても機能していた。首席薬師ベアトリクスが月に一度主催する薬草講座には、薬学に関心のある貴族の子弟が参加する。学術的な装いの下に、派閥間の情報交換が行われる場だ。
ノエルは白い上衣に藍色の帯を締めた正装で現れた。旅から戻ったばかりとは思えない、隙のない身なりだった。手首にはグラティアの薫りが微かに漂っている。
「おや、カエルレウス家のノエル殿。お帰りなさいませ。東方はいかがでしたか」
「ありがとうございます、トマ卿。東方は実りある旅でした。辺境伯のお膝元で見事な薬草園を拝見しましてね、こちらの講座が恋しくなりました」
社交辞令の応酬。ノエルはそれを流水のようにこなしながら、庭園全体を視界に収めていた。
参加者は二十名ほど。ルベウス家からの出席はない。あの家は薬学を「女々しい」と蔑む傾向がある。ヴィリディス家からはヴィオラの代理と思しき若い文官が一人。アウレウス家からは――いた。マグナス・アウレウス本人が、庭園の奥で穏やかな笑みを浮かべている。
そして。
庭園の端、白い花が群生する一角に、小柄な人影があった。
薬師見習いの白衣を着た少女が、膝をついて花の根元をじっと観察している。栗色の髪を簡素な紐でひとつに結び、白衣の袖を肘まで捲り上げている。周囲の華やかな貴族たちとは明らかに異質な、地味で実直な佇まい。
クロエ・グリザイユ。
間違いない。兄から聞いた特徴と一致する。
ノエルは自然な足取りで庭園を歩いた。途中で三人の貴族と軽く言葉を交わし、薬草の苗床を眺めるふりをしながら、少しずつクロエの方へ近づいていく。計算された軌跡。偶然の動線にしか見えないように。
白い花の傍まで来たとき、ノエルは足を止めた。
「薬師さん」
声をかけると、少女は顔を上げた。灰色の瞳がノエルを見た。驚きと、警戒と、そしてわずかな当惑が入り混じった目だった。社交の場に慣れていない人間特有の、居心地の悪さがにじんでいる。
「この花の名前を教えてもらえますか?」
ノエルは白い花を指さして微笑んだ。もちろん、花の名前は知っている。月見草の変種、銀糸花。東方の旅で同じものを見た。だが知らないふりをすることが、会話の入口を作る。
「え、あ――銀糸花です」
クロエは立ち上がり、白衣の膝についた土を払った。その仕草は素朴で、取り繕うところがなかった。
「銀糸花。美しい名前ですね。どんな薬効があるんですか?」
「根の部分に鎮静作用があります。ただし、精製の過程で加熱しすぎると逆に興奮作用に転じるので、温度管理が重要で――」
そこまで言って、クロエは口をつぐんだ。社交の場で薬効の話を長々とするのは場違いだと気づいたのだろう。頬がわずかに赤くなった。
「すみません、つい」
「いえ、とても興味深い。加熱で作用が反転するというのは、灰薬の原理に通じますね」
クロエの目が少し変わった。
「……薬学にお詳しいんですか?」
「かじった程度ですよ。カエルレウス家の人間は、何でも広く浅く知っておかないといけないので」
ノエルは名乗った。カエルレウス家次男、ノエル。東方への外交任務から戻ったばかりだと。クロエは一瞬身を固くした。四大公家の名前を聞けば、宮廷の薬師見習いが緊張するのは当然だ。
「失礼しました、ノエル様。私は――」
「クロエ・グリザイユさん、でしょう? ベアトリクス殿が有望な見習いを指導していると伺いましたよ」
名前を知っていることを明かしたのは意図的だった。「あなたに関心があります」という信号を、相手の警戒を高めない程度に送る。事前に調べたことは隠さず、しかし調べた深さは隠す。情報戦の基本だ。
「あの、それは買いかぶりです。私はまだ白薬の基本調合しかできなくて……」
