【真実の薬 ― ヴェリタス】用法: 一日一回、覚悟と共に服用。効果: 服用者は嘘をつけなくなる。副作用: 二度と嘘の中には戻れない。製造難度: 極めて高い。

蝋燭の炎が揺れるたびに、処方箋の文字が呼吸するように明滅した。
クロエ・グリザイユは作業台に広げた薄い紙片の前で、もう三時間あまりも動けずにいた。王妃の離宮で見つけた処方箋。あの小箱に日記と共に眠っていた、用途不明の一枚。
調合室は夜の静寂に沈んでいた。他の見習いたちはとうに宿舎に引き上げている。蒸留器の管を伝う水滴の音だけが、時を刻むように規則正しく響いていた。
月光草の根、三ドラクマ。忘却の苔、乾燥粉末で一と四分の一ドラクマ。境界のサンザシの実、七粒。種子は除去すること。灰の花粉、八分の三ドラクマ。
その下に続く調合手順は精緻を極めていた。月光草の根は銀の乳鉢ですり潰し、忘却の苔の粉末と混ぜ合わせる際には反時計回りに四十九回攪拌する。サンザシの実は事前に三日間、月光に晒して魔素を凝縮させておく。そして最後に灰の花粉を加える工程では、調合師自身の血を一滴――。
クロエはそこで息を止めた。
調合師の血を触媒として用いる処方は、白薬には存在しない。灰薬でもごく一部の高位薬にしか見られない技法だ。血液に含まれる調合師の魔素を直接薬に溶け込ませることで、効果を飛躍的に高める――あるいは、特定の対象にのみ作用するよう制御する。
この処方箋の薬は、調合した者にしか使えない。
あるいは、調合した者の血縁にのみ作用する。
クロエは処方箋を裏返した。何か注記がないか確かめるためだが、裏面は白紙だった。表に戻し、再び素材の一覧を凝視する。
月光草の根は記憶に関わる処方に頻出する素材だ。忘却の苔はその名の通り、記憶の減衰や曖昧化に使われる。境界のサンザシは意識の境界――覚醒と睡眠、記憶と忘却の狭間――に作用する特異な薬草である。
この三つの素材が揃う処方箋を、クロエは一つだけ知っていた。
記憶操作薬――メモリア。
ベアトリクスの講義で名前だけは教わっている。黒薬の中でも最上級の禁忌とされ、他者の記憶を改竄・消去できる魔薬。製造には極めて高度な技術と希少素材が必要であり、処方箋自体が国家機密に指定されている。見習い薬師はおろか、正薬師や上級薬師でさえ、その完全な処方を知る者は限られるという。
だが、この処方箋はメモリアそのものではなかった。
素材は重複している。しかし配分が異なり、調合手順にも独自の工程が加えられている。メモリアの変種なのか、それともメモリアを基盤にした別の薬なのか。判断がつかなかった。クロエが学んだ薬学の体系のどこにも、この処方は位置づけられない。
知らないはずだ。知らないはずなのに。
目を閉じると、既視感が再び押し寄せてきた。処方箋の文字列が瞼の裏に焼きつき、まるで何度も読み返した教本のページのように、くっきりと浮かび上がる。素材の配分を暗唱できそうな気さえした。月光草の根、三ドラクマ――指が自然と調合の動作を描こうとする。銀の乳鉢に根を入れ、左手で押さえながら右手の擂り粉木を――。
クロエは自分の手を見下ろした。
右手が微かに震えている。それは恐怖のための震えではなかった。もっと深い場所から来る震え。身体が思い出そうとしている。頭が忘れていることを、手が覚えている。
こめかみが痛んだ。鈍い圧迫感が目の奥から側頭部にかけて広がり、視界の端がわずかに歪む。いつもの既視感に伴う、あの不快な頭痛だ。最近、頻度が増している。調合中に手が勝手に動くたびに。見たことのない処方に親しみを覚えるたびに。この頭痛が来る。
クロエは深呼吸をして意識を落ち着けた。
薬師として、分析する。感情に流されず、論理で考える。
この処方箋には幾つかの特徴がある。第一に、記憶操作薬の素材と重複する成分を含んでいること。第二に、調合師の血を触媒とする高位の技法が使われていること。第三に、効果の記述が一切ないこと。そして第四に――自分がこの処方を「知っている」と感じること。
