← TOP
プライバシーポリシー お問い合わせ

第四章

アデル・ルベウスの剣

【強化の軍薬 ― フォルティス】用法: 戦闘前に服用。効果: 筋力と反射速度の一時的増強。副作用: 効果が切れた後の脱力感。そして、力だけでは守れないものがあるという事実。


アデルとの邂逅

剣を振るうとき、アデル・ルベウスの頭は空になる。

斬撃の軌道、足運びの間合い、呼吸の深度。それらが言語を経由せず直接身体を動かす瞬間だけが、彼女にとっての自由だった。王宮東翼の騎士訓練場に響く金属音は、午前の第一刻を告げる鐘よりも正確に一日の始まりを刻む。

訓練用の長剣が相手の得物を弾いた。手首の返しから肩、腰、踵へと衝撃が伝わり、石畳の上で靴底がきしむ。弾かれた騎士が半歩よろめく。アデルの追撃は容赦がなかった。間髪入れず踏み込み、相手の剣の軌道を読んで身体ごと懐に入る。訓練剣の切先が相手の喉元三寸で止まった。

「勝負あり」

審判役の古参騎士が声を上げた。訓練場に散っていた騎士たちの動きが止まり、視線がアデルに集まる。

倒された騎士はガルドと名乗る男で、アデルより六つ年上の中堅だった。膝をつき、荒い息をつきながらアデルを見上げている。その目に浮かぶものを、アデルは嫌というほど知っていた。敬意ではない。悔しさでもない。もっと粘ついた感情。十八歳の女に負けた男の、自尊心が軋む音。

「隊長。今のは少々――」

「何が」

アデルは訓練剣を肩に担いだ。汗が首筋を伝い、赤い髪が頬に張りつく。ルベウス家の紋章が刺繍された訓練着の襟をゆるめた。

「いえ……何でもありません」

ガルドは視線を落として立ち上がった。何が言いたかったのかは分かっている。「少々手荒い」とでも言おうとしたのだろう。あるいは「女のくせに」。口にはしない。しかし沈黙の中にその言葉は確かにあり、訓練場の空気を微かに濁らせている。

アデルは騎士たちを見回した。

「全員、午後の訓練は実戦形式で行う。二対一の連携組手だ。対戦表は昼までに掲示する。以上、散れ」

騎士たちが敬礼して散っていく。その背中を見送りながら、アデルは訓練剣を武器架けに戻した。柄を握っていた手のひらが赤い。豆が潰れかけている。手袋を外すと、掌の皮膚が薄くめくれて血が滲んでいた。

痛みは感じない。あるいは、感じないようにしている。

「隊長、お手当てを」

訓練場の隅から声がかかった。副官のエルヴィン・モース。アデルより三つ年上の二十一歳で、騎士団の中では数少ないアデルの実力を認めている人間だった。長身痩躯で、常に冷静な物腰を崩さない。彼の手には白い包帯と軟膏の小瓶があった。

「いらない」

「豆が潰れています。放置すれば明日の訓練に差し障ります」

「……分かった」

アデルは訓練場の縁石に腰を下ろし、手のひらを差し出した。エルヴィンは手慣れた動作で軟膏を塗り、包帯を巻いていく。彼がこういう世話を焼くのは、騎士としての合理的判断だ。隊長が怪我をすれば訓練に支障が出る。それだけのことだ。アデルはそう理解しているし、エルヴィンもそれ以上の意味を込めない。その淡白な関係が、アデルにはありがたかった。

「ガルドはまだ隊長に剣で挑み続けますね」

「負け犬ほど吠える。そういう男だ」

「負け犬は諦めるもので、吠えるのは別の種類の犬かと」

アデルは鼻を鳴らした。笑ったのかもしれない。自分でも判然としなかった。

「あいつだけじゃない。騎士団の半分はまだ私を認めていない。『赤の家の令嬢が物珍しさで騎士ごっこをしている』。そう思っている」

「思わせておけばいいのでは」

「思わせておいて、勝てばいいだけだ。そうしてきた」

エルヴィンは包帯の端を結び、アデルの手を離した。

「勝ち続けるのは、勝つことよりも消耗します」

その言葉に、アデルは何も返さなかった。エルヴィンが何を言おうとしているのか、分からないわけではない。だが認めることはできない。消耗を認めれば、それは弱さの告白になる。弱さを見せた瞬間に、この場所は奪われる。

