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第8章

第四の試練──夢

パート1

 海が、嫌な色をしていた。

 夜明け前の水面は鉛色で、空との境い目がどこにあるのかわからない。灯船の舳先が波を切るたびに、白い飛沫が暗闇に消えていく。操舵輪を握るあたしの指先は冷えきっていて、感覚がほとんどない。

 第四の試練は、何の前触れもなく始まった。

 海図にもない岩礁が突然現れて、マリンが全力で舵を切った瞬間——海が割れた。比喩じゃない。本当に割れたのだ。灯船の前方の海面が左右にめくれるようにして開き、その底に巨大な石の門が出現した。石の門には灯火文字が刻まれている。第三の試練の門と同じ意匠だけど、色が違う。深い藍色の灯火文字が、海水に濡れながら脈打っている。

 ルナが甲板に駆け出てきた。イグニスとソレイユとリラが続く。アッシュだけが船尾の欄干に腰掛けたまま、いつもの気楽な笑みを浮かべていた。

「第四の試練だ」

 アッシュが竪琴を鳴らしながら言った。弦の音が妙に響く。海の底から反響してくるみたいに。

「今回は誰の番かなあ」

 あたしはアッシュの言い方が嫌いだ。知ってるくせに。こいつはいつだって、知ってるくせに知らないフリをする。

 石の門が開いた。

 中から光が溢れ出す——温かくて、柔らかくて、どこか懐かしい橙色の光。

 その光があたしの目を射した瞬間、全身の毛が逆立った。

 光の中に声がある。

『最も大切な夢を差し出せ』

 声は重低音で、頭の中に直接響いてくる。内臓が揺れるような振動。第一の試練では「記憶」、第二の試練では「絆」、第三の試練では「知識」を要求した。

 今回は、「夢」。

 六人の視線が、あたしに集まった。

 わかる。試練の光が、あたしだけを照らしている。ルナの時のように、イグニスの時のように、ソレイユの時のように——光は的確に、その試練に対峙すべき者を選び出す。

 今度はあたし。マリン・エミセラ。十四歳。孤児。操舵手。金にがめつくて口が悪い、波止場のガキ。

「マリン——」

 ルナが声をかけようとしたのを、あたしは右手で制した。

「わかってるよ。あたしだろ」

 声が震えていないことを確認して、操舵輪から手を離した。

 石の門に足を踏み入れる。

 その瞬間、世界が変わった。

 船がなくなった。海がなくなった。仲間たちの声が遠ざかって、やがて聞こえなくなった。

 代わりに広がったのは——家だった。

 白い壁の、小さな家。窓には青い花柄のカーテンがかかっていて、テーブルの上に湯気の立つ鍋がある。壁には手作りの飾り棚があって、貝殻を集めた小箱や、子供が描いたへたくそな船の絵が飾られている。台所からは煮込み料理の匂い——玉ねぎと肉と香草が溶け合った、甘くて温かい匂い。

 エミセラ島の港町の、どこかにある家。あたしが見たことのない、でも知っている家。

 テーブルには椅子が四つ。そのうちの一つに、あたしが座っている——違う。あたしじゃない。あたしより少し小さい女の子。六つか七つくらい。海色の短い髪と、碧い目。あたしだ。小さい頃のあたし。

 小さいあたしの隣に、女の人が座っていた。

 顔はわからない。ぼんやりとしていて、輪郭だけがある。でも手だけははっきり見えた。小さいあたしの頭を撫でている、温かそうな手。

「マリン、おかわりは?」

 女の人の声。柔らかい声。誰の声かわからない。でも、その声を聞いた瞬間、あたしの目の奥が熱くなった。

 向かい側にも誰かが座っている。大きな人。やっぱり顔はわからないけれど、大きな手でパンをちぎって、小さいあたしの皿に載せている。

「ほら、パン好きだろ。たくさん食べろ」

 低い声。あたしは知らないはずの声。でも、知っている。ずっと聞きたかった声。

 お父さんと、お母さん。

 あたしが一度も持ったことのない、家族。

「いただきます!」

 小さいあたしが元気な声で手を合わせた。女の人と男の人が笑う。顔は見えないのに、笑っているのがわかる。空気が笑っている。部屋全体が温かくて、明るくて、煮込み料理の湯気が天井に昇っていく。

