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第5章

第一の試練 ― 記憶

パート1

 海が、光っていた。

 漂流教会を出て三日目の夕方のことだった。

 その日の海は穏やかだった。風は弱く、マリンが「凪だな、退屈な海だ」とぼやくほどの静けさで、灯火の推進装置に頼りながらゆっくりと西へ進んでいた。空は曇りがちで、水平線は灰色の靄に沈んでいる。

 わたしは船尾に腰を下ろして、保存食の干し果物をかじりながら、リラさんから母さんの話を聞いていた。

「エレナさんはね、お魚を捌くのが上手だったの。どんな魚でも一瞬で三枚に下ろしちゃって。わたしが不器用なの見て笑うのよ、『リラちゃん、包丁は力じゃなくて角度よ』って」

「わたしもおばあちゃんに同じこと言われた!」

「ふふ、やっぱり」

 リラさんが微笑んだ。三日前に初めて会った時よりも、表情が柔らかくなっている気がする。まだ翳りは消えていないけれど、話をするたびにほんの少しずつ、灯火の色が澄んでいく。

「エレナさんは航海中、毎晩星を見て位置を確認してたわ。灯映しの魔法で星図を映し出して、それを紙に写し取るの。すごく綺麗な星図だった。芸術品みたいに」

「お母さん、絵も描けたの?」

「上手だったわよ。旅先で見た景色をスケッチしてた。ルナちゃんの似顔絵も描いてたの、いつも持ち歩いて——」

 リラさんが急に言葉を止めた。しまった、という顔をしている。

「ルナちゃんの……ごめんなさい。辛いことを」

「ううん。もっと聞かせて」

 辛くないと言えば嘘になる。知らなかった母さんの姿を一つ知るたびに、手のひらの灯火がじんと温かくなって、同時に胸の奥がきゅっと締まる。母さんはわたしの似顔絵を持ち歩いていた。旅の途中でも、わたしのことを想ってくれていた。

 嬉しい。嬉しいのに、涙が出そうになる。

 この感情に名前をつけるなら、たぶん「懐かしい」が一番近い。会ったことのない母さんの旅の姿を、懐かしいと感じる。不思議な気持ちだった。

「ルナ」

 イグニスの声が、船首から飛んできた。

 短い、けれど鋭い声。警戒の声。わたしはすぐに立ち上がった。イグニスがあのトーンで名前を呼ぶ時は、何かが起きている時だ。

 船首に駆けつけると、イグニスが水平線を指差していた。

 灰色の靄の向こうに、何かが見える。

 光だ。

 光の壁だった。

 海面から垂直に立ち上がる、薄い青白い光の幕。高さは帆柱の十倍以上——いや、もっと。上端は曇り空に溶け込んで見えない。左右にも際限なく広がっていて、水平線の端から端まで、まるで海を二つに分断するように伸びている。

「何……あれ」

 マリンが舵輪を握ったまま、ぽかんと口を開けた。普段は何があっても動じない少女の口が、開いたまま戻らない。

「止まれるか」

「無理だ。もう潮に掴まれてる。この船、あの光に向かって引き込まれてる」

 マリンの声に焦りが混じった。舵輪を回しているが、船は反応しない。潮流そのものが、光の壁に向かって流れている。灯火の推進装置を逆噴射しても、焼け石に水だった。

「これは……」

 ソレイユが海図と本を交互に見比べていた。眼鏡の奥の琥珀色の瞳が、驚愕と興奮で揺れている。

「灯台守りの試練場だ」

「試練場?」

「文献にあった。灯台を目指す旅人は、七つの試練を越えなければならない。試練は海の上に現れ、旅人を自動的に取り込む。避けることはできない。拒否もできない」

「自動的って……勝手に巻き込まれるってこと?」

「そうだ。灯台への航路を辿る者は、必ず試練に遭遇する。それが灯台の理だ」

 光の壁が、近づいてくる。

 いや、わたしたちが引き寄せられている。

 近くで見ると、光の壁は均一ではなかった。無数の灯火が薄い膜のように重なり合い、揺らめいている。一つ一つの灯火はとても小さくて、でも数え切れないほど集まって、巨大な壁を作っていた。