第四の点は客観的な証拠にはならない。だが薬師の直感を、クロエは簡単に退けられなかった。ベアトリクスはよく言う。「薬師の手は嘘をつかない。頭で考えるより先に手が動いた時、それはお前の中にある真実だ」と。
この処方箋と自分の間には、何か繋がりがある。
そう結論づけた瞬間、クロエの思考は一つの場所に向かった。
調合室の地下――禁書庫。
禁書庫には、王国の歴史の中で禁忌とされた処方箋や、危険すぎるとして封印された薬学文献が保管されている。記憶操作薬メモリアの完全な処方箋も、そこにあるはずだった。もしメモリアの正式な処方箋と、この手元の処方箋を比較できれば、この薬が何なのかを特定できるかもしれない。
問題は、禁書庫への立ち入りが上級薬師以上にしか許可されていないことだった。
見習い薬師のクロエには、禁じられた場所だ。
処方箋を見つめたまま、クロエは長い間逡巡した。
規則を破ることへの抵抗は、彼女の中に深く根を張っている。薬師ギルドに引き取られてから今日まで、クロエは一度も規則を破ったことがなかった。朝は定刻に起き、調合は手順通りに行い、師匠の指示には忠実に従う。規則の中にいれば安全だった。予測できないことは起きない。傷つくこともない。
だが今、その安全な檻の中にいることが、かえって息苦しかった。
王妃の日記。「Cの子に真実を」。見覚えのある筆跡。宮廷薬師の不審死。記憶操作薬の素材。そしてフェリクスの「母上は病死ではなかったのかもしれない」という言葉。全てが一つの方向を指し示している。この処方箋が何であるかを知ることが、全ての謎を解く鍵になるかもしれない。
クロエは処方箋を丁寧に折り畳み、薬嚢の内ポケットに仕舞った。
禁書庫に行く。今夜。
決意は静かだったが、確かだった。蝋燭の炎を吹き消す直前、クロエは自分の影が壁に大きく伸びているのを見た。まるで自分よりずっと大きな何かに引きずられているような――そんな錯覚を覚えた。

深夜の調合室は、昼間とはまったく別の顔をしていた。
薬棚に並ぶ硝子瓶の中で、魔素を帯びた薬液がそれぞれに異なる光を放っている。青白い光、淡い緑、ぼんやりとした琥珀色。昼間は蒸留器の蒸気や薬草の匂いに紛れて気づかない微かな発光が、闇の中では鮮やかに浮かび上がる。調合室全体が、眠れぬ蛍の群れに包まれているかのようだった。
クロエは靴底に消音の軟膏を薄く塗り、足音を殺して調合室の奥に向かった。この軟膏は見習い時代に覚えた白薬の一つで、本来は病室で患者を起こさないために使うものだ。まさか禁書庫に忍び込むために使う日が来るとは思わなかった。
調合室の最奥、壁に嵌め込まれた薬棚の裏に、地下への階段がある。クロエはその場所を知っていた。ベアトリクスが何度か禁書庫から文献を持ち出す姿を目にしていたからだ。棚の側面にある小さな鍵穴――しかしクロエは鍵を持っていない。
代わりに、薬嚢から小瓶を取り出した。溶解の白薬。錠前の金属を一時的に軟化させる薬だ。本来は固着した薬瓶の蓋を開けるために調合室に常備されているもので、クロエは夕方のうちにこっそり少量を拝借しておいた。鍵穴の周囲に一滴垂らすと、金属がじわりと柔らかくなる。細い調合棒を鍵穴に差し込み、内部の仕組みを探った。
かちり。
錠が外れる音は、深夜の静寂の中で銃声のように大きく聞こえた。クロエは息を止め、周囲に気配がないことを確かめてから、薬棚を静かに引いた。
壁の中に、下へ続く石段が現れた。
冷たい空気が地下から這い上がってくる。湿り気を帯びた、古い紙と封蝋の匂い。クロエは小さな灯明薬を点し――白い燐光を放つ小瓶を掲げて――石段を降り始めた。
