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第三章

王妃の離宮

【保存の封蝋薬 ― シギルム】用法: 書簡に一滴垂らし封をする。効果: 特定の人物以外が開封すると文字が消える。副作用: 隠された言葉ほど、見つけた者の心に深く刺さる。


王妃の離宮

グリセルダ王宮の大聖堂は、朝からしめやかな哀悼の色に包まれていた。

王妃エレオノーラの一周忌。祭壇には灰色の百合が生けられ、その茎には魔素を帯びた水滴が結露のようにしがみついている。百合の花弁は死者への追悼を表す淡い銀光を放ち、大聖堂の石壁にゆらゆらと光の波紋を投げかけていた。

クロエ・グリザイユは参列者の末席に座り、両手を膝の上で固く組んでいた。

見習い薬師に大聖堂への参列が許されるのは異例のことだった。しかし今日は王妃の一周忌である。宮廷に仕える全ての者が、身分を問わず追悼に加わることを国王が命じた。もっとも、病床の国王自身はこの場にいない。玉座の代わりに、灰色の布が掛けられた空席がその不在を静かに物語っていた。

聖歌隊の声が大聖堂の天蓋に反響し、幾重にも重なって降りそそぐ。クロエは歌詞の意味を追いながら、隣に座る同僚の薬師見習いが居眠りしかけているのを横目で確認した。肘で軽くつつくと、相手はびくりとして背筋を正す。

祭壇の前には四つの大公家の当主が横一列に並んでいた。

赤い礼服のルベウス家当主。蒼い外套を纏ったカエルレウス家当主の隣には、外交から帰還したばかりのノエルの姿もある。緑の襟飾りをつけたヴィリディス家の当主代行ヴィオラは、伏し目がちに祈りを捧げている。金の刺繍が入った上衣のアウレウス家当主マグナスは、四人の中で最も落ち着いた表情を浮かべていた。

クロエの視線は自然とフェリクス王子に向かった。

王太子は祭壇に最も近い場所に立っていた。年齢のわりに小柄な体を黒い喪服に包み、両手を前で組んだまま微動だにしない。その横顔は蒼白で、唇が微かに震えているのがクロエの席からでも見て取れた。母を失った少年。しかし王子であるがゆえに、この大聖堂の誰よりも毅然としていなければならない。そのことの残酷さが、クロエの胸を締めつけた。

儀式は正午過ぎまで続いた。

大司祭が最後の祈禱を終え、灰色の百合から放たれていた銀光が静かに消えてゆく。参列者たちは粛然と席を立ち、大聖堂を後にし始めた。クロエもその流れに従おうとしたとき、肩に手が置かれた。

振り返ると、ベアトリクス・モルゲンが立っていた。

宮廷首席薬師は、いつもと同じ灰褐色の調合服を着ている。儀式用の礼服ではない。彼女にとって薬師の服が正装なのだ。深い皺が刻まれた顔は無表情だったが、クロエはその目の奥にかすかな疲労の色を読み取った。ベアトリクスにとっても、王妃の一周忌は特別な意味を持つのだろう。

「クロエ」

低く、抑制された声だった。

「はい、師匠」

「これから王妃の離宮に行きなさい。薬品棚の整理と、残された薬の廃棄処分を命じます」

クロエは一瞬、目を瞬いた。王妃の離宮。王妃が生前こよなく愛したと伝えられる、王宮の北の外れに位置する小さな別館である。王妃の死後、ほとんど人の立ち入りが禁じられていたはずだ。

「一人で、ですか」

「一人で」ベアトリクスは短く答えた。「離宮の薬品は一年放置されている。劣化した魔薬は危険だ。正しく処分できる者でなければ務まらない。お前の腕なら問題ないでしょう」

