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第2章

従者と巫女

 旅立ちの朝は、穏やかな凪だった。

 カンデラ島の港に朝霧が漂い、係留された灯船の帆柱が白い靄のなかにぼんやりと立っている。東の空がうっすらと茜に染まり始めていたけれど、太陽はまだ海の向こうに隠れたままだ。潮の匂い。木の軋む音。波が桟橋の杭を洗う、規則正しいささやき。

 こんなに静かな朝なのに、私の胸はどくどくと騒がしかった。

 今日、旅に出る。

 願いの灯台を目指して、この島を離れる。

 背中の荷物は軽い。祖母が用意してくれた旅支度――替えの衣と灯守りの道具一式、保存食を少しと、水筒。それから、母さんの形見の灯火石ランタン。手のひらに収まるほど小さな硝子の器に、薄い琥珀色の灯火石が収まっている。母さんが最後にこの島を出た日も、同じランタンを持っていたのだと祖母は言っていた。

 私はそれを胸元にしまい込んで、港への坂道を下りていった。

 祖母の言葉が、耳の奥で繰り返される。

 ――犠牲を払わない方法を探しなさい。

 正直、まだその意味がよくわからない。灯台に辿り着けば、願いの代償として「最も大切なもの」を捧げなければならない。それは代々の巫女が語り継いできた伝承で、疑いようのない事実のはずだ。犠牲を払わないで、どうやって島を救うんだろう。

 でも、祖母がああ言ったのには理由があるはず。

 だから、とりあえず行ってみよう。行かなきゃ何もわからない。

 考え込んでいた私は、坂道を下りきったところで足を止めた。

 港の桟橋に、何かが横たわっている。

 朝霧の中で、最初はそれが何なのかわからなかった。荷物かと思った。誰かが降ろし忘れた荷袋か、あるいは波が打ち上げた流木か。でも近づくにつれて、それが人の形をしていることに気づいた。

暗殺者との邂逅

 人だ。

 倒れている。

 私は走った。荷物が背中で跳ね、ランタンが胸元で揺れた。桟橋の板を踏み鳴らして駆け寄ると、霧の中から現れたのは一人の少年だった。

 黒い髪。細い体。私より少し年上に見えるけれど、ひどく痩せている。着ているのは黒ずくめの衣で、ところどころ裂けて血が滲んでいた。右腕の袖は肩口から引き千切られ、その下の肌に幾筋もの切り傷が走っている。左の脇腹あたりも赤く湿っていて、見ているだけで痛そうだった。

 でも、何より私の目を引いたのは――灯火だ。

 巫女の血筋に生まれた私には、人の灯火がうっすらと見える。胸の奥で揺れる、生命の炎。誰もが持っている、その人だけの光。

 この少年の灯火が、消えかけていた。

 普通なら手のひらほどの大きさで燃えているはずの灯火が、蝋燭の最後の一滴みたいに、ちりちりと細く、弱く、今にも闇に呑まれそうに瞬いている。色も暗い。健やかな灯火は温かな橙色をしているものだけれど、この子の灯火は深い紫――ほとんど黒に近い色だ。

 まるで、何度も何度も灯火を歪な形で使い潰してきたみたいな。

「大丈夫!?」

 私は膝をついて少年の傍にしゃがみ込み、肩に触れた。冷たい。体温がひどく低い。呼吸はあるけれど、浅くて速い。

 このままじゃ、灯火が消える。灯火が消えたら――死ぬ。

 迷っている暇はなかった。

 私は両手を少年の胸の上にかざし、灯守りの祈りを唱え始めた。祖母から教わった癒しの魔法。自分の灯火を穏やかに燃やして、その温かさで相手の灯火を包み込む。弱った炎に酸素を送るように、灯火の力を少しずつ分け与えていく。

