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第10章

消灯域

パート1

 海が、死んでいた。

 消灯域に入った瞬間、それがわかった。言葉で説明できるものじゃない。ただ、世界から何かが抜け落ちたのだ。空気の温度が一段階下がって、肌に触れる風から温もりの記憶が消えて、それまで当たり前のように身体の芯で燃えていた灯火が――急に、心許なくなった。

 灯火が、萎んでいく。

 私は自分の胸元に手を当てた。いつもなら手のひらの下で力強く脈打つ灯火が、蝋燭の炎が風に煽られるみたいに、ちりちりと頼りなく揺れている。弱くなっている、のではない。周りの世界が灯火を押し潰そうとしているのだ。見えない手で炎を握りしめられているような、そんな圧迫感。

「全員、灯火魔法を使うな」

 アッシュの声が、いつになく硬かった。

 普段は軽口ばかりの吟遊詩人が、冗談ひとつ言わずに舳先を見据えている。横顔が険しい。こういう表情をするアッシュは初めて見た。

「ここから先は消灯域だ。灯火魔法を使おうとすると、灯火が通常の三倍の速さで消耗する。最悪、燃え尽きる。いいな、絶対に使うな」

 船の上に沈黙が落ちた。

 灯し魔法が使えないということは、光が作れないということだ。灯守りが使えないということは、船の修繕も、怪我の治療もできないということだ。灯映しが使えないということは、遠くを見ることも、外と連絡を取ることもできないということだ。

 私たちの旅は、灯火魔法の上に成り立っていた。船の推進。食事の調理。夜の灯り。傷の手当て。全部、灯火があってこそだった。それが一切使えない。

「推進装置も止まるのか」

 マリンが舵輪を握り直しながら訊いた。

「ああ。灯火推進は使えない」

「なら帆と潮流だけで行くしかないな。風はある。弱いが、ないよりマシだ」

 マリンの声は、不思議と落ち着いていた。

 私はマリンの横顔を見た。碧眼が海面を読んでいる。波の一つ一つを、潮の流れの一筋一筋を、睫毛の先で捉えるようにして。この子は、灯火魔法なんか最初からほとんど使えなかった。海を読む力は天賦のもので、魔法とは関係ない。

「マリン、大丈夫?」

「大丈夫に決まってんだろ。あたしが魔法なしで船を操れないとでも思ったか?」

 マリンが鼻で笑った。でも、その声のどこかに薄い膜みたいな緊張が貼りついている。強がりじゃない。本気で自分の腕を信じている。でも、消灯域の海が生半可な相手じゃないことも、わかっているのだ。

 帆が風を孕んで、灯船がゆっくりと進み出した。灯火推進がないぶん速度は大きく落ちて、這うような航行になる。

 空を見上げた。

 曇っていた。厚い雲が空を覆い尽くして、太陽の光がほとんど届かない。灯火魔法が使えなくなっただけじゃない。自然の光すら、この海域では遠く感じる。世界が灰色のベールを被ったみたいだ。

「気温が下がるぞ」

 ソレイユが腕を抱えながら言った。眼鏡の奥の琥珀色の目が、周囲の環境を観察している。いつもの研究者の目だ。

「灯火魔法は体温の維持にも関わっている。無意識のうちに自分の灯火で体を温めているんだ。それが使えなくなると、体感温度は実際の気温より大幅に低くなる。特に夜は危険だ」

「要するに、寒くなるってことだろ」マリンが端的にまとめた。

「平たく言えばそうだ。だが問題はそれだけじゃない。灯火の消耗は精神にも影響する。不安、恐怖、絶望——灯火が弱まると負の感情が増幅される。消灯域に入った旅人の多くが、灯火が消える前に精神的に崩れたと記録にはある」

 ソレイユの声は淡々としていたけれど、本から得た知識をこうして全員に共有してくれるのは、彼女なりの不安への対処法なのだと思う。知識で武装する。理屈で恐怖を遠ざける。

 リラが静かに船室から毛布を持ってきて、全員に配った。

「ルナの母上と旅をした時は、消灯域の手前で引き返しました。その時でさえ、灯火の減衰は尋常ではなかった。今回は完全に消灯域の中に入っている。皆さん、とにかく体を冷やさないように」

 リラの声は落ち着いていた。落ち着いているけれど、その落ち着きの底に、十年前の記憶が横たわっているのが私にはわかった。この海で、リラさんは脱落した。灯火が枯渇して、お母さんと別れた。あの時の恐怖を、今もう一度体験しているのだ。