アデル・ルベウスは、ルベウス家の長女として生まれた。赤の家は軍事を担う武門の名家であり、歴代の当主は例外なく男だった。アデルには二つ下の弟がいる。家門の長老たちは、当然のように弟を次期当主に推している。アデルには「良縁を見つけて嫁げ」というのが暗黙の了解だった。

ふざけるな、とアデルは思った。十二歳で初めて剣を握ったときから、ずっとそう思っている。

なぜ女であるだけで退かなければならない。なぜ弟が長女より上に立てるのか。血筋か。伝統か。ならばその伝統を、剣で斬り捨ててやる。

十五歳で騎士団に入団した。十六歳で剣術の公開試合に勝ち抜き、最年少記録を更新した。十七歳でルベウス家が推す王位継承候補の護衛隊長に任命され、十八歳の今、宮廷騎士団の若き隊長の座にある。すべて実力で勝ち取った。誰の助けも借りず、誰の施しも受けず。

だがそれでも、ガルドのような男は消えない。「隊長」と呼びながら、腹の底では「女に従わされている」と思っている騎士は何人もいる。それを黙らせるには、勝ち続けるしかない。剣で、実績で、圧倒的な実力で。

繊細さを見せれば弱いと見なされる。感情を露わにすれば「女だから」と片付けられる。だからアデルは武断的に振る舞い、短気を装い、直情径行の仮面を被ってきた。力だけが、この世界で女に許された唯一の言語だった。

手のひらの包帯を見つめながら、アデルは考えた。

灰の審判が近づいている。王冠が次の王を選ぶ儀式。ルベウス家もまた候補を立てるだろう。その候補は、本来ならアデル自身であるべきだ。しかし家門の長老たちは弟を推すことを決めている。女の候補者など前例がない、と。

前例がないなら、作ればいい。

そう言い放ったとき、長老たちの顔に浮かんだ表情を、アデルは忘れない。嘲笑でも怒りでもない。あの表情は――憐れみだった。不憫な子だ、身の程を知らぬ娘だ、と言いたげな、湿った目。

剣では斬れないものがある。偏見という名の壁は、刃を通さない。

だが――だとすれば、何で斬るのか。

政治的な立ち回り。根回し。説得。同盟の構築。アデルにはそのための能力があった。本当は、ある。ルベウス家の食卓で交わされる権謀術数の会話を、幼い頃から聞いてきた。誰に恩を売り、誰と手を結び、誰を牽制するか。その感覚は血に染みついている。

しかし、それを表に出せば「女のくせに政治に首を突っ込む」と言われる。剣で黙らせることはできても、舌先三寸で黙らせれば「陰険だ」と言われる。武力一辺倒の猪武者で通したほうが、まだ居場所がある。矛盾だった。力を振るえば「女のくせに」、知恵を使えば「女のくせに」。どちらに転んでも、「女のくせに」は消えない。

アデルは立ち上がり、訓練場を後にした。

回廊を歩きながら、腰の帯に提げた小瓶に手を触れた。強化の軍薬、フォルティス。戦闘前に服用すれば筋力と反射速度が一時的に増強される白薬だ。アデルは常にこれを携帯している。使ったことは一度もない。自分の力で勝てなければ意味がない。薬に頼る騎士は騎士ではない。

だが、このフォルティスを調合してくれたのは、宮廷の薬師だった。名前は知らない。調合室に依頼を出せば、指定した薬が翌日には届く。それだけの関係だ。しかしアデルの手元に届くフォルティスは、いつも品質が安定していた。純度が高く、副作用が最小限に抑えられている。腕のいい薬師の仕事だ。

薬師。アデルにとって、薬理魔術は剣と対極にある世界だった。薬のことは分からない。分かる必要がないと思ってきた。剣で解決できないことなど、この世にないと信じてきた。

