海が怒っている、とわたしは思った。
空を覆い尽くす鉛色の雲の底から、白い稲光が走る。一瞬の閃光に照らし出された波は、山のように高く盛り上がっていた。灯船の船体が悲鳴のような軋みを上げ、わたしの身体が左舷に叩きつけられる。
「ルナ、帆を下ろせ」
イグニスの声は、嵐の轟音の中でも不思議なほどはっきり聞こえた。感情の起伏を感じさせない、平坦な声。嵐の只中にあっても、この少年は眉ひとつ動かさない。
「わ、わかった!」
滑る甲板を四つん這いになって進み、帆索に手をかける。雨に濡れた縄は指から滑り、何度やっても解けない。灯し魔法で帆を操ることもできるけれど、この嵐の中で灯火を使えば、制御を失って船ごと吹き飛ばされかねなかった。
三度目の挑戦で、ようやく結び目が解けた。帆が落ち、風を孕まなくなった灯船は、それでも波に翻弄されて木の葉のように揺れる。
そのとき、船首にぶつかった波が砕け、甲板を洗った。足を掬われたわたしの腕を、イグニスが掴む。引き寄せられた先で、彼の暗い赤の瞳がわたしを見下ろしていた。
「掴まっていろ」
「う、うん。ありがと」
わたしが笑うと、イグニスは一瞬だけ目を逸らした。この人は、わたしが笑うとなぜか居心地が悪そうにする。
嵐は容赦なく灯船を打ちのめした。左舷の手摺りがへし折れ、積み荷の半分が波にさらわれた。船底のどこかから浸水が始まり、わたしが灯守りの力で船体を応急処置するものの、焼け石に水だった。
どれくらいの時間が経っただろう。嵐が少しだけ弱まった隙に、イグニスが水平線の向こうを指差した。
「島だ」
灰色の海と灰色の空の狭間に、微かに黒い影が見える。あれは――島だ。
「行ける?」
「帆は使えない。灯し魔法で推進する」
「でも、この嵐の中で灯火を……」
「問題ない」
イグニスは船尾に立ち、両手を灯船の操舵桿に置いた。彼の手のひらから、暗い赤色の灯火が溢れ出す。元暗殺者の灯火は、普通の人のそれとは色が違う。灯喰いの技を使い続けた代償で、彼の灯火は暗く沈んだ赤――血の色をしている。
それでも、その灯火は力強かった。灯船がぐんと加速し、波を切って島に向かう。
わたしはマストにしがみつきながら、イグニスの背中を見ていた。この人はいつも、自分の灯火を削ることを厭わない。それが怖い。自分の命を道具みたいに扱うところが、怖い。
でも今は、生き延びることが先だった。
島が近づいてくる。嵐の向こうに、微かに光が見えた。灯台の光ではない。もっと柔らかくて、温かい光――街の灯りだ。
灯船が浅瀬に乗り上げ、ガリガリという音とともに止まった。船底に大きな傷が走っているのが、揺れが止まったことでわかった。
「……ここは?」
わたしは雨に濡れた目を拭い、島を見上げた。
嵐の合間から覗く島の姿に、わたしは息を呑んだ。
切り立った崖の上に、白い建物が整然と並んでいる。大理石のような素材で作られた壁面には、繊細な灯火文様が刻まれ、嵐の中でも淡く輝いていた。崖を這い上がるように続く石段の途中に、巨大な建造物が見える。丸いドーム屋根を持つそれは、まるで――
「図書館だ」
イグニスがぽつりと言った。
「図書館?」
「ルーチェ島だ。学術と芸術の島」
ルーチェ島。名前は知っている。カンデラ島の祖母が教えてくれた多島海の地理の中で、ルーチェ島は「知の島」として語られていた。灯火魔法の理論研究で世界をリードする学者たちの拠点であり、世界中の知識が集まる場所。
そして――灯台の研究者が集まる島でもある。
「イグニス、ここ、灯台のことを調べてる人たちがいるんだよね?」
「ああ」
「もしかしたら、灯台への手がかりが見つかるかも!」
嵐に打ちのめされ、船はボロボロ。積み荷の大半を失い、わたしの服は塩水でぐしょ濡れ。それでも、希望の灯火は消えなかった。
――お祖母ちゃん。わたし、まだ大丈夫だよ。
翌朝、嵐は嘘のように晴れていた。
