【沈黙の封薬 ― タキトゥス】用法: 舌の裏に塗布。効果: 指定された事柄について発言できなくなる。副作用: 沈黙は守られるが、沈黙に押し潰されることもある。

朝はいつも、薬草の手入れから始まる。
ヴィオラ・ヴィリディスは庭園に面した居室の窓を開け、冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。ヴィリディス家の王宮内邸宅は東翼の端に位置しており、窓の外には小さな私庭が広がっている。かつて父が丹精した薬草園の面影はもう薄れていたが、ヴィオラが五年をかけて植え直した薬草たちが、冬の終わりの弱い光の中で静かに息をしていた。
月光草。暁蘭。静寂の苔。そして、癒しのラベンダー。
ヴィオラは膝をつき、月光草の銀色の葉に指先を触れた。冬を越した葉はやや痩せているが、根はしっかりと土を掴んでいる。この強さが好きだった。どれほど厳しい季節を経ても、根さえ生きていれば植物は蘇る。根を断たれない限り、命は続く。
根を断つ。
その言葉が脳裏をよぎるたびに、ヴィオラの指先は冷たくなった。
薬草の手入れを終え、室内に戻ると、侍女のマリアが朝食の支度を整えていた。温かい麦粥と、干し果実の添えられた白パン。薄めた薬草茶。質素だが、ヴィリディス家の現状に見合った食事だった。五年前に父を失い、家門の勢力が大きく削がれてからというもの、かつての贅沢は遠い記憶になっている。
「ヴィオラ様、今日の予定でございますが」
マリアが淡々と読み上げる。午前は薬師ギルドの支援事業の報告書確認。午後は宮廷の定例茶会への出席。夕刻にはヴィリディス家の領地管理に関する書簡への返答。当主代行として、二十二歳の若い女が背負うには重すぎる日常が、整然と並んでいた。
「ありがとう、マリア」
ヴィオラは穏やかに微笑んだ。いつもの笑顔。唇の両端をわずかに持ち上げ、目元にやわらかな光を湛える、完璧に制御された表情。この笑顔を、ヴィオラは五年間かけて磨き上げてきた。宮廷社交の場で「ヴィリディス家の慈悲深き当主代行」として振る舞うための、最も重要な道具。
誰もこの笑顔の裏を疑わない。
穏やかで、控えめで、争いを好まず、薬師ギルドへの支援を惜しまない慈善家。それがヴィオラ・ヴィリディスという人間の宮廷における評価だった。事実、その評価は間違っていない。ヴィオラは穏やかだし、争いは好まないし、薬師ギルドへの支援も心からの行為だ。
ただ、そこに至る動機が、誰の想像とも違っている。
朝食を終え、書斎に移ったヴィオラは、報告書の束に目を通しながら、意識の底でもう一つの記憶を反芻していた。五年という歳月を経てもなお、朝の光が窓から差し込むたびに蘇る記憶。
あの夜。
審問院の兵士が屋敷に踏み込んできた夜。父が連行された夜。そして、父の処刑が決まった翌朝。
ヴィオラは当時十七歳だった。父の不在を補うにはあまりに若く、しかし家門を守るには自分しかいなかった。母はヴィオラが八つの年に病で亡くなっている。残されたのは十七歳の長女と十二歳の次女。二人きりの姉妹。
王妃暗殺の濡れ衣。
父は無実だった。ヴィオラはそれを知っていた。父が王妃を害する理由など微塵もない。ヴィリディス家は王妃エレオノーラと友好的な関係にあり、王妃自身が薬学に造詣が深かったこともあって、父は王妃の薬学顧問を非公式に務めていた。そんな人間が王妃を毒殺するなどありえない。
だが灰の審問院は証拠を揃えた。処方箋の筆跡鑑定。毒薬の素材の入手記録。証人の証言。いずれも精巧に作り上げられた偽りの証拠だったが、反論する術をヴィオラは持たなかった。
そして、審問院の背後にいた人物。