 やめろ。

 あたしは心の中で叫んだ。

 見せるな。

 これを見せるな。

 幻影は止まらない。場面が変わる。

 朝。小さいあたしが毛布から顔を出すと、台所から朝ごはんの匂いがする。女の人が「おはよう、マリン」と言う。あたしはまだ眠たくて、でもその声が聞こえたから起きる。テーブルにはあたしの分のパンとスープが用意されていて、隣の椅子に制服がきちんと畳んで置いてある。

 学校に行く。門の前で「行ってらっしゃい」と手を振ってもらう。帰ってきたら「おかえり」と言ってもらう。夕飯は三人で食べる。夜は毛布にくるまって、女の人が子守唄を歌ってくれる。嵐の夜は怖くない。隣に誰かがいるから。

 当たり前の日常。どこにでもある、何でもない日常。

 あたしが一度も手に入れたことのない——夢。

 胸が痛い。

 知ってたんだ。こんなもの、あたしにはないってこと。波止場で生まれて、波止場で育って、最初の記憶が木箱の陰で震えてた夜で。「おはよう」も「おかえり」も「おやすみ」も、誰にも言ってもらったことがない。

 港の大人たちは優しくはなかった。でも意地悪でもなかった。ただ、関心がなかっただけだ。あたしは誰の子供でもなかった。誰も、あたしを選んでくれなかった。

 だから金で動くことにした。金は確かだから。金は裏切らないから。金があれば、一人でも生きていける。

 一人でも、大丈夫。

 大丈夫なはずだった。

 幻影がさらに形を変えていく。

 小さいあたしが大きくなる。あたしと同じ、十四歳。海色の髪を風になびかせて、あの家から駆け出していく。港に向かう坂道を走る。でもエミセラ島の港は、あたしが知ってるのと全然違う。灯りが多い。人が多い。活気がある。そして坂道の上の家の窓から、女の人が手を振っている。

「マリン! 夕飯までに帰っておいでよ!」

「わかってるって!」

 幻影のあたしが笑いながら振り返って叫んだ。その顔が——眩しかった。あたしと同じ顔なのに、あんな笑い方をしたことがない。あんなに無防備に、何も恐れずに、全部信じきった顔で笑ったことが——あたしには一度もない。

 泣くな。

 あたしは自分に言い聞かせた。

 泣くな。泣いたら負けだ。泣いたら、認めたことになる。これが欲しいと。ずっとずっと、欲しかったと。

 でも、目の奥が灼けるように熱い。

 喉の奥が締めつけられて、呼吸がうまくできない。

『これがお前の夢だ』

 試練の声が、頭の中に響いた。

『お前が最も大切にしている夢。差し出せ。この夢を捨てれば、試練は解ける』

 差し出す。

 この夢を、捨てる。

 「家族が欲しい」——あたしの中にある、たった一つの、どうしようもなく馬鹿みたいな願い。それを捨てれば、試練は終わる。

 捨てられるのか。

 捨てたら、あたしには何が残る。金で動く操舵手。契約で動く波止場のガキ。誰の子供でもなく、誰にも選ばれず、一人で海の上を走り続けるだけの——

『差し出せ』

 声が大きくなる。幻影が強くなる。幻の家が、幻の食卓が、幻の「おかえり」が、あたしの周りを取り囲む。手を伸ばせば届きそうなのに、指先がすり抜ける。触れられない。あたしのものじゃないから。最初から、あたしのものじゃなかったから。