師匠が自分の腕を褒めることは滅多にない。クロエは小さく頭を下げた。

「承知しました」

「棚の目録を作りなさい。何が残っているか、全て記録すること」

ベアトリクスはそれだけ言うと、踵を返して大聖堂の奥へ消えていった。その背中を見送りながら、クロエは胸の内で疑問を転がした。離宮の薬品整理なら、もっと前に済ませておくべき仕事だ。なぜ一周忌の今日まで放置されていたのか。そして、なぜ自分なのか。

だが師匠の命令に疑義を呈する習慣は、クロエにはなかった。

大聖堂を出ると、冬の終わりの冷たい空気が頬を刺した。儀式の荘厳さの余韻を引きずったまま、クロエは王宮の回廊を西へ向かった。

途中、すれ違う侍従や侍女たちの表情にも追悼の色が残っている。王妃は多くの者に慕われていた。特に下級の使用人たちにとって、王妃の温かな目配りは宮廷の冷たさの中の数少ない灯火だったという。クロエ自身は王妃に直接仕えたことはないが、王妃が調合室に薬草を届けに来たという話をベアトリクスから聞いたことがある。王家の人間が自ら薬草を運ぶなど、前代未聞の振る舞いだった。

西翼の回廊は、進むほどに人の気配が薄れていった。

床の石畳は磨かれてはいるものの、踏む者が少ないせいか靴音がやけに高く響く。壁にかかる燭台の蝋燭は半分ほどしか灯されておらず、廊下は薄暗い半影の中に沈んでいた。窓の外には冬枯れの庭が広がり、葉を落とした木々が灰色の空に骨のような枝を差し伸べている。

離宮の入口に着いたとき、クロエは立ち止まった。

繊細な装飾が施された両開きの扉。扉の上部には、王妃の紋章である銀のすずらんが彫り込まれている。取っ手に手をかけると、金属の冷たさが手袋越しにも伝わってきた。鍵は開いている。ベアトリクスが手配したのだろう。

扉を押し開けた瞬間、埃と古い薬草の匂いが混じり合った空気がクロエの顔に触れた。

王妃の離宮は、美しかった。

たとえ一年の空白に覆われていても、その美しさは損なわれていない。入ってすぐの広間は天井が高く、壁面を淡い緑色の化粧漆喰が覆っていた。漆喰には薬草の葉脈を模した繊細な浮き彫りが施されている。天窓から差し込む冬の光が、埃の粒子を銀色に照らし出し、まるで微細な雪が室内に降っているかのようだった。

家具には白い布が掛けられ、その下の輪郭だけが家具の存在を主張している。暖炉には火の気配はなく、石の壁は冷え切っていた。だが不思議と荒廃した印象はない。放置された空間というよりも、時間が止まった空間。王妃の最後の呼吸がまだこの部屋のどこかに漂っているような、そんな感覚だった。

クロエは広間を抜け、奥へ進んだ。

廊下の左手に書斎、右手に寝室。その先に小さな調合室がある。ベアトリクスが言っていた薬品棚はそこにあるはずだ。しかしクロエの足は、調合室に向かう前にもう一つの部屋の前で止まった。

硝子張りの扉の向こうに、小さな薬草園が見えた。

王妃の私的な薬草園。聞いたことはあったが、実際に目にするのは初めてだった。

クロエは硝子の扉を開けた。

屋内庭園は天井も硝子で覆われており、冬の弱い光がそのまま降り注いでいる。かつては見事な薬草が並んでいたのだろう。今は土が乾き、多くの薬草が枯れかけていた。それでも幾つかの強靭な種は生き延びており、月光草の銀色の葉が乾いた土に貼りつくように広がり、癒しの苔が鉢の縁にしがみついていた。

クロエは膝をつき、枯れかけた薬草に手を伸ばした。

指先が乾いた葉に触れると、わずかに残った魔素が微かな光を放った。まだ生きている。手入れをすれば、この庭園は蘇るかもしれない。薬師として、命ある薬草が顧みられずに朽ちてゆく光景は胸が痛んだ。