マグナス・アウレウス。
父の処刑の三日前、マグナスがヴィリディス家の邸宅を訪れた。深夜の密訪だった。ヴィオラは応接間で、金の刺繍が入った上衣を纏った男と対峙した。温厚な笑顔の下に鋼鉄の意志を隠した、四十歳の宮廷の実力者と、十七歳の少女。
マグナスが告げた条件は明快だった。
ヴィリディス家の存続を認める。クロエの命は助ける。その代わり、二つのことを要求する。一つ、クロエの記憶を消すこと。あの夜に起きたこと、ヴィリディス家の令嬢であること、姉であるヴィオラの存在、全てを消す。二つ、ヴィオラが真実について永遠に沈黙を守ること。
なぜクロエの記憶を消す必要があったのか。十二歳のクロエは、あの夜に何かを見ていた。階段の手すりの隙間から広間を覗き、父が連行される場面を目撃していた。そしてその場には、父に濡れ衣を着せる工作の一端が露呈しかねない状況があった。幼い少女の記憶は曖昧だったかもしれない。だがマグナスは、曖昧な記憶すら許容しなかった。
万が一、いつかクロエが思い出したら。あの夜の広間で、審問官の隣にマグナスの側近が立っていたことを。審問官がマグナスの名を口にしたことを。その断片的な記憶が、真実への鍵になりうることを。
だから消す。記憶ごと。存在ごと。クロエ・ヴィリディスという少女を、歴史から抹消する。
「クロエの記憶を消す。それが妹を生かす条件だった」
ヴィオラは報告書に目を落としたまま、音にならない声でそう呟いた。唇だけが動き、空気は震えなかった。この言葉を、ヴィオラは五年間、一度も声に出して言ったことがない。舌の裏に塗布された沈黙の封薬が物理的に発言を封じているわけではない。だが、あの夜マグナスと交わした契約の薬――パクトゥム――が、ヴィオラの舌を縛っていた。真実を口にすれば、契約の呪いが発動する。何が起きるかは分からない。だが契約の薬の代償は、常に苛烈だ。
ヴィオラは自分の命を惜しんでいるわけではなかった。呪いが自分だけに降りかかるなら、とうに口を開いていたかもしれない。しかしマグナスは周到だった。契約の条項には、違反時の代償がクロエにも及ぶ可能性が含まれていた。ヴィオラが沈黙を破れば、クロエの命が危うくなる。
結局、何もかもがクロエの命に帰結する。
報告書の文字が滲んだ。涙ではない。視界が歪んだのは、長年の緊張が蓄積した疲労のせいだ。ヴィオラは目を閉じ、三つ数えてから開いた。報告書の文字は元に戻っている。薬師ギルドの運営費の監査報告。読み慣れた数字の列。これが今の自分の世界だ。
書斎の時計が午前の第三刻を告げたとき、扉が叩かれた。
「ヴィオラ様。お客様がお見えです」
マリアの声に硬さが混じっていた。ヴィオラは報告書を閉じ、背筋を正した。この声色を、彼女は知っている。
「お通しして」
扉が開き、入ってきたのはマグナス・アウレウスだった。
金の刺繍の上衣。五年前と変わらない温厚な笑顔。ただし額の皺は深くなり、こめかみの白髪が増えていた。時間は万人に平等に降り積もるが、この男の場合、それが威厳を増す方向に作用している。四十五歳の宮廷の重鎮は、応接間の椅子に腰を下ろすだけで、その空間の支配権を主張した。
「久しぶりだね、ヴィオラ」
親しげな声。まるで姪を訪ねてきた叔父のような口調。ヴィオラは穏やかな笑顔を貼りつけた。
「マグナス卿。ようこそ。お茶をお持ちしましょうか」
「いや、長居するつもりはない。少し話がしたくてね」
マグナスは脚を組み、室内を一瞥した。書棚の背表紙、窓辺の薬草鉢、壁に掛けられた風景画。何かを探しているわけではない。ただ、自分の視線が届く範囲を確認しているのだ。この男の前では、部屋の隅に至るまで彼の領地になる。