 私は毛布を肩にかけて、船べりから海を見つめた。

 暗い。

 消灯域の海は、ただ暗いのではなかった。光を拒んでいるのだ。波頭に白い泡が立っても、それが光を反射しない。海面に目を凝らしても、水中に何も見えない。深さがわからない。底がない海のように、ただ黒い水が広がっている。

 そして——静かだった。

 波の音はある。風の音もある。帆が軋む音も、船底が水を切る音もある。でも、それらの音が全部、何か大きなものに呑み込まれて、ずっと遠くから聞こえるような感じがする。世界そのものが、音を殺しているみたい。

 寒い。

 毛布の上から腕を抱いた。歯の根が合わないのは寒さのせいだけじゃない。灯火が弱まっている。自分の内側から温もりが漏れ出していくのがわかる。蛇口を閉め忘れた水道みたいに、少しずつ、少しずつ。

 みんなも同じだった。

 ソレイユは本を開いているけれど、ページを繰る手が震えている。リラは毛布の中で肩を抱いて、時折祈りの言葉を口の中でつぶやいている。イグニスは——甲板の端に立って、周囲を警戒している。相変わらず表情はないけれど、その立ち姿がわずかに強張っている。暗殺者の灯火は元から暗い。消灯域の中では、彼の灯火が最も危うい。

「イグニス」

 私が声をかけると、赤い目がこちらを向いた。

「寒くない?」

「問題ない」

 いつもの答え。でも、唇の色が少しだけ青い。

「毛布、二枚目いる?」

「いらない」

「……嘘つき」

 私は自分の毛布を脱いで、イグニスの肩にかけようとした。イグニスが一歩下がる。

「お前が使え」

「私は巫女の血筋だから、灯火が強いの。少しくらい平気だよ」

「だから使え。お前の灯火が最も重要だ」

 イグニスの言い方は、相変わらず自分を道具のように扱うものだった。「重要」なのは私の灯火であって、自分の灯火ではない、と言っている。

 私は少しだけ唇を噛んで、毛布を自分の肩に戻した。ここで押し問答をしても、イグニスは折れない。

「マリン、航路は?」

「星が出りゃ正確に出せるんだが……この曇りだと勘に頼るしかない。潮の流れから逆算して、たぶん南南西に三十度。この方角で合ってるはずだ」

「はず、かよ」

「文句あるか。消灯域の海図なんか存在しないんだ。あるのは潮と風と、あたしの腕だけだ」

 マリンが舵輪を微調整する。両手に力を込めて、船の進路を修正する。灯火魔法なしの操舵。風と波を読み、帆の角度を変え、潮の流れに乗る。マリンにとっては原点回帰なのかもしれない。この子が最初に覚えたのは、魔法じゃない。海そのものだ。

 灯船は暗い海を進んでいく。

 灰色の空。黒い海。光のない世界。

 私は手のひらの中で、お母さんの灯火を感じた。十年前にもらった、小さな温もり。消灯域の中でも、それだけは消えずにここにあった。かろうじて。ほんのかすかに。

 お母さんも、この海を見たのだろうか。この暗闇の中を進んだのだろうか。一人で。

 ——怖かったよね、お母さん。

 私は怖い。正直に言えば、怖い。でも私は一人じゃない。隣にイグニスがいて、ソレイユがいて、マリンがいて、リラさんがいて、アッシュがいる。

 六人もいるんだ。

 だから大丈夫。大丈夫のはずだ。

 でも、「大丈夫」という言葉が、この暗闇の中ではいつもより軽く感じた。


光なき海域

パート2

 消灯域に入って、半日が過ぎた。

 日暮れの気配がした。もともと曇り空で薄暗かったのが、さらに暗くなっていく。灰色だった空が鉛色に変わり、やがて墨を流したような黒に沈んでいく。

 夜が来る。灯火のない夜が。

 私は手のひらに意識を集中した。灯し魔法は使えない。使えばアッシュが言った通り、灯火が加速度的に消耗する。でも——ほんの少しだけ、ほんのかすかにだけなら。灯渡しの技を応用すれば、灯火を直接光に変えるのではなく、温もりとして放出することはできるかもしれない。

 巫女の血筋に伝わる灯守りの技は、灯し魔法とは系統が違う。灯し魔法が「灯火を燃やして光や熱を生む」のに対して、灯守りは「灯火を守り、癒す」技だ。そして灯渡しは「灯火を分け与える」技。

