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第七章

フェリクスの庭

【成長の滋養薬 ― クレスコ】用法: 植物の根元に散布。効果: 枯れかけた植物を蘇らせる。副作用: なし。ただし、枯れた理由を取り除かなければ、また枯れる。


フェリクスの庭園

フェリクスの庭園は、王宮のどの場所とも違っていた。

クロエが案内されたのは、西翼の最奥にある小さな温室だった。王宮の華麗な建築からは外れた場所に、まるで申し訳程度に建て増されたような硝子と鉄骨の構造物がひっそりと佇んでいる。正門から最も遠く、回廊の途切れた先を渡り廊下で繋いだだけの、忘れられたような一角。温室の硝子は古く、ところどころに曇りがあり、朝の光を柔らかく拡散させていた。

扉を開けたフェリクスが、少し気恥ずかしそうに振り返った。

「あまり……人に見せたことがない場所なんだ」

クロエは温室の内部を見渡した。

そして、息を呑んだ。

外見からは想像もつかない、生命の密度がそこにはあった。古い木製の棚が壁際にずらりと並び、大小さまざまな鉢が所狭しと置かれている。銀月草の群れが棚の上段で銀色の葉を揺らし、中段には暁蘭の蕾が淡い橙の光を帯びて並んでいた。下段には名前を知らない薬草が土の中から青緑の茎を伸ばし、その隣では癒しの苔が鉢の縁から溢れるように広がっている。

棚の間の通路は一人が通れるほどの幅しかなく、足元には使い古された如雨露や移植鏝が無造作に置かれていた。土の匂い。水の匂い。そして薬草の魔素が発する、あの微かな甘い香り。宮廷の調合室の整然とした薬草の匂いとは違う、もっと生々しく、泥臭く、それでいてどこか安らぐ香りだった。

「これは……全て殿下がお育てになっているのですか」

「フェリクスでいいと言っただろう」フェリクスは温室の奥へ入りながら言った。「この温室は母上が使っていたんだ。母上が亡くなってから、誰も手入れをしなくなった。だから僕が引き継いだ」

フェリクスは棚の前でしゃがみ込み、ひとつの鉢を手に取った。中の薬草は葉先が茶色く枯れかけており、茎も頼りなく傾いでいる。

「これは境界のサンザシ。母上が一番好きだった薬草だ。でも僕の腕では、どうしても元気にしてやれなくて」

クロエは鉢を覗き込んだ。境界のサンザシ。灰薬の素材として知られる希少な薬草で、栽培が難しいことで有名だった。土壌の酸度、水の量、光の角度、全てを精密に管理しなければ枯れてしまう。禁書庫で見つけた記憶操作薬の処方箋にも、その名があった。

「土が少し酸性に傾きすぎているかもしれません」

クロエは指先で土に触れた。湿り気はある。水遣りは適切だ。しかし土の色がわずかに暗い。

「灰土を少し混ぜれば、酸度を中和できます。それから、この位置だと午後の光が強すぎるかもしれません。棚をもう少し奥にずらして、硝子の曇った部分の下に置いてみてはどうでしょう」

フェリクスの目が輝いた。大げさな表現ではなく、文字通り瞳の中に光が灯ったのだ。宮廷で見せる蒼白な仮面が剥がれて、その下から十六歳の少年の素直な喜びが覗いた。

「やっぱり薬師は違うな。僕は水をやることしか思いつかなかった」

「水だけでも、続けていらっしゃったから生きているのだと思います」

クロエはそう言いながら、棚を移動させる手伝いを始めた。フェリクスも反対側を持ち、二人で重い棚をずらす。棚の下には蜘蛛の巣と古い落ち葉が溜まっていて、クロエは思わず苦笑した。

「ここも掃除しましょう」

「……すまない。庭の手入れは好きだけど、掃除は苦手で」

フェリクスが照れくさそうに頭を掻いた。その手は泥で汚れていた。爪の間にまで黒い土が入り込んでいて、とても王太子の手には見えない。クロエはその手を見て、不思議な安堵を覚えた。