 あたしは——

 膝から力が抜けた。

 冷たい石の床に崩れ落ちた。


孤児の見た夢

パート2

 あたしは泣いていた。

 いつから泣いていたのかわからない。気がついたら、試練の門の中で膝をついて、両手で顔を覆って、声を殺して泣いていた。

 幻影はまだ続いている。家族の食卓。温かい匂い。「おかえり」の声。全部が嘘で、全部があたしの妄想で、全部がどうしようもなく——欲しいもの。

 足音が聞こえた。

 石の門の向こうから、複数の足音。

「マリン!」

 ルナの声だ。走ってくる。あたしは顔を上げなかった。上げられなかった。

「マリン、大丈夫!?」

 声が近い。もう目の前にいる。あたしの肩に、温かい手が触れた。

「やめろ——」

 自分でも驚くほど、掠れた声が出た。

「見るな……」

 この顔を見るな。泣いてるところを見るな。あたしの一番みっともないところを——一番弱いところを——見るな。

「マリン」

 ルナの声が、穏やかだった。怒ってない。呆れてない。憐れんでもいない。ただ、静かに、あたしの名前を呼んでいる。

「見ちゃった。ごめんね」

 ルナが、あたしの隣に膝をついた。石の床が冷たいはずなのに、ルナの体温があたしの肩を通じて伝わってくる。

 試練の幻影が、ルナたちにも見えているのだ。

 あたしの夢が、丸裸にされている。

 「家族が欲しい」。十四歳の孤児の、馬鹿みたいな願い。金にがめつくて口が悪くて生意気なあたしの、本当の本当の、一番奥にある——弱さ。

「見るなって……言っただろ……」

 声がぐちゃぐちゃだ。鼻水も出てる。かっこわるい。最悪だ。

 イグニスが少し離れた場所に立っていた。無表情のまま、あたしの方を見ている。ソレイユが腕を組んで、幻影を観察するように眺めている。リラが悲しそうな目で、でもあたしを責めるでもなく、ただ見ている。アッシュだけが門の外にいた。

 全員に見られている。あたしの一番隠しておきたかったものを。

「マリン」

 ルナが言った。声は優しくて、でも真っ直ぐで、逃げ場がない声だった。

「マリン、もう家族じゃん。私たち」

 あたしの思考が、一瞬止まった。

「なに……言って……」

「だって、そうでしょ? 毎日一緒にごはん食べて、一緒に寝て、一緒に船に乗って。マリンが舵を握って、私がごはんを作って、イグニスが見張りをして、ソレイユが航路を考えて、リラがみんなのことを見てくれて。それって——家族でしょ?」

「ちが……」

「何が違うの?」

 ルナの目が、あたしを真っ直ぐに見ていた。灯火の光が滲んでいて、あたしの視界が涙でぐちゃぐちゃなのか、ルナの灯火が眩しいのか、もうわからなかった。

 イグニスが、口を開いた。

「……同じだ」

 あたしはイグニスを見た。涙で滲んだ視界の向こうに、赤い瞳。無表情。でも——声が、ほんの少しだけ震えていた。

「俺も——孤児だった。影灯機関に買われるまで。家族を知らない。だから、同じだ」

 イグニスがそれ以上何も言わなかったけれど、あたしには十分だった。同じだ、というその一言が。この冷たい石の床の上で、あたしの泣き声しかない空間の中で、イグニスの「同じだ」は、おむすびみたいにシンプルで、重かった。

「合理的に言えば」

 ソレイユが眼鏡を押し上げながら言った。

「家族の定義は『血縁関係にある集団』に限定されない。社会学的には、生活を共にし、相互に扶助し合い、感情的な絆で結ばれた集団も、家族の定義を満たす。つまり——」

 ソレイユはそこで一度言葉を切って、いつもの理論的な語り口から少しだけ声のトーンを落とした。

「既に、私たちは家族の定義を満たしている。データとして」

 ソレイユの頬が、ほんの少しだけ赤かった。

 リラが、あたしの傍に来て膝をついた。

「マリンちゃん」

 リラの手が、あたしの背中に触れた。大きな、温かい手。

「隠さなくていいよ。恥ずかしいことじゃない。家族が欲しいって思うのは、当たり前のことだよ」

「当たり前なんか……あたしに、当たり前なんかないんだよ……」

 声が出ない。喉がぐちゃぐちゃだ。鼻水で息がしにくい。泣くのを止めたいのに止められない。十四年分の——ずっとずっと、木箱の陰で丸くなっていた頃から溜め込んできた何かが、堰を切って流れ出している。