ルーチェ島は、陽光の下でさらに美しかった。白い石造りの街並みは段々畑のように崖に沿って広がり、どの建物の壁にも書物を模した浮き彫りが施されている。路地の角々には灯火で動く小さな自動書庫が設置されていて、誰でも自由に本を借りることができるらしい。
街を歩く人々の多くが本を手にしていた。カフェで議論する学者、橋の上で詩を朗読する老人、石段に座り込んで分厚い図鑑を読む子供。カンデラ島とは全く違う空気がここにはあった。
「すごい……こんな島があるんだ」
わたしは目を輝かせて街を見回した。カンデラ島は小さくて、本は祖母の持っている古い経典くらいしかなかった。ここには世界中の本がある。
「灯台研究所はどこ?」
港の漁師に尋ねると、崖の上にある白いドーム建築を指差された。
「あの丸屋根の建物がそうだよ。ただ、最近はあまり研究者もおらんがね。灯台研究なんてのは、この島でも下火でな」
石段を登りながら、わたしは少し不安になった。灯台の研究が下火? それはつまり、灯台の存在を信じている人が少ないということだろうか。
灯台研究所は、外から見た壮大さとは裏腹に、中は閑散としていた。
広い講堂には誰もおらず、研究室のドアはほとんどが閉まっている。埃っぽい廊下を進むと、奥の一室だけ灯りが漏れていた。
ドアを開けると――本だった。
床から天井まで、壁という壁に本が積み上がっている。机の上にも椅子の上にも本が山になっていて、人がいるのかどうかすら分からない。灯火で動く測定器具がいくつか宙に浮き、微かに唸りを上げている。
「あの、すみません。誰かいますか?」
「……論文の提出期限なら来週だと言っただろう」
本の山の向こうから、不機嫌そうな声が返ってきた。低めの、でもまだ若い女性の声。
「いえ、そうじゃなくて――」
わたしが本の山を迂回すると、一人の少女が机に向かっていた。
銀縁の眼鏡の奥に、深い琥珀色の瞳。肩まで伸びた亜麻色の髪は無造作に後ろで束ねられ、白衣の襟元にはインクの染みがついている。年はわたしより少し上――十七歳くらいだろうか。
彼女の前には、灯火の波長を計測するらしい精密な器具と、びっしりと数式が書き込まれたノートが広がっていた。
「なに? 見学なら受け付けていない。ここは研究室だ」
「あ、ごめんなさい。わたし、ルナ・カンデラっていいます。カンデラ島から来て――」
「カンデラ島?」
少女の手が止まった。琥珀の瞳がわたしを見る。その目に、一瞬だけ何かが閃いたのを、わたしは見逃さなかった。
「巫女の島か。あなた、巫女?」
「巫女見習いです。それで、願いの灯台を探していて――」
「灯台?」
少女は眼鏡を押し上げ、わたしをまじまじと見つめた。それから、ふっと鼻で笑った。
「灯台を探している? 非科学的な巡礼者がまた一人、というわけか」
その言い方に、わたしは少しむっとした。
「非科学的って……灯台は実在するんです。カンデラ島では代々、巫女が灯台を目指してきました」
「そして誰一人、辿り着けなかった。違うかい? 千年の間、一人もだ。それは『実在する』ことの反証にはならないが、『辿り着ける』ことの証明にもならない。統計的に言えば、灯台への到達確率は限りなくゼロに近い」
「でも、ゼロじゃないんでしょう?」
わたしの言葉に、少女はまた眼鏡を押し上げた。今度は、少し違う目でわたしを見ている。
「……面白いことを言う。ゼロではない、か。確かに、ゼロであるという証明もまた、されていない」
少女は立ち上がり、棚から一つの器具を取り出した。灯火の強さを数値化する測定器――灯火計だ。
「少し調べさせてもらってもいいかい? あなたの灯火を」
「え? うん、いいけど」
わたしが手を差し出すと、少女は灯火計をかざした。器具の針がゆっくりと動き――そして、振り切れた。
「……なんだ、これは」