 ――灯渡し。

 本当なら安易にやっていい魔法じゃない。灯火を分け与えるということは、自分の命を削るということだ。「灯を分かつ者は命を分かつ」。祖母はそう教えてくれた。

 でも、目の前で灯火が消えようとしている人を見過ごすなんてできない。

 私の灯火が両手から淡い光となって溢れ、少年の胸元にゆっくりと沁み込んでいく。自分の灯火が少し小さくなるのがわかる。でも大丈夫。私は巫女の血筋だから、灯火は人より大きい。少し分けたくらいで、どうにかなったりしない。

 温かさが伝わっていくのを感じた。少年の灯火が、ほんの少しだけ明るくなる。紫の炎に、かすかに赤みが差す。呼吸が深くなる。体の冷たさが、わずかに和らぐ。

 どれくらいそうしていただろう。一分か、五分か。朝霧が少しずつ薄くなり、東の空から朝日の最初の光が射し込んできた頃――。

 少年の瞼がぴくりと動いた。

 そして、ゆっくりと目が開いた。

 赤い瞳だった。

 血のような赤ではなくて、燃え残りの炭火のような、深く沈んだ赤。その目が、最初にぼんやりと私の顔を捉え――次の瞬間、鋭い光を帯びた。

 少年の右手が動いた。

 驚くほどの速さで私の手首を掴む。痩せ細った体のどこにそんな力があるのかと思うほど、硬く、強い握り。骨張った指が手首に食い込む。

「――なぜ助けた」

 低い声だった。かすれて、ほとんど息だけみたいな。でもはっきりと聞き取れた。無表情。赤い目に、感情の色がない。

 私は痛みよりも驚きの方が大きくて、数秒ぽかんとした。

 それから、少し笑った。

「倒れてたら助けるでしょ、普通」

 少年の目が、わずかに見開かれた。ほんの一瞬だけ。すぐに元の無表情に戻ったけれど、私の手首を掴む力がほんの少し緩んだ。

 少年は天を仰いだ。朝焼けの空を、赤い目で見つめた。

「……ここは」

「カンデラ島の港だよ。あなた、海から流れ着いたの? ひどい怪我。灯火もほとんど消えかけてた」

 少年は答えなかった。しばらく無言のまま空を見つめていたけれど、やがてゆっくりと上体を起こした。傷が痛むのか、一瞬だけ顔を歪める――いや、顔を歪めかけて、すぐに表情を消した。痛みに対して表情を出すことを、意識的に抑えたように見えた。

「手当てしたほうがいいよ。灯守りで傷も――」

「必要ない」

 突き放すような声。少年は桟橋の上に座り込んだまま、自分の傷だらけの腕を見下ろした。

 そして、言った。

「お前を殺す任務で来た」

 朝の空気が、一瞬止まった気がした。

「フェロス島の影灯機関から。カンデラ島の巫女の灯火を――奪えと」

 影灯機関。

 その名前は知っている。フェロス島が擁する暗殺者の組織。灯喰いの技――他者の灯火を強制的に奪い取る禁忌の魔法を使う者たちの集まり。この少年の灯火がああも暗い色をしていたのは、灯喰いを繰り返してきたからだ。