 灯渡しなら——他者の灯火に直接触れる技だから——消灯域の中でも多少は機能するかもしれない。

 試してみよう。

 まず、マリンのところに行った。

「マリン、手、出して」

「は? なんだよいきなり」

「いいから」

 マリンの手を取ると、小さくて冷たかった。指先が紫色になりかけている。この子の灯火は元から弱い。灯火魔法の才能がほとんどないと、マリン自身が言っていた。消灯域の中では、その弱い灯火がさらに削られていく。

 私は両手でマリンの手を包んで、自分の灯火のほんの一欠片を流し込んだ。灯渡し。命を削る禁忌に近い技。でも、ほんの少しだけなら。

「っ——」

 マリンの目が見開かれた。

「あったかい……なんだこれ」

「灯渡し。私の灯火を少しだけ分けたの。これで少しは温かくなるはず」

「おい、ちょっと待て。灯渡しって、自分の灯火を——」

「少しだけだから、平気だよ」

 私はにっこり笑って、マリンの手を放した。次はソレイユ。

「ソレイユ、本を閉じて」

「……なぜだ」

「手を出して」

 ソレイユは眉をひそめながらも、私の手を取った。細い、インクの染みがついた研究者の手。この手も冷えている。ソレイユの灯火は学者としての知的好奇心で燃えているようなところがあって、普段は安定しているのだけれど、消灯域の中ではそれも萎んでいた。

 灯渡し。温かい光を、そっと。

「……非合理的だ。ルナ、お前の灯火が——」

「少しだけ。大丈夫」

 リラさんにも。

「ルナちゃん、いいのよ。私のことは」

「リラさんの灯火、弱まってます。ほら、手を」

 リラさんの手は大きくて、でも冷たかった。十年前に消灯域で脱落した記憶が、リラさんの灯火を余計に萎ませているのだろう。恐怖は灯火を食う。ソレイユがそう言っていた。

 灯渡し。三人目。自分の灯火が少し小さくなるのがわかる。でも、まだ平気。巫女の血筋の灯火は強い。

 アッシュのところにも行こうとしたけれど、アッシュは手を上げて断った。

「俺は大丈夫だ。灯台守りの灯火は、消灯域の影響を受けにくい。ルナ、お前の灯火をこれ以上減らすな」

 アッシュの目が、珍しく真剣だった。

「イグニスにも渡すつもりだろう?」

「……うん」

「やめておけ」

 アッシュの声に、諫めるような響きがあった。でも——イグニスの灯火が一番危ない。元から暗い灯喰いの灯火が、消灯域の中でさらに弱っている。見て見ぬふりはできない。

 イグニスは甲板の端で海を睨んでいた。暗闇の中にも慣れた目で周囲を警戒している。暗殺者の習性だ。でも、その肩が微かに震えているのが、私にはわかった。

「イグニス」

「……」

「手、出して」

「いらない」

「出して」

「灯渡しをするつもりだろう。やめろ」

「やめない」

「お前の灯火が——」

「あなたの灯火のほうが危ないよ」

 イグニスが黙った。

 私は彼の手を取った。冷たい。氷みたいに冷たい。指の一本一本から体温が抜け落ちて、骨だけになったみたいだ。

 灯渡しを始めた。四人目。自分の灯火から温かさを引き出して、イグニスの凍えた灯火に送り込む。消灯域の圧迫の中で、灯火を渡すのは通常よりずっと消耗が大きい。でも、やめるわけにはいかない。

 イグニスの手が、ほんのわずかに温まった。

「……もういい」

「もうちょっとだけ」

「ルナ。もういい」

 イグニスの声に、感情が混じった。普段の平坦な声ではなく、何かを押し殺しているような、低い声。

 私は手を離した。

 四人に灯渡しをして、自分の灯火はかなり小さくなっていた。胸の奥の炎が、いつもの半分くらいに縮んでいる。巫女の血筋だから、まだ余裕はある。あると思う。少し休めば回復する。

 ——少し休めば。

 でも消灯域の中では、灯火の回復が遅い。ソレイユがそう言っていた。食事と休息で灯火は回復するけれど、消灯域の中では回復速度が大幅に落ちる。つまり、使った分がなかなか戻ってこない。

 わかっている。

 わかっているけど——仲間が凍えているのを、見ていられない。

 夜が深くなった。

 完全な暗闇だった。空も海も区別がつかない。上下左右が溶け合って、闇だけが広がっている。マリンが星も見えないと呻いて、舵の微調整を潮の感覚だけに頼っていた。

 全員が甲板に集まっていた。船室に分かれるよりも、一箇所に固まっていた方が温かい。毛布を共有し、身を寄せ合って、暗闇の中で互いの体温を感じ合う。

 でも、寒い。

 灯渡しの効果は長くは持たなかった。一時間もすれば、また体が冷え始める。灯火が、消灯域の圧力に押されて、じわじわと削られていくのだ。

 ソレイユが歯の根を鳴らしている。マリンが舵輪にしがみつきながら、唇を噛んでいる。リラさんが祈りの言葉を繰り返している。イグニスは——じっと動かずに、闇を見ている。