その信念が、今日、揺らぐことになるとは、このときのアデルはまだ知らなかった。


第一の死

異変は昼過ぎに起きた。

午後の訓練を始めようとしていたアデルのもとに、伝令が駆け込んできた。息を切らした若い兵士が、直立して報告する。

「隊長。薬師棟の調合室で、薬師が一名倒れているのが発見されました。死亡していると思われます」

アデルの足が止まった。

「薬師が死んだ?」

「は。上級薬師のラウル・バッシュです。今朝の調合作業中に倒れたものと見られます。第一発見者は見習い薬師で、半刻ほど前に通報がありました」

アデルは訓練場にいた騎士たちに振り返った。

「午後の訓練は中止。各自、持ち場の警備に就け。エルヴィン、一緒に来い」

薬師棟までは回廊を早足で五分。アデルは訓練着のまま、剣を帯びて歩いた。宮廷騎士団の隊長には、王宮内で発生した変事を調査する権限がある。薬師の死が事故であれ事件であれ、最初に現場を押さえるのは騎士団の仕事だ。

薬師棟の調合室は、すでに数人の薬師と侍従が入口に集まっていた。顔色を失った見習いの少女が壁にもたれかかり、年嵩の薬師が彼女に水を飲ませている。アデルが到着すると、人垣が割れた。

「騎士団隊長のルベウスだ。室内に入った者は」

「第一発見者の見習いと、安否確認のために入室した私だけです」

答えたのは三十代の正薬師だった。名をオリヴィエといった。アデルは彼に頷き、調合室の扉を押し開けた。

薬草と蒸留水の匂い。そして、その下に潜む別の匂い。

アデルは足を踏み入れた瞬間に、空気の異質さを感じた。訓練で鍛えた嗅覚は、戦場の血の匂いを嗅ぎ分けられる。この調合室に漂っているのは血ではない。もっと甘く、もっと重い何か。花と腐敗の中間のような、不快な芳香。

死体は調合室の奥にあった。

ラウル・バッシュ。四十代の上級薬師。恰幅のいい男が、作業台の横でうつ伏せに倒れていた。表情は苦悶のまま硬直し、両手は何かを掴もうとするかのように前方に伸ばされている。爪の先に薬瓶の破片が食い込んでおり、床には割れた硝子瓶と液体が散乱していた。

一見して、調合事故に見える。

薬瓶を落とし、有毒な蒸気を吸い込んだか、あるいは調合中に暴発が起きたか。薬師の死因としては珍しくない。特に灰薬や黒薬を扱う薬師は、ひとつの手順の誤りが致命的な事故につながる。

しかし、アデルの中の何かが引っかかった。

エルヴィンが背後で現場の見取り図を書き始めるのを横目に、アデルは死体の周囲をゆっくりと歩いた。

まず、手の位置。ラウルの両手は前方に伸びている。薬瓶を落として蒸気を吸ったのなら、反射的に口と鼻を覆うはずだ。あるいは蒸気から逃れようとして、扉の方向に身を向けるのが自然だ。だがラウルの身体は作業台に向かって倒れている。前に進もうとしていた。何かを取ろうとしていたのか。

次に、薬瓶の破片。床に散乱した硝子片は、作業台の上から落ちたにしては飛散範囲が広すぎる。台の高さから自然落下した場合、破片はもっと狭い範囲に集まるはずだ。まるで、手の中で割れたかのような散り方をしている。

そして、匂い。あの甘く重い匂いが、まだ室内に漂っている。アデルは薬の知識がほとんどないが、調合室に普段漂う薬草と蒸留水の匂いとは明らかに異なることくらいは分かる。