 驚いた。正直に言えば、心臓がひとつ大きく跳ねた。

 でも――不思議と、怖くはなかった。

 この子の灯火を見たから。消えかけて、黒ずんで、それでも必死に瞬いていた、あの弱い光。あれが殺意に満ちた人間の灯火であるはずがない。

 少年は私を見なかった。視線を桟橋の板に落としたまま、淡々と続けた。

「巫女の血筋は灯火が強い。灯台に辿り着ける可能性がある。フェロスはそれを許さない。だから、灯火を奪って殺せと」

「……うん」

「だが――」

 少年の声が、ほんのわずかに詰まった。

「殺せなかった」

 沈黙。

 波が桟橋を洗う音だけが、しばらく続いた。

「お前の灯火を見た時――」

 少年の赤い目が、初めてまっすぐに私を見た。

「眩しすぎた」

 それだけ言って、少年は再び視線を逸らした。

 私は、この子の横に座った。桟橋の端に並んで腰を下ろして、足をぶらぶらさせた。海面がすぐ下にあって、朝日を反射してきらきらしている。

「ねえ」

「……」

「でも殺さなかったんでしょ?」

 少年が、ちらりとこちらを見た。

「任務に失敗して、逃げてきたってこと? 影灯機関を裏切って」

「…………ああ」

「それで追われて、こんなボロボロになって、海に落ちて、ここまで流れ着いた?」

 少年は答えなかった。でも、沈黙が肯定だった。

 私は朝日を見つめた。海の向こうから昇ってくる光が、霧を溶かして、港全体を暖かな金色に染め始めていた。

「大変だったね」

 少年が、かすかに眉をひそめた。何を言われたのか理解できない、というような顔だった。

「名前、聞いてもいい?」

「……イグニス」

「イグニス。私はルナ。ルナ・カンデラ」

「……知っている。標的の情報は」

「あはは、そっか。変なの」

 私は立ち上がった。スカートの砂を払って、イグニスに手を差し出した。

「立てる? とりあえず、うちに来なよ。ちゃんと手当てしないと」

 イグニスは差し出された手を見つめた。まるでそれが何なのかわからないみたいに。

 数秒の沈黙の後、彼は私の手を取らず、自力で立ち上がった。ふらついて、桟橋の杭に手をついた。

 まあ、いいけどね。


 祖母の家に連れて帰ると、祖母は一瞬目を丸くしたけれど、すぐに「この子をそこに寝かせなさい」と縁側の寝台を指差した。祖母は私より遥かに腕のいい灯守りだ。イグニスの傷を診て、薬草を煎じ、灯守りの魔法で丁寧に灯火を温めた。