 ルナがあたしの肩を引き寄せた。

 温かい。

 ルナの体温。ルナの灯火。あの馬鹿みたいに明るい灯火が、あたしの冷えきった灯火にじんわりと沁み込んでくる。

「マリン。おかえり」

 ルナが、言った。

 あたしが一度も言ってもらったことのない言葉を。

 何でもないように。当たり前のように。

「おかえりって——あたし、どこにも行ってないだろ——」

「この船に帰ってきたでしょ。試練の中から、ここに。だからおかえり」

 反論できなかった。

 だって——泣くのが止まらなかったから。

「うるさいバカ! 泣かすな!」

 泣きながら怒鳴った。鼻水を袖で拭いながら怒鳴った。最悪にかっこ悪い。世界で一番みっともない十四歳だ。

 でも——試練の幻影が、消えていた。

 白い壁の家も、花柄のカーテンも、煮込み料理の匂いも、顔のわからないお父さんとお母さんも。全部消えて、代わりに目の前にあるのは仲間たちの顔。ルナの笑顔。イグニスの無表情。ソレイユの赤くなった頬。リラの優しい目。

 試練の声が聞こえた。小さく、遠く。

『夢は——既に叶えられている』

 石の門が崩れるように消えていく。灯火文字が一つずつ消灯し、試練の空間が解けていく。海が戻ってくる。潮風が肌に触れる。灯船の甲板の木の感触が、足の裏に戻ってくる。

 夢を差し出す必要がなかった。

 差し出すまでもなく、もう叶っていたから。

 あたしは——まだ泣いていた。

 でも、泣きながら、ルナの肩に額を押しつけて、もごもごと何かを言った。

「……バカ」

「はいはい」

「うるさい」

「はいはい」

「その、はいはいって言うの……やめろ……」

「はいはい」

 泣き笑いが出た。最悪だ。本当に最悪だ。

 でも——悪くなかった。


パート3

 試練の後、わたしはマリンのために何かしてあげたくて——結局、いつもの答えに行きついた。ごはんを作ろう。

 嵐の後の海は穏やかだった。試練の石の門があった場所には何も残っておらず、夜明けの光が水平線にかかり始めている。淡い桃色と藍色が溶け合った空の下で、灯船はゆるやかに揺れていた。

 わたしは船の小さな竈に灯火で火を点けて、保存食の干し肉と乾燥野菜を鍋に放り込んだ。水を注いで煮込む。シンプルなスープだけど、塩と香草をちゃんと入れれば十分においしくなる。

 ことこと煮込んでいる間に、残りの硬パンを薄く切って、鉄板の上で焼いた。灯し魔法で火加減を調整して、かりかりになるまで。パンが焼ける香ばしい匂いが甲板に広がって、マリンの鼻がぴくりと動くのが見えた。

 マリンは船尾の隅に座っていた。泣き腫らした目は赤くて、まだ少し瞼が膨らんでいる。こっちを見ないようにしているけど、匂いにはどうしたって反応してしまうらしい。

「ごはんできたよ」

 わたしは大きめの椀にスープをたっぷりよそって、焼いたパンを添えて、マリンのところに持っていった。

 マリンは黙って受け取った。

 一口、スープを啜る。

 それから、パンをスープに浸して食べる。泣き腫らした目のまま。赤い鼻のまま。何も言わないまま。

 でも——食べている。ちゃんと食べている。

 わたしは自分の分のスープを持って、マリンの隣に座った。

 しばらく無言で食べた。潮風が心地いい。朝日が海面を金色に染め始めて、昨夜の嵐が嘘みたいだった。

 ソレイユが海図を広げて航路を確認している。イグニスは帆綱の補修をしている。リラがお茶を淹れてくれていて、アッシュが船首で海を眺めている。いつもの朝だ。いつも通りの、何でもない朝。

