海が、また変わった。
第二の試練から二日が経った朝、私は灯船の甲板で父のノートを読んでいた。
波の色が違う。ルーチェ島周辺の澄んだ碧とも、エミセラ島付近の濁った灰緑とも異なる、深い藍色。世界の果てに近づくにつれ、海はどんどん暗くなっていく。灯火の枯渇が、海の色にまで影響しているのだ。
少なくとも、父の理論ではそう説明される。
私は父のノートのページをめくった。もう何百回と読み返したページ。インクが掠れて読みにくくなった文字。そこに走る赤い傍線。余白に書き込まれた計算式と、時折混じる私宛ての小さなメモ。
「ソレイユ、この式の導出が美しいと思わないか?」
父はいつもそうだった。研究ノートなのに、まるで娘に語りかけるように書く。論文のための覚え書きなのに、読者を想定している。読者はたった一人——私だけ。
私は眼鏡を押し上げて、空を見上げた。
第一の試練ではルナの記憶が標的になった。第二の試練ではイグニスの絆。いずれも、その人にとって最も大切なものを差し出せと要求された。
次は——おそらく私だ。
根拠がある。試練の番人が発する灯火の波長と、各人の灯火の共鳴パターンをデータとして記録していた。第一の試練ではルナの灯火が最も強く反応し、第二の試練ではイグニスだった。反応の強さと試練の対象者には相関がある。
そして、第二の試練場を抜けた後から、私の灯火がわずかに——しかし継続的に振幅を増している。測定器が捉えた微弱な波動。それは「次の試練が近い」ことを示す前兆だった。
最も大切なもの。
私にとってのそれは、決まっている。
このノートだ。
父のノート。エトワール・ルーチェの研究記録。灯台理論物理学の全て。父の生涯をかけた仕事の、唯一の現物。
これを差し出せと言われたら——
「ソレイユ、朝ごはんだよー」
ルナの声が船室から聞こえた。私はノートを閉じ、船室に向かった。
朝食は干し果物と堅パン、それから薬草茶。簡素だが、ルナが淹れる薬草茶は不思議と旨い。茶葉の配合に何か秘密があるのだろうが、訊いても「勘!」としか答えないので分析のしようがない。
食事をしながら、アッシュがまた歌っていた。
吟遊詩人の歌は不思議な響きを持っている。声に灯火が乗っているのだ。微弱だが確実に。歌が空気を震わせるのと同じように、灯火が聴く者の灯火をわずかに揺らす。
今日の歌は——灯台守りの歌だった。
「千年の番人、石の心、問いを投げかけ、答えを待つ。差し出す者あり、拒む者あり、されど真に問うているのは——」
アッシュは歌を途中で止めた。にこりと笑って、パンをかじる。
「続きは?」
「ないよ。続きは自分で見つけるものさ」
意味深な男だ。この吟遊詩人の言葉には、常に二重三重の意味が含まれている気がする。科学者として、裏の意味を推測するのは嫌いではないが——根拠のない推測は学術的ではない。
朝食の後、私は甲板で海図を広げた。現在の位置と潮流の計算。消灯域への距離。灯台までの推定航路。全てを数値化し、論理的に整理する。それが私の仕事だ。
計算をしている最中に、霧が出た。
第二の試練の前と同じだ。水平線の上に白い帯が現れ、灯船の進路を遮るように横一列に広がっていく。自然現象ではない。試練の霧。
私の灯火が——跳ねた。
予想通りだ。灯火計の数値が急上昇している。今回の試練は、私に向けられている。
「来たね」ルナが私の隣に立った。「ソレイユ、大丈夫?」
「大丈夫の定義によるが——覚悟はできている」
嘘だった。覚悟など、できているはずがない。
灯船が霧に入った。
冷たい。前回よりも冷たい。霧が肌を刺すのではなく、骨を刺すような冷気。灯火が萎縮するのがわかる。全員の灯火が弱まっている中、私の灯火だけが逆に明滅を繰り返していた。試練が私を呼んでいる。
霧が晴れた。
今回の試練場は——書斎だった。
海の上に、書斎がある。荒唐無稽だが、現実として目の前に広がっていた。壁一面の書架。机の上に積まれた書物。灯火石のランプが天井から吊り下がり、温かな光を落としている。
この書斎を、私は知っている。
父の書斎だ。
ルーチェ島の研究所の一角にあった、父の個人研究室。書架の配置も、机の上の乱雑さも、壁に貼られた灯台の航路図も——全て、記憶のままだ。十三歳のあの日、父が死んで、私がノートを運び出した夜の、あの書斎。