「最近、気になる話を耳にしたのでね」
マグナスの声が半音低くなった。笑顔はそのまま。だがその笑顔の温度が変わった。暖炉の火が揺れて、一瞬だけ部屋の影が濃くなったように。
「あの娘が、余計なことを嗅ぎ回っている」
あの娘。
ヴィオラの心臓が跳ねた。しかし表情は一ミリも動かさなかった。五年間の訓練が、この瞬間のためにあった。
「あの娘、とは」
「とぼけるのは君らしくないな、ヴィオラ」
マグナスは穏やかに、しかし一切の猶予を許さない声で言った。
「クロエ・グリザイユ。宮廷薬師の見習い。禁書庫で記憶操作薬の処方箋を見つけたそうだ。しかもその筆跡に既視感を覚えているらしい」
血が凍る、という比喩がある。ヴィオラはそれが比喩ではないことを知っていた。指先から体温が引いていく感覚は、実際に血が四肢から引き上げられているのだ。
「カエルレウス家の次男が情報を流しているようだが、それは今のところ制御の範囲内だ。問題は、あの娘自身の勘の鋭さだ。記憶操作薬は完璧だったはずだが、身体の記憶というのは厄介でね。手が覚えている、と言うべきか」
マグナスは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。ヴィオラの薬草鉢を見下ろし、月光草の葉に指先で触れた。その仕草が、ヴィオラの神経を逆撫でした。あの薬草は私のものだ。触れるな。しかし言葉にはできない。
「五年前の約束を思い出してほしい」マグナスは窓の外を見たまま言った。「あの娘が真実に辿り着けば、契約は無効になる。無効になれば、私はあの娘を守る理由がなくなる」
守る。
その言葉が、ヴィオラの胸に錆びた針のように突き刺さった。マグナスの言う「守る」は、ヴィオラの知る「守る」とは正反対の意味を持っている。彼がクロエの命を「守っている」のは、沈黙の対価としてであり、もし沈黙の必要がなくなれば、守る理由も消える。
「何をお望みですか」
ヴィオラは静かに尋ねた。
「あの娘から目を離すな」マグナスは振り返った。「そして、もし真実に手が届きそうになったら——教えてくれ。穏便に対処する」
穏便。その言葉の裏に何が潜んでいるか、ヴィオラには痛いほど分かった。
「承知しました」
ヴィオラは頭を下げた。下げた頭の下で、歯を食いしばった。奥歯が軋む音が頭蓋の内側に響いたが、マグナスの耳には届かなかっただろう。
マグナスが去った後、ヴィオラはしばらく椅子に座ったまま動けなかった。
クロエが真実に近づいている。
五年間、最も恐れていた事態が、現実になろうとしている。
午後の定例茶会は、王宮の南翼にある貴婦人の間で開かれた。
ヴィオラは薄い緑のドレスに着替え、髪を編み上げ、ヴィリディス家の紋章である銀の葉のブローチを胸元に留めた。鏡の前に立ち、笑顔を確認する。完璧だ。唇の角度、目元の柔らかさ、頬の力の抜き具合。この表情を見た者は、誰もがヴィオラ・ヴィリディスを信頼に足る人物だと判断する。
茶会には四大公家の婦人や宮廷の高官夫人たちが集まっていたが、ヴィオラの目的は社交ではなかった。
クロエに会わなければならない。
マグナスの言葉が、朝からずっと脳の奥に貼りついている。あの娘が余計なことを嗅ぎ回っている。穏便に対処する。ヴィオラが自分の目でクロエの状況を確かめなければ、マグナスの「対処」が何を意味するか分からないまま事態が進行してしまう。
茶会を適当に切り上げ、ヴィオラは薬師棟の方角へ歩き出した。回廊を抜ける足取りは穏やかだったが、心臓は早鐘を打っていた。クロエに会うのは何度目だろう。宮廷で姿を見かけるたびに、遠くから見守ってきた。見習い薬師の白い帽子からはみ出す亜麻色の髪。調合台に向かうまっすぐな背中。あの子が宮廷に配属されたと知った日の衝撃を、ヴィオラは今でも鮮明に覚えている。