「皆、何かに掴まれ!」

 マリンが叫んだ。

 灯船が光の壁に突入した。

 衝撃はなかった。

 むしろ、何も感じなかった。光が船体を通り抜けて——いや、わたしたちが光を通り抜けて、気がついたら、そこは別の場所だった。

 海は消えていた。

 空も消えていた。

 船はある。甲板の上に六人全員がいる。でも、船の外には何もなかった。暗闇でもない。白でもない。色のない空間。上下も左右もわからない、方向の概念そのものが溶け出したような、不思議な場所。

「これが……試練の空間」

 ソレイユが呟いた。声が反響しない。音が壁に跳ね返らず、そのまま空間に吸い込まれていく。

「嫌な場所だ」マリンが船縁を握りしめた。「海がない。潮も風も、何も感じない」

「落ち着け。まだ何も起きていない」イグニスが低く言った。

 だが、イグニスの言葉が終わらないうちに——声が響いた。

 どこからでもなく。

 あらゆる方向から同時に。

 あるいは、頭の中に直接。

 ——最初の試練。

 声は、音であり光であり振動だった。言葉というよりも、意味そのものが空間を満たすような。温かくもなく冷たくもない、無機質な、けれど圧倒的な存在感を持つ声。

 ——最も大切な記憶を差し出せ。

 わたしの灯火が、反応した。

 胸の奥で、灯火が激しく揺れた。痛いほどに。引っ張られるように。まるで何かが灯火に手を伸ばして、掴もうとしているような。

「ルナ!」

 イグニスが叫んだ。

 わたしの体から、光が溢れ出していた。

 灯火だ。わたしの灯火が、自分の意志とは関係なく体の外に滲み出している。胸の中心から橙色の光が放射状に広がり、船全体を照らした。

 試練は、わたしに向けられている。

「ルナの灯火に反応している……」ソレイユが目を見張った。「巫女の灯火が最も強いから、試練はルナを対象に選んだのか」

 リラさんがわたしの傍に駆け寄った。

「ルナちゃん、大丈夫? 灯火が……」

「大丈夫。痛くはない。ただ、何か引っ張られてるみたいな……」

 声が、再び響いた。

 ——記憶を差し出せ。最も大切な記憶を。それが、先に進むための代償だ。

 記憶。

 最も大切な記憶。

 わたしの脳裏に、映像が浮かんだ。試練の空間がそれを読み取ったのか、それとも灯火を通じて記憶が引き出されたのか——甲板の上に、光の映像が投影された。

記憶の海に沈む

パート2

 光の映像は、わたしの記憶だった。

 五歳のわたしが映っている。

 カンデラ島の港。朝の光が海面に踊っていて、石畳に座ったわたしが足をぶらぶらさせている。あの日だ。母さんが旅に出た日の朝。

 映像の中の母さんが、港のベンチに布を敷いて朝ごはんを並べていた。焼いたパンの上にとろとろのたまご。甘いミルク。ちっちゃく切った青いアクアベリー。

 母さんが、パンをちぎって、ちいさなわたしの口に持っていく。

「はい、あーん」

 母さんの声が聞こえた。試練の空間に、あの日の声がそのまま響いた。十年前の声。優しくて、温かくて、世界で一番安心する声。

 わたしの灯火が、震えた。

 映像は続く。

 母さんがわたしの手を取って、灯渡しをする場面。小さなわたしの手のひらに、橙色の光がそっと降りてくる。

「寂しくなったら、ここに私がいるから」

 あの言葉。あの温度。あの光。

 十年間、わたしの手のひらの中で消えずに残り続けた、母さんの灯火。わたしが泣きたい夜に何度も手をあてた、あの温かさ。

 映像がもっと引き出される。

 赤ん坊のわたしを抱いて、子守唄を歌う母さん。歌の内容は覚えていなかったはずなのに、試練の空間が灯火の奥から掘り起こした。低くて、柔らかくて、海のリズムに合わせた揺りかごの歌。