階段は想像よりも長かった。二十段を数え、三十段を過ぎ、四十段を越えた頃にようやく、足元が平らな石床に変わった。目の前には鉄の扉がある。しかしこちらには錠前がなかった。代わりに扉の表面に複雑な魔法陣が刻まれており、上級薬師の魔素に反応して開く仕組みだろう。
クロエは灯明薬を掲げて魔法陣を観察した。
薬理魔術の基本原理に立ち返る。全ての魔法陣は魔素の流れを制御する回路だ。この扉の魔法陣は「資格認証型」――特定の等級以上の魔素パターンを持つ者にのみ反応する。見習いの魔素では反応しない。
だが、クロエには別の方法があった。
薬嚢から、ベアトリクスの調合室で日々使っている蒸留水の空き瓶を取り出した。この瓶にはベアトリクスの魔素が微かに残っている。師匠が蒸留水を注いだ際に、無意識に零れ出た魔素の残滓だ。通常であれば無視できるほどの微量だが、魔法陣の感度が「上級薬師以上」に設定されているなら、大薬師であるベアトリクスの魔素パターンは反応閾値を大きく超えるはずだった。
瓶を傾け、蒸留水の最後の一滴を魔法陣の中心に落とす。
一瞬の沈黙。
そして魔法陣が淡く光り、扉がゆっくりと内側に開いた。
クロエは唇を噛んだ。師匠の魔素を無断で使ったという罪悪感が、胸の底に沈んだ。しかし今は立ち止まれない。扉をくぐり、禁書庫へ足を踏み入れた。
そこは、書物の墓場のような場所だった。
天井の低い石造りの広間に、古い書架が整然と並んでいる。書架は黒樫の木で組まれ、経年で色が濃くなり、ほとんど闇に同化していた。灯明薬の白い光が届く範囲だけが浮かび上がり、その先は底のない暗闘に沈んでいる。
書架に並ぶ文献は、通常の書物とは異なっていた。一部は革装丁の書籍だが、多くは処方箋を収めた木箱、封蝋で封じられた巻物、あるいは金属板に刻まれた薬方など、保管形態が多岐にわたる。棚の端には番号を記した真鍮の札が掛けられ、分類体系があることは分かるが、その法則はクロエには読み取れなかった。
書架と書架の間を進むと、空気が変わった。乾いた紙と革の匂いに混じって、かすかに甘い香りが漂っている。保存のための魔薬の匂いだ。ここに収められた文献が何十年、あるいは何百年もの歳月を越えて保たれているのは、この保存魔薬のおかげだろう。
クロエは書架の番号札を辿りながら奥へ進んだ。分類の法則は不明だが、文献の性質に一定の傾向があることに気づいた。入口付近は比較的穏当な灰薬の処方集が並び、奥に進むほど危険度が増す。黒薬の処方箋が収められた棚には、追加の封蝋が施されていた。
最奥の壁際に、ひときわ厳重に封じられた書架があった。
書架自体が魔法陣で囲まれており、棚の前面には薄い光の幕のようなものが揺らめいている。結界だ。触れれば警報が作動する類のもの――しかし、その結界もまた、先刻扉に使ったのと同じ魔素認証で制御されているようだった。
クロエは迷った。扉の魔法陣を突破した時点で、自分の行為は規則違反の域を越えている。しかしここで引き返せば、何も分からないまま終わる。
蒸留水の瓶にはもう液体は残っていない。だが瓶の内壁にはまだベアトリクスの魔素が付着しているはずだ。クロエは瓶の口を結界に向け、指で弾いた。内壁に残った微量の蒸留水が霧状に飛び散り、結界の光の幕に触れた。
光の幕がかすかに揺らぎ、ほんの数秒だけ薄れた。
その隙間にクロエは手を差し入れ、棚の中から目当ての文献を引き出した。
黒い革装丁の綴じ本。表紙に銀の箔押しで「禁忌薬方 第七類 記憶」と記されている。
手が震えた。今度は明らかに緊張のための震えだった。クロエは結界が元に戻ったことを確認してから、文献を作業用の石台の上に置いた。灯明薬を台の縁に立てかけ、慎重にページを開く。
目次がある。記憶に関わる禁忌薬が分類されて列挙されている。記憶減衰薬、記憶混濁薬、記憶固定薬、そして――記憶操作薬メモリア。
該当のページを開いた。
そこにあったのは、メモリアの完全な処方箋だった。