「謙遜なさらないでください。首席薬師に目をかけられるのは、余程のことですよ」
ノエルは穏やかに笑いかけた。グラティアの薫りが風に乗って、二人の間に漂った。
さて、ここからが本題だ。ノエルは内心で計算を始めた。まず相手の性格を測る。何に反応し、何を隠すか。弱みは何か。望みは何か。
「銀糸花は東方にも自生していましてね。辺境伯の領地で見かけたんです。こちらのものより花弁が大きくて、少し紫がかっていました」
「本当ですか? 東方の銀糸花は文献でしか読んだことがないんです。花弁が大きいということは、日照条件の違いで魔素の蓄積量が変わっているのかもしれません。紫がかるのは、おそらく土壌の鉄分含有量が――」
また始まった。クロエは薬草の話になると堰を切ったように語り出す。灰色の瞳に光が宿り、先ほどまでの控えめな態度が嘘のように、言葉が溢れてくる。
ノエルは微笑みながら聞いていた。これは使える、と思った。薬草への情熱が彼女の急所だ。この話題を糸口にすれば、信頼を築くのは難しくない。
だが同時に、妙な感覚があった。
クロエの目は、嘘をつく人間の目ではなかった。
ノエルは嘘を見抜くことに長けている。いや、長けていなければ生き延びてこられなかった。宮廷で交わされる言葉の九割は嘘だ。お世辞、建前、虚偽、欺瞞。社交辞令という名の嘘の群れの中を、ノエルは幼い頃から泳いできた。だからこそ、嘘をつかない人間に出会うと、それが分かる。
クロエは嘘をついていなかった。
銀糸花への興奮も、自分の未熟さへの控えめな自己評価も、貴族に対する素朴な緊張も。すべてが本物だった。言葉と感情の間に隙間がない。表と裏が同じ顔をしている。
それは、ノエルにとって理解しがたいことだった。
「――すみません、また長々と。退屈でしたよね」
クロエがまた口をつぐんだ。申し訳なさそうに、でもほんの少し名残惜しそうに。
「いいえ、全然。むしろもっと聞かせてください。こういう話は宮廷では珍しくて新鮮です」
これは社交辞令のつもりだった。だが口にした瞬間、ノエルは自分の声に含まれた響きに少し驚いた。社交辞令にしては、少し本当すぎた。
宮廷で「新鮮」なものに出会うことなど、もう何年もなかったのだ。
「あの……東方の銀糸花、もしよろしければ、押し花か種でもお持ちですか? 比較研究したいのですが」
クロエが遠慮がちに、しかし目を輝かせて尋ねた。その目に打算の影はない。純粋に、薬草が見たいだけだ。
ノエルの中で、何かが小さく軋んだ。
この娘は、自分とは正反対の人間だ。仮面を持たない。計算をしない。嘘をつかない。
その認識は情報として有用だった。嘘をつかない人間は、操りやすくもあり、厄介でもある。操りやすいのは、こちらの嘘に気づかないから。厄介なのは、こちらの嘘に──いずれ、その真っ直ぐさで触れてくるから。
「種を少し持ち帰りました。今度お持ちしましょう」
「本当ですか! ありがとうございます!」
クロエの顔が一瞬ぱっと明るくなった。心からの喜びだった。種一つでこれほど喜べる人間がいることに、ノエルは軽い眩暈のようなものを感じた。
自分はこの娘を、利用するためにここにいる。
その事実を、ノエルは改めて自分に言い聞かせた。
薬草講座が終わりに近づいた頃、ノエルの前にゆったりとした足取りで一人の男が現れた。
「やあ、ノエル殿。お帰りなさい。東方の任、ご苦労だったね」
マグナス・アウレウスは、いつものように穏やかな声でそう言った。
四十五歳。恰幅のいい体躯に仕立ての良い金糸の上衣を纏い、白髪まじりの髪を丁寧に撫でつけている。顔には深い笑い皺が刻まれ、目には慈父のような温かみがあった。宮廷で最も「善人に見える」男。それがマグナス・アウレウスだった。