「♪ おやすみ、わたしの灯火……海の波に揺られてお休み……朝が来たら、またお母さんが灯りを灯すから……♪」

 涙が出た。

 止められなかった。覚えていないはずの歌なのに、灯火が覚えていた。体が覚えていた。母さんの腕の温かさと、子守唄の振動が、灯火に刻まれていた。

母の最後の微笑み

 三歳のわたしと母さんが、台所で一緒に料理をしている映像。小さなわたしが踏み台に立って、母さんの隣で卵を割ろうとしている。殻がぐちゃぐちゃになって、母さんが笑う。

「上手よ、ルナ。次はもっと優しくね」

 四歳の誕生日。母さんが手作りのケーキを持って、わたしの前に膝をついて、「おめでとう、ルナ」と言った。ケーキの上に灯火で火を灯して、わたしが吹き消す。灯火がふわっと散って、金色の粒になって部屋中をきらきらと飛んだ。

「お願いごとした?」

「うん。お母さんとずっと一緒にいるの!」

「ふふ。叶うといいね」

 叶わなかった。

 その記憶が、胸を貫いた。

 声が響く。

 ——この記憶を差し出せ。全て。母との温かい記憶の全てを。差し出せば、先に進める。

 わたしは涙を拭った。拭ったけれど、また溢れた。

 母さんの記憶を差し出す。手のひらの灯火も。子守唄も。一緒に作った料理も。あの朝の「行ってくるね」も。全部、差し出す。

 差し出せば、試練を突破できる。灯台に近づける。島を救える。

 それなら——。

「差し出す」

 わたしは言った。声は震えなかった。

 差し出すべきだ。母さんの記憶は大切だけれど、島を救うことのほうが大事だ。カンデラ島が沈めば、おばあちゃんも、島のみんなも、全部失われる。わたしの記憶一つで島が救えるなら、安いものだ。

 わたしが犠牲になればいい。わたしの記憶くらい——。

「待て」

 イグニスの声が、鋭く空間を切った。

 イグニスがわたしの前に立っていた。いつの間に移動したのか、わたしと試練の声の間に割り込むように、赤い瞳がわたしを見下ろしている。

「軽率だ」

「イグニス?」

「考えもなく差し出すな。それはお前の灯火の一部だ。記憶を失えば灯火も損なわれる。巫女の灯火が弱まれば、灯台に辿り着くこと自体が不可能になる」

 冷静な指摘。イグニスらしい。でも、声の奥にわずかな怒りが滲んでいた。

「駄目だ! そんなの!」

 マリンが船縁から叫んだ。

「大事な記憶を捨てるなんて! お母さんのこと忘れちゃうんだぞ! それでいいわけないだろ!」

「マリン……」

「いいわけない! 記憶がなくなったら、あんたがあんたじゃなくなるだろ! ルナがルナじゃなくなったら、この旅の意味がねえんだよ!」

 マリンの声が震えていた。碧い目に涙が光っている。この子は、普段は「金で動く」と嘯いているくせに、こういう時だけ正直だ。

「ルナちゃん」

 リラさんが、わたしの手を握った。温かい手。少し震えている。

「お願い。差し出さないで。エレナさんの記憶を——あなたのお母さんとの記憶を、差し出さないで。わたしがどれだけその記憶を大切に思っているか……あなたには、わからないかもしれないけど」

「リラさん……」

「わたしはエレナさんとの記憶を抱えて、十年間生きてきた。あの記憶があるから、灯火が消えなかった。あなたにとってもきっとそうでしょう? お母さんの灯火が手のひらに残っているのは、記憶があるからよ。記憶がなくなったら、あの灯火も——」

