【覚醒の苦薬 ― エクスペルギスコル】用法: 意を決して一息に飲み干す。効果: 曖昧な意識を鮮明にする。副作用: 目覚めた後、二度と眠りには戻れない。

朝の調合室は、薬草の蒸気と蝋燭の脂の匂いで満ちていた。
クロエ・グリザイユは乳鉢の前に座り、白薬の基本処方——鎮痛の湿布薬の調合に取り組んでいた。銀月草の粉末を灰水で練り、蜜蝋と獣脂を加えて均一な膏体にする。見習いが繰り返し練習させられる初歩の処方だ。手順は体が覚えている。乳棒を時計回りに二十四回、反転して反時計回りに十二回。力の入れ具合、手首の角度、全てが指に染みついた動作だった。
だが今朝のクロエの手は、乳鉢の中の白い膏体ではなく、別のものに向かおうとしていた。
審問官レオポルド・ファーレンの暗殺から三日が過ぎていた。宮廷には不穏な空気が漂い、灰の審問院の調査官が廊下を行き交う頻度が増している。ヴィオラ・ヴィリディスへの嫌疑は公式には未確定だが、宮廷の噂はすでにヴィリディス家を犯人と決めつけていた。マグナス・アウレウスの「示唆」が、まるで既成事実のように浸透している。
フェリクスの言葉が頭から離れなかった。「この暗殺は仕組まれている。誰かが罪を着せようとしている」。
そして、それよりも深い場所で、もう一つの問いが渦を巻いていた。
——私は本当に孤児なのか?
ヴィリディス家の前当主には二人の娘がいた。長女がヴィオラ。そして行方不明になった幼い妹。クロエの記憶は、薬師ギルドに引き取られる以前が綺麗に消えている。既視感。手が覚えている調合手順。夢に見る灰色の記憶。ヴィオラに会ったときの、説明のできない懐かしさ。
全ての断片が、一つの答えを指し示している。
だがその答えを、クロエは自分一人では確かめられなかった。
知っている人がいる。
乳鉢の中の膏体が仕上がりに近づく頃、クロエは乳棒を置いた。手の甲で額の汗を拭い、調合室の奥を見た。ベアトリクス・モルゲンの個室は調合室の最奥にある。分厚い樫の扉の向こうに、宮廷首席薬師の私的な作業空間がある。弟子が許可なく入ることは許されない場所だ。
禁書庫に忍び込んだ夜のベアトリクスの言葉を、クロエは何度も反芻してきた。「自分の目で確かめなさい」「真実は薬のように——服用する覚悟がなければ、毒になる」。あの言葉は許可であると同時に、試練だった。師匠は何かを知っている。だが自ら答えを与えるつもりはない。
では、こちらから問えばどうなのか。
直接尋ねる。正面から、逃げ場をなくして。
クロエは膏体を清潔な布に移し、蓋をした。手を洗い、薬嚢の中身を確かめた。王妃の離宮で見つけた処方箋はいつも通り内ポケットに入っている。それから深く呼吸をして、調合室の奥へ歩き出した。
他の見習いたちは午前の講義に出ている時間だった。調合室にはクロエとベアトリクスしかいない。
樫の扉の前で足を止めた。
二度、叩いた。
「入りなさい」
師匠の声は平坦だった。いつも通りの、感情を削ぎ落とした低い声。クロエは扉を開けた。
ベアトリクスの個室は、調合室の延長のような空間だった。壁の三面を薬棚が覆い、四面目に小さな窓がある。作業台の上には師匠が手がけている調合の途中経過が広げられていた。蒸留器から滴り落ちる透明な液体。薬瓶に入った粉末の列。師匠は作業台の前に立ち、蒸留器の火加減を調整しているところだった。
「何か」
振り返りもせずに、ベアトリクスは問うた。
クロエは扉を閉めた。
背中に扉の冷たさを感じながら、声を絞り出した。
「先生。私の記憶は、おかしいのではないですか」
ベアトリクスの手が止まった。
蒸留器の火は変わらず燃えていた。透明な液体が一滴、受け瓶に落ちた。その音が、長い沈黙の中でひどく鮮明に響いた。
師匠は振り返らなかった。
五秒。十秒。三十秒が過ぎた。蒸留器の液滴が時を刻む音だけが、二人の間を満たしていた。
やがてベアトリクスは火の調節弁を閉め、蒸留器の炎を細くした。それからゆっくりと体を反転させ、クロエに向き直った。