この人は、嘘をつかない。

宮廷にいると、清潔で美しい手ばかりが目につく。羊皮紙の上を滑る白い指先、杯を優雅に持ち上げるしなやかな手首。だがそうした手の持ち主たちが何を考えているのか、クロエには読めなかった。ノエル・カエルレウスの完璧な所作も、マグナス・アウレウスの温厚な身振りも、どこか演じられたもののように感じられることがある。

フェリクスの泥だらけの手には、そうした装飾がなかった。

二人は並んで薬草の植え替え作業を始めた。クロエが土の配合を指示し、フェリクスが鉢から薬草を抜き、新しい土に移す。会話は自然と薬草のことに流れた。

「この暁蘭、見事ですね。こんなに大きな株は調合室でも見たことがありません」

「種から育てたんだ。三年かかった」フェリクスは泥だらけの手で蘭の葉を撫でた。「最初の年は芽も出なくて、何度も諦めかけた。でも母上がよく言っていたんだ。『薬草は嘘をつかない。枯れるには枯れるだけの理由がある。それを見つけてやるのが育てる者の務めだ』って」

「お母上は……薬草にお詳しかったのですね」

「母上はよく薬を調合していた。薬師ではなかったけど、才能があった」

フェリクスの手が一瞬止まった。暁蘭の葉から指を離し、視線を鉢の中の土に落とす。

「大薬師にも劣らないと、ベアトリクス首席薬師が言っていたことがある。まだ子供だった僕に、冗談めかして。『王妃様がもし薬師の家に生まれていたら、私の席は奪われていたかもしれませんね』と」

クロエは手を止めて聞いていた。

「母上は薬草を育てるだけじゃなく、独自の処方を試していた。この温室がその実験場だったんだ。棚の配置も、土の配合も、全部母上が考えた。僕はそれを真似しているだけで、本当のところは何も分かっていない」

「フェリクス様」

「うん?」

「お母上の薬草が今も生きているのは、あなたが世話を続けてきたからです。真似であっても、三年間続けたことは本物です」

フェリクスはクロエの顔を見た。それから、ふっと笑った。

その笑みは宮廷で見せるどの表情とも違っていた。緊張もなく、計算もなく、ただ嬉しいから笑う——それだけの、飾りのない笑顔だった。泥がついた頬の上で、少年の目が細くなった。

「ありがとう。そう言ってもらえると、少し気が楽になる」

クロエは黙って微笑み返し、作業に戻った。

心の中で、小さな驚きが広がっていた。王太子と二人きりで、薬草の世話をしている。それなのに、緊張がほとんどない。身分の差を意識する余裕すらないほど、この温室の空気は穏やかだった。

土に触れ、葉に触れ、根を解きほぐす。薬師としての手仕事に没頭しているとき、クロエの中の「宮廷にいる自分」が一時的に消える。残るのは「薬草と向き合う自分」だけだ。そしてフェリクスも同じだった。王子の肩書きを脱ぎ捨てて、ただ植物と向き合っている一人の少年。

立場を忘れて話せる相手。宮廷に来てから初めて出会った、そういう存在だった。

「ねえ、クロエ」

フェリクスが新しい鉢に土を入れながら言った。

「この温室に時々来てくれないか。薬草の世話を手伝ってほしいんだ。僕一人じゃ、母上の薬草を全部は守れない」

「……私でよければ」

「君がいい。他の薬師には頼めない」

その言葉の意味を、クロエは問わなかった。宮廷の薬師たちの中に、フェリクスが信頼できる人間がどれだけいるのか。答えは聞くまでもなかった。

「では、週に二度ほど。午後の第三刻以降なら、調合室の仕事が終わっていますから」

「ありがとう」

フェリクスはもう一度笑った。泥だらけの手で額の汗を拭い、知らず知らずのうちに額にも泥をつけた。クロエはそれを指摘しようとして、やめた。指摘すれば、この穏やかな時間に宮廷の作法が戻ってきてしまう気がしたからだ。