まさかこんなに近い場所に来るとは思わなかった。薬師ギルドの養護院で、記憶を失った少女として静かに暮らしているはずだった。それがいつの間にか才能を認められ、宮廷に上がり、しかもよりによってベアトリクス・モルゲンの弟子になった。
運命の皮肉と呼ぶにはあまりに残酷な巡り合わせだった。
薬師棟の中庭に差しかかったとき、ヴィオラの足が止まった。
白い帽子。亜麻色の髪。細い肩。
クロエが中庭の隅で薬草の鉢を整えていた。膝をつき、乾いた土に水をやりながら、鉢の中の小さな芽を指先で確かめている。その横顔は真剣で、穏やかで、そしてヴィオラの記憶の中の少女の面影をそのまま五年分成長させたような顔だった。
息が詰まった。
いつもそうだ。クロエを見るたびに、呼吸を忘れる。十二歳のクロエの面影と、十七歳のクロエの現実が重なり、ヴィオラの胸を両側から押し潰す。あの子だ。私の妹だ。私が記憶を奪った、私の妹。
ヴィオラは呼吸を整え、笑顔を作り直した。そして声をかけた。
「あら。熱心ね」
クロエが顔を上げた。
亜麻色の髪の下から、透き通った灰色の瞳がヴィオラを見返した。父譲りの瞳の色。母譲りの顔立ち。五年間見続けてきたのに、間近で見るとやはり心臓が絞られるような痛みが走った。
「ヴィリディス家の当主代行様……」
クロエは慌てて立ち上がり、膝の土を払って頭を下げた。
「ごきげんよう。お声をかけていただけるなんて、光栄です」
「そんなに畏まらなくていいのよ」ヴィオラは微笑んだ。「私はただ、薬草の品定めをしたいと思っただけ。ヴィリディス家は薬師ギルドの支援を行っているから、宮廷の薬草の管理状況にも関心があるの」
嘘ではない。嘘ではないが、全てでもない。ヴィオラの全ての言葉は、そういう構造をしていた。
「薬草の品定めですか。それでしたら、この中庭のものはほとんど白薬用の基本種です。月光草と暁蘭がいくつか。あとは静寂の苔が——」
クロエが薬草の説明を始めた瞬間、ヴィオラの胸の奥で何かが軋んだ。あの子の話し方。丁寧で、実直で、薬草への愛情がにじみ出ている語り口。それは幼い頃のクロエそのままだった。十二歳のクロエも、庭の薬草を一本ずつ指さしながら、姉に向かってこう言ったものだ。「お姉さま、この葉っぱはね——」
「あの」
クロエが言葉を切った。何かを躊躇うように、ヴィオラの顔を見ている。
「何かしら?」
「どこかで、お会いしましたか?」
世界が、一瞬止まった。
ヴィオラの内側で、あらゆる感情が同時に爆発し、同時に凍りついた。会ったことがあるか。ええ、あるわ。あなたは私の妹よ。私が毎晩髪を梳いてあげた妹。私が処方箋を教えた妹。私が記憶を奪った妹。
「いいえ」
ヴィオラは穏やかに答えた。
「初めてよ」
嘘。
五年間で最も重い嘘が、微笑みとともに唇を離れた。
「そう、ですか」クロエは少し恥ずかしそうに視線を落とした。「すみません。何だか、不思議な感じがして。前にお会いしたことがあるような気がしたんです。……きっと気のせいですね」
「気のせいよ」ヴィオラは声が震えないよう細心の注意を払った。「でも嬉しいわ。初対面なのに親しみを感じてもらえるなんて」
クロエは照れたように微笑んだ。その笑顔は母に似ていた。目元が細くなり、頬がわずかに上がる、あの笑い方。ヴィオラは視線を逸らしたい衝動を押し殺した。
「少し歩かない? 薬草のことをもっと聞きたいの」