師匠の顔は、いつも通り厳格で無表情だった。だがその目の奥——クロエが五年間見続けてきた厳しい眼差しの、さらにその奥に、何かが揺れていた。波紋。水底に投げ込まれた小石が立てる、静かな波紋。
「なぜそう思う」
問い返す声は平坦だった。しかしその平坦さが、かえって不自然だった。本当に何も知らないのなら、驚くか、怪訝に思うか、あるいは叱るだろう。何事もなかったように「なぜそう思う」と返すこと自体が、師匠がこの問いを予期していた証拠に見えた。
クロエは言葉を選ばなかった。選んでいる余裕がなかった。胸の中で膨らみ続けてきた違和感が、堰を切って流れ出した。
「調合中に既視感があります。知らないはずの処方を、手が覚えています。銀の乳鉢で根を擂る時の角度、攪拌の回数、素材を加える順番——全て初めて学んでいるはずなのに、手が先に動く。それが白薬だけでなく、灰薬でも起きます。見習いが触れたことのないはずの処方を、私の指が知っている」
ベアトリクスは黙って聞いていた。
「夢を見ます」クロエは続けた。「灰色の夢です。内容は思い出せません。でも目が覚めると、こめかみが痛い。まるで記憶の扉を無理に開こうとして弾かれたような痛みです。この夢は宮廷に上がってから頻度が増しています」
師匠の表情に変化はなかった。だがクロエは見逃さなかった。ベアトリクスの右手——作業台の縁を掴んでいる手の指が、わずかに白くなっている。力が入っているのだ。
「そして——」
クロエは最後の一言を、静かに、しかし確かな声で口にした。
「ヴィオラ・ヴィリディスに初めてお会いした時、説明できない懐かしさを感じました。初めて会う人に対して、姉を見るような感覚がありました。理由は分かりません。でも体が反応しました。あの方の隣に立った時、無意識に半歩身を寄せていた。そのことに後から気づいて、怖くなりました」
蒸留器の液滴が落ちた。
また、沈黙。
ベアトリクスは目を閉じた。
深く、長い息を吐いた。その呼気は調合室の冷たい空気の中で白い靄になり、一瞬だけ漂ってから消えた。師匠の肩が僅かに落ちたのを、クロエは見た。それはこの五年間で初めて目にする、ベアトリクス・モルゲンの疲弊の表れだった。厳格さの鎧の内側にある人間が、一瞬だけ透けて見えた。
目を開けたベアトリクスの瞳は、いつもより深い色をしていた。
「私が言えるのは一つだけだ」
師匠の声は低く、慎重だった。言葉を一つずつ選び、量り、瓶に詰めるように。
「真実は薬のように——服用する覚悟がなければ、毒になる」
同じ言葉だった。禁書庫の夜と同じ言葉。
だが今度は、その言葉がクロエの胸に違う形で突き刺さった。あの夜は、まだ曖昧な違和感の段階だった。今は違う。断片が集まり、輪郭が見え始めている。あと一歩で答えに届く場所に立っている。なのに師匠は、その一歩分の距離を埋めてくれない。
「先生」
クロエの声に、自分でも驚くほどの硬さが混じった。
「それは答えではありません」
ベアトリクスはクロエの顔をじっと見た。
「答えではない、と」
「はい。先生は私の問いに答えていない。私の記憶がおかしいかどうか。それを知っているかどうか。そのどちらにも答えていません」
「お前に答えを与えることは、私にはできない」
「できないのですか。それとも、しないのですか」
師匠の目がかすかに見開かれた。弟子がここまで師匠に食い下がることは、これまで一度もなかった。クロエ自身、こんな言葉が自分の口から出てくるとは思っていなかった。だが止められなかった。胸の奥の焦燥が、礼節を突き破って言葉になった。
「しないのだ」
ベアトリクスは静かに、しかしはっきりと答えた。
「なぜ」
「それが薬師の道だからだ」
師匠は作業台から手を離し、クロエの前まで歩み寄った。背の高い老薬師が、小さな見習いを見下ろす。その目は厳しかったが、厳しさの底に別の感情があった。苦渋。あるいは——慈しみ。