素材、配分、調合手順、効果、副作用、禁忌事項――全てが詳細に記されている。クロエは見習いとして初めて目にする黒薬の完全な処方に、薬師としての畏怖を覚えた。この一枚の処方箋が、人の記憶を、人生を、根こそぎ書き換える力を持っている。
だがクロエの目を釘付けにしたのは、処方の内容ではなかった。
筆跡だった。
この文献に記されたメモリアの処方箋は、複写ではなかった。原本だ。調合師自身の手で書かれた処方箋がそのまま綴じ込まれている。その筆跡は――端正で、わずかに右に傾いた独特の書き癖を持つ。文字の一画一画に迷いがなく、しかし最後の一筆だけがかすかに跳ねる。
クロエは薬嚢から王妃の離宮で見つけた処方箋を取り出し、並べた。
目が見開かれた。
同じだ。
王妃の小箱の処方箋と、禁書庫のメモリアの処方箋。二つの筆跡は同一人物のものだった。
だが――それは、クロエが知っている筆跡ではなかった。
薬師ギルドで育ったクロエには、幼い頃から調合を教えてくれた師匠の記憶がある。名前も顔もぼんやりとしか思い出せないが、処方箋を書く時の筆跡だけは覚えていた。厳格で角張った文字。それがクロエの記憶にある「最初の師匠」の筆跡だ。
この処方箋の筆跡は、それとは全く異なる。
にもかかわらず――。
懐かしい。
その一語が、理屈ではなく身体の芯から湧き上がった。この筆跡を知っている。この文字の傾き、この筆圧、この跳ねる最後の一画。何度も目にしたことがある。誰かが書いた処方箋を、小さな自分が横から覗き込んでいた――。
頭痛が来た。これまでで最も強い、鋭い痛み。こめかみから後頭部にかけて、万力で締めつけられるような圧迫感。クロエは思わず目を閉じ、石台の縁を掴んで体を支えた。
瞼の裏に映像が明滅した。
薬草の匂い。陽光の差し込む部屋。大きな手が処方箋を書いている。その横で、小さな自分が背伸びをして覗き込んでいる。温かい声が何かを教えてくれている。文字は読めない。声も聞き取れない。全てが水底に沈んだように朧げで、掴もうとすると指の間からすり抜けていく。
だが一つだけ、鮮明なものがあった。
処方箋を書く手。その筆跡。今、目の前にあるこの筆跡と同じものを、幼い自分は毎日のように見ていた。
誰の手だ。
思い出せない。思い出そうとするほどに頭痛は激しくなり、まるで記憶の扉に鍵がかかっているかのように、その先に進めなかった。
これは――記憶操作の痕跡なのか。
その考えが浮かんだ瞬間、背筋に冷たいものが走った。
自分の記憶はおかしい。ずっと薄々感じていた違和感が、今、明確な形を取ろうとしている。薬師ギルドでの幼少期の記憶は、ところどころが不自然に曖昧だ。師匠の名前も顔もぼんやりとしか思い出せないのに、なぜか処方箋の書き方と調合の手順だけは鮮明に覚えている。それは記憶が「選択的に残されている」のではないか。必要な技術だけを残し、個人的な繋がりの記憶だけを消す。まるで――。
まるで、記憶操作薬の仕業のように。
クロエは両手で顔を覆った。呼吸が速くなっている。落ち着け、と自分に言い聞かせた。まだ証拠はない。推測にすぎない。薬師は推測で結論を出してはならない。
両手を下ろし、再び処方箋に目を向けた。
その時、メモリアの処方箋が記された頁の余白に、走り書きがあることに気づいた。
本文の筆跡と同じ手による、しかしもっと崩れた文字。感情が制御を振り切ったかのような、荒い筆致。
「この薬を使う日が来ないことを祈る」
その一行が、クロエの胸に深く刺さった。
この処方箋を書いた人物は、メモリアを――記憶操作薬を作れる技量を持ちながら、それを使うことを望んでいなかった。祈っていた。使わずに済むことを。
だが、その祈りは届かなかったのだ。
メモリアは使われた。少なくとも一度は。そしてもしクロエの推測が正しければ、その対象は――。
考えるな。まだ早い。