少女の目が見開かれた。眼鏡の奥の琥珀色が、驚愕で揺れている。
「スケールオーバー? この灯火計の測定上限は一般人の十倍に設定してあるのに――」
少女は別の灯火計を取り出した。もっと大きくて精密そうなやつ。それをかざすと、針はゆっくりと上がり――また振り切れた。
「嘘だろう。巫女の灯火がこれほど強いのは……文献上でも記録がない。少なくとも、ここ三百年の計測記録には」
「あの、それって……すごいってこと?」
「すごいなどという曖昧な表現は好まないが――異常値だ。学術的に極めて興味深い。あなたの灯火は、既存の理論モデルでは説明がつかない」
少女の目が輝いていた。さっきまでの不機嫌そうな態度はどこへやら、学者の顔になっている。
「あなた……一緒に来ない?」
わたしは思い切って言った。
「一緒に来る? どこに?」
「灯台に。自分の目で灯台を確かめられるよ。灯台が本当にあるのか、それとも本当にないのか――自分の足で行って、自分の目で見れば、それが一番確かな証明でしょう?」
少女は黙った。長い沈黙の後、彼女は棚の本をいくつか抜き取り始めた。
「……科学的調査のためだ」
「え?」
「灯台の存在に関する実地検証のために同行する。それ以外の理由はない。あなたの灯火のデータを継続的に採取できるのは、研究者として見逃せない機会だ。いいね、それ以外の理由はない」
二回も「それ以外の理由はない」と言うのは、逆にそれ以外の理由があるということなんじゃないかな、とわたしは思ったけれど、言わないでおいた。
「ありがとう! ええと……お名前、まだ聞いてなかった」
「ソレイユ・ルーチェ。灯台理論物理学専攻。よろしく」

ソレイユは差し出されたわたしの手を、少し戸惑いながら握った。研究者の手は細くて、インクの匂いがした。
「あ、それと」ソレイユは荷造りを始めながら言った。「荷物は多い。書籍が……少々ある」
「少々って?」
「二十三冊と、ノートが十四冊。それから測定器具一式」
「……それ、『少々』?」
「必要最小限だ。本来なら倍は持っていきたい」
わたしは笑った。この旅で、また一人、仲間が増えた。
ルーチェ島からエミセラ島までは、順風なら半日の距離だった。
問題は、わたしたちの灯船が順風どころか、まともに航行できる状態ではないということだ。嵐で受けた損傷は深刻で、船底の亀裂から絶えず海水が染み込んでくる。イグニスが灯し魔法で推進し、わたしが灯守りで船体を持たせ、ソレイユが航路を計算するという三人がかりの綱渡りで、どうにかエミセラ島に辿り着いた。
「これは……」
エミセラ島の港に入った瞬間、わたしは声を上げた。
港は、生きていた。
カンデラ島の寂れた小さな波止場しか知らないわたしの目には、エミセラ島の港は圧倒的だった。大小無数の灯船が桟橋に係留され、荷揚げ用の灯火式クレーンが忙しなく動いている。波止場には色とりどりの天幕が張り巡らされ、その下で商人たちが声を張り上げていた。
「灯火石、灯火石はいらんかね! 上等のルーチェ産だよ!」
「南方の香辛料! 今朝入ったばかりだ!」
「灯映し用の鏡! 最新型! 遠距離通信もバッチリだ!」
人の波、声の波、匂いの波。焼き魚の香ばしさ、異国の香辛料のむせるような甘さ、潮の匂い、油の匂い。全てが混ざり合って、わたしの五感を圧倒する。
「すごい! こんなに大きな港、初めて見た!」
「多島海最大の自由港だ」ソレイユが本から顔を上げずに言った。彼女は歩きながら読書ができる稀有な人間らしい。「関税が存在しない代わりに、法の保護もほぼない。何でも売買できるが、買ったものに文句は言えない。まさに自己責任の島だ」
「なんでも? 灯火も?」
「灯火の売買は灯火連盟の規約で禁じられている。が、闇市では普通に取引されていると聞く。この島は灯火連盟の目が届きにくい」