「薬師は答えを処方されて飲むのではない。自らの手で調合し、自らの目で効果を確かめ、自らの舌で味わう。それが我々の道だ。私が答えを与えれば、お前は私の薬を飲むことになる。だがそれでは——お前自身の薬にはならない」
クロエは唇を噛んだ。言っていることは分かる。師匠の論理は正しい。薬師として、真実を自分の手で掴むべきだということは理解できる。
だが理解と納得は違う。
「先生は、知っているんですね」
クロエは静かに言った。確認ではなく、確信だった。
「私の記憶のこと。私が誰なのか。先生は知っている」
ベアトリクスは何も答えなかった。
その沈黙が、何よりも雄弁な答えだった。
知らなければ否定する。否定しないということは、知っているということだ。師匠は五年間——いや、もしかしたらそれ以上の歳月を、この沈黙の中で過ごしてきたのだ。知っていて、黙って、クロエの隣で調合を教え続けてきた。
怒りが湧いた。
裏切られたような、騙されたような、熱い感情が胸の底から込み上げてきた。五年間信じてきた師匠が、五年間真実を隠していた。その事実が、毒のように体の中に広がった。
だが同時に、ベアトリクスの目の奥に見えた疲弊の色が、クロエの怒りを純粋な形で燃え上がらせることを妨げた。あの目は、隠したくて隠している人間の目ではなかった。隠すしかなかった人間の目だった。
「師匠」
クロエは低く言った。
「私は自分で見つけます」
ベアトリクスの目がかすかに揺れた。
「だから——見つけた時に、先生に聞かせてください。先生が知っていることを。私が自分で真実に辿り着いた後に」
長い、長い沈黙の後——ベアトリクスは小さく頷いた。
その頷きは、ほとんど見えないほどのものだった。だがクロエには十分だった。
クロエは頭を下げ、師匠の個室を後にした。扉を閉める瞬間、ベアトリクスが作業台に両手をつき、深く息を吐く姿が見えた。まるで長い間堪えていた重荷を、ほんの少しだけ降ろしたかのように。
弟子の足音が遠ざかった後も、ベアトリクス・モルゲンはしばらく作業台に両手をついたまま動けなかった。
蒸留器の火は細く燃え続けている。受け瓶に溜まった透明な蒸留水が、窓から差し込む朝の光を受けて静かに輝いていた。何千回と繰り返してきた蒸留の工程。薬師としての五十五年間を象徴するかのような、変わらない光景。
だが今朝、この光景はベアトリクスの目に、いつもとは違って映っていた。
クロエの目。あの子が「先生は知っているんですね」と言った時の、灰色の瞳。怒りと悲しみと、それでもなお師匠を信じたいという願いが混じり合った、複雑な光。
父親と同じ目だった。
ルシウス・ヴィリディスも、あの目をしていた。真実を前にした時に怯まない、真っ直ぐな目。ベアトリクスが若い頃に最も敬い、最も羨んだ目。
ベアトリクスは作業台から手を離し、窓辺の椅子に腰を下ろした。膝の上で両手を組み、視線を窓の外に向ける。灰の庭園の灰色の樹冠が、冬の終わりの白い空を背景に広がっていた。
三十五年前の記憶が、蒸留水のように透明な鮮明さで蘇ってきた。
薬師ギルドの学舎。二十歳のベアトリクスが初めて灰薬の調合実習に臨んだ日。教室の最前列に座っていた、二十二歳の青年の横顔。端正な容貌に、野心と理想主義を等分に湛えた鋭い目。
マグナス・アウレウス。
二人は同門だった。大薬師ヘルマン・グラウスの門下で、共に薬理魔術の最高峰を目指した。ベアトリクスは勤勉で正確な調合技術を磨き、マグナスは独創的な処方と鮮やかな着想で頭角を現した。才能という点では、ベアトリクスは自分がマグナスに劣ることを知っていた。マグナスの調合は美しかった。素材の組み合わせに予想外の調和を見出し、既存の処方箋にない効果を引き出す能力。師匠のヘルマンも「マグナスには天才の片鱗がある」と評していた。
だが天才の片鱗は、時として危うい方向に伸びる。
マグナスが最初に禁忌の領域に手を伸ばしたのは、学舎の最終年だった。黒薬の素材を独自に入手し、深夜の実験室で密かに調合を試みているところを、ベアトリクスは偶然に目撃した。
「何をしているの、マグナス」