 イグニスは治療の間、一言も発しなかった。痛みに耐える表情すら見せない。祖母が何を訊いても、黙ったまま天井を見つめているだけだ。

 でも、祖母が離れた隙に、私がこっそり彼に事情を話した。

 この子がフェロスの暗殺者で、私を殺しに来たこと。でも殺せなくて、逃げてきたこと。

 祖母は――私が思ったより、静かだった。

「そう」

 それだけ言って、煎じ薬を冷ましている手を止めなかった。

「驚かないの、おばあちゃん?」

「驚いているよ。でもね、ルナ。あなたが連れてきたんでしょう? この子を」

「うん」

「なら、あなたの目を信じるよ」

 祖母は穏やかに微笑んだ。皺の深い顔に、柔らかい灯火の光が映っている。

「この子は母親に似ているからね。人を見る目がある」

 母さんに似ている、と言われると、嬉しいような切ないような、よくわからない気持ちになる。

 イグニスは壁際で身を起こし、私たちの会話を黙って聞いていた。赤い目がこちらを見ている。何を考えているのかは、まるで読めなかった。

 そして――私は、ずっと考えていたことを口にした。

「ねえ、イグニス」

「……」

「あなたさ、もう影灯機関には戻れないんでしょ?」

「…………ああ」

「逃げてきたら、追っ手が来るよね。一人でどうするつもりだったの?」

 イグニスは答えなかった。答えがないということは、何も考えていなかったということだ。あるいは、どうなってもいいと思っていたか。

 私は深呼吸をした。

「じゃあ、これからは私を守る任務にして」

 イグニスの赤い目が、わずかに見開かれた。

「従者として雇うから。私、今日から旅に出るの。願いの灯台を目指して。一人じゃ心細いし、護衛がいると助かるんだよね」

 長い沈黙。

「……正気か」

「正気だよ」

「俺はお前を殺す任務を受けた人間だ」

「でも殺さなかったでしょ? なら大丈夫」

「大丈夫の根拠がない」

「根拠は――」

 私はちょっと考えた。

「うーん、勘?」

 イグニスの表情が、ほんの一瞬だけ崩れた。崩れたというか――呆れたような、理解不能なものを見たような、そういう微かな揺らぎが赤い目の奥に浮かんで、すぐに消えた。

「巫女の勘は当たるんだよ、これでも」

「……狂っている」

「ひどいなあ」

 祖母がくすりと笑った。

「ルナ。本気なの?」

「本気だよ、おばあちゃん。この子、強いよ。灯火は暗いけど、芯はしっかりしてる。暗殺者の訓練を受けてるなら戦えるでしょうし、旅の護衛にぴったりじゃない?」

「この子が途中であなたを裏切る可能性は考えないの?」

「裏切らないよ」

 なぜかはわからない。でも、確信があった。この子の灯火を手のひらで感じた時、わかったのだ。消えかけた灯火が、それでも必死に燃えようとしていたこと。この子はまだ生きたいと思っている。たぶん自分では気づいていないけれど。

 祖母は長い間イグニスを見つめていた。それから、静かに頷いた。

「ルナの判断に任せるよ。でもイグニス、だったかしら。一つだけ約束して。この子を――無事に帰しておくれ」

 イグニスは祖母の目を見た。それから、ゆっくりと頷いた。

 それが、彼の最初の「承諾」だった。

従者の誓い

 出発の準備は、午前中いっぱいかかった。

 祖母が手配してくれていた灯船は小さいけれど頑丈な二人乗りで、帆が一枚と、灯火で動く推進装置がついている。操舵は基本的に風と灯火の併用で、一人でも動かせるけれど、二人いれば交代で休めるから助かる。

 私は台所に立って、旅の食料を仕込んでいた。

 干し魚の燻製。保存用の堅焼き饅頭。塩漬けの野菜。それから――携行食として、塩飯おむすびを握る。カンデラ島の塩と、島で獲れる海苔に似た海藻を巻いた、シンプルだけど腹持ちのいい携行食。母さんがよく作ってくれたやつだ。

 中の具は三種類。干し魚をほぐしたもの。梅干しに似た酸果の実。塩昆布のような海藻の佃煮。一つ一つ丁寧に握って、大きな葉っぱでくるんでいく。

 台所の窓から、港が見える。イグニスが一人で船に荷物を運び込んでいた。

 あの傷だらけの体で、重い水樽をひょいと担ぎ上げている。灯火はまだ弱いはずなのに、身体能力が尋常じゃない。暗殺者の訓練で鍛え上げられた体なのだろう。荷物を船倉に降ろし、帆綱を確認し、甲板の板の具合を調べている。黙々と。指示されてもいないのに。

 ……真面目な子だ。

 私はおむすびを竹の皮に包んで、籠に入れた。水筒には島の井戸水を詰めて、さらに祖母が淹れてくれた薬草茶も別の水筒に入れた。旅の最初の食事くらい、ちゃんとしたものを食べさせてあげたい。

 と――ふと気づいた。イグニス、朝から何も食べていない。

 私は籠を抱えて港に走った。

 イグニスは帆柱の下でロープを結び直しているところだった。近づく私の足音に反応して、すっと振り向く。素早い。まるで襲撃に備えるみたいな反応速度だ。

「はい、これ」

 私はおむすびを一つ、彼の目の前に差し出した。

 イグニスは手を止めて、それを見つめた。

「……何だこれ」

「ごはんだよ。食べないの?」

「……」

 イグニスはおむすびを凝視していた。海藻の葉で巻かれた三角形の塩飯を、まるで見たことのないもののように見つめている。

「毒じゃないよ? 手で持って食べるの。ほら、こう」

 私は自分の分のおむすびを取り出して、ぱくりとかぶりついてみせた。塩加減がちょうどいい。海藻の磯の香りと、中の干し魚のほぐし身の旨味が口に広がる。うん、おいしい。

 イグニスはしばらく動かなかった。それから、ぎこちない手つきでおむすびを受け取り、一口――かじった。

 表情は変わらない。

 眉一つ動かない。

 でも、二口目をかじるまでの間が、一口目より短かった。

 ゆっくりと、でも確実に、噛んでいる。飲み込む。また一口。

 表情は相変わらず無だ。でも、噛むスピードが少しだけ――ゆっくりになった気がした。味わうように。いや、味わっているのかどうかもわからない。ただ、投げ捨てもせず、吐き出しもせず、最後の一欠片まで食べた。