温室の硝子天井を通して、午前の光が白く降り注いでいた。薬草の葉が光を透かして緑の影を床に落とし、土の匂いと魔素の甘い香りが混じり合って漂っている。

クロエにとって、この場所はすでに居心地の良い空間になりつつあった。調合室のような秩序はないが、離宮のような静寂の重さもない。生きている薬草の息遣いに満ちた、温かな場所。

境界のサンザシの鉢を新しい位置に据えたとき、クロエの指先が微かな光を捉えた。植え替えた薬草の根元から、ほんのわずかに魔素が滲み出している。枯れかけていた葉先に、かすかに緑が戻りつつある。

「フェリクス様、見てください」

フェリクスが駆け寄り、鉢を覗き込んだ。

「……緑が、戻ってる」

「土を変えたのが効いたようです。まだ油断はできませんが」

フェリクスは鉢をそっと持ち上げ、光にかざした。枯れかけた葉の中に芽吹く、小さな緑。その目は真剣で、優しくて、どこか痛みを堪えているようにも見えた。

「母上なら、もっとうまくやれたんだろうな」

その呟きに、クロエは何も言えなかった。


フェリクスの薬草園(夕暮れ)

クロエが帰った後、フェリクス・グリセルダは温室に一人残った。

棚を整理し直し、如雨露に水を汲み、今日植え替えた薬草にもう一度水をやる。一連の作業を終えてから、フェリクスは温室の隅に置かれた古い椅子に腰を下ろした。

椅子の座面は擦り切れ、背もたれには蔦の模様が彫り込まれている。母の椅子だった。エレオノーラ王妃はかつてこの椅子に座り、薬草の世話をしながら本を読んでいた。フェリクスが幼い頃、母の膝の上に座って薬草の名前を教えてもらった記憶がある。銀月草。暁蘭。境界のサンザシ。名前を一つ覚えるたびに母が微笑んで、頭を撫でてくれた。

その手はもう、ない。

フェリクスは椅子の肘掛けに手を置き、目を閉じた。

母の死から一年と少し。時間は傷を癒すと誰かが言ったが、それは嘘だった。傷は癒えたのではなく、馴染んだだけだ。胸の中に空いた穴は塞がるどころか、自分の一部になってしまった。目が覚めるたびに思い出す。母がいないこと。父が起き上がれないこと。自分が、この広い宮殿で一人であること。

孤独は温室の硝子の外にある。

正確に言えば、温室の硝子の内側だけが、孤独でない場所だった。

フェリクスの日常は、守られることで成り立っている。朝は侍従が起こしに来る。食事は毒見役が味見してから運ばれる。廊下を歩けば護衛がつき、部屋には警備の兵士が扉の外に立つ。王太子としての安全は確保されている——少なくとも表面上は。

だが守られているということは、信頼していないということでもある。

食事に毒見役がつくのは、食事に毒が盛られる可能性があるからだ。護衛がつくのは、暗殺の危険があるからだ。フェリクスの日常は「いつ殺されてもおかしくない」という前提の上に築かれている。穏やかな朝食の光景も、静かな夜の書斎も、その薄皮一枚下には死の影が貼りついている。

母も、そうだった。

守られていたはずの人が、殺された。

フェリクスは目を開け、天井の硝子を見上げた。曇った硝子越しの空は白く、輪郭のない光が温室全体を包んでいる。

父——国王アルベルト・グリセルダは、王妃の死後まもなく病に倒れた。公式には過労と心痛による衰弱とされているが、フェリクスはそれも信じていなかった。父は強い人だった。心の痛みで倒れるような弱さは、少なくとも息子に見せたことはなかった。父の病にも、何者かの手が関わっている可能性がある。

しかしフェリクスにはそれを調べる手段がない。

王太子であるがゆえに。王太子は宮廷の中で最も自由のない人間の一人だ。行動は監視され、発言は記録され、接触する人間は全て大公家の息がかかっている。自由に動けないどころか、自分の意志で食事の献立さえ決められない。全てが「殿下の安全のため」という名目の下に管理されている。