イグニスが何も言わずにわたしの隣を歩いている。彼の目は、絶えず周囲を警戒していた。人混みの中では、彼の元暗殺者としての習性が顔を出す。
市場の通りを抜けると、船大工の工房が並ぶ一角に出た。ここなら灯船の修理ができるはず――
「船底の亀裂が三箇所、竜骨に歪み、左舷の手摺り全損、帆索の断裂が七箇所か。こりゃ修理というか、ほとんど造り直しだな」
船大工の親方は灯船を一通り見て、渋い顔をした。
「直せますか?」
「直せるが、安くはないよ。銀貨で五十枚ってところだ」
「ご、五十枚!?」
わたしの全財産は、祖母がくれた銀貨十二枚と、途中で使った分を引いて残り八枚。五十枚なんて、途方もない金額だった。
「まけてもらうことは……」
「こっちも慈善事業じゃないんでね」
親方は肩をすくめて去っていった。わたしは桟橋に座り込み、頭を抱えた。
「どうしよう……船が直らないと、先に進めない」
ソレイユは腕を組み、「資金調達の方法を論理的に検討しよう」と言ったが、具体案は出てこない。イグニスは「金は稼げる」と言ったけれど、その稼ぎ方が元暗殺者のそれだったら困る。
「あー、ダメだこりゃ」
声は、頭の上から降ってきた。
見上げると、桟橋の杭の上に一人の少女が腰かけていた。
短く切り揃えた海色の髪。日に焼けた褐色の肌。大きな碧眼がわたしたちの灯船を値踏みするように眺めている。年はわたしより下――十四歳くらいだろうか。擦り切れた船乗りの服を着て、裸足の足をぶらぶらさせている。
「その船、ロングキール型のカンデラ式灯船だろ。古い型だけど、基本設計は悪くない。問題は竜骨の歪みだな。あれを直せる船大工はこの島に三人しかいない。さっきのジジイはそのうちの一人だけど、一番高い」
少女はすらすらとわたしたちの灯船の状態を言い当てた。
「あなた、船に詳しいの?」
「詳しいなんてもんじゃないよ。あたしはこの港で一番腕のいい操舵手だ」
少女は杭から飛び降り、すたすたと灯船に近づいた。船底を覗き込み、竜骨を指で叩き、帆索を引っ張って強度を確かめている。その手つきは、素人のものじゃなかった。
「船を直してやろうか」
「え?」
「あたしにゃ船大工の知り合いがいる。腕は確かで、値段は安い。銀貨十五枚で済む」
「十五枚!? さっきの三分の一じゃない!」
「そのかわり」少女はにやりと笑った。「報酬は前払いだ。あたしの紹介料として、銀貨五枚」
「つまり合計二十枚……」わたしは財布の中身を思い出した。「……お金がないの。八枚しか」
「八枚? 話にならないな」
少女はくるりと背を向けた。
「ま、待って!」
わたしは少女の袖を掴んだ。少女が振り返り、碧眼がわたしを見下ろす――いや、わたしの方が背が高いから見上げる形になるんだけど、なぜかこの少女には見下ろされている気がした。
「わたしたち、願いの灯台を探してるの。世界の果てにある、願いが叶う灯台――」
「灯台?」
少女の目の色が変わった。
「知ってるの?」
「知らないヤツがいるかよ。港のガキなら誰でも知ってる御伽噺だ。で? その御伽噺を本気で信じてるわけ?」
「本気だよ。わたしの島――カンデラ島が沈みかけてるの。灯台に辿り着いて願いを灯せば、島を救えるかもしれない」
少女は腕を組み、わたしとイグニスとソレイユを順番に見た。それからもう一度灯船を見て、しばらく考え込んだ。
「……条件を変える」
「え?」
「灯台まで連れてけ。灯台の願い――一つ叶えられるんだろ? そのうちの一つをあたしにくれるなら、操舵手として雇われてやる。船の修理代もあたしが立て替える」
「願いを一つ?」
「灯台に辿り着けたらの話だ。つまりあたしにとってもリスクがある。辿り着けなきゃタダ働きだ。悪い話じゃないだろ」
わたしはソレイユとイグニスを見た。ソレイユは「操舵手は必要だ。論理的に妥当な取引だと思う」と頷いた。イグニスは無言だったが、反対はしなかった。
「わかった。約束する」