 私は、もう一度灯渡しをしようと思った。

 みんなの灯火を感じる。弱くなっている。私の灯火も弱くなっているけれど、まだ一番大きい。巫女の血筋だから。お母さんから受け継いだ強い灯火だから。

 もう一巡、灯渡しをすれば、夜を越えられるかもしれない。

 手のひらに灯火を集めた。温かい光が、ごく微かに手の中で揺れる。消灯域の中でも灯渡しは機能する。ただし、消耗は大きい。

 マリンの背中にそっと手を当てた。

「……ルナ?」

「しっ。じっとしてて」

 灯渡し。二巡目。

 自分の灯火がまた少し小さくなる。

 それからソレイユの手を取って。リラさんの肩に触れて。イグニスの腕を掴んで。

 四人に、もう一度ずつ。

 灯火が——かなり小さくなった。

 巫女の血筋の灯火は強い。でも無限じゃない。二巡の灯渡しで、私の灯火は通常の三分の一くらいにまで落ちていた。胸の奥がすうすうする。空洞ができたみたいな感覚。寒い。自分の体温が保てなくなりかけている。

 でも——みんなの灯火は少し回復した。マリンの頬に血色が戻り、ソレイユの手の震えが止まり、リラさんの祈りの声に力が戻った。

 よかった。これでしばらくは大丈夫。

 三巡目が必要になるかもしれない。

 夜明けまでまだ時間がある。消灯域をいつ抜けられるかもわからない。灯火が弱まり続けるなら、私がまた渡せばいい。私の灯火を使い切ったら——

 ——使い切ったら。

 その先を考えて、一瞬だけ、心が凪いだ。

 私の灯火を全部みんなに渡したら、全員がもう少し長く持つ。私一人の灯火が消えるだけで、五人が助かる。計算としては、正しい。

 お母さんもそう考えたのかもしれない。巫女の灯火は強いから、たくさん分けられる。たくさん救える。自分の灯火が最後まで残っていれば、それを使い切ることで誰かを助けられる。

 犠牲。

 頭の片隅で、おばあちゃんの声がした。

 ——犠牲を払わない方法を探しなさい。

 わかってる。わかってるよ、おばあちゃん。でも今、目の前で仲間が凍えているのに、何もしないで見ているなんてできない。灯渡し以外の方法があるなら教えてほしい。でもない。消灯域の中で灯火を守る方法は灯渡ししかない。私にしかできないことを、私がやらなくて、誰がやるの。

 自己犠牲だと言われるかもしれない。でも、これは犠牲じゃない。仲間を守ることだ。

 ——本当に?

 胸の奥で、小さな声がした。自分を犠牲にすることと仲間を守ることは、本当に同じなの?

 その声を振り払って、私は三巡目の灯渡しの準備をした。

 手のひらに灯火を集める。弱い。今の私の灯火は、普通の人と変わらないくらいにまで小さくなっている。でもまだ、分けられる。もう少しだけ。

 私の灯火を使い切ってでも、みんなを守る。

 それが巫女の務めだ。

 それが、お母さんの——。


灯火を燃やし尽くそうとするルナ

パート3

 イグニスは、暗闇の中で目を開いていた。

 消灯域の夜は、影灯機関の暗室に似ていた。光を一切遮断した訓練室で、闇の中の標的を仕留める訓練を何百回と繰り返した。暗闇は慣れている。目が見えなくても、気配で周囲を把握することはできる。

 だから、気づいた。

 ルナの灯火が——消えかけている。

 最初の灯渡しの後、ルナの灯火が小さくなったことには気づいていた。二巡目の後、さらに弱くなったことも。しかし、三巡目——ルナが再び手のひらに灯火を集めようとしているのを感じた時、イグニスの中で何かが軋んだ。

 彼にはルナの灯火が見えていた。巫女の灯火は特別に明るく、イグニスの暗殺者の目にははっきりと映る。それが——あの太陽みたいな輝きが——今は蝋燭の最後の一滴みたいに、震えている。