 私はそれを見ていて、胸の奥がきゅっと痛んだ。

(この子、ちゃんとご飯食べたことあるのかな)

 影灯機関。暗殺者の養成施設。感情を持つことを禁じられ、灯喰いの技を叩き込まれる場所。そんなところで、温かい食事なんて出たのだろうか。誰かと一緒に食卓を囲んだことがあるのだろうか。

「……もう一つ食べる?」

 イグニスはかぶりを振った。

「いらない」

「遠慮しなくていいのに」

「いらない」

「はいはい。じゃあ残りは船に積んでおくね。お腹空いたらいつでも言って」

 イグニスは答えず、またロープを結び直す作業に戻った。

 でも――見間違いでなければ、指を動かす前に一瞬だけ、自分の手のひらを見ていた。おむすびを持っていた手を。


 午後、日が高くなった頃に、全ての準備が整った。

 港に祖母が立っている。杖をついて、少し腰を曲げて。でも目は真っすぐ前を向いていて、灯火は穏やかに明るい。

「ルナ」

「うん」

「無茶をしなさいとは言わないよ。でも、あなたが決めたことだから」

「うん。行ってくるね、おばあちゃん」

 抱きしめた。祖母の体は小さかった。昔はもっと大きく感じたのに、今は私の方が背が高い。祖母の白髪から、薬草と潮の混じった匂いがする。この匂いを、旅の間ずっと覚えていよう。

「灯火を灯し続けなさい。どんな暗闇の中でも」

「わかってる」

「それから――」

 祖母はイグニスに目を向けた。イグニスは船の舳先に立って、こちらを見ていなかった。海の方を向いたまま、じっと動かない。

「あの子のことも、頼むよ」

「もちろん」

 最後にもう一度、祖母を抱きしめた。泣きそうになったけど、我慢した。泣いたら出発できなくなりそうだったから。

 桟橋を歩いて、船に乗り込む。帆綱を解き、灯火の推進装置に手を当てて、自分の灯火を流し込む。船底で推進装置が低く唸り、灯船がゆっくりと岸を離れ始めた。

 帆が風を孕んで膨らむ。

 カンデラ島が、少しずつ遠ざかっていく。

 港に祖母が立っている。小さくなっていく。手を振っている。

 私も手を振り返した。何度も、何度も。島影が霞んで、祖母の姿が見えなくなるまで。

「……行ってきます」

 最後に一度だけ、小さくつぶやいた。

 振り返ると、イグニスが舳先に腰を下ろして、静かに海を見ていた。黒い髪が潮風に揺れている。

 新しい旅が始まった。

 私と、元暗殺者の少年の、二人きりの旅が。


 海は広い。当たり前のことだけれど、島の中にいるとつい忘れてしまう。

 カンデラ島を出て半日が過ぎた。四方を海に囲まれて、もうどの方角にも島影は見えない。空と海しかない世界。水平線がぐるりと一周している光景は、解放感と不安が入り混じる不思議なものだった。

 風は穏やかで、灯船は快調に進んでいる。帆に風を受けて、時折灯火の推進装置を補助的に使えば、一日で相当な距離を稼げるはずだ。最初の目的地はルーチェ島。ソレイユという灯台研究者がいるらしい、学術の島。

「ねえ、イグニス」

「……」

「風、気持ちいいね」

「……」

「……あのさ、返事してくれると嬉しいんだけど」

「ああ」

 これが返事なのだろう。多分。

 イグニスは舳先に座ったまま、ほとんど動かなかった。海を見ているのか、何も見ていないのか。話しかけるとごく短い返事が返ってくることもあるけれど、大半は沈黙だった。

「お水飲む?」

「いらない」

「喉渇かない?」

「渇かない」

「嘘でしょ。この陽射しで半日も外にいて」

 水筒を押しつけると、少し間があって、一口だけ飲んだ。

 頑固だなあ、この子。

 私はなるべくたくさん話しかけた。旅の行程のこと、カンデラ島のこと、灯台の伝説のこと。反応がなくても気にしない。一人で喋っているみたいだけど、イグニスの耳にはちゃんと届いているはずだ。