 リラさんの声が詰まった。

 ソレイユが眼鏡を押し上げ、腕を組んだ。

「安易に差し出す前に、論理的に考えるべきだ」

「ソレイユ……」

「試練は『差し出せ』と言っている。だが、差し出すことが唯一の突破方法だとは言っていない」

 ソレイユの琥珀の瞳が、分析的な光を帯びた。

 アッシュは甲板の隅で弦琴を抱えたまま、静かにこちらを見ていた。何も言わない。ただ、琥珀色の目が深い何かを湛えて、じっとわたしを見ている。

 わたしは——自分が今しようとしていたことに、はっとした。

 差し出す。犠牲にする。わたしの記憶を。わたしの大切なものを。

 それは——おばあちゃんが言った「犠牲を払わない方法を探しなさい」と、正反対のことだ。

 なのにわたしは、迷わず差し出そうとした。

 まるでそれが当然のことであるかのように。


パート3

「試練の構造を分析する」

 ソレイユが、試練の空間に向かって歩き出した。彼女の足元に見えない床があるように、一歩ずつ確かめながら進む。

「文献によれば、灯台守りの試練は旅人の覚悟を試すものだ。つまり、試されているのは『差し出す意志』であって、実際に差し出すことが目的ではない可能性がある」

「可能性って……確信はあるの?」

「ない。仮説だ。だが検証する価値はある」

 ソレイユは灯火計を取り出した。試練の空間に向かって翳すと、針がめまぐるしく動いた。

「灯火の密度が異常に高い。この空間全体が灯火で構成されている。つまり、試練の力の源は灯火だ。灯火に対して灯火で対抗できるのなら——」

「力づくで突破できるかもしれない、ということか」

 リラさんが言った。灯守りの経験者として、ソレイユの仮説の意味をすぐに理解したらしい。

「そうだ。ただし、試練を圧倒するほどの灯火が必要になる。通常の人間の灯火では不可能だ」

 全員の視線が、わたしに向いた。

 巫女の灯火。灯火計を二台振り切ったわたしの灯火。

「でも……わたし、灯火の力を使いこなせてるわけじゃないよ。灯守りと灯しくらいしか……」

「技の巧拙の問題ではない」ソレイユが首を振った。「灯火の純粋な出力の問題だ。ルナの灯火は規格外だ。もし全力を解放すれば、この試練の空間を圧倒できるかもしれない」

「全力って……」

「灯火を全力で燃やすことだ。灯し魔法の延長線上にある。ただし消耗は激しい。限界を超えれば、灯火の燃え尽きが起きる」

 灯火の燃え尽き。回復不能の消耗。最悪の場合、命に関わる。

 わたしは自分の胸に手を当てた。灯火がまだ揺れている。試練の力に引っ張られて、不安定に。

「やってみる」

「ルナ」

 イグニスがわたしの前に立った。赤い瞳がまっすぐにわたしを見ている。

「お前が倒れたら、旅は終わりだ」

「大丈夫。全力って言っても、灯火を使い切るわけじゃないよ。押し返すだけ。わたしの灯火で、試練の力を押し返す」

「……俺が先に行く」

 イグニスが背を向けた。試練の声が響いた方向——空間の中心に向かって歩き始める。

「イグニス? 何を——」

「試練がお前に手を伸ばしている。なら、俺がその手を叩く」

 イグニスの右手が淡く光った。暗い赤色の灯火。灯喰いの技で鍛えられた、鋭い灯火。それが掌に集まり、刃のような形を取る。

「イグニス、灯喰いを使うの?」

「灯喰いではない。灯し魔法の応用だ。灯火を刃にする。機関で教わった戦闘用の技だ」

 イグニスが空間の中央に踏み込んだ。

 瞬間、試練の空間が反応した。光の映像が歪み、わたしの記憶の代わりに——別のものが現れた。

 影だ。

 人型の影。灯火で構成された、輪郭だけの存在。試練の番人。

 影がイグニスに向かって手を伸ばした。灯火の鎖のようなものがイグニスを絡め取ろうとする。

 イグニスが踏み込んだ。

 灯火の刃が弧を描き、鎖を断ち切った。鮮やかな一閃。イグニスの動きは、わたしが見ても惚れ惚れするほど正確だった。無駄がない。呼吸すら最小限に絞り込んだ、暗殺者の体術。