 通常の三分の一。いや、もっと落ちている。四分の一に近い。消灯域の中でこれ以上灯渡しを行えば、灯火の燃え尽きが起こる。回復不能な消耗。

 死ぬ。

 その認識が、イグニスの中で言葉になった瞬間、胸の奥で何かが弾けた。

 影灯機関で消されたはずの感情。名前もわからなかったもの。この旅の中で少しずつ芽を出し、少しずつ育ってきたもの。それが、爆ぜた。

 ルナが三巡目の灯渡しのためにマリンに近づこうとした、その腕を、イグニスは掴んだ。

「やめろ」

 自分の声が、いつもと違うことに気づいた。低く抑えた声ではない。押し殺してもいない。喉の奥から振り絞るような、剥き出しの声。

「イグニス?」

 ルナが振り向いた。暗闇の中で、わずかに残った灯火の光がルナの目を照らした。大きな目。温かい色の瞳。その目が、驚いていた。

「何を——」

「やめろ。灯渡しをするな」

「でも、みんなの灯火が——」

「お前の灯火が限界だろうが!」

 叫んでいた。

 イグニスは叫んでいた。暗闇の甲板に、彼の声が響いた。影灯機関の十年間で、声を張り上げたことは一度もなかった。感情を声に乗せたことは、一度もなかった。

 全員の気配が固まったのがわかった。マリンが舵輪から顔を上げ、ソレイユが本を落とし、リラが祈りを止め、アッシュが息を呑んだ。

「お前が死んだら、俺たちは何のために旅をしてきた!」

 言葉が、止まらなかった。

 影灯機関では、言葉は必要最小限だった。「了解」「完了」「問題ない」。それだけで事足りた。感情を伝えるための語彙は持ち合わせていなかった。

 だが今、言葉が溢れ出す。

「巫女の灯火が強いからって、使い切っていい理由にはならない。犠牲にしない方法を探すって、あの婆さんに約束しただろう。それが——それが自分を犠牲にすることなのか!」

 イグニスの手が震えていた。ルナの腕を掴む手が。

「お前はいつもそうだ。自分の灯火を軽く扱う。人に分け与えて、人を温めて、人を救って——自分は消えてもいいと思っている。そうだろう」

 ルナの目が見開かれた。

「違う——」

「違わない。俺にはわかる」

 暗殺者の目は、嘘を見抜く。標的の行動パターンを読み、わずかな表情の変化から内心を推測する。それは任務のための技能だった。しかし今、その目が捉えているのは敵の動きではなかった。

 ルナ・カンデラの灯火の奥にある、暗い穴。

 自分の命を軽く見る。自分が犠牲になれば丸く収まると、本気で信じている。笑顔の裏にある、あの――。

「お前が消えたら——」

 イグニスの声が詰まった。

「俺は——」

 言葉が出なかった。何を言いたいのか、自分でもわからなかった。いや、わかっている。わかっているのに、それを言語にする方法を知らない。感情を言葉にする訓練を受けていない。

 だから、ただ立ち尽くした。ルナの腕を掴んだまま。暗闇の中で。

 頬が、濡れていた。

 涙だと、イグニスは気づかなかった。涙を流したことがなかったから。目尻から伝い落ちる温かい液体の意味を、彼は知らなかった。

 しかしルナは——見ていた。

「イグニス……泣いてるの?」

「……何の話だ」

「泣いてる。目から……涙が」

「……」

 イグニスは空いた手で自分の頬に触れた。濡れていた。指先に、温かい液体。

 涙。

 これが涙か。

 影灯機関では、泣くことは最も厳しく罰せられる感情表出だった。泣いた訓練生は独房に入れられ、灯喰いの追加訓練を課された。イグニスは一度も泣かなかった。泣いた記憶がない。

 今——泣いている。

 理由はわからない。わからないが、止められなかった。

「……泣いていない」

「泣いてるよ」

「泣いていない。これは——」

 言葉に詰まった。何だ、これは。自分でもわからなかった。

 マリンの声が、暗闇の中から聞こえた。

「ルナ。あたしも言わせてもらうぞ」

 マリンの声は震えていた。寒さだけではない震え。

「あたしは灯火魔法なんかほとんど使えないよ。元からだ。それでもここまで来た。あたしの灯火が弱いからって、お前が代わりに死ぬ必要なんかない。そんなの——そんなの、頼んでない」

 ソレイユが続いた。

「論理的に考えてほしい、ルナ。お前が灯渡しを続けて倒れた場合、残された我々は航路を失う。巫女の灯火がなければ、灯台に辿り着く可能性はゼロに等しい。お前が生きていることが、全員が助かるための最低条件だ。つまり——お前が自分を犠牲にすることは、全員を殺すことと同義だ」