ヴィオラの提案に、クロエは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。当主代行からの誘いを断る理由はない。二人は薬師棟の中庭を出て、灰の庭園へと足を向けた。
灰の庭園は、グリセルダ王宮の中央に位置する異質な空間だった。
他の庭園が季節ごとに色彩を変えるのに対し、この庭園だけは年間を通じて灰色をしている。灰色の花弁を持つ花。灰色の葉をつけた灌木。灰色の苔に覆われた石畳。王冠の灰薬の原料がこの庭園で育てられていると聞いたことがあるが、詳細はヴィオラも知らない。知る立場にないし、知ろうとすることは許されていなかった。
二人は石畳の小径を並んで歩いた。ヴィオラが半歩先を行き、クロエがその斜め後ろについている。宮廷の身分差を反映した歩き方だが、ヴィオラにはそれが別の光景と重なって見えた。幼い日、姉の手を握って庭を歩く妹の姿。あの頃はクロエがヴィオラの右側にぴったりとくっつき、姉の服の裾を小さな手で掴んでいたものだ。
「この花を知っている?」
ヴィオラは庭園の隅に咲く灰色の花を指さした。小ぶりな花弁が六枚、星の形に開いている。
「灰の星花ですね」クロエが答えた。「灰薬の調合に使われる希少な花で、この庭園でしか育たないと聞いています。花弁に含まれる魔素は非常に不安定で、摘み取った瞬間から急速に劣化する。だから乾燥保存ができず、使うなら生のまま調合に入れなければならないと」
「詳しいのね」
「禁書庫の……いえ、文献で読みました」
クロエの一瞬の言い淀みを、ヴィオラは聞き逃さなかった。禁書庫。マグナスが言っていた通りだ。この子は禁書庫で何かを見つけた。
だがヴィオラはそれを追及しなかった。代わりに、別の花を指さした。
「あれは灰のすみれ。根に鎮痛効果があるの。母が——」
言いかけて、ヴィオラは口を閉じた。母が、と言いかけた。この子の前で「母」という言葉を使ってしまった。同じ母を持つ者同士の会話であることをこの子は知らない。知ってはいけない。
「お母様がお好きだったのですか?」クロエが自然に問いかけた。
「……ええ。薬草に詳しい人だった」
ヴィオラは短く答え、歩き続けた。灰色の石畳を踏む二人の靴音が、静かな庭園に響いていた。
不思議なことが起きたのは、小径が大きな灰色の樫の木の下に差しかかったときだった。
風が吹いた。冬の終わりの、冷たいが柔らかい風。灰色の葉がさらさらと鳴り、花弁が数枚、二人の頭上から舞い落ちてきた。ヴィオラが足を止めて花弁を見上げたとき、隣にいたクロエが、ほんの少しだけ身を寄せてきた。
意識的な動作ではなかった。
クロエ自身も気づいていないのだろう。風が吹いて、花弁が舞って、隣にいる人の体温が心地よくて、無意識に半歩近づいた。それだけの動作。だがその半歩が、ヴィオラの心臓を鷲掴みにした。
この子は私を覚えていない。
記憶は消された。名前も、顔も、声も、全て灰色の靄の中に沈められた。
でも体が覚えている。
幼い頃、姉の隣を歩くときにいつもこうして身を寄せてきた、あの癖。寒い日も暑い日も、怖い夜も穏やかな朝も、クロエはいつもヴィオラの右側にくっついていた。その身体の記憶が、五年の歳月と記憶操作薬の力を超えて、まだこの子の中に残っている。
ヴィオラの目頭が熱くなった。泣いてはいけない。この子の前で泣いてはいけない。泣けば不審がられる。初対面のはずの相手の前で涙を流す理由など、どう取り繕っても説明がつかない。
「……風が出てきたわね」
ヴィオラは声の震えを風のせいにして、先に歩き出した。背後でクロエが小走りについてくる気配がした。
「ヴィリディス様」
「ヴィオラでいいわ」