 だが、影は怯まなかった。断ち切られた鎖はすぐに再生し、さらに数を増やしてイグニスに迫る。

「キリがない。灯火で構成された存在を灯火で破壊しても、空間自体が再生する」

 ソレイユの分析が飛ぶ。

「ルナ、今だ。イグニスが番人の注意を引いている間に、灯火を解放しろ」

「わかった」

 わたしは両手を胸の前に合わせた。

 灯火を意識する。胸の奥にある、橙色の温かい光。おばあちゃんが灯してくれた灯火。母さんが灯渡しで分けてくれた灯火。巫女の血筋が受け継いできた、世代を超えた灯火。

 それを——解放する。

 目を閉じて、灯火に話しかけた。

 お願い。力を貸して。

 母さんの記憶を守りたい。差し出したくない。大切なものを犠牲にしたくない。

 犠牲を払わない方法を探しなさい。おばあちゃんの言葉が、灯火の中で響いた。

 目を開けた。

 手のひらから、光が溢れた。

 橙色の光。でも普段よりずっと強い。灯しの魔法で手のひらに灯す小さな光とは比べものにならないほど大きく、明るく、温かい光。まるで手の中に太陽を抱えているみたいだった。

 光が広がる。

 甲板を照らし、仲間たちを照らし、試練の空間そのものを照らした。色のなかった空間に、橙色の光が染み渡っていく。

 試練の番人が動きを止めた。

 わたしの灯火が、試練の空間を圧倒し始めていた。

「すごい……」リラさんが目を見開いた。「この灯火の強さ……エレナさんと同じ、いいえ、もっと——」

 試練の空間が軋んだ。灯火で構成された壁や床に亀裂が入り、そこからわたしの光が染み込んでいく。わたしの灯火が、試練の灯火を塗り替えていく。

 番人がイグニスから離れ、わたしに向かってきた。灯火の鎖を無数に伸ばして、わたしの光を抑え込もうとする。

 でも、わたしの灯火は止まらなかった。

 鎖が灯火に触れるたびに、橙色の光に呑み込まれて溶けていく。母さんの温かさ。おばあちゃんの祈り。巫女の血が何世代にもわたって守り続けてきた灯火の力が、今、わたしの手のひらから溢れ出している。