クロエは文献を閉じ、元の棚に戻した。結界が光の幕を再び張り巡らせるのを確認してから、王妃の処方箋だけを薬嚢に仕舞い直した。
灯明薬を掲げて出口に向かう。石段を上り、調合室に戻れば――。
その時だった。

「夜の禁書庫とは、薬師見習いにしては大胆だね」
声は、石段を上りきった先の調合室から降ってきた。
クロエの血が凍った。
灯明薬の光の中に、一つの人影が浮かび上がった。薬棚の横に寄りかかるようにして立っている。蒼い外套。柔らかな栗色の髪。唇の端にいつもの笑みを浮かべた――ノエル・カエルレウス。
逃げ場はなかった。石段を降りて禁書庫に戻ることはできる。だがそれは罪をさらに重ねるだけだ。クロエは腹を据え、石段を上りきって調合室の床に足を置いた。
「ノエル様」
声が掠れた。夜の冷気のせいだけではない。
「様はいらないよ、と前にも言ったはずだけど」ノエルは壁から背を離し、一歩近づいた。灯明薬の白い光が、彼の整った顔の半分を照らしている。「それにしても驚いたな。君がこんなことをする人だとは思っていなかった」
「……なぜ、ここに」
「僕? 僕は夜の散歩だよ。外交官見習いは不眠症になりやすくてね、宮廷の回廊を歩き回るのが習慣になっている。そうしたら調合室の奥から微かに光が漏れているのが見えて――まさか薬師見習いが禁書庫に忍び込んでいるとは、さすがに予想外だった」
嘘だ、とクロエは直感した。
夜の散歩で偶然調合室の前を通りかかった? この時刻に? 調合室は王宮の東翼の奥まった場所にあり、散歩の順路としては不自然に過ぎる。ノエルはクロエの動向を見張っていたか、あるいは別の目的でこの場所に来ていた。
だが今、それを追及している余裕はなかった。問題は、禁書庫への不法侵入を目撃されたという事実だ。これが公になれば、見習い薬師の資格剥奪だけでは済まない。灰の審問院に引き渡される可能性すらある。
ノエルはクロエの表情を読んだように、片手を軽く上げた。
「安心して。誰かに言うつもりはないよ」
「……なぜ」
「なぜって」ノエルは微笑んだ。その笑みには、いつもの社交的な軽やかさとは異なる、もう少し踏み込んだ色があった。「僕は敵じゃない。少なくとも、君の敵でいるつもりはない」
クロエは黙ってノエルの目を見返した。ノエル・カエルレウスが「敵ではない」と言う時、それは「味方である」という意味ではない。この人物の言葉には常に余白がある。言ったことと言わなかったことの間に、本当の意図が隠れている。
ノエルはふと真剣な表情になった。
「クロエ。君は王妃の死について調べているんだろう?」
沈黙が答えだった。否定も肯定もしなかったが、ノエルはそれを肯定と受け取ったようだった。
「僕も気になっていることがある」
ノエルは調合室の椅子を引き、腰掛けた。まるで自分の部屋にいるかのような自然さだった。クロエに座るよう促す仕草をしたが、クロエは立ったままでいた。
「気になっていること、とは」
「王妃が亡くなる前後のアウレウス家の動きだよ」
ノエルの声が少し低くなった。灯明薬の光に照らされた彼の顔には、計算だけでは説明できない真剣さがあった。あるいは、そう見せかけているのかもしれないが。
「王妃が倒れたのは一年前の冬至祭の三日後だった。公式記録では急性の病とされている。だけど、その一週間前にアウレウス家の当主マグナスが王妃と私的に面会していたことを、君は知っているかい?」
知らなかった。クロエは首を振った。
「マグナスは王妃に面会した翌日、アウレウス家の屋敷から希少薬草の大量搬出を行っている。表向きは冬至祭の薬の準備ということだったけど、搬出された薬草のリストに――」ノエルは一拍置いて、クロエの反応を窺うように続けた。「月光草の根と忘却の苔が含まれていた」
クロエの心臓が跳ねた。
月光草の根と忘却の苔。記憶操作薬の素材。そして今夜、禁書庫で確認したメモリアの処方箋にも、王妃の小箱にあった処方箋にも記されていた素材。