 リラが穏やかな、でも強い声で言った。

「ルナちゃん。あなたのお母さんも——同じことをしたのよ。消灯域で、私に灯渡しをして、自分の灯火を削って。私を島に帰して、自分だけ先に進んだ。あの時、私が止められなかったことを——十年間、後悔してきたの。だからお願い。同じことを繰り返さないで」

 ルナが震えていた。

 腕を掴まれたまま、全員の言葉を浴びて、その細い体が小刻みに震えていた。

「一人で全部背負うなよ」

 マリンの声が、暗闇の中で割れた。泣きそうな声を必死に抑えて、でも抑えきれていない声。

「あたしたちは——お前に守られるためにここにいるんじゃない。一緒に行くためにいるんだ。お前が倒れたら、一緒に行けないだろうが」

 イグニスは、ルナの腕を放した。

 代わりに——右手を、ルナの手に重ねた。

 初めてだった。自分から。ルナに。手を伸ばしたのは。

 影灯機関では、手は武器だった。人を殺すための道具だった。誰かの手を取るという行為は、暗殺者の辞書に存在しなかった。

 でも今、イグニスの手はルナの冷え切った指を握っていた。

 言葉が見つからなかった。感情を言語化できなかった。だから、手で伝えた。

 お前が消えるな。

 お前がいなくなるな。

 お前が——。

 ルナの指が、握り返してきた。弱い力で。灯火が残り少ない、冷たい指で。

 暗闇の中で、誰かが鼻を啜った。マリンだろう。「泣いてねーよ」という声が聞こえたから。


闇の中の食卓

パート4

 みんなの言葉が、胸の中で渦を巻いていた。

 イグニスに手を握られたまま、甲板の冷たい板の上に座り込んでいた。膝を抱えて、毛布を被って、暗闘の中で自分の灯火の弱さを感じていた。

 止められた。

 灯渡しを止められた。自己犠牲を止められた。

 正直に言えば——複雑だった。

 仲間を守りたいという気持ちは本物だ。嘘じゃない。でも、ソレイユの言葉が刺さる。「お前が自分を犠牲にすることは、全員を殺すことと同義だ」。論理的に正しい。私が倒れたら、灯台に辿り着ける人間がいなくなる。島も救えない。全部が無駄になる。

 リラさんの言葉はもっと深く刺さった。お母さんも同じことをした。消灯域で灯渡しを繰り返して、自分の灯火を削って。

 私は——お母さんと同じことをしていた。

 おばあちゃんが言った「犠牲を払わない方法を探しなさい」は、まさにこのことだったのかもしれない。お母さんは灯渡しで仲間を守ろうとして、自分の灯火を使い果たした。それは犠牲だ。仲間を救うための犠牲。崇高に聞こえるけれど、残された人には——傷だけが残る。

 リラさんが十年間背負ってきた後悔。おばあちゃんが流した涙。

 私が同じことをしたら、今度はイグニスが、ソレイユが、マリンが、リラさんが、同じ後悔を背負うことになる。

 でも他にどうすれば。

 灯渡し以外に、消灯域の中で仲間を守る方法なんて——

「ルナ」

 アッシュの声だった。

 暗闇の中で、アッシュがゆっくりと立ち上がる気配がした。

「少し、俺に任せてもらっていいか」

 アッシュの声が変わった。

 いつもの陽気な吟遊詩人の声ではなく、もっと深い、もっと古い響きを持つ声。岩が風に削られて残った地層みたいな、長い時間の重みが刻まれた声。

 暗闇の中で、何かが光った。

 灯火ではない。灯火魔法でもない。もっと根源的な光。世界の骨格そのものから滲み出すような、冷たいけれど確かな光。

 アッシュの体から、白い光が放たれていた。

 全員が息を呑んだ。

 消灯域の中で光を放つことは、灯火魔法では不可能だ。どんなに強い灯火でも、消灯域の圧迫には抗えない。しかしアッシュの放つ光は、消灯域の闇と拮抗するように、静かに、でも確実に輝いている。