あの夜の問いかけを、ベアトリクスは今でも覚えている。マグナスは振り返り、あの魅力的な笑みを浮かべた。
「知的好奇心だよ、ベアトリクス。黒薬が禁忌とされるのは、危険だからではなく、権力者が独占したいからだ。全ての薬師が黒薬を理解すれば、不正な使用を見抜けるようになる。知ることは力だ。そして力を一部の者が独占することこそが、真の禁忌ではないか」
論理は美しかった。若い頃のベアトリクスは、その論理に半ば説得されかけた。マグナスの言葉には常にそうした力があった。不正を正義に、違反を革新に読み替える弁舌。彼が語ると、禁忌の一線がまるで恣意的な線引きであるかのように思えた。
しかしベアトリクスは首を振った。
「知ることと、手を染めることは違う。あなたが調合しているのは知識ではなく、薬そのものよ」
マグナスはそれ以上言い募らなかった。穏やかに笑って実験器具を片付け、その夜のことは二人の間で語られることがなくなった。
だがそれが始まりだった。
学舎を卒業した後、マグナスはアウレウス家の嫡男として政治の世界に足を踏み入れた。薬師の資格を持ちながら、実際に調合台に立つことは少なくなった。代わりに彼が調合したのは、宮廷の人間関係だった。交渉、取引、同盟、裏切り——政治という名の灰薬を、マグナスは巧みに操った。
ベアトリクスは薬師の道を歩み続けた。正薬師、上級薬師、そして大薬師の位に昇る頃には、マグナスとの接点は宮廷の公式な場に限られるようになっていた。年に数度の薬学会議で顔を合わせ、形式的な挨拶を交わす程度の関係。
だがベアトリクスには見えていた。マグナスの目が変わっていくのが。
学舎時代の理想主義は、年を経るごとに硬質な野心に変わった。「全ての薬師が黒薬を理解すべきだ」という理念は、いつしか「黒薬を理解する自分こそが権力を握るべきだ」という確信にすり替わっていた。変化は緩やかで、当人すら気づいていなかったかもしれない。だが隣で学んだ者の目には、その変質は痛いほど明らかだった。
決定的な転機は、王妃エレオノーラとの関係だった。
マグナスが王妃を愛していたことを、ベアトリクスは知っていた。婚約者を王に奪われた男の苦しみも、想像はできた。しかしマグナスは苦しみを乗り越えることも、手放すことも選ばなかった。代わりに苦しみを飼い慣らし、野心の燃料にした。愛が歪んで執着になり、執着がさらに歪んで支配欲になる過程を、ベアトリクスは遠くから見ていた。
止められなかった。
いや——止めようとしなかった。
それがベアトリクスの罪だった。
薬師の中立。その大義名分の下に、ベアトリクスは行動を起こさなかった。マグナスの変質に気づきながら、同門の誼で口をつぐんだ。宮廷の暗部に薬師が介入すべきではないと自分に言い聞かせた。薬師ギルドの独立性を守ることが最優先だと信じ込もうとした。
その結果が、エレオノーラ王妃の死だった。
ベアトリクスは王妃の死の真相を「知っていた」わけではない。正確には——疑っていた。王妃が倒れた日の前後、アウレウス家の薬庫から記憶操作薬の素材が持ち出された痕跡を察知していた。マグナスの調合技術と動機を考え合わせれば、推測は容易だった。だが推測は証拠ではない。ベアトリクスは証拠を探すこともしなかった。探せば見つかるかもしれない。見つかれば行動しなければならない。行動すれば、薬師の中立は崩れる。
沈黙を選んだ。
王妃が毒殺された可能性を知りながら、黙った。
ヴィリディス家の当主ルシウスに濡れ衣が着せられた時も、黙った。ルシウスは無実だとベアトリクスは信じていた。信じていたが、声を上げなかった。審問院が偽りの証拠を振りかざし、処刑が決まり、ルシウスが連行されていく姿を、ベアトリクスは宮廷の廊下から見送った。
声を上げていれば。
あの時、薬師の中立を捨てて、知っていることを——疑っていることを審問院に告げていれば、ルシウスは助かったかもしれない。ヴィリディス家は取り潰されずに済んだかもしれない。幼いクロエの記憶が奪われることもなかったかもしれない。