「ごめんなさい」

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。枯れゆく薬草に対してか、それとも、この庭園を愛した亡き王妃に対してか。

水差しがないか見回したが、庭園の水遣り道具は片付けられていた。クロエは腰の薬嚢から小瓶を取り出し、携帯用の浄水薬を数滴、最も衰弱のひどい月光草の根元に垂らした。焼け石に水のような行為だが、何もしないよりはいい。

薬草園を後にし、クロエは本来の目的地である調合室に向かった。

離宮の調合室は、王宮本館のベアトリクスの調合室に比べればずっと小さい。しかし設備は一級品だった。棚に並ぶ薬瓶の多くは魔素の光を失い、中身が変質している。クロエは薬嚢から目録帳を取り出し、一つ一つの薬瓶を確認しながら記録を始めた。

白薬の棚。治癒薬、浄化水、強化軟膏。いずれも期限を大幅に過ぎている。クロエは手順に従い、劣化した薬を専用の廃棄瓶に移してゆく。灰薬の棚は数が少ない。変容の薬、境界の軟膏、そして処方箋のない薬瓶が二本。中身を確認すると、一本は緩やかな安眠効果を持つ灰薬で、もう一本は変色が進みすぎて判別できなかった。

黒薬の棚は存在しない。少なくとも表向きには。

作業を続けるうちに、クロエは棚の奥に違和感を覚えた。最奥の棚の背板が、微妙に前に出ている。他の棚の背板と比べて、わずか指一本分ほど。薬師としての几帳面さが、その不揃いを見逃さなかった。

空になった薬瓶を脇にどけ、棚の奥に手を伸ばす。背板を指で押すと、かちりと小さな音がして、板が横にずれた。

その奥に、木製の小箱が置かれていた。


日記の発見

小箱は手のひらに収まるほどの大きさで、蓋に銀のすずらんの紋章が刻まれていた。王妃の私物であることは一目で分かる。留め金には封蝋が施されており、その封蝋にはかすかに魔素の残滓が宿っていた。

保存の封蝋薬。シギルム。

クロエは一瞬、手を引きかけた。この封蝋薬は、特定の人物以外が開封すると中の文字が消えるという効果を持つ。つまり、この小箱の中身は限られた人間にしか読めない。自分が開けてしまえば、もしかしたら全てが消えてしまうかもしれない。

だが、封蝋はすでにその力を失いかけていた。一年という時間が魔素を蝕み、蝋の表面は細かなひび割れに覆われている。クロエが指先で軽く触れると、封蝋はぽろりと崩れ落ちた。

中に入っていたのは、薄い革表紙の手帳だった。

手帳を開くと、流麗な筆跡が目に飛び込んだ。日付入りの記述。日記だ。クロエは最初のページから目を走らせた。

最初の数ページは穏やかな内容だった。庭園の薬草の生育記録。新しい処方の試行。フェリクスの成長への喜び。国王との会話。文面からは聡明で温かな人柄がにじみ出ている。

しかし中盤から、記述の様子が変わった。

文字が小さくなり、行間が詰まってゆく。ところどころに意味の通らない語句が紛れ込んでいる。「銀の根は四度巡る」「青い月は沈まない」「鏡の裏に本当の顔がある」。最初は王妃の個人的な暗喩かと思ったが、読み進めるうちに、これが意図的な暗号であることにクロエは気づいた。

誰かに読まれることを警戒している。封蝋薬で箱に封をしたうえ、さらに内容を暗号化している。王妃は一体、何をそこまで恐れていたのか。

日付の途切れた最後のページを開いたとき、クロエの指が止まった。

それまでの整然とした筆跡とは明らかに異なる、荒い走り書きがあった。インクが滲み、紙を引っ掻いた跡まで残っている。書き急いでいたのか、それとも手が震えていたのか。

こう記されていた。

「Cの子に真実を。灰の庭園の根に答えがある」

クロエは何度もその一行を読み返した。

「Cの子」。一体、誰のことだろう。王妃が最後に書き残した言葉。封蝋薬で封じ、棚の隠し場所に仕舞い込んだ日記の、最後の一行。それほどまでに重要な言葉が、こんなにも短い。