「エルヴィン。この匂い、何だか分かるか」

「申し訳ありません。薬理の知識は私にも」

アデルは舌打ちした。当然だ。騎士に薬の匂いの判別はできない。

「正薬師のオリヴィエを呼べ」

エルヴィンが入口に戻り、オリヴィエを連れてきた。正薬師は死体から顔を背けながらも、アデルの指示に従って室内の匂いを確認した。

「この匂いは……」

オリヴィエの眉が寄った。

「何だ。分かるのか」

「いえ、それが。通常の白薬でも灰薬でもない匂いです。少なくとも、宮廷で許可されている調合薬の匂いではありません」

「どういう意味だ」

「宮廷の調合室で使用を認められた薬品は、すべて目録に記載されています。この匂いは、目録にある薬品のどれとも一致しない。つまり――」

オリヴィエは言いよどんだ。アデルが鋭い目で促す。

「正規の手続きを経ていない薬品が、ここで調合されていた可能性があります」

アデルの顎が引き締まった。

正規でない薬品。それは黒薬か、あるいは禁じられた処方に基づく調合を意味する。上級薬師であるラウルが、なぜそのようなものを扱っていたのか。

「ラウル・バッシュの最近の調合記録を出せるか」

「調合室の帳簿に記載されているはずです。ただ、上級薬師の調合記録は首席薬師の管轄で、私の一存では――」

「騎士団隊長としての調査権で閲覧を求める。問題があるなら首席薬師に許可を取れ」

オリヴィエは頷き、調合室を出ていった。

アデルは再び死体の傍に戻った。ラウルの作業台の上を検分する。乳鉢、天秤、蒸留器。通常の調合器具に混じって、作業台の隅に小さな陶製の容器が置かれていた。蓋がされているが、わずかに隙間がある。アデルは手袋を嵌め直し、慎重に蓋を開けた。

容器の底に、白っぽい粉末が残っていた。量はごくわずか。匙の先にすくえる程度だ。しかし、容器を開けた瞬間に、あの甘く重い匂いがひときわ強くなった。この粉末が匂いの源だ。

「エルヴィン。この容器を密封して保管しろ。中身を分析する必要がある」

「了解しました。分析はどなたに依頼を?」

アデルは一瞬、考えた。

首席薬師のベアトリクスに依頼するのが筋だ。宮廷の薬品に関する最終権限は彼女にある。だが――ラウルは上級薬師だった。上級薬師が正規でない薬品を扱っていたとすれば、それを監督する立場にある首席薬師の管理責任も問われる。ベアトリクスが関与していないとは限らない。

いや、疑いすぎか。

だが騎士団隊長として、調査対象に分析を依頼するわけにはいかない。公正さを保つためには、ベアトリクスの管轄外の人間に頼む必要がある。

「保留にしろ。分析の依頼先は私が決める」

アデルは調合室を出た。

回廊の窓から、灰の庭園が見えた。午後の日差しの中で灰色の花々が揺れている。あの花に囲まれた穏やかな空間と、背後に残した死体のある部屋との落差が、この宮廷の本質だとアデルは思った。

表は美しく、裏は腐っている。

ラウル・バッシュの死は事故ではない。確証はないが、アデルの直感がそう告げている。薬瓶の破片の散り方、倒れた体勢、そして正規でない薬品の残滓。これは調合事故を装った何かだ。

だが何の知識もなく、それを証明することはできない。

アデルは拳を握りしめた。包帯の下で、潰れかけた豆が痛んだ。

剣なら分かる。剣の傷は見れば分かる。刺し傷か、斬り傷か、攻撃の角度と力加減まで読み取れる。だが薬のことは分からない。あの粉末が何なのか、どんな作用を持つのか、ラウルがなぜそれを扱っていたのか。すべてが霧の中にある。

力では解けない謎がある。その認識が、アデルの歯を軋ませた。


夕刻、アデルはラウルの私室を調べた。

騎士団の調査権限により、死亡した宮廷使用人の居室を検分することが許されている。ラウルの部屋は薬師棟の二階にある狭い個室で、調度品は簡素だった。寝台、書机、衣装箪笥。壁には薬学の資格証書が額に入れて掛けられていた。