「マグナス殿。お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
ノエルは完璧な礼を返した。二つの仮面が向かい合っている。ノエルにはそういう感覚があった。
「国王陛下のご容態はいかがです? 東方にいる間も気がかりでした」
「変わらぬご様子だよ。大薬師たちが全力を尽くしてはいるが……灰の審判を前に、我々臣下としても心が痛む」
マグナスは沈痛な表情を浮かべた。その表情は完璧だった。眉の角度、目の伏せ方、声の震わせ方。ノエルでさえ、一瞬だけ本当の憂慮に見えた。
一瞬だけ。
「灰の審判について、お若い方の意見も聞いておきたいのだが」
マグナスは庭園の小径をノエルとともに歩き始めた。周囲の貴族たちが自然に距離を取る。アウレウス家の当主が話しかけているのだ。割って入る者はいない。
「フェリクス殿下が王冠に選ばれる可能性は高いと、私は見ている。しかし殿下はまだ若い。後見が必要だ。ノエル殿はどうお考えかな?」
罠だ、とノエルは即座に判断した。マグナスは自分の意見を聞きたいのではない。カエルレウス家がフェリクスの後見を狙っているかどうかを確認したいのだ。ここで迂闘に本音を見せれば、手の内を晒すことになる。
「私ごときが意見を申し上げるような立場ではございませんよ」
「ご謙遜を。カエルレウス家は代々、外交と情報に長けた家門だ。ノエル殿も若くして立派にその任を果たしている。遠慮なさらず」
褒めて警戒を解く。常套手段だが、マグナスがやると妙に自然に聞こえる。人を安心させる才能は天性のものかもしれない。あるいは、数十年磨き上げた技術か。
「そうですね。殿下のご即位が実現するならば、四大公家が協力して後見にあたるのが理想ではないでしょうか。一家が突出するのは、均衡を崩しますから」
無難な回答を返した。マグナスは柔和に頷いた。
「その通りだ。均衡は大切だよ。この国は四つの柱で支えられている。一本が欠けても、一本が強すぎても、屋根は崩れる」
その言葉の裏に何があるのか。ノエルは思考を巡らせた。
マグナスは均衡を語りながら、東方の辺境伯を資金で懐柔し、月光石の流通を押さえ、明らかに均衡を崩す動きをしている。言葉と行動が乖離している。それは宮廷では珍しくないが、この男の場合、その乖離の幅が尋常ではない。
「ところでノエル殿、今日の講座で薬師の見習いと話していたね。クロエ殿、だったかな」
ノエルの表情は一片も動かなかった。だが内心は警戒を強めた。マグナスはクロエを観察していたのだ。あるいは、ノエルがクロエに接触したことを観察していた。
「ええ、銀糸花のことを教えていただきました。聡明な方ですね」
「薬草に詳しいだけの素朴な娘だよ。だが、ベアトリクス殿がずいぶん入れ込んでいるようでね。老婆心ながら、少々気になっている」
マグナスの声には温かみしかなかった。老練な叔父が甥に世間話をするような自然さ。だがノエルの背筋に、微かな冷気が走った。
この男はクロエを知っている。それも、「気になる」というのは、単なる関心以上の何かだ。
「お気遣いはありがたいですが、見習いの薬師を気にかけるほど、マグナス殿もお暇なのですか?」
冗談めかして返した。マグナスは声を上げて笑った。
「ははは。確かに。年を取ると、若い者のことが何でも気になってしまうものでね。失礼した」
笑い声が庭園に響いた。それは心底楽しそうな、温かい笑い声だった。
ノエルは笑い返しながら考えた。
この人は笑顔の裏に何かを隠している。
だが、それは宮廷では普通のことだ。自分も同じだ。四大公家の人間で、仮面を被らない者などいない。