Cの子。

クロエの頭に、一つの符合が浮かんだ。自分の名前はクロエ。頭文字はC。

いや、とすぐに打ち消す。偶然だ。王妃と自分に接点はない。クロエはただの薬師見習いで、孤児で、薬師ギルドに引き取られた誰でもない少女だ。Cで始まる名前など宮廷にいくらでもいる。

そう自分に言い聞かせたが、胸の奥に芽生えた小さな棘は、容易に抜けなかった。

日記を閉じようとしたとき、ページの間から薄い紙片が滑り落ちた。

クロエは紙片を拾い上げ、広げた。

処方箋だった。

丁寧な筆跡で書かれた魔薬の処方箋。しかし、クロエが宮廷の調合室で学んだどの処方とも一致しない。薬草の組み合わせが特異だった。月光草の根、忘却の苔、境界のサンザシ、そして――灰の花粉。

灰の花粉。それは灰の庭園でしか採取できない極めて希少な素材だ。この処方箋は灰薬に分類されるはずだが、用途が書かれていない。何のための薬なのか。効果の記述もなく、ただ素材と配分と調合手順だけが、沈黙のまま並んでいる。

クロエはその処方箋を凝視した。

見たことがない。見たことがないはずだ。

なのに。

指先が微かに震えた。視界の端で、何かが明滅したような気がした。調合室の光は変わっていない。変わったのはクロエの内側だった。

この処方箋を知っている。

いつ。どこで。誰から。記憶を手繰ろうとすると、靄のような抵抗に遭った。目の奥が鈍く痛み、こめかみに圧迫感が走る。既視感。あの、調合中にも時折感じる奇妙な感覚と同じだ。初めて見るはずのものに覚える不可解な親しみ。手が勝手に知っているかのような、身体の記憶。

だが今回の既視感は、これまでのものとは比較にならないほど強かった。

処方箋の文字列が、クロエの目の前でぐらりと揺れた。いや、揺れているのは紙ではなく、自分自身の認識だ。この処方箋の筆跡。丸みを帯びた独特の書き癖。インクの色。これらを、自分は確かに知っている。

知っているのに、思い出せない。

まるで水面の下に沈んだ何かを掴もうとして、指がすり抜けていく感覚だった。

クロエは処方箋を持つ手を下ろし、深く息をついた。心臓が早鐘を打っている。冷静になれ、と自分に言い聞かせた。自分は薬師だ。観察し、分析し、論理的に考える。それが薬師の仕事だ。

だが論理は、この不安の正体を説明してくれなかった。

なぜ王妃の離宮に、自分が見たことがあるような処方箋が隠されているのか。なぜ王妃は最後のページに「Cの子に真実を」と書き残したのか。なぜ自分は、知らないはずのことを知っているのか。

疑問は疑問を呼び、不安は渦のように膨らんでゆく。

クロエは日記と処方箋を小箱に戻し、小箱ごと薬嚢の中に収めた。目録帳には記載しなかった。これを正式な報告に含めるべきなのか、判断がつかなかった。王妃の私的な日記を勝手に持ち出すことの是非。しかし、棚の奥に隠された封蝋付きの小箱を、ただの廃棄対象として処理することもできなかった。

薬品棚の残りの整理を済ませると、クロエは離宮の調合室を後にした。硝子張りの扉の向こうで、月光草の銀色の葉が弱々しく光っている。浄水薬の効果が出たのか、わずかに葉が起き上がっているように見えた。