足が震えた。
試練場の中央——父の机の上に、石柱の代わりに小さな灯火が浮かんでいた。青白い光。そしてその光が、声を発した。
——最も大切な知識を差し出せ。
知っていた。わかっていた。それでも、胸の奥が軋んだ。
灯火が——私のノートに反応している。胸元に抱え込んだ父のノートが、試練の灯火に引っ張られるように温かくなっていく。いや、温かいのではない。灯火がノートの中に宿っているのだ。父の灯火の残滓が。
このノートには、父の灯火が染み込んでいる。
何千時間もかけて書き込まれた文字の一つ一つに、父の思考の熱が宿っている。計算式の傍線に、発見の喜びが。余白のメモに、娘への愛情が。インクの掠れに、疲労と執念が。
これは——父との唯一の繋がりだ。
父は灯台を信じていた。学会から追放されても、「妄想家」と嘲られても、最後まで。
あの日のことを思い出す。
学会の公開討論の日。私は十二歳で、聴衆席の最前列に座っていた。父が壇上に立ち、灯台の実在を論じた。声は落ち着いていた。データは完璧だった。論理は一分の隙もなかった。
しかし、聴衆は笑った。
最初は一人。次に二人。やがて、講堂全体に嘲笑が広がった。「灯台は伝説だ」「実証不可能な仮説に価値はない」「ルーチェ教授は夢と現実の区別がつかなくなったか」。
父は——笑い返した。
嘲笑に対して、柔らかく笑った。そして静かに言った。
「いつか、誰かが証明してくれる。私の足では辿り着けなくとも、私の理論は正しい。いつか、私のノートを読んだ誰かが、自分の足で灯台に立つ日が来る」
講堂を出た後、父は私の手を取った。小さな私の手を、大きな手で包んで。
「ソレイユ、怖い思いをさせたね」
「怖くなんかない。お父さんは正しいもの」
父が笑った。嘲笑とは正反対の、温かい笑顔。
「ソレイユ。学者の仕事は机の上だけじゃない。本物を見なければ、本物の理論は生まれない。いつか、自分の目で確かめなさい」
それから二年後に、父は死んだ。
病室で、最後に父が握っていたのは——このノートだった。
「ソレイユ」
父の声がした。
幻聴ではない。試練の力だ。書斎の奥——父の椅子に、人影が座っていた。父の姿をした幻影。白衣を着て、眼鏡をかけて、ノートを開いている。生前の父と同じ姿。
私の足が凍りついた。
「ソレイユ。このノートを、差し出しなさい」
父の声で、試練が語りかけてくる。
「お前の旅に、このノートは必要ない。知識は——ここにある」
幻影の父が、自分の胸を指差した。
「お前の頭の中に、全てある。だから、差し出せ。ノートを」
わかっている。これは幻影だ。試練が見せる虚像だ。父ではない。
でも——声が、父と同じだった。
優しくて、穏やかで、少しだけ寂しそうな、あの声。
「……できない」
声が震えた。自分でも情けないと思ったが、抑えられなかった。
「このノートは、お父さんの——お父さんとの、唯一の」
言葉が続かなかった。
ノートを胸に抱きしめた。表紙の手触り。擦り切れた角。染み込んだインクの匂い。全てが父の記憶と結びついている。
これがなくなったら——私は、何を頼りに生きればいいのか。

これを失ったら——父と私を繋いでいた最後の糸が、切れてしまう。
ソレイユの背中が震えていた。
わたしは試練場の入口——父親の書斎を模した空間の入口に立って、ソレイユを見ていた。彼女が幻影の父親に語りかけている。声が震えている。あの冷静で論理的なソレイユが、今にも崩れ落ちそうになっている。
胸が痛い。
イグニスの時と同じだ。大切な人が苦しんでいるのを見ているのは、自分が苦しむよりずっと辛い。
でも、今回は——叫んで殴り込むわけにはいかない。
イグニスの試練は「差し出すな」と止めることができた。絆は二人のものだから、一方的な決定を拒否できた。
しかし、ソレイユのノートはソレイユのものだ。父親との繋がりは、ソレイユ自身の中にある。わたしが「差し出すな」と言ったところで、それはソレイユの問題を肩代わりすることにしかならない。
この試練は——ソレイユ自身が答えを見つけなければならない。
でも、わたしにできることがある。