その言葉が口を突いて出たのは、制御の外だった。当主代行という肩書きではなく、名前で呼んでほしい。この子に、姉の名前を呼んでほしい。たとえそれが姉としてではなく、初対面の貴族としてであったとしても。
「ヴィオラ様」クロエが遠慮がちに呼んだ。「薬草にとてもお詳しいのですね。お話を伺っていると、まるで薬師のようです」
「父が薬学に通じていたの。子供の頃から、手ほどきを受けていたから」
また、危うい領域に足を踏み入れている。父の話。この子の父でもある人の話。ヴィオラは話題を変えようとしたが、クロエが先に口を開いた。
「私も、小さい頃に誰かから薬草のことを教わった気がするんです」
ヴィオラの足が止まった。
「でも、誰だったか思い出せなくて」クロエは首を傾げ、困ったように笑った。「薬師ギルドの師匠だったのかもしれません。記憶って、曖昧なものですね」
記憶が曖昧なのではない。記憶が奪われたのだ。あなたに薬草を教えたのは父であり、そして私だ。月光草の銀色の葉を指さして「これはね、月の光を浴びて育つから月光草って言うのよ」と教えたのは、他ならぬこの私だ。
「……そうね。記憶って、曖昧なものよ」
ヴィオラは微笑んだ。その微笑みの裏で、慟哭が渦を巻いていた。
灰の庭園の一周を終え、薬師棟の中庭に戻ってきたとき、クロエが深々と頭を下げた。
「今日はありがとうございました、ヴィオラ様。とても勉強になりました」
「こちらこそ。あなたの薬草への情熱は素晴らしいわ。きっと良い薬師になる」
良い薬師になる。その言葉を口にした瞬間、ヴィオラの脳裏に父の声が蘇った。「この子はきっと良い薬師になるよ、ヴィオラ」。まだクロエが七つか八つの頃、父がヴィオラに向かって言った言葉。幼いクロエが乳鉢を一生懸命に回しているのを見て、目を細めていた父の横顔。
「あの」クロエがまた口を開いた。「もしよろしければ、また薬草のお話を聞かせていただけますか?」
断るべきだった。
この子と関わることは危険だ。マグナスの目がある。近づけば近づくほど、ヴィオラの正体が露見する可能性が上がる。そしてもしクロエが真実に辿り着いたら、マグナスは「穏便に対処する」だろう。
断るべきだった。距離を取り、二度と会わないようにすべきだった。
「ええ、もちろん」
ヴィオラは微笑んだ。
「いつでも声をかけて」
断れなかった。この子の前では、理性が働かない。五年間抑え続けてきた姉としての感情が、薄い氷の下で激流のように渦巻いている。その氷が、クロエの半歩の距離で軋みを上げている。
クロエが薬師棟に戻っていく後ろ姿を見送りながら、ヴィオラは灰色の庭園の端に立ち尽くしていた。

夜。
ヴィリディス家の邸宅に戻ったヴィオラは、書斎の灯りも点けずに窓辺に座っていた。月は出ていない。窓の外には灰色の闇が広がり、私庭の薬草たちは暗がりの中で輪郭だけの存在になっている。
知らないほうが幸せだ。
五年間、ヴィオラはその信念にしがみついてきた。クロエは何も知らないまま、薬師見習いとして穏やかに暮らしている。記憶のない人生は不完全かもしれないが、少なくとも安全だ。父が濡れ衣で処刑された真実も、姉がいたという事実も、自分が貴族の令嬢だったという過去も、何も知らなければ何も苦しまなくて済む。
知らないほうが幸せだ。
本当にそうか。
今日、クロエと歩いた灰の庭園の光景が、暗い書斎の中で何度も再生された。「どこかでお会いしましたか」と尋ねたクロエの声。風が吹いたときに半歩身を寄せてきたクロエの体温。「誰かから薬草のことを教わった気がする」と首を傾げたクロエの横顔。
あの子の中に、消しきれなかったものがある。