「アッシュ……あなた、何を」

「灯台守りとしての権限を使う」

 アッシュが前を向いた。白い光が海面を照らし、黒い波の上に一筋の道が浮かび上がった。光の筋が消灯域の闇を割って、まっすぐに前方へ延びていく。

 道だ。

 暗闇の海の中に、一本の光の道が現れた。

「灯台守りは、灯台と世界を繋ぐ者だ。消灯域の中にあっても、灯台との接続は保たれている。その接続を使えば——ほんの少しだけ、道を照らすことができる」

 アッシュの声に、初めて本物の疲労が滲んでいた。

「ただし、これ以上は俺の権限を超える。消灯域全体を照らすことはできないし、灯火の消耗を止めることもできない。道を示すのが精一杯だ。でも——ここまではやれた」

 光の道は細かった。灯船一隻がやっと通れるくらいの幅で、左右の闇がすぐそこまで迫っている。それでも——暗闇の中にあった光は、どれほど小さくても、希望だった。

「マリン、この道に沿って進め。この先に消灯域の出口がある」

「……了解」

 マリンが舵を切った。灯船が光の道に乗る。帆に風が入り、船が少しだけ速度を上げた。

 アッシュは船首に立ったまま、両手を広げて光を維持していた。吟遊詩人の軽やかな立ち姿ではなく、何か途方もないものを支えている、重い姿勢だった。

 私はアッシュの背中を見ながら、考えていた。

 灯台守り。

 アッシュの正体は、旅の途中でうすうす感じていた。七つの試練の番人。千年もの間、灯台を目指す旅人を見守ってきた存在。でもアッシュは番人でありながら、私たちの仲間でもあった。その立場の矛盾が、今の彼の苦しそうな姿に表れている。

 番人として道を示すことは、たぶん本当はしてはいけないことなのだ。旅人は自力で消灯域を越えなければならない。それが試練の意味だ。でもアッシュは——

 ルールを曲げてくれた。

 私たちのために。

「アッシュ、ありがとう」

「……礼を言うのは消灯域を抜けてからにしろ。まだ終わってない」

 アッシュの声が少しだけ軽くなった。ほんの少しだけ、いつもの吟遊詩人の口調が戻っている。

 光の道を進みながら、私は自分の胸の奥を覗き込んだ。

 灯火が弱い。灯渡しで削った分が、重くのしかかっている。でも——消えてはいない。まだ燃えている。小さくて、頼りなくて、でもここにある。

 さっきのこと——自分の灯火を使い切ってでもみんなを守る、と思ったこと——を振り返ると、怖くなった。怖くなった自分に、ほっとした。

 怖いと思えるということは、まだ自分の命を大切だと感じているということだ。

 でも。

 でも、他にどうすればよかったのか。灯渡し以外に方法がなかったじゃないか。仲間が凍えているのに、何もしないなんてできない。犠牲を払わない方法なんて、結局見つからなかった。

 その答えは、まだ出ない。

 光の道を進む灯船の中で、私は膝を抱えたまま考え続けた。

 どれくらい時間が経っただろう。一時間か、二時間か。

 マリンが声を上げた。

「おい……あれ、見ろ」

 前方の空に、ほんのわずかな変化があった。闇の濃さが薄れている。墨色の空の端に、灰色のグラデーションが滲み始めている。

「夜明けか?」

「違う。消灯域の端だ」

 アッシュが光の道を維持したまま言った。

「もう少しで抜ける」

 その言葉に、全員の肩から力が抜けた。

 光の道の向こうに、微かに海が色を取り戻し始めていた。黒一色だった水面に、深い紺色が滲む。空に薄い紫が差す。

 消灯域の出口が近い。

 アッシュの光がゆっくりと薄れていった。消灯域の端に近づくにつれ、自然の光が戻り始め、灯台守りの光は役目を終えていく。

「ここまでだ」

 アッシュが両手を下ろした。顔色が悪い。灯台守りの権限を使った代償が、彼にも出ているのだろう。

「……ありがとう、アッシュ」

 リラが静かに言った。アッシュは何も答えず、船べりにもたれかかって目を閉じた。

 灯船が消灯域を抜けた瞬間、風が変わった。

 冷たさの質が変わった。消灯域の中の、灯火を食う冷たさではなく、ただの海風の冷たさ。体に触れても、灯火を削り取られる感覚がない。

 胸の奥で、灯火がかすかに揺れた。ほんの少しだけ、温まった気がした。

 まだ弱い。灯渡しで消耗した灯火は、すぐには回復しない。でも、もう削られ続けることはない。あとは時間が癒してくれる。

「……出たぞ」

 マリンが声を絞り出した。そして——舵輪にしがみついたまま、がくりと膝を折った。

「マリン!」

「大丈夫だ馬鹿……力が抜けただけだ」

 マリンは舵輪を支えにして立ち上がり、何でもない顔をした。でも手が震えている。消灯域の中、灯火魔法なしで一晩中舵を握り続けた。この子がいなかったら、私たちはとっくに遭難していた。