「灯火出力がさらに上昇している」ソレイユが灯火計を見て叫んだ。「試練の空間の灯火密度を上回った。空間が崩壊し始めている」

 試練の声が、再び響いた。

 ——記憶を差し出せ。

 今度は、命令ではなかった。どこか——問いかけるような響きがあった。

 わたしは答えた。

「差し出さない」

 声は震えなかった。

「わたしの記憶は、わたしのもの。お母さんとの記憶は、わたしの灯火の一部。差し出さなきゃ先に進めないって言うなら——灯火の力で、道を開く」

 両手を広げた。光がさらに強くなる。船全体が、わたしの灯火に包まれた。仲間たちの灯火も、わたしの灯火に触れて温められて、少しだけ明るくなっている。

 試練の空間が、割れた。

 卵の殻が砕けるように。色のなかった世界に亀裂が走り、その向こうから夕焼けの空と、海の青が覗いた。

 音が戻った。波の音。風の音。海鳥の声。

 色のなかった世界が崩壊し、わたしたちは再び海の上にいた。

 灯船は夕暮れの海に浮かんでいた。光の壁は消えていた。まるで何もなかったみたいに、穏やかな海面が広がっている。

 わたしは膝をついた。

 灯火を使いすぎた。体中の力が抜けて、視界がぐらりと揺れる。でも灯火は消えていない。弱ってはいるけれど、ちゃんと胸の中で燃えている。

「ルナ!」

 リラさんが駆け寄って、わたしの体を支えてくれた。灯守りの光が手のひらから流れ込んできて、じんわりと灯火を温めてくれる。上手な灯守りだ。リラさんの灯火は優しい。

「大丈夫……少し疲れただけ」

「無茶しないで……あなたまでエレナさんみたいに灯火を削ったら……」

「削ってないよ。大丈夫。全部残ってる」

 わたしは自分の胸に手を当てた。灯火はある。記憶もある。母さんの子守唄も、一緒に作った卵焼きも、あの朝の「行ってくるね」も。全部、ここにある。

 何も失われていなかった。

「犠牲を払わなくても、突破できた……?」

 自分の口から出た言葉が、他人の声みたいに聞こえた。

 そうだ。差し出さなかった。記憶を犠牲にしなかった。灯火の力で試練の空間を圧倒して、何も差し出さずに突破した。

 犠牲を払わなくても、道は開けた。

「おばあちゃん……」

 おばあちゃんの言葉が、胸の中で光った。犠牲を払わない方法を探しなさい。

 これがその答えなのかはわからない。まだ七つの試練のうちの一つ目だ。次の試練が同じ方法で突破できるとは限らない。

 でも——可能性が見えた。

 犠牲を払わなくても、道はある。そのことを、体で知った。

 イグニスがわたしの前に立った。赤い瞳がわたしを見下ろしている。表情はいつも通り無だけど、肩の力が少し抜けた気がする。

「……無事か」

「うん。イグニス、ありがとう。番人の相手をしてくれて」

「……従者として当然のことだ」

 イグニスの声が、ほんの少しだけ柔らかかった。気のせいかもしれないけど、気のせいじゃないといいな。

「よくやったね、ルナ」

 リラさんがわたしの頭をそっと撫でた。母さんに撫でられた時と同じ場所を、同じ優しさで。

「すげーな。灯火が空間を壊すとこ、初めて見た」マリンが目を丸くしていた。

「巫女の灯火の出力特性については、今後詳細な分析が必要だ。記録用のデータは取れた。非常に貴重なサンプルだ」ソレイユが灯火計を見ながら言ったけれど、その声もどこかほっとしていた。

 そして——アッシュ。

 吟遊詩人は甲板の隅に立って、わたしを見ていた。

 微笑んでいた。

 穏やかで、深い微笑み。陽気な時のへらへらした笑いとは全然違う。琥珀色の瞳の奥に、長い長い時間の重みを感じさせる、静かな笑み。

「お見事」

 アッシュが言った。

 たった二文字。でも、その声には——何か特別な重みがあった。まるで、ずっと前から誰かがこの答えを出すのを待っていたみたいな。千年でも待っていたみたいな。

「アッシュ?」

「いや、何でもない。ただ感心しただけだよ。灯火で試練をぶち抜くなんて、豪快だねえ」

 アッシュはいつもの軽い口調に戻って、弦琴をぽろんと鳴らした。

「♪ 巫女の灯火は太陽の子 試練の闇を焼き尽くす ♪ うん、いい歌になりそうだ」

 軽口。いつもの軽口。でもわたしには、さっきの微笑みが頭から離れなかった。

 あの笑みの意味は、何だったんだろう。

 夕暮れの海は、試練の前と変わらず穏やかだった。茜色の空が水面に映って、世界全体が柔らかな光に包まれている。

 わたしは甲板に仰向けに寝転んで、空を見上げた。最初の星が、薄暮の空にぽつんと光り始めている。

 第一の試練を突破した。

 記憶は失われなかった。母さんの温かさは、ここにある。手のひらの灯火も、子守唄も、卵焼きの記憶も、全部。

「……お母さん」

 手のひらを空にかざした。橙色の灯火が、指の隙間からほんのりと漏れている。使い過ぎて弱ってはいるけれど、消えてはいない。母さんが残してくれた灯火も、その中でちゃんと灯っている。