その管理が、誰の手によるものなのか。

父が倒れてからの宮廷の実権は、四大公家の合議体が握っている。だが合議とは名ばかりで、実質的にはマグナス・アウレウスの意向が最も強く反映されている。財政を握る者が、最も多くの人間を動かせる。フェリクスの護衛も、毒見役も、侍従も、その任命にはマグナスの承認が必要だった。

守られているのではない。囲まれているのだ。

フェリクスは椅子から立ち上がり、温室の奥にある小さな戸棚の前に立った。取っ手に手をかけ、少し力を込めて引く。戸棚の底板を持ち上げると、その下に浅い隠し空間があった。母が作ったものだ。

隠し空間の中に、灰色の布に包まれたものがある。

フェリクスはそれを取り出し、布を開いた。

何も見えない。布の上に何かが載っている気配はあるのに、目には何も映らない。だが手で触れると、そこには確かな輪郭があった。冷たい金属の感触。円環状の、精緻な装飾が施された——。

灰色の王冠。

正確には、王冠の幻影だ。本物の灰色の王冠は灰の庭園の奥、封印された祭壇の上にある。だがこの一年、フェリクスの手元にはその「影」が現れるようになった。眠っているとき、突然枕元に。温室で作業をしているとき、棚の隙間に。王冠がフェリクスの近くに影を投げかけるのだ。

最初は恐ろしかった。

灰色の王冠は「魔薬で作られた生きた王冠」であり、次の王を自ら選ぶとされている。王冠が影を送ってくるということは、王冠がフェリクスを候補として見ているということだ。あるいは、すでに選んでいるのかもしれない。

そのことを、フェリクスは誰にも話していなかった。

話せるはずがなかった。もし大公家の誰かがこのことを知れば、フェリクスの命はさらに危険にさらされる。王冠に選ばれる可能性のある人間は、ある者にとっては利用すべき駒であり、別の者にとっては排除すべき障害だ。

フェリクスは王冠の影に指先を触れた。冷たい金属の感触が指先から腕を伝い、胸の奥にまで染み渡る。王冠は脈打っていた。魔素の鼓動。生きている王冠の、静かな心拍。

——選ばれたくなどない。

フェリクスは心の中でそう呟いた。

王になりたいわけではない。政治にも権力にも興味がない。この温室で薬草を育て、静かに暮らせればそれでいい。母が愛した植物を守り、母の残した処方を学び、いつか母のように薬草の声が聞こえるようになれたらと、そんなささやかな願いしか持っていない。

だが。

母を殺した者が、この宮廷のどこかにいる。

そしてその者が王座に近づこうとしている。

その一点だけが、フェリクスの中に静かな怒りとして灯っていた。王になりたいのではない。母を殺した者が王になることを、許せないのだ。

フェリクスは王冠の影を布で包み直し、隠し空間に戻した。戸棚の底板を嵌め、取っ手を元に戻す。誰にも知られてはならない。まだ、その時ではない。

椅子に戻ったフェリクスは、今日のクロエとのやり取りを思い返した。

あの薬師見習いは、嘘をつかない。

宮廷では稀有なことだった。ノエル・カエルレウスのように全ての言葉に裏がある者、マグナス・アウレウスのように温厚な仮面の下に何を隠しているか分からない者、そうした人間たちの中で暮らしていると、言葉の額面通りの意味を信じることが難しくなる。誰かが「殿下のために」と言うたびに、フェリクスは「では、本当は誰のためなのか」と考えてしまう。

だがクロエは違った。

「土が少し酸性に傾きすぎているかもしれません」——それは観察に基づいた事実だった。裏の意味も、政治的な意図もない。ただ薬草のために最善の環境を整えようとする、薬師としての誠実さ。