 日が傾いて、空が茜色に染まる頃には、さすがの私も少し喋り疲れた。

 夕飯を作ろうと思ったけれど、初日は簡単に済ませることにした。朝握ったおむすびの残りと、干し魚を少し炙って、薬草茶を温めて。船の小さな竈に灯火で火を点ける。

 イグニスに渡すと、朝と同じように黙って食べた。今度は干し魚の方を先に食べて、おむすびは後から食べていた。

 好みがあるのかな、と思ったけれど、訊いても答えてくれなさそうなのでやめておいた。


 夜になった。

 海の上の夜は、本当に暗い。

 空には星があるけれど、月が細い三日月で、海面をほとんど照らさない。船の周囲は漆黒の闇で、波の音だけが絶え間なく響いている。

 私は甲板に出て、手のひらに灯火を灯した。小さな光の玉が掌の上に浮かんで、辺りを柔らかく照らす。橙色の光が波に反射して、きらきらと揺れた。

 海が暗い。

 こんなに暗い海を見たのは初めてだった。島にいれば、港に灯台の光があって、家々の窓から灯火が漏れて、夜でも真っ暗にはならない。でも海の上には何もない。自分の灯火だけが、この広大な闇の中の唯一の光。

 少し――心細い、かな。

 いや、心細いのは当然だ。十五年間、島の外に出たことがなかったんだから。

 ふと気配を感じて振り返ると、イグニスが船室から出てきていた。

「寝ないの?」

「……見張りをする」

「交代制にしよう。前半と後半で」

 イグニスは答えなかった。答えないということは、自分が一晩中見張るつもりなのだろう。

「ダメだよ、ちゃんと寝ないと。灯火が回復しないでしょ」

「俺の灯火は――」

 言いかけて、止めた。

「……わかった」

 意外と素直だ。いや、素直というより、反論する言葉を持ち合わせていないだけかもしれないけれど。

 二人で甲板に座って、私の灯した光の中にいた。小さな光の輪の中に、二人分の影。

「ねえイグニス、灯台のこと知ってる?」

「……願いの灯台。世界の果てにあるとされる」

「うん。辿り着いて願いを灯せば、何でも一つ叶うんだって」

「代償がある。最も大切なものを捧げなければならない」

「そうらしいね。でも私、おばあちゃんに言われたんだ。犠牲を払わない方法を探しなさいって」

「……巫女の血筋は灯火が強い」

 イグニスが低い声で言った。

「灯台に辿り着ける可能性がある。だからお前を――」

「私の灯火を奪うために来たんでしょ。知ってる。でもいいの」

 イグニスが黙った。

「いいの、って――」

「もう終わったことでしょ。イグニスは殺さなかった。影灯機関を裏切って逃げてきた。今は私の従者。それでいいじゃない」

「……お前は」

 イグニスが何か言いかけて、口を閉じた。

 沈黙が落ちた。

 でも、嫌な沈黙じゃなかった。

 敵意のない沈黙。二人の間に漂う空気がほんの少しだけ温度を持っていて、それは私の灯火の温かさなのか、それとも別の何かなのか、よくわからなかった。

 波の音が、規則正しく船底を打っている。

 星が、頭の上で瞬いている。

「……先に寝ろ」

 イグニスが言った。

「後半、交代する」

「うん。おやすみ、イグニス」

「……」

 返事はなかった。

 でも、私が船室に入る直前にちらりと振り返ったら、イグニスは海を見つめていて――その横顔が、朝の桟橋で見た時よりほんの少しだけ、穏やかに見えた。

 気のせいかもしれないけど。


side: イグニス


 ルナが船室に消えた後、イグニスは一人で甲板に残っていた。

 少女が灯した灯火の光は、まだ甲板の上に留まっている。消し忘れたのか、それとも意図的に残したのか。淡い橙色の光が夜の海風に揺れて、彼の周囲をぼんやりと照らしていた。