全ては「かもしれない」に過ぎない。だがその「かもしれない」が、十五年の歳月を経てもベアトリクスの胸を蝕み続けていた。
クロエが宮廷に配属された日のことを、ベアトリクスは鮮明に覚えている。
薬師ギルドから推薦されてきた見習い薬師。孤児出身。名はクロエ・グリザイユ。履歴書に添えられた写真を見た瞬間、ベアトリクスの手が震えた。
ルシウスの目。エリーゼの——ヴィリディス家の先代夫人の面影を宿す顔立ち。亜麻色の髪。灰色の瞳。
この子は生きていた。
記憶を奪われ、名前を変えられて、それでも生きていた。
ベアトリクスは即座にクロエを自分の直弟子に指名した。宮廷首席薬師が見習いを直接指導するのは異例のことだったが、誰もベアトリクスの決定に異を唱えなかった。彼女の地位がそれを許した。
以来五年間、ベアトリクスはクロエを育ててきた。厳格に、妥協なく、しかし密かに守りながら。クロエの記憶に既視感が生じていることにも、とうの昔に気づいていた。灰薬の調合実習で、見習いの技量を超えた手捌きを見せる瞬間。あれはクロエ・ヴィリディスとして幼い頃に身につけた技術だ。記憶操作薬は脳の記憶を消すが、筋肉に刻まれた動作の記憶までは消せない。ヴィリディス家の薬学の手法が、この子の手に残っている。
その事実は、ベアトリクスに二つの感情をもたらした。
安堵と、恐怖。
安堵は——この子の中にルシウスの血が確かに流れているという証だから。
恐怖は——その痕跡がいつかクロエ自身を真実に導き、そして真実がこの子を危険にさらすと分かっていたから。
今朝、その恐怖が現実になった。
クロエは自分の記憶がおかしいと気づいた。ヴィオラに会って既視感を覚えた。そして師匠に直接尋ねてきた。「先生は知っているんですね」。あの目で、あの声で。
ルシウスと同じ目だった。
真実から逃げない目。
ベアトリクスは窓の外の灰色の庭園を見つめながら、自分に問いかけた。
お前はまた沈黙するのか。
十五年前、マグナスを止められなかった。ルシウスを救えなかった。クロエの記憶が奪われるのを防げなかった。全ては薬師の中立という殻に閉じこもっていたからだ。
そして今また、同じ選択を繰り返している。クロエに真実を直接告げることを拒み、「自分で見つけなさい」と突き放した。それは教育者としての信念なのか。それとも、再び中立の殻に逃げ込んでいるだけなのか。
ベアトリクスは両手を見下ろした。五十五年間、薬を調合し続けてきた手。皺が深く刻まれ、関節が太くなり、かつての器用さは失われつつある。だが薬師の手だ。嘘をつかない手だ。
嘘をつかない手で、五年間嘘をついてきた。
いや——嘘をついたのではない。沈黙を守っただけだ。だが沈黙もまた、嘘の一形態ではないのか。知っていることを黙っていることは、知らないふりをすることと何が違う。
ベアトリクスは目を閉じた。
クロエの最後の言葉が蘇った。「私は自分で見つけます。だから——見つけた時に、先生に聞かせてください」。
あの言葉を聞いた時、ベアトリクスの胸を貫いたのは、痛みと——誇りだった。この子は自分とは違う。中立の殻に閉じこもって真実から目を背ける人間とは違う。真実を前にしても逃げない。正面から向き合おうとする。
「この子は私の過ちを繰り返してはならない」
その思いが、ベアトリクスの中で確かな形を取った。
薬師として、答えを直接与えることはできない。それは教育者としての信念であり、同時にクロエの成長のために必要な試練だと信じている。自ら掴んだ真実でなければ、それはクロエの力にならない。他者から処方された薬を飲むのではなく、自分で調合した薬を自分で服用する——それが薬師の道だ。
だがもし、クロエが自力で真実に辿り着いた時には。
ベアトリクスは今度こそ沈黙を破るだろう。十五年間の後悔を清算するために。ルシウスの娘が真実を掴んだその時に、この老いた薬師が知る全てを伝えるために。
それまでは——見守ることしかできない。