「お母上の薬草が今も生きているのは、あなたが世話を続けてきたからです」——それも慰めの言葉ではなかった。フェリクスが三年間この温室に通い続けたことへの、率直な評価。

嘘をつかない人間。宮廷で最も危うく、最も貴重な存在だ。

フェリクスは自分の泥だらけの手を見下ろした。クロエと並んで薬草を植え替えたとき、不思議な安堵があった。身分の差を忘れていたのではない。忘れようとしたのでもない。ただ、土を前にしたとき、身分という概念そのものが意味を失ったのだ。薬草は王子の手で植えても薬師の手で植えても、同じように根を張る。土は身分を問わない。

その単純な真理の中に、フェリクスは束の間の救いを見出していた。

窓の外で午後の光が傾き始めている。温室の中の影が長くなり、薬草たちの輪郭が柔らかくぼやけていく。

フェリクスは立ち上がり、境界のサンザシの鉢に近づいた。クロエが植え替えてくれた鉢。新しい土の中で、枯れかけた葉に緑が戻りつつある。

枯れた理由を取り除かなければ、また枯れる。

母が生前、よく口にしていた言葉だった。薬草についての言葉だが、それだけではなかったのだろう。

枯れた理由。

この宮廷を蝕んでいるもの。母を殺した者。父を病に追いやった力。それらを取り除かない限り、この王国は枯れ続ける。

フェリクスには権力がない。兵もない。知恵も経験も足りない。だがこの温室で薬草を三年間守り続けてきたように、細く長く、根気強く——何かができるはずだと、そう信じていた。

でなければ、王冠が自分を選ぶ理由がない。


その知らせが宮廷に届いたのは、翌日の午後だった。

クロエは調合室で灰薬の調合実習に取り組んでいるところだった。変容の軟膏——灰薬の中では初歩的な処方だが、白薬とは異なり「二面性」を持つ薬を扱うには繊細な意志のコントロールが求められる。乳鉢の中で材料を練りながら、クロエは午前中の温室での記憶を頭の片隅に残していた。

調合室の扉が勢いよく開いたのは、まさにそのときだった。

「緊急です!」

駆け込んできたのは審問院付きの伝令官だった。息を切らし、顔面蒼白で、額に脂汗が浮いている。調合室にいた見習い薬師たちが一斉に手を止めた。

「灰の審問院の審問官、レオポルド・ファーレン卿が——本日朝、執務室にて死体で発見されました」

乳鉢の中の軟膏が、クロエの手の中で冷えていった。

レオポルド・ファーレン。その名前に覚えがあった。灰の審問院の上席審問官。宮廷では寡黙で厳格な人物として知られ、黒薬の取り締まりにおいて冷徹なまでの公正さを貫いた人物だとベアトリクスが語ったことがある。

そして——ヴィリディス家前当主の処刑に関わった審問官の一人。

クロエの胸に、冷たいものが走った。

宮廷薬師の不審死に続く、第二の死。今度は審問官だ。偶然とは思えなかった。宮廷に何かが起きている。いや、何かが動き出している。禁書庫で見つけた記憶操作薬の処方箋、ヴィオラとの接触で感じた既視感、そして宮廷薬師の死——それらが一本の糸で結ばれようとしている予感があった。

午後の臨時評議会が召集された。

クロエが評議会の詳細を知ったのは、夕刻の調合室でベアトリクスからだった。師匠はいつも以上に寡黙で、目の下に疲労の影が濃い。

「審問官レオポルドの死因は、黒薬による中毒死と判定されました」

ベアトリクスは棚の薬瓶を整理しながら、感情を抑えた声で言った。

「犯行現場の執務室から、黒薬の残滓が検出されています。痕跡を分析した結果、使用されたのは遅効性の呪毒——服用から十二時間後に心臓を停止させる、極めて高度な黒薬です」