「さらに言えば」ノエルは続けた。「王妃が亡くなった直後、アウレウス家は灰の審問院に多額の寄付をしている。時期が時期だけに、弔意の表れと受け取られたけど、金額が異常だった。通常の三倍以上。まるで――」
「口止め料」
クロエの口から、思わず言葉が漏れた。
ノエルが目を細めた。満足そうな、しかし同時に値踏みするような表情。
「そう。僕もそう考えた。アウレウス家には王妃の死に関して隠したいことがあった。だから審問院に金を渡して、死因の詳細な調査を阻んだ。もしそうだとすれば――」
「マグナス・アウレウスが王妃を」
「断定はできないよ」ノエルは慎重に言い添えた。「状況証拠にすぎない。面会の記録、薬草の搬出、審問院への寄付。どれも単体では犯罪の証拠にならない。だけど並べてみると――」
「絵が見えてくる」
「そういうこと」
クロエは黙って情報を咀嚼した。ノエルの話は筋が通っている。アウレウス家の不審な動き、記憶操作薬の素材との符合、審問院への巨額の寄付。もしこれが全て事実であれば、マグナス・アウレウスが王妃の死に関与していた可能性は高い。
だが――。
クロエの中で、もう一つの声が囁いた。
この情報をなぜノエルが持っているのか。そして、なぜ今、クロエに話すのか。
ノエル・カエルレウスはカエルレウス家――青の家の次男だ。外交官見習いという肩書きの裏で、家門のために情報を集め、人脈を操るスパイとして育てられた人物。彼が提供する情報は、必ずカエルレウス家にとって有利な方向に誘導するもの――ベアトリクスではないが、宮廷に長くいれば誰もが知る暗黙の了解だった。
アウレウス家はカエルレウス家の政治的ライバルだ。
もしアウレウス家の当主マグナスに王妃殺害の嫌疑がかかれば、灰の審判を前にアウレウス家は壊滅的な打撃を受ける。その恩恵を最も受けるのは――カエルレウス家だ。
ノエルが親切心からこの情報を共有しているのではないことは、明らかだった。彼はクロエを駒として使おうとしている。宮廷薬師見習いという立場から王妃の死を調査させ、その過程でアウレウス家に嫌疑を向ける。クロエの調査が成功すればカエルレウス家の利益になり、失敗すればクロエだけが損害を被る。ノエルにとっては損のない賭けだ。
「ノエル」
「うん?」
「あなたは全てを話していませんね」
ノエルの笑みが、一瞬だけ固まった。
ほんの僅かな変化だったが、クロエの目はそれを捉えた。薬師の観察眼は、薬液の色の微細な変化を見分けるために鍛えられている。人の表情の機微を読み取ることも、その延長線上にあった。
「何を根拠にそう思うんだい?」
ノエルの声に動揺はなかった。すぐに笑みを取り繕い、平然とした態度を取り戻している。だがその「取り繕う速さ」自体が、クロエには答えに見えた。真に無実の者は、疑われても慌てない。だが隠し事のある者は、動揺を隠すために素早く仮面を被り直す。
「根拠というほどのものではありません」クロエは静かに答えた。「ただ――薬師は匂いに敏感なんです。薬の匂いも、人の匂いも。あなたの言葉には、確かに真実の匂いがします。でも同時に、何かを省略した匂いもする。処方箋から重要な素材を一つだけ抜き取ったような――そんな感覚です」
ノエルは数秒間、クロエを黙って見つめた。
それから、低く笑った。
「面白いな」その声には、作為的でない率直さが混じっていた。「君は本当に面白い人だ」
「お褒めに預かり光栄ですが、質問には答えていただいていません」
「答えるつもりはないよ」ノエルは椅子から立ち上がった。「少なくとも今夜は。僕にも僕の立場がある。全てを話すことはできない。でもこれだけは信じてほしい――僕が話したことに嘘はない」
嘘はない。だが全てでもない。その区別は、嘘をつくことと何が違うのだろう。