「ルナ」

 マリンがぼそりと言った。

「なに?」

「……おかわりある?」

 わたしは笑った。嬉しかった。

「あるよ。もう一杯」

 鍋からスープをよそって渡す。マリンはまた黙って食べ始めた。さっきより少しだけ、食べるスピードが速い。

「パンも、もう一枚焼こうか?」

「……頼む」

 素直だ。いつもなら「別にいらねーけど、焼くなら食ってやる」とか言うのに。今日のマリンは——鎧を脱いだマリンは、ただの十四歳の女の子だった。

 パンを焼いている間に、リラがお茶を持ってきてくれた。

「はい、マリンちゃん。温かいお茶」

「……ども」

 マリンがリラから杯を受け取る。両手で包むようにして持って、ふうふう冷ましている。泣き腫らした目の上を、湯気が流れていく。

 ソレイユが海図を畳んで近づいてきた。

「マリン。現在位置を確認してほしい」

「……ん」

 マリンはお茶を一口飲んでから立ち上がり、舵輪のところに歩いていった。海面を見て、空を見て、風を感じて——すぐに答えた。

「北緯三十二度あたり。西経百四十七。エミセラ島から西に百二十リーグ。この潮の流れだと、もう少し南に流されてる」

「……体感だけでそこまで正確に出せるのは、やはり非合理的だ」

 ソレイユの口調はいつも通りだった。でも、マリンを見る目がいつもより少しだけ柔らかい気がした。

 マリンが舵輪に手をかけて、航路を微調整する。泣き腫らした目のままで。赤い鼻のままで。でも、舵を握る手は確かだった。この子の操舵術だけは、何があっても揺らがない。

 穏やかな時間が流れた。

 スープの鍋が空になった頃、マリンが不意に言った。

「なあ」

「うん?」

「さっきの——試練のやつ。あたしが言ったこと、忘れろよ」

「え、何て言ったっけ」

「だから——」マリンの頬が赤くなった。「家族がどうとか、バカがどうとか——全部忘れろ」

「うーん、もう覚えてないかも」

「嘘つけ! 絶対覚えてるだろ!」

「あはは、覚えてる」

「このッ——!」

 マリンが空の椀を振り上げた。振り上げただけで投げなかったけど。

「でも忘れないよ。マリンが泣いたこと。マリンの願い。全部覚えてる」

「…………」

 マリンは何も言わなかった。椀を下ろして、そっぽを向いた。耳が赤い。

「——貸しだからな」

「え?」

「あたしが泣いたのは貸しだ。いつか返せよ」

 泣いたことが「貸し」になるのか。マリンの損得勘定は本当にわからないけれど——でもきっと、これはマリンなりの照れ隠しなんだろう。わたしは笑って「わかった、いつか返すよ」と答えた。

 その時だった。

 ソレイユが海図から顔を上げた。眼鏡の奥の琥珀色の目が、南東の水平線を凝視している。

「ルナ」

 ソレイユの声のトーンが変わっていた。いつもの冷静な声が、かすかに硬い。

「あれを見てくれ」

 わたしは立ち上がって、ソレイユが指差す方向を見た。

 水平線の上に、黒い点が並んでいた。一つ、二つ、三つ——数えきれない。ゆっくりと、でも確実にこちらに近づいてくる黒い点の群れ。

 イグニスが帆柱の上から滑り降りてきた。赤い瞳が鋭くなっている。

「軍船だ。フェロスの艦隊」

 その言葉で、甲板の空気が凍りついた。

 アッシュが竪琴の弦を止めた。リラが息を呑んだ。マリンが舵輪を握り直した。

「数は十二。旗艦は——」イグニスが目を細めた。暗殺者の訓練で鍛えられた視力が、常人には見えない距離の情報を読み取る。「影灯機関の紋章だ。ヴォルクスが率いている」

 ヴォルクス。フェロス島の影灯機関の長。イグニスを暗殺者として育てた男。「弱い島から灯火を奪い、強い島に集約する」計画を推進する男。

 あのヴォルクスが、自ら艦隊を率いて追ってきた。

「イグニスを脱走者として。ルナを灯火の回収対象として。追跡してきたんだろう」ソレイユが分析した。「試練の門が開くたびに灯火の放出があったはずだ。あの規模の灯火反応なら、相当な距離からでも探知できる」

「それ、つまりあたしたちの居場所がバレたってことか」マリンが舌打ちした。

「そういうことだ。しかも向こうは軍船十二隻。こちらは灯船一隻。速度差を考えると、約二刻で追いつかれる」

 二刻。それだけしかない。

 わたしの胸の中で灯火が揺れた。怖い。正直に言えば、怖い。ヴォルクスの名前を聞くたびに、イグニスの灯火がわずかに暗くなるのを感じる。あの男は、イグニスから感情を奪い、灯喰いの技を叩き込んだ張本人だ。