「よし、契約成立だ」少女は手を差し出した。「あたしはマリン。マリン・エミセラ。この島で生まれて、この島で育った」

「ルナ・カンデラです。よろしくね、マリン」
握手した手は小さくて、でも船乗り特有の硬い胼胝ができていた。
マリンの知り合いの船大工は、港の裏通りの奥まった場所にいた。マリンが「あたしの客だ」と言うと、無言で灯船を引き受けてくれた。修理には三日かかるという。
その三日間で、わたしはマリンの腕を目の当たりにすることになった。
修理の合間に、マリンが試験航行をすると言い出した。船大工の予備の灯船を借りて港を出ると、マリンは舵輪を握って目を閉じた。
「……南南西の風、潮流は東向き、海底の地形からして、ここから三十船身先で潮目が変わる」
目を閉じたまま、マリンは灯船を操った。風を読み、潮を読み、波のうねりの中に最も効率的な航路を見出す。舵を切るタイミングが常人とはまるで違う――波が来る前に、波を予測して動いている。
「すごい……」
「港のガキは海から覚えるんだよ。歩くより先に泳いで、走るより先に舵を握る」
マリンがくるりと舵を切ると、灯船がぐんと加速した。帆と灯火推進の切り替えが滑らかで、船体がまるで海面を滑っているようだった。
「この先に岩礁がある。普通は迂回するんだが――」
マリンの目が光った。碧眼が海面の微かな波紋を捉え、岩礁の隙間を一瞬で見極める。灯船は信じられないほど狭い水路を、横腹を岩に擦りもせずにすり抜けた。
「――あたしに死角はない」
マリンは得意げに笑った。十四歳の少女の笑顔だった。
ソレイユが珍しく本から顔を上げ、「あの岩礁の間隔は船幅と同等以下だった。理論上、通過は不可能なはずだが」と呟いた。
「理論? 理論で船は動かないよ、メガネ」
「……メガネではなくソレイユだ」
「あたしはマリンだ。よろしくな、メガネ」
ソレイユの眉がぴくりと動いた。
わたしは笑った。大丈夫、きっとうまくいく。この旅は、わたし一人じゃない。
四日目の朝、修理を終えた灯船がエミセラ島の港を出た。
マリンが舵を握り、イグニスが帆を操り、ソレイユが海図を広げて航路を指示する。わたしは――お昼ごはんの準備をしていた。
「ルナ、今日のメニューは?」
ソレイユが海図から顔を上げて尋ねた。出航してまだ半日だというのに、もう食事の質問をしてくる。この人、研究以外の話をするときは大体食事の話だった。
「エミセラ島の市場で仕入れた新鮮なお魚と、香草と、それからルーチェ島で分けてもらったオリーブ油があるから――香草焼きにしようと思って!」
船上での料理は制約が多い。火は灯し魔法で起こすけれど、揺れる甲板の上では鍋がひっくり返らないように工夫が要る。わたしは祖母に教わった船乗り料理の知恵を総動員して、狭い調理場に向かった。
魚の鱗を落とし、内臓を取り、塩を振る。香草を細かく刻んで魚の腹に詰め込み、オリーブ油を引いた鉄板の上に載せる。灯し魔法で火力を微調整しながら、じっくりと焼き上げる。
じゅう、という音とともに、香ばしい匂いが甲板に広がった。
「なんだ、この匂いは」マリンが舵輪から首を伸ばした。
「もうすぐできるよー!」
焼き上がった魚を大皿に盛り、付け合わせに干し果物と硬パンを添える。船旅の食事にしては贅沢な方だ。エミセラ島でまとめ買いした食材のおかげで、しばらくはまともな料理が作れるはず。
「はい、お昼ごはん!」
四人が甲板に集まった。
ソレイユが一口食べて、動きが止まった。
「…………」
「ソレイユ? 口に合わなかった?」
「いや。そうではなく」ソレイユは眼鏡を押し上げ、二口目を口に運んだ。「これは……非合理的だ」
「非合理的?」
「この限られた食材と調理環境で、この味が出るのは非合理的だ。船上料理の一般的な品質基準を大幅に逸脱している。つまり――非合理的に美味い」
それ、褒めてるんだよね?