書机の引き出しを開ける。調合の個人記録帳、薬草の採取メモ、宮廷の事務連絡。どれも上級薬師の日常業務に関するもので、不審な点は見当たらない。

衣装箪笥を開ける。衣服の下、底板の隅に、小さな布包みがあった。

アデルは布包みを取り出し、開いた。

中に入っていたのは三つの小瓶だった。いずれも薬瓶だが、宮廷の薬品棚に並んでいるものとは形状が異なる。ラベルはない。瓶の硝子自体がかすかに紫がかっており、中にはそれぞれ異なる色の液体が入っていた。一本目は透明に近い淡黄色。二本目は銀灰色。三本目は空で、底にわずかな結晶が残っているのみ。

そして、布包みの底に折り畳まれた紙片が一枚。

アデルは紙片を広げた。筆跡は細く几帳面で、薬品名と分量が列記されている。処方箋だ。しかし処方の名称の部分が切り取られており、何の薬の処方箋なのか分からない。素材として記載されている名前をアデルは読んだ。

月光草の根。忘却の苔。境界のサンザシ。

どれも聞いたことがない。アデルは薬草の名前を数えるほどしか知らない。フォルティス。パクス。ヴェリタス。騎士団で使う白薬の名前が辛うじて記憶にある程度だ。

だが、この処方箋の素材が「通常の薬」のものではないことくらいは、正薬師オリヴィエの反応から推測できた。宮廷で許可されていない薬品。正規の手続きを経ていない調合。

ラウル・バッシュは、隠れて何かを作っていた。そしてその最中に――あるいはそのせいで――死んだ。

アデルは小瓶と処方箋を布に包み直し、懐に収めた。

宮廷に報告すべき発見だ。しかし誰に報告するか。首席薬師か。灰の審問院か。あるいは四大公家の長老会か。

首席薬師は利害関係者の可能性がある。灰の審問院は、ルベウス家にとって中立とは言い難い組織だ。長老会は――この情報を握りつぶす可能性すらある。薬師の死が事件であれば、宮廷に醜聞が広がる。灰の審判を前に、そんな騒ぎは誰も望まない。

つまり、アデルは一人で動くしかなかった。少なくとも、この粉末と小瓶の中身が何であるかを突き止めるまでは。

だがそのためには、薬の専門家が必要だ。

首席薬師以外の、信頼できる薬師。アデルの脳裏に、一つの名前が浮かんだ。

直接の面識はない。だが噂は聞いていた。首席薬師ベアトリクスが目をかけている見習い薬師。フェリクス王子と灰の庭園で言葉を交わしているという少女。カエルレウス家のノエルが接触したという話も耳に入っている。

クロエ・グリザイユ。

見習い薬師風情に頼るのかという思いが胸をよぎった。しかし正規の薬師に依頼すれば、情報が宮廷内に漏れる。見習いであれば、まだ宮廷の派閥に取り込まれていない可能性が高い。利用されるほどの地位もなく、裏切るほどの動機もない。

何より、首席薬師が認めるほどの腕があるなら、分析の技量は期待できる。

アデルは私室を出て、薬師棟の一階に向かった。


仮面舞踏会

調合室の扉を開けたとき、アデルは思わず足を止めた。

薬草の匂いが充満した部屋の奥で、一人の少女が作業台に向かっていた。蝋燭の光の下で、処方箋と見比べながら乳鉢を回している。薬師見習いの白衣。亜麻色の髪をひとつに結んだ、小柄な後ろ姿。