離宮の広間を抜け、両開きの扉を閉める。振り返って王妃の紋章を見上げたとき、クロエの頭の中で走り書きの文字が反芻された。

「Cの子に真実を。灰の庭園の根に答えがある」

答え。一体、何の答えが。


離宮から本館へ戻る回廊は、午後の光の中で長い影を引いていた。

クロエは早足で歩きながら、薬嚢の中の小箱の重みを意識していた。たかが手帳と紙片一枚。物理的には軽いはずだが、その重さは歩くたびに増していくようだった。

回廊の角を曲がったとき、クロエは足を止めた。

通路の先に人影があった。窓辺に寄りかかるようにして、冬枯れの庭を眺めている少年。黒い喪服はそのままで、儀式から着替えてもいない。風に淡い栗色の髪が揺れている。

フェリクス・グリセルダ。

王太子が人目を避けて一人でいる姿は珍しくないと聞いていたが、実際に遭遇するのは初めてだった。いや、初めてではない。庭園で薬草の世話をしているとき、何度かすれ違ったことがある。だがそれは遠くからの会釈程度のことで、言葉を交わしたことはなかった。

クロエは一礼して通り過ぎようとした。見習い薬師が王太子に気安く声をかけることは作法に反する。しかし。

「待って」

フェリクスの声は、驚くほど静かだった。命令ではなく、懇願に近い響きがあった。

クロエは足を止め、向き直った。

「殿下」

「君は……宮廷薬師の見習いだね。クロエ、といったか」

名前を知られていることに驚いた。クロエは再び頭を下げた。

「はい、殿下。クロエ・グリザイユと申します」

フェリクスは窓辺から身体を起こした。その目が、クロエの腰の薬嚢に一瞬だけ向けられた。

「母上の離宮から戻ってきたところか」

断定的な言い方だった。クロエは少し躊躇してから頷いた。

「はい。ベアトリクス師匠の命で、薬品棚の整理に参りました」

「そうか」

フェリクスは視線を窓の外に戻した。沈黙が降りた。クロエは退出すべきか迷ったが、王子が「待って」と言ったのだ。用件があるはずだった。

長い沈黙の後、フェリクスが口を開いた。

「離宮で何か……見つけなかったか」

クロエの心臓が跳ねた。

見つけた。隠し棚の奥に封蝋で封じられた小箱を。王妃の日記を。暗号めいた記述を。「Cの子に真実を」という走り書きを。見たことがないはずなのに既視感のある処方箋を。

嘘をつくことはできた。何も見つけませんでした、と答えればいい。薬品棚の整理を済ませただけです。それで終わる話だ。

だがクロエは、フェリクスの目を見てしまった。

十六歳の少年の瞳には、今朝の大聖堂で見たのと同じ色があった。悲しみ。しかしそれだけではない。その奥に、もっと切実なものが揺れている。知りたいという渇望。真実を求める者だけが持つ、静かで激しい光。

クロエは薬嚢に手を入れ、小箱を取り出した。

「これを見つけました」

フェリクスの目が見開かれた。銀のすずらんの紋章を見た瞬間、その表情が変わった。驚きと、それから——怯えにも似た何か。

「母上の……」

「薬品棚の奥に隠されていました。封蝋が施されていましたが、魔素が失われていて、自然に開きました」

クロエは小箱を差し出した。しかしフェリクスは受け取らず、代わりに尋ねた。

「中を見たのか」

「はい」正直に答えた。「日記でした。途中から暗号のような記述になっています。そして、最後のページに——」

「最後のページに?」

「『Cの子に真実を。灰の庭園の根に答えがある』と」

フェリクスの顔から血の気が引いた。

少年は一歩後ずさり、壁に背をつけた。呼吸が乱れている。クロエは思わず手を伸ばしかけたが、相手は王太子だ。不用意に触れるわけにはいかない。

「殿下、大丈夫ですか」

「……灰の庭園」フェリクスは掠れた声で繰り返した。「母上は、やはり」

その言葉の意味が分からず、クロエは黙って待った。

フェリクスは数回深呼吸を繰り返した後、クロエの方を真っ直ぐに見た。一周忌の儀式で見せていた仮面のような無表情は消えている。今ここにいるのは、王太子ではなく、母を失った十六歳の少年だった。