「ありがとう!」
イグニスは黙って食べていた。一匹目の魚を骨まで綺麗に平らげ、皿を空にすると、無言でわたしの方を見た。
「もう一匹いる?」
こくり、と小さく頷く。イグニスにしては珍しい。彼が食事に関して自分から意思表示をするのは、珍しいことだった。嬉しい。

わたしはもう一匹焼いて、イグニスの皿に載せた。彼はまた無言で食べ始めた。でも、食べるスピードが少しだけ速い気がする。
「マリンは?」
「……まあまあだな」
マリンは素っ気なく言ったが、皿はとっくに空だった。パンで皿に残った油まで綺麗に拭って食べている。
「まあまあ、ね」わたしはくすくす笑った。
「なんだよ。別に美味いとか言ってないだろ。腹が減ってたから食べただけだ」
「はいはい」
「その『はいはい』って言い方やめろ!」
マリンが頬を膨らませた。こういう顔をすると、年相応の女の子に見える。
食後、わたしがお茶を淹れると、四人の時間はもう少しだけ続いた。
「次の目的地はどこだ?」マリンが海図を覗き込む。
「漂流教会だ」ソレイユが指で海図を辿った。「旅人の避難所であり、情報の集積地でもある。灯台への手がかりが得られる可能性が高い」
「漂流教会って、海を漂ってる巨大な船みたいなやつだろ? 見つけるの大変だぞ」
「座標は不定だが、季節と潮流のパターンからおおよその位置を推計できる。問題は消灯域に近い海域を通過する必要があることだ」
「消灯域の手前なら、あたしの腕があれば問題ない」
「その自信の根拠は?」
「根拠? 根拠はあたしが天才だってことだよ、メガネ」
「だからメガネではない。ソレイユだ」
「はいはい、メガネ」
ソレイユの眉がまた痙攣した。マリンは楽しそうにけらけら笑っている。
わたしはお茶を啜りながら、この光景を眺めていた。
イグニスは欄干にもたれて海を見ている。ソレイユとマリンが航路について言い合っている。潮風が帆を膨らませ、灯船は穏やかな海を滑るように進んでいく。
四人。たった四人の小さな船。世界の果てを目指すには、あまりにも頼りない。
でも、わたしは思う。カンデラ島を出たときは二人だった。それが三人になり、四人になった。この先も、きっと――
「ルナ」
イグニスが声をかけた。
「なに?」
「茶を、もう一杯」
「うん!」
わたしはイグニスの杯にお茶を注いだ。彼の赤い瞳が、ほんの一瞬だけ――温かくなった気がした。気のせいかもしれないけれど、気のせいじゃないといいな。
灯船は西へ向かう。世界の果てへ向かう。

約束の灯台を目指して。
日が暮れて、船室に引っ込んでから。
私は灯火計のデータを整理しながら、父のノートを開いた。表紙が擦り切れ、背表紙の糊が剥がれかけた古いノート。灯台理論物理学の権威だった――いや、権威になれなかった男の、執念の記録。
父、エトワール・ルーチェは灯台の実在を主張した。それも学会の公式な場で、堂々と。
原初の炎は衰えている。灯火の枯渇を止めるには、灯台に辿り着いて原初の炎を再点火するしかない――と。
学会の反応は冷ややかだった。「灯台は伝説に過ぎない」「実証不可能な仮説に学術的価値はない」「ルーチェ教授は御伽噺を論文に書くようになったか」。
父の論文は却下され、教授職を剥奪され、研究費は凍結された。「妄想家」の烙印を押された父は、失意のうちに病を得て、二年後に死んだ。
私が十三歳のときだ。
父が死んだ日、私は泣かなかった。その代わり、父の研究室に入り、全てのノートと書籍を自分の部屋に運んだ。一晩かけて。何往復も。
「妄想家の娘」。私にもその呼び名はついてまわった。十六歳で発表した灯火波動理論の論文は、内容ではなく著者名で判断された。「ルーチェの名前では査読すら通らない」と言った教授の顔を、今でも覚えている。
だから私は灯台を証明しなければならない。
灯台が実在することを、反論の余地なく、科学的に、完璧に証明する。父の仮説が正しかったことを世界に示す。それが私の――
ペンが止まった。
甲板から、笑い声が聞こえる。ルナの声だ。マリンと何か言い合って、けらけら笑っている。
あの子は不思議だ。
「非科学的」な巡礼者だと思った。灯台を信じている、と言ったときは内心で落胆した。また一人、御伽噺を真に受ける愚か者が来た、と。
でも、あの灯火は本物だった。私の灯火計を二台続けて振り切るほどの灯火。それは科学的事実だ。御伽噺ではない。そして、あの灯火の持ち主が「灯台はある」と断言するなら――少なくとも検証に値する仮説ではある。
本当は、分かっている。
科学的調査のために同行する。それは嘘ではないが、全てでもない。
私は――冒険がしたかったのだ。