もう一人の薬師もいるかと思ったが、この時刻に残っているのは彼女だけのようだった。

アデルは扉を閉め、靴音を隠さずに歩いた。隠す必要はない。

「おい」

声をかけると、少女は作業の手を止めて振り返った。灰色の瞳がアデルを見上げた。

一瞬の間があった。クロエの目に、驚きと警戒と、そしてアデルの軍装を認めた瞬間の緊張が走る。

「騎士団の……」

「アデル・ルベウスだ。宮廷騎士団隊長。お前がクロエ・グリザイユだな」

クロエは立ち上がり、ぎこちなく一礼した。白衣の袖に調合の痕跡が付いている。指先は薬草の染みで薄く緑がかっていた。

「はい、クロエ・グリザイユです。騎士団隊長がこのような場所に、何かご用でしょうか」

丁寧だが、どこか身構えた声だった。当然だろう。四大公家の令嬢にして騎士団隊長が、見習い薬師のもとに突然現れたのだ。ろくな用事ではないと思って当然だ。

アデルは作業台の端に腰を預け、腕を組んだ。

「薬の分析を頼みたい」

単刀直入に切り出した。回りくどい言い方は性に合わない。いや、できないわけではないが、今はする気がなかった。

クロエは目を瞬いた。

「薬の、分析……ですか」

「今日、上級薬師のラウル・バッシュが調合室で死んだ。聞いているか」

「はい。薬師棟では皆が話していました。調合事故だと」

「事故か。お前はそう思うか」

クロエの表情が少し変わった。慎重に言葉を選ぶ目をしている。

「私は……現場を見ていませんので、何とも」

「正直に言えと言っている」

アデルの声が少し鋭くなった。自分でもそれに気づき、内心で舌打ちした。威圧するつもりはなかった。いや、多少はあったかもしれない。薬師見習い風情に頼まなければならない自分への苛立ちが、声に出た。

クロエは一瞬たじろいだが、すぐに持ち直した。背筋を伸ばし、アデルの目を真っ直ぐに見返す。その動作に、予想以上の芯の強さがあった。

「ラウル先生は上級薬師です。調合事故を起こすような不注意な方ではないと、私は思います」

「だが事故は起きた。と宮廷は発表するだろう」

「……はい」

アデルは懐から布包みを取り出し、作業台の上に置いた。

「ラウルの部屋から見つけたものだ。小瓶が三つと処方箋。それから調合室にあった陶製の容器の中身――白い粉末だ。これらが何なのか、分析できるか」

クロエは布包みと、アデルが別に持ってきた密封容器を見つめた。それから、ゆっくりとアデルの方に視線を戻した。

「これを分析することは、公式の調査の一環でしょうか。それとも」

「私の独断だ」

隠す必要はなかった。隠したところで、この少女は遅かれ早かれ気づくだろう。

「首席薬師にも灰の審問院にも報告していない。今のところ、この発見を知っているのは私と副官のエルヴィンだけだ。そしてこれからお前が加わる」

「それは……」

クロエは困惑した顔をしている。当然だ。見習い薬師が騎士団隊長の非公式調査に巻き込まれるなど、まともな判断ではない。

「断っても構わない」

アデルは冷たく言い放った。

「見習い風情にこんなことを頼むのは筋違いだ。分かっている。だが今の宮廷で、どの派閥にも属さず、薬の分析ができる人間は限られている。お前はその一人だ」

沈黙が降りた。

蒸留器から雫が落ちる音だけが、調合室に響いていた。

クロエは布包みに手を伸ばし、小瓶を一本取り上げた。蝋燭の光にかざして液体の色を確認する。次に密封容器を開け、白い粉末に顔を近づけた。直接嗅ぐのではなく、手で仰いで微かに匂いを運ぶ。薬師の基本動作だ。

その手つきを見て、アデルは直感的に理解した。この少女は腕が立つ。一つひとつの動作に無駄がなく、素材に対する敬意がある。見習いの技量ではない。

クロエが顔を上げた。その灰色の瞳に、先ほどまでの困惑とは異なる光が宿っていた。

「この粉末と小瓶の一本目、淡黄色の液体。どちらも同じ系統の素材が使われています。月光草の根が主成分です」

「月光草の根。処方箋にもその名前があった」

「はい。月光草の根は白薬にも灰薬にも使われますが、この濃度と精製度は通常の調合薬のものではありません。これほど高純度に精製するのは、限られた薬にしか必要ない技術です」

「どんな薬だ」

クロエは一拍、間を置いた。答える前に、二本目の小瓶を光にかざし、銀灰色の液体を検分している。そして三本目の空瓶の底に残った結晶を、爪の先でわずかにすくい取り、舌の上に乗せた。

「何をしている」

アデルが声を荒げた。毒かもしれないものを口にするのか、と。

「味覚による成分分析です。微量であれば危険はありません」

クロエは舌先で結晶の味を確認した後、水で口をすすいだ。その一連の動作が淡々としていて、恐れの色がなかった。薬師としての訓練が、恐怖より好奇心を上位に置いているのだ。