「高度な黒薬を調合できる人間は、限られているのでは」

「その通りです」

ベアトリクスの声が一層低くなった。

「そして臨時評議会において、アウレウス家当主マグナス卿が示唆を行いました」

「示唆……」

「この暗殺は、ヴィリディス家の報復ではないか、と」

クロエの手が止まった。

「ヴィリディス家の……?」

「レオポルド審問官は、五年前にヴィリディス家前当主の審問と処刑に深く関与した人物です。前当主の処刑が冤罪であったならば、その報復として審問官を暗殺する動機がヴィリディス家には存在する——マグナス卿はそのような論理を展開したようです」

ヴィオラ。

クロエの脳裏に、穏やかな微笑みを浮かべたヴィリディス家の当主代行の顔が浮かんだ。あの人が暗殺など——。

「師匠。ヴィオラ・ヴィリディス様が疑われているのですか」

ベアトリクスは長い沈黙の後、短く答えた。

「嫌疑は、かかり始めています」

薬瓶を棚に戻す師匠の手が、かすかに震えていた。クロエはそれを見逃さなかったが、何も言えなかった。

調合室を出たクロエは、廊下を歩きながら頭の中を整理しようとした。

第二の死。審問官の暗殺。黒薬の使用。そしてヴィリディス家への嫌疑。

何かがおかしい。

ヴィオラ・ヴィリディスを、クロエはよく知っているわけではない。接触は一度きりで、そのとき感じたのは奇妙な既視感と、ヴィオラの態度に潜む緊張だけだった。だが——あの人が審問官を暗殺するような人間には、どうしても見えなかった。

穏やかで慈悲深い当主代行。薬師ギルドの支援者として知られ、宮廷でも調停役を務める人物。そのような人間が、黒薬を用いた暗殺を——。

しかし証拠はヴィオラを指し示しているという。マグナスの論理は明快だった。動機がある。五年前に父を処刑された恨み。手段もある。ヴィリディス家は農業と薬学の名門であり、薬の調合に関する深い知識を持つ。機会もある。ヴィオラは宮廷内を自由に移動できる立場にある。

動機、手段、機会。三つが揃えば、嫌疑としては十分だ。

だが、とクロエは思った。あまりにもきれいに揃いすぎていないか。

まるで——誰かがそう見えるように、お膳立てをしたかのように。

禁書庫で見つけた記憶操作薬の処方箋が、頭をよぎった。あの処方箋の存在は、宮廷の中に黒薬を扱える人間がヴィリディス家以外にもいることを示唆している。記憶操作薬を製造できるだけの技術と素材を持つ者。そしてそれを隠し通せるだけの権力を持つ者。

クロエは廊下の窓から外を見た。夕暮れの空が灰色と橙の境界で揺れている。

そのとき、背後から足音が近づいた。

「クロエ」

小さな声だった。振り返ると、フェリクスが壁の影から姿を現した。護衛の姿はない。どうやって一人で抜け出してきたのか。フェリクスの顔は真剣で、いつもの温室での穏やかさは消えていた。

「審問官の件を聞いたか」

「はい」

フェリクスは周囲を見回し、誰もいないことを確認してから、低い声で言った。

「この暗殺は仕組まれている。誰かが罪を着せようとしている」

クロエは息を呑んだ。フェリクスの言葉は、クロエ自身が感じていた違和感を明確な形にしたものだった。

「何か、ご存じなのですか」

「確証はない。だが……母上の死の前にも、同じことがあった。母上が倒れる直前、宮廷では薬の素材の横流しが発覚して、当時の宮廷薬師の一人に嫌疑がかかった。その薬師はヴィリディス家と親交があった」

「その薬師は——」

「審問院に連行され、取り調べの最中に急死した。病死として処理された」

フェリクスの声は静かだったが、その中に堪えきれない怒りが滲んでいた。

「母上の死も、その薬師の死も、今回の審問官の死も——全てが同じ構図だ。死が起き、ヴィリディス家に嫌疑が向けられ、真犯人は影に隠れる。そうやってヴィリディス家は少しずつ力を削がれ、五年前には当主が処刑されるに至った」