ノエルは窓際に歩み寄り、外を見た。夜の闇に沈む宮廷の庭園を眺めながら、独り言のように呟いた。
「この宮廷には、嘘をつかない人間などいない。僕もそうだ。でも――」彼は振り返り、クロエを見た。「君を見ていると、嘘をつかずに生きることが可能なのかもしれない、と錯覚しそうになる。困ったことだけどね」
その言葉の真意を量りかねたまま、クロエは口を開いた。
「禁書庫のことは」
「言ったろう。誰にも言わないよ」ノエルは蒼い外套の襟を正した。「その代わり、僕に一つ約束してくれないか」
「何を」
「何か重要なことが分かったら、教えてほしい。僕にも調べられることがある。協力すれば、一人で動くより遥かに効率がいい」
それは申し出であると同時に、取引だった。クロエの調査結果と引き換えに、禁書庫侵入の秘密を守る。情報の共有と引き換えに、カエルレウス家の情報網を使わせる。
クロエは長い間、考えた。
ノエルを信じることはできない。だがノエルの情報は有用だ。問題は、有用な情報の中に紛れ込む誘導を見抜けるかどうか。
「分かりました」クロエは答えた。「ただし、私も全てを話すとは約束しません」
ノエルは目を丸くし、それから声を出さずに笑った。
「公平な条件だ。いいよ、それで」
ノエルは窓際を離れ、調合室の出口に向かった。扉に手をかけたところで、ふと振り返った。
「ああ、一つだけ。さっき禁書庫で何を見たか、聞いてもいいかい?」
「聞いてもいいですが、答えるかどうかは別の話です」
「……公平な条件、ね」ノエルは肩をすくめた。「おやすみ、クロエ。禁書庫の鍵は元通りにしておいた方がいいよ。溶解の白薬の効果が切れれば錠前は元に戻るけど、使用痕跡は残る。師匠殿は鋭い人だ」
その忠告だけを残して、ノエルは夜の回廊に消えていった。
一人残されたクロエは、深く息をついた。
ノエルの情報は確かに有用だった。アウレウス家の不審な動き、マグナスと王妃の面会、希少薬草の搬出、審問院への巨額の寄付。これらは王妃の死の真相に近づくための重要な手がかりだ。
だが同時に、ノエルの意図がカエルレウス家の利益に沿ったものであることも明らかだった。彼はライバル家であるアウレウス家に嫌疑を向けようとしている。その方向が正しいかどうかは、クロエ自身が検証しなければならない。
それにしても――とクロエは思った。
ノエルは最後に「禁書庫で何を見たか」と聞いた。つまり彼はクロエが禁書庫で何かを発見したことを確信していた。そして彼自身も、禁書庫に何があるかをある程度知っている可能性がある。カエルレウス家の情報網は、宮廷の隅々にまで及んでいるのだから。
信じるな。だが利用はさせてもらう。
そう心の中で呟いて、クロエは薬棚の位置を元に戻し、石段への入口を隠した。溶解の白薬の効果が切れて錠前が元に戻るまで、あと数刻はかかる。その間に痕跡を消す方法を考えなければ。
作業台の上を整え、灯明薬を消そうとした時――。
調合室の扉が、外から開いた。
クロエは凍りついた。
灰褐色の調合服。深い皺の刻まれた顔。厳格な目。
ベアトリクス・モルゲンが、扉の前に立っていた。
「師匠……」
言い訳の言葉が浮かばなかった。真夜中の調合室に一人でいることだけなら、復習のための自主練習だと言い逃れることもできただろう。だがベアトリクスの目は、全てを見透かしているかのようだった。
師匠は調合室に入り、扉を背後で閉めた。足音は静かだったが、その静かさがかえって威圧的だった。
「禁書庫に行ったのね」
問いではなかった。断定だった。
クロエの喉が干上がった。否定することも、弁解することもできなかった。この師匠の前では、嘘は意味を持たない。
「はい」
一言だけ、絞り出した。
沈黙が降りた。調合室の蒸留器が、ことりと音を立てた。受け瓶に薬液が一滴落ちる。その音がやけに大きく聞こえた。
クロエは処分を覚悟した。見習い薬師の資格剥奪。あるいは灰の審問院への報告。どちらになっても、自分が招いた結果だ。