「わたし、差し出さなかったよ。お母さんとの記憶、守ったよ」

 手のひらの灯火が、小さく揺れた。応えるように。

 犠牲を払わない方法を探す旅。その最初の一歩を、踏み出せた気がする。

 でも――ふと、気になることがあった。

 試練の声は、最後に少しだけ変わった。命令の響きが薄れて、問いかけるような調子になった。まるで「差し出す以外の答えがあるのか?」と試しているような。

 ソレイユの仮説が正しいなら、試練が本当に試しているのは「差し出す意志」ではなく「差し出さない覚悟」なのかもしれない。

 おばあちゃんの言葉。アッシュの歌。「灯台は犠牲を求めているのではない。犠牲を払う覚悟を試しているだけだ」。

 もし、それが本当なら。

 灯台は最初から、犠牲なんか求めていなかったのかもしれない。

 でも、確信はまだない。まだ一つ目の試練を越えただけだ。残り六つ。次は何を求められるのだろう。

 ソレイユが船室から出てきて、わたしの隣に座った。

「体調はどうだ。灯火の消耗度を測りたい」

「まだちょっとふらふらするけど、大丈夫だと思う」

 ソレイユが灯火計をかざした。針が動いて、止まった。

「通常時の約六割まで低下している。回復には二、三日かかるだろう。その間は灯火魔法の使用を控えるべきだ」

「わかった。リラさんが灯守りで回復を手伝ってくれるって」

「それがいい。ルナ、一つ訊いてもいいか」

「なに?」

「差し出そうとした時——迷わなかったのか」

 わたしは少し考えた。

「……迷わなかった。それが怖い」

 ソレイユが静かにわたしを見た。

「記憶を差し出せって言われて、最初に思ったのは『差し出そう』だったの。島のためなら、自分の記憶くらい。わたしが犠牲になればいい。そう思った。迷わずに」

「…………」

「でもみんなが止めてくれた。イグニスが前に立ってくれて、マリンが叫んでくれて、リラさんが手を握ってくれて。それで気づいた。わたし、犠牲を払うことに慣れすぎてるんだ。大切なものを差し出すのが当然だって、どこかで思ってる」

 ソレイユは黙って聞いていた。

「おばあちゃんに犠牲を払うなって言われたのに、わたし自身が一番犠牲を払いたがってる。おかしいよね」

「おかしくはない」ソレイユが静かに言った。「人は、自分の問題には自分で気づけないものだ。だから仲間がいる」

 ソレイユにしては珍しく、科学的でない言葉だった。わたしは少し驚いて、ソレイユの顔を見た。眼鏡の奥の琥珀色の瞳が、夕暮れの光を反射して温かく光っていた。

「次の試練ではもっと冷静に対処できるだろう。今日の経験はデータとして記録しておく。『犠牲の要求に対する灯火出力による突破の有効性』として」

「……ソレイユらしいタイトルだね」

「何がだ」

 わたしは笑った。笑ったら、灯火がほんの少し回復した気がした。

 夜になった。

 六人で甲板に座って、簡単な夕食を取った。わたしが作る元気はなかったから、リラさんが温かいスープを作ってくれた。リラさんのスープは優しい味がした。母さんの味とは違うけれど、それはそれで美味しかった。

 食事の後、マリンが舵を握り、ソレイユが航路の計算に戻り、リラさんがわたしの灯火の回復を手伝ってくれた。アッシュは酒の入った革袋を傾けながら、弦琴を爪弾いている。

 イグニスがわたしの隣に座った。珍しいことだった。普段は少し離れた場所で見張りをしているのに。

「……次の試練は」

 イグニスがぽつりと言った。

「次?」

「次は、俺に来るかもしれない」

 わたしはイグニスを見た。赤い瞳が海を見つめている。

「どうして?」

「試練は最も大切なものを要求する。巫女の灯火に反応して最初の試練が来たのなら、次は――」

 イグニスは言葉を切った。

 灯火が揺れた。イグニスの暗い赤色の灯火が、かすかに。

 わたしにはわかった。イグニスの灯火の中に、何か新しいものが芽生え始めていること。暗い紫の中に、ほんの微かな橙色の光。それはわたしが灯渡しで分けた灯火の残滓で、同時に――イグニスの中で育ち始めた何かの色でもあった。

 イグニスにとって最も大切なもの。

 それがもし、試練に見つかったら。

「……大丈夫」

 わたしは言った。

「次の試練が来ても、みんなで突破するよ。今日みたいに。誰も犠牲にならないで」

 イグニスは何も言わなかった。

 でも、ほんの一瞬だけ――わたしの方を見た。赤い瞳に、名前のつけられない光が浮かんで、すぐに消えた。

 夜の海を、灯船が滑るように進んでいく。

 第一の試練は終わった。

 でも旅は続く。六つの試練が待っている。そして、世界の果ての灯台が。

 わたしは手のひらの灯火を見つめた。弱っているけれど、消えてはいない。母さんの灯火が、ちゃんとそこにある。

 守れた。

 今日は、守れた。

 明日も、守れるように。明後日も、その先も。

 何も犠牲にしないで、全部を守って、灯台に辿り着く。

 それがどれほど難しい道でも。

 灯火を灯し続ける限り、わたしは進める。

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