見守ることが、今の自分にできる唯一の薬だ。
蒸留器の液滴が落ちた。受け瓶の中の蒸留水が、わずかに水位を上げた。一滴、また一滴。透明な水が、ゆっくりと、しかし確実に溜まっていく。
ベアトリクスは椅子から立ち上がり、作業台に戻った。蒸留器の火を元の強さに戻し、調合の手順を再開する。日常の手仕事が、揺らぐ心を繋ぎ止める錨になる。
窓の外で、灰色の庭園の枝が風に揺れた。冬の終わりの風だ。春を運んでくるには、まだ冷たい。

師匠の個室を出たクロエの足取りは、行きよりも速かった。
怒りと焦燥と、そして確信が足を動かしていた。ベアトリクスは真実を知っている。沈黙でそれを認めた。だが師匠は自ら答えを与えない。「自分で見つけなさい」というのが師匠の答えだ。
ならば、自分で見つけるまでだ。
調合室を通り抜け、薬師棟の廊下に出た。冬の終わりの朝日が回廊の窓から差し込み、石の床に四角い光を投げかけている。クロエはその光の中を歩きながら、思考を整理した。
自分の記憶がおかしいことは、もはや疑いではなく確信だ。既視感、手が覚えている調合手順、ヴィオラへの懐かしさ。全てが記憶操作の痕跡を示唆している。問題は、それをどう確認するかだ。
記憶操作薬メモリアで改竄された記憶は、通常は元に戻せない。設計書にはそう記されている。だが——「真実の薬ヴェリタスとの組み合わせで断片的に回復する可能性がある」。禁書庫で読んだメモリアの処方箋の注記に、そのような記述があった。
真実の薬ヴェリタス。
服用者に嘘をつけなくする薬。裁判で使用されることもあるが、政治的に忌避されている。しかしクロエが必要としているのは、他者に嘘をつけなくする効果ではない。自分自身に嘘をつけなくする効果だ。
記憶操作薬は、脳に「偽の真実」を植え付けることで機能する。消された記憶の代わりに、別の記憶——孤児としての経歴、薬師ギルドでの幼少期——を上書きする。つまり、クロエの脳の中には二つの記憶が共存している。本物の記憶と、植え付けられた偽の記憶。日常的には偽の記憶が優先されるが、本物の記憶は完全には消されておらず、身体の反応や既視感として表層に浮かび上がってくる。
真実の薬を自分自身に投与すれば——脳が「偽の記憶」を維持できなくなる可能性がある。嘘をつけなくなるということは、自分自身にも嘘がつけなくなるということだ。偽の記憶が偽であることを、脳が認識せざるを得なくなる。その時、本物の記憶が——。
理論上は、そうだ。
だが理論と実践は違う。記憶操作薬との相互作用は未知の領域であり、成功するかどうかの保証はない。最悪の場合、脳が二つの記憶の矛盾に耐えきれず、深刻な精神的損傷を受ける可能性もある。
覚悟の問題だった。
師匠が言った通り、真実は薬と同じだ。服用する覚悟がなければ、毒になる。
覚悟なら、ある。
クロエは立ち止まり、目を閉じた。胸の中の恐怖を正面から見据えた。怖い。真実を知ることが怖い。自分が誰なのかを知ることが怖い。もし本当にヴィリディス家の令嬢だったとしたら——これまでの自分は何だったのか。クロエ・グリザイユという名前は、五年間の記憶は、薬師見習いとしての日々は、全て偽りの上に築かれた砂の城だったのか。
怖い。
でも、このまま灰色の靄の中で生き続けることの方が、もっと怖い。
目を開けた。
真実の薬を、調合する。自分自身に投与して、記憶の真偽を確かめる。
問題は、真実の薬の調合難度だった。
ヴェリタスは灰薬の中でも最上級に位置する高位薬であり、通常は上級薬師以上の技量がなければ調合できない。見習い薬師のクロエには、本来不可能な領域だ。素材の選別、配分の精密さ、調合中の意志の制御——全てにおいて見習いの水準を大きく超えている。
しかし。
クロエの手には、「覚えているはずのない」技術がある。
ヴィリディス家で幼い頃に仕込まれた調合技術。記憶操作薬で脳の記憶は消されたが、筋肉の記憶は残っている。見習いの処方を超えた手捌きが時折現れるのは、消される前の技量が体に残っているからだ。