「クロエ、と言ったね」

「はい」

「僕はずっと……疑っていた」

声が震えていた。しかしフェリクスは言葉を止めなかった。

「母上は病死だと発表された。宮廷の記録にもそう書かれている。首席薬師の診断書にも。だが僕は……母上の最後の数日を、側で見ていた」

フェリクスの手が握りしめられた。

「母上は病人ではなかった。あの日まで、元気だった。薬草園の手入れをして、僕に調合の手ほどきをしてくれて。それが突然、ある朝から急に衰弱した。三日で亡くなった」

クロエは息を呑んだ。

「三日で……?」

「宮廷の医師は急性の病だと言った。首席薬師も同じ診断を下した。でも僕には分からなかった。母上はあれほど薬学に通じていたのに、なぜ自分の異変に気づかなかったのか。なぜ、手の施しようがなかったのか」

薬師として、クロエの思考は自動的に動き始めていた。健康だった人物が三日で死に至る。病であれば、よほど悪性の急性疾患か、それとも——。

「殿下は」クロエは慎重に言葉を選んだ。「王妃様の死因が、病ではなかった可能性をお考えなのですか」

フェリクスは静かに頷いた。

「母上は……病死ではなかったのかもしれない」

その言葉が回廊に落ちた。

毒殺。フェリクスはそれを口にしなかったが、クロエには十分に伝わった。薬師にとって、毒と薬は紙一重だ。この世界の格言でもある。治癒のための白薬も、量と組み合わせを誤れば人を殺す。そして意図的に人を害する黒薬は、宮廷の暗部で密かに使われてきた歴史がある。

もし王妃が毒殺されたのだとしたら。犯人は宮廷内の人間だ。高度な黒薬を調合できる者。王妃に近づける立場にいた者。そして、死因を病死として隠蔽できるだけの権力を持った者。

背筋を冷たいものが這い上がった。

「殿下」クロエは小箱をフェリクスに差し出した。「これはお母上の遺品です。お預かりするのは——」

「いや」フェリクスは首を振った。「君が持っていてほしい」

「え?」

「僕が持っていれば目立つ。王子が母の遺品を探っていると知られれば、警戒される。だが君なら——薬品整理の過程で見つけた、ただの古い手帳だ。誰も気に留めない」

フェリクスの言葉には、十六歳とは思えない冷静な計算があった。この少年は内気で控えめに見えるが、宮廷の力学を理解している。理解せざるを得なかったのだろう。母を失い、父は病に伏し、自分の命さえ安全とは言い切れない環境で。

「殿下、私はただの見習い薬師です。こんな重大なことに——」

「日記の中に処方箋が挟まれていたと言ったね」

フェリクスの声が少し強くなった。

「……はい」

「その処方箋を、分析できるか」

クロエは口を閉ざした。処方箋の内容は見たことがない。だが薬師として、素材と調合手順が分かれば、その薬が何を目的としたものかを推測することは不可能ではない。特に、灰の花粉という希少素材が含まれている以上、調べるべき方向は限られてくる。

「……分析を試みることはできます」

「頼む」フェリクスは頭を下げかけ、しかし途中で動きを止めた。王子としての矜持が、完全に頭を下げることを許さなかったのだろう。だがその仕草だけで、この少年がどれほど切実なのかが伝わってきた。