「結晶の味は苦く、かすかに金属の後味があります。これは忘却の苔の精製物に特有の風味です。月光草の根、忘却の苔。この組み合わせに、おそらく境界のサンザシが加えられている」

クロエはアデルの方を向いた。その表情は静かだったが、声にはかすかな震えがあった。

「これらは、記憶操作薬の素材です」

調合室の空気が変わった。蝋燭の炎が揺れてもいないのに、アデルの目には影が動いたように見えた。

「記憶操作薬だと」

「はい。薬理魔術において最上級の禁忌とされる黒薬です。他者の記憶を消去、あるいは改竄する効果があります。製造には大薬師級の技術と希少素材が必要で、宮廷での調合は固く禁じられています」

アデルは己の拳が震えるのを感じた。記憶操作薬。名前だけは知っている。灰の審問院が取り締まる最も重い罪のひとつだ。人の心を薬で書き換えるという行為は、毒殺よりも非道とされている。毒は身体を殺すだけだが、記憶操作は魂を殺す。そう、騎士団でも教えられた。

「上級薬師が禁忌の黒薬を調合していた、ということか」

「断定はできません。素材が揃っているだけで、完成品があるかは分かりません。ただ、三本目の瓶が空になっていることから、少なくとも一回分は調合が完了し、使用されたか、あるいは誰かに渡された可能性があります」

アデルは歯を食いしばった。

死んだ薬師が記憶操作薬を調合していた。公式には調合事故。だが実際には、禁忌の黒薬に関わる何かが起きていた。

「この薬は、誰のために作られたと思う」

「それは――私には分かりません」

クロエは正直に答えた。そこに嘘の気配はなかった。分からないことを分からないと言える誠実さが、アデルの警戒を少しだけ和らげた。

「ただ」と、クロエは付け加えた。「記憶操作薬の製造には大薬師級の技術が要ると申しました。ラウル先生は上級薬師ですが、大薬師ではありません。この処方箋の筆跡もラウル先生のものではないように思われます。つまり、誰かがラウル先生に処方箋を渡し、調合を命じた可能性があります」

「ラウルに命令できる人間。首席薬師か」

「あるいは、宮廷の上位にいる誰か。薬師の技術を利用できる立場の人間です」

アデルの脳裏を、幾つかの顔が過った。灰の審判を前に蠢く権力者たち。四大公家の当主。宮廷の重臣。記憶操作薬を欲する者は、何かを隠したい者だ。あるいは、誰かの記憶を都合よく書き換えたい者。

政治だ。

アデルが最も得意とせず、しかし最も理解している領域。

「薬師」

アデルはクロエを呼んだ。その呼び方にはまだ横柄さが残っていたが、声の温度は最初に比べて少し変わっていた。

「この分析を他の誰にも話すな。現時点では、お前と私だけの情報だ」

「エルヴィン副官には」

「あいつには私から伝える」

クロエは頷いた。それから、少し迷うように口を開いた。

「隊長」

「何だ」

「この件は、ラウル先生の死だけにとどまる話ではない気がします」

アデルの目が細まった。

「続けろ」

「記憶操作薬は、作るのも使うのも、極めて高度な意志と目的が必要です。上級薬師が危険を冒してまで調合していたなら、その背後にはもっと大きな何かがある。ラウル先生は――口封じされたのかもしれません」

その言葉は、アデルが漠然と感じていた疑念に輪郭を与えた。調合事故を装った殺害。禁忌の薬の製造を知る者を消す。宮廷の闇は、アデルが思っていたよりもずっと深い場所まで根を張っているのかもしれない。

アデルは腕を解き、作業台から身を起こした。

「お前は、ただの見習い薬師にしては肝が据わっているな」

「事実を伝えただけです」

クロエは静かに答えた。感情的でもなく、媚びるでもなく、ただ事実を述べる声。その淡白な誠実さが、アデルの中の何かに触れた。

この宮廷で、嘘をつかない人間に出会ったのは久しぶりだった。

いや、違う。嘘をつかない人間に出会ったのではなく、嘘をつく必要のない人間に出会ったのだ。クロエ・グリザイユには、守るべき家門も、勝ち取るべき地位も、演じるべき役割もない。だからこそ、事実をただ事実として口にできる。