ヒントを。答えではなく、答えに辿り着くためのヒントを。
わたしはソレイユのそばに歩いていった。幻影の父親がこちらを見た。青白い灯火の目。試練の番人が父親の姿を借りている。
「ソレイユ」
声をかけた。ソレイユが振り向いた。琥珀色の目が赤くなっている。泣いてはいない。でも、泣く寸前だ。
「ルナ——私は——このノートを——」
「ソレイユ、聞いて」
わたしはソレイユの前にしゃがんだ。彼女は床に座り込んでいたから、目線を合わせるために。
「お父さんの研究って、何だったの?」
「……灯台理論物理学。原初の炎の波動方程式。灯火枯渇のメカニズム解析。灯台の座標推定モデル——」
「それ、ノートに書いてあること?」
「……ああ」
「ソレイユの頭にも入ってる?」
ソレイユが黙った。
「何百回も読んだんでしょう? 全部覚えてるんでしょう?」
「……覚えている。全ページ。計算式も。傍注も。余白のメモも。父の筆跡の癖も。インクが掠れている箇所も。全て」
「じゃあ——お父さんの研究は、ノートの中じゃなくてソレイユの頭と心の中にあるよ」
ソレイユの琥珀色の目が、わたしを見た。
「ノートがなくても、ソレイユがお父さんの研究を覚えてる。お父さんの言葉を覚えてる。お父さんが灯台を信じてたことを覚えてる。それは誰にも奪えない。試練の番人にだって奪えない」
「……しかし——」
「ノートは物だよ。大切な物だけど、物は物。お父さんの研究はソレイユの中で生きてる。ソレイユが旅をしてること自体が、お父さんの研究の証明でしょう?」
ソレイユの唇が震えた。
「自分の目で確かめなさいって——お父さん、言ったんでしょう? ソレイユは今、それをやってるんだよ。ノートに書かれた理論を、自分の足で確かめに来てる。お父さんの研究は、もうソレイユの旅そのものになってるんだよ」
沈黙が落ちた。
試練場の空気が震えた。幻影の父親が——微かに、笑った気がした。
ソレイユが——泣いた。
初めて見た。
この旅の中で、ソレイユが泣いたのは初めてだった。いつも冷静で、論理的で、感情を表に出さない彼女が。眼鏡の奥から涙が溢れ、頬を伝って落ちた。
「非合理的だ」
ソレイユが笑いながら泣いていた。
「こんな——こんな単純な答えで——私は——」
涙が止まらない。眼鏡が曇って、ソレイユは外した。眼鏡のないソレイユの顔は、年相応の少女の顔だった。泣きじゃくる十七歳の女の子。
「知っていたんだ——頭では——ノートがなくても知識は消えないことくらい——でも——でも——」
「知ってることと、受け入れることは違うんだよ」
わたしはソレイユの手を取った。冷たい手。インクの匂いがする、細い指。
「手放すのが怖かったんでしょう? お父さんとの最後の繋がりを失うのが」
ソレイユが頷いた。声にならない嗚咽が漏れた。
「でもね、ソレイユ。お父さんとの繋がりは、ノートだけじゃないよ。ソレイユがお父さんの研究を続けてること。お父さんと同じ灯台を目指してること。お父さんみたいに、馬鹿にされても諦めないこと。全部がお父さんとの繋がりだよ」
ソレイユは長い間泣いた。
わたしはただ手を握っていた。他の仲間たちは試練場の入口で見守っている。マリンが不安そうな顔をしている。リラが静かに祈っている。イグニスは無表情だけれど、微かに拳を握っている。アッシュは——笑っていた。でも、いつもの軽薄な笑みとは違う。静かな、温かい笑み。
やがて、ソレイユの涙が止まった。
赤く腫れた目で、ソレイユは父のノートを見つめた。擦り切れた表紙。何百回も開いたせいで、背表紙の糊が剥がれかけている。
「……お父さん」
ソレイユは幻影の父親に向かって言った。
「私は、このノートがなくても——あなたの娘です。あなたの研究は、私の中にあります。一字一句、全て」
幻影の父親が——笑った。今度ははっきりと。試練の番人の仮面を超えて、父親の笑顔が滲んでいた。
ソレイユがノートを差し出した。
両手で。震える手で。でも、迷いなく。
「——お返しします。もう、これがなくても歩けますから」
ノートが幻影の父親の手に渡った。
瞬間——書斎が崩れた。壁が霧に溶け、書架が消え、灯火石のランプが砕ける。幻影の父親の姿も光に溶けていく。最後に残ったのは、青白い灯火だけ。