ベアトリクスはゆっくりと歩み寄り、クロエの正面に立った。灯明薬の残り火が、師匠の顔を下から照らしている。深い皺の影が濃くなり、年齢以上に老いて見えた。
そしてベアトリクスは、クロエが予想もしなかった言葉を口にした。
「それでいい」
クロエは目を見開いた。
「自分の目で確かめなさい」
ベアトリクスの声は低く、静かで、そしてどこか――疲れていた。長い年月をかけて積み上げてきた何かが、ゆっくりと崩れ始めているような、そんな疲弊の色。
「師匠……?」
「私はこの五十五年間、薬師の中立を守ってきた」ベアトリクスは目を伏せた。「中立というのは聞こえがいいが、要するに見て見ぬふりをしてきたということだ。知っていながら黙っていた。正しいと分かっていることから目を背け、安全な場所に立ち続けた」
その言葉の意味が、クロエには掴みきれなかった。師匠は何を知っているのか。何から目を背けてきたのか。
「師匠は――王妃の死の真相を、ご存じなのですか」
ベアトリクスは長い沈黙の後、顔を上げた。その目には、クロエがこれまで見たことのない光があった。後悔と、決意と、そしてかすかな祈りが入り混じった、複雑な光。
「私が言えることと、言えないことがある」
「言えないこと、とは」
「言えないのではない。言うべきでない、と判断してきたことだ」ベアトリクスの声が、わずかに震えた。「だが――お前が自分の足で禁書庫まで辿り着いたのなら、もう止めることはできない。止めるべきでもない」
ベアトリクスはクロエの肩に手を置いた。骨ばった、しかし確かな力を持つ薬師の手。何千回もの調合を重ねてきた手。
「クロエ。お前は薬師だ。観察し、分析し、真実を見極める。それがお前に出来ることであり、お前にしか出来ないことだ」
「師匠――」
「ただし」ベアトリクスの声に、いつもの厳格さが戻った。「真実は薬と同じだ。服用する覚悟がなければ、毒になる。お前にその覚悟があるかどうかは、お前自身が決めることだ」
師匠はそれだけ言うと、手を離した。踵を返し、調合室の出口に向かう。
扉に手をかけたところで、ベアトリクスは背を向けたまま最後に一言だけ付け加えた。
「溶解の白薬の痕跡は、朝までに私が処理しておく。次からは下級の白薬で錠前を弄るような真似はやめなさい。もっと優雅な方法がある」
扉が閉まった。
足音が遠ざかり、調合室に静寂が戻った。
クロエは一人、作業台の前に立ち尽くしていた。
心臓がまだ早鐘を打っている。だがそれは恐怖のためではなかった。師匠の言葉が、胸の奥で静かに燃えている。「それでいい。自分の目で確かめなさい」。あれは許可ではなく、託したのだ。ベアトリクス自身が長い年月をかけて為し得なかったことを、弟子に。
真実は薬と同じ。服用する覚悟がなければ、毒になる。
クロエは薬嚢の中の処方箋に手を触れた。王妃の小箱に眠っていた、見覚えのある筆跡の処方箋。禁書庫で見たメモリアの処方箋と同じ筆跡。懐かしい、けれど思い出せない筆跡。
そして、余白の走り書き。
「この薬を使う日が来ないことを祈る」
祈りは届かなかった。薬は使われた。記憶は奪われた。そして今、奪われた記憶の持ち主が、真実の扉の前に立っている。
覚悟はあるか、と師匠は問うた。
まだ分からない、とクロエは正直に思った。
だが――扉の前で立ち止まることだけは、もうできない。
灯明薬の最後の光が消え、調合室は闇に沈んだ。窓の外で、夜明け前の空が最も暗い藍色に染まっている。朝が来る。第二刻の調合実習が始まる。いつも通りの日常が、薄い皮膜のようにこの夜の出来事を覆い隠すだろう。
だがクロエの中で、何かが不可逆的に変わっていた。
知ってしまった。禁書庫の処方箋を。懐かしい筆跡を。師匠の沈黙の意味を。そしてノエルの情報が指し示す方向を。
もう、知らなかった頃には戻れない。