その技量を、意図的に引き出す。
考えるのではなく、手に委ねる。頭が忘れていることを、手が覚えている。禁書庫の夜に感じた、あの感覚。処方箋を見た瞬間に手が調合の動作を描こうとした、あの衝動。それを意識的に再現すればいい。
問題は素材だった。
真実の薬ヴェリタスの処方箋は禁書庫にある。クロエはあの夜にメモリアの処方箋を確認したが、ヴェリタスの処方箋までは目を通していなかった。だが——。
クロエは薬嚢の内ポケットに手を入れ、王妃の離宮で見つけた処方箋を取り出した。月光草の根、忘却の苔、境界のサンザシ——メモリアの変種とも、別の薬とも判断がつかなかった処方箋。
だが今、改めて読み返すと、新しい可能性が見えてきた。
この処方箋は、メモリアへの対抗薬なのではないか。記憶操作を解除するための——あるいは記憶操作の影響下にある人間に真実を取り戻させるための薬。メモリアと同じ素材を使いながら、配分と手順を変えることで逆の効果を得る。毒と薬は紙一重。この世界の格言が、今、別の意味を持って聞こえた。
王妃の小箱にこの処方箋が入っていた理由。「Cの子に真実を」という走り書き。王妃エレオノーラは薬草に詳しかった。大薬師にも劣らないとベアトリクスが評したほどの才能。もし王妃がクロエの記憶操作を知り、その対抗薬を研究していたのだとしたら——。
推測が推測を呼ぶ。だが今は推測でも構わない。確かめる方法があるのだから。
クロエは処方箋を仕舞い直し、必要な素材を頭の中で列挙した。
月光草の根。調合室の棚にある。日常的に使う白薬の素材だ。
忘却の苔の乾燥粉末。これは見習いが自由に使える素材ではない。灰薬の棚にあるが、使用には上級薬師の許可が要る。
境界のサンザシの実。フェリクスの温室にあった。枯れかけてはいたが、実をつけている株があったはずだ。
灰の花粉。灰の庭園でしか採取できない希少素材。庭園への立ち入りは制限されているが、先日ヴィオラと共に歩いた時に灰の星花の群生を確認している。
難しいが、不可能ではない。一つずつ集めていけばいい。
クロエが廊下の窓辺で素材の入手計画を練っていると、背後から足音が近づいた。軽やかで、しかし存在感のある足音。蒼い外套の裾が視界の端に映った。
「おはよう、クロエ」
ノエル・カエルレウスだった。朝の光の中でも変わらない完璧な身なり。栗色の髪が整えられ、口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。しかしその目は笑っていなかった。クロエの表情を読み取ろうとする、観察者の目だ。
「おはようございます」
「朝から深刻そうな顔をしているね。何か考え事?」
クロエは一瞬だけ迷った。ノエルに全てを話すつもりはない。だがこの人物が情報を持っていることも事実だ。そして今、クロエには時間がなかった。素材の一部は、ノエルの人脈を使えば入手しやすくなるかもしれない。
しかし——。
ノエルが差し出す手を取れば、代わりに何かを握らされる。それがカエルレウス家にとって有利な何かであることは間違いない。
「少し、調べたいことがあるんです」
曖昧に答えた。ノエルは片眉を上げた。
「僕で良ければ手伝おうか。以前の約束通り、協力はするよ」
その申し出は予想の範囲内だった。ノエルはクロエの動向を把握したがっている。協力という名目で近くにいれば、クロエが何を調べ、何を見つけたかを逐一知ることができる。
だが今回は——事情が違った。
「ありがとうございます。でもこれは、自分でやらなければならないことです」
ノエルの目がわずかに細くなった。笑みの形は変わらないが、その奥に困惑が浮かんだ。
「自分で? 何をするつもりなんだい」
「それも含めて、自分で決めることです」
クロエの声は穏やかだったが、断固としていた。師匠から学んだ一つのことが、今の自分を支えている。自分で調合した薬でなければ、自分の薬にはならない。この真実は、誰かに手伝ってもらって見つけるものではない。