その灯火が——消えた。
静かに。穏やかに。試練の灯火が、自ら消えた。
試練が終わった。
差し出す覚悟を見せた瞬間——試練は満たされた。
そして。
ソレイユの足元に、ノートが落ちていた。
擦り切れた表紙。剥がれかけた背表紙。何百回も開かれた、父の研究ノート。
戻ってきた。
「……え?」
ソレイユが膝をつき、ノートを拾い上げた。表紙を撫でた。ページを開いた。父の筆跡が、そのままそこにあった。一字も失われていない。
「戻って——」
「執着を手放すことが、試練の本質だったのさ」
アッシュの声だった。吟遊詩人は試練場の縁に腰かけ、穏やかな海を眺めながら言った。
「差し出す覚悟を見せること。それ自体が答えだ。本当に奪うのが目的じゃない。——手放せるかどうかを、試しているんだよ」
ソレイユはノートを胸に抱きしめた。今度は、しがみつくようにではなく——大切なものを、大切に抱くように。
「非合理的だ……」ソレイユが、また泣きながら笑った。「試練の設計思想が非合理的すぎる。覚悟を見せれば返すなら、最初から取り上げる必要がないだろう……」
「それは試練に対する合理的な批判だ。でも、あなたは今泣いてる」
アッシュが笑った。
「合理性だけでは、涙は流せないだろう?」
ソレイユは何も言わなかった。ただ、ノートを抱きしめて泣いていた。
試練場の霧が晴れていく。海面が見えた。穏やかな、深い藍色の海。午後の光が波を照らして、きらきらと輝いている。
わたしはソレイユの隣に座って、彼女の肩にそっと手を置いた。
「おかえり、ソレイユ。ノートも」
「…………ああ。——ただいま」
その声は、涙で掠れていたけれど。
今まで聞いた中で、一番温かいソレイユの声だった。
夕方になった。
試練場を抜けた海は穏やかで、マリンが「操舵しなくても進むな」と言うほどだった。灯船は緩やかな潮流に乗って、西へ西へと進んでいく。
わたしは船の調理場に立っていた。
今日の夕飯は——気合を入れる。
ソレイユのためだ。あんなに泣いた後だもの。美味しいものを食べて、元気を出してほしい。
食材を確認する。白身魚の干物。ルーチェ島産の硬質小麦の粉。エミセラ島の香辛料。それからリラがくれた薬草、マリンが釣り上げた小さなイカ。全部使おう。
まず、小麦粉を練って薄い生地を伸ばす。灯し魔法で石板を熱して、パリパリに焼き上げる。その上に、出汁で煮込んだ白身魚のほぐし身を載せ、刻んだイカと香辛料を散らす。仕上げに薬草のソースをかける。
それから、具沢山のスープ。魚の骨と頭を煮出してとった出汁に、香味野菜と干し豆を加えてじっくり煮込む。味付けは塩と、少しだけ酸果汁。
最後に、甘いもの。干し果物を刻んで蜂蜜と和え、堅パンの上に載せる。砂漠の島に伝わるお菓子の作り方を、エミセラ島の市場のおばちゃんに教えてもらったのだ。
調理場から漂い出す匂いに、マリンが真っ先に反応した。
「なんだ、今日は豪勢だな」
「特別メニューだよ」
「誰の?」
「ソレイユの」
マリンは少しだけ黙って、それから「ふん」と鼻を鳴らした。
甲板に料理を並べた。大皿に盛った焼き生地の魚載せ。鍋ごと出したスープ。それから、小皿に分けた蜂蜜和えの干し果物。
「はい、夕ごはん!」
六人が甲板に集まった。
ソレイユは——目が腫れていた。泣いた跡が残っている。でも、眼鏡はちゃんとかけ直していて、背筋は伸びていた。
「これは……」ソレイユが焼き生地を見つめた。
「食べてみて」
ソレイユが一口、かじった。
咀嚼する。飲み込む。
琥珀色の目が——見開かれた。
「……非合理的だ」
出た。
「この調理環境と食材でこの味は非合理的だ。特にこのソース。薬草の苦味が魚の旨味を引き立てているが、通常この薬草は調味料としては使わない。独自の調合としか考えられないが、そのレシピの最適解にたどり着くプロセスが——」
「ソレイユ、分析はいいから食べなよ」
「——非合理的に、美味い」
ソレイユが二口目をかじった。三口目。四口目。スープにも手を伸ばした。一口飲んで、止まった。
「……この出汁は……」
声が詰まった。
ソレイユの目から、また涙がこぼれた。
「ちょっ——ソレイユ!? 口に合わなかった!?」
「違う……合いすぎる……」