父のノートを読み、灯台の理論を追い、計算と推論の中に生きてきた。でも父は違った。父は最後まで、自分の足で灯台に行きたがっていた。「ソレイユ、学者の仕事は机の上だけじゃない。本物を見なければ、本物の理論は生まれない」――父の口癖だった。
ルナは、父に似ている。
学識はないし、理論も知らない。でも、「ゼロじゃないんでしょう?」と言ったあの目は、父と同じだった。不可能を可能にしようとする、馬鹿みたいに真っ直ぐな目。
それに――
昼の食事は、確かに非合理的に美味かった。あんな限られた食材で、あの味を出せる理由が分からない。レシピを解析すれば理論的に再現できるかもしれないが、おそらくできないだろう。あれは理論ではなく、心で作る料理だ。
くだらない。
科学者がそんなことを言うべきではない。
でも、もう少しだけ。もう少しだけ、この旅を続けてみようと思う。
科学的調査のために。
――それ以外の理由は、ない。
……たぶん。
当番制の見張りで、夜の舵を握っている。
星が綺麗だ。エミセラ島の港じゃ、灯りが多すぎて星なんか見えなかった。海の上に出ると、空は全部星になる。小さい頃はこれを見るのが好きだった。
小さい頃。
あたしの最初の記憶は、エミセラ島の波止場だ。木箱の陰で丸くなって、寒さに震えていた。何歳だったのかも分からない。親の顔なんか知らない。名前も、誰かにつけてもらったのか、自分で名乗ったのか、覚えていない。
マリン。海みたいな名前だ。海から来たのかもしれない。
波止場のガキは、自分の面倒は自分で見る。盗み、おつかい、使い走り。港の大人たちは優しくはなかったけど、殴りもしなかった。ただ、関心がなかっただけだ。
船の操り方を覚えたのは、生き延びるためだ。密輸船の手伝いをすれば飯が食える。荷物を運べば銀貨が貰える。あたしには灯火魔法の才能はほとんどない。でも、海を読む力だけは天から貰ったらしい。潮の流れ、風の向き、波の声――海があたしに語りかけてくる。
いつからか、港で一番腕のいい操舵手と呼ばれるようになった。密輸船の船長たちがあたしを取り合うようになった。
金で動くフリをした。タダでは動かない。報酬は前払い。あたしのルールだ。
金は信用できる。金は裏切らない。人は裏切るけど、金は裏切らない。金があれば飯が食える。屋根のある場所で眠れる。冬を越せる。
だから、金で動く。金以外のもので動いたら――期待してしまう。期待して裏切られたら、今度こそ立ち直れない気がするから。
灯台の願い。
ルナに「願いを一つくれ」と言った。あたしだって、自分の願いくらい分かっている。
家族が欲しい。
馬鹿みたいだ。十四にもなって。波止場のガキが何を甘えたことを言ってるんだ。
でも、あるんだ。心の奥に、どうしても消せない火がある。誰かと一緒にいたい。「おかえり」と言ってほしい。「おやすみ」と言いたい。朝起きたら誰かがいる、そういう当たり前が欲しい。
言えるわけがない。
だから金で動くフリをする。契約で動くフリをする。「灯台の願い」を報酬にしたのだって、本気で願いを叶えてもらうつもりなんかない。ただ、この旅に――この船に、乗っていたかっただけだ。
……なんでだろう。
今日の昼飯、あのルナってヤツが作った魚の香草焼き。
美味かった。
「まあまあだな」って言ったけど、嘘だ。すごく美味かった。波止場の屋台で食う脂っこい魚とは全然違った。ちゃんと味がした。ちゃんと、誰かのために作った味がした。
四人で甲板に座って、飯を食った。
ルナがにこにこ笑って、ソレイユが難しい顔で美味いと言って、イグニスが無言でおかわりして、あたしが「まあまあ」と嘘をついて。
食卓だ、と思った。
あたしが知らない、あたしがずっと欲しかったもの。みんなで囲む食卓。
胸がきゅっとなった。
認めたくない。認めたら、失ったときに壊れてしまう。だから認めない。あたしは金で動いている。契約で動いている。この船に乗っているのは、灯台の願いが欲しいからだ。
それだけだ。
……それだけの、はずだ。
星が海に映って、揺れている。
あたしは舵を握り直した。西へ。世界の果てへ。
この船を、沈ませはしない。あたしの操舵術があれば、どんな海でも越えられる。
――それくらいしか、あたしにできることはないから。
翌朝。
あたしが舵輪に突っ伏して寝ていると、毛布がかけられた。
薄目を開けたら、ルナが笑っていた。
「おはよう、マリン。朝ごはん、もうすぐできるよ」
「……うるせえ。起こすな」
「はいはい」
毛布は、温かかった。
あたしは顔を毛布に埋めて、目を閉じた。
泣いてなんかいない。潮風が目に染みただけだ。