ノエルはしばらくクロエの顔を見つめていた。計算しているのか、それとも別の何かを考えているのか。やがて彼は肩をすくめた。
「分かった。でも一つだけ言わせてくれ」
「何ですか」
「危険なことをしようとしているなら——」ノエルの声から、一瞬だけ社交的な軽さが消えた。「一人で抱え込まないでほしい。僕が信用できないのは分かっている。でも、君に何かあったら……」
言葉を途中で切り、ノエルは視線を窓の外に逸らした。そこに浮かんだ表情を、クロエは見たことがなかった。計算でも演技でもない、むき出しの——何か。
「……困るんだ。僕が」
その一言は、ノエルが宮廷で纏っているどの言葉よりも不器用だった。
クロエは少し驚いた。だが深く追求はしなかった。今はそれどころではない。
「ありがとう、ノエル。大丈夫です。私は薬師ですから。自分の調合する薬の危険性は、自分が一番よく分かっています」
ノエルは何か言いたげに口を開きかけ、結局飲み込んだ。代わりに小さく笑った。いつもの社交的な笑みとは違う、どこか不本意なものを受け入れた時のような笑み。
「分かったよ。でも本当に何かあったら、声をかけてくれ」
ノエルは蒼い外套を翻して廊下の先に去っていった。その後ろ姿が角を曲がるまで、クロエは見送った。
一人になると、クロエは再び計画に意識を集中させた。
素材を集める。調合する。自分自身に投与する。
全てを一人で。
午後、クロエは調合室の白薬の棚から月光草の根を規定量だけ取り出し、自分の薬嚢に仕舞った。見習いが自主練習のために白薬の素材を持ち出すことは珍しくなく、怪しまれることはない。
次に、フェリクスの温室を訪れた。約束の薬草の手入れという名目で。境界のサンザシの株は、クロエが前回植え替えた鉢の中で少しずつ持ち直していた。葉先に緑が戻り、枝の先端に小さな実が数粒ついている。
「調子が良さそうですね」
「君のおかげだよ」フェリクスは嬉しそうに笑った。
クロエは丁寧に実を観察し、そのうち七粒が十分に成熟していることを確かめた。フェリクスに断りを入れ、調合の実習に使いたいと告げると、少年は快く頷いた。
「母上の薬草が役に立つなら、喜ぶと思う」
その言葉の意味を、フェリクスは知らない。この実が何の調合に使われるのか。クロエは心の中で王子に詫びながら、境界のサンザシの実を薬嚢に収めた。
残る素材は二つ。忘却の苔と灰の花粉。
忘却の苔は、翌日の灰薬の実習の際に確保する算段を立てた。実習で使用する素材の中に忘却の苔が含まれることがある。その際にわずかな余剰を手元に残せばいい。
灰の花粉だけが、最も入手困難だった。灰の庭園への立ち入りは制限されており、薬草の採取には特別な許可が要る。しかしクロエには一つだけ手がある。ヴィオラとの散歩の際に、灰の星花の群生地を確認している。もう一度あの庭園に行く口実さえ見つかれば——。
考え込むクロエの目の前を、灰の庭園の方角から吹いてきた風が通り過ぎた。冬の終わりの、まだ冷たい風。だがその風の中に、微かに——甘い香りが混じっていた。灰の花粉の、魔素を含んだ甘い匂い。
クロエはその匂いを肺の奥まで吸い込んだ。
覚悟はあるか。
師匠の問いが蘇った。
ある。
今度は迷わなかった。怖いことは怖い。だがこの五年間、灰色の靄の中で生きてきた。夢を見るたびにこめかみが痛み、調合のたびに既視感に襲われ、自分が誰なのか分からないまま、誰かに与えられた名前と経歴を纏って暮らしてきた。それはもう、耐えられない。
真実がどんなに苦くても。目覚めた後に二度と眠りに戻れなくても。
自分の薬は、自分で調合する。
クロエは薬嚢の紐を締め直し、温室を後にした。フェリクスに手を振り、回廊を歩き出す。午後の光が石の廊下に長い影を落としていた。
調合に必要な全ての素材が揃うまで、あと少し。
そして素材が揃えば——真実の薬の調合に取りかかる。
覚醒の苦薬。意を決して一息に飲み干す。
クロエの歩みに迷いはなかった。