ただ――マグナスの仮面は、他の誰よりも分厚い気がした。あの笑い声の奥底に、ノエルの計算では測れない何かが沈んでいる。感情なのか、野心なのか、あるいはもっと暗いものなのか。
「灰の審判まであと三月。何かあれば、いつでも相談してくださいね」
マグナスは最後にそう言って、穏やかに去っていった。その背中を見送りながら、ノエルは自分の直感を信じることにした。
マグナス・アウレウスは、警戒すべき相手だ。兄にもそう進言しよう。
ただし、具体的に何が危険なのかは、まだ分からない。
夜が更けた。
宮廷の喧騒が遠ざかり、廊下を歩く足音もまばらになる時刻。ノエルは私室の窓辺に立っていた。
灰の庭園が月光の下に広がっている。昼間は灰色に見える花々が、夜になるとかすかに銀色の光を帯びる。王冠の灰薬の原料が育つ庭。この国の権力の源が、あの静かな花壇の下に眠っている。
ノエルは手首の内側を鼻に近づけた。グラティアの残り香。甘く、人を惹きつける匂い。
自分本来の匂いが、もう分からない。
上衣を脱ぎ、帯を解いた。鏡に映る自分の顔を見た。社交の笑顔が消えた、素の顔。疲れが滲んでいた。目の下に薄い隈がある。唇は笑みの形を忘れたかのように、まっすぐに引き結ばれている。
これが本当の自分の顔なのかどうかも、もう確信が持てない。
母が死んだのは、ノエルが七歳の時だった。病死と発表された。だがカエルレウス家の人間はそれが嘘だと知っている。母は家門の権力闘争に巻き込まれ、毒を盛られた。犯人は特定されなかった。父は沈黙し、兄は復讐を誓い、ノエルは――泣くことを禁じられた。
あの日以来、感情は鍵のかかった箱の中にある。箱の存在は知っている。だが鍵はとうに失くした。
今日、クロエ・グリザイユと話したとき、奇妙なことが起きた。
あの娘が銀糸花について語るとき、目の中に灯った光。あの光を見た瞬間、ノエルの胸の奥で、鍵のかかった箱が微かに軋んだのだ。
何かが反応した。名前のつけられない何かが。
ノエルは窓枠に額を押しつけた。冷たい石の感触が心地よかった。
馬鹿げている。
あの娘はただの駒だ。兄の命令で接近し、情報を引き出し、カエルレウス家の利益に資する。それだけの存在だ。
だが、あの目。嘘のない目。計算のない目。自分が十二年前に失くしたものを、まだ当たり前のように持っている人間の目。
羨ましいと思ったのだろうか。
その感情を認めた瞬間、ノエルは首を振った。駄目だ。感情は弱さだ。弱さは隙になる。隙は死に繋がる。母がそうだったように。
窓から離れ、寝台に身を横たえた。明日はクロエへの接触の第二段階だ。東方の銀糸花の種を渡し、恩を売る。信頼を少しずつ積み上げる。焦らず、着実に。
目を閉じた。
眠りに落ちる直前、灰色の瞳が浮かんだ。クロエの瞳。あの中に嘘がないことが、なぜこうも――
意識が途切れた。
翌朝、ノエルが目を覚ましたのは、廊下の慌ただしい足音のせいだった。
リュカが私室に入ってきた。その顔がいつになく緊張していた。
「ノエル様。朝から宮廷が少々騒がしくなっております」
「何があった」
「詳しくは分かりませんが……昨日、王妃の離宮の清掃に入った薬師見習いが、何かを見つけたという噂が流れております」
ノエルは寝台の上で身を起こした。
薬師見習い。離宮の清掃。
「その見習いの名は」
「クロエ・グリザイユ、とのことです」
沈黙。
ノエルの思考が一瞬で加速した。離宮で何が見つかったのか。兄が言っていた「面白い娘」が、早くも宮廷を動かし始めている。偶然か。必然か。誰かの計画の一部か。
どちらにせよ、盤上の駒が予想より早く動いた。
ノエルは寝台を出て、衣装棚に手を伸ばした。上衣を選び、帯を締め、袖口を正す。最後に手首にグラティアを一滴。
鏡を見た。
完璧な笑顔が、そこにあった。