 でも——怖いからって、止まるわけにはいかない。

「逃げよう」

 わたしは言った。

「戦うの?」ソレイユが訊いた。

「違う。逃げるの。全員で。戦わずに逃げ切る方法を探す」

「十二隻の軍船から、一隻の灯船で? 論理的には——」

「論理なんか知るか」

 マリンが遮った。泣き腫らした目のまま、碧眼にいつもの負けん気の火が灯っていた。

「あたしの操舵術を舐めんなよ、メガネ。論理で船は動かないって言っただろ」


影灯機関の襲来

パート4

 二刻が一刻半に縮まった。

 ソレイユの予測は正確だった。フェロスの軍船は灯火推進を全開にしていて、あたしたちの灯船より圧倒的に速い。追いつかれるのは時間の問題だった。

 でも、「時間の問題」を「時間稼ぎの問題」に変えることはできる。

「全員、持ち場について!」

 マリンが叫んだ。試練で泣き崩れていた少女はもういない。舵輪の前に立つ操舵手の顔だった。

「ソレイユ! この海域の海流データ、全部出せ!」

「既に計算してある。北西三リーグ先に反転潮流がある。通常の船なら近づかない海域だ。海底地形が複雑で、潮流が不規則に渦を巻いている」

「不規則——いいね。あたし向きだ。座標!」

「北緯三十二度十四分、西経百四十七度五十一分。ただし潮流の変化が激しい。半刻ごとにパターンが変わる」

「半刻で十分だ。その先は?」

「珊瑚礁帯。水深が極端に浅い。軍船の喫水では通過不能」

「よし。ルナ!」

「うん!」

「灯守りで船体を強化しろ。珊瑚礁に突っ込むから、船底が持つようにしてくれ」

「わかった!」

 わたしは船底に駆け下りて、両手を船体の内側に当てた。灯守りの魔法を流し込む。船の木目に金色の光が走り、繊維の一本一本を強化していく。母さんの灯火石ランタンが胸元で温かく光った。

「イグニス!」

「……何だ」

「後方の警戒。もし射程に入ったら、灯しで威嚇射撃。当てなくていい、追いつけないって思わせろ」

「了解した」

 イグニスが船尾に移動した。彼の灯火が暗い赤色に揺れる。灯喰いの技ではなく、灯しの攻撃魔法。暗殺者の灯火は暗いけれど、その分だけ制御が精密だ。

「リラ! 帆の調整頼む! あたしの声で帆の角度を変えてくれ。細かい指示出すから!」

「任せて」リラが帆索に手をかけた。元巫女として旅に慣れたリラの手つきは迷いがない。「マリンちゃんの指示通りにするわ」

「アッシュ! お前は——」

「はいはい、邪魔しないで見てるよ」

「それでいい!」

 マリンが舵輪を握り込んだ。碧眼が海面を読む。風を読む。潮を読む。波の声を聴く。

 灯船が、変わった。

 それまで穏やかに波に揺られていた船が、マリンの操舵で別の生き物になった。舳先が波を切る角度が変わり、帆が風をはらむ角度が変わり、船全体が海面を滑り出す。

「帆、左舷十五度!」

「了解!」

 リラが帆索を引く。帆の角度が変わった瞬間、横風を受けた灯船がぐんと加速した。

「ソレイユ、反転潮流までの距離!」

「あと一・五リーグ。右舷側に寄れ。そこに下り潮の筋がある」

「見えた!」

 マリンの目が光った。海面の微かな色の違い——潮流が変わる境目を、この少女は目で見ることができる。

 灯船が下り潮に乗った。船底を撫でるように潮流が押し、速度が一段上がる。追っ手との距離が、わずかに開いた。

 振り返ると、フェロスの軍船団が黒い影となって迫っている。旗艦の甲板に、一人の男が立っているのが見えた。大柄な影。腕を組んで、こちらを見つめている。距離がありすぎて顔は見えないけれど、イグニスの灯火が一瞬暗く揺れたから、あれがヴォルクスなのだとわかった。

「イグニス」

 わたしはイグニスの傍に行った。

「あいつは俺が食い止める」

 イグニスがそう言った。

 知ってた。イグニスはそう言うと思った。第一の試練の時もそうだった。第二の試練の時もそうだった。この子はいつも、自分一人で何とかしようとする。自分を盾にして、わたしたちを逃がそうとする。