記憶操作薬は記憶を消す。だが記憶とは何だ。脳に刻まれた情報のことか。それとも、もっと深い場所——身体に染みついた習慣、筋肉に宿った動作の記憶、骨の髄に沁み込んだ感情の残滓——そういったものも含めて、記憶と呼ぶのか。
もし後者だとすれば、クロエの記憶は完全には消されていない。消えたのは表層の記憶だけだ。その下には、幼い日の姉妹の時間が、化石のように埋まっている。クロエが既視感を覚えるのは、その化石が地表に顔を出しかけているからだ。
そしてクロエは今、その既視感の正体を探り始めている。禁書庫で記憶操作薬の処方箋を見つけた。筆跡に覚えがあると感じた。あの筆跡は父のものだ。ヴィリディス家に伝わる処方箋の書き方。丸みを帯びた独特の書き癖は、家門の薬師が代々受け継いできたものだ。クロエは覚えていないはずのその筆跡を、身体のどこかで覚えている。
知らないほうが幸せだ——という信念が、今日、初めて揺らいだ。
真実を隠すことは愛なのか。
ヴィオラは自分自身に問いかけた。暗い書斎で、月のない夜に、誰にも聞こえない声で。
クロエの記憶を奪ったのは、クロエを守るためだった。それは嘘ではない。マグナスの条件を呑まなければ、クロエは殺されていた。十二歳の少女の命を救うために、十七歳の姉ができることはそれしかなかった。
だが。
守るという名目の下で、ヴィオラは何をしたのか。妹の人生を書き換えた。名前を奪い、家族を奪い、過去を奪った。クロエ・ヴィリディスという少女を殺し、クロエ・グリザイユという孤児を作り出した。それは命を救う行為であると同時に、人格を殺す行為でもあった。
五年間、ヴィオラはその矛盾から目を逸らしてきた。命が助かったのだから良かったのだ。生きてさえいれば、それでいい。記憶がなくても、名前が違っても、姉がいないことになっていても、生きている。それだけで十分だ。
本当に?
クロエが「どこかでお会いしましたか」と言ったとき、あの子の目には戸惑いがあった。自分の感覚を信じたいのに信じられない、という戸惑い。記憶が教えてくれないのに身体が何かを訴えている、という混乱。それはクロエの中で、消された過去と現在の自分が摩擦を起こしている証拠だった。
ヴィオラがクロエに「いいえ、初めてよ」と嘘をついたとき、あの子の表情に一瞬だけ落胆が浮かんだのを、ヴィオラは見逃さなかった。気のせいですね、とクロエは笑ったが、あの笑顔には諦めが混じっていた。自分の感覚を否定する諦め。それを、ヴィオラの嘘が強化した。
知らないほうが幸せだ、とヴィオラは言う。だがそれは誰にとっての幸せなのか。クロエにとってか。それともヴィオラ自身にとってか。
真実を隠し続ける限り、ヴィオラは姉でいられない。だが同時に、真実を隠し続ける限り、「妹を守った姉」としての自己認識を保つことができる。もし真実を明かせば、クロエはヴィオラを恨むかもしれない。記憶を奪った姉を、人生を書き換えた姉を、許さないかもしれない。その恐怖が、ヴィオラの沈黙のもう一つの理由だった。
マグナスの脅迫だけが沈黙の理由ではない。ヴィオラ自身の臆病さも、沈黙を選ばせている。
それを認めるのは、マグナスの脅迫に屈するよりもずっと辛かった。
窓の外で風が鳴った。私庭の薬草たちが揺れている気配が、暗がりの中から伝わってきた。月光草は今夜も根を張っているだろうか。冬を越し、春を待ち、光の乏しい季節をじっと耐えて。
ヴィオラはこの五年間、月光草のように生きてきた。根を張り、耐え、嵐をやり過ごし、ただ存続することだけを目的に。ヴィリディス家の当主代行として、家門の名誉を可能な限り保ち、領地を守り、使用人たちの生活を守り、そしてマグナスの要求に従い続けてきた。全ては妹が安全に生きていけるように。