それは、アデルが失ったものだった。

いつからだろう。ルベウス家の令嬢として、騎士団の隊長として、王位継承候補の一人として。アデルの言葉はすべて計算を帯びるようになり、行動はすべて政治的意味を持つようになった。真っ直ぐに剣を振るうことだけが、唯一嘘のない行為だった。

だがこの少女は、言葉で真っ直ぐに斬り込んでくる。薬の知識という刃で。

「薬師」

「はい」

「この宮廷は腐っている」

アデルの声は低く、静かだった。訓練場で騎士たちに命令するときの鋭さとは異なる、もっと個人的な温度を含んだ声。自分でもそれに驚いた。

「薬師が殺されても事故で片付けられ、禁忌の薬が影で作られていても誰も問わない。灰の審判を前に、宮廷の全てが腐り始めている」

クロエは黙って聞いていた。

「お前は信用できるか」

その問いは、アデル自身にとっても意外なものだった。信用。そんな言葉を、ルベウス家の人間以外に使ったのは初めてかもしれない。いや、ルベウス家の中でさえ、この言葉を本気で使ったことがあったか。

クロエは少しの間、沈黙した。考えているのだ。即答しないことが、逆にアデルの信頼を引き寄せた。信用できるかと問われて即座に「はい」と答える人間は、たいてい信用できない。

「信用に値するかどうかは、隊長が判断されることです」

クロエはそう答えた。

「私にできるのは、事実を調べ、事実を伝えることだけです。それが隊長にとって信用に足るものであれば」

アデルは鼻を鳴らした。今度は確かに、笑いだった。

「気に入った。面白い娘だ」

それは褒め言葉だった。アデル・ルベウスが他者に向ける、数少ない肯定の形。

「分析を続けてくれ。この処方箋の素材について、さらに分かることがあれば報告しろ。連絡は人を介さず、直接私のもとに来い。騎士団の訓練場は昼過ぎまで使っている。それ以降は宮廷の東翼の回廊沿いの部屋にいる」

「承知しました」

アデルは調合室の扉に手をかけた。そして半歩踏み出してから、足を止めた。

「一つ聞いてもいいか」

「はい」

「お前はなぜ、この分析を引き受けた。断ることもできたはずだ」

クロエは少し考え、それから答えた。

「ラウル先生の調合した薬は、宮廷の見習いにも回されることがありました。滋養薬や基本的な白薬ですが。丁寧な仕事をされる方でした。その方が不自然な死に方をされたなら、真実を知りたいと思うのは、薬師として自然なことではないでしょうか」

真実を知りたい。

その言葉が、アデルの胸に残った。

剣では真実は暴けない。だが真実を暴こうとする人間を、剣で守ることはできる。

「分かった。……気をつけろ。禁忌の薬に関わった人間が死んだのだ。お前も無関係ではいられなくなるかもしれない」

「覚悟はしています」

クロエの声は静かだったが、揺らいではいなかった。

アデルは振り返らずに調合室を出た。

回廊の窓から差し込む夕暮れの光が、アデルの赤い髪を燃えるように照らしている。その足取りは訓練場を歩くときよりも重く、しかし確かだった。

剣だけでは守れないものがある。

それを認めることは、弱さの告白ではない。新しい武器を手にする準備だ。

アデル・ルベウスの中で、何かが静かに切り替わった。力だけを信じてきた騎士の中に、別の種類の覚悟が芽生え始めている。まだ名前のつけられない、けれど確かな何か。

そして――死んだ薬師が最後に調合していた記憶操作薬は、一体誰のために作られたのか。

その問いが、夕闇に沈む宮廷の上に、灰色の影のように落ちていた。

← 灰色の王冠と嘘つきの薬師 トップへ戻る
← 2110 Lab TOPへ戻る
プライバシーポリシー お問い合わせ