「ダメ」

「俺なら——」

「ダメだよ。一緒に逃げるの」

 わたしはイグニスの手を掴んだ。冷たい手。指が長くて、骨張っている。暗殺者の手。でも、今はわたしの仲間の手だ。

「イグニス、あなたを置いていくのは嫌。絶対に嫌。あなたが殿を務めて、万が一ヴォルクスに捕まったら——わたしたちは何のために旅をしてきたの?」

 イグニスの赤い瞳が、わたしを見た。何か言いかけて——口を閉じた。

「ルナ、イグニス! 掴まれ!」

 マリンが叫んだ。

 灯船が急旋回した。反転潮流の渦に突入したのだ。船体がぐるりと回され、甲板が大きく傾く。わたしはイグニスの手を掴んだまま、帆柱にしがみついた。

 反転潮流。潮の流れが複雑に入り組んだ海域。通常の船なら制御を失って座礁する。

 でも、マリンは違った。

 渦の中で、マリンの操舵は踊っていた。舵輪を右に切り、すぐに左に戻し、半回転させてまた右に。船体が渦に翻弄されているように見えて、実際にはマリンが渦の力を利用して加速している。

「帆、畳め! 全開にしろ! また畳め!」

 リラが叫び声に合わせて帆索を操る。帆を開いて風を掴み、閉じて抵抗を消し、また開いて推進力に変える。リラの動きは的確で、マリンの声に半拍も遅れない。

「ソレイユ、珊瑚礁帯までのルート!」

「正面から十度右。水深三ファゾム以下の浅瀬が断続的に続く。水深二ファゾム未満のポイントが六箇所。軍船の喫水は四ファゾム——通れない」

「あたしたちの灯船の喫水は?」

「一・五ファゾム。通過可能だが、珊瑚礁への接触リスクが極めて高い。船底強化の状況は?」

「ルナ!」マリンがこっちを見た。

「大丈夫! 灯守りで強化してある! 多少擦っても持つ!」

「多少じゃ済まないかもしれないぞ!」

「大丈夫だって! わたしの灯守りを信じて!」

 マリンが一瞬、碧眼を見開いた。それから——笑った。泣き腫らした目のまま、さっきまで号泣していた顔のまま、にかっと笑った。

「信じるよ。——全員掴まれ! 珊瑚礁帯に突入する!」

 灯船が珊瑚礁帯に飛び込んだ。

 海の色が変わった。深い藍色から、急にエメラルドグリーンに。透き通った浅い海の底に、色とりどりの珊瑚が広がっている。美しい——けれど、その珊瑚の一つ一つが船底を引き裂く刃だ。

 がりがりがり、と船底が珊瑚を擦る音が響いた。わたしの灯守りが金色に光って、船底の木材を守る。灯火が削られていくのがわかる。でも、まだ保つ。

「右! 右に寄れ!」ソレイユが海図と海面を交互に見ながら叫んだ。「左側は水深一ファゾム! 座礁する!」

「見えてる!」

 マリンが舵を切る。灯船が珊瑚礁の隙間を縫うように進んでいく。左に珊瑚の壁、右に珊瑚の壁。その間をすり抜ける船。エミセラ島の岩礁をすり抜けた時と同じ——いや、あの時より遥かに難しい航路を、マリンは泣き腫らした目で、正確に、読み切っていた。

 イグニスが船尾で灯しを放った。暗い赤色の光弾が、追ってくるフェロス軍の先頭艦の進路上に着弾する。海面が爆ぜて水柱が上がり、先頭艦がたまらず舵を切った。

「当てるな! 牽制だけだ!」マリンが叫んだ。

「わかっている」

 イグニスの灯しは正確だった。軍船に当たらないぎりぎりの位置に着弾させて、進路を妨害する。追ってくる軍船が珊瑚礁帯の入り口で減速するのが見えた。喫水が深い軍船は、この浅瀬に入れない。