ソレイユは涙を拭いもせずにスープを飲み続けた。涙が頬を伝い、顎から滴っている。その向こうで、スープの椀を両手で抱えて啜っている。
「お父さんが……こういう味の……スープが……好きだった……」
あ——。
偶然だった。意図していなかった。でも、魚の骨で出汁を取って、香味野菜と干し豆で煮込んだスープ。ルーチェ島の学者が好みそうな、素朴で滋味深い味。ソレイユの父親も、似たような味が好きだったのかもしれない。
マリンが横を向いた。ぷい、という感じで。でも頬が赤い。
リラが静かにソレイユの背中をさすった。
イグニスは無言でスープを飲んでいたが、ちらりとソレイユの方を見た。それから、小さく——本当に小さく——頷いた。何に対してかはわからないけれど。
「ソレイユ、泣きながら食べるのは行儀が悪いって言われない?」
「行儀の概念は文化依存的だ。ルーチェ島では食事に感動して泣くことは学術的感性の表れとして肯定的に捉えられる」
「嘘でしょ」
「嘘だ。だが——止められない」
ソレイユが泣きながら笑った。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で、スープを飲みながら、焼き生地をかじりながら。
「非合理的に美味い。非合理的に——温かい」
わたしは笑った。よかった。食べてくれて、よかった。
蜂蜜和えの干し果物まで全部平らげると、ソレイユは眼鏡を外して目を拭い、深く息をついた。
「……ルナ」
「なに?」
「ありがとう」
短い言葉だった。でも、ソレイユが「ありがとう」を言うのは珍しい。この人は感謝を「合理的な社交辞令」と見なす傾向があって、普段はあまり言わないのだ。
「どういたしまして。毎日作るからね」
「……毎日は流石に太る」
「太れ太れ。ソレイユは痩せすぎなんだよ」
ソレイユの口元がわずかに緩んだ。泣いた後の赤い目で、でも——柔らかい表情だった。いつもの理知的な冷たさの中に、少しだけ人間の温度が見える。
ソレイユが変わった、とわたしは思った。
いや——変わったのではなく、元々あったものが表に出てきただけかもしれない。論理と知識の鎧の下にずっと隠れていた、十七歳の少女。父を亡くし、一人で戦い続けてきた少女。
その鎧が——少し、緩んだ。
「試練の意味がわかってきたかい?」
アッシュが言った。吟遊詩人は甲板の端に腰かけ、小さなリュートを爪弾いている。夕日を背に受けて、逆光の中で笑っている。
「どういう意味?」
「三つの試練を越えた。記憶、絆、知識。差し出せと言われたものは、全て戻ってきた。なぜだと思う?」
わたしは考えた。ソレイユが「執着を手放すこと」と言った。アッシュ自身が「差し出す覚悟を見せること」と言った。
「試練は……本当に奪うのが目的じゃない?」
「そう。試練は——」
アッシュが言葉を切った。何かを言いかけて、飲み込んだように見えた。
「……まあ、続きは自分で見つけるものさ」
また、その台詞だ。
アッシュは意味深に笑って、リュートの旋律を変えた。今度は明るい曲。旅の歌。仲間と歩く道の歌。
夕日が海に沈んでいく。茜色から紫へ、紫から藍へ。星が一つ、二つと灯り始める。
甲板にはまだ温かい空気が残っていた。食事の余韻と、仲間たちの灯火の温もり。
わたしは空になった皿を集めながら思った。
三つの試練を越えた。あと四つ。
次は誰の番だろう。マリンか、リラか——あるいは。
でも、怖くはなかった。
だって、わたしたちは一人じゃないから。
夜更け。船室の灯火を最小に絞り、私はノートを開いていた。
試練の後だった。目はまだ少し腫れている。泣きすぎた。科学者として恥ずかしい限りだが——恥ずかしいとは思えなかった。むしろ、泣けたことに安堵している自分がいた。
ノートのページをめくる。
父の筆跡。見慣れた計算式。余白のメモ。
「ソレイユ、この式の導出が美しいと思わないか?」
思う。美しいと思う。十三歳の頃からずっと。
でも——今は、それだけではなくなった。
私はペンを取り、ノートの最後のページを開いた。白紙のページ。父が書き残さなかったページ。ここから先は、私が書く。

日付を記した。場所は——正確な座標は不明。「第三の試練場跡」とだけ書いた。