 イグニスは、その光を見つめた。

 温かい色だった。

 影灯機関で見てきた灯火とは、まるで違う。機関の灯火は常に冷たく、鋭く、刃物のように研ぎ澄まされていた。灯喰いの対象として奪い取ってきた灯火も、恐怖と苦痛に歪んだものばかりだった。

 ルナ・カンデラの灯火は――太陽みたいだった。

 初めてそれを見た時のことを、イグニスは正確に記憶している。

 カンデラ島に潜入し、標的の巫女を探して島の集落に近づいた夜。聖堂の窓から灯火の光が漏れていて、中で祈りを捧げている少女の姿があった。

 巫女見習い。ルナ・カンデラ。標的。

 灯喰いの射程に入った瞬間、イグニスは技を発動しようとした。灯火に手を伸ばし、掴み、奪い取る。何百回と繰り返してきた動作だ。

 だが、手が止まった。

 少女の灯火が、視界を焼いた。

 眩しかった。

 太陽を直視した時のように、目の奥が痛むほどの輝き。巫女の血筋が持つ灯火の強さ――それは情報として知っていたはずだった。しかし実際に目の当たりにしたそれは、知識の範疇を遥かに超えていた。

 あの光は、何だったのか。

 影灯機関での十年間、イグニスは感情を持つことを禁じられてきた。

 感情は弱さだ。弱さは死だ。暗殺者に必要なのは冷徹な判断と正確な技のみ。師であるヴォルクスは繰り返しそう教え込んだ。泣くな。笑うな。怒るな。恐れるな。何も感じるな。お前は道具だ。灯火を喰らう器だ。

 訓練は苛烈だった。感情の兆候を見せるたびに罰が与えられた。痛みに声を上げれば罰。仲間の脱落に動揺すれば罰。やがて、表情を動かすことすら忘れた。味覚が鈍くなった。痛みの閾値が上がった。灯喰いの技を使うたび、自分の灯火の色が暗く濁っていくのがわかったが、それすらも感じないふりをした。

 感情は消えた――と、思っていた。

 しかし、あの夜。

 ルナ・カンデラの灯火を見た瞬間、イグニスの中で何かが揺れた。

 それが何なのか、彼にはわからなかった。名前をつけることができなかった。感情を識別するための語彙を、彼は持っていなかった。ただ、胸の奥で消えかけていた自分の灯火が、あの光に反応してわずかに揺れたのだ。

 任務は失敗した。

 手が動かなかった。技が発動しなかった。機関を裏切ったことになる。追っ手が来る。海に飛び込んで逃げた。波に呑まれ、岩に打ちつけられ、灯火が限界まで消耗し――気がつけば、カンデラ島の桟橋に打ち上げられていた。

 そして、目を覚ました時。

 最初に見えたのは、あの灯火だった。

 橙色の、温かい、眩しい光。少女の手のひらから溢れて、自分の胸の中に流れ込んでくる。冷え切った灯火を温める、柔らかな熱。

 ――なぜ助けた。

 理解できなかった。

 標的が、自分を殺しに来た暗殺者を、なぜ助けるのか。合理的な説明がつかない。罠か。懐柔か。情報を引き出すためか。

「倒れてたら助けるでしょ、普通」。

 少女は笑った。

 まるで、天気の話をするみたいに。

 その後の展開は、イグニスの理解力の範疇を完全に超えていた。

 正体を明かした。殺す任務で来たと告げた。それは脅しでも警告でもなく、事実の報告だった。これで少女は逃げるか、島の人間を呼ぶか、自分を海に突き落とすだろう。それが合理的な反応だ。