「迂回するぞ、向こうは!」マリンが舵輪を握りながら振り返った。「珊瑚礁帯を抜けた先で合流しようとする。時間を稼げるのは——半刻もない」

「半刻あれば十分だ」ソレイユが海図を指差した。「珊瑚礁帯の先に、風の谷がある。地形的に風が加速する狭い海峡。灯船なら風だけで軍船の灯火推進を上回る速度が出る」

「風の谷——知ってる。エミセラの密輸船乗りの間で噂になってた海域だ。本当にあったのか」

「文献上の記録では——」

「いい、信じる。行くぞ!」

 珊瑚礁帯を抜けた灯船が、風の谷に突入した。

 風が変わった。

 穏やかだった空気が、海峡の地形に圧縮されて唸りを上げる。帆がばん、と音を立ててはらんだ。灯船が矢のように加速する。

「リラ、帆を全開! 全部だ!」

「了解!」

 リラが帆索を全て解き放った。帆が膨れ上がり、灯船が海面を滑るように駆け抜ける。風の力だけで、灯火推進を使わずに、軍船の速度を凌駕する。

 振り返ると、珊瑚礁帯を迂回してきたフェロスの艦隊が、風の谷の手前で止まっているのが見えた。狭い海峡に軍船を入れるのは危険だと判断したのだろう。

 距離が開いていく。

 どんどん開いていく。

 黒い点になった艦隊が、やがて水平線の向こうに消えた。

 灯船の甲板に、沈黙が落ちた。

 それから——マリンが、ぷは、と息を吐いた。

「逃げ切った……」

 全員の力が抜けた。

 わたしは甲板にへたり込んだ。イグニスが帆柱に背を預けた。ソレイユが海図の上に突っ伏した。リラが帆索を握ったまま座り込んだ。マリンだけが舵輪を握ったまま立っていたけれど、膝が少し震えていた。

「すごい……すごいよマリン! みんなも!」

 わたしは声を上げた。嬉しくて、安堵して、涙が出そうだった。

「マリンの操舵術がなかったら沈んでた。ソレイユの海流分析がなかったら珊瑚礁帯を見つけられなかった。イグニスの牽制射撃がなかったら追いつかれてた。リラの帆操作がなかったら風の谷で加速できなかった。全員の力で——逃げ切れたんだよ!」

「論理的に言えば、各要素が一つでも欠けていたら失敗していた」ソレイユが海図から顔を上げた。眼鏡がずれている。「つまり、全員が不可欠だった。チームとして最適化された連携だ」

「もっと簡単に言えよ、メガネ」マリンが舵輪に額をくっつけた。「みんなで逃げたって、それだけだろ」

「……そうだ。みんなで逃げた。それだけだ」

 ソレイユが、ほんの少しだけ笑った。

 イグニスは黙っていたけれど——壁に背を預けたまま、赤い瞳でわたしたちを見ていた。その目に、ほんのわずかな——温かさが、あった。

「イグニス」

「……何だ」

「一緒に逃げてくれて、ありがとう」

「…………」

 返事はなかった。でも、視線を逸らさなかった。

 わたしは立ち上がって、また竈に向かった。逃走劇で消耗した灯火を回復するには、休息と食事が一番だ。残りの食材で——何か温かいものを作ろう。

 アッシュが船首から降りてきて、竪琴を爪弾いた。

「いい旅だねえ。見てて飽きないよ」

「見てないで手伝ってよ、アッシュ」

「僕は見守り専門でね。それにほら、逃走劇の後は歌が要るだろう? 一曲やろうか」

「やらなくていい!」マリンが船尾から怒鳴った。

 アッシュがけらけらと笑った。

 わたしは笑いながら、鍋に水を注いだ。

 食事の準備をしながら、ふと南の水平線を見た。フェロスの艦隊はもう見えない。でも、あの男——ヴォルクスは諦めていないだろう。また追ってくる。次はもっと多くの船を連れて、もっと周到に。

 それでも。

 六人なら——いや、五人と、見守り専門の一人なら。きっと、何とかなる。

 鍋から湯気が立ち始めた。甲板に温かい匂いが広がる。マリンの鼻がまたぴくりと動いた。

「マリン、おなか空いた?」

「……別に」

「はいはい」

「だからその『はいはい』やめろっつってんだろ!」

 海の向こうに——消灯域が、近づいている。

 ソレイユが言っていた。このまま西に進めば、あと数日で消灯域の入り口に到達する。灯火が消える海域。魔法が使えなくなる世界。

 でも、その先に灯台がある。

 わたしたちは、まだ止まらない。

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