「父の仮説は正しい」と書いた。
灯台は実在する。試練が存在すること自体が、灯台が実在することの間接的証拠だ。試練は灯台への道に設けられた関門であり、関門が存在するならば、その先に門が守るべき対象が存在する。論理的帰結として。
ここまでは、いつも通りの思考だ。科学者としての分析。
しかし——ペンが止まった。
書きたいことが、もう一つあった。
私はしばらく白紙のページを見つめ、それからゆっくりと書いた。
「この旅は、当初の目的から逸脱しつつある」
灯台の実在を証明する。父の仮説を立証する。学界に父の名誉を回復する。それが私の旅の目的だった。
しかし今——私は、証明のためだけに旅をしているのだろうか。
ルナが作った夕食の味を思い出す。魚の焼き生地と、あのスープ。父が好きだった味に似ていた。偶然だろう。ルナは父の好みなど知るはずがない。でも——あの温かさは、偶然ではない。
ルナは毎日、仲間のために料理を作る。イグニスに二杯目のお粥をよそい、マリンの「まあまあ」を笑って受け流し、リラにお茶を淹れ、アッシュの酒の肴まで用意する。そして私には——「毎日作るからね」と笑う。
そんなことを言われたのは、父の死後、初めてだった。
いや——父が生きていた頃でさえ、あまり言われなかった。父は研究に没頭する人だったから、食事はいつも適当だった。二人で乾パンをかじりながら数式の話をしていたことを覚えている。
今日の試練で、ルナが言った言葉。
「お父さんの研究はソレイユの中で生きてる」
非合理的な言葉だ。科学的根拠がない。知識がノートの中にあるか頭の中にあるかは、情報の物理的な所在の問題であって、「生きている」という比喩は正確ではない。
でも——正しかった。
論理的には不正確だが、本質的には正しかった。
父の研究は、確かに私の中で生きている。数式として、理論として、そして——父の声として。「学者の仕事は机の上だけじゃない」という、あの言葉として。
ペンを走らせた。
「この旅の目的を再定義する必要がある」
灯台の証明。それは依然として重要だ。しかし、それだけではなくなった。
この船には五人の仲間がいる。巫女見習いの少女と、元暗殺者の少年と、生意気な操舵手と、贖罪を背負った元巫女と、正体不明の吟遊詩人。そして私。
六人の旅。
証明のための旅が——いつの間にか、仲間との旅に変わり始めている。
それは本来の目的からの逸脱だろうか。
いや——逸脱ではない。
父が言ったのだ。「本物を見なければ、本物の理論は生まれない」と。
灯台を自分の目で見ること。それは一人でもできる。しかし、灯台の意味を——試練の本質を、犠牲の真の意味を理解するには、仲間が必要だった。
一人では、あの試練を越えられなかった。
ルナの言葉がなければ、私はノートにしがみついたまま、試練場から出られなかっただろう。
「証明のための旅」から「仲間との旅」へ。
それは科学的後退ではない。むしろ——仮説の拡張だ。灯台の実在を証明するだけでなく、灯台の意味を解明する。なぜ試練があるのか。なぜ犠牲を要求するのか。なぜ——差し出したものが戻ってくるのか。
その答えは、一人の頭の中では見つからない。
仲間と共に旅をする中で、初めて見えてくるものがある。
ノートに最後の一文を書いた。
「仮説: 灯台が真に求めているのは犠牲ではなく、犠牲を払わずに前に進む方法を見つける覚悟である。根拠: 三つの試練のデータから帰納。検証方法: 残る四つの試練を通じた実地検証。——そして、この仲間たちと共に」
ペンを置いた。
科学者として、最後の一文は蛇足だ。論文なら削除する。
でも、これはノートだ。父がそうしたように、読者はたった一人——未来の自分だけ。だから、書いてもいい。
甲板から、ルナの鼻歌が微かに聞こえた。食器を洗いながら歌っているのだろう。音程が少しずれている。でも——温かい歌だ。
私は眼鏡を外し、ランプの灯火を見つめた。
父の灯火に似ている。温かくて、穏やかで、少しだけ寂しい光。
でも——もう、寂しくはなかった。
ノートを閉じて、枕元に置いた。擦り切れた表紙を、一度だけ撫でた。
おやすみなさい、お父さん。
あなたの娘は、今日も仲間と一緒に、灯台を目指しています。