「マリン。本当にありがとう」

「だから……礼なんか言うな。契約だろ。あたしは操舵手として雇われてんだ。仕事しただけだよ」

 目が赤かった。でも泣いてるとは言わない。この子は絶対に言わない。

 空が白み始めていた。東の水平線が淡い橙色に染まり、夜明けの光が海面に散る。

 光だ。

 灯火魔法じゃない、本物の太陽の光。

 消灯域を抜けた海は、まだ荒涼としていた。島の気配はなく、海鳥の姿もない。世界の果てに近い海域だ。でも——光がある。それだけで、全然違った。

 ソレイユが冷えた体をほぐしながら、小さくつぶやいた。

「朝日がこれほど貴重に感じたのは、生まれて初めてだ」

 私は立ち上がって、荷物の中から食料を引っ張り出した。

「……何をしている」

 イグニスが訊いた。

「朝ごはんの準備。灯火魔法は使えないから、火は起こせないけど……冷たいものでも、食べたほうがいいでしょ」

 保存食の中から、硬い焼き菓子と干し果物を取り出す。それから、エミセラ島で仕入れておいた塩漬けの魚を薄く切って、硬パンの上に載せる。水筒から水を注いで、それぞれの杯に分ける。

 火のない食事。温かいものは何もない。硬パンは冷たくて、顎が痛くなるほど硬い。塩漬けの魚はしょっぱくて、干し果物は喉に張りつく。

 でも、六人で甲板に丸く座って、同じものを食べた。

「……硬え」マリンが硬パンを噛み砕きながら言った。

「非合理的に硬い」ソレイユが同意した。

「顎の訓練には良さそうだ」アッシュが軽口を叩いた。少しだけ、いつもの調子が戻っている。

 リラが干し果物を一粒ずつ丁寧に口に運びながら、微笑んだ。「こういう食事も、悪くないわね」

 イグニスは無言で硬パンを食べていた。表情はいつも通り読めない。でも——さっき泣いていた目の赤みが、まだかすかに残っていた。

 私は硬パンをかじりながら、ふと思った。

 温かい食事じゃなくても、みんなで食べると不思議と温かい。

 消灯域の暗闘の中で凍えていたのに、今は六人が肩を寄せ合って、硬いパンを噛みしめている。笑い声はない。でも、静かな安堵がそこにはあった。生きている。全員が。灯火は弱まったけれど、消えてはいない。

「……お母さん」

 私は小さくつぶやいた。誰にも聞こえないくらいの声で。

「私、お母さんとは違う旅をしてるよ。だって——止めてくれる人がいるから」

 手のひらを見た。灯渡しで冷え切った手。でもそこに、イグニスの手の温もりがまだ残っている。さっき握ってくれた時の。

 犠牲を払わない方法。

 まだ見つかっていない。でも——灯渡しで自分を使い切ることが答えじゃないことは、わかった。それは犠牲だ。お母さんと同じ道だ。おばあちゃんが探しなさいと言ったのは、別の道だ。

 別の道が何なのかは、まだわからない。

 でも、一人で探さなくていいんだ。

 そのことだけは、今夜わかった。

 朝日が海面に金色の道を引いている。光が温かい。体の奥の灯火が、少しだけ揺れて明るくなった。

 食事を終えて、全員が少しだけ眠った。交代で見張りを立てて、残りは毛布にくるまって甲板で横になった。消灯域を抜けた安堵感と疲労で、すぐに意識が遠くなった。

 目が覚めたのは、太陽が中天にかかった頃だった。

 灯火が少し回復していた。消灯域の外では、食事と休息で灯火が戻る。まだ万全には程遠いけれど、胸の奥にある炎がさっきより確かに燃えている。

 マリンが帆を張り直して、再び航行を始めた。風は弱いけれど、灯火推進も少しなら使えるようになっていた。

 海の向こうに、何かの気配があった。

 試練の気配。

 空気の質が変わる。潮風に混じって、かすかに甘い匂いがする。花の匂いではない。記憶の匂い。懐かしくて、切なくて、引き返したくなるような——。

「次の試練が近い」

 アッシュが低い声で言った。

「第六の試練。消灯域を越えた者だけが辿り着く、最も残酷な試練だ」

 私は前を向いた。

 海の色が変わり始めていた。暗い紺色から、透き通った碧色へ。消灯域の陰鬱さが薄れて、代わりに別の種類の空気が漂い始める。

 優しい空気。穏やかな空気。

 引き返してもいいんだよ、と囁くような空気。

 第六の試練が、待っている。

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