クロエの頭の中で、断片が音を立てて嵌まり始めた。

記憶操作薬の処方箋。ヴィリディス家前当主の冤罪の可能性。そしてマグナス・アウレウスが臨時評議会で「示唆」した、ヴィリディス家の報復という筋書き。

もしフェリクスの言う通り、これが仕組まれた罠だとしたら——罠を仕掛けたのは誰なのか。ヴィリディス家を潰すことで、誰が得をするのか。

「フェリクス様」

「うん」

「今は、気をつけてください。殿下がこのようなことを口にされるのは、大変危険です」

「分かっている。だから君にだけ言ったんだ」

フェリクスはクロエの目を真っ直ぐに見た。

「この宮廷で、嘘をつかない人間は少ない。君は——そのうちの一人だと、僕は信じている」

その言葉の重さに、クロエは一瞬言葉を失った。王太子が、見習い薬師に向ける信頼。それは光栄であると同時に、恐ろしいことでもあった。信頼されるということは、裏切る可能性を背負うということだ。

だが今のクロエには、もう一つ、別の恐怖がある。

「フェリクス様。一つだけ聞かせてください。ヴィリディス家の前当主が処刑されたとき——その方には、ご家族がいらっしゃったのですか」

フェリクスは一瞬、不思議そうな顔をした。それから答えた。

「ああ。娘が二人いたと聞いている。長女がヴィオラ。それから、もう一人幼い妹がいたらしいが……行方不明になったと。家が取り潰された混乱の中で消えたと聞いた」

行方不明の、幼い妹。

クロエの胸の中で、何かが軋んだ。

ヴィオラに初めて会ったときの既視感。説明のつかない親しみ。あの穏やかな微笑みの裏に潜んでいた、何かを隠している緊張。

そしてクロエ自身の記憶の空白。薬師ギルドに引き取られる以前の記憶が、きれいに消えている。孤児として。身寄りのない子供として。クロエ・グリザイユという名前を与えられ、それ以前の自分を知らない。

知らないのか。それとも——消されたのか。

処方箋の既視感。手が覚えている調合手順。時折見る灰色の夢。全てが一つの問いに収斂していく。

——私は本当に孤児なのか?

その問いが、もう無視できないほど大きく、胸の中で鳴り響いていた。

フェリクスが何かを言った。だがクロエの耳には届かなかった。頭の中を埋め尽くしているのは、灰色の靄の中に沈んだ記憶の断片だ。幼い頃の屋敷。深緑の窓掛け。壁の漆喰に施された薬草の浮き彫り。そして——誰かが泣いている声。

お姉さま。

誰を、そう呼んだのだろう。

「クロエ? 大丈夫か?」

フェリクスの声で、クロエは現実に引き戻された。少年の心配そうな顔が目の前にある。クロエは息を整え、無理に微笑んだ。

「はい。大丈夫です。少し、考え事をしていて」

フェリクスは納得していない顔をしたが、それ以上は追及しなかった。

「……何かあったら、温室に来てくれ。あの場所なら、誰にも聞かれない」

「ありがとうございます。フェリクス様も、どうかご自愛ください」

フェリクスは小さく頷き、廊下の影に消えていった。

一人残されたクロエは、窓辺に手をつき、額を冷たい硝子に押し当てた。

夕暮れの空は灰色に沈みつつある。白でも黒でもない、曖昧な色。

クロエは思い出していた。序章の記憶には存在しない、しかし身体のどこかに刻まれた声を。

——灰色であることを恐れるな、クロエ。

誰の声だったのか。

なぜ、自分の名前を知っているのか。

その問いの答えは、まだ灰色の靄の向こうにある。だが靄は薄れつつあった。一つの事件が起きるたびに、一つの出会いがあるたびに、靄の隙間から何かが透けて見える。

真実は、もうすぐそこまで来ている。

クロエはそれを感じていた。感じていたからこそ、怖かった。

知りたい。知りたくない。

その二つの感情が、灰色の薬のように混じり合い、クロエの胸の中で渦を巻いていた。

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