「でも殺さなかったんでしょ?」

 少女は怖がらなかった。

「じゃあ、これからは私を守る任務にして。従者として雇うから」

 狂っている、と思った。

 ――いや。

 「狂っている」という言葉が浮かんだこと自体が、イグニスにとっては異常だった。それは判断だ。主観的な判断。感情を伴った、自分自身の考え。

 道具は判断しない。道具は命令に従うだけだ。

 なのに。

 あの食事。

 三角形の、海藻で巻かれた塩飯。少女が自分の目の前に差し出したもの。

「ごはんだよ。食べないの?」

 影灯機関での食事は、栄養補給だった。味のない固形食を、決められた量だけ、決められた時間に摂取する。食事を楽しむという概念そのものが、訓練の過程で消去されていた。

 あの塩飯を口に入れた時――味がわからなかった。

 長い間、味を感じることを忘れていた。塩味も、海藻の風味も、干し魚の旨味も、舌が捉えているはずなのに、脳がそれを「味」として処理できなかった。

 でも――温かかった。

 それだけはわかった。

 口の中に広がる温度。手のひらに残る、塩飯を握った誰かの体温。

 温かかった。

 ルナ・カンデラ。

 「殺す」はずだった少女が、自分に食事を差し出した。灯火を分け与えて命を繋ぎ、傷を癒し、名前を訊き、従者として旅に誘った。

 理解できない。

 理解できないということは、自分の中にある枠組みでは処理できないということだ。影灯機関で叩き込まれた世界の見方――全ては利害と力関係で決まる、感情は弱さであり不要なもの、人間は利用するか排除するかのどちらか――その枠組みに、ルナ・カンデラは収まらなかった。

 イグニスは甲板に残された灯火の光を見つめた。

 少女が灯した、温かい、橙色の光。

 胸の奥で、自分の灯火がかすかに揺れた。朝よりも少しだけ、明るくなっている気がした。灯渡しで分けてもらった灯火の残滓が、暗い紫の炎の中にぽつりと橙色の点を作っている。

 ――この主は、馬鹿だ。

 その言葉が、不意に浮かんだ。

 イグニスは目を見開いた。

 「馬鹿」。それは判断だ。感想だ。自分自身の中から湧き出た、主観的な、感情を伴った言葉。

 道具は感想を持たない。

 しかし、それは確かにイグニスの中から生まれた言葉だった。

 暗殺者を拾い上げ、灯火を分け与え、食事を差し出し、従者として雇い入れる。影灯機関の追っ手が来ることもわかっているはずなのに。自分がいつ裏切るかもわからないのに。

 馬鹿だ。

 救いようのない馬鹿だ。

 ――なのに。

 イグニスはゆっくりと、自分の手のひらを見下ろした。昼間、おむすびを持っていた手。少女の体温が移ったように温かかった、あの感覚。

 もう冷えている。当然だ。あれから何時間も経っている。

 なのに――手のひらの記憶だけが、消えなかった。

 風が吹いた。灯火の光が揺れた。

 イグニスは海を見た。暗い、果てのない海。この先に何があるのか、彼にはわからない。灯台があるのかどうかも。この旅が何をもたらすのかも。

 ただ一つだけ、確かなことがあった。

 あの馬鹿な主は――守らなければならない。

 それが理由なのか義務なのか感情なのか、イグニスにはまだ区別がつかなかった。ただ、そう決めた。決めたという事実だけが、暗い灯火の中に小さな芯のように在った。

 夜が更けていく。

 船は波に揺られ、星の海を滑るように進んでいく。

 船室から、かすかに寝息が聞こえた。

 イグニスは目を閉じなかった。眠らなかった。少女の灯した小さな光の傍で、一晩中、海を見ていた。

 ――後半、交代する、と言ったのに。

 少女は怒るだろうか。

 「怒る」。それもまた、感情の予測だ。他者の感情を推測するということは、自分の中に感情の雛形がなければできない。

 影灯機関が消し去ったはずの感情が、まだ――ほんの僅かだけ、残っていた。

 消えかけた灯火のように。

 でも、消えてはいなかった。

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