「殿下」

「フェリクスでいい。こんな話をした相手に、殿下も何もないだろう」

その言葉に、不器用な率直さがあった。クロエは小箱を薬嚢に戻した。

「分かりました、フェリクス様。処方箋を調べてみます。ただ、お約束はできません。私の知識と技量では限界があります」

「それでいい」フェリクスの顔に、ほんのわずかな安堵が浮かんだ。「知ろうとしてくれる人が、この宮廷にいるだけで」

それ以上は何も言わず、フェリクスは回廊の奥へ去っていった。黒い喪服の背中が角を曲がって消えるまで、クロエは見送った。

一人残されたクロエは、薬嚢の重みを改めて感じた。

日記。暗号。「Cの子に真実を」。見覚えのある処方箋。王妃の死への疑念。毒殺の可能性。

自分はいま、何の入口に立っているのだろう。

分からない。だが分かっていることが一つだけある。処方箋を調合室に持ち帰り、分析する。それが薬師としてできることだ。それが、今の自分にできる唯一のことだ。

クロエは歩き出した。本館の東翼、ベアトリクスの調合室に向かって。夕暮れの光が回廊を琥珀色に染め、クロエの影を長く引き伸ばしていた。

調合室の扉を開けたとき、薬草と蒸留水の馴染みのある匂いがクロエを迎えた。ここは自分の場所だ。この匂いの中でなら、冷静に考えられる。処方箋を広げ、素材を一つ一つ照合し、論理の糸を辿ればいい。

作業台に向かおうとしたクロエの足が、止まった。

薄暗い調合室の奥、蒸留器の影に、人影があった。

ベアトリクスが椅子に座っていた。

師匠はいつもの灰褐色の調合服のまま、手元の薬瓶を光にかざしている。クロエが入ってきたことに気づいているはずだが、しばらく視線を上げなかった。やがて薬瓶をゆっくりと棚に戻し、クロエの方を見た。

その目は、いつもの厳格な師匠の目とは少し違っていた。何かを見定めようとするような、深い注視。

「戻りましたか」

「はい、師匠。薬品棚の目録を作成しました。劣化した薬は規定通り廃棄処分に——」

「何か見つけたか」

クロエの言葉を遮るように、ベアトリクスは尋ねた。

その問いの響きが、クロエの背筋を緊張させた。

何か見つけたか。フェリクスもまったく同じことを聞いた。だがフェリクスの問いが母を想う少年の切実な懇願だったのに対し、ベアトリクスの問いには別の色がある。まるで、何かが見つかることを知っていたかのような。

クロエは師匠の目を見返した。

嘘はつけない。ベアトリクスの前では、嘘は通用しない。何十年もの経験を持つ大薬師の観察眼は、弟子の動揺を見逃さない。

だが、全てを話すこともできなかった。少なくとも、今はまだ。

「劣化した薬品の他に、幾つかの未登録の薬瓶がありました。目録に記載してあります」

嘘ではない。しかし全てでもない。

ベアトリクスは長い間、クロエの顔を見つめていた。

その沈黙の中で、調合室の蒸留器がことりと音を立てた。薬草の蒸気が細い管を伝い、受け瓶に一滴の雫を落とした。その音だけが、二人の間に横たわる沈黙を刻んでいた。

やがてベアトリクスは目を閉じ、小さく息をついた。

「……そうですか」

それだけ言って、師匠は椅子から立ち上がった。クロエの脇を通り過ぎるとき、足を止めて一言だけ付け加えた。

「明日の調合実習は、通常通り朝の第二刻からです。遅れないように」

「はい、師匠」

ベアトリクスが調合室を出ていった後、クロエは一人残された。

腰の薬嚢が重い。師匠の「何か見つけたか」という問いが、耳の奥で反響している。

あれは、本当にただの確認だったのか。

それとも——。

クロエは作業台の前に立ち、薬嚢から小箱を取り出した。蓋を開け、処方箋を広げる。月光草の根、忘却の苔、境界のサンザシ、灰の花粉。見覚えのある、見覚えがないはずの筆跡。

薬師として、分析する。それだけだ。

クロエは蝋燭に火を灯し、処方箋を光の下に広げた。

夜が、静かに始まろうとしていた。

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