だがクロエは今、安全の外に出ようとしている。
ベアトリクスが「自分の目で確かめなさい」と背中を押したという。ノエル・カエルレウスが情報を提供しているという。それぞれの思惑は異なるだろうが、結果としてクロエは真実に向かって歩き始めている。
止めるべきか。
止められるのか。
いや——止める権利が、自分にあるのか。
あの子の人生を一度奪った人間が、二度目にまた奪う権利があるのか。「知らないほうが幸せ」という判断を、妹の代わりに下す権利が、姉にあるのか。
ヴィオラには答えが出せなかった。五年間出せなかった答えが、今夜急に出るはずもない。ただ、一つだけ確かなことがある。
時間がない。
クロエが真実に近づけば、マグナスが動く。マグナスが動けば、クロエの命が危険にさらされる。真実を教えるにせよ、さらに深く隠すにせよ、ヴィオラは決断を迫られている。
書斎の闇の中で、ヴィオラは自分の両手を見下ろした。暗がりの中で手の形はほとんど見えない。薬草を育ててきた手。報告書の山に署名してきた手。五年前に妹の記憶を奪う薬を渡した手。
この手で、何ができる。
何を、すべきなのか。
沈黙が答える代わりに、扉が叩かれた。
「ヴィオラ様」
マリアの声が、抑えた切迫を帯びていた。ヴィオラは顔を上げ、姿勢を正した。
「入りなさい」
マリアが扉を開け、燭台の光が書斎に差し込んだ。侍女の表情は蒼白だった。
「灰の審問院から速報が届きました」
「何があったの」
「審問官が一人、暗殺されました」
ヴィオラの指先が、膝の上で握りしめられた。
「暗殺された審問官の名は」
「ガレノス・フェリス審問官です。五年前のヴィリディス家前当主の裁判を担当した——」
「知っているわ」
ヴィオラは短く遮った。知っている。忘れるはずがない。父を裁いた審問官の一人。偽りの証拠を振りかざし、父に有罪を宣告した男の一人。
「犯行現場には黒薬の痕跡が残されていたと。宮廷内では早くも、ヴィリディス家による報復ではないかという噂が——」
「噂は噂よ」
ヴィオラの声は平坦だった。しかしその平坦さの下で、思考が猛烈に回転していた。
マグナスだ。
確証はない。だが直感が告げている。これはマグナスの仕業だ。審問官を暗殺し、その嫌疑をヴィリディス家に向ける。五年前と同じ構図。証拠を捏造し、濡れ衣を着せ、邪魔者を排除する。今度の標的はヴィオラ自身か、それとも——。
クロエ。
マグナスの朝の言葉が、急速に意味を変えて蘇った。「穏便に対処する」。あの男が言う「穏便」の中に、審問官の暗殺も含まれていたのか。そしてその次に「対処」されるのは、真実に近づきつつあるクロエなのか。
「マリア」
「はい」
「明日の予定を全て取り消して」
「全て、ですか」
「ええ。全て」
ヴィオラは立ち上がった。窓の外の闇が、不吉な密度を増したように感じられた。
時間がない。
もう猶予は残されていない。真実を隠すか、明かすか。その選択をする前に、まずクロエの安全を確保しなければならない。たとえそれが、マグナスとの契約を危うくすることになったとしても。
ヴィオラは書斎の灯りを点け、便箋を広げた。誰に宛てて何を書くべきか、まだ定まっていない。だが動かなければならないことだけは分かっていた。
五年間の沈黙が、限界を迎えようとしている。
月光草の根は、まだ生きているだろうか。
冬を越えて、春に芽を出すことは、できるだろうか。
ヴィオラは便箋の上にペンを置いた。インクの先端が紙に触れ、小さな点を一つ残した。まだ何も書いていない。まだ何も決めていない。
だが、もう目を逸らすことはできなかった。